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2009年10月31日 [講演先にて]
城と樹木
国宝と世界遺産に登録されている姫路城についてのブログを書きましたが、もうひとつ、国宝に指定されていて、平成6年、世界文化遺産に登録されたのが二条城です。ここには、国宝の二の丸御殿、国の特別名勝の二の丸庭園のほか、数多くの重要文化財の建造物が残っています。明日の講演のために前泊したホテルの近くに、その二条城があり、今「二条城お城まつり」が開催されているので、覗いてみました。
ブログでも様々な城がテーマになりますが、城といっても、敵の攻撃を防ぐために築いた防御施設のことで、必ずしも天守閣を持っているわけではなく、柵を巡らせただけというものもあります。また、平和の時代になって、敵の攻撃から守るというよりも権力を誇示するために建てたものもできてきます。そんな様々な城の中で、私たちが「城」といって思い浮かぶイメージは、大体は、戦国時代末から安土桃山時代をへて、江戸初期に至る半世紀ほどの間に築かれたものです。このころの城は、全国に3000城位もありました。それが、大阪夏の陣直後、徳川幕府による「一国一城令」が出され、その数は一挙に約170城まで減少してしまいます。
なお、悪いことに明治維新になると、明治新政府によって明治6年城郭の廃城令が明示されて、明治7、8年頃には約三分の二の城郭が廃城となってしまいました。そのあとも、戦争によって破壊されたものも多く、大切な文化遺産が消されていったのです。しかし、戦後になると、城の歴史的価値は見直され、またすぐれた観光資源として見直され、焼失した天守閣や櫓・城門などの再建・復興が相次ぎました。
二条城は、ほかの城とちょっと違った用途として建てられました。慶長8年(1603年)、徳川将軍家康が、京都御所の守護と将軍上洛のときの宿泊所として造営し、3代将軍家光により、伏見城の遺構を移すなどして完成したものです。ここでは、豊臣秀吉の残したもの、家康が建てた建築、家光がつくらせた絵画・彫刻などが総合されているだけでなく、徳川の最後である大政奉還の舞台になるなど日本の歴史の移り変わりを見守ってきた城です。
この城内庭園にはいろいろな木が植えられています。それらの木にはそれぞれ利用価値があったようです。以前ブログで紹介した熊本城の別名「銀杏城」とは、加藤清正が篭城戦になった時の食料確保のため、築城時に植えた大銀杏があるからだと言われています。二条城には、非常時のために植えられている木があります。松は、ブログで書きましたが、縁起の良いということもありよく城に植えられますが、もうひとつ、たいまつに利用されていたそうです。また、説と違って、熊本城の銀杏は雄の木で実はならないそうですが、実を食料にするために植えられた木はたくさんあります。二条城には、あらかし、しいのき、うばめがしがあります。先日、私の園でもしいの木の実であるどんぐりのクッキーを子どもたちと作って食べました。ほかに、燃料に利用したものに、くすのき、いちょう、けやき、むくのき、えのきなどがあります。もちろん、木は主に燃料にしたのは当然でしょうね。また、ひのきは建築用、なぎのきの葉は鎧の中に入れて戦えば死なないと言われていました。
あと、なぜだかわかりませんが、3代将軍家光の時代、鍋島藩の鍋島勝重公が、後水尾天皇行幸に先駆け、蘇鉄を1本献上している記録があります。8代将軍徳川吉宗の時代の二の丸庭園の絵図には、二の丸庭園には15本もの蘇鉄が植えられていたことが描かれてあるそうです。
場内にも、大広間と黒書院をつなぐ渡り廊下の壁面及び出入口の杉戸の蘇鉄が描かれていたため、蘇鉄の間と名づけられています。
樹木から城を見るのも面白いかもしれません。
投稿者 fujimori : 20:36 | コメント (5)
2009年10月30日 [近頃思うこと]
食事
昨日のブログで、なぜ突然にお弁当の話題になったかというと、区内の栄養展に掲示する展示物を調理の職員含めて数名で遅くまで作っていたからです。大きな模造紙に写真で、園で行っている取り組みを紹介するものです。全体のイベントとしては、「しんじゅく 食育フェスタ2009 ~見て、笑って、食べて“やさい”のチカラを発見!!~」と題して、身近なところから食の大切さや、健康づくりと食べ物について体験できるイベントです。
近年の我が国の食をめぐる状況の変化に伴う様々な問題に対処していくため、平成17年6月、「食育」に関する施策を総合的かつ計画的に推進し、現在及び将来にわたる健康で文化的な国民の生活と豊かで活力のある社会の実現に寄与すること等を目的として、食育基本法が公布されました。食育基本法では、食育は、生きる上での基本であって、教育の三本の柱である知育、徳育、体育の基礎となるべきものと位置付けられるとともに、様々な経験を通じて、「食」に関する知識と「食」を選択する力を習得し、健全な食生活を実践することができる人間を育てるものとして食育の推進が求められるとされています。
これを受けて、今年の4月1日に施行された新たな保育所保育指針では、保育所における「食育」は、「健康な生活の基本としての「食を営む力」の育成に向け、その基礎を培う」ことを目標として、子どもが毎日の生活と遊びの中で、食に関わる体験を積み重ね、食べることを楽しみ、食事を楽しみ合う子どもに成長していくことや、乳幼児期にふさわしい食生活が展開され、適切な援助が行われるよう、食事の提供を含む食育の計画を作成し、保育の計画に位置付けること等に留意して実施しなければならないとしています。
また、子どもの生活の場である保育所においては、毎日の給食が重要であり、友達や保育士とともに喜んで食べることが心とからだの栄養となるとし、年齢や発達過程に応じて、食事の環境を様々に工夫し、明るく楽しい食事の場にするとともに、子どもが食材への関心を持つように環境を構成するようにとしています。
いろいろなことをいいますが、本来もともと食べる楽しみは人にはあるはずです。それは、もちろん生きるための手段ではあるのですが、それだけを意識して食べているわけではありません。2004年11月号のエデュカーレで「あるフランスの保育園に学ぶ」という研究会報告がありました。そこにこんなことが書かれてありました。
「この保育園では、一人でスプーンを使えるようになったら、自分で食べたい量を取らせます。最初は取りすぎたりすることもあるけれど、それを繰り返していくうちに、自分が食べられるのはこれぐらいというのが、だんだんわかっていく。また、子どもによっては、逆にちょっとしか取らない子やちょっとしか食べない子がいて、そういうときには、先生が、もうちょっと、と言うことはあります。自分のおなかの空き具合と取り分ける量は、やっていけば子どもにもわかるようになる、と保育士は言っていました。」
私の園でも、3歳以上児では昼食の時に自分で食べたい量を当番の子に申告してよそってもらいます。フランスの保育園同様、最初はほんの少しの子もいますし、取りすぎる子もいますし、好き嫌いを言う子もいます。しかし、昨日の夜、調理と話しながら資料を作っていたときに、その方法によって、本当に子どもたちはたくさん食べるようになり、好き嫌いもなくなってきているという話を聞きました。そして、何よりも昼食の時間が来るのを楽しみになってきたようです。
しかし、子どもにぜひ食べるように声をかけてほしいという要望が新入園児の保護者からあることがあります。声をかけないと食べないからという理由からです。また、ほかの園で、子どもに自分で量を決めるやり方に猛烈に反対する保護者がいるということを聞いたことがあります。指針にも「喜んで食べることが心と体の栄養となるとし」と書かれているように、逆に言われて食べることは、心と体を壊すことがあります。そのために、「食事の環境を様々に工夫し、明るく楽しい食事の場にするとともに」と書かれてあるように、食事の場の持ち方が栄養にずいぶん影響するものです。栄養価、栄養素、摂取量ばかり言いすぎている気がします。
投稿者 fujimori : 23:42 | コメント (5)
2009年10月29日 [旅先にて]
幕の内駅弁
先日、姫路から帰るときに駅弁を買いました。その駅弁のふたには、「日本初の“幕の内駅弁”販売」と書かれてあります。
駅弁は、日本独特な食文化です。それは、以前のブログでも紹介したように、電車の中の座席でものを食べるということは外国ではせず、食堂車が整備されたからです。しかし、弁当は、どの国でも、昔からあったでしょう。というのは、食べ物はその場で食べるというよりは、持ち歩くことがあったからです。しかし、記録に残っているものでは、日本では、5世紀頃にはもう、そういう習慣があったとされています。また、そのときにはおにぎりにして持っていくとか、干しものにして持っていくとかしていたでしょうが、いわゆる今弁当と言って思い出すような、白飯と副食という組み合わせになったのはいつかははっきりしないようです。しかし、白飯と副食という組み合わせが次第に手が込んできて、「幕の内弁当」と呼ばれるようになったのは、江戸時代中期のようです。
江戸中期に、料亭のようなところで、弁当を製造し、販売していました。その頃の庶民の娯楽と言えば芝居見物でした。この芝居というのが丸一日がかりというのも珍しくありませんでした。そこで、当然観客はお腹が空きます。その観客を目当てに弁当売りがいて、観客は幕と幕の間(幕のうち)にその弁当を食べました。というわけで、芝居小屋で売られていたスタイルの弁当を幕の内と言うようになりました。芝居の間に食べるものとして、幕の内だけだなく、うな丼とかうな重も手軽に美味しく食べられるようにと生まれたものです。しかし、説はいろいろとあるようで、「幕の内側で役者が食べるから」「相撲取りの小結が幕の内力士であることから"小さなおむすび"の入っている弁当を幕の内弁当と呼ぶようになった」などがあります。また、芝居鑑賞のときだけでなく、相撲観戦のときにも相撲茶屋が弁当を提供していました。そこから幕内力士のように相撲の世界にも幕の内という言葉が持ち込まれたという説もあります。容れ物は、重箱などに入れていたようです。
明治以降になってからは、幕の内弁当は駅弁の様式のひとつとして広まっていきます。このころのことが、先日買った「まねき食品株式会社」の駅弁のふたに書かれてあったのです。1888(明治21)年に山陽鉄道(現JR山陽線)が姫路駅まで開通したときに、明治初年から茶店を開業していた竹田木八が、その翌年に姫路駅で「幕の内駅弁」を売り出しました。この弁当が、全国初の幕の内駅弁とされていると書かれてあります。その弁当は、それまでの竹皮で包んだ駅弁と違い、容器の回収ができないことから、使い捨ての経木の折詰に盛るという方法をとり、その容器がその後一気に広まっていきました。この経木は、殺菌効果のあるという松材を使用しました。
元祖「幕の内駅弁」と言っている当時の弁当は、13種類のおかず(鯛塩焼、伊達巻き、焼蒲鉾、卵焼き、大豆昆布佃煮、牛蒡、蕗、百合根、筍、人参、空豆、きんとん、奈良漬)を上折に、下折には梅干しを入れた白飯を入れ二重の折詰にして、当時お米1升6銭の時代に12銭で販売致しました。
今、幕の内弁当は、以前人気が高いようですが、売られているのは、芝居小屋から駅弁からコンビニに変わりつつあるようです。
投稿者 fujimori : 21:47 | コメント (5)
2009年10月28日 [新聞記事より]
小学○年生
テレビコマーシャルで一世を風靡したものに、小学館の「ピッカピカの1年生」シリーズがあります。いろいろな地方の独特の方言や、男の子や女の子たちが照れながらピカピカのランドセルを背負ったもうすぐ1年生の姿に、1年生になる喜びがあふれていました。そして、増刊扱いの「入学準備 小学一年生」を買うことによって、小学生になるのだという自覚を持つようになるというCMです。そんな、小学生になじみのある「小学○年生」という雑誌について、「小学五年生」「六年生」休刊へというニュースが流れました。
10月26日の産経新聞によると、「小学館は26日、学習雑誌『小学五年生』『小学六年生』を平成21年度いっぱいで休刊すると発表した。両誌は大正11年に創刊。最大発行部数は、五年生は63万5千部、六年生は46万部をともに昭和48年4月号で記録したが、最近は高学年児童の関心の多様化などから需要が減少し、部数は5万部から6万部で推移していた。」ということのようです。ということで、五年生は来年2月3日発行の3月号、六年生は今年12月28日発行の2・3月合併号が最終号となるようです。この事情について、小学館広報室は「近年の社会状況や学習環境の変化はたいへん大きく急激であり、子供たちの趣味や嗜好の多様化が進み、情報も細分化されている。(2誌が)大きな時代の変化と読者のニーズに必ずしも合致しなくなった」とコメントしています。いかにも時代だと思いますが、その休刊の2誌に代わりには、22年春から学習マンガ誌『GAKUMANPLUS(仮題)』を創刊予定だそうです。ただ、「小学一年生」から「四年生」は来年度以降も発行を続けるようです。どうも、子どもたちの趣味や嗜好が大きく変わってきたのは、小学校高学年のようです。
これらの雑誌の歴史はずいぶんと古いので、お世話になった人の年齢層は相当広いでしょうね。「小学五年生」と「小学六年生」は、大正11年(1922年)に送還されていますが、大正13年には、「小学四年生」が創刊され、大正14年に、「セウガク一年生」「セウガク二年生」「セウガク三年生」が創刊され、全学年がそろいました。しかし、いろいろな歴史をたどると、必ず戦争が影を落としていきます。昭和16年に、小学校が国民学校と改称したために、誌名も「国民○年生」に変更されています。次の年の昭和17年には、戦時統制により、「良い子の友」と「少国民の友」に統合されてしまいます。
戦後まもなくの昭和21年、「小学一年生」から「小学六年生」が復刊します。そして、昭和55年から平成6年までの間、「ピッカピカの一年生」(電通の杉山恒太郎の発案)がテレビから流れるのです。そして、次第に幼児教育が重視され、昭和57年には、「学習幼稚園」が創刊されています。
