片倉

 私は、パチンコとかゲームをやらないので、そこに登場する歴史的人物の中で誰が格好良くて、誰がハンサムかは分かりません。しかし、昨日のブログで取り上げた片倉小十郎がそんなに人気があるのは、活躍が素晴らしいというよりも、イケメンだったのかもしれません。
 先月の初め、仙台藩の重臣片倉小十郎が居住した宮城県白石市の白石城で、第2代小十郎重長(1584?1659年)の武勇をたたえる「鬼小十郎まつり」が開かれ、大勢の歴史ファンらでにぎわったというニュースが流れています。ここでは、メーンの「片倉軍VS真田軍決戦」では、重長が「鬼小十郎」の異名を取った大坂夏の陣の合戦「道明寺の戦い」を再現し、エキストラには、市内をはじめ仙台や関東から集まった約100人が武者姿で出演したそうです。中には、片倉軍には片倉鉄砲隊や白石女高弓道部、真田幸村率いる真田軍には仙南広域消防本部やホワイトキューブ新体操教室のメンバーも参加しています。
 このイベントを見ると、人気のあるのは、片倉家初代の片倉小十郎景綱ではなく、その嫡子2代目の片倉小十郎重綱(重長のこと)のようです。重綱率いる片倉隊は、大坂夏の陣のとき、90を超える兜首を揚げ、翌日も大坂方と対戦し60の首級を揚げたため、この武功により、重綱自身、鬼小十郎の名を馳せ、天下に片倉隊、伊達勢日本一の評価を受けることとなったのです。 そして、大阪城は落城したのです。
 その時の戦いは、大坂方の名将とうたわれた真田幸村と伊達軍の片倉小十郎重綱との戦いでしたが、その日の夜、死を覚悟した幸村は娘の阿梅に自分の戒名を持たせ、片倉小十郎重綱に預けたとされています。そして、彼は阿梅を後妻として迎えいれます。敵将からも片倉家は認められた武将だったことが伺えます。大坂の陣の後には、重綱は妻の弟と妹を保護し、真田幸村の遺臣も家臣として召し抱えました。そして、片倉重綱は四代将軍徳川家綱の字を避けて重長と改名しましたが、武勇に優れ、情も深い武将として今にその名を残していて、人気があるようです。
この2代目白石城主・片倉小十郎重長については「史実」として、そのイケメンぶりが伝わっています。「片倉代々記・重長譜」によると、小十郎重長が17歳のとき、「金吾中納言殿、重綱(重長のこと)容色の美なるを御覧せられ、御恋慕あり」とあります。この 金吾中納言とは小早川秀秋のことで、秀吉の甥でありながら、関ケ原の戦いで徳川方に寝返ったために、豊臣方が敗戦してしまったことで有名な微笑です。彼が、重長の「容色の美」を見て「恋慕」したと書かれてあるそうです。
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また、片倉家初代景綱の姉「喜多」は政宗公の幼少時代の保育係で政宗の人格、思想に大きく影響を与えた賢婦人です。喜多の考案で、「天下にその名を鳴り響かせよ」ということで、「黒釣鐘」を片倉家の旗指物としました。この「黒鐘」は、現在の白石市の市章にもなっています。彼女は、政宗が成長した後は正室の愛姫付きとなりました。そして、豊臣秀吉の人質となった愛姫と共に京へ上洛します。ところがその直後に政宗の勘気をくらい、蟄居し、異父弟・景綱の在所である白石で出家して庵を結び、そこで生涯を終えました。
知らない歴史にその地方に行くことで触れ、それらがどこかでつながっていくことを知ることで、自分の中の歴史がつながっていきます。歴史は、覚えるものではなく、今につながっていることを知ることかもしれません。

