城と樹木

 国宝と世界遺産に登録されている姫路城についてのブログを書きましたが、もうひとつ、国宝に指定されていて、平成6年、世界文化遺産に登録されたのが二条城です。ここには、国宝の二の丸御殿、国の特別名勝の二の丸庭園のほか、数多くの重要文化財の建造物が残っています。明日の講演のために前泊したホテルの近くに、その二条城があり、今「二条城お城まつり」が開催されているので、覗いてみました。
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 ブログでも様々な城がテーマになりますが、城といっても、敵の攻撃を防ぐために築いた防御施設のことで、必ずしも天守閣を持っているわけではなく、柵を巡らせただけというものもあります。また、平和の時代になって、敵の攻撃から守るというよりも権力を誇示するために建てたものもできてきます。そんな様々な城の中で、私たちが「城」といって思い浮かぶイメージは、大体は、戦国時代末から安土桃山時代をへて、江戸初期に至る半世紀ほどの間に築かれたものです。このころの城は、全国に3000城位もありました。それが、大阪夏の陣直後、徳川幕府による「一国一城令」が出され、その数は一挙に約170城まで減少してしまいます。
なお、悪いことに明治維新になると、明治新政府によって明治6年城郭の廃城令が明示されて、明治7、8年頃には約三分の二の城郭が廃城となってしまいました。そのあとも、戦争によって破壊されたものも多く、大切な文化遺産が消されていったのです。しかし、戦後になると、城の歴史的価値は見直され、またすぐれた観光資源として見直され、焼失した天守閣や櫓・城門などの再建・復興が相次ぎました。
二条城は、ほかの城とちょっと違った用途として建てられました。慶長8年(1603年)、徳川将軍家康が、京都御所の守護と将軍上洛のときの宿泊所として造営し、3代将軍家光により、伏見城の遺構を移すなどして完成したものです。ここでは、豊臣秀吉の残したもの、家康が建てた建築、家光がつくらせた絵画・彫刻などが総合されているだけでなく、徳川の最後である大政奉還の舞台になるなど日本の歴史の移り変わりを見守ってきた城です。
この城内庭園にはいろいろな木が植えられています。それらの木にはそれぞれ利用価値があったようです。以前ブログで紹介した熊本城の別名「銀杏城」とは、加藤清正が篭城戦になった時の食料確保のため、築城時に植えた大銀杏があるからだと言われています。二条城には、非常時のために植えられている木があります。松は、ブログで書きましたが、縁起の良いということもありよく城に植えられますが、もうひとつ、たいまつに利用されていたそうです。また、説と違って、熊本城の銀杏は雄の木で実はならないそうですが、実を食料にするために植えられた木はたくさんあります。二条城には、あらかし、しいのき、うばめがしがあります。先日、私の園でもしいの木の実であるどんぐりのクッキーを子どもたちと作って食べました。ほかに、燃料に利用したものに、くすのき、いちょう、けやき、むくのき、えのきなどがあります。もちろん、木は主に燃料にしたのは当然でしょうね。また、ひのきは建築用、なぎのきの葉は鎧の中に入れて戦えば死なないと言われていました。
 あと、なぜだかわかりませんが、3代将軍家光の時代、鍋島藩の鍋島勝重公が、後水尾天皇行幸に先駆け、蘇鉄を1本献上している記録があります。8代将軍徳川吉宗の時代の二の丸庭園の絵図には、二の丸庭園には15本もの蘇鉄が植えられていたことが描かれてあるそうです。
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場内にも、大広間と黒書院をつなぐ渡り廊下の壁面及び出入口の杉戸の蘇鉄が描かれていたため、蘇鉄の間と名づけられています。
 樹木から城を見るのも面白いかもしれません。