これらの雑誌は、私の子どもの頃は、学習誌でしたが、次第に娯楽性を増していきます。そして、掲載されている主なものが、4年生くらいまでは、連載漫画やアニメのキャラクター、5,6年では、アイドル歌手や人気女優の写真を使うようになっていきました。そんな紙面からは、様々なヒーローが生まれています。鉄腕アトムアニメ第1作は、1963年の「一年生」から「三年生」に登場します。また、オバケのQ太郎、 ロボタンシリーズ、快獣ブースカ、パーマン、悟空の大冒険、冒険ガボテン島、おらぁグズラだど、ウメ星デンカ、いなかっぺ大将なども登場します。この中には少年サンデーなどから参加したものもありますが、朝日新聞から参加したものに「サザエさん」があります。
これらどの名前を見ても懐かしいですね。その生みの親であった雑誌が休刊になるのも時代かもしれません。
投稿者 fujimori : 20:55 | コメント (4)
2009年10月27日 [新聞記事より]
漢字
最近の新聞紙上は、漢字が話題になっています。そのひとつは、ブログでも書いたように、今日から読書週間が始まり、その初日である今日は、「文字・活字文化の日」だからです。ですから、今日の読売新聞の社説は、活字文化について書かれています。そこには、電子書籍の利用者について、「利用したことがある」が8%、「電子書籍の普及が読書人口の拡大につながると思う」は44%に上っていることを取り上げ、グーグル社が現在、世界中の書籍をデータベース化し、電子書籍として販売する計画を進めていることを紹介しています。私も何冊か書籍を出版しているのですが、出版社からその承諾についての手紙が来ました。
そして、社説では、来年が「国民読書年」とする国会決議も昨年採択され、その運動の大きな柱として、子供の言語力向上を掲げているそうです。読書活動は、子供たちの考える力や読解力を育んでいく上でも欠かせず、多感な時期に出会った書物は、その後の生き方や考え方に大きな影響を与えるだろうと言っています。
もうひとつの話題は、今月23日に「新常用漢字表(仮称)」に関する試案を審議している文化審議会国語分科会の漢字小委員会が、試案の修正案を承認したというニュースです。この承認された追加字種候補は、196字です。また新漢字表の名称は常用漢字表を踏襲することになりました。たとえば、新たな追加字種候補には、哺乳の「哺」、楷書の「楷」、親睦の「睦」、「釜」、禁錮の「錮」、賄賂の「賂」、勾配の「勾」、毀損の「毀」などです。逆に外されるのは、忌憚の「憚」、哨戒の「哨」、諜報の「諜」などです。これによって、常用漢字表は、2136字になります。
もうひとつの話題は、民主党が掲げる「子ども手当」についてです。これは、その手当がどうということではなく、「子ども」か「子供」かという議論です。10月12日の 産経新聞でそれを取り上げています。この筆者は、「「子供」と「子ども」とは別の概念だ。小児または小児らを指すのが「子供」で、「子ども」は「子+複数を表す接尾語ども」を表す書き方だ。なるほど「子ども」と書いても、この「ども」に複数を表すという意識はもうほとんど薄れている。だからといって、この接尾語「ども」が完全に滅んだかといえばそうではない。野郎ども、アホども、子供どもといえば複数概念がちゃんと生きていることが分かろう。この「ども」には、相手を見下すニュアンスがある。だから、「子供」よりもよほど子供を侮った書き方なのである。」
どうしてこんな議論が起きるのかというと、一部の人に、「供」はお供の供で、子供を供え物のように扱う人権無視の書き方だという人がいるからです。
また、24日付読売新聞編集手帳でもこの話題を取り上げています。読売新聞のこの欄では、国民の祝日〈こどもの日〉を除き、もっぱら「子供」と表記してきたそうです。英文学者、柳瀬尚紀さんの著書の一節を紹介しています。「〈(差別だとは)…お笑いです。「子ども」では「ガキども」「野郎ども」「男ども」「女ども」を連想して、かえって子供に申し訳ない。ぼくはずっと「子供」で通しています。(新潮社「日本語は天才である」」
民主党が打ち出した「子ども手当」は、思わないところで議論を呼んでいます。
投稿者 fujimori : 22:58 | コメント (4)
2009年10月26日 [近頃思うこと]
霍乱とマスク
今日、職場で少し熱っぽい職員が相対をしまいした。今はやりの新型インフルエンザではなさそうですが、それでもあまる普段病気になりそうもない丈夫そうに見える職員なので、私が「それって、鬼の“かくらん”じゃないの」と冗談に声をかけました。すると、その場にいた若い職員はその言葉を知らない人が多かったのですが、最近はあまり使わなくなっているのかもしれません。この“かくらん”は、“霍乱”と書きます。かくらんというと“攪乱”という字が先に出てきます。こちらの時のほうがよく使うのでそう思ってしまいますが、“攪乱”とは、「かき乱すこと。混乱させること」という意味で、よく、「敵を攪乱する」などと使います。しかし、この意味では、本来の読みは「こうらん」というなしいのですが、今ではほとんどの人が「かくらん」と読んでいるようなので、「大辞林 第二版」では、「かくらん」という項目があり、「こうらん(攪乱)」の慣用読みとしています。
ということで、「おにのかくらん」は、「鬼の霍乱」と書きます。この時の「霍乱」は、 中国では嘔吐や下痢を起こす急性消化器疾患の総称とされていました。それを日本では一般に日射病や暑気あたりのことをいうようになりましたが、古くは腹痛や嘔吐を伴う急性胃腸病をさしたそうです。今は、気あたりによって起きる諸病の総称として使います。また、「鬼」というイメージは、非常に勇猛な人、あることに精魂を傾ける人、無慈悲な人、などに使われます。ということで、そんな丈夫そうな人が病気になることはないだろう、ましてや日射病などにはなりっこないのに、なってしまうことから、「いつも非常に健康な人が、珍しく病気にかかることのたとえ」として使われます。
最近の新型インフルエンザの対応は仕方ないとはいえ、行きすぎのところがある気がします。先日、インフル対策として聴衆に全員マスクをかけて聞くようにということを注意されたなかで講演しました。私が普段講演するときには、原稿を見てしないことにしています。それは、聞き手によって、その表情、反応などによって話題を変えることがあるからです。それは、聞き手の地域、年齢層などによって興味のあるところが違うからです。話しながら顔の表情を見るのですが、マスクをしていると目のところしか見えません。すると、なんだかみんな怒っているかのように見えます。興味のなさそうな顔に見えます。あとで、とてもよかった、とてもわかりやすく頷くことが多かったと言われて安心したのですが、話している最中は反応が心配でした。人は、目元だけでなく、口元を含め、顔全体で気持ちを表すのだということがよくわかりました。
少し前にある保育園に園内研修で伺ったときに、区からの指示で職員が全員マスクをして保育をしているという話をしていました。食事の時までマスクをしているのだそうです。そのときに、まず、誰のためにマスク着用が指示されているのか不思議に思いました。もちろん、職員が罹患の恐れがあるときにはマスク着用が効果的ですが、そのときにはそんなことをするよりも休んだ方がいいと思います。それとも、子どもからうつらないようにするためでしょうか。そのために保育に必要な表情を子どもに見せずに、自分を守っているのでしょうか。1日中マスクをし、何週間もマスクをして保育をすることは、子どもにとっては機械に見てもらっている感覚になってしまうでしょう。楽しいことをしても楽しい表情もせず、うれしい表情もせず、目元だけを見せて、いつも怒っているような印象を与えかねません。保育は、人と人とが 関わることで成り立ちます。それを、予防という対策から避けるべきではないと思いました。
投稿者 fujimori : 23:50 | コメント (5)
2009年10月25日 [近頃思うこと]
夏から秋
昨日、訪れた青森では、初霜が記録されました。もう秋が深まってきました。こんな季節、アメリカやヨーロッパでは、新聞やテレビのニュース、企業の海外支店のHPでは、昨日からある注意を喚起する情報が流れています。人々は、その警告を忘れたり、ちょっと油断したりするとたいへんなことになるので、気をつけなければならないようです。その警告とは、
「10月25日(日)、午前3時に時計の針を1時間戻すことをお忘れなく!」というものです。私たち日本人が、どうもなじめないものに「サマータイム」がありますが、そのサマータイムが今日終了し、今日の午前3時から標準時になったようです。この時間調整は、各国で行われていますが、呼び方は、ヨーロッパでは、サマータイム( Summer Time)都言い、開始は、2009年3月29日(日)1:00 amから終了が2009年10月25日(日)1:00 amまでです。カナダやアメリカやオーストラリアでは、デイライト・セービング( Daylight Saving Time)と言い、開始が2009年3月8日(日)2:00 amで、終了が2009年11月1日(日) 2:00 amとなっています。地域によって時差のある北米では、それぞれの時間帯で、3月7日から3月8日に日付の変わった、深夜2時に、時計を1時間進め、3時とします。また、終了時は、同じく10月31日から11月1日付の変わった深夜2時に、時計を1時間戻し、1時とします。ですから、終了の時は一時間多く寝られます、一日が25時間という事になります。ヨーロッパの場合は10月最終日曜日の午前2時を午前1時にします。したがって、ドイツの場合、日本との時差は7時間から8時間になります。例えば夏時間なら日本の正午がドイツの午前5時、冬時間なら午前4時にというわけです。
やはり、実感としてはどういう感覚になるのかよくわかりません。ヨーロッパに転勤した人の話ですと、この日の最初の仕事は、家中の時計を1時間遅らせること。置き時計や目覚し時計を始め、電子レンジや炊飯器の家庭電化製品、ビデオやオーディオ等など。車の時計も忘れずに。全部の時計を直したつもりでも、必ず忘れられているものがあるのもで、数日経ってからそれを発見すると、やはり変な感じがするそうです。しかし、この日にサマータイムから標準時に戻すという言い方をするのは、実はグリニッジ標準時)Greenwich Mean Time: GMT)そのものには、サマータイムがなく、1年中同じ時を刻んでいるのです。ですから、便宜上変えているだけです。
この夏次官という考え方は、すでに18世紀にベンジャミン・フランクリンが提唱しましたが、彼の時代には実現しませんでした。その後、第一次世界大戦中のドイツで、1916年4月30日から10月1日まで、同じくイギリスが1916年5月21日から10月1日まで初めて採用されました。アメリカ合衆国では1918年と1919年に各7か月間、夏時間が導入されたのですが、大変に不評のため廃止になっています。その後第二次世界大戦中に資源節約目的で復活し、現在に至っています。日本では、連合軍の占領下にあった1948年から1951年までの4年間、夏時間が実施されました。
この目的は、夏の間、太陽の出ている時間帯を有効に利用するということで、夜明けが早い夏の間、早くから仕事を始め、早く仕事を終え、従って早く消灯することになれば、省エネルギーにつながることが最大の導入理由といわれています。また、終業後もまだ明るい場合が多くなるので、その時間をレクリエーションに当てることができるとも言われていますが、サービス残業時間が拡大する心配も言われています。
どんな感覚になるのか、一度、変わる瞬間を、サマータイムが導入されている国で体験したいものです。
投稿者 fujimori : 21:30 | コメント (4)
2009年10月24日 [近頃思うこと]
食欲の秋
「読書の秋」同様に「食欲の秋」という言葉もつかわれることがあります。私は、この意味を次のように考えます。
秋は実りの秋といわれるように様々な植物が実をつけます。日本では、主食であるコメが実りますし、柿、栗、りんご、ぶどうなどの果物も大きな実をつけます。そんなおしそうな食べ物を見ると、食欲がわいてきます。また、それに引き換え、次にくる冬は食べるものが少なくなります。そこで、冬に備えて食べ物を貯蔵しておかなければなりません。そのために、いろいろな食べ物を貯蔵するために技術が考えだされました。腐ったり、奪われないような貯蔵小屋、日持ちさせるような加工技術。乾燥させたり、餅にしたり、漬けこんだりと、様々な方法が生み出されました。同時に、自分の体にも貯めておかなければなりません。特に、この方法は、動物に多く見られますが、人間でも蓄えておけないものなどは、体に蓄えていたでしょう。そして、冬になると厳しい自然の中で、それを乗り切る体力つくっておかなければなりません。また、冬はとても寒く、体が冷えてしまいます。そのために衣服で調節したり、火を使ったのですが、それでもかなり寒かったでしょう。そのために体に脂肪を蓄えて、体の体温を維持したと思われます。体脂肪には、内臓脂肪と皮下脂肪がありますが、内臓脂肪は内臓を保護して内臓間のクッションの役割を果たしますが、皮下脂肪は、体温を下げないように断熱する役割と、気温を断熱して体内への影響を最小限にする役割と骨や筋肉などを保護するクッションの役割があるある意味では大切なものです。ですから、秋はたくさん食べて、体脂肪を増やして冬の寒さに耐えられるように体脂肪を増やそうとしているからです。逆に、春になると食が細くなるのは、暑い夏には余計な体脂肪がない方が涼しいので、体脂肪を減らそうとしているからです。それらもろもろの理由から、秋という季節は、自然と食欲が増し、多く食べていたのでしょう。
このように体が食べなければいけないと思わせるために「食欲」という、食物を食べたいという欲求が起きるのです。この食欲をコントロールしているのは、脳の外側視床下部にある摂食中枢と腹内側核にある満腹中枢だということは分かっていますが、この2つの中枢に影響を及ぼすものは、いろいろとあり、なかなか複雑です。しかも、なにを食べたくなるか、何に食欲がそそられるかも面白いことがわかっています。そこに、男女差があると言います。女性特有の食欲に、空腹感が伴わない「感情で食べる」という摂食行動があるそうです。おいしいものを見たり、匂いをかいだりして食欲がそそられるというのはよくあるのですが、この「感情」が食欲に左右するのは、男脳では起こりえない摂食行動だそうです。それは、「イライラ・不満な時に食べる」ことです。特に、「イライラすると甘い物が欲しくなる」ということだそうです。もちろん、女性が100%そうなるわけではありませんが、70%位がそうなると言われています。その理由は、「食べる」ことでなく、イライラという感情が生じると甘味、すなわち、ブドウ糖の原料を求めるからだと言われています。そして、その特性は、女脳の生物的な仕組みだと言われています。
