夕べ

 また、最近宇宙が話題になっています。まず、一昨日から明日にかけての未明、2006年以降、出現数が急増しているオリオン座流星群がピークを迎えます。流星群は、定期的に話題になりますが、見える時の季節や時刻や月の状況に左右されますが、今年は月明かりがないため条件が良いそうです。この流星群は、普段でも見ることができるのですが、最近見える数が急増していて、通常は1時間に20個程度の流星しか見ることができないのですが、2006年以降1時間当たり50個以上を見ることができるようになっています。見える場所は、オリオン座流星群というように、オリオン座の近くの場所から放射に飛ぶようです。冬の星座であるオリオン座は、今の時期は未明の東の夜空に浮かびます。この流星群は、約3000年前にハレー彗星から放出された「ちり」だそうで、見える数が増えたのは、この時期に、地球の軌道に接近するためで、次に急増するのは70年後で、しかも、来年は月明かりもあるので、今年がに肉眼で観察できる最後のチャンスだそうです。
 もうひとつ、明日の10月22日から24日の3日間、世界天文年の企画のひとつ「ガリレオの夕べ」(Galilean Nights)が世界各地で一斉に開催されます。現在、夜、南の空を見ると、どんなに曇っていても一つの明るい星が見えます。瞬きはしないのですが、とても大きく明るく光っています。これは木星です。この期間に、月や木星などの観望会を開いて、およそ400年前、1609年から1610年にかけてガリレオが望遠鏡で月や木星を見たときの驚きと感動を、世界中の人々に体験してもらいたいという思いから、「ガリレオの夕べ」が開催されるのです。
とくに今観察しやすい木星とその衛星を詳しく観測しようという企画が、世界天文年2009日本委員会が「君もガリレオ」というプロジェクトを行うようですし、世界の主要企画として、「小望遠鏡をみんなの手に(The Galileoscope)」グループによって、「木星観測キャンペーン」が展開されます。ほかにも、世界各地でイベントが行われますが、日本で行われるものは、世界天文年の日本のウェブサイトで、世界各地で行われるものは、Galilean Nights のウェブサイト (国際版) で地図上に表示されています。
 22日から24日の間の夕方には南西の空の低いところに半分に満たない月 (上弦前の月) が見えていて、南の空に木星が一番目立っています。また、これは小望遠鏡以上でなければ見えにくいのですが、その周りに四大衛星と小さな衛星たちが見えます。木星には2009年1月現在で63個もの衛星が発見されています。その中でイオ、エウロパ、ガニメデ、カリストと呼ばれる4つの衛星は特に大きく、1610年にガリレオ・ガリレイによって発見されたことから「ガリレオ衛星」と呼ばれています。これらの惑星を時間をおいて観察すると、木星の周囲を公転している様子を見ることができます。
そして空高く見上げれば夏の大三角がそろそろ夏の終わりを迎えて役目が終えるかのように暗くなって早いうちに消えていこうとしています。そのほかの夏から秋の星座への引き渡しが広い夜空で行われています。また、ふだんよりも流れ星を目撃できる確率が高い時期でもあるのですが、ちょうどオリオン座流星群の活動期間とも重なっていて、天文少年にはたまらない時期かもしれません。

