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2009年11月30日 [近頃思うこと]
片倉
私は、パチンコとかゲームをやらないので、そこに登場する歴史的人物の中で誰が格好良くて、誰がハンサムかは分かりません。しかし、昨日のブログで取り上げた片倉小十郎がそんなに人気があるのは、活躍が素晴らしいというよりも、イケメンだったのかもしれません。
先月の初め、仙台藩の重臣片倉小十郎が居住した宮城県白石市の白石城で、第2代小十郎重長(1584~1659年)の武勇をたたえる「鬼小十郎まつり」が開かれ、大勢の歴史ファンらでにぎわったというニュースが流れています。ここでは、メーンの「片倉軍VS真田軍決戦」では、重長が「鬼小十郎」の異名を取った大坂夏の陣の合戦「道明寺の戦い」を再現し、エキストラには、市内をはじめ仙台や関東から集まった約100人が武者姿で出演したそうです。中には、片倉軍には片倉鉄砲隊や白石女高弓道部、真田幸村率いる真田軍には仙南広域消防本部やホワイトキューブ新体操教室のメンバーも参加しています。
このイベントを見ると、人気のあるのは、片倉家初代の片倉小十郎景綱ではなく、その嫡子2代目の片倉小十郎重綱(重長のこと)のようです。重綱率いる片倉隊は、大坂夏の陣のとき、90を超える兜首を揚げ、翌日も大坂方と対戦し60の首級を揚げたため、この武功により、重綱自身、鬼小十郎の名を馳せ、天下に片倉隊、伊達勢日本一の評価を受けることとなったのです。 そして、大阪城は落城したのです。
その時の戦いは、大坂方の名将とうたわれた真田幸村と伊達軍の片倉小十郎重綱との戦いでしたが、その日の夜、死を覚悟した幸村は娘の阿梅に自分の戒名を持たせ、片倉小十郎重綱に預けたとされています。そして、彼は阿梅を後妻として迎えいれます。敵将からも片倉家は認められた武将だったことが伺えます。大坂の陣の後には、重綱は妻の弟と妹を保護し、真田幸村の遺臣も家臣として召し抱えました。そして、片倉重綱は四代将軍徳川家綱の字を避けて重長と改名しましたが、武勇に優れ、情も深い武将として今にその名を残していて、人気があるようです。
この2代目白石城主・片倉小十郎重長については「史実」として、そのイケメンぶりが伝わっています。「片倉代々記・重長譜」によると、小十郎重長が17歳のとき、「金吾中納言殿、重綱(重長のこと)容色の美なるを御覧せられ、御恋慕あり」とあります。この 金吾中納言とは小早川秀秋のことで、秀吉の甥でありながら、関ケ原の戦いで徳川方に寝返ったために、豊臣方が敗戦してしまったことで有名な微笑です。彼が、重長の「容色の美」を見て「恋慕」したと書かれてあるそうです。
また、片倉家初代景綱の姉「喜多」は政宗公の幼少時代の保育係で政宗の人格、思想に大きく影響を与えた賢婦人です。喜多の考案で、「天下にその名を鳴り響かせよ」ということで、「黒釣鐘」を片倉家の旗指物としました。この「黒鐘」は、現在の白石市の市章にもなっています。彼女は、政宗が成長した後は正室の愛姫付きとなりました。そして、豊臣秀吉の人質となった愛姫と共に京へ上洛します。ところがその直後に政宗の勘気をくらい、蟄居し、異父弟・景綱の在所である白石で出家して庵を結び、そこで生涯を終えました。
知らない歴史にその地方に行くことで触れ、それらがどこかでつながっていくことを知ることで、自分の中の歴史がつながっていきます。歴史は、覚えるものではなく、今につながっていることを知ることかもしれません。
投稿者 fujimori : 21:52 | コメント (4)
2009年11月29日 [講演先にて]
白石
いつからか「歴女」という言葉が聞かれるようになりました。その前には「鉄子」という鉄道好きな女子が話題になりましたが、この歴女とは、「歴史好きの女子」という意味です。この背景には、どうも「三国志」や戦国時代をテーマにしたゲームや漫画が増え、また、パチンコなどの題材に使われて歴史に出てくる人物に興味を持ち、原作本を読み始めて「歴史通」になる女性が増えてきたのではないかと言われています。刷り込みかもしれませんが、歴史や鉄道が好きなのは、男子が多いような気がしていましたので、特に最近のこの傾向が注目されるのでしょう。
今日訪れた宮城県白石市は、新幹線の白石蔵王駅を降りた所から旗がひらめいていました。その旗には、「俺が行かずば誰が行く 伊達の先陣 片倉小十郎」と書かれています。タクシーの運転手さんに聞くと、最近は、仙台の伊達政宗に劣らず歴女に人気のあるのがこの「片倉小十郎」だそうです。彼は、伊達政宗の重臣で智将の誉れ高く、慶長7年(1602)に白石城主となっています。
この白石城の歴史は古く、1091年に藤原秀郷から五代目の藤原経清の次男経元が後三年の役で源義家に従って奥州清原氏を討伐した功績により、苅田と伊具の2郡を与えられ、姓も苅田と改めて居館を築いたのが始まりです。そして、苅田氏五代秀長は源頼朝の奥州征伐に従って白石氏と称したのが白石の始まりです。その後、戦国時代には伊達氏の勢力下でしたが、豊臣秀吉が奥州仕置で伊達氏の支配下であった白石の地を没収して、会津若松城主蒲生氏郷に与えました。蒲生氏郷はこの地に新たな縄張りを行い、三層の櫓を構える本丸や二の丸・三の丸などを築き、重臣の蒲生郷成を城主としたのです。
しかし、1598年に蒲生氏郷の子の秀行が宇都宮へ移封されると、会津若松には越後より上杉景勝が入封します。そこで、景勝は家臣の甘粕清長を白石城主にしたのです。この甘粕清長は、NHK大河ドラマ「天地人」では、パパイヤ鈴木が演じていた役柄で、越後上田衆のひとりです。しかし、慶長5年(1600)関ケ原の合戦前夜、上杉景勝討伐に赴いた徳川家康の命を受け、伊達政宗が白石城を攻略し、留守の隙を突かれてふたたび伊達政宗に白石城を奪われてしまいます。そして、片倉小十郎景綱が白石城主となったのです。
戦いの後、白石城は政宗の側近中の側近、片倉小十郎景綱が城主となります。
彼は、政宗の知恵袋、用心棒、相談相手とまさに伊達政宗の右腕であり、その人物は徳川家康も認めることとなり、元和の一国一城令以後も、仙台伊達藩は特別に仙台城と白石城の2城が許され、片倉氏は伊達氏の陪臣ながら白石城主として11代が世襲して明治維新を迎えます。そして、また、この白石城が歴史の表舞台に登場してきます。戊辰戦争の時です。明治元年、江戸城が無血開城すると、奥州14藩の重臣たちは白石城に集まり、政府に会津若松藩救済を願い出ることにしましたが、官軍はこれを退けてしまいます。そこで、仙台藩士が官軍の参謀であった世良修蔵を暗殺したのを受けて、再び奥州列藩の重臣たちが白石城に集まって同盟条約を結びます。そして、白石に公議所を設けて官軍に対抗しますが、戦端が開かれると二本松城以下が陥落したために白石公議所は解散、そして、会津若松城も開城し、奥州はたちまち平定されてしまいました。
現在、白石城は、三階櫓は伝統の建築様式に基づいて木造で復元され、最上階に上れば、城下町白石の町並みが一望でき、遠く蔵王連峰も望むことができます。
投稿者 fujimori : 23:03 | コメント (4)
2009年11月28日 [近頃思うこと]
音
生き物は、不思議な遺伝子を持っています。特に、人間はとても複雑で、自分のことでありながら、その働きは解明されていないことがほとんどです。ですから、いくら文明が進んだとしても機械であるロボットでは、人間に近づくことは程遠い道のりです。たとえば、人間の1歳児のころの動きの真似をするだけのロボットを開発するのにも何数十年かかるでしょう。それを、人間は数カ月で獲得してきます。
赤ちゃんの運動機能は頭に近いところから始まり、首、腕、腰とだんだんに下がっていきます。また、体の中心から末端のほうに向かって進んでいきます。それは、事実としての発達ですが、なぜそのような発達を遂げていくのかを考えてみると、人は何のために生きるのかにぶち当たります。まず、基本は、どの生物でも同じですが、自分たちの遺伝子を子孫に残そうとします。そのために当面は、敵や災害から身を守らなくてはなりません。自分に近づいてくるものが敵か味方か、判断しなければなりません。ですから、最初は、まず目でものを追う追視ができるようになります。この行動は、のちに直立して歩くために条件である首のすわりの準備です。
赤ちゃんは新生児のころから準備がはじまります。生後3ヶ月ころまでは、大きな音にびくっとしたり、聞き慣れた声を聞くと落ち着くようになります。そして、次第にその声がする方に顔を向けようとするのです。生後3か月のころから音のする方へ顔を向けようとしたり、音のする方を目で追おうとします。ですから、ガラガラなど、音のする玩具を喜ぶようになります。それは同時に、首がだんだんとしっかりしてきたからです。そして、うつぶせで首をわずかに左右に動かすようになります。次に、少しあごを上げられるようになります。さらに月齢が進むと、あごを上げたままの状態で、自由に首を動かして左右を見ることができるようになります。こうなって初めて首すわりが完成したと言えます。このように首が自由に動かせるようになっていくのです。
人は、何かを近付くことを知ろうと、音のする方に顔を向けるようになります。それは、自分に危害を加えるものかどうかを確かめる意図もあると思います。そして、その能力は、大人になっても、身を守るときに必要なものです。後ろから大きな音がすると、急いで振り返って、それが何かを知ろうとして、危険だとよけようとするのです。もし、忍者がそっと近づいてきたらわかりません。
後ろから車が近付いてきたとき、その音で気がついて振り向き、脇によけます。しかし、最近ハイブリッド車や電気自動車は、構造的に音がしなくて危険と感じるという意見が、自動車ユーザーや視覚障害者団体等から寄せられています。そのため、国土交通省では「ハイブリッド車等の静音性に関する対策検討委員会」を開催し、対策のあり方について検討を行っています。7月に行われた第1回の会議では、「何らかの対策は必要であろう」という方向性が出されています。それを受けて開催された第2回目では、実際にハイブリッド車や電気自動車を走行させて、「どの程度気がつきにくいものか?」「どのような対策をすればよいのか?」という部分を体験したようです。そして、11月5日には、「疑似エンジン音の義務化」を軸にする対策案を発表しました。現在同省は一般からの意見を募っていますが、どうでしょうか。エコカーは、環境保護だけでなく「静音性」というメリットも生み出したのですが、人間というのは、難しいですね。ただ、現在のところ静音性を原因とした交通事故は発生していないし、エンジン車とハイブリッド車との間で事故発生率にも違いがないようですが。
投稿者 fujimori : 19:39 | コメント (4)
2009年11月27日 [近頃思うこと]
ロボット
今月の25日から明日の28日まで東京ビッグサイトで、世界最大級のロボット展示会「2009国際ロボット展」が開催されています。この展示会の開会式では、ヒトの上半身とほぼ同じサイズのヒューマノイド(ヒト型)ロボットがハサミを使ってテープカットをしました。展示ブースでは、様々なロボットが展示されているようですが、それらのロボットについてのニュースを見るたびに、ずいぶんと進んだ科学技術に感心すると同時に、どのような作業がロボットが人間に代わってやるようになり、どのようなことは最後まで人間にしかできないのかを考えてしまいます。
それに先立って今月初めに、大阪市西区の京セラドーム大阪で「ロボカップ・ジャパンオープン2009」が開かれたことがニュースで流れました。ロボカップは95年に構想が発表された国際イベントで、2050年までにロボットのサッカーチームを結成し、サッカーワールドカップの優勝チームに勝利するという目標を立て、世界の研究者がロボット工学や人工知能の開発をしているものです。そして、97年から毎年世界大会が開かれ、世界35カ国4000人以上の研究者が参加しているそうです。私が平成13年に新領域部門でグッドデザイン賞を受賞したときに、その部門の大賞候補になったのですが、ほかに4つ候補があり、そのひとつがこの「ロボカップ」でした。ワールドカップも、ロボットがやるのを観戦するようになるのですね。
今回展示されているロボットにも、スポーツをやるものがあります。サッカーだけでなく、野球の世界でもロボットが活躍します。「バッティングロボ」は、1秒間に1000枚の画像を処理できる高速カメラで飛んでくるボールを検知して、バットで打ち返す「究極の打者」の登場です。人間が軌道を予測してボールを打つのと異なり、1000分の1秒ごとにボールの位置を認識し、0・2秒でバットの軌道を調整します。「どんな球でも空振りせず、狙った方向に打ち返せる」といいます。また、人間相手にピンポンをするロボットや、最終日には2足歩行ロボットによる格闘技大会「ROBO-ONE GP」が開催されるということです。また、「スケーティングロボット」は、インラインスケートを履いた2足ロボットで、センサーでバランスを取り、人間と同じように滑ることを目指しているそうです。今後、アイススケートで、4回転ジャンプをするロボットも現れるでしょう。これからのスポーツ観戦も、人間の限界への挑戦か、スポーツの華麗さ、激しさを観戦するかでロボットの競技は増えるかもしれません。
