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2009年09月30日 近頃思うこと

すっかり秋

すっかり、秋になりました。秋には何をする季節かというと、昔からいろいろな言い方があります。「食欲の秋」「読書の秋」「スポーツの秋」「芸術の秋」などです。皆さんは、どのような秋を過ごすのでしょうか。私が好きな曲で喜多条忠作詞、吉田拓郎作曲の「メランコリー」という歌がありますが、歌詞の中にこんなフレーズがあります。「秋だというのに 恋も出来ない」2番の歌詞には、「秋だというのに 旅もできない」とありますが、秋は、恋する季節なのでしょうか、旅をする季節なのでしょうか。
「秋深き 隣は何を する人ぞ」という有名な松尾芭蕉の句があります。この句をそのまま読むと、「隣の人は一体今何をしているのだろうか?ガサガサ音がするのは、秋が深まり冷え込んできたので、衣替えの用意をしているのだろうか。私も、そろそろ冬支度でもし始めなければ」と解釈してしまいます。絵画にしても、俳句や小説にしても、それを見たり、読んだりする人の心境や境遇によって解釈が変わり、作者の意図するところと違ってしまいます。それって、いいのだろうかと思うことがあります。読み手の私たちは作品の批評をするのではなく、その作品に共感でき、自分を投影するから素晴らしい作品と思えることもあるのです。
しかし、その作品が生まれた時の状況や背景を知ると、また違った解釈が生まれ、作品に厚みを感じることができるようになります。「秋深き…」はそういう作品です。この一句は、芭蕉の最後の一句となっています。というのは、死を前にして詠んだ句なのです。秋深くなる9月の終わりに、俳席が畦止亭で開かれ、翌日は、芝柏亭に場所を移して同様の俳筵が巻かれることになっていました。そこに出席するはずだった芭蕉でしたが、体調を崩していた芭蕉は、俳席に出席している方々に申し訳なく、この一句を送りました。その後芭蕉は床に伏し、10数日後亡くなりました。そう思ってこの句を読み返すと、衰弱しつつある自身が、秋深まる夜と同調したように感じ、秋を夜が更けていくとともに、寂しく儚く感じたことでしょう。その儚さは、夜や秋だけでなく、死期が迫ってきた自分自身の人生も合わせて感じたことでしょう。「隣人は何をしているのだろう」という思いも、俳席の楽しき場や、隣の住人のことが気にかかって、その席への思いを馳せている様子がうかがえます。その思いは、俳句仲間に対してだけではなく、自分が経てきた人生に対して自分は何をしてきたのであろうかという思いもあったでしょう。この句会が開かれ、芭蕉が亡くなった9月は、新暦ですと11月末~11月上旬ですから、晩秋です。
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 「旅愁」という原曲がオードウェイというアメリカの音楽家の作曲した曲があります。原題は、「Dreaming of home and mother」という故郷を穏やかな気分で回想するようなものだったようですが、日本では、詩人「犬童球渓」という人が訳詩をしました。熊本県出身だった彼が、故郷を遠く離れた北の国である新潟に勤務していたときに、自身の境遇の苦悩などを綴ったものだともいわれています。「更けゆく秋の夜 旅の空の わびしき思いに ひとり悩む 恋しや古里 なつかし父母 夢路にたどるは 故郷の家路」この歌詞は、林芙美子の「放浪記」の冒頭にも出てきます。
 私は、秋には特にメランコリーになりませんが、ちょっと物思いにふけってみたい気もします。

投稿者 fujimori : 22:39 | コメント (4)

2009年09月29日 近頃思うこと

インドカレー

 今年の「第4回B級ご当地グルメの祭典!B-1グランプリ in YOKOTE」は今月の20日に最終日を迎え、開催地である地元の「横手やきそば」が初のゴールドグランプリに輝きました。ブログで何度も書きましたが、私は各地のB級グルメが好きですし、特に焼きそばが好きなので、この結果に興味がそそられます。それは、まだ私は横手を訪れたことはなく、ましてや横手の焼きそばを食べたことがないからです。
 この順位の決め方は、客が使い終わった割り箸を気に入った料理に投票し、その重さを競います。そして、ゴールドグランプリに選ばれたのが、「横手やきそば」で、シルバーグランプリは「八戸せんべい汁」(青森)、ブロンズグランプリは「津山ホルモンうどん」(岡山)でした。来年の大会は神奈川県厚木市で開かれることが決まったようです。
 各地には、ご当地ものと呼ばれる食べ物があります。有名なところでは香川の讃岐うどんとか、札幌ラーメンとかですが、どうしてこの場所にその店が増えたのかは様々な理由があるようです。もちろん、その地方の風土、伝統、歴史の中から生まれ、伝承されてきたものが多いのですが、B級グルメになると、村おこしのように仕掛けられたものが多いようです。
また、もともと日本人が好きな食べ物が、その地方によって料理法や味付けが違ってその地方の名物になることもあります。たとえばラーメンなどはそうです。各地にいろいろなラーメンが名物になっています。ですから、よくラーメン博物館のように各地のラーメンを集めた場所があることがあり、いろいろなラーメンを食べ比べられるようになっています。同じようなコンセプトで、日本全国の特徴的なカレーを出す店舗を招聘するということで開館したテーマパーク「カレー博物館」がありました。しかし、残念ながら、2007年3月31日に開業から累計来館者数は約870万人を超えて閉館しています。このようにカレーも、日本人が好きでよく食べる料理です。そのカレーは、あまり地域差はないのですが、私の園の周りから九段下にかけてカレー店が多く見られます。しかも、それはチェーン店ではなく、インド人がやっているような店です。それは、インド大使館が近くにあるので、インド人が多いからだと聞いていました。
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ところが、最近あの電気街とメイドカフェで有名な秋葉原にカレー店が急増しています。どうしてかということを、日経に経済アナリストである森永卓郎氏が分析していました。 その理由については、大きく分けてインド人説と日本人説があるそうです。インド人説とは、インド人の食事場所としてカレー屋が立地したというものです。秋葉原では、よくインド・パキスタン系の人を多く見かけます。それは、インド人はエレクトロニクスが大好きで、秋葉原に買い物に来る観光客がとても多いからです。従業員のインド人が顧客対応をしてくれる店もあるくらいです。もう一つのインド人説は、秋葉原周辺で働くインド人が増えたということだそうです。秋葉原駅周辺にはオフィスビルが林立し、その多くはIT(情報技術)系の企業です。そのために、そこで働くインド人のIT技術者が増えているのだといいます。
 しかし、森永氏は別の見解を持っています。秋葉原のカレー店は、アキバ系日本人の食事場所として発展したのではないかと思っているそうです。現に秋葉原のカレーはインド人が好む本格インド料理ではなく、500円から800円程度の手軽なものがほとんどを占めているそうです。
 どこで何がはやるのか興味がありますね。

投稿者 fujimori : 23:15 | コメント (4)

2009年09月28日 近頃思うこと

公園

子どもの権利条約の第3条には、「児童に関するすべての措置をとるに当たっては、公的若しくは私的な社会福祉施設、裁判所、行政当局又は立法機関のいずれによって行われるものであっても、児童の最善の利益が主として考慮されるものとする。」とあります。これは、子どもに関係のあることを行うときには、子どもにもっともよいことは何かを第一に考えなければならないということです。児童公園の設置は、「児童に関する措置」です。子どもの権利条約が日本でも批准された今、このことを意識しなければならないのです。しかし、日本ではあまり意識されてこなかったというのが現実です。
野山が広がり、川や海があり、田んぼのあぜ道が続いているような自然が豊かな場所では、あらゆる場所が子どもの遊び場でした。しかし、都会では、道路が子どもたちの遊び場でした。しかし、道路に車が通るようになると、子どもたちの遊び場は失われて行きました。江戸時代にも、道で遊んでいた子どもが交通事故に巻き込まれることも多く、大八車でひき殺して死罪になった例があるそうです。明治の終わりごろになると交通量は増え、1910年(明治43)に市区改正委員の窪田清太郎が東京市議会に「小公園設置に関する建議案」を提出しています。ここには「近来市内交通機関ノ発達に伴ヒ、往来益々頻繁に赴ケルニ拘ワラズ、児童ノ多クガ通路ヲ馴駆スルガ如キ、当ニ交通ノ妨害タルノミナラズ、其危険少シトセズ」と述べられています。
そこで、公園に遊び場が必要と思われ始めました。そんな時代、日比谷公園が1903年(明治36)に開園したとき、アメリカのモデルプレイグラウンドと呼ばれる、児童指導員がいる遊び場の形態を模した300坪の児童遊園が設置されました。1924年(大正13)、米国留学から戻ってきた末田ますが、東京YMCAから東京都の嘱託になって、キリスト教会の福祉活動として本格的に公園児童指導を展開しました。もちろん、この指導には水を使った遊びなどもあったそうですが、当時の道路や路地には、遊びの四元素に触れられる場はたくさんあり、なにも公園でする必要はなく、しかも、当時は結核やチフス、赤痢といった流行病が蔓延していて、そういうものは不衛生と考えられていた時代ですから、三種の神器と呼ばれるブランコ・滑り台・砂場が生まれてきたのです。
一方、以前のブログでも紹介したドイツの「モグラの家」のような冒険遊び場も、日本には1970年代に初めて紹介され、住民主体の自発的な運営により、現在200近い団体が冒険遊び場づくりに取り組んでいます。しかし、私は、必ずしも三種の神器が悪いとは思いません。これらは、子どもたちが好きな遊具ですし、大人でも面白いと思うことがあります。ただ、それらの遊具が申し訳程度に置かれ、どこでも変わらない子どもだましのようなデザインのものが設置されているのをよく見かけます。公園全体の動線の中で配置され、子どもの興味関心を持つ色や形をデザインされていれば、子どもは飽きもせず遊びこむのです。
ゴミ埋立地だったモエレ沼のために日系米国人の彫刻家イサム・ノグチが設計したモエレ沼公園は、全体を一つの彫刻と見なすダイナミックな構想で、2002年度のグッドデザイン大賞を受賞しています。今日、ここを自転車で回りました。ここには、滑り台やブランコが置いてありますが、あたかも一つの作品のようです。そこで遊ぶ子どもたちは、彫刻と戯れるという贅沢な体験ができそうです。そんな公園が、子どもの興味をそそるだけでなく、街に彩りを添えるでしょう。
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投稿者 fujimori : 23:05 | コメント (4)