広告

先週の15日、日本新聞協会から2009年度「新聞広告クリエーティブコンテスト」の結果発表があったことが報道されていました。今日、10月20日は「新聞広告の日」です。由来は新聞週間(15から21日)の中で覚えやすい20日を記念日にしようと、「日本新聞協会」が1974年に制定したものです。最近は、インターネットをはじめとするデジタルメディアが普及しつつありますが、まだまだ新聞などの紙媒体の影響力は大きいです。そこで、今日の新聞広告の日にあわせ、2002年から「新聞広告を広告する」ということで、新聞広告コンテスト」と題して実施していました。たとえば、2004年度の優秀賞は、「新聞広告だってモノを言おうぜ」ということで、人の顔の前面に「世界を前より平和にしたぜ」と書いた紙が張り付けたような絵柄でした。また、その翌年の2005年度には、「三行あれば何でも言える」というコピーが紙面の中心に書かれてあるものでした。
それが、2006年度からは新聞広告のクリエーティブ強化を目的に、若いクリエーターの方々に、新聞広告の可能性を広げるような独創的で斬新な作品を作ってほしいとの趣旨で年度ごとにテーマを設定して募集することになりました。新聞に結果発表が掲載された今年度のテーマは、「きずな」です。ここに、1465作品の応募があったようで、関心の深さが分かります。
最優秀賞に選ばれたのは、「さみしくなったら‥」ということで、自分のへそを見ている人物がシングル線で描かれてあります。そこに、「さみしくなったら、おヘソを見よう。」とあり、下隅に“あなたがひとりじゃなかったこと。思い出したら、きっと大丈夫。「実感しよう、絆」”と書かれてあります。なかなかいいですね。しかし、私は優秀賞を受賞した作品も好きです。ここには、「人生、何年生になっても“絆”を大切に。だいじょうぶ。友達100人なんていらないんだよ。たった一人の親友がいるだけで、“ひとりぼっち”から卒業できるはず。友情って。広さじゃなくて、きっと深さなんですね。」というものです。絆、友達というとみんなと仲良くなるとか、多くの人とつながらないといけないと思いがちですが、人の多さではないことは、子どもたちの保護者の人たちにも知ってもらいたいことです。このほかの今年の入賞作品は、優秀賞・学生賞「『一人暮らし』なんてウソでした。」、コピー賞「お隣さん」、「演歌な人生にも、ポップな人生にも、ロックな人生にも。」、「新聞受け」です。
これらの賞で、過去のものにもなかなかいいものがあります。「環境」をテーマにした2006年度の最優秀作品「エコ買い」は、今年でも十分と通じる内容です。大きく書かれた牛乳パックの面に「賢い主婦はスーパーで手前に並んでいる古い牛乳を買う」と書かれてあります。それはどういうことかが次の文章で分かります。「自宅の冷蔵庫に新しい牛乳と古い牛乳があれば、どちらから先に飲みますか?古い牛乳からですよね。賞味期限が過ぎて、棄ててしまうのがもったいないですから。しかし、スーパーでは新しい牛乳を選んで買っていませんか?新しい牛乳から売れていくと、そのぶん古い牛乳は売れ残ってしまいます。日本では、毎日約2000万人分の食料が、賞味期限切れなどの理由で棄てられています。できるだけ、売り場の手前にある古い牛乳を買いましょう。飽食や贅沢を見直すことで、食料輸送や焼却処分時の環境負担を減らすことができます。無駄を減らして、CO2排出量を減らしましょう。」
 広告から、自分を振り返ること、自分を見つめ直すことができます。

たこ

 先日の姫路訪問の時の帰りに明石に寄れたらと思っていましたが、時間がなく寄ることはできませんでした。明石というと、私の年代では「日本標準時」が連想されます。現在の日本標準時は、原子時計で示された時刻を世界に発信した協定世界時(UTC)を9時間進めた時刻を日本の標準時としていますが、かつては、兵庫県明石市を通る東経135度の子午線における地方平均太陽時と定義されていました。
この明石から淡路島までフェリーが運航されています。明石港と岩屋港(淡路島)を結ぶこのフェリーの航路は、愛称が「たこフェリー」と呼ばれています。それは、この明石海峡が日本有数のタコの漁場だからです。ですから、中にタコの入ったタコ焼きの一種の明石焼きも今は全国区で有名です。このフェリーの船体にはタコの家族がそれぞれ書かれてあります。
なぜ、こんな話題かというと、全く違う話ですが、一昨日電車に乗っていたら、車内広告で様々なエコについての取り組みを紹介するコーナーで「ドイツで、たこ船が運航される」とあったからです。しかし、この「たこ」はタコ違いで、明石のタコは動物の蛸のことで、ドイツのたこは空にあげる凧のことです。昨年の7月に、大型のたこを利用して燃料削減を実現したドイツの貨物船「ベルーガ スカイセイルズ」(6、312トン)が、横浜港に入港したことを紹介していました。このたこは縦4メートル、横40メートルで、船首につなぎ風力を使って船を引っ張る仕組みです。この貨物船を所有している運送会社は「燃料を約15%節約でき、二酸化炭素(CO2)など温室効果ガスの排出が削減できる」としているそうです。
風力をエネルギーとして活用して航行する船としては「帆船」とか「ヨット」などもありますが、これですと、直接風を船体に設けるために船体が傾いてしまいますし、風を受ける位置が低いために安定しないそうです。この凧は、いわゆる人が凧を揚げるように船の前にロープによって凧を揚げ、その凧が船を引っ張るというイメージです。この貨物船は今年1月に就航したそうですが、現在、不定期船として世界各国間で風力発電設備などを輸送しているそうです。この凧を上手に併用して使うことによって、燃料の消費量を50%程度、排気ガスは10%から35%程度、減らすことができるといわれています。
またイタリアでは凧を利用して発電する「凧力発電」が研修されているそうです。多数の凧を空に揚げ、地上の発電機をぐるぐる回すというもので、一見単純な原理ですが、その出力は原発に匹敵する1GWもあるそうです。しかも発電コストは現行の30分の1ですむといわれています。船の運航に使うときと同じで、凧は高い上空を飛ぶので、気流が強く安定しており、動力として効率的であるとのことです。
自然エネルギーとして、風、光、雨を利用することが盛んにおこなわれるようになってきました。また、そのエネルギーをを取り出す手段として「凧」が使われてきているということは面白いですね。むかし、フランクリンが凧を使って雷を取り入れたことで有名です。まだまだ自然界には利用できそうなものが多くあります。最近、発電に海での波による水の上下運動を使おうということがあるそうですが、地震や火山なども大きなエネルギーを持っています。これから、どんなものが使われていくでしょう。

