すっかり秋

すっかり、秋になりました。秋には何をする季節かというと、昔からいろいろな言い方があります。「食欲の秋」「読書の秋」「スポーツの秋」「芸術の秋」などです。皆さんは、どのような秋を過ごすのでしょうか。私が好きな曲で喜多条忠作詞、吉田拓郎作曲の「メランコリー」という歌がありますが、歌詞の中にこんなフレーズがあります。「秋だというのに 恋も出来ない」2番の歌詞には、「秋だというのに 旅もできない」とありますが、秋は、恋する季節なのでしょうか、旅をする季節なのでしょうか。
「秋深き 隣は何を する人ぞ」という有名な松尾芭蕉の句があります。この句をそのまま読むと、「隣の人は一体今何をしているのだろうか?ガサガサ音がするのは、秋が深まり冷え込んできたので、衣替えの用意をしているのだろうか。私も、そろそろ冬支度でもし始めなければ」と解釈してしまいます。絵画にしても、俳句や小説にしても、それを見たり、読んだりする人の心境や境遇によって解釈が変わり、作者の意図するところと違ってしまいます。それって、いいのだろうかと思うことがあります。読み手の私たちは作品の批評をするのではなく、その作品に共感でき、自分を投影するから素晴らしい作品と思えることもあるのです。
しかし、その作品が生まれた時の状況や背景を知ると、また違った解釈が生まれ、作品に厚みを感じることができるようになります。「秋深き…」はそういう作品です。この一句は、芭蕉の最後の一句となっています。というのは、死を前にして詠んだ句なのです。秋深くなる9月の終わりに、俳席が畦止亭で開かれ、翌日は、芝柏亭に場所を移して同様の俳筵が巻かれることになっていました。そこに出席するはずだった芭蕉でしたが、体調を崩していた芭蕉は、俳席に出席している方々に申し訳なく、この一句を送りました。その後芭蕉は床に伏し、10数日後亡くなりました。そう思ってこの句を読み返すと、衰弱しつつある自身が、秋深まる夜と同調したように感じ、秋を夜が更けていくとともに、寂しく儚く感じたことでしょう。その儚さは、夜や秋だけでなく、死期が迫ってきた自分自身の人生も合わせて感じたことでしょう。「隣人は何をしているのだろう」という思いも、俳席の楽しき場や、隣の住人のことが気にかかって、その席への思いを馳せている様子がうかがえます。その思いは、俳句仲間に対してだけではなく、自分が経てきた人生に対して自分は何をしてきたのであろうかという思いもあったでしょう。この句会が開かれ、芭蕉が亡くなった9月は、新暦ですと11月末?11月上旬ですから、晩秋です。
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 「旅愁」という原曲がオードウェイというアメリカの音楽家の作曲した曲があります。原題は、「Dreaming of home and mother」という故郷を穏やかな気分で回想するようなものだったようですが、日本では、詩人「犬童球渓」という人が訳詩をしました。熊本県出身だった彼が、故郷を遠く離れた北の国である新潟に勤務していたときに、自身の境遇の苦悩などを綴ったものだともいわれています。「更けゆく秋の夜 旅の空の わびしき思いに ひとり悩む 恋しや古里 なつかし父母 夢路にたどるは 故郷の家路」この歌詞は、林芙美子の「放浪記」の冒頭にも出てきます。
 私は、秋には特にメランコリーになりませんが、ちょっと物思いにふけってみたい気もします。