白石

いつからか「歴女」という言葉が聞かれるようになりました。その前には「鉄子」という鉄道好きな女子が話題になりましたが、この歴女とは、「歴史好きの女子」という意味です。この背景には、どうも「三国志」や戦国時代をテーマにしたゲームや漫画が増え、また、パチンコなどの題材に使われて歴史に出てくる人物に興味を持ち、原作本を読み始めて「歴史通」になる女性が増えてきたのではないかと言われています。刷り込みかもしれませんが、歴史や鉄道が好きなのは、男子が多いような気がしていましたので、特に最近のこの傾向が注目されるのでしょう。
今日訪れた宮城県白石市は、新幹線の白石蔵王駅を降りた所から旗がひらめいていました。その旗には、「俺が行かずば誰が行く 伊達の先陣 片倉小十郎」と書かれています。タクシーの運転手さんに聞くと、最近は、仙台の伊達政宗に劣らず歴女に人気のあるのがこの「片倉小十郎」だそうです。彼は、伊達政宗の重臣で智将の誉れ高く、慶長7年(1602)に白石城主となっています。
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この白石城の歴史は古く、1091年に藤原秀郷から五代目の藤原経清の次男経元が後三年の役で源義家に従って奥州清原氏を討伐した功績により、苅田と伊具の2郡を与えられ、姓も苅田と改めて居館を築いたのが始まりです。そして、苅田氏五代秀長は源頼朝の奥州征伐に従って白石氏と称したのが白石の始まりです。その後、戦国時代には伊達氏の勢力下でしたが、豊臣秀吉が奥州仕置で伊達氏の支配下であった白石の地を没収して、会津若松城主蒲生氏郷に与えました。蒲生氏郷はこの地に新たな縄張りを行い、三層の櫓を構える本丸や二の丸・三の丸などを築き、重臣の蒲生郷成を城主としたのです。
しかし、1598年に蒲生氏郷の子の秀行が宇都宮へ移封されると、会津若松には越後より上杉景勝が入封します。そこで、景勝は家臣の甘粕清長を白石城主にしたのです。この甘粕清長は、NHK大河ドラマ「天地人」では、パパイヤ鈴木が演じていた役柄で、越後上田衆のひとりです。しかし、慶長5年(1600)関ケ原の合戦前夜、上杉景勝討伐に赴いた徳川家康の命を受け、伊達政宗が白石城を攻略し、留守の隙を突かれてふたたび伊達政宗に白石城を奪われてしまいます。そして、片倉小十郎景綱が白石城主となったのです。
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戦いの後、白石城は政宗の側近中の側近、片倉小十郎景綱が城主となります。
彼は、政宗の知恵袋、用心棒、相談相手とまさに伊達政宗の右腕であり、その人物は徳川家康も認めることとなり、元和の一国一城令以後も、仙台伊達藩は特別に仙台城と白石城の2城が許され、片倉氏は伊達氏の陪臣ながら白石城主として11代が世襲して明治維新を迎えます。そして、また、この白石城が歴史の表舞台に登場してきます。戊辰戦争の時です。明治元年、江戸城が無血開城すると、奥州14藩の重臣たちは白石城に集まり、政府に会津若松藩救済を願い出ることにしましたが、官軍はこれを退けてしまいます。そこで、仙台藩士が官軍の参謀であった世良修蔵を暗殺したのを受けて、再び奥州列藩の重臣たちが白石城に集まって同盟条約を結びます。そして、白石に公議所を設けて官軍に対抗しますが、戦端が開かれると二本松城以下が陥落したために白石公議所は解散、そして、会津若松城も開城し、奥州はたちまち平定されてしまいました。
現在、白石城は、三階櫓は伝統の建築様式に基づいて木造で復元され、最上階に上れば、城下町白石の町並みが一望でき、遠く蔵王連峰も望むことができます。
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 生き物は、不思議な遺伝子を持っています。特に、人間はとても複雑で、自分のことでありながら、その働きは解明されていないことがほとんどです。ですから、いくら文明が進んだとしても機械であるロボットでは、人間に近づくことは程遠い道のりです。たとえば、人間の1歳児のころの動きの真似をするだけのロボットを開発するのにも何数十年かかるでしょう。それを、人間は数カ月で獲得してきます。
 赤ちゃんの運動機能は頭に近いところから始まり、首、腕、腰とだんだんに下がっていきます。また、体の中心から末端のほうに向かって進んでいきます。それは、事実としての発達ですが、なぜそのような発達を遂げていくのかを考えてみると、人は何のために生きるのかにぶち当たります。まず、基本は、どの生物でも同じですが、自分たちの遺伝子を子孫に残そうとします。そのために当面は、敵や災害から身を守らなくてはなりません。自分に近づいてくるものが敵か味方か、判断しなければなりません。ですから、最初は、まず目でものを追う追視ができるようになります。この行動は、のちに直立して歩くために条件である首のすわりの準備です。
赤ちゃんは新生児のころから準備がはじまります。生後3ヶ月ころまでは、大きな音にびくっとしたり、聞き慣れた声を聞くと落ち着くようになります。そして、次第にその声がする方に顔を向けようとするのです。生後3か月のころから音のする方へ顔を向けようとしたり、音のする方を目で追おうとします。ですから、ガラガラなど、音のする玩具を喜ぶようになります。それは同時に、首がだんだんとしっかりしてきたからです。そして、うつぶせで首をわずかに左右に動かすようになります。次に、少しあごを上げられるようになります。さらに月齢が進むと、あごを上げたままの状態で、自由に首を動かして左右を見ることができるようになります。こうなって初めて首すわりが完成したと言えます。このように首が自由に動かせるようになっていくのです。
 人は、何かを近付くことを知ろうと、音のする方に顔を向けるようになります。それは、自分に危害を加えるものかどうかを確かめる意図もあると思います。そして、その能力は、大人になっても、身を守るときに必要なものです。後ろから大きな音がすると、急いで振り返って、それが何かを知ろうとして、危険だとよけようとするのです。もし、忍者がそっと近づいてきたらわかりません。
 後ろから車が近付いてきたとき、その音で気がついて振り向き、脇によけます。しかし、最近ハイブリッド車や電気自動車は、構造的に音がしなくて危険と感じるという意見が、自動車ユーザーや視覚障害者団体等から寄せられています。そのため、国土交通省では「ハイブリッド車等の静音性に関する対策検討委員会」を開催し、対策のあり方について検討を行っています。7月に行われた第1回の会議では、「何らかの対策は必要であろう」という方向性が出されています。それを受けて開催された第2回目では、実際にハイブリッド車や電気自動車を走行させて、「どの程度気がつきにくいものか?」「どのような対策をすればよいのか?」という部分を体験したようです。そして、11月5日には、「疑似エンジン音の義務化」を軸にする対策案を発表しました。現在同省は一般からの意見を募っていますが、どうでしょうか。エコカーは、環境保護だけでなく「静音性」というメリットも生み出したのですが、人間というのは、難しいですね。ただ、現在のところ静音性を原因とした交通事故は発生していないし、エンジン車とハイブリッド車との間で事故発生率にも違いがないようですが。

