弥生

 昨日のブログで取り上げた弥生美術館は、文京区弥生町にあります。しかし、この辺は江戸時代には水戸藩の中屋敷で、町名は付けられていませんでした。明治になってこの地が政府に収用された時にもなかったのですが、明治5年、町家ができはじめて町名が必要になりました。さあ、なんという町名にしようかと迷ったときに、たまたま旧水戸藩の廃園に、水戸斉昭の歌碑が建てられており、そこにはこのような歌が刻まれていました。「ことし文政十余り一とせといふ年のやよひ十日さきみだるるさくらがもとに」という文章があったことから、そのなかの弥生をとり。向ヶ岡弥生町になったのです。上野の森は、かつて「忍ヶ岡」と呼ばれていました。そのこちら側が、忍ヶ岡の向こうということで「向ヶ岡」です。
弥生とは、もちろん3月のことですが、「弥」とは、「いや」ということで弥栄(いやさかえ)と使うように、ますますということで、生は「生ひ」のことで、生育のことです。ですから、「弥生」とは、草木がますます生ふるということになり、絵縁起の良い言葉です。しかし、水戸斉昭は歌の中でさくらの美しい向ヶ岡の地に「向岡記」碑が3月に建て建てられたと詠んだだけですので、特に弥生には意味がなかったのですが、この町名はのちに日本中に知られることになります。
それは、明治17年、東京大学の有坂〓蔵、坪井正五郎、白井光太郎の3人が、根津谷に面した貝塚から赤焼きのつぼを発見、これが「通常の貝塚発見土器(縄文土器)とは異なる土器」と認められ、新しい様式の土器の発見となったのです。この土器の名前を、発見地の地名を取って「弥生(式)土器」と名付けられたのです。
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そして、この名前は、稲作文化を象徴する「弥生時代」という「縄文時代」に対応する時代区分になったのです。そして、日本中の人が学校で習うことになり、弥生という名前が知れ渡ったのです。
司馬遼太郎氏は「街道を行く」の中で、根津駅から弥生坂をのぼった向ヶ岡近辺について次のように記述しています。「弥生というような稲作文化の象徴のようなことばをもつ町名から、稲作初期の土器が出て、弥生式土器となづけられた。まことにめでたいといわねばならない。」これは、弥生という言葉が3月頃に草木がますます生えてくるということから、稲作が盛んに行われてきた弥生時代と重ねて感慨深かったのでしょう。
 この向ヶ岡の向こうには、先に書いたように、かつて忍ヶ丘と呼ばれていた上野台地と本郷台地の間にあった地名がありました。この忍ヶ岡に対して忍の池となり、それが次第に不忍池となったという説が有力ですが、そのほかにも、10くらい説があるらしいのですが、おもなものに、忍ヶ岡の下にある池という理由で「不忍」の池と呼んでいたとか、「新編武蔵風土記稿」には、周囲に笹が多く茂っていたことから篠輪津(しのわず)が転じて不忍になったという説が書かれてあり、「望梅毎談」には、ここで男女が忍んで逢っていたからという説が書かれてあります。
この池は、中央の弁天島を中心に大きく3分割されています。蓮池、ボート池、鵜の池にと遊歩用の土手で仕切られています。昨日訪れた時、ボート池では多くの手漕ぎボートに混じって、足漕ぎボートのスワン型ボートも家族を乗せて所狭しと泳ぎ回っていました。
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