2009年09月27日 近頃思うこと

遊びと自然

子どもの権利条約「第31条」には、「休み、遊ぶ権利」が書かれてあります。「 締約国は、休息及び余暇についての児童の権利並びに児童がその年齢に適した遊び及びレクリエーションの活動を行い並びに文化的な生活及び芸術に自由に参加する権利を認める。」
それぞれの子どもたちのために、その年齢に適した遊びを用意しなければなりません。それは、決して、管理しやすいとか、危険が少ないとか、汚くないとかいうような大人の都合でつくられるのではなく、あくまでも子どもにとってどうかを考えなくてはなりません。しかし、それは単に子どもが好きかどうかということではなく、人間の成長にとって大切な遊びの重要性を考え、提案しなければならないのです。そんな意味で、児童遊園がつくられているでしょうか?
子どもにとっての最高の遊びの遊具は、自然界にある火、水、木、土だといわれています。これらを、どのように公園に生かし、子どもたちが自然と触れ合うことができるかを意図するのも必要です。もうひとつ、最近の少子社会で重要なアイテムとして「子ども集団」が必要な気がします。いかに、集団で遊ぶことを促すかということです。
ベストセラーになったロバート フルガム著「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」ではありませんが、砂場は、子どもにはとても人気がある場所です。この砂場は、19世紀後半のドイツが発祥の地です。大きな公園の中に砂場が盛られ、そこで遊ぶ子どもを警官が監視していました。それを見たキリスト教徒がボストンの幼稚園へ持ち帰ったのが原型だといわれています。ドイツでは、この砂場に水が流れ込むようにできていて、砂と水を合わせて泥んこになって遊びます。日本でも、泥んこ保育を行っている園もあります。
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しかし、ここでなかなか難しい問題が起きます。自然界のものは、清潔に問題があり、危険を伴うことが多いのです。雨が降るとぐちゃぐちゃになるので、公園で土は嫌われます。火や水は危険だから禁止されています。きれいに剪定された樹木はありますが、廃材を使って秘密基地を木の上につくったりすることはできません。水があっても人工的な流れで、縁はコンクリートで固められ、魚はいませんし、ましてやオタマジャクシやカエルがいる泥っぽい水たまりは汚いとして排除されます。そのように、土や水は、管理の手間がかかるために排除される傾向にあるのです。
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ニュータウンの園の近くに大きな池を作りましたが、その底を何にするか意見が分かれました。結局、土ではなくタイルを敷き詰めました。それでも自然はすごいもので、そのタイルにも泥が溜まり、藻が発生し、ザリガニが生息するようになりました。今度は、それを掃除するかで意見が分かれました。意見が分かれるのは仕方ないのですが、その議論の中には、子どもにとって何が必要かという議論がなく、景観としての池作りだったのです。管理しにくい、面倒なものはどんどん排除されていくような公園づくりは、子どもの世界から、自然界の素材そのままの要素と子どもが自然と触れ合う場所を、どんどん奪ってしまっていったのです。
今、羽根木プレーパークのような冒険広場運動の実践が行われています。また、ビオトープのような自然生態系を残した公園も試みられてきています。また、その運営管理も公的なものから住民参加のものに変わってきています。今後、どのような児童公園ができてくるのでしょうか。また、海外ではどんな試みが行われているのでしょうか。

投稿者 fujimori : 22:31 | コメント (4)

2009年09月26日 近頃思うこと

公園遊具

 園から少し離れたところに公園ができました。西武線の線路わきです。工事中、出来上がるにつれてどんな公園になるのか、どんな設備ができるのか、どんな遊具が置かれるか予想を立てていました。まず、戸惑ったのが、公園の周りを高いフェンスで覆い始めたときです。どう見ても、野球やサッカーができるほどの広さがありません。であれば、そんな高いフェンスが必要な用途はなんだろうか不思議でした。広い場所でないとしたら、何かの遊具が設置されるでしょう。一昔前までは「公園の三種の神器」とよばれるブランコ・スベリ台・砂場がよく設置されていました。しかし、これらは事故が多いと最近消え始めています。また、最近流行っている公園として、自然型公園で、ビオトープとか、林とか、サンクチュアリー的なものも多く見られます。しかし、そんな気配はありません。大きな木が数本公園の真ん中に植えられ、芝生がところどころにつくられます。この様子では、一時はやったゲートボール場にもなりそうにありません。
完成に近づいたころ、一つの遊具が設置されたのです。それは、バスケットゴールでした。よく、アメリカ映画などに出てくるような景色です。
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完成後、いつの時間帯でも、私が登園する朝7時台から、帰りの20時ころまで必ず誰かがそこを使っています。ある日の夕方、そこを通ったら私の園の男性職員が数人でそこでバスケをやっていました。次の日に聞いたら、知らない人も数人交じって一緒にバスケをやったということです。ちょっと、その光景は珍しく、何となく都会型の公園のような気がしました。
そういえば、多摩ニュータウンの保育園にいたときに、近くの広場で若者がスケートボードをやっていました。しかし、近所からの苦情で、そこではスケートボードができないような突起をいくつも作ったのです。私は、ある会合で、それはおかしいのではないかと言いました。中、高校生などの若者が集える公園が少なく、また、中高校生の集団はなんだか怖い気がして追い出そうとするけれど、かえって、そうすると隠れていろいろとすることになるのではないか。中、高校生などの若者が集う場所を、みんなの視線が集まる真ん中に作った方がいいのではないかと提案しました。
今、都市の公園には、子どもの姿を見ることが稀になりました。このままいったら、公園で遊ぶ子どもがいなくなる恐れもあります。家やマンションのロビーでゲームをやっている姿を見かけます。それか、塾通いです。もちろん、周りに自然があり、わくわくするような体験ができるところならいいのですが、都会ではそれは無理です。ですから、もう少し、公園というものを幼児から若者までを視野に入れ、地域に対象者に合わせてそれぞれの機能を点在する計画を立てる必要があると思います。
そうした計画の中で、最近、高齢者向きの公園もゲートボールだけでなく、いろいろと考えられるようになりました。たとえば、幅広い年齢層が軽い運動を行える「健康遊具」が置かれているところも人気があります。これには背もたれが湾曲していて背中を伸ばせる「背伸ばしベンチ」や、腰を回す運動を行える「ツイストボード」や、足の裏のつぼを刺激する道などもあります。
では、子どものための公園とは、三種の神器の代わりにどんなものがいいのでしょうか。もう少し考えてみたいと思います。

投稿者 fujimori : 23:16 | コメント (4)

2009年09月25日 散歩

ケイトウ

 花の名前は、そのいわれを聞くとなるほどと感心するものがあります。昨日のブログの「酔芙蓉」などは、その代表的なもので、「酔うほどに赤くなるかのように時間の経過で次第に赤くなる芙蓉の花」というのは、よくそんな名前をつけたなあと思います。また、その形があるものに似ていることからその名前が付けられることがあります。私が感動したのは、以前のブログで書いたことのある「すみれ」の花です。これは、大工さんが使う「墨入れ(すみいれ)」に形がそっくりです。また、「鷺草(さぎそう)」を見た時にも感動しました。本当に鷺が優雅に飛んでいる姿にそっくりだからです。
 最近、あまり見なくなりましたが、やはり私が子どものころに見て、あまりにその花の名前がその形を言い当てている花に「ケイトウ」があります。漢字で書くと「鶏頭」と書きます。真っ赤な花がニワトリの頭のトサカにそっくりなのです。英語でも「cocks-comb」(鶏のとさか)といいますから、誰が見てもそう見えるのでしょう。しかし、今では羽毛ケイトウの方がよくつくられているようですし、花色も赤のほかに、オレンジ、黄色などがあります。ですから、花が細長くなった品種が出てきて、ケイトウというイメージからはだいぶ違って来て、昔のトサカケイトウを見ることが少なくなってきました。先日、酔芙蓉を見に行ったときに、途中でトサカケイトウが咲いていて、とても懐かしい気がしました。
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夏から秋にかけ、赤・桃色・黄色などの花穂ができますが、原種では赤色です。原産地はアジア、アフリカの熱帯地方と推定され、この地方では花と葉は食用とされているそうです。日本には古く万葉時代にはすでに渡来していました。ですから、万葉集の中に何首か鶏頭を詠んだ歌がありますし、与謝野蕪村なども詠んでいます。
鶏頭というとよく間違える四字熟語があります。それは、「牛のしっぽになるよりも、鶏の頭になる方がいい」ということで、「鶏頭牛尾」という言葉を思い浮かべますが、本当は「寧ろ鶏口と為るとも、牛後と為ること無かれ。」ということで、「鶏口牛後」と言います。この言葉は、宋末期、元初期の曾先之の著した史書である「十八史略」のなかにあります。
秦は諸侯を恐喝し、領土の割譲を求めました。洛陽に蘇秦という者がいました。秦の恵王に遊説しましたが、用いられませんでした。そこで燕の文侯のところへ行って、趙と南北に同盟を説きました。燕は蘇秦に資金を与え、趙に行かせました。粛侯にこう説いた、「諸侯の兵力を合わせれば、それは秦の兵力の十倍に値します。力を合わせて、西方の秦を攻撃すれば、秦は必ず敗れるでしょう。大王の為に考えますと、六ヶ国が南北に同盟し、秦を排斥すればいいでしょう。」そこで、粛侯は蘇秦に資金を与え、諸侯と同盟を結ばせようとしました。そのときに蘇秦が使ったことわざが「寧為鶏口、無為牛後。」(小さな組織のトップになっても、大きな組織に従属してはならない。)こうして、南北六国の同盟が成立したのです。
ここでいう「鶏口」はニワトリの口で、小さい組織のトップをあらわしています。そして、「牛後」は牛の尻尾とも尻ともいわれ、大きい組織の下働きをあらわしています。ですから、秦に従属するより、たとえ小国でも独立を保て、と説いたのです。
でも、どうして鶏頭ではなく、鶏口なのでしょうか。ケイトウの花を見ながら考えてしまいました。

投稿者 fujimori : 22:51 | コメント (4)