食事

昨日のブログで、なぜ突然にお弁当の話題になったかというと、区内の栄養展に掲示する展示物を調理の職員含めて数名で遅くまで作っていたからです。大きな模造紙に写真で、園で行っている取り組みを紹介するものです。全体のイベントとしては、「しんじゅく 食育フェスタ2009 ?見て、笑って、食べて“やさい”のチカラを発見!!?」と題して、身近なところから食の大切さや、健康づくりと食べ物について体験できるイベントです。
近年の我が国の食をめぐる状況の変化に伴う様々な問題に対処していくため、平成17年6月、「食育」に関する施策を総合的かつ計画的に推進し、現在及び将来にわたる健康で文化的な国民の生活と豊かで活力のある社会の実現に寄与すること等を目的として、食育基本法が公布されました。食育基本法では、食育は、生きる上での基本であって、教育の三本の柱である知育、徳育、体育の基礎となるべきものと位置付けられるとともに、様々な経験を通じて、「食」に関する知識と「食」を選択する力を習得し、健全な食生活を実践することができる人間を育てるものとして食育の推進が求められるとされています。
これを受けて、今年の4月1日に施行された新たな保育所保育指針では、保育所における「食育」は、「健康な生活の基本としての「食を営む力」の育成に向け、その基礎を培う」ことを目標として、子どもが毎日の生活と遊びの中で、食に関わる体験を積み重ね、食べることを楽しみ、食事を楽しみ合う子どもに成長していくことや、乳幼児期にふさわしい食生活が展開され、適切な援助が行われるよう、食事の提供を含む食育の計画を作成し、保育の計画に位置付けること等に留意して実施しなければならないとしています。
また、子どもの生活の場である保育所においては、毎日の給食が重要であり、友達や保育士とともに喜んで食べることが心とからだの栄養となるとし、年齢や発達過程に応じて、食事の環境を様々に工夫し、明るく楽しい食事の場にするとともに、子どもが食材への関心を持つように環境を構成するようにとしています。
いろいろなことをいいますが、本来もともと食べる楽しみは人にはあるはずです。それは、もちろん生きるための手段ではあるのですが、それだけを意識して食べているわけではありません。2004年11月号のエデュカーレで「あるフランスの保育園に学ぶ」という研究会報告がありました。そこにこんなことが書かれてありました。
「この保育園では、一人でスプーンを使えるようになったら、自分で食べたい量を取らせます。最初は取りすぎたりすることもあるけれど、それを繰り返していくうちに、自分が食べられるのはこれぐらいというのが、だんだんわかっていく。また、子どもによっては、逆にちょっとしか取らない子やちょっとしか食べない子がいて、そういうときには、先生が、もうちょっと、と言うことはあります。自分のおなかの空き具合と取り分ける量は、やっていけば子どもにもわかるようになる、と保育士は言っていました。」
私の園でも、3歳以上児では昼食の時に自分で食べたい量を当番の子に申告してよそってもらいます。フランスの保育園同様、最初はほんの少しの子もいますし、取りすぎる子もいますし、好き嫌いを言う子もいます。しかし、昨日の夜、調理と話しながら資料を作っていたときに、その方法によって、本当に子どもたちはたくさん食べるようになり、好き嫌いもなくなってきているという話を聞きました。そして、何よりも昼食の時間が来るのを楽しみになってきたようです。
 しかし、子どもにぜひ食べるように声をかけてほしいという要望が新入園児の保護者からあることがあります。声をかけないと食べないからという理由からです。また、ほかの園で、子どもに自分で量を決めるやり方に猛烈に反対する保護者がいるということを聞いたことがあります。指針にも「喜んで食べることが心と体の栄養となるとし」と書かれているように、逆に言われて食べることは、心と体を壊すことがあります。そのために、「食事の環境を様々に工夫し、明るく楽しい食事の場にするとともに」と書かれてあるように、食事の場の持ち方が栄養にずいぶん影響するものです。栄養価、栄養素、摂取量ばかり言いすぎている気がします。