つた

以前のブログにも登場しましたが、秋の歌で好きな歌に「薩摩忠」作詞の「まっかな秋」があります。その歌詞に「まっかだな まっかだな つたのはっばが まっかだな もみじのはっばも まっかだな」とあるように秋に真っ赤になる代表として紅葉のほか「つた」が挙げられています。
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このツタ属の学名は、「Parthenocissus(パルセノキッサス)」と言いますが、この語源は、ギリシャ語の「parthenos(処女)+ cissos(ツタ)」からもわかるように赤い葉の代表です。このツタは、つる性でどんどん伸びるために山林や岸壁などに自生しますが、街中でも樹木や壁に巻きひげの吸盤で伝う姿をよく見かけます。この「つたう」から「つた」になったといわれています。 私の園でもそうですが、このツタを壁にはわせると夏は建物の中が涼しくなる効果があり、そのためにも建物を伝え覆うことをします。
先日の岡山から姫路に行く旅の途中、倉敷の「アイビースクエア」に寄りました。この施設は江戸幕府の代官所跡に明治22年(1889年)に建設された倉敷紡績創業の旧工場で、昭和48年(1973年)に改修され、観光施設として再生されたものです。その中のアイビー学館は建物全体がアイビーで覆われ、その前の立札にこんな説明がされています。
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「平安時代には早春に、この幹から液をとり煮詰めて甘味料を採った。砂糖のなかった時代の甘味料として珍重されたことが、古今著聞集・源氏物語・尺素往来物の書物にのせられている。ただし、葉は食用にならない。落葉性のこの“なつづた”に対して常緑の“ふゆづた”があるがこれは「うこぎ科」に属する。この壁面の“つた”は、昭和の初期に西日のため室温の上昇するのを防ぐため植えられたものである。」
アメリカで、フットボール連盟が8校の参加で結成されたリーグ名に「アイビー・リーグ」というのがありますが、これは、レンガ造りの校舎に生い茂る蔦(アイビー)が各校のシンボルとなっていたことから、スポーツ担当記者が命名したものです。この8校は、アメリカのエリートを育成する学校としても名高く、生徒達は、家柄も良く、優秀な頭脳の持ち主で、社会的にも指導的な立場となる為、必然的に着用の服は、保守的で、てらいが無く、オーソドックスで、伝統的ながらも、着易く、活動的なものでした。それが、アイビー・ルックといわれたものです。このファッションは、日本でも大きな反響があり、私が学生時代には、VANジャケットの提供する情報誌やMEN’S CLUBから、いろいろな新しい和製英語の服装を知りました。たとえば、「トレーナー」、「ダウン・ヴェスト」、「スウィング・トップ」、「ポロシャツ」等です。
このように伝統を表す「つた」ですが、日本でも蔦紋という、ツタの葉・茎・花を図案化した日本の家紋の一種がありますが、日本十大紋の一つです。強い生命力、絵になる葉の姿から、藤原時代には既に文様として愛用されていたそうです。江戸時代に松平氏が用い、8代将軍吉宗が出た紀州徳川家が替紋として蔦を用いたことから、権威のある家紋として認知され普及したそうです。また、優雅ながらもほかの樹木や建物などに着生する習性から付き従うことに転じて、芸妓や娼婦に好まれ、また、蔦が絡んで茂るさまが馴染み客と一生、離れないことにかけて芸妓や娼婦などが用いたといわれています。
そういえば、泉鏡花の名作「婦系図」の主人公は、「お蔦」と「主税」でした。お蔦のセリフ「切れるの、別れるのって、芸者の時にいうせりふ。今の私には、いっそ死ねといって下さい。」を紅葉したツタを見て思い出すので、年寄りかもしれません。