2009年09月24日 散歩

日本で最初に劇場公開されたジャッキー主演作品は、「ドランクモンキー 酔拳」という作品です。この作品は、1978年製作の香港の映画作品で、たいへんな興行成績を遂げました。この映画は、酔えば酔うほど強くなる、世にも不思議な酔八拳を修行の末伝授され、その技を駆使して悪者をやっつけるという話です。ジャッキーが酒瓶と杯を持って、酒を飲みながら敵の攻撃をかわす仕草は、酔えば強くなるというのは、体が柔らかくなり、戦っているというよりも演舞しているという感じで、相手の力に抵抗するのではなく、敵の力を吸収し、のらりくらりと動きまわるという酔拳です。
酔えば酔うほどふつうは顔が赤くなります。神奈川県を流れる酒匂川の水に酔ったかのように、朝咲く白い花が時間の経過とともに桃色をおび、夕には紅色へと色を変えていく「酔芙蓉」という花があります。南足柄市千津島地区の農道1kmの間に酔芙蓉が700本と芙蓉100本が植栽され、今きれいに花を咲かせています。
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その花を妻と見に行ってきました。南足柄市といえば、「まさかりかついで 金太郎」と歌われる足柄山の金太郎のふる里で,神奈川県西北に位置し、豊な水と緑に囲まれた地域です。丹沢系や箱根外輪山の美しい山並みに抱かれた足柄平野に、酒匂川が流れ、豊かに実った稲穂がこうべを垂れ、農家ではまさに稲刈りの真っ最中でした。
この稲穂が実った水田を縁取るかのように、土手に真っ赤な、曼珠沙華の花が咲き誇っています。まさに時はお彼岸。別名「彼岸花」と呼ばれる曼珠沙華は、以前ブログで取り上げたのですが、埼玉県日高市にある巾着田では一面に咲いていて有名ですが、畦道に縁取るように咲いているのがお似合いです。
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私は、どうも「芙蓉」と同じころに似たような花をつける、大韓民国の国花でもあり、日本では昔「朝顔」といわれた「ムクゲ」の花との区別がつきにくいのですが、直線的な枝を上方に伸ばすムクゲの樹形に対し、芙蓉は多く枝分かれして横にこんもりと広がること、葉がムクゲより大きいこと、めしべの先端が曲がっていることなどで区別します。酔芙蓉は、この芙蓉の八重咲きの園芸品種です。
小田急線に乗って、新松田駅で降り、そこから大雄山行きのバスに乗り15分余り、「東まました」バス停で降り、15分ほど歩くと両端に酔芙蓉の花が1キロも続いている農道にでます。その中を、写真を撮りながらゆっくりと歩いて行くと、白かった酔芙蓉は次第にうすピンクに染まっていきました。
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一番先まで行って、戻ってくるころには、背景の山々は薄暗くなるにつれ、次第にシルエットに変わり、酔芙蓉の花も大分赤くなってきて、まさに酒に酔ったようです。シルバーウイークには、子供が小さいとどこかにつれて行かなければならないでしょうが、この年齢になると妻と喧騒から逃れて、ゆっくり田園地帯を歩き、美しい花を眺めるのもなかなかいいものです。花の美しさに少々酔ったようです。
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投稿者 fujimori : 23:12 | コメント (4)

2009年09月23日 散歩

大観

向ヶ丘(本郷台地)から忍ヶ丘(上野台地)に向かって歩いて行くと、その境に、当地の伝承によれば、文明年間(1469 〜1486)に室町幕府第九代足利義尚が再建したという神社があります。創建年代は不明だそうですが、ちょうど境になるということで「境稲荷神社」といいます。その社殿の北側には、源義経とその従者が奥州へ向かう途中に弁慶が見つけ、一行ののどをうるおしたと伝えられている「弁慶鏡ヶ井戸」が残されています。
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この井戸の水は、「江戸志」などの江戸時代の史料によると、名水だったそうで、一時埋め戻されたのですが、昭和 15年に再び掘り出し、とくに昭和 20年の東京大空襲などでは多くの被災者を飢渇から救ったと記録されています。この井戸の脇には、掘り出した際の記念碑の石碑があり、造立者の中に画伯横山大観の名も見えます。
彼の名前があるのは、彼がこの地に住んでいたからです。その住居の跡地に「横山大観記念館」が建っています。ここを見学してきました。
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パンフレットによると、「ここは、日本画の巨匠横山大観(1868~1958)が住んでいた上野池之端の住居を、そのまま記念館として公開しています。大観が、ここに住居を構えたのは、明治42都市(1909)のことです。最初は狭かった敷地も、大観が画家として名をなすにしたがって拡張され、大正8年にほぼ現在の規模となりました。昭和20年(1945)3月10日、空襲により旧住居が焼失したため、大観はしばらく熱海伊豆山の別荘に移り住みます。昭和29年(1954)8月、焼失した旧住居の土台をそのまま用いて新居が再建され、大観は再び池之端に暮らしはじめます。以来、昭和33年(1958)2月に90歳で没するまで、ここで数多くの作品を制作しました。昭和51年(1976)3月に静子夫人が亡くなり、遺族から大観の作品や習作、遺品、画稿、スケッチ帳などが寄贈されて横山大観記念館が設立され、同年11月に開館しました。」と書かれてあります。
 ここは、展示品を鑑賞するというよりも、横山大観が過ごした住居から、彼の描いた日本画を彷彿とさせるような建物の設えや、ディテールを感じることができます。彼のお気に入りの一階の「鉦鼓洞」(炉の間)の床の間には、大観の絵や親交の篤かった菱田春草の絵の軸装の作品が季節に合わせてそのまま掛けられています。パンフレットにあるように、ここは、心の安らぎを感じられる美術館をモットーとしており、できるかぎり建物の雰囲気をいかし、靴を脱いで入る日本建築の良さが残されています。
 私のブログのタイトル「臥竜塾」の「臥竜」とは、将来天に上るために今は伏せている龍のことで、学んでいる最中のことをいいます。そのイメージで、私がタイトルに使われている龍の絵を書きました。その絵が、園のセミナールームにかけられています。同じ階の相談室には、大観の龍が飾られています。その龍は、雲の間でしきりに活動している龍です。横山大観は、干支が龍というとこもあり、龍の絵を何枚か描いています。横山大観記念館に、「横山大観還暦祝画帖」という巻物がありますが、ここには、小林古径や速水御舟、前田青邨など有名な日本画家が龍をテーマに絵や字を書いて送っています。こんなものがもらえてうらやましいですね。また、「横山大観喜寿祝色紙」も何枚か展示されています。

投稿者 fujimori : 20:13 | コメント (4)

2009年09月22日 地域を知る

弥生

 昨日のブログで取り上げた弥生美術館は、文京区弥生町にあります。しかし、この辺は江戸時代には水戸藩の中屋敷で、町名は付けられていませんでした。明治になってこの地が政府に収用された時にもなかったのですが、明治5年、町家ができはじめて町名が必要になりました。さあ、なんという町名にしようかと迷ったときに、たまたま旧水戸藩の廃園に、水戸斉昭の歌碑が建てられており、そこにはこのような歌が刻まれていました。「ことし文政十余り一とせといふ年のやよひ十日さきみだるるさくらがもとに」という文章があったことから、そのなかの弥生をとり。向ヶ岡弥生町になったのです。上野の森は、かつて「忍ヶ岡」と呼ばれていました。そのこちら側が、忍ヶ岡の向こうということで「向ヶ岡」です。
弥生とは、もちろん3月のことですが、「弥」とは、「いや」ということで弥栄(いやさかえ)と使うように、ますますということで、生は「生ひ」のことで、生育のことです。ですから、「弥生」とは、草木がますます生ふるということになり、絵縁起の良い言葉です。しかし、水戸斉昭は歌の中でさくらの美しい向ヶ岡の地に「向岡記」碑が3月に建て建てられたと詠んだだけですので、特に弥生には意味がなかったのですが、この町名はのちに日本中に知られることになります。
それは、明治17年、東京大学の有坂鉊蔵、坪井正五郎、白井光太郎の3人が、根津谷に面した貝塚から赤焼きのつぼを発見、これが「通常の貝塚発見土器(縄文土器)とは異なる土器」と認められ、新しい様式の土器の発見となったのです。この土器の名前を、発見地の地名を取って「弥生(式)土器」と名付けられたのです。
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そして、この名前は、稲作文化を象徴する「弥生時代」という「縄文時代」に対応する時代区分になったのです。そして、日本中の人が学校で習うことになり、弥生という名前が知れ渡ったのです。
司馬遼太郎氏は「街道を行く」の中で、根津駅から弥生坂をのぼった向ヶ岡近辺について次のように記述しています。「弥生というような稲作文化の象徴のようなことばをもつ町名から、稲作初期の土器が出て、弥生式土器となづけられた。まことにめでたいといわねばならない。」これは、弥生という言葉が3月頃に草木がますます生えてくるということから、稲作が盛んに行われてきた弥生時代と重ねて感慨深かったのでしょう。
 この向ヶ岡の向こうには、先に書いたように、かつて忍ヶ丘と呼ばれていた上野台地と本郷台地の間にあった地名がありました。この忍ヶ岡に対して忍の池となり、それが次第に不忍池となったという説が有力ですが、そのほかにも、10くらい説があるらしいのですが、おもなものに、忍ヶ岡の下にある池という理由で「不忍」の池と呼んでいたとか、「新編武蔵風土記稿」には、周囲に笹が多く茂っていたことから篠輪津(しのわず)が転じて不忍になったという説が書かれてあり、「望梅毎談」には、ここで男女が忍んで逢っていたからという説が書かれてあります。
この池は、中央の弁天島を中心に大きく3分割されています。蓮池、ボート池、鵜の池にと遊歩用の土手で仕切られています。昨日訪れた時、ボート池では多くの手漕ぎボートに混じって、足漕ぎボートのスワン型ボートも家族を乗せて所狭しと泳ぎ回っていました。
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投稿者 fujimori : 21:46 | コメント (4)