幕の内駅弁

先日、姫路から帰るときに駅弁を買いました。その駅弁のふたには、「日本初の“幕の内駅弁”販売」と書かれてあります。
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駅弁は、日本独特な食文化です。それは、以前のブログでも紹介したように、電車の中の座席でものを食べるということは外国ではせず、食堂車が整備されたからです。しかし、弁当は、どの国でも、昔からあったでしょう。というのは、食べ物はその場で食べるというよりは、持ち歩くことがあったからです。しかし、記録に残っているものでは、日本では、5世紀頃にはもう、そういう習慣があったとされています。また、そのときにはおにぎりにして持っていくとか、干しものにして持っていくとかしていたでしょうが、いわゆる今弁当と言って思い出すような、白飯と副食という組み合わせになったのはいつかははっきりしないようです。しかし、白飯と副食という組み合わせが次第に手が込んできて、「幕の内弁当」と呼ばれるようになったのは、江戸時代中期のようです。
江戸中期に、料亭のようなところで、弁当を製造し、販売していました。その頃の庶民の娯楽と言えば芝居見物でした。この芝居というのが丸一日がかりというのも珍しくありませんでした。そこで、当然観客はお腹が空きます。その観客を目当てに弁当売りがいて、観客は幕と幕の間(幕のうち)にその弁当を食べました。というわけで、芝居小屋で売られていたスタイルの弁当を幕の内と言うようになりました。芝居の間に食べるものとして、幕の内だけだなく、うな丼とかうな重も手軽に美味しく食べられるようにと生まれたものです。しかし、説はいろいろとあるようで、「幕の内側で役者が食べるから」「相撲取りの小結が幕の内力士であることから”小さなおむすび”の入っている弁当を幕の内弁当と呼ぶようになった」などがあります。また、芝居鑑賞のときだけでなく、相撲観戦のときにも相撲茶屋が弁当を提供していました。そこから幕内力士のように相撲の世界にも幕の内という言葉が持ち込まれたという説もあります。容れ物は、重箱などに入れていたようです。
明治以降になってからは、幕の内弁当は駅弁の様式のひとつとして広まっていきます。このころのことが、先日買った「まねき食品株式会社」の駅弁のふたに書かれてあったのです。1888(明治21)年に山陽鉄道(現JR山陽線)が姫路駅まで開通したときに、明治初年から茶店を開業していた竹田木八が、その翌年に姫路駅で「幕の内駅弁」を売り出しました。この弁当が、全国初の幕の内駅弁とされていると書かれてあります。その弁当は、それまでの竹皮で包んだ駅弁と違い、容器の回収ができないことから、使い捨ての経木の折詰に盛るという方法をとり、その容器がその後一気に広まっていきました。この経木は、殺菌効果のあるという松材を使用しました。
元祖「幕の内駅弁」と言っている当時の弁当は、13種類のおかず(鯛塩焼、伊達巻き、焼蒲鉾、卵焼き、大豆昆布佃煮、牛蒡、蕗、百合根、筍、人参、空豆、きんとん、奈良漬)を上折に、下折には梅干しを入れた白飯を入れ二重の折詰にして、当時お米1升6銭の時代に12銭で販売致しました。
 今、幕の内弁当は、以前人気が高いようですが、売られているのは、芝居小屋から駅弁からコンビニに変わりつつあるようです。

小学○年生

 テレビコマーシャルで一世を風靡したものに、小学館の「ピッカピカの1年生」シリーズがあります。いろいろな地方の独特の方言や、男の子や女の子たちが照れながらピカピカのランドセルを背負ったもうすぐ1年生の姿に、1年生になる喜びがあふれていました。そして、増刊扱いの「入学準備 小学一年生」を買うことによって、小学生になるのだという自覚を持つようになるというCMです。そんな、小学生になじみのある「小学○年生」という雑誌について、「小学五年生」「六年生」休刊へというニュースが流れました。
 10月26日の産経新聞によると、「小学館は26日、学習雑誌『小学五年生』『小学六年生』を平成21年度いっぱいで休刊すると発表した。両誌は大正11年に創刊。最大発行部数は、五年生は63万5千部、六年生は46万部をともに昭和48年4月号で記録したが、最近は高学年児童の関心の多様化などから需要が減少し、部数は5万部から6万部で推移していた。」ということのようです。ということで、五年生は来年2月3日発行の3月号、六年生は今年12月28日発行の2・3月合併号が最終号となるようです。この事情について、小学館広報室は「近年の社会状況や学習環境の変化はたいへん大きく急激であり、子供たちの趣味や嗜好の多様化が進み、情報も細分化されている。(2誌が)大きな時代の変化と読者のニーズに必ずしも合致しなくなった」とコメントしています。いかにも時代だと思いますが、その休刊の2誌に代わりには、22年春から学習マンガ誌『GAKUMANPLUS(仮題)』を創刊予定だそうです。ただ、「小学一年生」から「四年生」は来年度以降も発行を続けるようです。どうも、子どもたちの趣味や嗜好が大きく変わってきたのは、小学校高学年のようです。
 これらの雑誌の歴史はずいぶんと古いので、お世話になった人の年齢層は相当広いでしょうね。「小学五年生」と「小学六年生」は、大正11年(1922年)に送還されていますが、大正13年には、「小学四年生」が創刊され、大正14年に、「セウガク一年生」「セウガク二年生」「セウガク三年生」が創刊され、全学年がそろいました。しかし、いろいろな歴史をたどると、必ず戦争が影を落としていきます。昭和16年に、小学校が国民学校と改称したために、誌名も「国民○年生」に変更されています。次の年の昭和17年には、戦時統制により、「良い子の友」と「少国民の友」に統合されてしまいます。
 戦後まもなくの昭和21年、「小学一年生」から「小学六年生」が復刊します。そして、昭和55年から平成6年までの間、「ピッカピカの一年生」(電通の杉山恒太郎の発案)がテレビから流れるのです。そして、次第に幼児教育が重視され、昭和57年には、「学習幼稚園」が創刊されています。
 これらの雑誌は、私の子どもの頃は、学習誌でしたが、次第に娯楽性を増していきます。そして、掲載されている主なものが、4年生くらいまでは、連載漫画やアニメのキャラクター、5,6年では、アイドル歌手や人気女優の写真を使うようになっていきました。そんな紙面からは、様々なヒーローが生まれています。鉄腕アトムアニメ第1作は、1963年の「一年生」から「三年生」に登場します。また、オバケのQ太郎、 ロボタンシリーズ、快獣ブースカ、パーマン、悟空の大冒険、冒険ガボテン島、おらぁグズラだど、ウメ星デンカ、いなかっぺ大将なども登場します。この中には少年サンデーなどから参加したものもありますが、朝日新聞から参加したものに「サザエさん」があります。
 これらどの名前を見ても懐かしいですね。その生みの親であった雑誌が休刊になるのも時代かもしれません。