それとは別として、満腹なのに、おいしそうな食べ物を見たり、匂いをかいだりすると、つい手が出てしまうのは、大脳の感覚中枢がはたらくためです。大脳が発達している人間だからこそ、視覚、嗅覚、聴覚などの五感が記憶を呼び覚まし、食欲が喚起されるといいます。
ただ、子どもに食べろというのではなく、普段から5感を刺激することも大切です。
投稿者 fujimori : 22:25 | コメント (5)
2009年10月23日 [近頃思うこと]
本離れ
最近の若者は本を読まないと言われている半面、本屋さんにはたくさんの新刊が並び、最近は、2巻合計で220万部を超える大ベストセラーとなった作家村上春樹さんの長編小説「1Q84」が話題になりました。本を読む人が減ったといわれる中、一体だれが読んでいるのだろうか不思議に思います。
文化庁では,国語施策の参考とするため,平成7年度から毎年「国語に関する世論調査」を実施しています。今年の3月に,日本語を大切にしているか,人とのコミュニケーションについて,読書について,情報機器と言葉についてなど,国語に関する一般の人々の意識を調査するとともに,カタカナ語の認知度・理解度・使用度や慣用句等の言い方・意味について調査しています。その中で、読書についてこのような結果が出ています。
まず、現在、雑誌や漫画を除いて、1か月に大体何冊くらい本を読んでいるかを聞いた結果は、「1,2冊」が36%、「読まない」と答えた人が46.1%でした。平成14年に同じ質問をしたところ「全く読まない」と答えた人は37.6%でした。この結果を見ると、やはり最近は本を読まなくなっているのは本当のようです。では、どんな年代が読まないかという結果では、20代~50代で「読まない」と答えた人はそれぞれ4割程度で、16~19歳では4割台後半、60歳以上では5割台半ばでした。この結果からみると、最近の若者は本を読まないというのは少し違うようです。ただ、60歳以上は、目が悪くなるので、読むのがつらくなるから読まなくなるでしょうから、多いのであって、結局はどの年齢でも読まなくなっているようです。
では、読んでいる人はどのような本を読んでいるのでしょうか。「小説や詩などの文芸書」(56.6%)、「趣味やスポーツに関する本」(41.3%)を選択した人の割合が高く、「料理など日常生活に関する本」(24.5%)、「医療や健康に関する本」(23.3%)がそれに続いて読まれているようです。この結果を見ると、やはり村上春樹などがベストセラーになるのは分かりますね。では、男女では、読むものが違っているのでしょうか。「生き方や宗教・哲学に関する本」「言語や語学に関する本」以外の選択肢では、男女で8~33ポイントの差があるようです。特に、「料理など日常生活に関する本」では、女性の方が33ポイント高く、まだまだ料理は家庭では女性が担っているのがわかります。逆に「政治や経済に関する本」では、男性の方が28ポイント高くなっています。やはり、男女では詠む本の種類が違うようです。
では、本人は読書量が増えているか減っているかどう思っているのでしょうか。「減っている」が64.6%、「それほど変わっていない」が25.3%、一方,「増えている」と答えた人は8.6%しかいなかったようです。その理由は、「仕事や勉強が忙しくて読む時間がない」(51.2%)、「視力など健康上の理由」(36.7%)を選択した人の割合が高く、「テレビの方が魅力的である」(25.0%)、「携帯電話やパソコン,ゲーム機などで時間が取られる」(14.8%)が続いています。この結果を見ると、最近は必ずしも活字離れということではなく、高齢化社会になって、高齢者の割合が増えたことと、忙しくなって、時間的に余裕がなくなってきたことに本を読まなくなった理由があるようです。ですから、当然、「仕事や勉強が忙しくて読む時間がない」を選んだ人の割合は、20代から40代では7割台半ばから約8割と高くなっているようです。ですから、「増えている」と答えた人の理由は、「時間に余裕ができた」が、47.6%いました。
やはり、本離れは活字離れというよりも、時間の余裕の問題のようです。
投稿者 fujimori : 21:21 | コメント (7)
2009年10月22日 [記念日]
灯火
少し前のブログで、皆さんは何の秋を思い浮かべるかという話題を書きましたが、やはり、「読書の秋」というのが老舗の気がします。確かに、すでに1918年(大正7年)9月21日の『読売新聞』には「読書の秋」という表現が使われているそうです。どうして、秋と読書が結びついたかというと、古代中国の韓愈が詠んだ「時秋積雨霽、新涼入郊墟。燈火稍可親、簡編可卷舒。」(降り続く長雨がやんで、空がすっきりと晴れ渡り、郊外の丘の上では、秋を感じさせる涼しさが感じられる。そんな秋の夜長は、明かりをつけて、そのもとで読書をするのに適している季節です。)という中の「灯火親しむべし」からだと言われています。出典は、中国の文人で唐宋八大家のうちの一人である韓愈の「符読書城南」(『全唐詩』341巻)です。彼が、息子に対して勉強を勧めたことばだとされています。
この中の「新涼」という言葉は、とてもさわやかさを感じます。「全訳漢辞海 第二版」によると、「初秋のころの涼やかさ」とあり、「秋はじめて催す涼しさをいう。夏の暑さの中の一時的な涼しさと違って、よみがえるような新鮮な感触がある。秋涼し。秋涼。」との説明がされています。また、「灯火」という言葉も、「明かりの下で」ということで、「灯下」と書きそうな気がするのですが。
終戦まもない昭和22年、まだ戦火の傷痕が至るところに残っているなかで「読書の力によって、平和な文化国家を作ろう」という決意のもと、出版社・取次会社・書店と公共図書館、そして新聞・放送のマスコミ機関も加わって、11月17日から、第1回「読書週間」が開催されました。そして、翌年の第2回から来週火曜日の10月27日~11月9日の文化の日を中心にした2週間が「読書週間」と決められ、日本の国民的行事として定着し、日本は世界有数の「本を読む国民の国」になりました。
しかし、この「読書週間」も戦争によって翻弄されます。実は、関東大震災の翌年の大正13年、11月17日から23日までの1週間を日本図書館協会が「読書週間」として開始しました。それが、昭和8年に「図書館週間」と改称され、出版界ではそれと密接な連携を保ちながら「図書祭」を計画し、当時の東京商科大学一橋講堂で、祭典が行われましたが、そのとき祝辞を述べたのが、鳩山一郎文部大臣でした。しかし、日中戦争の影響で昭和13年、読書運動は、11月10日の国民精神復興に関する詔書煥発記念日に改められ、政府の「国民精神復興週間」に変わって行きます。「図書館週間」も、昭和14年に文部省が発令した「一般週間運動廃止令」によって禁ぜられましたが、何とか、「読書普及運動」と名称を変えて、11月8日から12日までの5日間の開催で継続を計ります。しかし、ますます悪くなる時局の緊迫化から、読書週間、図書館週間ともこの年で終止符を打つことになってしまったのです。
それが、敗戦後の昭和22年に復活するのです。その後、この年、毎日新聞社により「毎日出版文化賞」が創始され、昭和28年には、学校図書館協議会の提唱に共催して「青少年読書感想文全国コンクール」がスタートします。
こんなに大切にされてきた「読書」ですが、次第に本を読まない若者が増えてきました。若者だけでなく、時間がないからといって本を読まない人も増えているようです。夜長の秋ではなく、夜短の秋のような生活をする人が増えていることは、心に余裕がなくなり、イライラする人が増えてきたことと関係があるかもしれません。
投稿者 fujimori : 21:43 | コメント (4)
2009年10月21日 [記念日]
夕べ
また、最近宇宙が話題になっています。まず、一昨日から明日にかけての未明、2006年以降、出現数が急増しているオリオン座流星群がピークを迎えます。流星群は、定期的に話題になりますが、見える時の季節や時刻や月の状況に左右されますが、今年は月明かりがないため条件が良いそうです。この流星群は、普段でも見ることができるのですが、最近見える数が急増していて、通常は1時間に20個程度の流星しか見ることができないのですが、2006年以降1時間当たり50個以上を見ることができるようになっています。見える場所は、オリオン座流星群というように、オリオン座の近くの場所から放射に飛ぶようです。冬の星座であるオリオン座は、今の時期は未明の東の夜空に浮かびます。この流星群は、約3000年前にハレー彗星から放出された「ちり」だそうで、見える数が増えたのは、この時期に、地球の軌道に接近するためで、次に急増するのは70年後で、しかも、来年は月明かりもあるので、今年がに肉眼で観察できる最後のチャンスだそうです。
もうひとつ、明日の10月22日から24日の3日間、世界天文年の企画のひとつ「ガリレオの夕べ」(Galilean Nights)が世界各地で一斉に開催されます。現在、夜、南の空を見ると、どんなに曇っていても一つの明るい星が見えます。瞬きはしないのですが、とても大きく明るく光っています。これは木星です。この期間に、月や木星などの観望会を開いて、およそ400年前、1609年から1610年にかけてガリレオが望遠鏡で月や木星を見たときの驚きと感動を、世界中の人々に体験してもらいたいという思いから、「ガリレオの夕べ」が開催されるのです。
とくに今観察しやすい木星とその衛星を詳しく観測しようという企画が、世界天文年2009日本委員会が「君もガリレオ」というプロジェクトを行うようですし、世界の主要企画として、「小望遠鏡をみんなの手に(The Galileoscope)」グループによって、「木星観測キャンペーン」が展開されます。ほかにも、世界各地でイベントが行われますが、日本で行われるものは、世界天文年の日本のウェブサイトで、世界各地で行われるものは、Galilean Nights のウェブサイト (国際版) で地図上に表示されています。
22日から24日の間の夕方には南西の空の低いところに半分に満たない月 (上弦前の月) が見えていて、南の空に木星が一番目立っています。また、これは小望遠鏡以上でなければ見えにくいのですが、その周りに四大衛星と小さな衛星たちが見えます。木星には2009年1月現在で63個もの衛星が発見されています。その中でイオ、エウロパ、ガニメデ、カリストと呼ばれる4つの衛星は特に大きく、1610年にガリレオ・ガリレイによって発見されたことから「ガリレオ衛星」と呼ばれています。これらの惑星を時間をおいて観察すると、木星の周囲を公転している様子を見ることができます。
そして空高く見上げれば夏の大三角がそろそろ夏の終わりを迎えて役目が終えるかのように暗くなって早いうちに消えていこうとしています。そのほかの夏から秋の星座への引き渡しが広い夜空で行われています。また、ふだんよりも流れ星を目撃できる確率が高い時期でもあるのですが、ちょうどオリオン座流星群の活動期間とも重なっていて、天文少年にはたまらない時期かもしれません。
投稿者 fujimori : 23:11 | コメント (4)
2009年10月20日 [記念日]
広告
先週の15日、日本新聞協会から2009年度「新聞広告クリエーティブコンテスト」の結果発表があったことが報道されていました。今日、10月20日は「新聞広告の日」です。由来は新聞週間(15から21日)の中で覚えやすい20日を記念日にしようと、「日本新聞協会」が1974年に制定したものです。最近は、インターネットをはじめとするデジタルメディアが普及しつつありますが、まだまだ新聞などの紙媒体の影響力は大きいです。そこで、今日の新聞広告の日にあわせ、2002年から「新聞広告を広告する」ということで、新聞広告コンテスト」と題して実施していました。たとえば、2004年度の優秀賞は、「新聞広告だってモノを言おうぜ」ということで、人の顔の前面に「世界を前より平和にしたぜ」と書いた紙が張り付けたような絵柄でした。また、その翌年の2005年度には、「三行あれば何でも言える」というコピーが紙面の中心に書かれてあるものでした。
それが、2006年度からは新聞広告のクリエーティブ強化を目的に、若いクリエーターの方々に、新聞広告の可能性を広げるような独創的で斬新な作品を作ってほしいとの趣旨で年度ごとにテーマを設定して募集することになりました。新聞に結果発表が掲載された今年度のテーマは、「きずな」です。ここに、1465作品の応募があったようで、関心の深さが分かります。
最優秀賞に選ばれたのは、「さみしくなったら‥」ということで、自分のへそを見ている人物がシングル線で描かれてあります。そこに、「さみしくなったら、おヘソを見よう。」とあり、下隅に“あなたがひとりじゃなかったこと。思い出したら、きっと大丈夫。「実感しよう、絆」”と書かれてあります。なかなかいいですね。しかし、私は優秀賞を受賞した作品も好きです。ここには、「人生、何年生になっても“絆”を大切に。だいじょうぶ。友達100人なんていらないんだよ。たった一人の親友がいるだけで、“ひとりぼっち”から卒業できるはず。友情って。広さじゃなくて、きっと深さなんですね。」というものです。絆、友達というとみんなと仲良くなるとか、多くの人とつながらないといけないと思いがちですが、人の多さではないことは、子どもたちの保護者の人たちにも知ってもらいたいことです。このほかの今年の入賞作品は、優秀賞・学生賞「『一人暮らし』なんてウソでした。」、コピー賞「お隣さん」、「演歌な人生にも、ポップな人生にも、ロックな人生にも。」、「新聞受け」です。