2009年09月21日 記念日

未来

 昨日のブログで「飛行機」を取り上げましたが、実は昨日は「航空日」でした。この記念日は、ずいぶん前の1940(昭和15)年に制定されていましたが、国民にとってより親しみやすいネーミングということで、運輸省航空局(国土交通省)が1922(平成4)年に民間航空再開40周年を記念して「空の日」と改めました。そして、9月30日まで「空の旬間」が設けられています。
 どうしてこの日に決められたかというと、1911(明治44)年のこの日に、和歌山県出身の山田猪三郎が開発した山田式飛行船が滞空時間1時間で東京上空を20㎞ほど飛行したことを記念しているそうです。しかし、どうもそれが本当にその日かは怪しいそうですが。その日が実際はいつかであるかは別としても、ライト兄弟が世界初の飛行機を発明したのが1903年ですから、当時、空を飛ぶのが夢の時代に東京の空を1時間も飛んでいるというのは感動したことでしょうね。ただ、航空といっても飛行機ではなく、飛行船のようです。そして、この記念日は、第2次世界大戦終戦に伴い、連合軍による航空活動の禁止命令のため一時休止されましたが、昭和28年(1953年)には、復活されています。
 それから何年もたっていないのに、月に何度もいけるようになりました。昔の人は、それをどのくらい予想していたのでしょう。1895年にハーバート・ジョージ・ウェルズ(H・G・ウェルズ)が、「タイムマシン」という小説を発表して評判になっています。この小説は、日本では1913年(大正2年)に黒岩涙香が「八十万年後の社会」という題名で「萬朝報」に連載し、大好評を博しています。それにしても80万年後先とはずいぶんと先ですね。多分、タイムマシンは未来になってもできることは不可能だと思っていたのかもしれませんね。
H・G・ウェルズは、イギリスの小説家・SF作家で、「SFの父」と呼ばれています。その彼の誕生部が今日9月21日で、今日のグーグルのロゴに表わされています。彼の小説には、その後のSF作家に影響したものが多く、また、今を予言したものも多くあります。タイムマシンだけでなく、蛸型の火星人、透明人間などを初めて登場させたり、「盗まれた細菌」では、細菌をテロの道具として使うことがテーマですし、「神々の糧」では合成食品を扱っています。
今、「弥生美術館」で「S20~40'ぼくたちの未来予想図」と称して、「昭和少年SF大図鑑展」が開かれています。今日、妻と見に行ってきました。ここでは、戦後の復興期から高度経済成長期にかけて発行された沢山の少年少女雑誌の中で、子どもたちを魅了した近未来を予見したような未来予想図が展示されています。それは、誰もが自由に宇宙に行ける未来、自在に空を飛ぶ乗物や流線型の高速車が走り、超高層ビルが立ち並ぶ未来都市、何でも言うことを聞いてくれるロボット、宇宙からの侵略者や怪獣と化学兵器を駆使して戦うスーパーヒーローなどです。
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ちょうど私が小、中学生の頃で、いつか実現されるだろうということを信じて、様々な未来を空想し、夢を描いていました。
それらの夢のいくつかが実現し、昔では考えられない進歩を遂げています。しかし、そんな時代の今、子どもたちは未来に夢を持っているでしょうか。それとも、すべての夢はかなえられてしまっているのでしょうか。

投稿者 fujimori : 20:46 | コメント (4)

2009年09月20日 近頃思うこと

プラスチック

 最近、よく飛行機に乗ることがありますが、そのときによく思うことは「こんな重い鉄の塊が空を飛ぶなあ」ということです。紙飛行機にしても、滞空時間を競争する模型飛行機にしてもその素材はとても軽く、繊細にできています。それに対して実際の飛行機は、とても大きな鉄の塊というイメージがあります。
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 しかし、今の時代にそんなことをいうと笑われます。というのは、今の飛行機の機体はプラスチックでできているのです。他にも自動車の車体やパソコン、スポーツ用品などもほとんどプラスチックなのです。しかし、私たちは、プラスチックというと確かに軽いのですが、弾性率が低く構造用材料としては適していないと思っていました。というのは、もともとプラスチックとは英語で「自由に形をつくれる。やわらかい」「可塑性を持つもの」と言う意味で、一般に 「人工的に合成された高分子物質で可塑性のあるもの」と定義されるからです。また、合成樹脂とも呼ばれますが、それは、天然の松やにや漆の木から出る「樹脂」をまねてつくっているからです。
プラスチックには大きくわけて二つの種類があります。 一つは、熱をくわえるとやわらかくなり、冷やすとかたまるもので、「熱可塑性プラスチック」と呼ばれるものです。これは、熱を加えると溶けてやわらかくなり、冷やすと固まる性質をもち、1度硬くなっても 熱を加えると再びやわらかくなる性質があるものです。ほとんどのプラスチック製品はこれで、ペットボトルや発泡スチロール、バケツ、コップ、密封容器などの家庭用品などのスチロール樹脂やポリエチレンやポリプロピレンやメタクリル樹脂等はこれに当たります。
もうひとつは、熱をくわえるとかたくなるもので、「熱硬化性プラスチック」と呼ばれます。これは、熱を加えるとかたくなり、一度固まると後で熱を加えても再びやわらかくならないもので、電気のコンセントなどの電気器具、浴槽、ヘルメット、テーブル、ボタンなど比較的耐熱性を要求される箇所に使用されています。
そんなプラスチックに弾性率の高い材料を強化剤として複合させることで、軽量で強度の高い(比強度の大きな)ものができます。強化材として、今はガラス繊維の他、炭素繊維や強度の高い樹脂繊維、ケブラー、ダイニーマなどで強化する場合もあるようです。このような材料の作り方で使用する場所が違います。オートクレーブという大きな釜で焼き固めたものは極めて強靱で、ドライカーボンと呼ばれるが、生産工程が完全な手作業となるため高価であり、量産に向いていないが、その特性からレース用の自動車フレームや航空機の翼、宇宙工学、楽器ケース(チェロなど)などで使用されています。オートクレーブで焼き固めないものは、ウエットカーボンと呼ばれ、強度としてはプラスチック+αに留まるが、安価・軽量で耐久性がよいことから、小型船舶の船体や、自動車・鉄道車両の内外装、ユニットバスや浄化槽などの住宅設備機器で大きな地位を占めているそうです。
最近は、炭素繊維といわれている材料が開発されていますが、炭素繊維は「鉄より軽くて強い素材」として注目を集めており、飛行機だけでなく、スポーツ用品、自動車、パソコンなど、従来の素材の代替品として、幅広く使われはじめています。
鉄やアルミから炭素繊維へと着々と革新が行われているようです。

投稿者 fujimori : 21:11 | コメント (4)

2009年09月19日 地域を知る

沖縄の菓子2

 このブログは、毎日書くことでネタを探すのは大変です。何を取り上げるかだけではいろいろと見つかるのですが、それを書くことで、最後どのような結論に持っていくかという見通しがなければ書き出せません。そのために、身の回りのいろいろなことに注意深くなります。普通でしたら見逃してしまうことも、注意深く見ます。最近の癖で、何かを見るたびに、これをブログで書いたらどういう展開になるだろうと考えながら見ていることが多くあります。
 また、ブログを書くことで、普段何気なく思っていることを確認するということがあります。これは特に子どもや保育に関することです。電車の中や園でいろいろと保育を考えることが多いのですが、それを文にあらわすことで忘れないように残すという役割があります。また、原稿を頼まれた時、改めて原稿を書く時間がないことが多いので、ブログにそのテーマで何回か書いておくと、それをつなぎ合わせるだけでいいので楽になります。突然、専門的な話題になるときブログのときは、たいていそういうときです。
 もうひとつ、普段は聞き流していることを、ブログを開くことではっきりと定義しようということができます。たとえば、昨日の「ちんすこう」というテーマも、改めてその意味とか、作り方を一度きちんと整理しておこうという趣旨があります。そんなことで、今日ももう一つの沖縄の菓子の「サーターアンダギー」を考察します。
 先日、沖縄に行ったときに「琉球村」に連れて行ってもらいました。ここは、「沖縄を見て感じる」というテーマで沖縄の文化・芸能・自然を見て体感できるテーマパークです。ですから、小学生たちが多分、総合的学習としてだと思いますが、メモ帳を首から下げて大勢来ていました。この村では、「工芸品を作る」「おばあと語る」「沖縄の文化を学ぶ」ということで、様々な体験ができます。そのひとつに「本格!サーターアンダギー手作り体験」というものがあり、文化財にも指定されている、園内の古民家「旧玉那覇家」の中で本格的な作り方を習って一緒に作ります。私たちは、時間がなかったので体験はしなかったのですが、ここでおばぁが大きな釜で揚げてくれたとっても大きく、握り拳くらいはあるサーターアンダギーを買って食べながら村内を歩き、お土産にもいただきました。
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サーターアンダギーとは、遠く中国から伝わったボール状の揚げ菓子で、低温の油でゆっくり揚げる際に、まず球状に表面が固くなり、そのあと内部の膨張に従って球状の表面が割れ、花が開いたように見えることから、結納や結婚などの祝いの席に出され縁起のよい菓子とされています。また、その形がまるで笑っているかの様で開口笑、開口球とも言われています。首里方言で「サーター」は砂糖、「アンダギー」は「アンダ(油)」+「アギー(揚げ)」で「油揚げ」、揚げ物を意味します。最初、地元の人が「砂糖天ぷら」と言っていて何のことかわからなかったのですが、その名の通り砂糖を多めに使用した球状の揚げドーナツだからのようです。
小麦粉に鶏卵、砂糖を混ぜ、適量を丸めて低温の油で数分間あげるだけでできるのですが、砂糖には沖縄名産の黒砂糖を使うことが多いようです。この黒砂糖は、昔は水牛が機械をまわして原料のサトウキビを搾っていました。ここ琉球村ではその作業を見ることができました。
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投稿者 fujimori : 21:31 | コメント (6)

2009年09月18日 地域を知る

沖縄の菓子1

 先日、沖縄を訪れたときに、手作りのお土産をいただきました。沖縄は、独特の文化があり、食材にしても、料理にしても、ずいぶんと珍しいものがあります。今では、行き来をする人が多くなりましたが、以前は、なかなか口にする機会のないものが多くありました。
 お菓子の中で沖縄を代表するものに「ちんすこう」と「サーターアンダギー」があります。空港などのおみやげ物屋には、いろいろな種類が並んでいますが、どちらもそれぞれの家庭で作られ、それぞれの家庭の味があるようです。今回は、手作りの「ちんすこう」をお土産に頂きました。
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ちんすこうは、サクサクとした食感と、かるい甘さで、お茶、コーヒー、紅茶となんにでもあうおいしいお菓子ですが、誰かが沖縄に行くと必ず買ってくるお菓子なので、またかという思いがしてきている人もいるようで、最近は、ポピュラーなプレーンを始め、沖縄を代表とする食材を使ったパイン、紅芋、黒糖などもあり、人気のあるものとして「塩ちんすこう」も多く並んでいます。
 しかし、改めて「ちんすこう」という名前を考えてみると、奇妙な名前ですね。その名前の由来ははっきりしていないようで、おもなものに2つの説があるそうです。「すこう」は沖縄の方言で「お菓子」という意味ですが、「ちん」は「珍」から来ているということで、「とても珍しい貴重なお菓子」 という意味であるという説と、「ちん」は「金」ということで、「とても高価なお菓子」という意味であるという説があります。どちらにしても、ちんすこうは、琉球王朝の王侯貴族だけしか食べることができない宮廷菓子で、 一般人は食べることができないお菓子だったようです。
見慣れているちんすこうの形は、クッキーを一口サイズの細長い形ですが、今回いただいた手作りのものは、マコロンのようなきれいな丸い形をしていて、とてもおいしく、私の園の職員はみんな自分たちもつくれるかと話題になっています。作り方は比較的簡単で、およそ20個分として「 ラードを常温に戻し、ボウルに入れて薄力粉(200g強)をふるってクリーム状になるまでよく混ぜ合わせる」「これに砂糖100gを入れ、さっくりと混ぜ合わせる」「整形してオーブン(170℃で15~17分)で焼く」とシンプルですが、おいしく作るには、熟練がいると思います。
ちんすこうは琉球王朝時代に中国から伝わってきたお菓子と言われていて、もともとは「蒸しカステラ風」のお菓子で、今のようなスタイルになったのが、100年位前で、それまで蒸していたちんすこうを試しにレンガ釜で焼いてみたのが始まりだと言われています。もう一つの説は、ポルトガルの焼き菓子として知られるボーロがシルクロードや海路を通じて伝わったというものがあります。また、スペインに古くから伝わる祝い菓子のひとつポルボロンは、材料や食感の面でちんすこうとの共通点が多いようです。
長崎が、オランダやスペインかいろいろと学んできたように、沖縄でもオランダやスペインの影響をずいぶんと受けている感じがします。しかし、元が同じでもその地域の風土や気候にそって工夫、改良され、その地にあうものになっています。
日本人は、もともとはこのような改良、工夫をする力に優れている国民だったのです。