漢字

 最近の新聞紙上は、漢字が話題になっています。そのひとつは、ブログでも書いたように、今日から読書週間が始まり、その初日である今日は、「文字・活字文化の日」だからです。ですから、今日の読売新聞の社説は、活字文化について書かれています。そこには、電子書籍の利用者について、「利用したことがある」が8%、「電子書籍の普及が読書人口の拡大につながると思う」は44%に上っていることを取り上げ、グーグル社が現在、世界中の書籍をデータベース化し、電子書籍として販売する計画を進めていることを紹介しています。私も何冊か書籍を出版しているのですが、出版社からその承諾についての手紙が来ました。
 そして、社説では、来年が「国民読書年」とする国会決議も昨年採択され、その運動の大きな柱として、子供の言語力向上を掲げているそうです。読書活動は、子供たちの考える力や読解力を育んでいく上でも欠かせず、多感な時期に出会った書物は、その後の生き方や考え方に大きな影響を与えるだろうと言っています。
もうひとつの話題は、今月23日に「新常用漢字表(仮称)」に関する試案を審議している文化審議会国語分科会の漢字小委員会が、試案の修正案を承認したというニュースです。この承認された追加字種候補は、196字です。また新漢字表の名称は常用漢字表を踏襲することになりました。たとえば、新たな追加字種候補には、哺乳の「哺」、楷書の「楷」、親睦の「睦」、「釜」、禁錮の「錮」、賄賂の「賂」、勾配の「勾」、毀損の「毀」などです。逆に外されるのは、忌憚の「憚」、哨戒の「哨」、諜報の「諜」などです。これによって、常用漢字表は、2136字になります。
 もうひとつの話題は、民主党が掲げる「子ども手当」についてです。これは、その手当がどうということではなく、「子ども」か「子供」かという議論です。10月12日の 産経新聞でそれを取り上げています。この筆者は、「「子供」と「子ども」とは別の概念だ。小児または小児らを指すのが「子供」で、「子ども」は「子+複数を表す接尾語ども」を表す書き方だ。なるほど「子ども」と書いても、この「ども」に複数を表すという意識はもうほとんど薄れている。だからといって、この接尾語「ども」が完全に滅んだかといえばそうではない。野郎ども、アホども、子供どもといえば複数概念がちゃんと生きていることが分かろう。この「ども」には、相手を見下すニュアンスがある。だから、「子供」よりもよほど子供を侮った書き方なのである。」
 どうしてこんな議論が起きるのかというと、一部の人に、「供」はお供の供で、子供を供え物のように扱う人権無視の書き方だという人がいるからです。
 また、24日付読売新聞編集手帳でもこの話題を取り上げています。読売新聞のこの欄では、国民の祝日〈こどもの日〉を除き、もっぱら「子供」と表記してきたそうです。英文学者、柳瀬尚紀さんの著書の一節を紹介しています。「〈(差別だとは)…お笑いです。「子ども」では「ガキども」「野郎ども」「男ども」「女ども」を連想して、かえって子供に申し訳ない。ぼくはずっと「子供」で通しています。(新潮社「日本語は天才である」」
 民主党が打ち出した「子ども手当」は、思わないところで議論を呼んでいます。