安兵衛

地名を聞いて、何を連想するかということで、年代がわかります。私の園がある「高田馬場」と聞いて何を連想するでしょうか。現在のJR高田馬場駅の発車メロディーは、鉄腕アトムの旧シリーズのテーマ曲ですが、それは手塚治虫が社長を務めた手塚プロダクションが高田馬場にある事と、お茶の水博士が長官を務める『科学省』が高田馬場にあったという設定から選定されています。また、学生の人からは、早稲田大学の町という印象があります。駅を出たところの通りは「早稲田通り」といい、早稲田大学に通じています。その道沿いには、古本屋やあの漫画のフクちゃんもかぶっている「早稲田帽」といわれる角帽を売っている店もあります。しかし、今はほとんど学生相手の飲食店が多いのですが。
しかし、駅名は、赤穂浪士四十七士の一人堀部安兵衛の伝説となっている決闘があった事で知られている高田馬場から取っています。しかし、この決闘は講談などでよく語られていたために、今での若い人はほとんど知らないようです。また、私の年代でも、堀部安兵衛が駆けつけた場所というくらいの認識しかありません。しかし、先日岡山から姫路に向かう途中、赤穂に寄った時に改めて堀部安兵衛のことを思い出しました。
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私がうろ覚えしている講談での名文句「ひた走る堀部安兵衛」の下りの高田馬場の決闘は、元禄7年(1694)2月11日といわれています。
だいたいの話は、中山安兵衛が、叔父・甥の契りを結んだ菅野という人の決闘に駆けつけて助太刀に入り、相手を十六人斬りしたというものです。なぜ、駆けつけなければならなかったのかというと、決闘相手が菅野を慌てさせる為に直前に決闘状を投げ入れたところ、菅野は、決闘に遅れては武士の恥とすぐに行こうとしますが、その前に叔父甥の契りを結んだ安兵衛のところに別れを告げに行くと、安兵衛は前の晩から飲んでいて、別の場所で酔いつぶれて眠っていて留守でした。そこで仕方なく菅野はその場で文を書いて残していきます。昼近くなってから目が覚めた安兵衛が、菅野の文を読むや「すわ一大事」と慌てて走って、走って、走って、高田馬場までひた走るのです。
それがなぜ赤穂浪士の一員になったのかというと、この決闘を見ていた赤穂家の家臣であった堀部弥兵衛という人が、安兵衛をぜひ自分の養子になって欲しいと熱心に頼みます。その熱意にほだされて、安兵衛は堀部の家に養子に入り、堀部安兵衛となります。その7年後の(1701年)元禄14年に赤穂藩主浅野内匠頭長矩の刃傷事件が起きるのです。そして、その翌年、赤穂浪士による吉良邸討ち入り事件が起きます。
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この決闘の場であった高田馬場には、旗本達の馬術の練習場であった馬場がありました。享保年間には、この馬場の北側に松並木が造られ、農民たちが多く訪れたため8軒の茶屋が有ったといわれています。この馬場の一角の茶屋町通りに面したところが安兵衛が叔父の菅野六郎左衛門の決闘の助太刀をしたとされるところです。
そんな高田馬場ですが、先日の新聞にこんなことが掲載されていました。私の園は、高田馬場から目白に向かったところにあるのですが、JR山手線の高田馬場駅から目白駅の間には、車窓から富士山を眺めることができた唯一のスポットがありました。大気が澄んだ冬の早朝などに車窓から南西の方角を見ていると、ビルの間にほんの1秒足らずでしたが、頂上周辺が垣間見え、希少な眺望だということで人気を集めていました。それが、今年の夏以降、商業ビルが建設され、見えなくなっていることが分かったというニュースがながれたのです。
 高田馬場も変わっていきます。