投稿者 fujimori : 23:57 | コメント (4)

2009年09月17日 映画

銀の鈴

 少し前に、映画「銀の鈴」が今春完成し、今年の終戦記念日に大阪市天王寺区のクレオ大阪でこの映画が上映されたことをニュースで知りました。この映画は、大阪を拠点とする劇団ARK が、2000年に戯曲『銀の鈴』と題した舞台で3度上演してきたものの映画化で、舞台の脚本・演出をつとめてきた劇団を主宰者である斎藤勝さんが監督を務めています。
昨日、講演のために沖縄に行ってきましたが、この映画化のニュースを思い出しました。というのは、昨年、妻と沖縄を訪れたときにどうしても行きたかったところが「対馬丸記念館」でした。映画「銀の鈴」は、対馬丸の悲劇の映画化なのです。対馬丸記念館を訪れた時の写真を見つけたのですが、当時の学校の教室を再現した写真だけが残っていました。
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なぜ、この記念館に教室の再現されたものがあるかというと、対馬丸の悲劇とは、大人が起こした戦争の為に理不尽にも幼い子どもたちがその犠牲になった出来事だったからです。しかも、救助された人々には「緘口令(かんこうれい)」がしかれ、この事実を話すことを禁じられましたし、犠牲者や生存者に関する詳細な調査も行われず、沖縄に残された家族に正しい情報が伝わることはなかったのです。
アジア太平洋戦争の終末期、日本軍は敗戦を重ねるようになり、ついにサイパン島が占領されました。「サイパンの次は沖縄だ」と判断した軍の要請で、政府は奄美大島や徳之島、沖縄県の年寄り・子供・女性を島外へ疎開させる指示を出します。疎開先は、日本本土へ8万人、台湾に2万人の計10万人です。しかし県民はあまり乗り気ではありませんでした。そこで、県は「沖縄県学童集団疎開準備要項」を発令し学校単位で疎開事務をすすめます。それは、沖縄を最後の決戦の場として多数の兵士を沖縄に移駐させるために、大量の食糧が必要になり、足手まといになる民間人を県外へ移動させることは急務だったのです。
沖縄から本土に次々に軍艦による疎開が行われましたが、その中に「対馬丸」という巨大な輸送船がありました。この船には、疎開学童、引率教員、一般疎開者、船員、砲兵隊員1788名が乗り、5隻の船団を組んで長崎を目指し出航しました。しかし、この対馬丸は、建造から30年も経った老朽貨物船であり、航行速度が遅く、潜水艦の格好の標的になってしまいました。その場所は、今年、皆既日食の観測で話題になった鹿児島県・悪石島の北西10kmの地点で、米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受け沈められてしまいます。ほとんどの乗船者は船倉に取り残され、海に飛び込んだ人も台風の接近に伴う高波にのまれ、児童850人以上を含む犠牲者数1418名(氏名判明者=2004年8月現在)の尊い命が犠牲となりました。
 対馬丸乗船者中、一般疎開者の生存者は168名、学童だけについていえば、わずかに59名だけしか助かりませんでした。しかも、救助された数名の学童たちは、緘口令のもと、対馬丸撃沈の事実は隠され、また、この時のショックで喋ることができなくなった少女もいました。しかも、この助かった子どもたちにもその後も戦争は呵責なく押し寄せ、沖縄は戦場のるつぼと化し、「生き残ってからが、本当の戦争だった」と言わしめています。
 この対馬丸の沈んであるあたりは、今航路になっていますが、その深海の底でいまなお一千余の遺体が、穴のあいた船体のなかに横たわっているそうです。

投稿者 fujimori : 22:21 | コメント (5)

2009年09月16日 近頃思うこと

飢え

 最近、駅の構内とか、車両の中吊広告で目にするものがあります。その内容は、とてもショッキングなものです。
「いま、飢えが原因で、6秒に一人が命を落としています。地球にはすべての人々が食べるのに十分な食べ物があります。なのに、地球の7人に一人は、飢えに苦しんでいます。飢えは、いまだに世界第1位の死亡原因です。毎日、大人・子どもを含め、2万5千人が命を落としています。もし事故か災害で、1日にして2万5千人が命を落としたら、大ニュースになるでしょう。」
このキャンペーンは、「WFP」という国連唯一の食糧支援機関であり、かつ世界最大の人道支援機関が行っているものです。飢餓と貧困の撲滅を使命として1961 年に設立が決定され、1963 年から正式に活動を始めました。この機関の活動の中で最初のコピーは、「WFP世界の学校給食プログラム」と呼ばれている活動です。現在、世界では3億5千万人以上の子どもたちが飢えに苦しんでいて、その多くは、学校でも食事をとることができません。さらに、学齢期の児童のうち7,500万人は、家庭の労働の担い手になるなどして、学校に通うことすらできていないのです。
私たちの多くは、当然のように給食を食べています。栄養計算をした食材、安全食材を利用し、手の込んだ料理が工夫されています。また逆に、好き嫌いを注意され、学校時代の嫌な思い出の一つとされ、毎日多くの残菜が捨てられています。しかし、空腹のままでは子どもたちはどうしても注意散漫になりやすく、学習に集中することができません。子どもの飢餓による病気や、生涯にわたる身体的・知的発達障害、生産性の低下により、世界では1年当たり200~300億ドルあまりの経済的損失が生じているといわれています。
給食の是非は日本では、よく論議されるところですが、その火の食事も満足にとれない国にとっては、せめて1日に1回は栄養価の高い食事を取るために必要であり、給食があることで就学率と出席率が著しく向上します。どうしても親は、子どもたちを働かせるようとしてしまいますが、給食があるということで通学させることを選ぶようになるのです。特に、家にいることが当然だとされていた女子にも学習の機会が与えられるのです。
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先のポスターは、今年のACジャパン支援キャンペーン「hopeを消さないで」です。WFPが給食の配膳に用いている赤いカップを給食=hopeの象徴として描いています。ずっと、給食支援をしてきたにもかかわらず、近年の食糧価格高騰と世界経済悪化の影響で、途上国の食糧事情は更に深刻化し、飢餓人口も増加の一途を辿っており、支援を必要とする人々が急増しています。しかし、WFPでは、去年は資金不足により学校給食の一時停止さえ余儀なくされているそうです。ですから「hopeを消さないで」と訴えているのです。
このポスターの子どもたちは、アフリカのルワンダの子どもたちだそうですが、現在、ルワンダでは国民の5割近くは食糧難かそれに近い状態にあり、特に子どもの栄養失調率は高く、5歳以下の子どもの45%は慢性的な栄養失調状態だそうです。そんな国であっても、子どもたちの笑顔は素晴らしいですね。撮影されたのは、特に貧しい地域で、小学校に通い続け無事卒業できる生徒は全体の45%しかいません。また、生徒の半数は、大虐殺やHIV/エイズで少なくとも片方の親を亡くしており、中には両親を亡くして子どもだけで暮している世帯もあるそうです。ここの給食は、とうもろこしや豆を煮たものに、雑穀を混ぜたものですが、これが一日唯一の食事の子どもも多いそうです。成績のいい生徒には、学期末に優秀賞として食糧が贈られるため、皆一所懸命勉強に励んでいるようです。
このポスターの子どもたちの笑顔や、きらきらした目、将来に希望を持ってたくましく生きている姿を見るとなんだか胸が痛くなります。

投稿者 fujimori : 22:05 | コメント (4)

2009年09月15日 近頃思うこと

アメリカでは

 アメリカでは、1990年代初めころから多くの子どもが生後6か月までに、母親以外による保育を受けるようになりました。そこで、母親による養育とそれ以外の人による保育とで子どもの発達はどうなるかという研究が早いうちからされてきました。その結果、ほとんど発達には差がなかったようです。子どもの発達は、母親以外の保育を受けているかどうかということだけでは、子どもの発達について多くを語ることができないことが分かったのです。
しかし、保育の質や量(時間)、そして保育施設の特徴との関係において強い関係性とはいえないまでも、子どもの発達にある程度影響を持つことが今回の研究で明らかになりました。
まず、4歳半までの結果では、母親以外からの質の高い保育を受けている子どものほうが、質の低い保育を受けている子どもよりも、言語と知的発達の面で若干優れた発達を見せていました。また、3歳までの結果では、質の高い保育を受け子どもたちの協調性がより高いことがわかったのです。では、この調査の中での「保育の質」をどのように規定しているのでしょうか。
まず、「保育の構造に関するもの(規定的特徴)」として、子どもと保育者の人数の比率、クラスごとの子ども数、担当の保育者のトレーニング、保育者が受けた教育レベル。そして、「保育施設内における日々の体験(プロセス的特徴)」として、子どもと保育者との関わり、子ども同士の関わり、おもちゃなどを使った遊びについて調べています。この規定的特徴については、いわゆる最低基準として決められており、それをどのくらい上回っているかという点ではとてもわかりやすいのですが、プロセス的特徴についてはどうだったのでしょうか。
これは、実際の保育場面の観察のなかで行われる日々の対人的なかかわりや保育活動について検証しています。その特徴のうち、子どもの発達に一貫して最も深いかかわりを持っているものとして「ポジティブな養育」を取り上げています。それは、保育者の子どもの行動に対する感受性の豊かさや子どもの興味とやる気を励ますような接し方、保育者と子どもとの頻繁なかかわりなどが含まれます。
では、保育の量(時間)をみると、母親以外による保育の合計時間が短い子どもに比べて、より長い子どものほうが問題行動が少し多めに見られました。
また、施設型の保育を受けた子どものほうが、施設型でない場所で保育を受けていた子どもに比べて言語発達、知的発達ともにより優れていました。施設型の保育や幼稚園での保育を受けていた子どものほうが、それ以外の保育を受けていた子どもたちに比べて、若干問題行動の頻度が高い、という結果もみられました。
しかし、子どもの発達は、その子が預けられている保育施設の特徴よりも、親や家庭の要因により強く影響を受けることも明らかになりました。家庭で養育をされている子どもはもちろん家庭からの影響を多く受けるのは当然ですが、多くの時間を保育施設で過ごす子どもたちにとっても家庭や親がどんな養育をしているかは同じように大きな影響を及ぼしているのです。
この研究結果では、母親が養育をするか、母親以外の施設で保育するかが問題ではなく、その子の家庭や親がどうであるかのほうが重要なようです。