ロボット

今月の25日から明日の28日まで東京ビッグサイトで、世界最大級のロボット展示会「2009国際ロボット展」が開催されています。この展示会の開会式では、ヒトの上半身とほぼ同じサイズのヒューマノイド(ヒト型)ロボットがハサミを使ってテープカットをしました。展示ブースでは、様々なロボットが展示されているようですが、それらのロボットについてのニュースを見るたびに、ずいぶんと進んだ科学技術に感心すると同時に、どのような作業がロボットが人間に代わってやるようになり、どのようなことは最後まで人間にしかできないのかを考えてしまいます。
それに先立って今月初めに、大阪市西区の京セラドーム大阪で「ロボカップ・ジャパンオープン2009」が開かれたことがニュースで流れました。ロボカップは95年に構想が発表された国際イベントで、2050年までにロボットのサッカーチームを結成し、サッカーワールドカップの優勝チームに勝利するという目標を立て、世界の研究者がロボット工学や人工知能の開発をしているものです。そして、97年から毎年世界大会が開かれ、世界35カ国4000人以上の研究者が参加しているそうです。私が平成13年に新領域部門でグッドデザイン賞を受賞したときに、その部門の大賞候補になったのですが、ほかに4つ候補があり、そのひとつがこの「ロボカップ」でした。ワールドカップも、ロボットがやるのを観戦するようになるのですね。
今回展示されているロボットにも、スポーツをやるものがあります。サッカーだけでなく、野球の世界でもロボットが活躍します。「バッティングロボ」は、1秒間に1000枚の画像を処理できる高速カメラで飛んでくるボールを検知して、バットで打ち返す「究極の打者」の登場です。人間が軌道を予測してボールを打つのと異なり、1000分の1秒ごとにボールの位置を認識し、0・2秒でバットの軌道を調整します。「どんな球でも空振りせず、狙った方向に打ち返せる」といいます。また、人間相手にピンポンをするロボットや、最終日には2足歩行ロボットによる格闘技大会「ROBO?ONE GP」が開催されるということです。また、「スケーティングロボット」は、インラインスケートを履いた2足ロボットで、センサーでバランスを取り、人間と同じように滑ることを目指しているそうです。今後、アイススケートで、4回転ジャンプをするロボットも現れるでしょう。これからのスポーツ観戦も、人間の限界への挑戦か、スポーツの華麗さ、激しさを観戦するかでロボットの競技は増えるかもしれません。
実用的なものも紹介されています。掃除などの家事を人間に代わってするロボットや、人間の身体能力を強化する着用型ロボットなどのユニークな新技術が紹介されています。これは、「マッスルスーツ」というもので、このスーツを着用した人が50キロのコメ袋を軽々と持ち上げられます。空気圧を調節してゴム製の「人工筋肉」を収縮、腕や腰の曲げ伸ばしをサポートする仕組みです。今後、人間が強く力を入れなくても重い物を簡単に持ち上げられるために、高齢者や身体障害者の動作を補助したり、工場での労働の身体負担軽減などに役立つことが期待されています
あと、目立つのは、癒し効果のロボットです。ぬいぐるみのような外観のアザラシ型ロボット「パロ」は、デンマークの福祉施設などで導入されていますし、高齢者を和ませる「赤ちゃん型ロボット」とか、パンダ型の「Toccoちゃん」を開発中です。「Toccoちゃん」は、頭部にセンサーがあり、頭をなでると「じゃんけんしようよ」と持ちかけて、「グーしかだせないんだった」と話したりして人を和ませるようなロボットです。