実用的なものも紹介されています。掃除などの家事を人間に代わってするロボットや、人間の身体能力を強化する着用型ロボットなどのユニークな新技術が紹介されています。これは、「マッスルスーツ」というもので、このスーツを着用した人が50キロのコメ袋を軽々と持ち上げられます。空気圧を調節してゴム製の「人工筋肉」を収縮、腕や腰の曲げ伸ばしをサポートする仕組みです。今後、人間が強く力を入れなくても重い物を簡単に持ち上げられるために、高齢者や身体障害者の動作を補助したり、工場での労働の身体負担軽減などに役立つことが期待されています
あと、目立つのは、癒し効果のロボットです。ぬいぐるみのような外観のアザラシ型ロボット「パロ」は、デンマークの福祉施設などで導入されていますし、高齢者を和ませる「赤ちゃん型ロボット」とか、パンダ型の「Toccoちゃん」を開発中です。「Toccoちゃん」は、頭部にセンサーがあり、頭をなでると「じゃんけんしようよ」と持ちかけて、「グーしかだせないんだった」と話したりして人を和ませるようなロボットです。
投稿者 fujimori : 22:57 | コメント (5)
2009年11月26日 [地域を知る]
ご当地おでん
文化は、長い時代を経てつくられ、つながってきたものが多いのですが、新しく作られていくものもあります。また、文化とは有形、無形を問わず、また、科学・芸術分野だけではなく、様々な分野にあります。たとえば、食文化です。
先日の新聞記事に、こんな記事がありました。「地元産の具材にとろろ昆布を乗せた「富山おでん」を県の新たな名産品にしようと、東京・有楽町にある県のアンテナショップ「いきいき富山館」などが売り込んでいる。ご当地おでんはブームになりつつあり、県内での知名度も上げようと富山駅や富山空港など観光客が集まる場所で販売が始まった。」
私は、このアンテナショップに行ったことがありますが、そのときは、店頭で「ホタルイカ」の販売をしていました。そこで、今、「おでん」を売り出そうとしているようです。ここに書かれてあるように、今、ご当地「おでん」がブームのようです。その特徴は、ひとつには「だし」にあり、もうひとつは「具」にあります。「富山おでん」と呼ばれる条件は、味付けは自由ですが、県産の具材を1品以上使うことだそうです。たとえば、普通のおでんにとろろ昆布を乗せたものであったり、大根や卵などの定番に、甘エビやシロエビのつみれ、こんにゃく田楽「あんばやし」が入ったものなどです。
その中で、とろろ昆布を乗せたものは、県内では、しばしば見られる富山流のおでんの食べ方であり、熱々のご飯に乗せて食べれば、汁を捨てなくて済むということもあるようです。それが、記事によると、今年初めに酒席で盛り上がった勢いで、ご当地おでんに名乗りを上げることになり、発起人会ができたということです。今年の4月に全国のご当地おでんが集まる「小田原おでんサミット」(神奈川県)で、2日間で1700食が完売したこともあり、「酒との相性もぴったり」と売り込みはじめたようです。
ご当地おでんとして有名になったのは、黒はんぺんで知られる「静岡おでん」です。このおでんは、私は食べたことはないのですが、もうひとつ有名な兵庫県の「姫路おでん」を、少し前に姫路に行ったときに食べてみました。姫路おでんの定義は、これからはっきりと決めるようですが、今のところは、「生姜醤油で食べるおでん」だそうです。
どうして、おでんに生姜醤油をかけるかというと、起源についてはいろいろな説があるようです。最初は、戦中戦後の食糧難の時代に煮込み過ぎて味が抜けてしまったおでんの味を補うために、生姜醤油をかけるようになったという説(闇市発祥説)がこれまで一番有力でしたが、現在は、昭和初期に姫路の浜手地域で、甘辛い関東煮に生姜醤油をかけて味を調整して食べたのが始まりではないかと言われています。また、姫路は西の龍野市(現:たつの市)にかけて古くから現在も醤油の産地です。そして、白浜が昭和の初め頃生姜の産地だったとされており、それぞれの地場産業が生活の知恵として、ブレンドするとおいしくなると発見し、食習慣になったのではないかとも考えられています。
「おでん」という名前は、もともとは、室町時代に出現した味噌田楽からきています。その田楽は、具を串刺しにして焼いた「焼き田楽」と、具を茹でた「煮込み田楽」がありました。のち、煮込み田楽が女房言葉で田楽の「でん」に接頭語「お」を付けた「おでん」と呼ばれるようになり、焼き田楽は単に田楽をさすようになったのです。
文化をもう一度引っ張り出して、今によみがえらせ、新しい文化にしていくのは、また人間に知恵かもしれません。
投稿者 fujimori : 21:42 | コメント (4)
2009年11月25日 [講演先にて]
島全体
金印を見た福岡で、もう一か所どこを見たいかということで、「日本海海戦」の舞台の玄界灘を所望しました。数年前に、博多から北九州に向かう途中で食事を海辺の食堂でしたときに、目の前の海を指さして「あそこの沖ノ島沖でバルチック艦隊を確認したのですよ」と言われたときに、まさに司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」の中の、その場面を読んでいた時だったのです。その発見後、日本艦が合流し、戦闘開始を命令したのです。その時の信号簿でZ旗に有名な文言「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」という文言が割り当てられていたのです。
その時の戦いを沖津宮の神官に仕えていた佐藤市五郎が、両艦隊の乗組員以外で同海戦を目撃した数少ない人物の一人です。この沖ノ島の沖津宮は、筑前大島の中津宮、宗像市田島の辺津宮とともに宗像氏が信奉した「宗像三女神」と呼ばれる三人の女神を祀っており、その総称が「宗像大社」です。
興味深いことに、この辺津宮から大島、沖ノ島を延長すると、対馬の北部を経て、韓国の釜山を見通す線上に並びます。

海辺の松林に立つと、沖の島は遠く望めませんでしたが、目の前には大島が浮かび、その向こうに沖の島があると思うと、なぜかわくわくしました。この海の道は、古代から半島と大陸の政治、経済、文化の海上路であり、掌握したのが宗像氏で、三女神を祀る神官と考えられています。
九州全土、特に宗像地方を中心にこの沖ノ島を、エジプト考古学者の吉村作治が提唱し、世界遺産にする運動が行われており、そのポスターが宗像の道の駅に張ってありました。今年の1月5日に「宗像・沖ノ島と関連遺産群」の構成遺産の一つとして、世界遺産暫定リストに追加掲載されているそうです。なんだか、こんな地味な島がどうしてかと思ってしまいます。ポスターによると、この沖ノ島は海の正倉院と称されるほど、発掘調査が行わた結果、23の古代祭祀跡から約8万点の神宝類が出土し、その古代祭祀遺物すべてが2006年に国宝に指定されています。
この島は、基本的には無人島ですが、現在は沖津宮の神官が交代で常時滞在しているそうです。そして、島全体が御神体ですので、現在でも女人禁制の伝統を守っているのだそうで、男性であっても上陸前には禊を行なわなければならないそうです。17世紀前半、黒田藩が沖ノ島に防人をおいたことから発見されたのですが、島についての情報は一切口外が許されなかったようです。島の様子が知られるようになったのは、日本海海戦がおこなわれた日露戦争の時に、陸軍の防衛基地が設置されてからです。
道の駅の壁に張られた国宝は、教科書に載っているものが多く、ここで見つかっていたのだということを初めて知りました。たとえば、中国 魏の時代(1700年前)に造られ渡来した青銅製の鏡。神様と動物の模様が刻まれている「三角縁神獣鏡」、朝鮮 新羅の時代(1400年前)に造られ、渡来した純金製の指輪である「金製指輪」、日本の古墳時代(1400年前)に造られた馬具の一種で祭礼の時 に馬の胸や胴を飾る豪華な装飾品である「金銅製杏葉」など約12万点に及ぶ貴重な古代祭祠神宝が出土しています。また、史跡だけでなく、自然においても島内は、天然記念物である亜熱帯植物が群生しており、一木一草たりとも、島外に持ち出すことは古来よりタブーとされ、現代も、その精神は、脈々と引き継がれています。
不思議な島です。
投稿者 fujimori : 21:04 | コメント (5)
2009年11月24日 [講演先にて]
文化の伝承
子どもたちを文化的環境の中で育てるということは、子どもたちには、次世代に文化を受け継いでいってもらわなければならないからです。
日本の文化というのは、どのような文化でしょうか。日本独特の文化とは、必ずしも日本で生まれた文化ということではありません。どこかで生まれ、何かの形で日本に伝わり、それが長い間に日本の風土に合ったものに変化し、日本独特の文化となっていくのです。もちろん、日本で考えられたものもあるかもしれませんが、それが、やはりほかの文化と融合したり、影響し合って成熟していくのです。ですから、ある意味では、文化とは、人々の生活であり、習慣なのです。文化とは英語圏では「cultivated」といいます。これは自己の内面を耕した状態のことを指し、成熟した状態を意味します。
しかし、文化は普遍的で永遠ではありません。現在、上野の国立西洋美術館では、「古代ローマ帝国の遺産」ということで、「栄光の都ローマと悲劇の街ポンペイ」という展示会が開催されています。古代ローマ帝国は、人類史上、比類ない長さと広さを誇り、繁栄を極めました。しかし、帝国絶頂の西暦79年、その街ポンペイは、ウェスウィウス火山の噴火で埋もれてしまいました。日本でも、あれほど勢力を誇っていた邪馬台国はどこに行ってしまったのでしょうか。歴史は、文化を埋もれさせてしまうこともあります。しかし、文化は、どこかでつながっていきます。それが、どこにどんな形でかわかりませんが、今の時代に何らかの影響を与えているのです。
先週末、福岡に行ったときに、一度行きたいところに連れて行ってもらいました。それは、金印が出たと言われる志賀島です。
長い年月の間に砂の架け橋が掛かり、今では、「海の中道」といわれる「砂嘴」を渡っていくことができますが、もともと志賀島は「島」でした。九州とはつながっていなかった島に、なぜ金印があったのか不思議でした。
発見されたのは、1784年、筑前の国那珂郡志賀島の甚兵衛という農民が、耕していた田畑から金の印章を発見して、黒田藩に届け出たもので、黒田藩ではこれを儒学者達に鑑定させた結果、漢の光武帝から垂仁天皇に送られた印であり、安徳天皇が壇ノ浦に沈んだとき海中に沈んでしまったのが、志賀島へ流れ着いたものであろうというものでした。

それにしても、鉄砲伝来のときにもそうでしたが、金印発見の知らせは,異例の早さで中央に伝わったようです。そこで、京都の国学者藤貞幹という人が、発見から一月あまりで、委奴は倭奴であるとしてこれを伊都國(今の福岡県糸島郡)王が光武帝から授かった金印であるという説を発表しました。それがほぼ定説となっています。
金印を黒田家所有となり、以来、黒田家の家宝として庫裡深く所蔵されていましたが、明治になって国宝に指定され、昭和29年の再指定で改めて第1級の国宝となり、一時東京の国立博物館に保管されていましたが、現在は、黒田家から福岡市に寄贈され、市博物館の開館とともに一般公開されています。

実物は、一辺 2.3cmの四角形で、台部分の厚さ約 9㎜、総高約 22㎜、重さ 108.7gの非常に小さな純金製(22金)ですが、この小さなものから、出土地や発見者、何故志賀島にあったのか?という疑問がいまだの解明されておらず、だからこそ、昔の文化に思いを馳せるロマンがあるのかもしれません。
投稿者 fujimori : 21:00 | コメント (4)
2009年11月23日 [近頃思うこと]
文化国家
「目白文化村」の形成を見てきましたが、その成り立ちを見ていくと「文化」とは何かということを考えてしまいます。まず、「文化」と聞いて思い出すのは、今月初め11月3日の文化の日です。この日は、「様々な文化歴史に親しみ、健全な心身・情緒を育む日」ということのようですが、なぜこの日なのかというと、日本国憲法が1946年のこの日、11月3日に公布されたからです。文化の象徴として憲法があるのです。そして、この憲法は、公布から半年後の1947年5月3日から施行されました。その5月3日を「憲法記念日」と決めました。
実は、戦前から文化の日と決められる前までは、11月3日は、明治天皇の誕生日であることから明治節という祝日になっていました。今は、それは特に関係ないとされていますが、多分、憲法をいつ公布しようかという議論の中で、明治節の日にしようとしたのではないかと思います。それはともかくとして、今、文化の日に合わせて「文化勲章」が授与されます。それは、誰を対象にしているかというと、「科学技術や芸術などの文化の発展や向上にめざましい功績のある者」となっています。ここでは、文化とは、「科学技術や芸術」などとなっています。