鷺と烏

 岡山の帰りに姫路に寄ったのは、一つは安藤氏設計の姫路文学館見学ですが、もう一つの目的は、世界遺産の姫路城の見学です。それは、今年から姫路城大天守の保存修理工事が行われるからです。これは、昭和39年に完了した解体復元工事から45年が過ぎ、白漆喰壁をはじめ上層部の軒やひさしに傷みや汚れが激しくなってきたため、本格的な修理を行うようです。修理期間中は、大天守を完全に覆うように素屋根を掛けて作業を実施し、21年から丸5年間は、外部の姿を見ることができなくなるようなので、それまでに見ておこうという目的で訪れたのです。しかし、大天守内部の公開は続けられるそうで、今回時間の関係で内部は見ずに、外観をしっかりと見てきました。
姫路城は法隆寺とともに1993年12月11日、世界遺産リストにその名が登録されました。そして2001年には、国宝指定70周年、築城400周年を迎えました。5重6階の大天守と3つの小天守が渡櫓でつながり、幾重にも重なる屋根、千鳥破風や唐破風が、白漆喰総塗籠造の外装と相まって、華やかな構成美をつくっています。その白漆喰総塗籠された姿は、まさに、天を舞う白鷺のように見えるということで別名白鷺城(はくろじょう)ともいわれます。それに対して、その前日に見た岡山城は、櫓35棟、門21棟があり、天守が下見板張りの黒造りであったため烏城(うじょう)といわれています。
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ただ、姫路城にはいくつか説があって、城のある丘が「鷺山」とも呼ばれたからという説や、城が白鷺の飛ぶ姿に見えるためとか、昔からゴイサギが多くすんでいたから、などといわれています。
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姫路城の話になると深入りしそうなので、今回は、それぞれの城の別名について考えてみます。岡山城が、烏城(うじょう)といわれていますが、同じ字を書いて「からすじょう」といわれているのが、やはり国宝になっている長野県松本城です。現在は天守群などの建物が現存し、城跡は国の史跡に指定されています。松本城と呼ばれる以前は深志城といって言いましたが、通称として烏城(からすじょう)と呼ばれています。天守の外壁は各層とも上部は白漆くいですが、下部は黒漆塗りの下見板が覆っていることからこう呼ばれているのです。
 城で国宝に指定されているのが「姫路城」「松本城」のほかに、「犬山城」と「彦根城」があります。その中の犬山城は、木曽川沿いの高さ約88メートルほどの丘に築かれた平山城で、その佇まいを長江流域の丘上にある白帝城を詠った李白の詩「早發白帝城」(早に白帝城を発す)にちなんで「白帝城」と荻生徂徠が命名したと伝えられています。その近くにある温泉に泊まることがありますが、「白帝の湯」と言います。
 また、「彦根城」は、江戸時代に滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、鎮西を担う井伊氏の拠点として置かれた平山城で、その彦根山は別名「金亀山」とも呼ばれるために城は金亀城(こんきじょう)ともいわれています。
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 このように、城の別名はその姿からつけられたり、その地形から、その地名から言われたりします。その名称は、その由来からして、いかにも民衆が分かりやすいようにそう呼んでいたというようなことは、今でもいろいろなものに、役所がつけた名前よりも普段分かりやすくつけられる愛称で呼ばれるのと同じですね。