霍乱とマスク

 今日、職場で少し熱っぽい職員が相対をしまいした。今はやりの新型インフルエンザではなさそうですが、それでもあまる普段病気になりそうもない丈夫そうに見える職員なので、私が「それって、鬼の“かくらん”じゃないの」と冗談に声をかけました。すると、その場にいた若い職員はその言葉を知らない人が多かったのですが、最近はあまり使わなくなっているのかもしれません。この“かくらん”は、“霍乱”と書きます。かくらんというと“攪乱”という字が先に出てきます。こちらの時のほうがよく使うのでそう思ってしまいますが、“攪乱”とは、「かき乱すこと。混乱させること」という意味で、よく、「敵を攪乱する」などと使います。しかし、この意味では、本来の読みは「こうらん」というなしいのですが、今ではほとんどの人が「かくらん」と読んでいるようなので、「大辞林 第二版」では、「かくらん」という項目があり、「こうらん(攪乱)」の慣用読みとしています。
 ということで、「おにのかくらん」は、「鬼の霍乱」と書きます。この時の「霍乱」は、   中国では嘔吐や下痢を起こす急性消化器疾患の総称とされていました。それを日本では一般に日射病や暑気あたりのことをいうようになりましたが、古くは腹痛や嘔吐を伴う急性胃腸病をさしたそうです。今は、気あたりによって起きる諸病の総称として使います。また、「鬼」というイメージは、非常に勇猛な人、あることに精魂を傾ける人、無慈悲な人、などに使われます。ということで、そんな丈夫そうな人が病気になることはないだろう、ましてや日射病などにはなりっこないのに、なってしまうことから、「いつも非常に健康な人が、珍しく病気にかかることのたとえ」として使われます。
 最近の新型インフルエンザの対応は仕方ないとはいえ、行きすぎのところがある気がします。先日、インフル対策として聴衆に全員マスクをかけて聞くようにということを注意されたなかで講演しました。私が普段講演するときには、原稿を見てしないことにしています。それは、聞き手によって、その表情、反応などによって話題を変えることがあるからです。それは、聞き手の地域、年齢層などによって興味のあるところが違うからです。話しながら顔の表情を見るのですが、マスクをしていると目のところしか見えません。すると、なんだかみんな怒っているかのように見えます。興味のなさそうな顔に見えます。あとで、とてもよかった、とてもわかりやすく頷くことが多かったと言われて安心したのですが、話している最中は反応が心配でした。人は、目元だけでなく、口元を含め、顔全体で気持ちを表すのだということがよくわかりました。
 少し前にある保育園に園内研修で伺ったときに、区からの指示で職員が全員マスクをして保育をしているという話をしていました。食事の時までマスクをしているのだそうです。そのときに、まず、誰のためにマスク着用が指示されているのか不思議に思いました。もちろん、職員が罹患の恐れがあるときにはマスク着用が効果的ですが、そのときにはそんなことをするよりも休んだ方がいいと思います。それとも、子どもからうつらないようにするためでしょうか。そのために保育に必要な表情を子どもに見せずに、自分を守っているのでしょうか。1日中マスクをし、何週間もマスクをして保育をすることは、子どもにとっては機械に見てもらっている感覚になってしまうでしょう。楽しいことをしても楽しい表情もせず、うれしい表情もせず、目元だけを見せて、いつも怒っているような印象を与えかねません。保育は、人と人とが 関わることで成り立ちます。それを、予防という対策から避けるべきではないと思いました。