ご当地おでん

 文化は、長い時代を経てつくられ、つながってきたものが多いのですが、新しく作られていくものもあります。また、文化とは有形、無形を問わず、また、科学・芸術分野だけではなく、様々な分野にあります。たとえば、食文化です。
先日の新聞記事に、こんな記事がありました。「地元産の具材にとろろ昆布を乗せた「富山おでん」を県の新たな名産品にしようと、東京・有楽町にある県のアンテナショップ「いきいき富山館」などが売り込んでいる。ご当地おでんはブームになりつつあり、県内での知名度も上げようと富山駅や富山空港など観光客が集まる場所で販売が始まった。」
私は、このアンテナショップに行ったことがありますが、そのときは、店頭で「ホタルイカ」の販売をしていました。そこで、今、「おでん」を売り出そうとしているようです。ここに書かれてあるように、今、ご当地「おでん」がブームのようです。その特徴は、ひとつには「だし」にあり、もうひとつは「具」にあります。「富山おでん」と呼ばれる条件は、味付けは自由ですが、県産の具材を1品以上使うことだそうです。たとえば、普通のおでんにとろろ昆布を乗せたものであったり、大根や卵などの定番に、甘エビやシロエビのつみれ、こんにゃく田楽「あんばやし」が入ったものなどです。
 その中で、とろろ昆布を乗せたものは、県内では、しばしば見られる富山流のおでんの食べ方であり、熱々のご飯に乗せて食べれば、汁を捨てなくて済むということもあるようです。それが、記事によると、今年初めに酒席で盛り上がった勢いで、ご当地おでんに名乗りを上げることになり、発起人会ができたということです。今年の4月に全国のご当地おでんが集まる「小田原おでんサミット」(神奈川県)で、2日間で1700食が完売したこともあり、「酒との相性もぴったり」と売り込みはじめたようです。
 ご当地おでんとして有名になったのは、黒はんぺんで知られる「静岡おでん」です。このおでんは、私は食べたことはないのですが、もうひとつ有名な兵庫県の「姫路おでん」を、少し前に姫路に行ったときに食べてみました。姫路おでんの定義は、これからはっきりと決めるようですが、今のところは、「生姜醤油で食べるおでん」だそうです。
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どうして、おでんに生姜醤油をかけるかというと、起源についてはいろいろな説があるようです。最初は、戦中戦後の食糧難の時代に煮込み過ぎて味が抜けてしまったおでんの味を補うために、生姜醤油をかけるようになったという説(闇市発祥説)がこれまで一番有力でしたが、現在は、昭和初期に姫路の浜手地域で、甘辛い関東煮に生姜醤油をかけて味を調整して食べたのが始まりではないかと言われています。また、姫路は西の龍野市(現:たつの市)にかけて古くから現在も醤油の産地です。そして、白浜が昭和の初め頃生姜の産地だったとされており、それぞれの地場産業が生活の知恵として、ブレンドするとおいしくなると発見し、食習慣になったのではないかとも考えられています。
「おでん」という名前は、もともとは、室町時代に出現した味噌田楽からきています。その田楽は、具を串刺しにして焼いた「焼き田楽」と、具を茹でた「煮込み田楽」がありました。のち、煮込み田楽が女房言葉で田楽の「でん」に接頭語「お」を付けた「おでん」と呼ばれるようになり、焼き田楽は単に田楽をさすようになったのです。
文化をもう一度引っ張り出して、今によみがえらせ、新しい文化にしていくのは、また人間に知恵かもしれません。