憲法の第二十五条には、文化という言葉が出てきます。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」ここにある、「文化的な最低限度の生活」とは、どのような生活なのでしょう。そのひとつは、次の条文に出ているもののような気がします。「第二十六条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」「第二十七条 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。 」きちんと教育を受け、きちんと勤労できる権利があることが文化的な最低限の生活のような気がします。最近の傾向を見ると、この二つの権利がないような気がします。それ以前に、文化的生活の前提である「健康」であることでさえ保障されていません。
たとえば、今、保育室が足りないからといって、保育室の最低基準の一人当たり面積を減らそうとしています。その状況を、憲法から読むと、まず、幼児教育をどの子もひとしく受ける権利はありますので、保育園に入ることが出来ない子がいることは何とかしなければなりません。そのうえで、健康的で文化的生活が出来るように保障するのは最低限なのです。「健康」というのは、精神的、身体的、社会的に「現在をよりよく生きる」ことです。狭いところに、不健康な環境の中で子どもが生活することはおかしいのです。健康な状況とは、子どもたちが精神的ストレスを感じず(精神的)、手足、体を思いきり使って活動し(身体的)、いろいろな子どもとかかわりを持って生活すること(社会的)が出来る状況のことを言います。ということは、今、一人ひとりの健康と文化を保障し、誰でも幼児教育を受けることができるように、保育室の数を増やすことを、いろいろなことに優先して考えないといけないと思います。この憲法にあるように、「健康」「文化」「教育」「勤労」は、どれかを犠牲にすることなく、すべてを保障しなければならない項目として挙げられているのです。
日本が、文化国家になるのにはまだ先のようです。
投稿者 fujimori : 23:40 | コメント (4)
2009年11月22日 [地域を知る]
文士村
文化は、山の手の「目白文化村」のようなインテリが住む町からだけでつくられるものではなく、それに隣接しているトタン屋根の貸家一帯からも生まれてきます。それは、一般的に、作家や、詩人などの文化人は、貧しいことが多いからで、彼らは、貸家に住み始めます。それは、川沿いの低地で、近くに工場なども多く、居住環境としてはよくなかったのですが、かえって家賃が安かったことと、時代の先端を行く街であった新宿に近かったことなどから移り住んできたと思われます。
その代表が、「放浪記」「浮雲」などの代表作で知られる作家・林芙美子です。彼女は、後に文化村の近くに立派な家を建て、その建物が現在は、林芙美子記念館として残されています。個性的な和風建築として東京都歴史的建造物になっていますが、新居建設当時、建坪の制限があったため、芙美子名義の生活棟と、画家であった夫・緑敏名義のアトリエ棟をそれぞれ建て、その後すぐにつなぎ合わせたといわれています。
1920年代から30年代にかけて落合町に住んだ作家や詩人、歌人は実に70名以上を数えたそうです。そこの住人には林芙美子・宮本百合子・中野重治・江口渙・蔵原惟人・藤森成吉・村山知義などのいわゆる「プロレタリア作家」が多く、彼らを中心として左翼文化運動がおこり、1928年(昭和3年)には、左翼文化団体の集まりである「全日本無産者芸術連盟」を立ち上げ、その事務所も上落合につくられています。村山知義は、童画家としても有名で、彼がここに住んでいたとは驚きでした。
もうひとつ、面白いことがあります。それは、山の手である目白文化村に対して、低地の貸家には、多くの芸術家が住み、目白文士村を形成したのですが、その反対側の北側に接する長崎村には、1930年代半ば以降、貧乏な画家が多く住むアトリエ付き貸家が立ち並び、「長崎アトリエ村」が誕生しています。ここは、豊島区ですが、豊島区のホームページに紹介されています。この地域も、明治になっても東京市外の近郊農村といった性格が強く、落合地区と同じような街づくりが行われていきます。そのきっかけとなったのは、第1次世界大戦ごろからで、産業の発達とそれに伴う都市への人口集中により、市外であったこの地域も都市化がすすんでいきます。そして、この地域での目白文化村のような高級住宅街として開発されたのは、駒込の大和村でした。一方、スラムが東京市内から追い出されるようにして、豊島区地域にも形成されました。ちょうど、関東大震災を境に)年の関東大震災後にいっそう激しくすすみます。その頃のモダニズムや洋風文化の流れは、豊島区の西部にあたる旧長崎町を中心として、美術家向けの借家群であるアトリエ村を生むことになるのです。これも、モダニズムと東京近郊の都市化の流れのなかで起きたことです。
最初にアトリエ村がつくられたのは、要町で、1931(昭和6)年のことです。これにならって長崎の各所につぎつぎとアトリエ村がつくられました。はじめアトリエ村には絵や彫刻を学ぶ学生が集団で住んでいました。その中で最も大規模なものは、さくらが丘パルテノンです。このアトリエ村には、合計で約60軒もあったそうです。
この流れが、ずっと後になるのでしょうが、この場所に手塚治虫を中心とした様々な漫画家が生活していた「トキワ荘」に受け継がれていきます。
文化は、様々な環境の中で、様々な形を持って生まれてくるものですね。
投稿者 fujimori : 18:26 | コメント (4)
2009年11月21日 [地域を知る]
文化的生活
私の住まいは東京郊外の八王子市にあります。八王子は、戦国時代は八王子城の城下町で、江戸時代は甲州街道の宿場町として発展してきました。そして、明治になると織物の町になっていき、その関係の工場がたくさんありました。それが次第に縮小し、その工場を取り壊し、その跡地がかなり広いので、小分けにして分譲住宅にするか、大きなマンション建設が行われるようになりました。そのチラシを見ていると、その分譲の売り方のモデルを、大正から昭和にかけて開発された「目白文化村」に見ることができます。
山の手といわれる新宿下落合地区は、明治になって、有爵の大きな屋敷が立ち並んでいました。それを開発したのが、西武コンツェルンを築いた人として有名な堤康次郎の(株)箱根土地でした。まず、広い敷地の奥まで路地を引き、それをロの字に循環させ、下水道を完備し、建物は洋式の日本館で建て、土地とともに売る方針をたてました。しかし、建物は個々の個性があった方がいいと考え、基本的には更地分譲でした。そして、街路の擁壁には大谷石を使用し、都市的な景観を持たせるようにしました。その広告には、土地の来歴と、施設計画、交通手段などが同一形式で掲載したのです。この土地は、もとなんとか公爵の敷地ですと謳うことで高級住宅地としてもブランドを作り、洋式の建物はモダンを感じさせました。最近、園の近くのマンションのチラシにも、もとだれだれの敷地であることが謳われていました。
では、文化村での生活は、どのようなものを目指したのでしょうか。昨日のブログで書いたようにそのモデルは田園都市ですが、文化村での当時の田園生活の理想的な生活について、こう書かれてあります。「先ず、労働者の家族をして、清新和楽の家庭を組織せしむるに在り。されば其住む所をして、殊に空気の流通と光線の透写とを十分にならしめ且付するに数畝歩の庭園を以てし、…労務の余暇には農芸を習はしめ、一には之に依りて各自の健康を保持せしめ、一には其収益を挙げて生計の幾分を補助せしめんと図りぬ」
これは、理想かもしれませんが、当時このような生活を勧めたのですね。「清新和楽」の家庭というのは、もう一度考えたいものです。というより、今こそ成熟し、経済優先の時代からの脱却をしようとしている今こそ必要な考え方です。また、ここでは、余暇を使って農芸を挙げています。いわゆるガーデニングではなく、家庭菜園なのでしょうが、その収穫が収入の足しになるくらいというのもすごいですね。しかも、健康になるというのですからいいですね。もし、そのまま東京が各家庭で行なっていたら、自給率が上がったでしょうが。
また、続きにはこんなことを言っています。「山野樹林の勝景に富める…四周の光景を風土として、総べて彼等の健康と衛生とに適せしめんと勉め、更に公会堂、倶楽部、美術館等をも設けて、…品位ある娯楽の趣味を進めしめんと期せり」この文章もなかなかいいですね。「四周の光景を風土とし」というのは、その地その地で見える範囲のものがその地の風土なのです。また、「品位のある娯楽」というのが気にいりました。どうも最近は、品位のない娯楽に興じる人が多いような気がします。そして、健康と娯楽の勧め、自然の中に生活することの幸福を提案したのです。
しかし、現実は、少し前のブログの写真のように、神田川に沿った上落合などの低地あるいは窪地には「トタン屋根」の貸家が並び、乱雑で無統制な郊外住宅だったようです。しかし、昭和になって、この貸家では、文化的に面白いことが起きます。
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2009年11月20日 [地域を知る]
田園
よく、東京で山の手族といわれるような住宅街に住む人たちの暮らしぶりを指す言葉があります。それに対して、東京にも下町といわれる町があります。これは、地形の高低を指す言葉でもあったようです。その山の手には、江戸時代には武士が住んでいたのですが、明治になると、武士階級は消滅してしまいます。同時に、山の手の武家地は荒れていったようです。そして、そこには桑や茶が植えられ、田園化していきます。しかし、しばらくすると、維新の元勲、旧藩主、新興の実業家、新政府の省庁官員などが、山の手に庭付き独立家屋を建て始め、専用住宅街となっていきます。
そんな時、日露戦争が起き、それに伴って日本の経済活動は急速に盛んになっていきます。それに伴い、著しい数のサラリーマンが目立つようになります。このころのサラリーマンは、次代の寵児になっていきます。彼らは、江戸時代の士農工商の身分制度の中の商人や職人とは違い、また、公爵や侯爵、伯爵、子爵、男爵などの「爵」を持っている人たちのような階層とも違い、中産階級とか市民階級とか、中間階級とか呼ばれるような「中流意識」をもって、社会的にも文化的にも政治勢力的にも新しい世界を作ることになるのです。この時の階級が、今の時代でも主流を占め、そうなることが出世のようになっていったのでしょう。そして、その階級の人たちは、住み方も変えていきます。彼らは、旧江戸市街はいっぱいになっていたので、山の手線の外側の農村地帯に居住を求めていくことになります。それは、都落ちという意識ではない、ある理論づけが行われます。「田園都市」というイメージです。ちょうど明治中期にイギリスで誕生したもので、過密化で環境が劣悪化した旧都市部から逃れ、田園地帯に新都市を建設することを提案したものです。この提案は、多摩ニュータウンを作るときにも参考にされました。私が、ニュータウン学会の理事を務めていたときに、その考え方を学びましたが、明治時代の山の手の形成のもとになっていたとは知りませんでした。
この田園都市の考え方はとても面白いものです。それは、現在でも都市計画の分野では重要な計画哲学の一つに数えられているからです。この考え方は、イギリスのハワードという人が提案したもので、自然との共生ということで、都市と農村との融合を図るものです。そして、職住近接を訴え、役所や工場だけでなく、レクリエーション施設や文化施設をも含む街づくりです。しかし、実際は、この理想とは程遠い開発が行われていくのです。そのひとつが、園の近くの下落合付近につくられていった「目白文化村」(俗に落合文化村)なのです。
堤康次郎が開発した「目白文化村」と同時期に、もうひとつ分譲を開始した地区がありました。それは、渋沢栄一の田園都市株式会社がおこなった洗足地区で、その翌年には「田園調布」が売り出されます。郊外の生活は「田園都市」というスローガンのもとの「田園でも文化的生活」という言葉の中の「文化」をとった堤と、「田園」と採った渋沢が、今日の西武グループと東急グループとしてライバル関係になっていくのです。そして、田園調布がパリの街造りを模したのに対し、堤康次郎は目白文化村でロサンゼルス(ビバリーヒルズ)の街並みをめざしたと言われています。
投稿者 fujimori : 22:30 | コメント (4)
2009年11月19日 [地域を知る]
住宅街
私の園がある下落合は、JR山手線の高田馬場駅の近くですが、この駅にはもうひとつの路線、西武線が走っています。その沿線には、西武球場があるのですが、西武と言えば、堤一族が浮かびます。堤康次郎は、滋賀県出身で、大正9年(1920)箱根土地(国土開発の前身)を設立する一方、鉄道事業にも乗り出し、土地開発・観光・ホテル・流通・レジャーなどの都市型第三次産業を展開する西武コンツェルンを築いた人として有名です。
彼は、早稲田大学に在学中に、下落合に下宿していました。卒業後も、下落合の女性と結婚し、引き続き下落合に住んでいました。そして、下落合の住宅化に伴う土地の上昇に目をつけます。そして、資産運用のために土地の買収に乗り出したのです。そして、この地の大地主であった宇田川家から土地を買い上げ、「目白文化村」の分譲を始めるのです。それが、1922年(大正11年)でした。彼は、最初に箱根の強羅、仙石原と買収していったので、「箱根土地」という会社を立ち上げたのですが、その後軽井沢と買収していきます。そして、この設立と同時に、機関銀行として目白駅前の高田農相銀行を乗っ取りました。そして、本社を落合村上落合に持ちますが、目白文化村を開発する過程で文化村内の下落合(今は、中落合)に移転しています。