これらの賞で、過去のものにもなかなかいいものがあります。「環境」をテーマにした2006年度の最優秀作品「エコ買い」は、今年でも十分と通じる内容です。大きく書かれた牛乳パックの面に「賢い主婦はスーパーで手前に並んでいる古い牛乳を買う」と書かれてあります。それはどういうことかが次の文章で分かります。「自宅の冷蔵庫に新しい牛乳と古い牛乳があれば、どちらから先に飲みますか?古い牛乳からですよね。賞味期限が過ぎて、棄ててしまうのがもったいないですから。しかし、スーパーでは新しい牛乳を選んで買っていませんか?新しい牛乳から売れていくと、そのぶん古い牛乳は売れ残ってしまいます。日本では、毎日約2000万人分の食料が、賞味期限切れなどの理由で棄てられています。できるだけ、売り場の手前にある古い牛乳を買いましょう。飽食や贅沢を見直すことで、食料輸送や焼却処分時の環境負担を減らすことができます。無駄を減らして、CO2排出量を減らしましょう。」
広告から、自分を振り返ること、自分を見つめ直すことができます。
投稿者 fujimori : 19:21 | コメント (4)
2009年10月19日 [近頃思うこと]
たこ
先日の姫路訪問の時の帰りに明石に寄れたらと思っていましたが、時間がなく寄ることはできませんでした。明石というと、私の年代では「日本標準時」が連想されます。現在の日本標準時は、原子時計で示された時刻を世界に発信した協定世界時(UTC)を9時間進めた時刻を日本の標準時としていますが、かつては、兵庫県明石市を通る東経135度の子午線における地方平均太陽時と定義されていました。
この明石から淡路島までフェリーが運航されています。明石港と岩屋港(淡路島)を結ぶこのフェリーの航路は、愛称が「たこフェリー」と呼ばれています。それは、この明石海峡が日本有数のタコの漁場だからです。ですから、中にタコの入ったタコ焼きの一種の明石焼きも今は全国区で有名です。このフェリーの船体にはタコの家族がそれぞれ書かれてあります。
なぜ、こんな話題かというと、全く違う話ですが、一昨日電車に乗っていたら、車内広告で様々なエコについての取り組みを紹介するコーナーで「ドイツで、たこ船が運航される」とあったからです。しかし、この「たこ」はタコ違いで、明石のタコは動物の蛸のことで、ドイツのたこは空にあげる凧のことです。昨年の7月に、大型のたこを利用して燃料削減を実現したドイツの貨物船「ベルーガ スカイセイルズ」(6、312トン)が、横浜港に入港したことを紹介していました。このたこは縦4メートル、横40メートルで、船首につなぎ風力を使って船を引っ張る仕組みです。この貨物船を所有している運送会社は「燃料を約15%節約でき、二酸化炭素(CO2)など温室効果ガスの排出が削減できる」としているそうです。
風力をエネルギーとして活用して航行する船としては「帆船」とか「ヨット」などもありますが、これですと、直接風を船体に設けるために船体が傾いてしまいますし、風を受ける位置が低いために安定しないそうです。この凧は、いわゆる人が凧を揚げるように船の前にロープによって凧を揚げ、その凧が船を引っ張るというイメージです。この貨物船は今年1月に就航したそうですが、現在、不定期船として世界各国間で風力発電設備などを輸送しているそうです。この凧を上手に併用して使うことによって、燃料の消費量を50%程度、排気ガスは10%から35%程度、減らすことができるといわれています。
またイタリアでは凧を利用して発電する「凧力発電」が研修されているそうです。多数の凧を空に揚げ、地上の発電機をぐるぐる回すというもので、一見単純な原理ですが、その出力は原発に匹敵する1GWもあるそうです。しかも発電コストは現行の30分の1ですむといわれています。船の運航に使うときと同じで、凧は高い上空を飛ぶので、気流が強く安定しており、動力として効率的であるとのことです。
自然エネルギーとして、風、光、雨を利用することが盛んにおこなわれるようになってきました。また、そのエネルギーをを取り出す手段として「凧」が使われてきているということは面白いですね。むかし、フランクリンが凧を使って雷を取り入れたことで有名です。まだまだ自然界には利用できそうなものが多くあります。最近、発電に海での波による水の上下運動を使おうということがあるそうですが、地震や火山なども大きなエネルギーを持っています。これから、どんなものが使われていくでしょう。
投稿者 fujimori : 20:36 | コメント (4)
2009年10月18日 [近頃思うこと]
つた
以前のブログにも登場しましたが、秋の歌で好きな歌に「薩摩忠」作詞の「まっかな秋」があります。その歌詞に「まっかだな まっかだな つたのはっばが まっかだな もみじのはっばも まっかだな」とあるように秋に真っ赤になる代表として紅葉のほか「つた」が挙げられています。
このツタ属の学名は、「Parthenocissus(パルセノキッサス)」と言いますが、この語源は、ギリシャ語の「parthenos(処女)+ cissos(ツタ)」からもわかるように赤い葉の代表です。このツタは、つる性でどんどん伸びるために山林や岸壁などに自生しますが、街中でも樹木や壁に巻きひげの吸盤で伝う姿をよく見かけます。この「つたう」から「つた」になったといわれています。 私の園でもそうですが、このツタを壁にはわせると夏は建物の中が涼しくなる効果があり、そのためにも建物を伝え覆うことをします。
先日の岡山から姫路に行く旅の途中、倉敷の「アイビースクエア」に寄りました。この施設は江戸幕府の代官所跡に明治22年(1889年)に建設された倉敷紡績創業の旧工場で、昭和48年(1973年)に改修され、観光施設として再生されたものです。その中のアイビー学館は建物全体がアイビーで覆われ、その前の立札にこんな説明がされています。
「平安時代には早春に、この幹から液をとり煮詰めて甘味料を採った。砂糖のなかった時代の甘味料として珍重されたことが、古今著聞集・源氏物語・尺素往来物の書物にのせられている。ただし、葉は食用にならない。落葉性のこの“なつづた”に対して常緑の“ふゆづた”があるがこれは「うこぎ科」に属する。この壁面の“つた”は、昭和の初期に西日のため室温の上昇するのを防ぐため植えられたものである。」
アメリカで、フットボール連盟が8校の参加で結成されたリーグ名に「アイビー・リーグ」というのがありますが、これは、レンガ造りの校舎に生い茂る蔦(アイビー)が各校のシンボルとなっていたことから、スポーツ担当記者が命名したものです。この8校は、アメリカのエリートを育成する学校としても名高く、生徒達は、家柄も良く、優秀な頭脳の持ち主で、社会的にも指導的な立場となる為、必然的に着用の服は、保守的で、てらいが無く、オーソドックスで、伝統的ながらも、着易く、活動的なものでした。それが、アイビー・ルックといわれたものです。このファッションは、日本でも大きな反響があり、私が学生時代には、VANジャケットの提供する情報誌やMEN'S CLUBから、いろいろな新しい和製英語の服装を知りました。たとえば、「トレーナー」、「ダウン・ヴェスト」、「スウィング・トップ」、「ポロシャツ」等です。
このように伝統を表す「つた」ですが、日本でも蔦紋という、ツタの葉・茎・花を図案化した日本の家紋の一種がありますが、日本十大紋の一つです。強い生命力、絵になる葉の姿から、藤原時代には既に文様として愛用されていたそうです。江戸時代に松平氏が用い、8代将軍吉宗が出た紀州徳川家が替紋として蔦を用いたことから、権威のある家紋として認知され普及したそうです。また、優雅ながらもほかの樹木や建物などに着生する習性から付き従うことに転じて、芸妓や娼婦に好まれ、また、蔦が絡んで茂るさまが馴染み客と一生、離れないことにかけて芸妓や娼婦などが用いたといわれています。
そういえば、泉鏡花の名作「婦系図」の主人公は、「お蔦」と「主税」でした。お蔦のセリフ「切れるの、別れるのって、芸者の時にいうせりふ。今の私には、いっそ死ねといって下さい。」を紅葉したツタを見て思い出すので、年寄りかもしれません。
投稿者 fujimori : 20:47 | コメント (4)
2009年10月17日 [地域を知る]
安兵衛
地名を聞いて、何を連想するかということで、年代がわかります。私の園がある「高田馬場」と聞いて何を連想するでしょうか。現在のJR高田馬場駅の発車メロディーは、鉄腕アトムの旧シリーズのテーマ曲ですが、それは手塚治虫が社長を務めた手塚プロダクションが高田馬場にある事と、お茶の水博士が長官を務める『科学省』が高田馬場にあったという設定から選定されています。また、学生の人からは、早稲田大学の町という印象があります。駅を出たところの通りは「早稲田通り」といい、早稲田大学に通じています。その道沿いには、古本屋やあの漫画のフクちゃんもかぶっている「早稲田帽」といわれる角帽を売っている店もあります。しかし、今はほとんど学生相手の飲食店が多いのですが。
しかし、駅名は、赤穂浪士四十七士の一人堀部安兵衛の伝説となっている決闘があった事で知られている高田馬場から取っています。しかし、この決闘は講談などでよく語られていたために、今での若い人はほとんど知らないようです。また、私の年代でも、堀部安兵衛が駆けつけた場所というくらいの認識しかありません。しかし、先日岡山から姫路に向かう途中、赤穂に寄った時に改めて堀部安兵衛のことを思い出しました。
私がうろ覚えしている講談での名文句「ひた走る堀部安兵衛」の下りの高田馬場の決闘は、元禄7年(1694)2月11日といわれています。
だいたいの話は、中山安兵衛が、叔父・甥の契りを結んだ菅野という人の決闘に駆けつけて助太刀に入り、相手を十六人斬りしたというものです。なぜ、駆けつけなければならなかったのかというと、決闘相手が菅野を慌てさせる為に直前に決闘状を投げ入れたところ、菅野は、決闘に遅れては武士の恥とすぐに行こうとしますが、その前に叔父甥の契りを結んだ安兵衛のところに別れを告げに行くと、安兵衛は前の晩から飲んでいて、別の場所で酔いつぶれて眠っていて留守でした。そこで仕方なく菅野はその場で文を書いて残していきます。昼近くなってから目が覚めた安兵衛が、菅野の文を読むや「すわ一大事」と慌てて走って、走って、走って、高田馬場までひた走るのです。
それがなぜ赤穂浪士の一員になったのかというと、この決闘を見ていた赤穂家の家臣であった堀部弥兵衛という人が、安兵衛をぜひ自分の養子になって欲しいと熱心に頼みます。その熱意にほだされて、安兵衛は堀部の家に養子に入り、堀部安兵衛となります。その7年後の(1701年)元禄14年に赤穂藩主浅野内匠頭長矩の刃傷事件が起きるのです。そして、その翌年、赤穂浪士による吉良邸討ち入り事件が起きます。
この決闘の場であった高田馬場には、旗本達の馬術の練習場であった馬場がありました。享保年間には、この馬場の北側に松並木が造られ、農民たちが多く訪れたため8軒の茶屋が有ったといわれています。この馬場の一角の茶屋町通りに面したところが安兵衛が叔父の菅野六郎左衛門の決闘の助太刀をしたとされるところです。
そんな高田馬場ですが、先日の新聞にこんなことが掲載されていました。私の園は、高田馬場から目白に向かったところにあるのですが、JR山手線の高田馬場駅から目白駅の間には、車窓から富士山を眺めることができた唯一のスポットがありました。大気が澄んだ冬の早朝などに車窓から南西の方角を見ていると、ビルの間にほんの1秒足らずでしたが、頂上周辺が垣間見え、希少な眺望だということで人気を集めていました。それが、今年の夏以降、商業ビルが建設され、見えなくなっていることが分かったというニュースがながれたのです。
高田馬場も変わっていきます。
投稿者 fujimori : 21:13 | コメント (4)
2009年10月16日 [旅先にて]
鷺と烏
岡山の帰りに姫路に寄ったのは、一つは安藤氏設計の姫路文学館見学ですが、もう一つの目的は、世界遺産の姫路城の見学です。それは、今年から姫路城大天守の保存修理工事が行われるからです。これは、昭和39年に完了した解体復元工事から45年が過ぎ、白漆喰壁をはじめ上層部の軒やひさしに傷みや汚れが激しくなってきたため、本格的な修理を行うようです。修理期間中は、大天守を完全に覆うように素屋根を掛けて作業を実施し、21年から丸5年間は、外部の姿を見ることができなくなるようなので、それまでに見ておこうという目的で訪れたのです。しかし、大天守内部の公開は続けられるそうで、今回時間の関係で内部は見ずに、外観をしっかりと見てきました。
姫路城は法隆寺とともに1993年12月11日、世界遺産リストにその名が登録されました。そして2001年には、国宝指定70周年、築城400周年を迎えました。5重6階の大天守と3つの小天守が渡櫓でつながり、幾重にも重なる屋根、千鳥破風や唐破風が、白漆喰総塗籠造の外装と相まって、華やかな構成美をつくっています。その白漆喰総塗籠された姿は、まさに、天を舞う白鷺のように見えるということで別名白鷺城(はくろじょう)ともいわれます。それに対して、その前日に見た岡山城は、櫓35棟、門21棟があり、天守が下見板張りの黒造りであったため烏城(うじょう)といわれています。
ただ、姫路城にはいくつか説があって、城のある丘が「鷺山」とも呼ばれたからという説や、城が白鷺の飛ぶ姿に見えるためとか、昔からゴイサギが多くすんでいたから、などといわれています。
姫路城の話になると深入りしそうなので、今回は、それぞれの城の別名について考えてみます。岡山城が、烏城(うじょう)といわれていますが、同じ字を書いて「からすじょう」といわれているのが、やはり国宝になっている長野県松本城です。現在は天守群などの建物が現存し、城跡は国の史跡に指定されています。松本城と呼ばれる以前は深志城といって言いましたが、通称として烏城(からすじょう)と呼ばれています。天守の外壁は各層とも上部は白漆くいですが、下部は黒漆塗りの下見板が覆っていることからこう呼ばれているのです。
城で国宝に指定されているのが「姫路城」「松本城」のほかに、「犬山城」と「彦根城」があります。その中の犬山城は、木曽川沿いの高さ約88メートルほどの丘に築かれた平山城で、その佇まいを長江流域の丘上にある白帝城を詠った李白の詩「早發白帝城」(早に白帝城を発す)にちなんで「白帝城」と荻生徂徠が命名したと伝えられています。その近くにある温泉に泊まることがありますが、「白帝の湯」と言います。
また、「彦根城」は、江戸時代に滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、鎮西を担う井伊氏の拠点として置かれた平山城で、その彦根山は別名「金亀山」とも呼ばれるために城は金亀城(こんきじょう)ともいわれています。