島全体

 金印を見た福岡で、もう一か所どこを見たいかということで、「日本海海戦」の舞台の玄界灘を所望しました。数年前に、博多から北九州に向かう途中で食事を海辺の食堂でしたときに、目の前の海を指さして「あそこの沖ノ島沖でバルチック艦隊を確認したのですよ」と言われたときに、まさに司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」の中の、その場面を読んでいた時だったのです。その発見後、日本艦が合流し、戦闘開始を命令したのです。その時の信号簿でZ旗に有名な文言「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」という文言が割り当てられていたのです。
その時の戦いを沖津宮の神官に仕えていた佐藤市五郎が、両艦隊の乗組員以外で同海戦を目撃した数少ない人物の一人です。この沖ノ島の沖津宮は、筑前大島の中津宮、宗像市田島の辺津宮とともに宗像氏が信奉した「宗像三女神」と呼ばれる三人の女神を祀っており、その総称が「宗像大社」です。
 興味深いことに、この辺津宮から大島、沖ノ島を延長すると、対馬の北部を経て、韓国の釜山を見通す線上に並びます。
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海辺の松林に立つと、沖の島は遠く望めませんでしたが、目の前には大島が浮かび、その向こうに沖の島があると思うと、なぜかわくわくしました。この海の道は、古代から半島と大陸の政治、経済、文化の海上路であり、掌握したのが宗像氏で、三女神を祀る神官と考えられています。
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 九州全土、特に宗像地方を中心にこの沖ノ島を、エジプト考古学者の吉村作治が提唱し、世界遺産にする運動が行われており、そのポスターが宗像の道の駅に張ってありました。今年の1月5日に「宗像・沖ノ島と関連遺産群」の構成遺産の一つとして、世界遺産暫定リストに追加掲載されているそうです。なんだか、こんな地味な島がどうしてかと思ってしまいます。ポスターによると、この沖ノ島は海の正倉院と称されるほど、発掘調査が行わた結果、23の古代祭祀跡から約8万点の神宝類が出土し、その古代祭祀遺物すべてが2006年に国宝に指定されています。
 この島は、基本的には無人島ですが、現在は沖津宮の神官が交代で常時滞在しているそうです。そして、島全体が御神体ですので、現在でも女人禁制の伝統を守っているのだそうで、男性であっても上陸前には禊を行なわなければならないそうです。17世紀前半、黒田藩が沖ノ島に防人をおいたことから発見されたのですが、島についての情報は一切口外が許されなかったようです。島の様子が知られるようになったのは、日本海海戦がおこなわれた日露戦争の時に、陸軍の防衛基地が設置されてからです。
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 道の駅の壁に張られた国宝は、教科書に載っているものが多く、ここで見つかっていたのだということを初めて知りました。たとえば、中国 魏の時代(1700年前)に造られ渡来した青銅製の鏡。神様と動物の模様が刻まれている「三角縁神獣鏡」、朝鮮 新羅の時代(1400年前)に造られ、渡来した純金製の指輪である「金製指輪」、日本の古墳時代(1400年前)に造られた馬具の一種で祭礼の時 に馬の胸や胴を飾る豪華な装飾品である「金銅製杏葉」など約12万点に及ぶ貴重な古代祭祠神宝が出土しています。また、史跡だけでなく、自然においても島内は、天然記念物である亜熱帯植物が群生しており、一木一草たりとも、島外に持ち出すことは古来よりタブーとされ、現代も、その精神は、脈々と引き継がれています。
 不思議な島です。