話は突然変わりますが、ブログでもよく取り上げる「地産地消」という言葉を最近よく見かけます。その地域でとれた産物はその地域で消費しようという考え方です。それは、その地でとれた特に農産物は、その地方の気候、風土の中で育っているので、その地方の生活に適した効用を与えるのです。南方で育った果物は、熱くなった体を冷やす役目があるように、夏にとれる胡瓜も体を冷やす役目があります。同じように、私は「地産地活」ということを提案しています。その地域で育った人材は、その地域で活躍してもらおうという考え方です。やはり、その地域の風土が人を育てるために、その地域で生かされてくるのだと思います。それが、いつの間にか、都会に出て活躍するのが出世のように思い、しかも、そこでサラリーマンになるのがいいかのような教育をしすぎている気がします。いつか都会に出てきて、そこで職を得、そこに土地を求め、家を建て、家族を持つのが夢のように思わされてきました。人は、それぞれの違いを認め、それぞれの場で活躍することによって、社会を形成するものです。それがどうしてこのような社会になっていったのかを考えるためには、江戸から明治、大正、昭和とどのような土地に対する考え方か、どのように開発されていったのかを知るために、その特徴的な園の周りの下落合という場所から考えてみようとしたのです。
まず、「目白文化村」を見ていく前に、江戸の町について考えてみました。ある人から、私と同じ名字の藤森照信氏の「落合における高級住宅街の成立」という切り抜きと、中島明子さんから、彼女と野田正穂氏との共著である「目白文化村」(日本経済評論社)という書籍をいただきました。それらによると、江戸時代の住宅地は、どのような封建都市も武士と町人(商人と職人)の居住地を分ける身分地域制を住政策の大本にしていました。その分け方は、ふつうは人為的に線を引く形であったのが、江戸だけは立地の特徴から、山の手台地には武家地が置かれ、下町低地には町民地が配されています。つまり、山の手方面には、江戸のサラリーマン階級とも言うべき武士のために、庭付きの住居併用住宅が発達し、下町方面には、商人と職人のために、棟の接した店舗併用住宅が発達します。土地の高低により住む人の職種が違い、また、住宅の様子も違っていたのが江戸の特徴だと言います。
このイメージが、東京ではまだ残っているようです。
投稿者 fujimori : 22:10 | コメント (4)
2009年11月18日 [地域を知る]
近衛
新宿下落合にある私の園の周辺は、山手線の目白駅と高田馬場駅の中間にあり、山手線の外側です。もともと山手線は、市街化地域を避けて、郡部の東寄りにつくられたために、窓から見える景色は、武蔵野の畑や雑木林や小川が眺められ、蒸気を吐きながら走るSL列車でした。ですから、当然、下落合は、都市近郊農村でした。
そんな地域が、華族や資産家の別荘地になっていきます。その代表が、近衛邸です。江戸時代は、このあたりは酒井下総守の抱屋敷でした。明治になって、近江鉄道の取締役とか、大阪築港の主任であった西村氏などの所有になっていました。明治33年、近江篤麿が邸宅用の土地を探します。いろいろと探した結果、当時院長を務めていた学習院の移転先にも近く、神田川を南に望む高台の落合村の土地を購入することにしたのです。そして、家屋が完成し、翌年引っ越すのですが、3年後には亡くなってしまいます。その後、第34,38,39代内閣総理大臣を務めた長男の近衛文麿が相続し、住居として使用していました。
しかし、第1次大戦後、住宅難が深刻化し、その原因と責任は少数の家族や符号が広大な土地を占有してしまっているという世論を受けて、1922年(大正11)に、下落合の広大な近衛邸敷地が、一般に売りに出されます。園から少し行ったところに、今も「近衛町」分譲当時の道路が残っています。

以前紹介した御留山は、近衛邸敷地の一部でしたが、相馬子爵邸用の敷地としてすでに売却していましたので、そのほかの敷地ほか、近衛家が所蔵していた刀剣をはじめとする文化財もオークションにかけられます。それは、時代の変化というだけでなく、父篤麿が残した借財が200万(現在の価格でいうと約18億)あったからですが、書画骨董だけで143万にはなったものの、土地も手放さなければならなかったのです。
このとき、売却にあたったのは、東京土地住宅(株)でした。その常務取締役・三宅勘一は、箱根土地(株)の堤康次郎とはライバル関係にありました。彼は、この土地を坪54円50銭で譲り受け、道路や下水などを整備して坪68円50銭(現在の価格で約15万)で売却します。ずいぶん安く売却したものですが、当然、瞬く間に完売したそうです。それは、彼は、この地を「近衛町と命名して一つの文化郷を建設すべく」という思いがあったようです。しかし、東京土地住宅による近衛町の造成・販売宣言から、わずか3年後の1925年(大正14)、同社は経営に行きづまり近衛町の分譲事業のほとんどを、ライバルの箱根土地へ譲渡してしまうことになるのですが。
このような経緯の中で、もうひとつ、当時をしのぶ建物が残っています。それは、大正末期まで近衛公爵邸のあった地に、宮内省が学習院旧制高等科に通う男子生徒のための寄宿舎として1928年(昭和3年)に建設したもので、当時は「昭和寮」と呼ばれていた建物です。その後、昭和28年(1953)に日立製作所の所有となり、日立目白クラブとなっています。この建物は、宮内省の設計ですが、白い壁と赤いスペイン瓦、縦長のアーチ窓や建物の外観は段々状に変化をもたせ、その先に高く伸びた煙突があり、とてもしゃれた建物です。

近くの歴史が、日本の動きに連動し、また、よく調べると、いつもコメントを書いてくださる島根や香川にも関係することが出てきて、びっくりします。その面白さは、学生のころは気がつきませんね。
投稿者 fujimori : 21:22 | コメント (5)
2009年11月17日 [地域を知る]
目黒と目白
私の園は、山手線で言うと、高田馬場駅と目白駅の間にあります。また、私の出身中学校は神田駅にありました。ずいぶんと、山手線を利用しました。その山手線は、今年10月で「山手線」という名称が誕生して100周年を迎えました。そこで、JR東日本では「山手線命名100周年」を記念した各種企画を計画していますが、その一環として9月7日から12月4日まで“復刻調ラッピング電車”を運行しています。1編成しかないので、私はまだ乗っていませんが、この車両は、昭和30年代に運転されていた旧型国電を模した「ぶどう色2号」のカラーをE231系500番代1編成にラッピングしたものだそうです。
日本初の官営鉄道が新橋から横浜まで開業したのは、よく知られている通り、明治5年(1872年)10月15日でした。その後私鉄の日本鉄道によって、自社の東北線を連絡する路線として、上野から高崎までの間を開業した翌年の明治18年(1885年)3月1日に、日本鉄道品川線として、品川から赤羽までを開業させたのが、現在の山手線の始まりです。当時日本鉄道は、上野を起点として青森に至る路線(現在の東北本線)を建設中でしたから、その建設のための資材は、品川で陸揚げしていたため、どうしても鉄道で運ぶ必要があったのです。そのため、当初の開業区間は品川から赤羽でした。
その後、明治36年(1903年)に池袋から同社の東北線の田端に接続する支線が、開業して、分岐点駅として池袋駅が出来ました。そして、この池袋から田端間の路線は、日本鉄道品川線豊島支線と呼ばれました。そして、明治39年(1906年)に日本鉄道は買収され国有化となり、明治42年(1909年)それまでの品川線と豊島線をまとめて山手線と改称されました。そして、当初設けられた駅は、板橋、新宿、渋谷の3駅だけであり、いずれも、中山道、青梅街道、甲州街道、大山街道と当時の主要な街道との交叉点に設けられました。そして、駅名には、所在地名で宿場町として知られた板橋などの地名が付けられたのです。
開通後すぐに、清戸道(現在の目白通り)との交叉点には目白駅、二子街道との交叉点には目黒駅が増設されました。目黒駅は、そのあたりの地名が江戸時代の落語の題材である「目黒のさんま」でも有名ですが、その地名を駅名にしています。
それに対して園がある目白は、もともとはそんな地名はなかったようです。山手線が開設当時は、「密林に蔽はれた丘陵と田畑とで、窪地には小川が流れ…冬の夜には狐が啼き、追剥が現はれて通行人の所持品を奪ふた事も度々」と豊島区史にあるようにいくら清戸街道沿いとはいえ、寂しいところだったようです。そこで、駅を作るにあたって、その知名度を高めようと、もともとその地の地名であった高田とか落合を使わずに、江戸時代から名所のひとつと数えられ、庶民の信仰を集めていた目白不動堂の最寄りの駅であること、また、もうひとつこの時に一緒に増設された駅名が目黒であったことから目白の名前が選ばれたそうです。目黒駅の近くにも目黒不動尊があり、五色不動に由来する駅名が二つ一緒に誕生したのです。
この山手線が旅客線として急成長をするようになったのは、この線とほかの路線との接続でした。そのため、山手線の利用者は年々増加して行きました。そして、大正8年に、当時の開業路線の中央線、東海道線、東北線の線路をつなぎ、中野~新宿~東京~品川~池袋~田端~上野に至る「の」の字運転が開始されました。最初は、環状運転ではなく、今の大江戸線のようだったのですね。それが、6年後の大正14年に上野~神田の高架線が完成し、現在の環状運転が開始されたのです。
そして、この地にも聖母病院のような建物が建てられていくのです。
投稿者 fujimori : 22:51 | コメント (5)
2009年11月16日 [地域を知る]
ヒンデルと聖母
何気なく日常見ている建物にも、歴史的に素晴らしい建築があるものです。私の園がある落合は、歴史が古く、昭和初期の貴重な建物が残っています。また、その後改築されていますが、一時期歴史を刻んだ建物もあります。
園の近くに、園児がたまに行く総合病院に社会福祉法人聖母会が運営する聖母病院があります。

この病院は、特に産科に定評があり、年間の分娩件数は約1700~1800件と全国でも有数だそうです。また、その系列に、看護系大学の聖母大学があります。また、この病院は、帝銀事件の被害者が収容された病院です。帝銀事件とは、最近の若い人は知らない人が多いと思いますが、戦後間もないころの1948年(昭和23年)1月26日に東京都豊島区の帝国銀行(後の三井銀行。現在の三井住友銀行)椎名町支店で発生した毒物殺人事件で、未だに多くの謎が解明されておらず、解決していない事件として有名です。この事件が起きた豊島区椎名町は、聖母病院の近くであることから患者が運ばれたのでしょう。
この病院は、まず1929(昭和4)年に、聖母会の前身である「マリア奉仕会」が病院建設に着手します。その設計をヒンデルに頼み、本館が建築され、1931(昭和6)年「国際聖母病院」として開院します。その後、1943(昭和18)年に「聖母病院」へ改称します。ヒンデルは1887年、スイス・チュ-リッヒに生まれました。幼いころから建築家を目指し、下級ギムナジウム修了後、ヨーロッパ各地の設計事務所で修行したようです。その後独立し、チューリッヒに設計事務所を開設しました。 1924年、日本の北海道帝国大学予科でドイツ語教師をしていた義弟を頼って来日し、北海道の永住を決意し、札幌に夫人とともに移り住みます。北海道では、3年間在住。教会関係の作品を中心に16余りを設計し北海道の近代建築の開拓者といわれました。義弟の死をきっかけに 1927年、横浜市本牧に転居し、東京・宇都宮・名古屋など各地に作品を残します。 1940年にドイツに帰り、1963年、バイエルン地方レーゲンで亡くなりました。
日本で16年を過ごす間に、およそ30件の作品を手掛け、今なお親しまれている建物が数多くあります。北海道で残した作品は、聖フランシスコ修道院、大野邸、北星女学校教師館、北大手稲山パラダイスヒュッテ、北大ヘルヴェチアヒュッテなどのほか、あの有名な函館の天使の聖母トラピスチヌ修道院などの作品は今も現存しています。
横浜に移ってからは、現存している作品として、前述の園の近くの聖母病院を初めてして、札幌に旧秩父宮殿下ヒュッテのほか、上智大学旧館や南山中学などの作品などを残しています。
昨日の日曜日、あるところで、昭和30年の時の聖母病院の写真を見ました。

ヒンデル設計の建物を見ることができますが、その建物の素晴らしさに対して、その前の方の家々の建物にびっくりしました。今、園が建っている周辺の風景は、そのような建物が並んでいたのですね。それにしても、その姿の変わりようはすごいですね。立派な建物は逆にあまり変わりはありませんが、庶民の住宅はずいぶんと変わったものです。このころの日本の貧困率が高いと言われても納得したと思いますが。
その後、聖母病院は、昭和38年、増築工事の完成とともに総合病院となり、昭和60年、エレナ棟の増築および外来棟改築工事を行い、平成16年4月には新館が完成しています。変化に富んだ屋根の形が楽しい建物です。
投稿者 fujimori : 23:33 | コメント (5)
2009年11月15日 [記念日]
15日