このように、城の別名はその姿からつけられたり、その地形から、その地名から言われたりします。その名称は、その由来からして、いかにも民衆が分かりやすいようにそう呼んでいたというようなことは、今でもいろいろなものに、役所がつけた名前よりも普段分かりやすくつけられる愛称で呼ばれるのと同じですね。
投稿者 fujimori : 22:58 | コメント (4)
2009年10月15日 [近頃思うこと]
紙芝居2
高橋五山が、「幼稚園紙芝居」全十巻を出版したのは昭和10年(1935)でしたが、当時の紙芝居に対する世間一般の考え方は、「不潔、教育上よくない」というもので、五山の自伝の中で「街頭紙芝居がつくった紙芝居は不潔。非教育的という概念に固まった幼児教育者に、教材としての効用を説くのに骨が折れた」と述懐しています。そのために、訪問販売に切り替えるのですが、門前払い同様な扱いを受けたこともあったようで、彼の会社である「全甲社」は倒産の危機に陥ります。

そんな昭和11年、「街頭紙芝居に蔓延するグロテスクな強い刺激は、子どもの教育的見地から見過ごすことができないということで「子どもたちのありのままを、作文という行為をとおして、真に自分の頭で考える子どもを育てよう」という「綴り方運動」と連動して「日本紙芝居連盟」が発足します。このころから、日本は戦争に突入していきます。当然、紙芝居は戦争協力を惜しまない国民を作り上げるために利用されていきます。いわゆる「国策紙芝居」がつくられていくのです。そして、昭和15年、大手新聞社の出資のもと「日本教育画劇株式会社」がつくられます。その時の紙芝居は、事前に内容の検閲を受け、裏の説明文は一切のアドリブは禁じられ、その通りに読むことが義務付けられます。
それが、戦後になると一変します。民主主義になり自由になったかというと、今度は、「民主紙芝居人集団」が結成され、民主主義を説く内容は、今度、連合国軍総司令部によって検閲され、忠君愛国的なものや、残忍なもの、特に「血」を描くことは禁止されました。なかなか、子どもの世界に戻って行きません。それが、戻り始めるのは、やはり「黄金バット」が戻ることによって、街頭紙芝居が戻ってくるのです。ただし、黄金バットも「悪を懲らしめる金色骸骨マスクの超人」から「新しい日本と世界平和を守るヒーロー、まさに正義の味方」としての復活でした。
昭和24年、GHQによる検閲が廃止され、今度は思想面からの取り締まりではなく、質を保つために免許制度にしました。しかし、グロテスクな絵とか内容はどんどん増えていきました。一方、紙芝居は学校教育にもさかんに取り入れられるようになりました。伝記、偉人伝、自然観察、道徳教育、理科紙芝居などです。有名文学を原作とする国語紙芝居は補助教材として活用されていきました。ところが、昭和42年に文部省から出された「第一次教材整備十ヵ年計画」によって、紙芝居を学校から後退させました。そこで、数社あった紙芝居出版社も後退していきますが、残った童心社等は、学校から幼稚園や保育園での紙芝居利用に力を入れるようになって行きます。
日本独自の子ども向け文化を、世界絵本博覧会で紹介したり、その普及に力を注ぎ、紙芝居を通じて、文化交流が行われています。特に、ベトナムやラオス、フランス等でも盛んになっています。「KAMISHIBAI」は、世界の人々の心をとらえつつあります。
高橋五山にちなんで、毎年優秀な紙芝居におくられる「五山賞」があります。昨年度は該当なしでしたが、一昨年は、童心社から出された「おじいさんといぬ」(藤田勝治作)が受賞しています。姫路文学館での展示会では、係員が拍子木をたたいて子どもたちを集めていましたが、その音を聞いて、昔を思い出しました。

投稿者 fujimori : 23:12 | コメント (4)
2009年10月14日 [旅先にて]
紙芝居1
安藤忠雄氏の世界を直島で十分に堪能した後、ちょうど日、月曜日と連休でしたので、岡山で妻と待ち合わせて姫路に行きました。そこでの見学の一つは、やはり安藤忠雄氏設計の「姫路文学館」の見学です。

この文学館では、姫路を中心とした播磨ゆかりの文人たちを顕彰し、資料の収集および調査・研究を行う拠点として、1991年4月に市制百周年事業の一環として開館しました。国宝姫路城の北西に位置し、「ユニークなデザインが古い町並みに新しい風景を添えています」とチラシに書かれています。南館と北館2棟それぞれが違った主張で建っており、そのデザインは、他の作品同様、外観だけでなく、存在感たっぷりの厚いコンクリートの壁で区切られた室内と、その長い壁の突き当たりに、外から注ぐ光がまた違った仕切りを作っています。
この文学館の特別展「みんなの紙芝居」が開催されていました。園では、紙芝居は子どもにはとても人気のある教材で、昼寝前になると、子どもたちが好きな紙芝居を選びに職員室にやってきます。この紙芝居は、日本独特の児童文化です。私の子どもの頃以前から、いまだに人気のあるというのも珍しいですね。
この展示のあいさつ文に、「紙芝居は、自転車と荷台をセットした舞台装置で絵と話芸により展開され、至近距離で接する観客の心を捉えて離さない生身の芸能文化でした。テレビ普及前夜の世間に根を下ろし、特に子どもたちに対しては、生活に密着したメディアとして確固たる地位を保っていました。テレビの普及と反比例するように街頭から急速に姿を消した紙芝居ですが、今、教育現場や全国の図書館で注目されるなど、再び熱い関心が寄せられています。」
確かに、紙芝居は子どもたちにとって黄金バットに代表されるような、ある意味で大衆芸能でした。その最初の黄金期は、ずいぶんと早い時期、昭和の初めには訪れます。昭和5年には、飴を売りながら子どもたちに語りを入れた「平絵」が登場し、その秋には「黄金バット」が創出されるのです。当時の紙芝居の裏には説明文がなく、貸し元が紙芝居業者に口伝であらすじを伝え、話し手が講談のように面白おかしく、話していたようです。しかし、それが次第にエスカレートして刺激の強いものが盛んにつくられていきます。そのために、「教育上見逃すことが出来ない」と世間から非難を浴びます。
アメリカの大学で神学を学んだ「今井よね」は、自宅で子どもたちを集めてキリスト教を伝道していました。ある時、その途中、街頭紙芝居の拍子木の音が聞こえた瞬間、子どもたちはみんな外に飛び出して行ってしまいました。彼女がそのあとを追ってみると、身じろぎもせず、食い入るように紙芝居を見つめている子どもの姿を見て、この紙芝居をキリスト教の伝道に使えるのではないかと考え、その内容を考え、紙芝居画家のところに持ち込み、紙芝居を作ります。これが昭和8年、大衆演芸であった紙芝居から教育的目的を持つメディアとしての存在として第一歩だったのです。
これを、きちんとした幼児教育の目的として位置づけたのが「高橋五山」という全甲社という出版社を立ち上げた人です。彼は、街頭紙芝居の持つ、話し手と子どもたちの人間的な結びつきに着目し、さらに「見る、聞く、楽しさに芸術性を盛るなら、楽しさはさらに増すはず」と考え、昭和10年4月に「幼稚園紙芝居」(全10巻)の出版を開始するのです。
その後、私が子どものころによく見かけた紙芝居は、どうなっていくのでしょうか。
投稿者 fujimori : 23:31 | コメント (4)
2009年10月13日 [講演先にて]
小さな島2
直島における幼保小の新しい試みは、直島中学校の改築で一応の完成を見ます。戦後、中学校として県下初の独立新校舎が当時”つつじが丘”と名づけられていました。その中学校が、昭和54年に”教育と社会”の一体化をめざす文教地区構想の頂点として全面改築されました。それまでも、文部、厚生省の間の厚い壁を打ち破った幼保一元化に続いて、今回は、幼小中一貫教育の実現でした。設計上は、それぞれ非常に強い個性を持ちながら、理念を共有し、各施設が閉鎖的にならないようにで教師と生徒、人と人とのよりよいコミュニケーションの場であることへの配慮が流れています。
これらの実現を、先頭を切って推し進めていた当時の直島町長は、甥が当時岡山県にある福武書店に勤めていた関係から、福武書店(現ベネッセコーポレーション)の創業者である福武哲彦さんと知り合います。そのときに、町長は、直島(香川)の南側一帯を、文化的なエリアにしたいという夢を描いていました。福武さんは、瀬戸内の島のどこかに世界中の子どもたちが集える場を作りたいと構想していました。それが結びついて、「直島アートプロジェクト」が構想されていったのです。それが、今から20年くらい前でした。
その先代の哲彦さんの遺志を継いで、「直島アートプロジェクト」を実行に移したのが、現在の会長である福武總一郎さんです。まず、1989年に安藤忠雄のマスタープランで「直島国際キャンプ場」を作り、92年には現代アートの美術館とホテルが一体化した「ベネッセハウス」をオープンさせました。やがて美術館の外にも作品を展示するようになり、アーティストに直島で作品を作ってもらう「サイトスペシフィック・ワークス」が始まりました。その発展系として、民家を利用した「家プロジェクト」が誕生。2004年には建築物としても注目度の高い「地中美術館」がオープンし、現代アートが直島全体に広がっていきました。
今回、ベネッセハウスの中のレストランで食事をした後、以前のブログで予告したように「地中美術館」を見学しました。
この美術館は、すべて地中に埋まっています。ですから、入口は、コンクリートの壁が建っているだけで、その後ろは建物ではなく、緑で覆われた丘だけです。なんだか古墳の中に入り込んでいくようです。
中に入ると、当然、他の美術館のような室内が続き、それが地中であるということは忘れそうです。しかし、安藤氏の特徴であるコンクリートの圧倒的な存在感が空間を切り取って、そこに注ぐ光が空間の奥行きを際立たせます。その中の展示は、「クロード・モネ」絵画5点、空間と太陽の光の時間的経過を融合させた「ウォルター・マリア」の作品、光そのものを作品とした「ジェームズ・タレル」の作品以外は、コンクリート、鉄、ガラス、木、石を配置し、光との関わりを意図した安藤忠雄氏設計の空間が、すべて作品となっています。ただ、残念ながら事前にロッカーへカメラなどの持ち物はすべてしまわなければなりませんので、写真は撮ることはできませんでした。また、室内は声が響くために、同じグループは10人までと制限されていましたが、それだけ、作品としての空間を大切にしているということでしょう。
自然と人間との関係を考える美術館といわれる「地中美術館」は、保元の乱で敗れた崇徳上皇が讃岐国へ流される際に一旦四国上陸を拒否され、3年間を直島に滞在したときに、島民の純朴さ、素直さを称賛してつけられたとされる「直島」という名前に恥じない、素朴でありながら、自然に純粋に向き合った作品として完成されていました。

投稿者 fujimori : 21:13 | コメント (5)
2009年10月12日 [講演先にて]
小さな島1
高松での研修の一環である直島への訪問は、大学時代からの念願でした。直島は、行政域としては香川県に属していますが、生活圏は岡山のようです。というのは、私たちが訪れる時に利用した高松からのフェリーは、1日に数本で、1時間かかりますが、岡山からはもっと本数が多く、近いようです。
瀬戸内海に浮かぶ小さな島・直島は、現在、様々なアートプロジェクトが実施され、注目を浴びています。島丸ごと現代アートといった感で、世界中から観光客が訪れています。しかし、私が直島を知ったのは、今から30年ほど前に、当時の直島町長であった三宅親連さんが、島に文教地区を作ろうということで幼保小中を整備したことでした。まず、着手したのが、明治18年開校の高田小学校の老朽化と直島町百年を契機に、小学校改築問題でした。そのときに、この改築だけではなく、直島町の将来について熟議された文教地区計画を作成し、その一環として、昭和45年、新しい期待を担って直島小学校が落成しました。その計画とは、町勢の充実・町民融和・文教重視のシンボルとして直島の中央に建設される文教地区構想の中で、直島小学校は、幼~小~中~高~社会教育を結ぶ一環としての小学校という位置づけです。そのために機能発揮に設計上とくに配慮が必要とされ、東京大学吉武泰水教授に依頼し、設計された建物は、学校建築では他に例を見ない「自然を大きくとり入れた、すぐれた環境」という教育目標が設計面でも実現されています。
その後、昭和48年度、直島幼稚園が改修され、ここに、町の幼児教育のあり方を抜本的に改革した新園舎が文教地区に完成しました。その試みの一つは、それまで行政上二次元化されていた幼稚園と保育園を一つの学園とし、幼児の教育と福祉の機会均等をはかり、運営上の一元化をはかるもので、幼・保それぞれの長所を生かしつつ、幼児のしあわせをはかる理想的な幼児教育の場をめざしたのです。その時の設計で目指したものは、幼児の発育と心理をつかんだ幼児教育にふさわしい建築、一斉保育から自由保育への脱皮をめざした設計、そして、文教地区構想の一環として最高度の設計による園舎の建築でした。このころの思いは、無限の可能性を秘めた幼児。その可能性の芽生えを大事に育て、伸ばしたいという願いが込められていたのです。

その後、昭和57年度にその幼稚園のとなりにセミ・オープンスクールとして保育園が建設され、幼児学園との間に中庭をつくり、幼児学園と保育園が個々の建物ではなく、全体として調和がとれるように設計され、一斉保育から自由保育への脱皮をめざしました。ここでは、幼児の無限の可能性の芽を大事に育て、伸ばすために、幼児の教育と福祉の機会均等をはかり、幼・保それぞれの長所を生かして、幼児のすこやかな成長をはかっていかなければならないと願いを込めて建てられました。

そのような試みに、学校建築を研究していた私は、まだ保育の世界には足を踏み入れてはいませんでしたが、新しい時代の幼児教育から、小中学校教育を垣間見る気がしたものでした。その幼児学園を今回見ることができたのです。建物はずいぶんと古くなり、園児は極端に少なくなっていましたが、その設計上の試みは今でも決して薄れることはありませんでした。しかし、環境は変わらずにありますが、そこで展開される幼児教育のソフトにはかなり課題が見えました。というのは、設計の意図は、使う人にとってはなかなか理解しがたく、かえって使いにくい空間として持て余しているかのようで、残念でした。
投稿者 fujimori : 21:35 | コメント (4)