文化の伝承

 子どもたちを文化的環境の中で育てるということは、子どもたちには、次世代に文化を受け継いでいってもらわなければならないからです。
 日本の文化というのは、どのような文化でしょうか。日本独特の文化とは、必ずしも日本で生まれた文化ということではありません。どこかで生まれ、何かの形で日本に伝わり、それが長い間に日本の風土に合ったものに変化し、日本独特の文化となっていくのです。もちろん、日本で考えられたものもあるかもしれませんが、それが、やはりほかの文化と融合したり、影響し合って成熟していくのです。ですから、ある意味では、文化とは、人々の生活であり、習慣なのです。文化とは英語圏では「cultivated」といいます。これは自己の内面を耕した状態のことを指し、成熟した状態を意味します。
 しかし、文化は普遍的で永遠ではありません。現在、上野の国立西洋美術館では、「古代ローマ帝国の遺産」ということで、「栄光の都ローマと悲劇の街ポンペイ」という展示会が開催されています。古代ローマ帝国は、人類史上、比類ない長さと広さを誇り、繁栄を極めました。しかし、帝国絶頂の西暦79年、その街ポンペイは、ウェスウィウス火山の噴火で埋もれてしまいました。日本でも、あれほど勢力を誇っていた邪馬台国はどこに行ってしまったのでしょうか。歴史は、文化を埋もれさせてしまうこともあります。しかし、文化は、どこかでつながっていきます。それが、どこにどんな形でかわかりませんが、今の時代に何らかの影響を与えているのです。
 先週末、福岡に行ったときに、一度行きたいところに連れて行ってもらいました。それは、金印が出たと言われる志賀島です。
長い年月の間に砂の架け橋が掛かり、今では、「海の中道」といわれる「砂嘴」を渡っていくことができますが、もともと志賀島は「島」でした。九州とはつながっていなかった島に、なぜ金印があったのか不思議でした。
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発見されたのは、1784年、筑前の国那珂郡志賀島の甚兵衛という農民が、耕していた田畑から金の印章を発見して、黒田藩に届け出たもので、黒田藩ではこれを儒学者達に鑑定させた結果、漢の光武帝から垂仁天皇に送られた印であり、安徳天皇が壇ノ浦に沈んだとき海中に沈んでしまったのが、志賀島へ流れ着いたものであろうというものでした。
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それにしても、鉄砲伝来のときにもそうでしたが、金印発見の知らせは,異例の早さで中央に伝わったようです。そこで、京都の国学者藤貞幹という人が、発見から一月あまりで、委奴は倭奴であるとしてこれを伊都國(今の福岡県糸島郡)王が光武帝から授かった金印であるという説を発表しました。それがほぼ定説となっています。
金印を黒田家所有となり、以来、黒田家の家宝として庫裡深く所蔵されていましたが、明治になって国宝に指定され、昭和29年の再指定で改めて第1級の国宝となり、一時東京の国立博物館に保管されていましたが、現在は、黒田家から福岡市に寄贈され、市博物館の開館とともに一般公開されています。
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実物は、一辺 2.3cmの四角形で、台部分の厚さ約 9?、総高約 22?、重さ 108.7gの非常に小さな純金製(22金)ですが、この小さなものから、出土地や発見者、何故志賀島にあったのか?という疑問がいまだの解明されておらず、だからこそ、昔の文化に思いを馳せるロマンがあるのかもしれません。