紙芝居2

 高橋五山が、「幼稚園紙芝居」全十巻を出版したのは昭和10年(1935)でしたが、当時の紙芝居に対する世間一般の考え方は、「不潔、教育上よくない」というもので、五山の自伝の中で「街頭紙芝居がつくった紙芝居は不潔。非教育的という概念に固まった幼児教育者に、教材としての効用を説くのに骨が折れた」と述懐しています。そのために、訪問販売に切り替えるのですが、門前払い同様な扱いを受けたこともあったようで、彼の会社である「全甲社」は倒産の危機に陥ります。
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 そんな昭和11年、「街頭紙芝居に蔓延するグロテスクな強い刺激は、子どもの教育的見地から見過ごすことができないということで「子どもたちのありのままを、作文という行為をとおして、真に自分の頭で考える子どもを育てよう」という「綴り方運動」と連動して「日本紙芝居連盟」が発足します。このころから、日本は戦争に突入していきます。当然、紙芝居は戦争協力を惜しまない国民を作り上げるために利用されていきます。いわゆる「国策紙芝居」がつくられていくのです。そして、昭和15年、大手新聞社の出資のもと「日本教育画劇株式会社」がつくられます。その時の紙芝居は、事前に内容の検閲を受け、裏の説明文は一切のアドリブは禁じられ、その通りに読むことが義務付けられます。
 それが、戦後になると一変します。民主主義になり自由になったかというと、今度は、「民主紙芝居人集団」が結成され、民主主義を説く内容は、今度、連合国軍総司令部によって検閲され、忠君愛国的なものや、残忍なもの、特に「血」を描くことは禁止されました。なかなか、子どもの世界に戻って行きません。それが、戻り始めるのは、やはり「黄金バット」が戻ることによって、街頭紙芝居が戻ってくるのです。ただし、黄金バットも「悪を懲らしめる金色骸骨マスクの超人」から「新しい日本と世界平和を守るヒーロー、まさに正義の味方」としての復活でした。
 昭和24年、GHQによる検閲が廃止され、今度は思想面からの取り締まりではなく、質を保つために免許制度にしました。しかし、グロテスクな絵とか内容はどんどん増えていきました。一方、紙芝居は学校教育にもさかんに取り入れられるようになりました。伝記、偉人伝、自然観察、道徳教育、理科紙芝居などです。有名文学を原作とする国語紙芝居は補助教材として活用されていきました。ところが、昭和42年に文部省から出された「第一次教材整備十ヵ年計画」によって、紙芝居を学校から後退させました。そこで、数社あった紙芝居出版社も後退していきますが、残った童心社等は、学校から幼稚園や保育園での紙芝居利用に力を入れるようになって行きます。
 日本独自の子ども向け文化を、世界絵本博覧会で紹介したり、その普及に力を注ぎ、紙芝居を通じて、文化交流が行われています。特に、ベトナムやラオス、フランス等でも盛んになっています。「KAMISHIBAI」は、世界の人々の心をとらえつつあります。
 高橋五山にちなんで、毎年優秀な紙芝居におくられる「五山賞」があります。昨年度は該当なしでしたが、一昨年は、童心社から出された「おじいさんといぬ」(藤田勝治作)が受賞しています。姫路文学館での展示会では、係員が拍子木をたたいて子どもたちを集めていましたが、その音を聞いて、昔を思い出しました。
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紙芝居1

 安藤忠雄氏の世界を直島で十分に堪能した後、ちょうど日、月曜日と連休でしたので、岡山で妻と待ち合わせて姫路に行きました。そこでの見学の一つは、やはり安藤忠雄氏設計の「姫路文学館」の見学です。
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この文学館では、姫路を中心とした播磨ゆかりの文人たちを顕彰し、資料の収集および調査・研究を行う拠点として、1991年4月に市制百周年事業の一環として開館しました。国宝姫路城の北西に位置し、「ユニークなデザインが古い町並みに新しい風景を添えています」とチラシに書かれています。南館と北館2棟それぞれが違った主張で建っており、そのデザインは、他の作品同様、外観だけでなく、存在感たっぷりの厚いコンクリートの壁で区切られた室内と、その長い壁の突き当たりに、外から注ぐ光がまた違った仕切りを作っています。
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 この文学館の特別展「みんなの紙芝居」が開催されていました。園では、紙芝居は子どもにはとても人気のある教材で、昼寝前になると、子どもたちが好きな紙芝居を選びに職員室にやってきます。この紙芝居は、日本独特の児童文化です。私の子どもの頃以前から、いまだに人気のあるというのも珍しいですね。
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 この展示のあいさつ文に、「紙芝居は、自転車と荷台をセットした舞台装置で絵と話芸により展開され、至近距離で接する観客の心を捉えて離さない生身の芸能文化でした。テレビ普及前夜の世間に根を下ろし、特に子どもたちに対しては、生活に密着したメディアとして確固たる地位を保っていました。テレビの普及と反比例するように街頭から急速に姿を消した紙芝居ですが、今、教育現場や全国の図書館で注目されるなど、再び熱い関心が寄せられています。」
 確かに、紙芝居は子どもたちにとって黄金バットに代表されるような、ある意味で大衆芸能でした。その最初の黄金期は、ずいぶんと早い時期、昭和の初めには訪れます。昭和5年には、飴を売りながら子どもたちに語りを入れた「平絵」が登場し、その秋には「黄金バット」が創出されるのです。当時の紙芝居の裏には説明文がなく、貸し元が紙芝居業者に口伝であらすじを伝え、話し手が講談のように面白おかしく、話していたようです。しかし、それが次第にエスカレートして刺激の強いものが盛んにつくられていきます。そのために、「教育上見逃すことが出来ない」と世間から非難を浴びます。
 アメリカの大学で神学を学んだ「今井よね」は、自宅で子どもたちを集めてキリスト教を伝道していました。ある時、その途中、街頭紙芝居の拍子木の音が聞こえた瞬間、子どもたちはみんな外に飛び出して行ってしまいました。彼女がそのあとを追ってみると、身じろぎもせず、食い入るように紙芝居を見つめている子どもの姿を見て、この紙芝居をキリスト教の伝道に使えるのではないかと考え、その内容を考え、紙芝居画家のところに持ち込み、紙芝居を作ります。これが昭和8年、大衆演芸であった紙芝居から教育的目的を持つメディアとしての存在として第一歩だったのです。
 これを、きちんとした幼児教育の目的として位置づけたのが「高橋五山」という全甲社という出版社を立ち上げた人です。彼は、街頭紙芝居の持つ、話し手と子どもたちの人間的な結びつきに着目し、さらに「見る、聞く、楽しさに芸術性を盛るなら、楽しさはさらに増すはず」と考え、昭和10年4月に「幼稚園紙芝居」(全10巻)の出版を開始するのです。
その後、私が子どものころによく見かけた紙芝居は、どうなっていくのでしょうか。