2009年10月11日 [講演先にて]
桃
代表的な日本昔話といって思い出すものは何でしょうか。多分、多くの人が上げるであろう話に「ももたろう」や「かぐやひめ」があります。この話の共通点は、どちらも赤ちゃんは人から生まれていないということです。しかも、子どもが欲しくてたまらない子どもがいない老夫婦が願っていると、桃からや竹から子どもが生まれるのです。これは、高齢出産なのか、30歳代を超えると老夫婦になるのか分かりませんが、昔話の始まりは「むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました」で始まることが多いのも不思議です。
鬼退治で有名な桃太郎の話ができたのは室町時代以前で,一説によると鎌倉時代ではないかとも言われています。主人公のモデルは,古事記にも登場する神話上の人物,吉備津彦命だといわれています。日本全国で桃太郎の話の舞台となっているところがありますが、今週末、この桃太郎伝説がある香川と岡山に行ってきました。もちろん一番有名なのは、岡山説です。
神代の時代、日本を作ったといわれるイザナキノミコトとイザナミノミコトですが、火の神(ヒノカグツチ)を生んだ時,イザナミノミコトは大やけどを負って命を落としてしまいます。しかし、どうしても忘れられないイザナキノミコトは黄泉の国へ連れ戻しに行きます。しかし、戻るまで見ないという約束を守れず、結局は逃げて戻ることになります。このあたりの話は、ギリシャ神話のオルフェウスの伝説に似ていますね。戻る途中、追っ手を追い払うために桃を投げつけます。すると,追っ手はみな黄泉の国へ戻っていきました。そこで、イザナキノミコトは「人々が苦しい目にあって困っている時に助けてやってくれ。」と言って,桃に「オホカムヅミ」という名を授けました。このように、昔から桃には優れた力があると思われていたようです。桃の栄養価は高いので,元気で健やかな子を育てることができますし、中国でも「桃源郷」というように,平和で安心できる世界というイメージが桃にはあります。この「桃」に以前ブログでも書いたのですが、力強く元気という意味を持つ「太郎」が結びついて桃太郎の話が出来上がっていったのでしょう。
桃の名産地でもある岡山に桃から生まれた桃太郎が鬼を退治する物語が伝わっているのは当然かもしれません。また、家来になるいぬ、さる、きじにあげるきび団子も吉備の国の団子につながります。そんなことで、岡山県総社市を中心とした吉備路一帯で今も語り継がれています。ここの伝説は、異国からやってきた温羅という名の王子が吉備国で悪事をはたらき、人々に恐れられていたために、大和朝廷から温羅を退治するように送り込まれたのが武勇に優れた吉備津彦命で、この話が元になり、温羅が鬼、吉備津彦命を桃太郎にしたのです。
もうひとつ、香川県高松市に「鬼無」という地名があります。ここは,桃太郎が鬼を退治して鬼がいなくなったことから「鬼無」という地名になったといわれています。そして、鬼ヶ島は,女木島という島だといわれています。高松から、直島に向かうフェリー航路はその脇を通りました。
そして、その隣には、桃太郎から逃れた鬼が逃げ込んだ男木島があります。山の中に鬼が隠れていた洞窟があったり、桃太郎と家来の墓がある熊野権現桃太郎神社(桃太郎神社)があります。
他にも、桃の産地でもあった奈良県磯城郡田原本町にも桃太郎にまつわる多くの史跡が点在しています。また、愛知県犬山市にも桃太郎の伝説が残っていたり、日本ライン桃太郎伝説もあります。
どうして各地に点在してあるのか、また、同じような逸話が世界にもあるのかはとても興味あるところです。
投稿者 fujimori : 21:08 | コメント (4)
2009年10月10日 [近頃思うこと]
家電とエコ
家電は、ますます私たちの生活を豊かにしていきます。また、次々と新しいものが発表されています。それは、私たちの生活に一番密着し、生活を便利にしてくれるからです。
今年の1月には、世界最大規模の家電見本市「2009 International CES」が米ラスベガスで開催されました。その会場では、各社の新製品発表会「CES Unveiled」が行われたのですが、「100年に1度の津波」といわれる世界的な不況の中で開催されるにもかかわらず、来場者数は14万人が見込まれていました。また、やはり今年の9月30日には、世界最大の家電製品見本市である第49回ベルリン国際コンシューマー・エレクトロニクス展(IFA2009)が、ベルリン国際見本市会場で開催されました。ここにも、予想を上回る来場者で活況を呈したようです。
日本でも今日まで、アジア最大級のデジタル家電総合展「シーテック(CEATEC)ジャパン2009」が、千葉市の幕張メッセで開催されていました。出展者数は、昨秋のリーマンショック以降の景気低迷により、今回は、590と昨年に比べて大幅に参加が減少したそうです。しかし、新聞記事によると、三菱電機は、高画質な映像を表現できる有機EL(エレクトロ・ルミネッセンス)を使った155型の大型ディスプレーの試作機を公開。縦約1.9メートル、横約3.5メートルの大画面ながら奥行き約8センチという薄さと鮮やかな映像で、注目を集めたそうです。また、このほか、ソニーやパナソニックは映像が飛び出して見える3D(3次元)テレビを出展。次世代のテレビ技術などが数多く公開されていたようです。
こんな話題を集める家電ですが、廃棄処分の問題のほかに、家電があらゆる分野で普及すればするほど消費電力が増加をしていきます。そのために、地球温暖化やCO2排出量が問題になります。そこで、エコ・アクション・ポイントの全国型モデル事業(株式会社ジェーシービー)が、環境省によって10月15日(水)から全国で始まります。それは、 家電、鉄道、百貨店、銀行、旅行、ホテル等様々な業種が共通のエコ・アクション・ポイントを発行し、多彩で魅力的な商品と交換できる事業です。環境省では、幅広い企業や国民の参加を目指し、国民参加の温暖化対策の切り札として、エコ・アクション・ポイントモデル事業を段階的に推進しているのです。貯まったポイントの「商品交換サービス」では、鉄道用プリペイドカード、排出権・植林への寄付、エコバック、日用品、台所用品など、1000ポイントから交換できることになっています。
それとは別に環境省・経済産業省・総務省によるエコポイントの活用によるグリーン家電普及促進事業を行われています。これは、経済危機対策において、地球温暖化対策の推進、経済の活性化及び地上デジタル放送対応テレビの普及を図るため、対象となる高い省エネ効果を有する家電製品の購入に対して、様々な商品・サービスと交換可能なポイント(エコポイント)を付与するというものです。この事業で、申請受付件数は8月末時点で約150万件、テレビの申請が台数ベースで約66%、エコポイント点数ベースで約77%と大きな割合を占め、次いでエアコン、冷蔵庫の順となっており、3品目合計で買替え(リサイクル)が約7割を占めているようです。
生活の中で大きく占める家電の買い方、使い方、捨て方をきちんと考えていく必要がありますね。
投稿者 fujimori : 22:30 | コメント (3)
2009年10月09日 [近頃思うこと]
廃棄される家電
家電についての問題点を考えてみました。消費文化は、大量の廃棄物を生み出すことになりました。その中で、廃棄される家電製品(エアコン、テレビ、電気冷蔵庫及び電気洗濯機)はそれほど多くはなく、一般廃棄物全体の約1%程度ですが、焼却による減量などが困難で埋立て処分場の大きなひっ迫要因となっています。廃棄された家電製品については、約4割の市町村で何らかのリサイクルが行われていますが、半数以上がリサイクルされずに埋立て処分されている状況です。しかし、家電製品はその材料の中に金属、ガラスなどリサイクルが可能な資源を多く有しており、リサイクルによる一層の減量が可能なものです。
そこで、一般廃棄物の容積で約6割、重量で約2割強を占める容器包装廃棄物のリサイクルを進めるために容器包装リサイクル法、続いて缶、びん、ペットボトル等についてリサイクルが進められ、さらに、紙製、プラスチック製の容器包装廃棄物についてもリサイクルの対象となりました。このような流れの中で、家電に対しても特定家庭用機器再商品化法(家電リサイクル法)が、循環型経済社会を構築するための新しい法制度として制定されました。
この法令は、他のリサイクル法よりも重要な意味を持ちます。家庭から排出される廃棄物は基本的に市町村が収集し、処理されるのですが、家電の多くは、非常に大型で重いため他の廃棄物と一緒に収集することが困難であったり、非常に固い部品が含まれているため粗大ごみ処理施設での破砕が困難であるものが多く存在し、また、金属、ガラスなどの有用な資源が多く含まれているのですが、これらの処理、リサイクルは市町村単位では困難なために、大部分が埋め立てられているのです。そんなわけで、家電製品のリサイクルが廃棄物の減量、資源の有効利用に大きく貢献するのです。
また、平成3年の廃棄物処理法の改正により適正処理困難物の制度が創設され、市町村は処理が困難な一般廃棄物について製造・販売業者等の協力を求めることができることになりました。現在は、廃タイヤ、廃スプリングマットレスとともに、25インチ以上の廃テレビジョン受信機、250リットル以上の廃電気冷蔵庫が対象となっています。この制度の下、家電販売店での家電製品の引取りが行われていますが、なかなか難しいようです。
近年の家電製品は、鉄・アルミ・銅といった金属やプラスチック類を素材とするものであり、テレビについてはブラウン管のガラスが大きな重量を占めます。また、家電製品は様々な部品から構成されるものであり、これを分解・解体し部品や素材ごとに選別することにより、再生利用の道が大きく開かれるものです。例えば鉄・アルミ・銅といった金属については、部品を分離し、それぞれの素材に選別することにより、金属製品の原材料として再生利用が可能です。また、プラスチック類については、熱回収(サーマルリサイクル)を行うことができるとともに、技術開発の進展により再度プラスチック製品の原料などの原材料として再生利用される可能性が高まっています。ブラウン管のガラスについては、再度ブラウン管用のガラスとして利用できるほか、様々なガラス原材料としての再生利用が可能です。
ヨーロッパ諸国でも、家電製品リサイクルについて様々な動きが見られます。例えば、オランダでは事業者と自治体の合意の下での自主的な回収・処理の仕組みが実施されており、ドイツでは情報関連機器についての再生に関する政令が存在します。また、欧州連合(EU)では電気・電子機器の回収・リサイクルに関する指令案が出されています。
家電は、廃棄の問題だけでなく、消費電力の問題も存在します。それが、最近様々な事業が行われ始めました。
投稿者 fujimori : 20:57 | コメント (4)
2009年10月08日 [近頃思うこと]
家電
成長を国民全体で望んでいた時期の昭和30年代は、生活に劇的な変化をもたらします。そのひとつが、「家電」の普及があります。人々は、競って「家電製品」を買い、そしてそれらを持つことが豊かさの象徴であり、幸せの指標であり、「家電生活」を楽しむために、毎日働いたといってもいい時代でした。その中の代表格に「三種の神器」と言われた白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫があり、それらの普及率は、昭和32年当時、それぞれ、7.8%、20.2%、2.8%でしたが、30年代が終わった昭和40年には、それぞれ、95.0%、78.1%、68.7%まで急速に普及していきました。
また、昭和30年には東京通信工業(現ソニー)がトランジスタラジオを発売します。そのラジオも、世帯普及率は昭和35年24.9%だったのが、やはり40年になると55.8%まで普及し、あっという間に大衆化していきました。さらに昭和35年ごろになると、三種の神器にカラーテレビ、クーラー、ステレオが加わり、ラジオはFMラジオに、洗濯機は脱水装置付洗濯機、冷蔵庫は冷凍庫付冷蔵庫を商品開発が進み、買い換え需要とともに更なる発展を見ます。そのころまでは、大事に使っていたものが、買いかえるようになっていきます。30年代後半は、オーディオ専業メーカーが急成長し、スピーカー専業のパイオニア、高周波コイルのトリオ、トランス専業の山水、ラジオセットメーカーのオンキョーがそれぞれの特徴を出し、マニアの間ではそれを語ることがステイタスになりました。
今年の6月に私の園の保護者が、タンザニアからの村人5人をホームステイしたときの話題をメールでいただきました。そのいくつかは、家電にまつわるものでした。「焼肉を焼こうと、夫が焼肉用ホットプレートを準備。これを小型パラボラアンテナだと思った前村長。みんなを呼び集めて“今日は、この家の主人が、我々を歓迎してテレビを見せてくれるようだぞ!”イコマ語の会話だったので、何も知らない夫が肉を焼き始めると、みんなが当惑した表情を見せているので、うちのだんなも何かよくないことをしてしまったのかと、あせった。その後、前村長の勘違いだと聞いて、みんなで大笑い」こんなこともあったそうです。「ママルーシーがマベンガに文句を言った。“この家にはこんなにラジオをもっている。なら、1つくれればいいのに!”そのラジオというのは、炊飯器、電子レンジ、トースター、ビデオデッキ・・・すべての電化製品をママルーシーはラジオだと思っていた。村では、電化製品といえば、ラジオしかないもんなあ」
一方、日本では、魅力ある商品が溢れる30年代でしたが、家電業界では、勢力争いが激化し、その流通秩序は混乱していきます。家電メーカーは、家電ブームに乗り、生産を拡大しますが、昭和32年になるとすでに過剰生産に陥ります。そこで、それまで町の電気屋さんで家電を売っていたのが、そのほかでも販売するようになっていきます。農協・職域団体のほか、当時新しく台頭してきたスーパーでも売られるようになっていきます。それらスーパーは、流通経路の変化をもたらし、町の電気屋さんは死活問題になっていきます。この流れは、電化製品だけではなく、様々な商品にも同様なことが起きます。そこで、メーカーは、昭和31年に家庭電器市場安定協議会(市安協)を結成し、価格安定を目指しますが、流れは止められません。その後、家電量販店が目立ち始めます。今は、その売り上げは大きいのですが、その浮き沈みは激しく、倒産する店も現れ始めます。