文化国家

 「目白文化村」の形成を見てきましたが、その成り立ちを見ていくと「文化」とは何かということを考えてしまいます。まず、「文化」と聞いて思い出すのは、今月初め11月3日の文化の日です。この日は、「様々な文化歴史に親しみ、健全な心身・情緒を育む日」ということのようですが、なぜこの日なのかというと、日本国憲法が1946年のこの日、11月3日に公布されたからです。文化の象徴として憲法があるのです。そして、この憲法は、公布から半年後の1947年5月3日から施行されました。その5月3日を「憲法記念日」と決めました。
実は、戦前から文化の日と決められる前までは、11月3日は、明治天皇の誕生日であることから明治節という祝日になっていました。今は、それは特に関係ないとされていますが、多分、憲法をいつ公布しようかという議論の中で、明治節の日にしようとしたのではないかと思います。それはともかくとして、今、文化の日に合わせて「文化勲章」が授与されます。それは、誰を対象にしているかというと、「科学技術や芸術などの文化の発展や向上にめざましい功績のある者」となっています。ここでは、文化とは、「科学技術や芸術」などとなっています。
憲法の第二十五条には、文化という言葉が出てきます。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」ここにある、「文化的な最低限度の生活」とは、どのような生活なのでしょう。そのひとつは、次の条文に出ているもののような気がします。「第二十六条  すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」「第二十七条  すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。 」きちんと教育を受け、きちんと勤労できる権利があることが文化的な最低限の生活のような気がします。最近の傾向を見ると、この二つの権利がないような気がします。それ以前に、文化的生活の前提である「健康」であることでさえ保障されていません。
たとえば、今、保育室が足りないからといって、保育室の最低基準の一人当たり面積を減らそうとしています。その状況を、憲法から読むと、まず、幼児教育をどの子もひとしく受ける権利はありますので、保育園に入ることが出来ない子がいることは何とかしなければなりません。そのうえで、健康的で文化的生活が出来るように保障するのは最低限なのです。「健康」というのは、精神的、身体的、社会的に「現在をよりよく生きる」ことです。狭いところに、不健康な環境の中で子どもが生活することはおかしいのです。健康な状況とは、子どもたちが精神的ストレスを感じず(精神的)、手足、体を思いきり使って活動し(身体的)、いろいろな子どもとかかわりを持って生活すること(社会的)が出来る状況のことを言います。ということは、今、一人ひとりの健康と文化を保障し、誰でも幼児教育を受けることができるように、保育室の数を増やすことを、いろいろなことに優先して考えないといけないと思います。この憲法にあるように、「健康」「文化」「教育」「勤労」は、どれかを犠牲にすることなく、すべてを保障しなければならない項目として挙げられているのです。
 日本が、文化国家になるのにはまだ先のようです。

文士村

文化は、山の手の「目白文化村」のようなインテリが住む町からだけでつくられるものではなく、それに隣接しているトタン屋根の貸家一帯からも生まれてきます。それは、一般的に、作家や、詩人などの文化人は、貧しいことが多いからで、彼らは、貸家に住み始めます。それは、川沿いの低地で、近くに工場なども多く、居住環境としてはよくなかったのですが、かえって家賃が安かったことと、時代の先端を行く街であった新宿に近かったことなどから移り住んできたと思われます。
その代表が、「放浪記」「浮雲」などの代表作で知られる作家・林芙美子です。彼女は、後に文化村の近くに立派な家を建て、その建物が現在は、林芙美子記念館として残されています。個性的な和風建築として東京都歴史的建造物になっていますが、新居建設当時、建坪の制限があったため、芙美子名義の生活棟と、画家であった夫・緑敏名義のアトリエ棟をそれぞれ建て、その後すぐにつなぎ合わせたといわれています。
1920年代から30年代にかけて落合町に住んだ作家や詩人、歌人は実に70名以上を数えたそうです。そこの住人には林芙美子・宮本百合子・中野重治・江口渙・蔵原惟人・藤森成吉・村山知義などのいわゆる「プロレタリア作家」が多く、彼らを中心として左翼文化運動がおこり、1928年(昭和3年)には、左翼文化団体の集まりである「全日本無産者芸術連盟」を立ち上げ、その事務所も上落合につくられています。村山知義は、童画家としても有名で、彼がここに住んでいたとは驚きでした。
もうひとつ、面白いことがあります。それは、山の手である目白文化村に対して、低地の貸家には、多くの芸術家が住み、目白文士村を形成したのですが、その反対側の北側に接する長崎村には、1930年代半ば以降、貧乏な画家が多く住むアトリエ付き貸家が立ち並び、「長崎アトリエ村」が誕生しています。ここは、豊島区ですが、豊島区のホームページに紹介されています。この地域も、明治になっても東京市外の近郊農村といった性格が強く、落合地区と同じような街づくりが行われていきます。そのきっかけとなったのは、第1次世界大戦ごろからで、産業の発達とそれに伴う都市への人口集中により、市外であったこの地域も都市化がすすんでいきます。そして、この地域での目白文化村のような高級住宅街として開発されたのは、駒込の大和村でした。一方、スラムが東京市内から追い出されるようにして、豊島区地域にも形成されました。ちょうど、関東大震災を境に)年の関東大震災後にいっそう激しくすすみます。その頃のモダニズムや洋風文化の流れは、豊島区の西部にあたる旧長崎町を中心として、美術家向けの借家群であるアトリエ村を生むことになるのです。これも、モダニズムと東京近郊の都市化の流れのなかで起きたことです。
最初にアトリエ村がつくられたのは、要町で、1931(昭和6)年のことです。これにならって長崎の各所につぎつぎとアトリエ村がつくられました。はじめアトリエ村には絵や彫刻を学ぶ学生が集団で住んでいました。その中で最も大規模なものは、さくらが丘パルテノンです。このアトリエ村には、合計で約60軒もあったそうです。
この流れが、ずっと後になるのでしょうが、この場所に手塚治虫を中心とした様々な漫画家が生活していた「トキワ荘」に受け継がれていきます。
文化は、様々な環境の中で、様々な形を持って生まれてくるものですね。