小さな島2

直島における幼保小の新しい試みは、直島中学校の改築で一応の完成を見ます。戦後、中学校として県下初の独立新校舎が当時”つつじが丘”と名づけられていました。その中学校が、昭和54年に”教育と社会”の一体化をめざす文教地区構想の頂点として全面改築されました。それまでも、文部、厚生省の間の厚い壁を打ち破った幼保一元化に続いて、今回は、幼小中一貫教育の実現でした。設計上は、それぞれ非常に強い個性を持ちながら、理念を共有し、各施設が閉鎖的にならないようにで教師と生徒、人と人とのよりよいコミュニケーションの場であることへの配慮が流れています。
これらの実現を、先頭を切って推し進めていた当時の直島町長は、甥が当時岡山県にある福武書店に勤めていた関係から、福武書店(現ベネッセコーポレーション)の創業者である福武哲彦さんと知り合います。そのときに、町長は、直島(香川)の南側一帯を、文化的なエリアにしたいという夢を描いていました。福武さんは、瀬戸内の島のどこかに世界中の子どもたちが集える場を作りたいと構想していました。それが結びついて、「直島アートプロジェクト」が構想されていったのです。それが、今から20年くらい前でした。
 その先代の哲彦さんの遺志を継いで、「直島アートプロジェクト」を実行に移したのが、現在の会長である福武總一郎さんです。まず、1989年に安藤忠雄のマスタープランで「直島国際キャンプ場」を作り、92年には現代アートの美術館とホテルが一体化した「ベネッセハウス」をオープンさせました。やがて美術館の外にも作品を展示するようになり、アーティストに直島で作品を作ってもらう「サイトスペシフィック・ワークス」が始まりました。その発展系として、民家を利用した「家プロジェクト」が誕生。2004年には建築物としても注目度の高い「地中美術館」がオープンし、現代アートが直島全体に広がっていきました。
 今回、ベネッセハウスの中のレストランで食事をした後、以前のブログで予告したように「地中美術館」を見学しました。
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この美術館は、すべて地中に埋まっています。ですから、入口は、コンクリートの壁が建っているだけで、その後ろは建物ではなく、緑で覆われた丘だけです。なんだか古墳の中に入り込んでいくようです。
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中に入ると、当然、他の美術館のような室内が続き、それが地中であるということは忘れそうです。しかし、安藤氏の特徴であるコンクリートの圧倒的な存在感が空間を切り取って、そこに注ぐ光が空間の奥行きを際立たせます。その中の展示は、「クロード・モネ」絵画5点、空間と太陽の光の時間的経過を融合させた「ウォルター・マリア」の作品、光そのものを作品とした「ジェームズ・タレル」の作品以外は、コンクリート、鉄、ガラス、木、石を配置し、光との関わりを意図した安藤忠雄氏設計の空間が、すべて作品となっています。ただ、残念ながら事前にロッカーへカメラなどの持ち物はすべてしまわなければなりませんので、写真は撮ることはできませんでした。また、室内は声が響くために、同じグループは10人までと制限されていましたが、それだけ、作品としての空間を大切にしているということでしょう。
 自然と人間との関係を考える美術館といわれる「地中美術館」は、保元の乱で敗れた崇徳上皇が讃岐国へ流される際に一旦四国上陸を拒否され、3年間を直島に滞在したときに、島民の純朴さ、素直さを称賛してつけられたとされる「直島」という名前に恥じない、素朴でありながら、自然に純粋に向き合った作品として完成されていました。
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小さな島1