また、紹介したタンザニアにはない問題も起き始めます。家電普及による電気の消費についてと、電気製品の処理の問題です。新しい時代に突入です。
投稿者 fujimori : 22:39 | コメント (4)
2009年10月07日 [近頃思うこと]
天気予報
台風が近づいています。大型ですので、被害が心配ですので、進路が気になるところです。私の子どもの頃は、進路はラジオで知りました。ただ、ラジオですと、その位置は北緯何度東経何度という言い方ですので、正確な位置は分かりにくく、どうも東京に来そうだという程度の知識でした。それでも、窓ガラスが瓦が飛んできて割れないように雨戸を閉めるとか、板を×に打ち付けるとか、よく停電になるので、ローソクを家族で囲んでラジオに聞きいったものでした。
日本で最初の天気予報は、明治17年6月1日に、気象庁の前身である東京気象台から発表されたものです。その頃の予報は、1日に3回日本全国の天気を発表し、東京市内の交番に掲示されました。その発表に文言は、日本全国をたった一文で表わし、第1号は、「全国一般風ノ向キハ定リナシ天気ハ変リ易シ 但シ雨天勝チ」でした。
私の子どものころに聞いていたラジオ放送による天気予報は、すでに大正14年3月22日にラジオ放送の開始とともに開始されています。しかし、天気予報は、戦時中においては、国家秘密だということで、第二次世界大戦の開戦中(昭和16年12月8日)には中断されていました。しかし、予報は隠しても自然界のことなので、他の国でも分かってしまうと思うのですが、秘密にするというのは、いかにもそのころの日本軍が考えそうなことですね。そんなわけで、ラジオの天気予報が再開されたのは、終戦の8月15日から一週間後の昭和20年8月22日でした。それが、テレビの普及に従って、台風の進路は、視覚的に知ることができました。その時期は、ラジオと同じように、テレビ放送開始日の昭和28年2月1日にテレビ放映による天気予報も開始されたのです。
今年の6月1日、「♪ボクの名前はヤン坊」の歌でおなじみの「ヤン坊マー坊天気予報」が、放送開始50周年を迎えました。この6月1日は、気象記念日です。私が小学生になり、テレビをよく見るようになって、もしかしたら、一番見ていた番組かもしれません。それは、毎日流されていたということもあるでしょうが、お馴染みのテーマソング「ヤン坊・マー坊の唄」が耳に着いてしまい、つい口ずさんでしまいます。ちなみに、作曲は「365歩のマーチ」などで知られる作曲家・米山正夫さんで、作詞は放送開始当時の同社宣伝部長が手がけています。また、その歌に合わせてヤンマーのキャラクター「ヤン坊」と「マー坊」のアニメーションが流れることも子どもには楽しみだったのかもしれません。もうひとつ、よく見ていていたのは、この天気予報の放送時間帯が、子ども番組が多かった夕方の時間帯によく流れていたからです。現在までで通算207話が放送されているそうで、ずいぶんと長いですね。
昭和30年代は、日本が急激に豊かになっていった時代です。各家庭では、明るい電灯がともされた居間で家族そろってテレビを見る、新築の団地に入居する、マイカーを手にいれる、そんなものがそろうことが幸せにつながっていった時代でした。「ヤン坊…」が放送開始された昭和34年は、皇太子御成婚があり、翌年には、池田内閣が「所得倍増計画」を発表し、昭和39年には、成長のピークを迎える東京オリンピックが開催されています。
再度の東京オリンピック開催は見送られましたが、あの頃と違って、日本は、ただ成長を求め、ものの豊かさを求めるのではなく、もう少し、心の豊かさを求めるような成熟した社会を目指すべきかもしれません。
投稿者 fujimori : 23:37 | コメント (4)
2009年10月06日 [近頃思うこと]
無形
ユネスコが窓口になって、地球の生成と人類の歴史によって生み出され、過去から引き継がれた貴重なたからものでもある「世界遺産」が選ばれていますが、この中に日本の石見銀山が入るかどうかが話題になったのは、もう2年前の7月のことでした。そして、平成13年から日本の暫定リストに挙げられている「平泉の文化遺産」が、いまだ登録になっていないことがニュースになったのも最近のことです。
これらの世界遺産には、次の3種類があり、有形の不動産が対象となっています。一つは「文化遺産」で、顕著な普遍的価値を有する記念物、建造物群、遺跡、文化的景観などが選ばれます。次に「自然遺産」で、顕著な普遍的価値を有する地形や地質、生態系、景観、絶滅のおそれのある動植物の生息・生息地などを含む地域が選ばれます。そして、「複合遺産」として、文化遺産と自然遺産の両方の価値を兼ね備えている遺産が選ばれます。これらについては、よく話題になるのですが、このような有形なものだけでなく、同じように無形なものに対しても決められています。昨日のブログで紹介した「奥能登のあえのこと(石川)」があるのです。
このような無形なものに対して2006年1月20日、「無形文化遺産の保護に関する条約(無形遺産条約)」の締約国が30カ国に達し、条約は、3ヵ月後の2006年4月20日に発効しました。この無形遺産条約は、これまで民族文化財、フォークロア、口承伝統などと呼ばれてきた無形の文化を人類共通の遺産としてとらえ、保護していくことを目的に作成され、2003年の第32回ユネスコ総会において、賛成120カ国、反対0、棄権8カ国で採択されました。日本は2004年6月、3番目の締約国として条約を締約しています。もちろん、反対する国はないでしょうね。
そして、昨年暮れには、無形文化遺産委員会では、これまでの傑作宣言に発表された90件が「人類の無形遺産の代表的な一覧表」に記載されることが決定しました。日本からは
13件が一覧記載されました。この一覧表には、能楽、人形浄瑠璃文楽、歌舞伎の3件は、審査なしで一覧表に統合されています。そして、今年13件が数日前の10月1日に決定しました。どんなものが決定したかというと、「重要無形文化財」として、<芸能>雅楽、
<染織>小千谷縮・越後上布(新潟)、<手漉(てすき)和紙など>石州半紙(せきしゅうばんし)(島根)です。
「重要無形民俗文化財」として、<祭礼>日立風流物(茨城)、京都祇園祭の山鉾行事(京都)、<年中行事>甑(こしき)島のトシドン(鹿児島)、<生産・生業など>奥能登のあえのこと(石川)、<神楽>早池峰(はやちね)神楽(岩手)、<田楽>秋保(あきう)の田植踊(宮城)、<風流>チャッキラコ(神奈川)、<渡来芸など>大日堂舞楽(秋田)、<語り物など>題目立(だいもくたて)(奈良)、アイヌ古式舞踊(北海道)です。それぞれの地域の方は、これらの存在を知っているでしょうか。意外と知らないかもしれませんし、知っていても、そんな重要なものだとは気がつかないかもしれません。そんな意味でも、この一覧表への記載は重要かもしれません。
しかし、注目を浴びることによって、無神経な人々によって、大切な文化が踏み荒らされないことを祈るばかりです。
投稿者 fujimori : 22:06 | コメント (4)
2009年10月05日 [講演先にて]
能登
今回、講演のついでに奥能登を訪ねました。
奥能登は、輪島、珠洲、穴水、能登などですが、この2市2町に伝わる1976年、国の重要無形民俗文化財に指定された珍しい儀礼があります。この儀礼が、先日の10月2日にユネスコ無形文化遺産として認められたことが石川毎日新聞に掲載されていました。その儀礼とは、「奥能登のあえのこと」という素朴な行事で、風雪厳しい自然と向き合い、神に収穫を感謝するというものです。この儀礼は、先祖代々受け継がれてきたとても面白いもので、日本のおもてなしの心をよくあらわしており、今回登録されたことによって、今後、海外からも注目されることになるでしょう。
「あえのこと」は、稲の生育と豊作を約束してくれる田の神をまつる農耕儀礼で、このようなおもてなしをします。まず、収穫が終わった12月、正装した農家の主人が田の神を田んぼに迎えに行き、まるでそこにいるかのように手を差し伸べます。この田の神は目が不自由とされ、主人は気遣いながら「どうぞこちらへ」と家に案内します。
家では、種もみ俵とふたまた大根でしつらえた神座のある奥座敷で、まず、1年間の農作業を報告します。そして、入浴後、小豆飯やブリの刺し身など山海の幸を盛ったお膳でもてなし、収穫を感謝します。神様はその家で年を越し、翌年の耕作前の2月、豊作を祈願して田に送り出すのです。この儀礼は、30年くらい前まではどこの家庭でもやっていたそうですが、最近の農業の衰退と共に減ってしまっているため、伝統の継承に危機感を抱き、「奥能登のあえのこと保存会」が発足しています。そして、20年前から、能登町柳田植物公園内にあるかやぶき民家を移築した「合鹿庵」で毎年、「あえのこと」を一般公開しています。
日本の伝承文化は、その儀礼の形だけではなく、日本古来の文化の影響を見ることができ、そこに今後の日本の在り方を考えるヒントも隠されている気がします。そういう意味では、同じ輪島の朝市もあります。輪島の朝市は、日本三大朝市の一つとして有名ですが、今回、その朝市も見ることができました。
輪島の朝市の歴史は古く、平安時代から1000年以上も行われています。最初は、神社の祭礼日などに生産物を持ち寄って、物々交換しあっていました。それが、室町時代には毎月4と9の付く日に市が開催されるようになり、明治時代には毎日、市が立つようになって今に至っています。
輪島朝市は通称「朝市通り」と呼ばれている約360mの商店街に200以上の露店が立ち並びます。そこには、地元の人、観光客が混じって、とても活気があります。この露店は、誰でも店を出せるわけではないそうです。ここに店を出す営業権利は、朝市組合への加入が必要です。そして、その加入を証明するために、店先に自分のフルネームが書かれている看板を見えるところに付けておきます。この営業権利は先祖代々引き継がれていくそうです。
この輪島の朝市は日本三大朝市の一つといわれていますが、実は、輪島(石川県輪島市)、高山(岐阜県高山市)は、どの資料を見ても入っているのですが、もうひとつについて呼子(佐賀県呼子町)か勝浦(千葉県勝浦市)のどちらか競っているそうですが、日本4代朝市にすればいいと思います。
何にしても、朝市には、その地域の人々を長い間支えてきた生活や文化、そして交流などあらゆるものが詰まっていて、ぶらぶら見て歩くだけでも楽しいものです。
投稿者 fujimori : 23:54 | コメント (4)
2009年10月04日 [講演先にて]
麩
私は食べ物には好き嫌いはありませんが、割と好きなものがいくつかあります。その中に「麩」があります。今日の昼食は、その麩の会席料理をいただきました。

天平時代、中国では僧侶が「ひき割小麦」を水で練り、十分にこねてから水の中で洗い「小麦でんぷん」と「小麦たんぱく」 に分離していました。そして、小麦のことを「麺」と呼び、その小麦の「筋」という意味で「小麦たんぱく」は「麺筋」と呼ばれていました。その名は、宋代に書かれた『夢渓筆談』にも登場しています。現代の中国にはまだ「麺筋」の言葉がそのままで残っています。その「麺筋」という呼び方でグルテン(小麦粉に水と塩を加え、デンプン質を洗い流した後に残った、チューインガムのような硬さをもつ小麦蛋白質のこと)が、室町時代の初期に、明との間で行っていた勘合貿易に伴い日本に伝わってきました。中国では、肉・魚を食べることができない禅僧の貴重なタンパク源として重宝されていましたが、日本でも当時は仏教の厳しい戒律から、禅僧たちは、殺生禁断、肉食を断っていました。そのため、 肉に代わる栄養たんぱく源を「大豆」「小麦」に求め、大豆は「豆腐」や「湯葉」として、小麦は「麸」として珍重されました。
しかし、当時は小麦の作付けは少なく 「挽き割小麦」は高価で、一般には口にする事は出来ず、宮中や僧堂でせいぜい仏教の祭事や「精進料理」などで使われる程度でした。当時の麸は、麺筋を玉にとり、大きな釜でゆで上げて食べられていたのが多く、 他に煎麸、炙麸として用いられていたことが古書籍や古文書に残っています。鎌倉時代になると、日本でも麩が普通に食べられ始めました。そして、桃山時代に入ると「ふのやき」と呼ばれるものが文献にも現れ始めます。この「ふのやき」は麺筋を焼いたもので、当時としては大変珍しいものであり、料理の素材ではなく、お菓子でした。千利休の催した「天正茶会百席」には、お菓子として「ふのやき」が多く供されていることが、当時の「茶会記」に誌されています。これは、「麩」を焼いた茶菓子を出した事から「焼麩(やきふ←あんぺいふもこれ)」ということで、当時は「焼の麩」と呼ばれました。そして、江戸時代中期ころには、麩にもち粉などを練り合わせた「生麩」が生まれ、その頃には麩は、庶民の間でもよく使われる食材となっていきました。
今回昼食でいただいた中に車麩の酢のものと、生麩の揚げ物がありました。
生麩の揚げ物と車麩の和え物と、麩のステーキ
麩は、とても栄養価の高い食品であることはなんとなくわかりますが、実際にはどのような栄養素かと言うと、車麩のエネルギーは387kcal、水分は11.4g、たんぱく質ははやり30.2 gと非常に高く、脂質は3.4g、炭水化物は54.2g、灰分0.8gです。
そのほかにも料理にはいろいろなこだわりがあります。 女将がこんなことを言っています。「当店の麩は国産小麦100%で製造し、添加物を一切使用していません。また、料理は、食べてお腹が満足出来るだけでなく、見て楽しみ、口で味わい、空間を楽しむそんな楽しみ方が出来る場所をみなさんに提供して行きたいと思っています。私はお花が大好きでオブジェ作り、お花の楽しみ方のお話をお客さまとお話して盛り上がる事も多いですね。」
学校給食にも、このような配慮が必要でしょうね。摂取量だけが課題ではないですから。
投稿者 fujimori : 22:13 | コメント (4)
2009年10月03日 [近頃思うこと]
シニア

先日、ある場所に入るために入場券を購入しようとしたら、なんと私は「シニア割引」が適応できることを知って、ちょっと複雑でした。他人事と思っていた「シニア割引」の対象になると、つくづくシニアであることを実感します。しかし、シニアとは何歳のことをいうのでしょうか?