投稿者 fujimori : 23:11 | コメント (4)

2009年09月14日 近頃思うこと

育児と保育

 今月の7日に、こんなニュースが流れました。
「 厚生労働省は、認可保育園への入園を待つ待機児童が4月現在で2万5384人おり、前年同月と比べ約3割に当たる5834人増えた、と発表した。低年齢児の待機児童数は全体の81.9%を占める。そのうち1、2歳児の待機児童数が1万7492人ともっとも多い。不況下で共働きの家庭が増えたのが原因とみられている。」
 このニュースの中で、共働きの家庭が増えたのは不況だからでしょうか。母親の就業率が急増したのは、多くの国では産業化が進んだことによってです。たとえば、アメリカでは、1975年には39%であったのが、2000年には67%になっています。過半数の母親が働いているのです。そうなると当然、母親以外での保育が必要になってきます。誰がどのような保育をするか、誰の責任で保育を保障するか、その状況への対応は各国で違っています。就学前児を持つ母親の85%が働いているスウェーデンでは、保育を提供することは国家の責任であると考え、子どもは高い水準の公的保育を受けることができました。一方、20世紀の英語圏の国々では、保育は私的なものと考えられていて、公的援助はほとんど行われていませんでした。ですから、当然保育の質やタイプは大きなばらつきがありました。たとえば、1990年代のアメリカでは、働いている母親のための乳児保育は、施設型が10%、個人による保育、ベビーシッター、乳母などでの保育が24%、親戚が保育するのが28%、20%は父親が保育をしました。今でも、アメリカでは、保育の質、形には大きなばらつきがあるようです。その理由に、それぞれの州の保育に関する規制が顕著に異なるからだといわれています。
 そのような状況の中で、当然危惧されるのは、母親以外の人が保育するときに、子どもにどのような影響を与えるかということです。特に、乳児にとってはどうなのでしょうか。から名前のことですが、中国に行ったときに幼児園が月曜日に預けて金曜日に迎えに行くまで、すべて寮生活のような全託でした。そのときに、私が「親との関係はどうなのですか?」と質問をしたら、怪訝な顔をされました。「親との愛着形成はどうなのですか?」と繰り返したら「えっ?だって、親は素人ですよ!」と答えられた時にはびっくりしました。しかし、それは、子どもは親のものではなく、国家のものだということもあるようです。
 日本では、明治政府の近代教育制度の確立により、家庭の育児と学校の教育とが柱になり子どもが育てられてきました。戦後になると経済の立て直しが中心になり、核家族化が進み、保育が必要になってきました。しかし、保育はあくまでも育児の補助的なもの、さらには乳幼児にとってはよい影響はないとさえ考えられてきました。ところが、社会は豊かになり、物質的な豊かさでものが溢れるとともに、人間関係は希薄になり、人々の心もすさみ、子育てそのものにも問題が出てきました。そして、人類史上初めての体験である「少子化」を迎えています。
 こんな時代を迎えて、保育を働く親のために整備することから、保育の子どもへの影響を様々な観点からの研究がアメリカで行われました。その研究結果が、「アメリカ国立小児保健・人間発達研究所の追跡研究から」発表されています。その結果を要約してみようと思います。

投稿者 fujimori : 21:11 | コメント (4)

2009年09月13日 映画

親という存在

昔は、必ずしも子どもは母親だけが育児していたわけでもありません。それは、子どもが小さいころの母親は、働き手としてもベストの体調であることが多いからです。ですから、働いている間は、祖父母が見たり、兄弟が見たり、近所の人たちが助け合って子どもを育児していました。また、海外では、昨日のブログではありませんが、乳母が見ていることも多くありました。その場合は、特に働くというわけでなく、映画メリーポピンズのように母親が昼間はボランティアなどで出かけることが多かったようです。日本では、ほんの上流家庭の一部ですが、やはり乳母が子どもの育児をしていました。これも、必ずしも母親が働いているわけではなく、乳幼児期からの幼児教育をするためだったようです。
先日、妻と川越に行きましたが、そこには、徳川家光誕生の間、彼の乳母であった春日局化粧の間などの江戸城ゆかりの建造物などの文化財がある喜多院に行きました。この頃の母親と乳母は、子どもにとってどんな存在だったのでしょうか。私は文献などを見たことも研究をしたこともありませんので、本当のことは分かりませんが、テレビや映画などで見る限りでは、母親は、ただ子どもを愛し、愛着形成をしていたように思います。その愛着形成を基盤に、子育ては様々な人にしてもらっていたという気がします。ですから、家光と春日野局の関係は、愛着関係というよりも信頼関係で結ばれていたという感じがします。その信頼関係から教育がされてきたのです。
親は、子どもを意図して教育する存在ではないのです。子どもは親からやってもらうよりは、親のやることを見て学ぶことのほうが多いのです。正岡子規の「病状六尺」にこんなくだりがあります。「家庭の教育は知らず知らずの間に施されるもので、必ずしも親が教えようと思わない事でも、子供は能く親の真似をしている事が多い」存在自体、生き方自体が親からの教育なのです。
また、子どもを愛し、ひたすら信じることで、子どもは変わっていきます。少し前の映画ですが、アカデミー賞を総なめした作品で、サブタイトル「一期一会」がついている「フォレスト・ガンプ」には、そんな母親が描かれていました。
 IQが少し低い主人公フォレストは、小学校で同級生にいじめらればかにされますが、足の速さからフットボールの選手になり大学までいき、代表選手にまでなります。ベトナムに兵士となって行っても仲間を助け、勲章をもらいます。卓球をやれば中国での世界選手権に出場します。その後エビ漁で大金持ちになり、成功をおさめます。何をやっても一流になってしまうのです。原作では、まだまだ様々なことで、例えば数学者として、宇宙士として、ピグミー族の中で一流になります。
 彼がいろいろなことで一流になるのは、IQの低さゆえに一途な生き方が、成功をおさめることになるという見方がありますが、私は、母親のあくまでもフォレストを信じる気持ちが彼を成功させることになったのだと思います。幼い日に母親がいつもフォレストに語って聞かせた「人生は、チョコレートの箱のようなもの」で食べてみるまでは中身がわからないといいます。女手ひとつで一人息子を育てていた母親は、その子の背骨が曲がっていることがわかったときも、IQが人並みに至らないことを告げられたときも少しも動じませんでした。小学校に入るときも「うちの子は、普通の学校に通わせます。」と頑張った強さは、見栄からでなく、子どもを愛し、信じる気持ちの表れなのです。「おまえはきっと、誰かからばかと言われるに違いない。もしかすると知恵遅れってからかわれるかもしれない。でも、ばかというのはばかなことをするからばかなんだよ。」この母親の自信は、成長したフォレストをきちんと手離し、自立させることになるのです。
 親として、子どもたちをあくまでも信じ、愛することができるでしょうか。きっとまわりの人に愛され、信じられた子はすばらしい人生を送ることができるにちがいありません。

投稿者 fujimori : 21:52 | コメント (4)

2009年09月12日 近頃思うこと

乳母

 いろいろな職種ではその質の向上が課題です。そのときに大きな要素として、そこで働く職員の質の向上が課題になります。たとえば、園では、保育者の質が問題になり、その質を向上させようと研修なども行います。しかし、以前のブログに書いたように、その職種の方向性が、たとえば利益を得ることというように明確である場合は、質もわかりやすいのですが、保育者のように人を相手にする場合は、質の判断は難しくなります。
 また、保育者の場合は、保護者から見ていい先生と、子どもから見ていい先生が違うことがあるのでなおさら難しくなります。どんな先生がいいか、かなり昔の映画ですが、チム・チム・チェリーの歌でおなじみのミュージカル「メリーポピンズ」の中で、こんな場面がありました。メリーポピンズが乳母として子どもの家庭に来ることになったきっかけの場面で、親からみた子どもに対する接し方の理想像と、子どもからみた理想像とのギャップが描かれていて、とても興味深いものがあります。せりふの訳から見直してみましょう。
 「乳母を選ぶのは大仕事だ。洞察力と人を見る目が必要だ。」と両親は思い、新聞広告で募集をすることになりました。その条件は、「募集 乳母・しっかり者でまじめな女性。イギリスの乳母は将軍。国の未来は彼女ら次第。頼もしい若者を育てるのは、乳母のきびしい手。イギリスの銀行は精密機械。家庭もそうあるべきだ。伝統、規律、そして規則が大切だ。でないと、混乱、破滅、すべてがめちゃくちゃだ。」今でも、保育者に対してこのように希望する人もいるかもしれません。
 この広告を見て、子どもたちは、新聞広告の募集要項を書き変えてしまいます。そこには、「かわいい二人の子の乳母を求む。申し込む資格は、気立てが明るく、ゲームができて、親切で、気がきいて、やさしく、きれい。散歩の時はいつも、歌とお菓子。いじわるしないで。ひまし油なんか飲ませない。ママほどかわいがって。あんまりしからなければ、私たちもおとなしくします。」と書かれてあります。この紙が空に舞っていき、メリーポピンズの手に渡り、この子どもたちのところに降りてくるのです。
世界で始めて幼児教育を論じたといわれている貝原益軒の「和俗童子訓」にも、とても興味深いことが書かれてあります。
「凡そ小児を育つるには、初めて生れたる時、乳母を求むるに、必ず温和にして慎み、まめやかに、言葉すくなき者を選ぶべし。乳母の外、つき従ふ者を選ぶも、大やうかくの如くなるべし。初めて飯をくひ、ものをいひ、人のおもてを見て、よろこび、いかる色を知る時より、常に其の事に従ひて、時々教ゆれば、ややおとなしくなりて、戒むる事やすし。」
(大方は、子どもを育てるためには、初めて生まれたときに、乳母を捜す時には、必ず温和で、慎み深く、こまめで、言葉が少ない人を選ぶべきです。乳母のほかにも、世話をしたり面倒を見てくれる人を選ぶ時にも、だいたいはそのような人がいいです。初めて食事をしたり、話し始め、ひとの表情を見て、喜んだり、怒っている表情を知るときに、常にそのことを守って、時々おしえてやれば、次第に大人しくなり、自律をしていきます。)
保育園を選ぶときにも、同じような考え方でいいかもしれません。