もうすぐに天頂に冬の大六角形が輝きます。オリオン座も、誰でも見つかるような形と輝きで冬を飾っています。それら星座にまつわるギリシャ神話をこのブログではよく取り上げますが、本当は、星座は、 織り姫、ひこ星に代表されるように東洋にもあります。もちろん、江戸時代までの星座は、この東洋のものを言っていましたが、明治維新以後、ッ西洋文明が取り入れられ、すっかり東洋のものとなってしまったようです。
東洋では、太腸が天球上を運行する黄道上にそって一周するその円周を28等分にし、それぞれブロックごとの位置の近くにある星座が割り当てられました。その各々のブロックを星が泊まる宿という意味で、「宿」といい、それに星座名をつけたのです。ですから、全部で二十八宿になります。月はある恒星に対して、27日7時間43分2.5秒で天を一周しますので、天を27、または28で区分するのが便利だと考えたのでしょう。というわけで、月は1日にこの二十八宿の一宿ずつ通過していくと考えられました。
この二十八宿は中国からインドヘ渡り、インド占星術として発達し、唐時代に中国に戻り、それが空海によって806年に日本へもたらされたと考えれていました。しかし、奈良県明日香村で発掘されたキトラ古墳の天井壁画に星座が描かれていたので、今は、空海以前にすでに日本へ入ってきたと考えられています。
この28宿の中の23宿は距星名を「鬼」と言われ、和名「たまおのぼし」でギリシャ神話のかに座θを指します。この鬼宿にあった日にお釈迦様が生まれたと言い伝えられるところから、鬼宿日が「万事に大吉。二十八宿のなかで一番ラッキー宿」ということになったのです。
今日、町を歩いていると、かわい着物を着た女の子に出会いました。今日15日は、七五三です。ところで、七五三は、一般に3歳、5歳、7歳の子どもの成長を祝い、宮参りをする習俗です。もともとは、幼児期の通過儀礼としては公家や武家の社会で行われていたもので、3歳の女児が、そっていた髪をのばす髪置(かみおき)、5歳の男児が、はじめて袴をつける着袴(ちゃっこ)、7歳の女児が、着物の付け紐をやめて帯をむすぶ帯解(おびとき)として、江戸中期以降の見られるものでした。それ以前は、特に男女別や年齢は確定していなかったようです。
また、各地には、幼児期の成長に節目をもうけて氏神へまいる習俗がありました。ところが、多くの行事同様、七五三がひろまったのは、江戸をはじめとする大都市で、商業的理由によるところが大きいようです。縁者や近所にくばる千歳飴も、江戸中期には登場しています。では、どうして11月15日になったのでしょうか。旧暦の15日は、かつて鬼が出歩かない日である二十八宿の鬼宿日に当っているのです。また、旧暦の11月は収穫を終えてその実りを神に感謝する月であり、その11月の鬼宿日である15日に、氏神への収穫の感謝を兼ねて子どもの成長を感謝し、加護を祈るようになりました。明治になって、暦が新暦になってからは11月15日に行われるようになりました。現在では11月15日にこだわらずに、11月中のいずれかの土日・祝日に行なうことも多くなっていますが、本当は15日でないと鬼が出歩いてしまうようです。
投稿者 fujimori : 22:43 | コメント (5)
2009年11月14日 [新聞記事より]
指標
先週末、新聞の記事で考えさせられたのは「ひとり親家庭の貧困率54%、OECD「最下位」の水準」というものです。私たちは、長い間「貧困」という言葉は日本からほど遠い世界のことだと思っていたからです。しかし、この記事でクローズアップされている「ひとり親家庭」の貧困率だけでなく、厚労省は1998年の貧困率が63・1%、01年は58・2%、04年は58・7%だったことも発表しています。その前の10月20日には、厚生労働省は「相対的貧困率」(2007年調査)を発表しました。相対的貧困率とは、全国民における低所得者(働いている、いないを問わず)の割合のことで、全国民の所得の中央値(07年は1人あたり年間228万円)の半分(114万円=貧困線)より低い人がどれだけいるかをあらわした数値です。これによると、日本の貧困率は15.7%で、国民の7人に1人が貧困状態にあるということです。また、18歳未満の子どもが低所得家庭で育てられている割合を示す「子どもの相対的貧困率」は14.2%だったのです。この結果は、メキシコ(18.4%)、トルコ(17.5%)、米国(17.1%)に次ぐ4番目の高さです。この調査は、OECD(経済協力開発機構)に委ねられていたので、その結果について私たちは初めて目にしたという感じです。
今年の8月6日号の「ニュートン」という雑誌に「少子化傾向に歯止め?」という記事が計されていました。その内容は、「社会が継続的に発展すると,あるときから出生率が増加傾向に転じるようだ」というものです。一般的に社会や経済の発展とともに出生率は低下していきます。現在では、全人類の半分以上が、合計特殊出生率2.1以下の地域に住んでいます。しかも、多くの先進国では、出生率が低下すると,もう高くはならないと考えられてきました。ところが,アメリカ,ペンシルバニア大学のミルスキラ博士らは,21世紀に入って先進国の少子化傾向に変化があることを見いだしました。博士らは,人々の生活の質や発展度合いを示す指数「HDI」とTFRとの関係を調べた結果、1975年のデータでは、HDIが高い国ほど出生率は低かったのです。しかし,2005年では,HDIが一定の値をこえるほど高度に発展した国では、日本や韓国などの例外もあるものの、HDIが高いほど出生率が高くなっていることがわかったというのです。社会や経済が継続して発展することで出生率低下を食い止めることができるのではないかと博士らは期待しているそうです。
ここで、また初めて「HID」という言葉を聞きましたが、これは、人間開発指数(HDI:Human Development Index)というもので、その国の、人々の生活の質や発展度合いを示す指標です。生活の質を計るので、値の高い国が先進国と重なる場合も多く、先進国を判定するための新たな基準としての役割が期待されています。開発の基本的な目標は、人々の選択肢を拡大することとしています。そのためには、人々が、長寿で、健康かつ創造的な人生を享受するための環境を創造し、その環境の中で各自の可能性を十全に開花させ、それぞれの必要と関心に応じて生産的かつ創造的な人生を開拓できるようになることです。それを考えると、経済成長は、開発にとって重要ではあるものの、人々の選択肢を拡大するための一つの手段にしかすぎなくなるのです。その基礎となるのが、人的能力で、長寿で健康な人生を送ること、知識を獲得すること、適正な生活水準を保つために必要な資源を入手すること、そして地域社会における活動に参加することです。これらの能力を獲得できなければ、そのほかの選択肢にも手が届かず、人生における多くの機会を逸してしまうとされています。
この指数は、日本はかなり高く、1990年代初めはトップクラスでしたが、次第に順位が下がり、最近は10位前後です。人が人らしく、子どもが子どもらしく生きていくことができる世の中をいろいろな指標から見ることができます。
投稿者 fujimori : 17:13 | コメント (3)
2009年11月13日 [近頃思うこと]
室内緑化
目に入る景色の中で、そのくらい緑があるかということを「緑視率」と言い、その率がだいたい25%あると人は緑が豊かだと感じ、精神的にもよい影響を与えることを、昨日のブログで紹介しました。ということは、屋外空間だけでなく、室内空間にも言えるようです。室内を見通したときに、どのくらいの率で目に緑が飛び込んでくるかで、精神的な効果が違うようです。
コクヨと愛媛大学の共同実証実験結果によると、オフィスに植物を置くと時間の経過とともに親しみを感じる人が多くなり、緑視率が高いほど「あたたかみがある」「親しみやすい」「落ち着く」「自然だ(潤いがある)」と感じる人の割合が高く、「アメニティ効果」「疲労感をやわらげる効果」「癒し効果」など、心理的な快適性を高める効果が期待できるようです。
そして、植物が撤去されると喪失感・ストレスを感じる人の割合が高くなりますが、室内の場合は、逆に緑視率が高すぎても、緑が多すぎる、うっとおしいと感じる人の割合が高くなるようです。このような結果からわかるようにある程度室内に緑のものを置くことはオフィスでは仕事の能率が上がり、保育室や教室では子どもたちの精神的な効果がありそうです。しかし、日本ではあまりそのような空間構成はされていません。ドイツに行くと、保育室や小学校の教室にはずいぶん緑のもの、観葉植物があります。
ドイツの小学校の教室
そのほかにも、ロフトとか、子どもたちが潜り込める空間とか、様々な空間が子どもたちのために用意されています。
今、日本では、保育室の面積の最低基準が緩和されるかどうかが議論されているところですが、今まで、日本では、どうも保育者がどうかという議論に比べて、保育室空間がどうであるかという研究がされてこなかった気がします。ですから、最低基準を守ろうというだけで、その面積が子どもの育ちにはどういう意味があり、なぜ、その広さなのか、広さだけではなく、その空間には何が必要であり、それを置くためにはどのくらいの広さが必要であるかという説明が苦手のような気がします。
最近の研究では、オフィス空間におけるものではありますが、そこに植物を配置する場合には、オフィス空間の持つ役割、目的に応じた緑の量、種類に注意しながら、緑視率に配慮して配置設計することが重要だということがいわれています。オフィスのグリーンアメニティ効果を最大限に発揮させるには、それぞれそこで仕事をする人が目にする緑の量を、近景、中景、遠景でバランスよく緑を配置するとよいといいます。
ドイツの園長室
そして、子どもと環境の関係と同じで、そこにあるからいいのではなく、「主体的に植物にかかわること」が大切であることから、自分のデスクなどで植物を自ら積極的に育てる能動的にグリーンとの接することで、心理的な効果(園芸療法的効果)が高まると言われています。そして、各自のデスクに植物を置く時に、自分の好きな植物を選べることや自分で世話をして積極的に植物と関わり合いを持つことでよりその効果は大きくなるといわれています。
それは、植物を自分で世話をすることにより植物に愛着がわきます。そして、世話を怠ると枯れてしまい、枯らさないために穏やかな義務感が生じるため、仕事に集中しすぎる意識がふと緩みます。その際、仕事による過度なストレス状態が少し緩和されることから、ストレス緩和をすることができるのです。
この考え方を保育室にも応用したいものです。
ドイツの保育園のトイレ
投稿者 fujimori : 22:30 | コメント (4)
2009年11月12日 [近頃思うこと]
緑
山に行ったときに、とてもすがすがしい気分になります。目の前に一面の緑があるからです。
それに比べて、都会に行くと目に入るのはビルばかりです。緑は点々としか目に入りません。しかし、私の園は、テラスに出て裏を見ると、視界に入るのは緑に覆われた公園です。そこで、一日に一回はその緑を見たくなります。
目に見える景色を写真に撮ったとします。たとえば、六本木にある毛利公園で写真を撮りました。
その中で緑がどのくらい占めているかで、見た感じ「緑が多くていいですね。」と言われます。このように「見た目の緑の豊かさ」を判断する指標として「緑視率」という数値を使うことがあります。それは、人が認知する緑の量を数値化したもので、人の視界にどれだけの量のグリーンが入ってくるかを%で表したものです。たとえば、屋外では、商業地や市街地の緑視率はおおむね0~10%、庭木が整備された住宅地の緑視率は10~20%、生け垣が整備された住宅地の緑視率は20~30%、計画的な住宅団地や街路樹が整備された工業地の緑視率は30%以上であると言われています。そして、その緑視率がどのくらいで人は緑が豊かだと感じるかというと、国土交通省調査の資料によれば、屋外では、おおむね緑視率が25%以上だといわれています。
平成17年から18年にかけて国土交通省では、「都市の緑量と心理的効果の相関関係」の社会実験調査を行いました。これは、都市の緑には、日射を遮り地表面被覆を改善するなどにより都市の熱環境を改善する機能があることが認められていますが、そうした物理的効果に加え、人間にとってのうるおい感や安らぎ感を向上するなど、快適性を高める心理的効果としてどうなのかという調査です。その結果、緑視率が高まるにつれ、潤い感、安らぎ感、さわやかさなどの心理的効果が向上することがわかりました。ですから、目に入る緑が多いというだけで、真夏日の不快感をやわらげるのに役立つようです。ですから、緑を多くすることで期待されることは、「清涼感が高まる効果」「アメニティ(快適性)が高まる効果」「疲労感をやわらげる効果」などの心理・生理的効果の期待が高いという結果になったのです。そのほかにも、都市の緑は、「人々をひきつける効果」も期待されていると言われています。