夏から秋

昨日、訪れた青森では、初霜が記録されました。もう秋が深まってきました。こんな季節、アメリカやヨーロッパでは、新聞やテレビのニュース、企業の海外支店のHPでは、昨日からある注意を喚起する情報が流れています。人々は、その警告を忘れたり、ちょっと油断したりするとたいへんなことになるので、気をつけなければならないようです。その警告とは、
「10月25日(日)、午前3時に時計の針を1時間戻すことをお忘れなく!」というものです。私たち日本人が、どうもなじめないものに「サマータイム」がありますが、そのサマータイムが今日終了し、今日の午前3時から標準時になったようです。この時間調整は、各国で行われていますが、呼び方は、ヨーロッパでは、サマータイム( Summer Time)都言い、開始は、2009年3月29日(日)1:00 amから終了が2009年10月25日(日)1:00 amまでです。カナダやアメリカやオーストラリアでは、デイライト・セービング( Daylight Saving Time)と言い、開始が2009年3月8日(日)2:00 amで、終了が2009年11月1日(日) 2:00 amとなっています。地域によって時差のある北米では、それぞれの時間帯で、3月7日から3月8日に日付の変わった、深夜2時に、時計を1時間進め、3時とします。また、終了時は、同じく10月31日から11月1日付の変わった深夜2時に、時計を1時間戻し、1時とします。ですから、終了の時は一時間多く寝られます、一日が25時間という事になります。ヨーロッパの場合は10月最終日曜日の午前2時を午前1時にします。したがって、ドイツの場合、日本との時差は7時間から8時間になります。例えば夏時間なら日本の正午がドイツの午前5時、冬時間なら午前4時にというわけです。
 やはり、実感としてはどういう感覚になるのかよくわかりません。ヨーロッパに転勤した人の話ですと、この日の最初の仕事は、家中の時計を1時間遅らせること。置き時計や目覚し時計を始め、電子レンジや炊飯器の家庭電化製品、ビデオやオーディオ等など。車の時計も忘れずに。全部の時計を直したつもりでも、必ず忘れられているものがあるのもで、数日経ってからそれを発見すると、やはり変な感じがするそうです。しかし、この日にサマータイムから標準時に戻すという言い方をするのは、実はグリニッジ標準時)Greenwich Mean Time: GMT)そのものには、サマータイムがなく、1年中同じ時を刻んでいるのです。ですから、便宜上変えているだけです。
 この夏次官という考え方は、すでに18世紀にベンジャミン・フランクリンが提唱しましたが、彼の時代には実現しませんでした。その後、第一次世界大戦中のドイツで、1916年4月30日から10月1日まで、同じくイギリスが1916年5月21日から10月1日まで初めて採用されました。アメリカ合衆国では1918年と1919年に各7か月間、夏時間が導入されたのですが、大変に不評のため廃止になっています。その後第二次世界大戦中に資源節約目的で復活し、現在に至っています。日本では、連合軍の占領下にあった1948年から1951年までの4年間、夏時間が実施されました。
 この目的は、夏の間、太陽の出ている時間帯を有効に利用するということで、夜明けが早い夏の間、早くから仕事を始め、早く仕事を終え、従って早く消灯することになれば、省エネルギーにつながることが最大の導入理由といわれています。また、終業後もまだ明るい場合が多くなるので、その時間をレクリエーションに当てることができるとも言われていますが、サービス残業時間が拡大する心配も言われています。
 どんな感覚になるのか、一度、変わる瞬間を、サマータイムが導入されている国で体験したいものです。