投稿者 fujimori : 23:25 | コメント (4)

2009年09月11日 近頃思うこと

パッケージ

先日ある書物が送られてきました。それは、よくあるようにダンボールで包まれていました。それを開けてみて、今更ながら感動してしまいました。なぜかというと、写真にあるようにその書物の大きさと厚さに合わせて四方がきちんとおさまるように梱包されています。そして、そのダンボールを開いてみると、まったく1枚の段ボールになるのです。逆にいえば、1枚の段ボールを切り込みを入れて、折っていくだけできちんと梱包するような形になるのです。たぶんこれは、デザイナーというよりもコンピューターが作ったのでしょうね。
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梱包は、まず、その中身をきちんと、傷つけずに包装することが目的です。それには、包みものの大きさや素材に合わせなければなりません。そのような意味で日本では優れた梱包材が「風呂敷」だったのでしょう。どんな大きさのものも、どんな素材のものを包むことができるからです。また、包むのは、今回郵送してきたときのように安全に、容易に移動するために手段ですが、そのほかにもいろいろな役目があります。それは、よく言われるようなパッケージデザインといわれるものです。
いまや、現代社会においては、包装を抜きにして成立する製品はほとんどありえないといっても過言ではありません。そして、時には過剰包装といわれるように悪者にされることもあります。環境問題としての包装の在り方に社会的関心が高まってきたということもあります。しかし、私たちがいろいろな店で商品を目にするときに、多くは、直接のものよりもそのパッケージを見ていることのほうが多いのです。ペットボトルの飲み物などはまさにそうで、その時のパッケージは容器としての用途にもなっているのです。商品を量的に単位化し、運搬しやすく保護し、品質を守り、最近特に影響するものが、コミュニケーションの担い手としての役割です。パッケージは製品に「顔」を与え、企業など送り手からのメッセージや商品情報を、使い手である生活者に伝えます。
そんなことで、包装に関するすべての分野の科学および技術の発展をはかる学術団体である「日本包装学会」が1992年4月1日に設立されていますし、社団法人日本パッケージデザイン協会が1960 年に設立され、1981 年に社団法人として認可されています。この団体は、通称JPDA(Japan Package Design Association)といいます。そこでは、「果たしてパッケージに何ができるのか」と問いかけ続けながら活動しているようで、そのテーマのひとつが「人へのやさしさ」と「地球環境への配慮」だそうです。この課題は、ほかの職種にも言えますね。
また、パッケージを評価する際の4つの軸が提案されています。1.目立つかどうか(視覚吸引力があるか) 2.らしいか(カテゴリーに求められる基本機能が表現されているか) 3.コンセプトが伝わっているか(商品の特徴・差別化のポイントが表現されているか) 4.アイデンティティがあるか(デザインの中に長期にわたって資産となるアイデンティティがあるか(カラー、ロゴ、レイアウトなど))です。
この軸で、街の中にあふれているパッケージを見て歩くと面白いかもしれません。どんなパッケージが気にいるでしょうか。

投稿者 fujimori : 23:11 | コメント (4)

2009年09月10日 近頃思うこと

ポピー

 覚せい剤と言って思い浮かべるのは、アヘンですね。春から夏にかけて美しい花を咲かせるポピーは、ケシの花で、その未熟果に傷をつけると出てくる乳液からアヘンが穫れ、それを精製したものがモルヒネで、モルヒネを化学的に変化させたものがヘロインと呼ばれている麻薬に指定されているものになります。しかし、実際に花屋などで見かけるのは園芸用に栽培されたケシの花で、多くはヒナゲシと呼ばれているもので、アヘンの原料にはなりません。しかし、たまに日本では栽培が禁止されている種でも自生していることがあるそうで、見つけたら役所の人が引き抜いているそうです。
 しかし、昨日のブログでも書いたチョウセンアサガオ同様に、モルヒネは鎮痛鎮静剤として医学薬学的に重要であり、特にがん患者の激痛を和らげたりペインクリニックでの治療には不可欠です。明治時代、若くして、アメリカに渡り、苦学しながらコロンビア大学を卒業し、帰国後、星製薬株式会社をおこし、モルヒネやコカインといったアルカロイドの国産化を行って、「製薬王」と呼ばれた人に星 一という人がいます。彼の起こした星製薬のモルヒネは質の高さで定評があったそうです。彼は、その後、星薬科大学を創立します。そして、野口英世など科学者のパトロンとしても知られています。話はそれますが、星製薬は星一がなくなった後、その会社の長男が継いだのですが、傾いてしまい、ホテルニューオオタニの大谷氏が受け継いでいます。その後、長男は転職してショートストーリーを書くことになります。彼のペンネームは、星新一です。
 そのポピーについて、こんな記事がサイエンスに紹介されていました。「植物が自分を見分けるには」ということで、ポピーの花が,自分の花粉とほかの花の花粉を見分けるしくみがわかったということです。
 高等な植物は,ほかの花の花粉とだけ実をつくる「自家不和合性」という性質をもっています。自家不和合性によって新しい遺伝子型を作成し、それが地球上に被子植物が広がった成功の要因の一つであると考えられています。ですから、自分の木だというだけでなく、同じ遺伝子や似通った遺伝子の型を持っている個体の柱頭に花粉が到達しても、花粉の発芽・花粉管の伸長・胚珠の受精・受精胚の生育のどこかの段階が停止し、結果として種子が形成されないのです。では、どうやって自分の木の花粉か他の木の花粉かを見極めているかというと、ちょっと専門的になるので難しいのですが、自分の花粉かどうかは「S遺伝子」で判断しているといわれています。今回、ポピーによる,花粉を見分ける方法が発見されたそうで、この発見は,自己を見分ける過程の進化を考えるうえで重要だ,と発見した博士らは話しています。
 高等植物において、遺伝子を残すためにある遺伝子だけを残すのではなく、常に新し遺伝子型を作成するために、他の存在が必要になってくるというのは、よくブログでも取り上げるのですが、人もそれぞれの存在が人の遺伝子をつないでいくためにも必要なことなのです。そこで、男と女に違った役割を持たせてきたのだという最近のアメリカにおける研究である「男脳、女脳」が注目されているのです。しかし、正確に言うと、男女差というより、個人差をつくってきた意味なのでしょう。
 個人差を無視し、みんなで同じようになることを目指していた行為は、遺伝子を残すという意味では間違っていたということでしょう。

投稿者 fujimori : 22:26 | コメント (4)

2009年09月09日 近頃思うこと

覚せい剤

 最近、芸能人の覚せい剤服用が話題になっています。テレビでは、芸能人だけでなく、主婦の間にもその使用は広がっていることを特集し、また、その使用の低年齢化も問題になっています。また、その使用についての恐怖についてのポスターや広告の行われていますが、煙草の使用同様、自分だけは違うとか、周りには死んでしまった人はいないと言い聞かせ、他人事のようです。
 私は、「バスケットボール・ダイアリーズ」(1995年制作のアメリカ映画)を公開当時見ました。この映画の原作は60年代後半に衝撃的に登場した天才詩人ジム・キャロルが13歳から16歳までつけていた日記「マンハッタン少年日記」で、ニューヨークを舞台に、高校生が麻薬に手を出して破滅していく様をリアルに描く青春ドラマです。公開された当時は、麻薬依存や売春が描かれていたために物議を醸しました。アメリカではMPAAによりカットされてR指定を受け、韓国では公開禁止となったようです。主演はレオナルド・ディカプリオで、ジム・キャロル本人も麻薬中毒者の役で出演していました。
 あらすじは、こんな話でした。ニューヨーク、マンハッタンでミッション・スクールに通うジムは、クラスの問題児でしたが、バスケットボールと詩を書くことが好きな他愛のない不良少年でした。ある日、好奇心でドラッグに手をだしたことから全てが変わっていきます。断ち切れない誘惑、仲間の裏切り、そして親友の死。ジムは、詩を書くことも忘れドラッグに溺れて身を落としていきます。やがて母親にも見放されたジムは、半死半生で近所に住むレジーに助けられます。レジーはジムの書く詩に才能を認め、麻薬をやめさせようと自宅に引き取りますが、ジムは留守中に逃げだし、地下鉄のトイレで初老の男に体を売ってその金でミッキーと麻薬を買います。しかし、ニセ物をつかまされ、怒ったミッキーは売人を殺して逮捕されてしまいます。ジムは家に戻り母に金をねだりますが、母は断腸の思いで警察に通報し、ジムは、少年院で中毒を克服しはじめます。
覚せい剤に手を染めた芸能人も逮捕されてある意味でホッとしているかもしれません。何かのきっかけがなければ、なかなか自分から止める決心がつきにくいからです。たばこを吸っている人も、逮捕されるとホッとするかもしれませんね。たばこを吸っている人が、「たばこの値段を1000円にすればいいんだよ!」というのも、やめるきっかけを待っているのでしょうね。
ノーベル賞で有名なノーベルがダイナマイトを発明し、そのおかげで、様々な産業が発展してきました。しかし、その一方、ダイナマイトによって多くの人が殺されました。また、核分裂のときに発生するエネルギーも、その使い方によって、人を助けるか人を殺すかの手段として使われます。覚せい剤も、広い意味で言うと手術の時の麻酔にも使われることが多いのです。先に紹介した「チョウセンアサガオ」も、ドラッグ界では「魔王」として有名で、せん妄状態になり、全ての妄想が行動として表われてしまいます。ですから、これを使って日本で初めて全身麻酔手術を行った華岡青洲の人生は壮絶なところがあります。現在では薬の開発で実験を行うのは当たり前のことですが、青洲は実験を行った初めての医師だったのです。鳥や動物に与えて薬効を記録して、あまりに多くの犬を実験に使ったので、この地には犬がいなくなってしまったと伝えられるほどでした。動物実験の末、次は人間の体で効果を試したいと考えましたが、母と妻が自分の体を使って麻酔薬を試してほしいと自ら申し出ます。そして、母と妻に麻酔薬を飲ませ実験を繰り返し、母は亡くなり、妻は薬の副作用で失明してしまいます。
覚せい剤の恐ろしさをもっと認識してほしいですね。

投稿者 fujimori : 23:12 | コメント (4)