また、屋上緑化の効果に対する期待度は高く、また、9 割の人が屋上緑化を希望しているそうです。それはなぜかというと、「清涼感が高まる」「温暖化をやわらげる」「疲労感をやわらげる」などすべての効果について期待度が高く、「季節の花や緑を観賞する場所」「ガーデニングを楽しむ場所」など花や緑に関わる要望が半数以上を占めたほか、「家族で団らんできる場所」「子どもが遊べる場所」「コミュニティ活動の核となる場所」など、家族やコミュニティの交流の場としての活用も望まれています。ですから、屋上緑化は、単にヒートアイランドの緩和を目的とした緑化空間であるだけでなく、人々のさまざまな活動の場所として求められていることがわかります。
ほかのデータでも、人は緑化空間でストレスの解消、騒音感の減少、季節感の創出、 自然と触れあうことによるやすらぎ感の向上などを得ることが期待できる。視覚効果として、 植物を見たときのリラックス感の向上 し、聴覚的効果として、緑視率が増加すると心理的な騒音低減効果量も増加することが認められています。緑があるだけで、暑さも和らぎ、うるささも気にならなくなるそうです。
投稿者 fujimori : 21:15 | コメント (5)
2009年11月11日 [近頃思うこと]
わが大地
もうすぐクリスマスですが、私の園では、子どもたちへのクリスマスプレゼントは、職員手作りおもちゃです。一昨年は、ブログで紹介しましたが、ネズミのお手玉です。昨年は、園の周りの双六でした。今年は何にしようかという話になりましたが、今、子どもたちの間で伝承遊びとしてけん玉が流行っているので、松ぼっくりを使ったけん玉にすることにして、暇を見ては作っています。
昨日のブログで紹介した黒部に日曜日に行ってきたのですが、トロッコ電車の終点の欅平で、コメツガを見つけました。コメツガの実は、松ぼっくりを小さくしたような形ですので、いくつかを職員にお土産として持ち帰りました。案の定、職員の間では、とてもかわいいと評判でした。

コメツガは、マツ科の樹木ですから、松ぼっくりのような実をつけるのは当然です。秋篠宮文仁親王の印に用いられている栂(ツガ)という木がありますが、これは日本では温暖帯に生息します。それに対して、葉が小さいツガという意味で亜高山帯に自生する亜高山帯の針葉樹林の構成種がコメツガで、日本の特産種です。
日本の自然には、次第に外来種が増えてきましたが、まだまだ日本本来の日本の姿が各地には残っています。その姿を笠木透作詞で「わが大地の歌」に歌いこまれています。私は、この歌が日本を広く見渡している気がして大好きで、以前のブログでも紹介しましたが、今回、コメツガを見て、その歌を再度思い出しました。1番の歌詞には、「から松 こめつが 針葉樹林 かもしか 月の輪熊 走る稜線」と歌いこまれています。コメツガ同様、日本の高原を代表する植物でもあり、秋を彩るものに「カラマツ」があります。長野県の蓼科などの高地に行くと、カラマツ林が金色に色づいて、とてもきれいです。
また、今回訪れた黒部では、よくカモシカを見かけます。カモシカといっても、ニホンカモシカのことで、日本固有種です。日中国交正常化のときに、中国からパンダを送られましたが、そのお礼として日本からは、雌雄1頭ずつが贈られたほど日本を代表する動物です。また、数年前には日本中いたるところで出没し話題になったツキノワグマも日本に生息しているクマです。
2番の歌詞に出てくる日本の風景は、「柿の木 赤土畑 広がる水田 かわやなぎ 青い水 流れる河川」今の時期、秋を彩るものは、紅葉に限りません。里山に行くと目立つものに柿の木があります。柿の木は、葉が赤く、きれいに紅葉しますが、それ以上に枝に点々とのこる柿の実は秋の風物詩です。赤土は火山灰に由来する粘土の一種ですから、火山国である日本の土といってもいいくらいで、関東ローム層も赤土です。この土の色が褐色または赤褐色を帯びているということでそう呼ばれますが、それは、鉄分に富んであるからで、その土で畑を作ろうとすれば、地表に露出して風化したものは、そのまま培養土として使えます。
3番の歌詞には、「かるかや かやつり草 積乱雲 からすうり 月見草」4番には、「かもめどり 黒松 岩礁海岸 かつおどり 海つばめ」が出てきます。この中で、特にからすうりは、初めて見たときに「まっかな秋」をまさに地でいくくらい真っ赤だった印象があります。日本の風景は、本当に美しいですね。
投稿者 fujimori : 22:32 | コメント (4)
2009年11月10日 [旅先にて]
紅葉とトロッコ
日本には、四季を感じる場所が各地にあります。桜の時期には、日本中桜が咲き乱れ、各地の桜の名所がそれぞれいろいろとイベントを行います。すると、今年はどこに桜を見に行こうか、夜桜をどこで鑑賞しようかと迷います。そして、それがブログに登場します。それは、桜自体を鑑賞するというよりも、桜の背景も影響します。都電と桜、お濠と桜、土手に咲く桜、桜の発祥の地の桜、菜の花と桜など日本では様々な組み合わせを味わうことができます。
それはほかの季節でもそうですが、特に、秋の紅葉の時期は、桜とはまた違った楽しみがあります。しかも、紅葉は桜と違って、1本の木というよりも、山全体で味わうこともできます。日に映えて山が燃えるような姿は、とても美しいものです。
今年は、「トロッコ電車と紅葉」を堪能することができました。
「トロッコ」とは、もともとは、トンネルやダム等の工事現場からの土砂や石の運搬などに使用される貨車のことです。トロッコを見ると、乗り込みたくなります。その線路がどこまで続いているかもわからずに。芥川龍之介の「トロッコ」という作品が思い出されます。8歳の少年は、トロッコに乗りたいと思い、ある日土工と一緒にトロッコを押してあげて、そのあと一緒に乗り込みますが、あまりに遠くまで来たことに不安になり、一人で駆けて家に戻るまでの心細さを描いていました。
もうひとつ、最近、マイケル・ジャクソンが亡くなった時にコメントした彼の娘の本当の父親だと名乗ったマーク・レスターが、子どもの頃主演した映画「小さな恋のメロディー」のエンディングは、主人公の男の子と女の子が二人でトロッコに乗り込み、彼方へ消えていくシーンでした。芥川の作品同様、トロッコは、子どもの頃の将来の夢と不安へ誘うイメージがあるようです。
今回乗ったトロッコは、黒部峡谷の電源開発に伴い、その輸送手段として、電源開発が上流に延びるとともに軌道を延長してきた黒部軌道を走るトロッコです。宇奈月温泉から昭和12年に開通した終点の欅平まで、終わりに近づいた紅葉に染まる山々を背景に黒部峡谷を走っていきました。
黒部峡谷は、北アルプスのほぼ中央の鷲羽山に源を発し、長さ86km、標高差3000mを流れ下る黒部川の上・中流域に、切り立った深いV字峡を形成する大峡谷です。昭和9年には、中部山岳国立公園に指定されています。峡谷は、黒部川の浸食によって深く刻み込まれ、黒部峡谷流域の平均斜度は36度と非常に勾配が強く、30度~45度の部分が全体の70%にも及びます。また、黒部川の上流にあたるのですが、流域が豪雪地帯に位置するため四季を通じて非常に水量が多く、流れも速いので、見ていて豪快です。また、とても水のきれいな川としても知られており、黒部川扇状地扇端部の湧水地帯の地下水は、「全国名水百選」にも選ばれています。
また、黒部川は、そのところどころに築かれたダムが有名で、「黒部の太陽」のドラマや舞台化で有名です。昭和36年に完成した黒部ダムが有名ですが、実は黒部川における電源開発の歴史は大変古く、今から85年前に始まりました。「くろよん」と言いますが、ダムが四つあり、トロッコで走っていく途中の「黒部川第二発電所」は富山の建築百選にも選ばれている、戦前、日本の建築界ばかりか土木界でも評判となった名建築です。
投稿者 fujimori : 22:09 | コメント (5)
2009年11月09日 [近頃思うこと]
掃除
ブログで、雑巾がけの話題を出しましたが、小学校時代に雑巾がけをした人と、したことがない人がいるようです。私が小学生のころは、普段、教室の床を雑巾がけしていました。しかし、たいへんなのは、年に何回か、きれいに雑巾がけをして、それまでに積み重なっている油をきれいにふき取ります。その日は、用務員室の前に各クラス用にバケツに入った油が用意されていて、それを教室に持っていって、モップに浸して床に塗り広げます。その日だけは、前の方にあった一段と高くなった教壇も動かして、その下にも塗らないといけないのです。すると、床は、ピカピカに黒光りしてきます。ただ、そのあとは、とても滑るので、滑って遊んでいましたが。今考えると、それはワックスだったのか、何かの油だったのかはわかりませんが、匂いは油のにおいだったことは覚えています。
昔は、拭く場所がいろいろとあり、その場所によって拭き方、拭くための雑巾、薬品を変えていました。今のように、どの場所にも、同じものを使うことはせず、変えていたのは、長い間の生活の知恵だったのでしょう。
ガラスを磨くのも、新聞紙を水に浸けて、濡れた新聞紙を軽く絞ってガラスを拭きます。拭いた後は、今度は乾いた新聞紙でカラ拭きをします。そうすると、思っている以上にピカピカにキレイになります。それは、印刷インクがガラスの汚れを落とし、つやを出してくれるからのようです。また、使い終わった新聞紙は、そのまま捨てればいいので、子どもでも手伝うことができますし、読み終わった新聞を使うということで、リサイクルからエコの意識をつけるにもいいですね。
最近少なくなってきましたが、昔は部屋の大半を占める床材に畳がありました。畳は、大方その上で過ごしますので、ずいぶんと汚れるものです。そこを掃くときには、埃が舞ってしまいますので、水に浸した新聞紙をちぎったものとか、使い終わった茶がらを撒いてから、それらと一緒に掃いていきます。畳を拭く時には、バケツ7分目ぐらいの水に、酢をさかずき1杯ほど入れ、そこに雑巾を浸し、かたく絞ってから拭くといいようです。酢は畳の黄ばみを取るのに効果的です。しかし、畳は水を嫌いますので雑巾は固く絞り、そのあとに乾拭きします。
畳の代わりにフローリングが多くなりましたが、フローリングの床は米のとぎ汁で磨くと、ピカピカになります。とぎ汁の中のぬかの油がつやを出すそうです。そのほか、同じような効果を持つものに、古くなった牛乳もいいそうです。汚れが落ちて、ワックス効果もあり、環境にも優しく、もし子どもが舐めても安心なので、使うといいですね。そのほか、家の前や敷地内に犬や猫に糞をされたときは、糞を取り除いた後、お米のとぎ汁をかけておくと、糞の臭いを消してくれます。そうすることによって、次に糞をしなくなります。犬とか猫は、臭いがするところにまた糞をする習性があるからです。
白木家具や木目家具や柱の汚れを落とすには、大根おろしを布につけながら、こするように磨くと手あか等の黒ずんだ汚れがきれいに落ちます。机にできた輪ジミは、マヨネーズをつけてすり込むようにしてから乾いた布でふくと、きれいに落ちます。マヨネーズは油と卵の黄身の効果ですが、卵の殻を使ってきれいにすることが出来るものがあります。それは、口が細くて、中に手が入らなかったり、スポンジを入れても途中が膨らんでいて、届かないようなビンを洗う時に、卵の殻を利用します。ビンの中に卵の殻1~2個を細かく砕いて入れ、水を3分の1程度入れて、瓶をよく振ります。するとビンの中がピカピカにきれいになります。ガラスのコップは、じゃがいもの皮で洗うときれいになります。急須や湯呑の茶シブは、スポンジに塩をつけて磨くとそのシブはきれいに落ちます。
これから年末に向かいます。大掃除をするときに、昔の知恵を使ってみてはどうでしょうか。
投稿者 fujimori : 21:02 | コメント (4)
2009年11月08日 [江戸文化]
長ーい
小学校の長い一直線の廊下を見ると、なぜか走りたくなるのは子どもなら当然でしょう。すると、週目標に「廊下を走らないこと」とあげられるのも常のことでしょう。最近の学校は知りませんが、どうなのでしょうか。昨日のブログで取り上げたのですが、保存された宇和町小学校の第一校舎の109mの長い廊下を見て、若いカップルがその廊下で雑巾がけの競争をしたところから、この町の「雑巾がけレース」が生まれ、NHKテレビでも取り上げられるほど話題になっています。何かの始まりは、ただいけないではなく、それをどう取り上げるかですね。
保元の乱の頃(1156年頃)に熊野の蕪坂源太という者がいました。彼がたまたま京都の三十三間堂に来ました。ここの正式名は、蓮華王院と言いますが、その本堂は、「三十三間堂」とみんなから呼ばれていました。それは、この建物が東に面していて、南北にのびるお堂内陣の柱間が33もあるという建築的な特徴があるからです。「三十三」という数は、観音菩薩の変化身三十三身にもとづく数を表しています。今で言うと、奥行き22mに対して、南北の長さは、120mもある、とても細長い建物です。建物の端から向こうの端まで眺めると、胸がすくくらいに一直線です。
ここに来合わせた蕪坂は、そこを走ろうと思ったわけではなく、雑巾がけをしようと思ったわけでもなく、武士が台頭してきた時代ですから、その軒下のこちらから向こうまで矢で射てみたら届くだろうかと思って、軒下を根矢(実戦用の矢)で射通して見たのです。これが面白いということになって、この軒下で矢を射ることが流行ったのが「通し矢」と呼ばれる競技です。この話はあくまでも伝説ですが、たぶん、初めはだれかが試しにやってみたに違いありません。