食欲の秋

「読書の秋」同様に「食欲の秋」という言葉もつかわれることがあります。私は、この意味を次のように考えます。
秋は実りの秋といわれるように様々な植物が実をつけます。日本では、主食であるコメが実りますし、柿、栗、りんご、ぶどうなどの果物も大きな実をつけます。そんなおしそうな食べ物を見ると、食欲がわいてきます。また、それに引き換え、次にくる冬は食べるものが少なくなります。そこで、冬に備えて食べ物を貯蔵しておかなければなりません。そのために、いろいろな食べ物を貯蔵するために技術が考えだされました。腐ったり、奪われないような貯蔵小屋、日持ちさせるような加工技術。乾燥させたり、餅にしたり、漬けこんだりと、様々な方法が生み出されました。同時に、自分の体にも貯めておかなければなりません。特に、この方法は、動物に多く見られますが、人間でも蓄えておけないものなどは、体に蓄えていたでしょう。そして、冬になると厳しい自然の中で、それを乗り切る体力つくっておかなければなりません。また、冬はとても寒く、体が冷えてしまいます。そのために衣服で調節したり、火を使ったのですが、それでもかなり寒かったでしょう。そのために体に脂肪を蓄えて、体の体温を維持したと思われます。体脂肪には、内臓脂肪と皮下脂肪がありますが、内臓脂肪は内臓を保護して内臓間のクッションの役割を果たしますが、皮下脂肪は、体温を下げないように断熱する役割と、気温を断熱して体内への影響を最小限にする役割と骨や筋肉などを保護するクッションの役割があるある意味では大切なものです。ですから、秋はたくさん食べて、体脂肪を増やして冬の寒さに耐えられるように体脂肪を増やそうとしているからです。逆に、春になると食が細くなるのは、暑い夏には余計な体脂肪がない方が涼しいので、体脂肪を減らそうとしているからです。それらもろもろの理由から、秋という季節は、自然と食欲が増し、多く食べていたのでしょう。
このように体が食べなければいけないと思わせるために「食欲」という、食物を食べたいという欲求が起きるのです。この食欲をコントロールしているのは、脳の外側視床下部にある摂食中枢と腹内側核にある満腹中枢だということは分かっていますが、この2つの中枢に影響を及ぼすものは、いろいろとあり、なかなか複雑です。しかも、なにを食べたくなるか、何に食欲がそそられるかも面白いことがわかっています。そこに、男女差があると言います。女性特有の食欲に、空腹感が伴わない「感情で食べる」という摂食行動があるそうです。おいしいものを見たり、匂いをかいだりして食欲がそそられるというのはよくあるのですが、この「感情」が食欲に左右するのは、男脳では起こりえない摂食行動だそうです。それは、「イライラ・不満な時に食べる」ことです。特に、「イライラすると甘い物が欲しくなる」ということだそうです。もちろん、女性が100%そうなるわけではありませんが、70%位がそうなると言われています。その理由は、「食べる」ことでなく、イライラという感情が生じると甘味、すなわち、ブドウ糖の原料を求めるからだと言われています。そして、その特性は、女脳の生物的な仕組みだと言われています。
それとは別として、満腹なのに、おいしそうな食べ物を見たり、匂いをかいだりすると、つい手が出てしまうのは、大脳の感覚中枢がはたらくためです。大脳が発達している人間だからこそ、視覚、嗅覚、聴覚などの五感が記憶を呼び覚まし、食欲が喚起されるといいます。
ただ、子どもに食べろというのではなく、普段から5感を刺激することも大切です。

本離れ

 最近の若者は本を読まないと言われている半面、本屋さんにはたくさんの新刊が並び、最近は、2巻合計で220万部を超える大ベストセラーとなった作家村上春樹さんの長編小説「1Q84」が話題になりました。本を読む人が減ったといわれる中、一体だれが読んでいるのだろうか不思議に思います。
 文化庁では,国語施策の参考とするため,平成7年度から毎年「国語に関する世論調査」を実施しています。今年の3月に,日本語を大切にしているか,人とのコミュニケーションについて,読書について,情報機器と言葉についてなど,国語に関する一般の人々の意識を調査するとともに,カタカナ語の認知度・理解度・使用度や慣用句等の言い方・意味について調査しています。その中で、読書についてこのような結果が出ています。
 まず、現在、雑誌や漫画を除いて、1か月に大体何冊くらい本を読んでいるかを聞いた結果は、「1,2冊」が36%、「読まない」と答えた人が46.1%でした。平成14年に同じ質問をしたところ「全く読まない」と答えた人は37.6%でした。この結果を見ると、やはり最近は本を読まなくなっているのは本当のようです。では、どんな年代が読まないかという結果では、20代?50代で「読まない」と答えた人はそれぞれ4割程度で、16?19歳では4割台後半、60歳以上では5割台半ばでした。この結果からみると、最近の若者は本を読まないというのは少し違うようです。ただ、60歳以上は、目が悪くなるので、読むのがつらくなるから読まなくなるでしょうから、多いのであって、結局はどの年齢でも読まなくなっているようです。
では、読んでいる人はどのような本を読んでいるのでしょうか。「小説や詩などの文芸書」(56.6%)、「趣味やスポーツに関する本」(41.3%)を選択した人の割合が高く、「料理など日常生活に関する本」(24.5%)、「医療や健康に関する本」(23.3%)がそれに続いて読まれているようです。この結果を見ると、やはり村上春樹などがベストセラーになるのは分かりますね。では、男女では、読むものが違っているのでしょうか。「生き方や宗教・哲学に関する本」「言語や語学に関する本」以外の選択肢では、男女で8?33ポイントの差があるようです。特に、「料理など日常生活に関する本」では、女性の方が33ポイント高く、まだまだ料理は家庭では女性が担っているのがわかります。逆に「政治や経済に関する本」では、男性の方が28ポイント高くなっています。やはり、男女では詠む本の種類が違うようです。
では、本人は読書量が増えているか減っているかどう思っているのでしょうか。「減っている」が64.6%、「それほど変わっていない」が25.3%、一方,「増えている」と答えた人は8.6%しかいなかったようです。その理由は、「仕事や勉強が忙しくて読む時間がない」(51.2%)、「視力など健康上の理由」(36.7%)を選択した人の割合が高く、「テレビの方が魅力的である」(25.0%)、「携帯電話やパソコン,ゲーム機などで時間が取られる」(14.8%)が続いています。この結果を見ると、最近は必ずしも活字離れということではなく、高齢化社会になって、高齢者の割合が増えたことと、忙しくなって、時間的に余裕がなくなってきたことに本を読まなくなった理由があるようです。ですから、当然、「仕事や勉強が忙しくて読む時間がない」を選んだ人の割合は、20代から40代では7割台半ばから約8割と高くなっているようです。ですから、「増えている」と答えた人の理由は、「時間に余裕ができた」が、47.6%いました。
やはり、本離れは活字離れというよりも、時間の余裕の問題のようです。