もともとは、ラテン語の「Senex(「年をとった」の意味)」が語源だそうですが、英語ではいろいろな意味でつかわれます。「年長者、年上、先輩」という意味のほか、「ジュニア」に対する「シニア」というように年長のほうを呼ぶ使い方もします。日本の高校のことをシニアハイスクールというのがそれです。このようにseniorは、本来、高い地位や年長という意味だけで特定の年齢層は意味しないようです。したがって、しばしば耳にする高齢者(シルバー)や老齢層(オールド)とは違った概念のようで、あまりショックになることはないようで、「シニア割引」は、地位の高い人への割引だと思えばいいというものでもないようです。
というのは、アメリカで「senior citizen」というと、おおむね65歳前後以上の年齢層を指し、そのあたりの年齢層に対する割引制度が「シニア割引」だからです。あと、日本では慣用として、サラリーマンでいえば定年で第一線を退いた人々、個人営業者でいえば権限や仕事の多くを次代に譲った人々、主婦でいえば子育てを終わった人々などをさす場合が多いようです。
先日の敬老の日の総務省による発表によると、65歳以上の高齢者の総人口に占める割合は22.7%で、過去最高となりました。また、女性高齢者は女性人口の25.4%で4人に1人、男性高齢者は男性人口の19.9%で5人に1人が高齢者となったそうです。このような高齢者の増加により、一定の年齢以上で割引になる制度である「シニア割引」をよく見かけるようになりました。私にも徐々に適応される個所が増えてきました。
たとえば、JR東日本では、「大人の休日倶楽部ミドル」では、男性満50歳以上64歳まで、女性満50歳以上59歳までの人の申込みができます。この特権として、JR東日本線・JR北海道線エリア内では、何回でも5%割引が受けられます。また、JR全線対象に、男性満65歳以上、女性満60歳以上の人用(夫婦の場合、どちらかが満65歳以上なら、二人そろって申込みができます)に「大人の休日倶楽部ジパング」という特権制度があります。この会員は、個人会員は3,670円、夫婦会員は6,120円の会費を払えば、20回まで・20%または30%、4回目より30%の割引が受けられます。
また、航空会社にも、JALではシルバー割引が65歳以上で、ANAではシニア65割引が65歳以上で、スカイネットアジア航空ではシニア割引が55歳以上で、AIR DOではDOシニア60が60歳以上で受けられます。アート引越センターでも「シニアパック」が用意されています。これは、60歳以上の人が、不用品の整理や、部屋の模様替えやインテリアの相談などのアドバイスが受けられます。このCMには、私のようなその世代にはとても懐かしい「悲しき雨音」Rhythm of The Rainが流れます。この歌は、サンディエゴで結成された男性5人のボーカルグループ、カスケーズのミリオンセラーで、中学生のころに英語の歌詞を覚えたものです。
以上のものは、私はまだ使っていませんが、よくつかう制度に映画館でも「夫婦50割引」があります。これは、夫婦のどちらかが50歳以上の場合に二人で2,000円になる割引制度です。他にも60歳以上ですと、一律1,000円の「シニア割引」があります。
これらの制度があるために、保険証か免許の携帯が欠かせなくなりました。
投稿者 fujimori : 23:35 | コメント (4)
2009年10月02日 [近頃思うこと]
珈琲
秋の夜長、もうひとつコーヒーの話題で一服。
コーヒーは、よく珈琲と書かれます。これは、もちろん当て字です。もともと日本にはなかったものを、漢字に当てはめるのにはよほどの創造力と、そのものの理解がないとできませんね。その音をそのまま漢字の読みに当てはめるのは簡単ですが、そこに意味も表わすとなると難しくなります。英語の読みをそのまま英語に当てはめるのはよく遊びなどでやることがありますし、子どもに名前を付ける時に音から漢字に当てはめたものも最近は多く見られます。また、店の名前にもそのようなものが見られます。チャップリンの映画で有名な「ライムライト」を採って、「来夢来人」とつけてあるのを見かけることがあります。
江戸時代になると、コーヒーが飲まれることがあり、いろいろな文献に現れるようになり、いろいろな言葉に当てはめられます。江戸時代の俳人である大淀三千風は「日本行脚文集」(元禄2年)の中の「丸山艶文」というところでは、「皐蘆」(なんばんちゃ)と書いていますし、フランス人ヌール・ショメールの「家庭百科辞書」を長崎の山本某が訳した日本最古の珈琲文献「紅毛本草」(天明5年・1785年)には、古闘比伊(こつひい)、波无(バン)、保宇(ぼう)、比由无那阿(びゆんなあ)、比由无古於(びゆんこお)、比由爾宇(びゆにう)などの語が使われています。
もともとの日本語の「コーヒー」という音は、江戸時代にオランダからもたらされた際の、オランダ語の"koffie"の音(コーフィー)に由来しています。江戸時代文化年間の津山藩の蘭学者で藩医であった宇田川榕菴は、「蘭和対訳辞書」を作成するの当たって、このコーヒーに「骨喜」「哥兮」「架非」「珈琲」という4つの語をあてはめました。この中で、「珈琲」が一般的に使われるようになるのですが、「珈」という字は、音読みで「カ」、訓読みで「かみかざり」と読みます。「女性の髪にさす珠玉飾り」という意味です。「琲」は音読みで「ハイ」、訓読みで「つらぬく」と読み、それ貫くひものことをいいます。コーヒーの木に付いたコーヒー果実である赤い実(コーヒーチェリー)の様子を漢字で表していると言われています。中国語では「咖啡」と書かれますが、「王」が「口」になっていますが、日本では、王侯貴族の飲み物という高級感を出すために「王」にしましたが、中国では口で飲むものとして「口」になっているというのは、面白いですね。
これ以外にも、「可否」「哥非乙」「可非」「架非」「骨非」「加非」「唐茶」「豆茶」「煎豆湯」「滑比」「香湯」などの当て字が使われましたが、ちなみに、1888(明治21)年4月13日、東京下谷区上野西黒門町2番地に開業した日本で最初のコーヒー店の名前は、「可否茶館」でした。コーヒー1杯1銭5厘だったそうです。今の物価に直せば500~600円くらいで、それほど高くはなかったのですが、すぐには日本人の口に合わなかったのか、この店はあまりはやらず4年で閉鎖に追い込まれました。その後、1890年に浅草のダイヤモンドコーヒー店、1910年にはメイゾン鴻の巣や、不二家洋菓子店など次々とオープンしています。
今は、一般に普及し、誰でも飲む飲み物ですが、私の青春時代の思い出の純粋にコーヒーだけを飲ませる姿勢であった「純喫茶」は、あっという間になくなってしまいました。
投稿者 fujimori : 22:54 | コメント (4)
2009年10月01日 [記念日]
コーヒー
今日は、私の園では、コーヒーの話題で盛り上がっています。それは、今日が「コーヒーの日」だからではなく、先日いただいたコーヒー焙煎器で、コーヒーを焙煎し、数人で飲んだからです。
国際協定によって、コーヒーの新年度が始まるのが10月1日と決められています。それは、ブラジルのコーヒー豆の収穫が9月にだいたい終了するからです。また、日本でのコーヒーの消費量が秋冬季に増えることから、それに先立つ日10月1日を1983年に「コーヒーの日」と全日本コーヒー協会が制定しました。
コーヒーのことが文献にあらわれるのは、9世紀にペルシャの医師ラーゼスが、コーヒーの医学的効用を自著の中で述べているのが最初です。それより前、人類がコーヒーを知ったきっかけについては、いろいろな伝説があります。キリスト教徒の間に伝わる伝説ではヤギが、そしてイスラム教徒に伝わる伝説では小鳥が、それぞれ人にコーヒーを教えてくれたと言い伝えられています。
面白いですね。宗教によって伝えた動物が違うのですから。キリスト教説では、「エチオピアのヤギ飼いの少年カルディはある日、放し飼いにしているヤギの中のあるグループが夜になっても元気に動き回っているのを不思議に思いました。どうしたのかと見張っていると、そのヤギたちはみな赤い木の実を食べていることが分かりました。カルディも試しにその実を口にしてみると全身に活力がみなぎってきます。カルディからその話を聞いたキリスト僧の修行僧たちが夜通し続ける長い祈りの時にこの実を使って眠気を払うことを考えました。そして、この実は睡魔に勝つ秘薬として、修行僧の間で広まったのです。」
また、イスラム教説では、「アラビアのイスラム僧シェーク・オマールは領主の誤解のために追われる身となって、山中をさまよっていました。その時、一羽の小鳥が赤い木の実をついばみ陽気にさえずるのを見ました。試しにオマールがその実をなめてみた所、不思議と空腹感が癒やされ、疲れが取れて気分壮快になるのを感じました。一方オマールを追放した領主の町では病気が流行して多くの人が苦しんでいました。そこでオマールが町に戻って、人々にその赤い実を煎じた汁を飲ませたところ、みな良くなり、領主もオマールの罪を解きました。」
これらの起源がコーヒーの産地になっています。キリスト教説のアラビアまたはエチオピアを起源とするコーヒー豆がアラビカ種で現在、全世界のコーヒーの70~80%を占めています。また、イスラム教説に出てくるオマールが戻った町が、コーヒー豆の集荷地として有名なモカの町です。
その後、1683年、トルコの軍隊に占領されそうになったウィーンの街を救ったコルシツキーは、活躍のご褒美に1軒の家と、トルコ軍の残していった緑色の豆を貰い受けます。見たこともなかったこの豆を、ウィーンの人々は“らくだの餌”だと思っていたようですが、実はこれはコーヒー豆。これを元手に「青い瓶」という喫茶店の開いたコルシツキーは、近代喫茶店の祖と言われ、今でもウィーンのコルシツキー通りには、彼の銅像が建っています。
先日ある人からいただいたコーヒー豆は緑色をしていて、その豆を焙煎器を使って自分で焙煎すると、あのコーヒー色の豆になるのです。いれたてのコーヒーではなく、焙りたてのコーヒーを飲むのは、また違った味わいです。