しかし、あまりに天正年間頃からはやりすぎ、文禄4年(1595年)には豊臣秀次が「山城三十三間堂に射術を試むるを禁ず」とする禁令を出したくらいです。「廊下を走らないこと」と同じようですね。しかし、どうも内緒で、秀次自身も弓術を好み、通し矢を試みたらしいです。しかし、そのころは個人的に試していただけですが、雑巾がけと同じように、江戸時代に入ると、それが競技になります。はじめてこの競技の記録が残るのは、「年代矢数帳」〈1651年〉序刊)の中で、1606年、清洲藩主松平忠吉の家臣朝岡平兵衛が、100本中51本を射通し天下一の名を博したと記録されています。以後射通した矢数を競うようになり、新記録達成者は天下一を称しました。
このルールは、お堂西縁の南端から120メートルの距離を弓で射通し、その矢数を競ったもので、矢数をきめて的中率を競う「百射、千射」等があり、江戸時代、殊に町衆に人気を博したのは「大矢数」というルールで、夕刻に始めて翌日の同刻まで、一昼夜に何本通るかを競うものでした。耐久レースですね。また、この競技には、実施には多額の費用が掛かったそうですが、藩が援助していたようです。そして、武芸者の栄誉をかけたものとなり、京都の名物行事となって行きました。
記録に残っている最高記録は、なんと18歳だった紀州・和佐大八郎が1686年4月に打ち立てた、総矢13,053本中、通し矢8,133本です。命中率はもとより、その射った矢の数はすごいですね。24時間での総矢13053本ですから、1分に約9本を射ったことになりますから、その速さ、技術だけでなく、精神力は想像を絶っします。
現在でも、その伝統に因み、「楊枝のお加持」大法要と同日(1月中旬)に行われていますが、場所は軒下ではなく、本堂西側の射程60mの特設射場で行われます。伝統を引き継いであるのは形式だけで、その精神力と気力は引き継いでいないようです。
投稿者 fujimori : 22:37 | コメント (4)
2009年11月07日 [近頃思うこと]
雑巾がけ
最近の子どもたちは、転んだときに顔を床にぶつけてしまって、先に手を床につけない子が多くなりました。また、床に腹ばいになった時に、手で上半身を起こすことが出来ない子も増えてきました。この理由の一つには、0歳児のころに十分ハイハイをしないで、すぐに立ち上がってしまう子が多いからと言われています。早く立ち上がるのが偉いと思ったり、部屋が狭くて、すぐにつかまり立ちをしてしまうとか、保護者が子どものそばにいるために、その木にしがみついてつかまり立ちをしてしまうことなどが原因と言われています。
また、子どもたちは、少しの段差でもよくつまづきます。それは、バリアフリーと言って、いつも平らなところを歩きなれているからです。また、つまづいたときに、とっさに、足が前に出れば転ばなくていいのですが、足がとっさに前に出ません。そして、家具の角などに顔をぶつけたりすることが多いので、家具の角にはゴムが貼られ、最近は、壁や床にもマットが貼られているとこともあるようです。
子どもの事故を防ぐことは大切ですが、それを環境によって防ぐと同時に、自ら防ぐ力からもつけていってあげなければなりません。そのために、園では、5、6歳児は、給食の後に雑巾がけをしています。雑巾がけは、腹筋が強くなること、手を床につくことができるようになること、足が前に素早く出ること、手で上半身を支える力をつけることなどに効果があると言われています。もうひとつ、部屋をきれいにするという動機と意欲が生まれてくるからです。昔から、いろいろな家事をこなすことで、体のさまざまな部分を発達させていました。しかし、やっている本人は、そのような効果を目指していたわけではなりません。きれいにしよう、快適にしようという動機が必要ですが、もうひとつ、子どもたちのモチベーションを高める工夫が必要です。そこで、先生たちは、雑巾がけのリレーのタイムを計り、ある架空の引越センターと競争をすることにしたのです。
実は、愛媛県西予市宇和町で、宇和町小学校の改築の際、第一校舎が現在の高台に保存され「米博物館」が誕生しました。そこには、109mの長い廊下がありました。平成11年、ある二組のカップルがここを訪れました。そして、こう言ったのです。「この長い廊下、ぞうきんがけしていいですか。」という問いに、当日の日直者が対応、快く準備をしてあげます。その盛り上がった様子を聞いた館長以下職員は、この保存校舎を守っていく手段にと、この長い廊下を使っての「ぞうきんがけレース」を開催することにしています。それが、「Z-1」と名付けられています。Zは、いうまでもなく雑巾の頭文字です。レースは、小学生以下、小学生以下の部ダブルス、一般男子ペア以外の組み合わせ、一般女子、中学生以上の女子、一般男子、中学生以上の男子があり、各レースは2人ずつ(ダブルスは1組)で走ります。スタート時は、壁に足を付け(片足で可)スターターの合図でスタートします。そして、ゴールは壁に雑巾が付いた時点で、そこまでのタイムを計測します。フライングは3回で失格。また走路妨害と認められた場合も失格。そして、レースははだしもしくは上履きを着用し、怪我防止のため、膝当て(主催者用意)を着用します。使う雑巾は公式雑巾を使用し、カラ拭きでレースします。こんなレースで行われた結果、2008年の最速記録は、18秒29でした。ずいぶん早いですね。それにしても、同じようなことを考える人がいるものです。
投稿者 fujimori : 22:25 | コメント (4)
2009年11月06日 [新聞記事より]
店内かご
今日の中日新聞に「スーパーの店内かご、客の持ち去り急増」という記事が掲載されていました。内容は、「環境保護の一環でレジ袋の有料化が進む中、県内のスーパーで商品と一緒に店内用の買い物かごを持ち去る客が増えている。レジ袋を買ったり、マイバッグを持参したりするのが面倒な客の悪質な行為で、厳密には窃盗罪にあたる。店側は買い足しのコスト増にも頭を悩ませている。県内にチェーン展開する中堅スーパーは、伊勢市の店舗でレジ袋を有料化した2007年9月以降、買い物かごの持ち去りが急増した。かごに商品を入れたまま店を出る客を注意しても「少し借りるだけ」と開き直られるケースが目立つ。このスーパーのかごの仕入れ値は一個当たり約三百円。担当者は「レジ袋有料化前はかごの買い足しは繁忙期の夏と冬の2回だけだったが、今は回数が増えた。コスト増はばかにならない」と頭を抱える。」
このような行いは、少し前から各地で報告されています。この記事にあるように、「買い物かごの持ち去りは、レジ袋の有料化前にもあった」と指摘されています。しかし、若者の万引き同様、あまり罪の意識がないようですが、このような行為は、窃盗行為に当たります。どのような世代が持ち帰っているのかわかりませんが、「つい」とか「ちょっとだけ」「面倒くさいから」とかいう理由が多く、特にそのものが欲しいからとか、ぜひ自分のものにしたいから、袋が貧しくて買えないからなどという理由ではないところが、なんだか、万引きにも似ていますね。
昨年のニュースで、スーパーマーケットのレジ袋をいち早く有料化している富山県で、そのスーパーの「買い物カゴ」が数カ月で200個なくなった店、毎月10個前後が持ち去られたところもあるというものがありました。 富山県では昨年4月からスーパーマーケット、クリーニング店などでレジ袋を有料化していて、このニュースは、9月のものです。富山県では、日本一住みやすい県ということで、全国で初めて県や業界団体らが一丸となって、有料化運動を盛り上げていました。ところがこんな状態になってしまったのです。
全日本スーパー協会によると、買い物カゴは1個あたり平均400~600円で、取っ手部分が金属製のタイプはもっと高いそうです。また、店名がプリントされていたり、複数の色を使っていれば、もっとします。200個なくなるということは、被害額は十数万円に上るのです。しかし、店長は、金額の問題ではないと言います。「お客様との信頼関係に関わることなので、窃盗罪で訴えるなんて考えていませんよ」信頼関係で成り立っているのです。また、有料化は、何もお金が欲しいからではなく、資源の問題ですので、その意識が薄いのでしょうか。
私の子どものころは、買い物かごをさげて歩く女性の姿をよく見かけました。漫画サザエさんでも、「カツオ!買い物に行ってきて!」と買い物かごを渡すシーンがありました。八百屋さんなどは、欲しい分だけ適当に新聞紙にくるんで渡してくれるだけですので、買い物籠は必需品でした。それが、いつの間にかレジ袋に入れてくれるようになりました。これは、どうもコンビニの登場に関係があるようです。一度、便利を味わってしまうと、なかなか、元に戻すのは大変ですね。便利さは、信頼関係をも、失わせてしまうのですね。
投稿者 fujimori : 22:30 | コメント (5)
2009年11月05日 [近頃思うこと]
保育園におけるマーケティング2
保育園における保育をマーケティングととらえる時、最近定義されている概念を考える必要があります。それは、マーケティングを「組織が変化する社会環境に適応する行為」と考えることです。では、社会環境とは何でしょうか。企業では、変化する環境とは、業界環境、消費者環境、文化的社会的環境、政治的法律的環境などであると言われています。企業はこれらの環境の変化にあらゆる手段を使って適応していこうとし、そのような組織の志向をマーケティングと呼んでいるようです。
保育における業界環境に「待機児増加」「脳科学からの検証」などがあり、消費者環境には、「少子化」「ライフスタイルの変化」「学力低下」「青少年犯罪やニート」「格差社会」があり、社会的な環境として「保育所保育指針・幼稚園教育要領の改定」「地方分権」「民営化」などがあるかもしれません。
このような変化する環境のなかで、子どもたちの発達を保障し、成長を促していこうとするのであれば、子どもの外側での環境の変化に対応しようと努力して、行動を起こさなければ成らず、その努力と行動をマーケティングというのです。
このようなマーケティングは、どのように日本では導入されていったのでしょうか。日本にマーケティングが最初に紹介されたのは、1916年 神戸商高の内池廉吉がアメリカ留学から帰ってきた際にまとめた論文によるものであると言われています。そのころ、日本には現代の流通論の元になった配給論の研究が盛んに行われていました。保育も同様に、行政処分の一つである「措置」という制度の中、公的な配慮のもと運営が行われていたのです。ですから、その当時のマーケティングの概念は、企業では配給の考え方、保育は措置と同一のものと考えられてきました。それが次第に、「顧客をなによりも大事に考え、そのためにマーケティングについて考える」ということになり、日本語訳として、「市場活動」とか「市場開拓」「市場開発」と様々な言い方で表されてきました。そして、マーケティングとは、「企業および他の組織がグローバルな視野に立ち、顧客との相互理解を得ながら、公正な競争を通じて行う市場創造のための総合的活動である。」と1990年に定義されています。
この定義により、「他の組織」という文言によって、営利を追求する企業のための活動だけでなく、その基本的な概念は、自治体や保育園やNPOなどの非営利組織にも適用できるようになったのです。そのために「グローバルな視野」に立たないといけないのです。また、今現在の状況に対しての対応をすることではなく、長期見通しの中で考える必要が出てくるのです。特に、保育という仕事は、まさに、将来、世の中を担っていく人材を育てる先行投資の観点を持たないと、そのつけはあとに来るのです。また、待機児対応を、目の前のニーズだけを見るのではなく、そこに内在している問題を考えないと解消はしていかないのです。マーケティング活動でも、組織と顧客の関係構築の活動と捉えられて、顧客が現在、直接に意識している欲求(顕在化しているニーズ)のみに応える活動を行っていては、長期的な利益と反する恐れがあるため、顧客が意識していない欲求(潜在化しているニーズ)や、長期的に欲求に応え続けられる仕組みをつくるために、「グローバルな視野に立ち」が定義に含まれているといいます。そして、その過程が、組織の一方的な顧客への押しつけではなく、顧客への啓蒙、理解を伴う必要があるために、「相互理解を得」ということも定義に含まれているのです。
ただ、顧客(保護者)の利益を考えているだけがマーケティングではないことを、保育界の人も知るべきです。
投稿者 fujimori : 22:07 | コメント (4)
2009年11月04日 [近頃思うこと]
保育園におけるマーケティング
日本マーケティング協会のHPでは、マーケティング(marketing)とは、企業や非営利組織が行うあらゆる活動のうち、「顧客の欲求と満足を探り、創造し、伝え、提供することにより、その成果として利益を得ること」だと説明されています。
保育所保育指針には、保育の目標として、「入所する子どもの保護者に対し、その意向を受け止め、」と書かれてあります。これは、ある意味でマーケティングですが、保育園の難しいところは、誰が顧客かということです。「顧客の欲求と満足」とは、誰の欲求と満足を図るのかがよく議論になるところです。顧客が「保護者」なのか、「子ども」なのかです。もちろん、子どもでなければなりませんが、保護者はその代弁者というとらえ方をしています。ですから、保育所保育指針の中の保育の方法では、「一人一人の保護者の状況やその意向を理解、受容し、それぞれの親子関係や家庭生活等に配慮しながら、様々な機会をとらえ、適切に援助すること。」と書かれているように、「保護者の欲求」と書かれてはなく、「保護者の意向」という言葉になっています。そして、欲求では答えるとなるところが、「理解」「受容」するという言葉になっています。では、欲求という言葉は、どこに使われているでしょうか。保育所保育指針の中では、情緒の安定の内容のところに「子どもの欲求を適切に満たしながら、応答的な触れ合いや言葉がけを行う。」ということが書かれてあります。これが、保育園の本当のマーケティングかもしれません。