文化的生活

 私の住まいは東京郊外の八王子市にあります。八王子は、戦国時代は八王子城の城下町で、江戸時代は甲州街道の宿場町として発展してきました。そして、明治になると織物の町になっていき、その関係の工場がたくさんありました。それが次第に縮小し、その工場を取り壊し、その跡地がかなり広いので、小分けにして分譲住宅にするか、大きなマンション建設が行われるようになりました。そのチラシを見ていると、その分譲の売り方のモデルを、大正から昭和にかけて開発された「目白文化村」に見ることができます。
山の手といわれる新宿下落合地区は、明治になって、有爵の大きな屋敷が立ち並んでいました。それを開発したのが、西武コンツェルンを築いた人として有名な堤康次郎の(株)箱根土地でした。まず、広い敷地の奥まで路地を引き、それをロの字に循環させ、下水道を完備し、建物は洋式の日本館で建て、土地とともに売る方針をたてました。しかし、建物は個々の個性があった方がいいと考え、基本的には更地分譲でした。そして、街路の擁壁には大谷石を使用し、都市的な景観を持たせるようにしました。その広告には、土地の来歴と、施設計画、交通手段などが同一形式で掲載したのです。この土地は、もとなんとか公爵の敷地ですと謳うことで高級住宅地としてもブランドを作り、洋式の建物はモダンを感じさせました。最近、園の近くのマンションのチラシにも、もとだれだれの敷地であることが謳われていました。
では、文化村での生活は、どのようなものを目指したのでしょうか。昨日のブログで書いたようにそのモデルは田園都市ですが、文化村での当時の田園生活の理想的な生活について、こう書かれてあります。「先ず、労働者の家族をして、清新和楽の家庭を組織せしむるに在り。されば其住む所をして、殊に空気の流通と光線の透写とを十分にならしめ且付するに数畝歩の庭園を以てし、…労務の余暇には農芸を習はしめ、一には之に依りて各自の健康を保持せしめ、一には其収益を挙げて生計の幾分を補助せしめんと図りぬ」
これは、理想かもしれませんが、当時このような生活を勧めたのですね。「清新和楽」の家庭というのは、もう一度考えたいものです。というより、今こそ成熟し、経済優先の時代からの脱却をしようとしている今こそ必要な考え方です。また、ここでは、余暇を使って農芸を挙げています。いわゆるガーデニングではなく、家庭菜園なのでしょうが、その収穫が収入の足しになるくらいというのもすごいですね。しかも、健康になるというのですからいいですね。もし、そのまま東京が各家庭で行なっていたら、自給率が上がったでしょうが。
また、続きにはこんなことを言っています。「山野樹林の勝景に富める…四周の光景を風土として、総べて彼等の健康と衛生とに適せしめんと勉め、更に公会堂、倶楽部、美術館等をも設けて、…品位ある娯楽の趣味を進めしめんと期せり」この文章もなかなかいいですね。「四周の光景を風土とし」というのは、その地その地で見える範囲のものがその地の風土なのです。また、「品位のある娯楽」というのが気にいりました。どうも最近は、品位のない娯楽に興じる人が多いような気がします。そして、健康と娯楽の勧め、自然の中に生活することの幸福を提案したのです。
しかし、現実は、少し前のブログの写真のように、神田川に沿った上落合などの低地あるいは窪地には「トタン屋根」の貸家が並び、乱雑で無統制な郊外住宅だったようです。しかし、昭和になって、この貸家では、文化的に面白いことが起きます。