灯火

少し前のブログで、皆さんは何の秋を思い浮かべるかという話題を書きましたが、やはり、「読書の秋」というのが老舗の気がします。確かに、すでに1918年(大正7年)9月21日の『読売新聞』には「読書の秋」という表現が使われているそうです。どうして、秋と読書が結びついたかというと、古代中国の韓愈が詠んだ「時秋積雨霽、新涼入郊墟。燈火稍可親、簡編可卷舒。」(降り続く長雨がやんで、空がすっきりと晴れ渡り、郊外の丘の上では、秋を感じさせる涼しさが感じられる。そんな秋の夜長は、明かりをつけて、そのもとで読書をするのに適している季節です。)という中の「灯火親しむべし」からだと言われています。出典は、中国の文人で唐宋八大家のうちの一人である韓愈の「符読書城南」(『全唐詩』341巻)です。彼が、息子に対して勉強を勧めたことばだとされています。
この中の「新涼」という言葉は、とてもさわやかさを感じます。「全訳漢辞海 第二版」によると、「初秋のころの涼やかさ」とあり、「秋はじめて催す涼しさをいう。夏の暑さの中の一時的な涼しさと違って、よみがえるような新鮮な感触がある。秋涼し。秋涼。」との説明がされています。また、「灯火」という言葉も、「明かりの下で」ということで、「灯下」と書きそうな気がするのですが。
 終戦まもない昭和22年、まだ戦火の傷痕が至るところに残っているなかで「読書の力によって、平和な文化国家を作ろう」という決意のもと、出版社・取次会社・書店と公共図書館、そして新聞・放送のマスコミ機関も加わって、11月17日から、第1回「読書週間」が開催されました。そして、翌年の第2回から来週火曜日の10月27日?11月9日の文化の日を中心にした2週間が「読書週間」と決められ、日本の国民的行事として定着し、日本は世界有数の「本を読む国民の国」になりました。
しかし、この「読書週間」も戦争によって翻弄されます。実は、関東大震災の翌年の大正13年、11月17日から23日までの1週間を日本図書館協会が「読書週間」として開始しました。それが、昭和8年に「図書館週間」と改称され、出版界ではそれと密接な連携を保ちながら「図書祭」を計画し、当時の東京商科大学一橋講堂で、祭典が行われましたが、そのとき祝辞を述べたのが、鳩山一郎文部大臣でした。しかし、日中戦争の影響で昭和13年、読書運動は、11月10日の国民精神復興に関する詔書煥発記念日に改められ、政府の「国民精神復興週間」に変わって行きます。「図書館週間」も、昭和14年に文部省が発令した「一般週間運動廃止令」によって禁ぜられましたが、何とか、「読書普及運動」と名称を変えて、11月8日から12日までの5日間の開催で継続を計ります。しかし、ますます悪くなる時局の緊迫化から、読書週間、図書館週間ともこの年で終止符を打つことになってしまったのです。
それが、敗戦後の昭和22年に復活するのです。その後、この年、毎日新聞社により「毎日出版文化賞」が創始され、昭和28年には、学校図書館協議会の提唱に共催して「青少年読書感想文全国コンクール」がスタートします。
こんなに大切にされてきた「読書」ですが、次第に本を読まない若者が増えてきました。若者だけでなく、時間がないからといって本を読まない人も増えているようです。夜長の秋ではなく、夜短の秋のような生活をする人が増えていることは、心に余裕がなくなり、イライラする人が増えてきたことと関係があるかもしれません。