この「応答的な」ということをマーケティング理論から考えてみました。なぜ、研究領域としてのマーケティング理論が成立したのかというと、それまでは、経営は、企業家の勘や経験に依存していました。しかし、客観的に、誰にでも取り入れらるように構築していくことが求められてきたのです。これは、保育園で言うと、「保育課程」になるのかもしれません。
日本マーケティング協会の定義と違って、アメリカマーケティング協会(AMAでの定義では、「マーケティングとは、個人および組織の目標を満足させる交換を創造するため、アイディア、財、サービスの概念形成(コンセプト)、価格、プロモーション、流通を計画・実行する過程である」とされています。この中で、私は、目標を満足させる交換を創造するために「アイディア、財、サービス」の「コンセプト」が必要というところに納得します。しかも、これらマーケティングが必要なのは、「個人および組織」としているのは、企業という営利組織に限らず、営利活動を前提としない個人の活動や非営利組織においても考える必要があるということなのです。「交換」という言葉は、Tradeという商取引を意味するのではなく、Exchangeという言葉を使っているのは、他者との交換(かかわり)を創造するすべての活動が想定されている概念です。ですから、アイディアが必要になるのです。このように考えると、まさに保育園における保育にもその考え方が成り立つのです。
企業やその他の組織の目的は存続と成長があります。ここにも保育園にも言える概念があります。あらゆる組織は変化する環境の中に存在している。この変化する環境の中で永続的に存続と成長を志向しようとすると、変化する環境に適応する行動が必要となるといわれています。マーケティングはこれらの環境変化への適応を志向する概念であるといわれています。環境の変化に適応できなければ存続も成長もできないというのです。
保育園などでは、存続は変わらないことと思われているところがあります。保育園の民営化のときなどに「保育を変えないでほしい」という要求がされることがありますが、これではかえって子どもの姿を存続できないのです。マーケティングの世界では、閉鎖的、孤立的に自給を続けることによって存続と成長を志向することはできないとされ、外部環境の変化を察知し、それに適応できるように自らをコントロールしていくことがマーケティングの本質だともいわれています。
投稿者 fujimori : 20:23 | コメント (5)
2009年11月03日 [近頃思うこと]
閉店
園のそばで、私が毎日通勤する道の途中のビルの1階に空き家がありました。その場所は商店街ではありませんが、割と人通りがあります。そのうちにその空き家を改装し始めました。外観はなんだかしゃれていて、厨房があり、いいレストランができるといいなあと期待をしました。そのうちに内装が始まり、やはり食べ物屋のようです。外にはネオンによる掲示板が取り付けられました。出来上がってくると、どうも洋風な居酒屋のようです。店内にはオーナーらしき人がいます。小学生らしき子どももいて、多分、父親がいつか自分の店を持つのが夢だったのがやっと実現するという雰囲気です。すべてきれいに完成し、いつ開店するだろうと思っていると、数ヶ月間もそのままです。ネオンも点灯しません。そのうちに、その店舗がシートで覆われました。どうしてだろうかと思っていると、そのシートの中でせっかくきれいにつくった店舗を、すべて壊し始めたのです。最近、もう骨組みだけで、先日は壁材を運びこんでいました。
こんな光景が東京ではよく見かけられます。しかし、開店前にもう取り壊し始めるのはどうしたのでしょうか。店が壊されていく過程は見ていて、主人の夢が壊れていくのを見ている感じです。また、新しい内装が壊されていくのを見るともったいない気がします。壊されたものはいくら新しくても廃棄物でしかなくなります。しかし、もし無理して開店しても、また、せっかく作っても、今後ただ赤字が増えていくのであれば、早い決断が必要なのかもしれません。
最近、政権が交代していろいろな事業の見直しを見ていると、ダムにしても、空港にしてもなんだか似ているような気がします。すぐに閉店している店舗を見ても、政府の箱モノを作っていく事業を見ても、計画の時点できちんとマーケティングをしたのだろうかと思ってしまいます。
マーケティングという言葉は、市場で取引するという意味の動詞「マーケット(market)」から派生した動名詞で、20世紀の初め、アメリカで使われ始めた造語のようです。どうしてそのような言葉が生まれて言ったのでしょうか。当時のアメリカは、工業先進国であるイギリスやフランスと違い、植民地がなく、海外に市場を持っていませんでした。工業製品の生産力が向上してくると、それらの製品をどこで、どのように消費していくかが問題になります。そこで、国内でのシェアを巡って各企業間で激しい販売競争が繰り広げられていきます。しかし、市場で飽和状態になってくると在庫が増えてきます。その処分などが課題になり、「シェア拡大のための戦略的な販売活動」や「新たな需要創造」が経営手法の中で必要となってきました。その経営手法の概念を「マーケティング」という言葉であらわすようになったのです。
そして、ただ競争原理だけを基にすると価格競争になり、結局は自分たちの首を絞めることにもなりかねません。そこで、巨大企業間で価格競争を回避するような協調なども行われるようになっていきます。しかし、しかし、マーケティングが単に企業の利益追求のためだけを考えていたら限界があります。そこで、消費者の意思を取り入れ、「消費者ニーズやウォンツを探り、それらに応える活動」というように変化してきたのです。
マーケティングとは、営利企業であろうが、非営利組織であろうが必要な活動です。もう少し考えてみたいと思います。
投稿者 fujimori : 20:26 | コメント (4)
2009年11月02日 [近頃思うこと]
壁
昨日は、こんなニュースが流れました。「東西ドイツを分断していた「ベルリンの壁」崩壊から20年を迎えるのを前に、現地では31日、コール元独首相とブッシュ元米大統領、ゴルバチョフ元ソ連大統領が出席して記念式典が開催された。3人は、1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊した当時の首脳。コール元首相は「われわれドイツ人は歴史的に誇れるものはあまり多くないが、ドイツ統一については多いに誇れる」と語った。」
ベルリンの壁が崩壊して、もう20年が経つのですね。その時の首相たちもずいぶん年をとったものです。
壁というものは、空間を仕切り区画を形成するために設けられる、垂直方向に立つ構造物であると定義されますが、このベルリンの壁のように、区切ってしまうのは、空間だけでなく、親兄弟も、仲間も、人の心も分けてしまうことがあるのをこのベルリンの壁で体験しています。また、必ずしも壁は、構造物だけでなく、人の心にも見えない壁を作ってしまうことがあります。
日本では、家の周りを壁で囲んでしまうことが多いようです。不審者対策ということもあるのでしょうが、学校でも周りを壁で囲みます。外国に行くと、校庭と地域の道との間が何の仕切りもないことが多く、個人住宅でも、自分の庭と隣の家の庭がつながっているのをよく見かけます。そのような外の空間を分ける壁は、「塀」と言ったり、「垣」を使って、「石垣」や「生け垣」などといいます。また、木製の柱を数本立てて、貫を通して遮断するものを「柵」といいます。しかし、この柵は隙間があり、向こうを覗くことができますが、表面が塗り固められている物には「壁」や「塀」というようです。
この時、何で塗り固めるかによって、いろいろな壁があるようです。以前のブログでも書きましたが、寺子屋では、子どもの気持ちを落ち着かせるために緑の生け垣で周りに壁を作ったとある資料に書かれていました。今は、環境にやさしいということで、緑の生け垣に補助金を出しているところがあるようです。
今回訪れた京都の蓮華王院(三十三間堂)の境内南端に南大門がありますが、これは豊臣秀吉が1595年に造立した大仏殿方広寺の南門として築いたものと伝えられています。それに続く築地塀は、瓦に太閤桐の文様を用いていることから、通称「太閤塀」といわれているものです。築地塀(ついじべい)とは、土を突固め、上の屋根をかけた土塀で、宮殿・社寺・邸宅に用いられる塀のことです。この太閤塀は、桃山時代に造営されたもので、重要文化財になっていますが、桃山文化の影響をにじませた優雅さがあり、南大門と素晴らしい調和を見せてくれます。

以前、熱田神宮に行ったときに、その境内の目立たないところに「信長壁」という壁の一部がありました。今は、壁の役目はしていませんが、桶狭間の戦いで勝利した織田信長が、後に戦勝祈願の満願として、この壁を奉納したということで「信長壁」と名付けられています。

この壁ともう一つ西宮神社大練塀を入れて日本3練壁というそうです。練塀とは、塀の中に瓦を横に並べて入れた土塀を特にそう呼ぶそうです。ここの壁は見たことがありませんが、室町時代初期再建で、日本最古の築地塀だそうで、重要文化財に指定されています。
あと、東京にも築地壁が残っているところが何箇所かあります。たまたま港区の三分坂を歩いていると、その坂の途中にきれいな築地塀がありました。塀もなかなか面白いものです。
投稿者 fujimori : 20:33 | コメント (4)
2009年11月01日 [講演先にて]
古典
京都の街を歩いていると、目につくポスターがあります。そこには、俳優の児玉清さんとヴァイオリニストの玉井菜採さんが手に本を持っている写真です。そして、その写真の真ん中に「11月1日 古典の日」と書かれたあり、右端には「古典をいだき」左端には「古典に抱かれて」と書かれてあります。この「古典の日」は、昨年、京都で宣言されたようです。
私は常々、古典とはなんだろうかと思っていました。たとえば、森鴎外や夏目漱石の作品は古典なのだろうかと思っています。中学校学習指導要領の国語には、「古典の指導については,…その教材としては,古典に関心をもたせるように書いた文章,易しい文語文や格言・故事成語,親しみやすい古典の文章などを生徒の発達段階に即して適宜用いるようにすること」のみ書かれてあり、何を使うかは書かれてありません。では、教科書では何を取り上げているかというと、1学年では、どの教科書でも取り上げているのは「竹取物語」で、あと枕草子、伊勢物語、源氏物語、土佐日記、梁塵秘抄、宇治拾遺物語などです。2学年になると徒然草、平家物語が加わります。3学年では、おくのほそ道が多くなります。こうして見ると、森鴎外とか、夏目漱石は古典ではないようです。
では、「古典の日」における「古典」とは何かというと、「風土と歴史に根ざしながら、時と所をこえてひろく享受されるもの。人間の叡智の結晶であり、人間性洞察の力とその表現の美しさによって、私たちの想いを深くし、心を豊かにしてくれるもの。いまも私たちの魂を揺さぶり、“人間とは何か、生きるとは何か”との永遠の問いに立ち返らせてくれるもの。それが古典である。」
これではよくわかりませんが、この日の11月1日はどんな日かみると、古典の代表は「源氏物語」においているようです。古典の日のHPでは、源氏物語のことをこう言っています。「1千年前、山紫水明の平安の都に生まれたこの作品は、文学はもとより美術、工藝、またさまざまな藝能に深い影響を及ぼし、日本人の美意識の絶えることのない源泉となってきた。1930年代に英訳されて以来、近年では、20余の外国語に翻訳されて、世界各地の人々に愛読され、感銘を与えている。」
この源氏物語が、「紫式部日記」の1008年11月1日の記述に、紫式部に対して藤原公任が、「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」と語りかけたとあり、その「若紫」とは源氏物語の登場人物であるので、源氏物語が歴史上はじめて記録されたということで、その記述からちょうど1000年たった2008年11月1日を古典の日ということで、京都府などを中心に立ち上げられた「源氏物語千年紀委員会」が11月1日を「古典の日」とすることを提案したようです。
同委員会では関西経済連合会などと連携して3年後を目処に「古典の日」を国の制定する記念日とすることを目指して政府や国会議員に働きかけることにしており、将来的には国民の祝日とすることをも視野に入れているようですが、どうでしょうか。
先日、「古典の日」にちなみ、鎌倉時代に書かれた古今和歌集の文面などをあしらったオリジナル切手が発行されました。図柄はいずれも、歌人・藤原定家らを祖とする京都・冷泉家に伝わる国宝などの所蔵品です。今後、「古典の日」をどのくらい国民全体が認知してくるでしょうか。