長ーい

 小学校の長い一直線の廊下を見ると、なぜか走りたくなるのは子どもなら当然でしょう。すると、週目標に「廊下を走らないこと」とあげられるのも常のことでしょう。最近の学校は知りませんが、どうなのでしょうか。昨日のブログで取り上げたのですが、保存された宇和町小学校の第一校舎の109mの長い廊下を見て、若いカップルがその廊下で雑巾がけの競争をしたところから、この町の「雑巾がけレース」が生まれ、NHKテレビでも取り上げられるほど話題になっています。何かの始まりは、ただいけないではなく、それをどう取り上げるかですね。
 保元の乱の頃(1156年頃)に熊野の蕪坂源太という者がいました。彼がたまたま京都の三十三間堂に来ました。ここの正式名は、蓮華王院と言いますが、その本堂は、「三十三間堂」とみんなから呼ばれていました。それは、この建物が東に面していて、南北にのびるお堂内陣の柱間が33もあるという建築的な特徴があるからです。「三十三」という数は、観音菩薩の変化身三十三身にもとづく数を表しています。今で言うと、奥行き22mに対して、南北の長さは、120mもある、とても細長い建物です。建物の端から向こうの端まで眺めると、胸がすくくらいに一直線です。
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ここに来合わせた蕪坂は、そこを走ろうと思ったわけではなく、雑巾がけをしようと思ったわけでもなく、武士が台頭してきた時代ですから、その軒下のこちらから向こうまで矢で射てみたら届くだろうかと思って、軒下を根矢(実戦用の矢)で射通して見たのです。これが面白いということになって、この軒下で矢を射ることが流行ったのが「通し矢」と呼ばれる競技です。この話はあくまでも伝説ですが、たぶん、初めはだれかが試しにやってみたに違いありません。
しかし、あまりに天正年間頃からはやりすぎ、文禄4年(1595年)には豊臣秀次が「山城三十三間堂に射術を試むるを禁ず」とする禁令を出したくらいです。「廊下を走らないこと」と同じようですね。しかし、どうも内緒で、秀次自身も弓術を好み、通し矢を試みたらしいです。しかし、そのころは個人的に試していただけですが、雑巾がけと同じように、江戸時代に入ると、それが競技になります。はじめてこの競技の記録が残るのは、「年代矢数帳」〈1651年〉序刊)の中で、1606年、清洲藩主松平忠吉の家臣朝岡平兵衛が、100本中51本を射通し天下一の名を博したと記録されています。以後射通した矢数を競うようになり、新記録達成者は天下一を称しました。
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このルールは、お堂西縁の南端から120メートルの距離を弓で射通し、その矢数を競ったもので、矢数をきめて的中率を競う「百射、千射」等があり、江戸時代、殊に町衆に人気を博したのは「大矢数」というルールで、夕刻に始めて翌日の同刻まで、一昼夜に何本通るかを競うものでした。耐久レースですね。また、この競技には、実施には多額の費用が掛かったそうですが、藩が援助していたようです。そして、武芸者の栄誉をかけたものとなり、京都の名物行事となって行きました。
記録に残っている最高記録は、なんと18歳だった紀州・和佐大八郎が1686年4月に打ち立てた、総矢13,053本中、通し矢8,133本です。命中率はもとより、その射った矢の数はすごいですね。24時間での総矢13053本ですから、1分に約9本を射ったことになりますから、その速さ、技術だけでなく、精神力は想像を絶っします。
現在でも、その伝統に因み、「楊枝のお加持」大法要と同日(1月中旬)に行われていますが、場所は軒下ではなく、本堂西側の射程60mの特設射場で行われます。伝統を引き継いであるのは形式だけで、その精神力と気力は引き継いでいないようです。