 高松での研修の一環である直島への訪問は、大学時代からの念願でした。直島は、行政域としては香川県に属していますが、生活圏は岡山のようです。というのは、私たちが訪れる時に利用した高松からのフェリーは、1日に数本で、1時間かかりますが、岡山からはもっと本数が多く、近いようです。
 瀬戸内海に浮かぶ小さな島・直島は、現在、様々なアートプロジェクトが実施され、注目を浴びています。島丸ごと現代アートといった感で、世界中から観光客が訪れています。しかし、私が直島を知ったのは、今から30年ほど前に、当時の直島町長であった三宅親連さんが、島に文教地区を作ろうということで幼保小中を整備したことでした。まず、着手したのが、明治18年開校の高田小学校の老朽化と直島町百年を契機に、小学校改築問題でした。そのときに、この改築だけではなく、直島町の将来について熟議された文教地区計画を作成し、その一環として、昭和45年、新しい期待を担って直島小学校が落成しました。その計画とは、町勢の充実・町民融和・文教重視のシンボルとして直島の中央に建設される文教地区構想の中で、直島小学校は、幼~小~中~高~社会教育を結ぶ一環としての小学校という位置づけです。そのために機能発揮に設計上とくに配慮が必要とされ、東京大学吉武泰水教授に依頼し、設計された建物は、学校建築では他に例を見ない「自然を大きくとり入れた、すぐれた環境」という教育目標が設計面でも実現されています。
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その後、昭和48年度、直島幼稚園が改修され、ここに、町の幼児教育のあり方を抜本的に改革した新園舎が文教地区に完成しました。その試みの一つは、それまで行政上二次元化されていた幼稚園と保育園を一つの学園とし、幼児の教育と福祉の機会均等をはかり、運営上の一元化をはかるもので、幼・保それぞれの長所を生かしつつ、幼児のしあわせをはかる理想的な幼児教育の場をめざしたのです。その時の設計で目指したものは、幼児の発育と心理をつかんだ幼児教育にふさわしい建築、一斉保育から自由保育への脱皮をめざした設計、そして、文教地区構想の一環として最高度の設計による園舎の建築でした。このころの思いは、無限の可能性を秘めた幼児。その可能性の芽生えを大事に育て、伸ばしたいという願いが込められていたのです。
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その後、昭和57年度にその幼稚園のとなりにセミ・オープンスクールとして保育園が建設され、幼児学園との間に中庭をつくり、幼児学園と保育園が個々の建物ではなく、全体として調和がとれるように設計され、一斉保育から自由保育への脱皮をめざしました。ここでは、幼児の無限の可能性の芽を大事に育て、伸ばすために、幼児の教育と福祉の機会均等をはかり、幼・保それぞれの長所を生かして、幼児のすこやかな成長をはかっていかなければならないと願いを込めて建てられました。
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そのような試みに、学校建築を研究していた私は、まだ保育の世界には足を踏み入れてはいませんでしたが、新しい時代の幼児教育から、小中学校教育を垣間見る気がしたものでした。その幼児学園を今回見ることができたのです。建物はずいぶんと古くなり、園児は極端に少なくなっていましたが、その設計上の試みは今でも決して薄れることはありませんでした。しかし、環境は変わらずにありますが、そこで展開される幼児教育のソフトにはかなり課題が見えました。というのは、設計の意図は、使う人にとってはなかなか理解しがたく、かえって使いにくい空間として持て余しているかのようで、残念でした。