2009年09月08日 旅先にて

白と黒

 鹿児島黒牛黒豚銘柄販売促進協議会は、1998(平成10)年に9月6日「クロの日」を記念日に定め、「黒の日まつり」としてセールや試食喧伝を行って普及に努めています。
 少し前に職員と鹿児島に行ったときに、鹿児島といえば黒豚だということで、黒豚とんかつでも食べようかということになりました。昨年暮れには妻と鹿児島に行ったときには、昼には鹿児島の駅で黒豚とんかつ、夕食には黒豚しゃぶしゃぶを食べたのですが、若い人にはとんかつがいいかと思って店を探したのですが、天文館辺りにはどこにもありません。何度もぐるぐる歩き回ったのですが、どこにもありません。その代わりに何軒も「白熊くん」という看板があります。最初は何かと思ったのですが、どうも練乳がけのかき氷のようです。なんでこんなにどの店にもあるのかというと、テレビの「県民ショー」で鹿児島名物として取り上げられたからのようです。そこで、とんかつはあきらめて、白熊を食べることにしました。私は、ブログでも取り上げたようにかき氷マニアです。しかも、練乳がけと、ふわっとした氷が好みですから、白熊はとてもおいしかったです。
もともと、白熊は、昭和22年白蜜、赤蜜をかけたみぞれ、蜜かけのようなシンプルなかき氷でした。イチゴにミルクをかけて食べるとおいしかったのにヒントを得て、氷に練乳をかけてみたそうです。しかし、それでは甘すぎるということで、改良を重ね、独特のさっぱりした味に仕立てていったのです。それだけではさびしいということで、洋菓子の感覚で中にさいころ型の果物や、16寸豆を入れ、外側に、アンゼリカ、チェリー、レーズンをトッピングしてみたら、その姿が真っ白い体に目がある白クマに似ていることから、「白熊」というかき氷になったのです。今は、マンゴープリンやマンゴー汁がかかった「黄熊」などがあります。私はオリジナルの白熊を食べたのですが、正直、量が多すぎることと、ちょっと甘すぎるところが少し難点でしたが。
 それにしても、なんで鹿児島が黒豚なのでしょう。実は、戦国時代から薩摩の国では豚肉を、歩く野菜と呼んで食べられていたようです。鹿児島県国分市の国分史記には、1609年島津家が琉球侵攻をした際に、琉球の豚を多数連れて帰ってきて、薩摩の豚と改良をしたと記載されています。そのころから鹿児島の豚のおいしさは、全国的に有名だったようです。幕末、彦根藩主井伊直弼が大老になりますが、この時に直弼は彦根藩が代々牛肉を将軍家に献上していた事を中止し、代わりに薩摩の黒豚が献上されました。また、水戸藩主斎昭公は、「いかにも珍味、滋味あり。コクあり、なによりも精がつく」といったそうですし、徳川慶喜は後に「豚一様」と呼ばれるほどに薩摩の黒豚を気に入ったといわれています。また、西郷隆盛も豚肉をこよなく愛したといわれており、豚骨と呼ばれる郷土料理と、肉入り野菜炒めの黒豚料理を愛していたと、鹿児島の郷土料理で書かれています。
その後、明治以降に、肉質が優れているとされる英国バークシャー種に改良を重ねて鹿児島黒豚が出来上がったようです。英国より導入された強健なバークシャー種と交配することで、黒豚のよいところを引き出しながらそのおいしさに改良を加え、歯切れがよく、柔らかく、水っぽくなく、うまみがあり、しかも、さっぱりしているなどの特色の鹿児島黒豚が出来上がってきました。そして、この黒豚のもう一つの特徴は、カンショを飼料として与えることです。こうすることにより、脂肪の融点が上昇し、不飽和脂肪酸含量が減少します。そして、赤肉脂肪中に抗酸化作用のあるビタミンEが増加することもわかっています。
白熊にしても、黒豚にしても改良を重ねていって、今の味があるのですね。

投稿者 fujimori : 23:06 | コメント (4)

2009年09月07日 近頃思うこと

 私の園では、色彩計画として、色が子どもの活動に影響するとして部屋の配色を考えました。あるホームセンターのテーブルクロス売り場に、どんなテーブルクロスを買えばいいのかということに対してこんな提案が貼ってありました。
BROWN(暖かな食卓):茶色は日本人にとっていつも身の回りにある親しみやすい色。懐かしさや安心感を与えてくれる色です。食卓に用いれば、あたたかく落ち着いた印象となり、特に秋から冬の団欒のひとときを心豊かに演出してくれます。
BEIGE(穏やかな食卓):ベージュは緊張をほぐし、ストレスを和らげる色。心を落ち着かせるインテリアカラーの代表です。個性を主張することなく、誰からも愛されるベージュは食卓においては、料理を引き立て、人を和ませる名脇役となります。
PURPLE(心をいやす食卓):古来、紫色の染料である貝紫や紫根は胃腸薬。現代の科学では、心や体が傷ついた時のいやしの色とされています。さらに紫には高貴さや優雅さのイメージがありますから、お客様を招いた時の心をいやす食卓の演出に最適。
ORANGE(食欲UPの食卓):人はダイニングや食卓にオレンジが使われていると最も食欲がわくといわれています。さらにリラックス効果が自律神経に作用するので、消化までよくする働きがあります。まさにヘルシーな日々の食卓に用いたい色なのです。
PINK(甘くやさしい食卓):ピンクは愛情を連想させる色。インテリアに使用することで住む人を若々しい気分にする色といわれます。さらに食卓に用いると、甘味を実際より強く感じるので、ティータイムのお菓子の糖分を控えめにしたいときにぜひ。
YELLOW(賑やかな食卓):黄色は胃腸の消化活動を促進するバナナやレモン、かぼちゃの色。食欲をそそる色としてキッチンや食卓に使用するのに最適です。特に華やかな黄色は人を生き生きとさせるので、パーティーの食卓で会話を弾ませるのに効果的。
Green(安らぎの食卓):緑の波長には脳の興奮を鎮め、ストレスを減少させる働きがあります。そのため人は疲れている時に緑のパワーを求めるのです。特に緑のテーブルクロスにトマトの赤や器の黄色が映えると、食欲は大いに刺激されます。
BLUE(さわやかな食育):青は神経をリラックスさせる色。一般には食欲を抑えるダイエットカラーといわれますが、日本人は藍の染付などの食器で食卓に多用してきました。白との組み合わせで生まれる清涼感は、特に暑い夏の食卓には欠かせません。
 1月6日はその語呂合わせから「色の日」です。その中で4月6日は「白の日」、そして昨日8月6日は「黒の日」です。そこで、1989年に創立40周年を迎えた京都墨染工業協同組合では伝統染色の黒染めをPRし、黒紋服や黒留袖の普及を図る日としていますし、鹿児島では、「黒豚の日」と決められています。食材の色は食欲や気分に大きく影響するほか、含まれている栄養素や効用も表しています。黒酢、黒豆、黒ごま、しじみ、海藻など色の黒い食べものはビタミンやミネラルが豊富で体調を整えてくれるものも多く、夏から秋へ季節が変わるこの時期にはとても重要な食べ物です。また、黒いものではなくとも「黒っぽい」ものに、まいたけ、ごぼう、そばなど意外に多くありますが、いずれもミネラルが豊富です。
 色は、精神的な面への影響だけでなく、直接体にも影響を及ぼすようです。

投稿者 fujimori : 22:54 | コメント (4)

2009年09月06日 近頃思うこと

 人は、太古の時代は、机を囲んで座るのではなく、火を囲んで座ったでしょう。ですから、火は、家の真ん中にありました。その火は、調理に使っただけでなく、暖をとるためにも用いました。その暖かさは、家族みんなにいきわたらせるために、その火の周りに輪になって座ったのでしょう。その火は、囲炉裏といわれるようにみんなで囲むようになります。
昨日の「yahatanomori」さんのコメントの実践はいいですね。火を囲んでの話し合いは、心が通じます。ですから、一つの儀式にもなっています。それが「キャンプファイヤー」で、「親睦の火」や「儀式の火」とも呼ばれます。この夏の間に子どもたちは、どこかでキャンプファイヤーを経験したでしょうか。しかし、どうも最近は火の周りで騒ぐというイメージがありますが、一度はきちんとしたキャンプファイヤーを体験してもらいたいものです。だからと言って、その起源でもある火の神への崇拝といった呪術的かつ宗教的な儀式としてではなく、盛り下がりは雰囲気を重視し、火の神の言葉を拝聴し、その明るさ、暖かさから自然の素晴らしさや恩恵を感じ、丸くなることで参加者の心を開き、結びあい、友情の大切さ、思いやり、また、今日を振り返り、明日への希望の火を燃やす1日の最後の儀式として終了するのです。
 中野民夫氏の「ワークショップ」(岩波新書)の中に、ハワイ島でのワークショップで冒頭に行われた「サークル」についての説明が載っています。「この輪の真ん中には、中つ火ができます。みんなが持ち寄った様々な経験かや知識などが薪となります。お互いに敬意をもって聞こうという気持ちが発火剤になり、他の人の話をよく聴くことで理解の火花が散るのです。こうして真ん中の薪に火がつく、そして炎は常に動き変化していきます。私たちの理解が大きくなって中つ火から煙が立ち昇ると、遠くにいる人たちにも私たちがここで学んでいることがわかります。私たちは、ここで輪になって座り、日から暖をとります。人がそれぞれ同じだけの価値があるとわかったとき、この輪は完璧なサークルとなる。だからこそ中心の中つ火から等しい距離で、輪(サークル)になって座るのです。」
 団欒、サークル、輪を作るためには、人は複数必要です。もちろん一人では輪は作れませんし、二人でも二人をつなぐ直線になってしまいます。三人から、その場は空間になります。しかし、その場はぎくしゃくします。その場が丸に近くなるのは、より多くの人の参加が必要になってきます。しかし、あまり多くなると、その輪の直径は大きくなり、お互いの距離は遠くなり、お互いの表情が見えにくくなります。ですから、ただ丸くなればいいのではなく、丸くなって何をするかを考えないといけないのです。このように、車座に座るという形が、もし授業形態であれば、まず、その授業で何を、どのように子どもたちは学ぶかを考えないといけません。
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今、日本の授業はどんな内容でも、ほとんどいわゆるスクール形式と呼ばれるような形で行います。そこには、子ども集団が役割を持っていません。そこには場が存在しません。教師と児童の間の線しかないのです。以前、私が教員をしていたときに、ある教師にこう言われました。「授業は、教師が糸を操って、児童を操り人形のように動かすことである」
 私からすると、この言葉は子どもの人権を無視している発言としか思えませんでした。

投稿者 fujimori : 21:53 | コメント (4)

2009年09月05日 近頃思うこと

団欒

一家団欒で食事をするというのはみんなで一緒だから楽しいというだけでなく、机を囲んで、みんなで輪になるからということもあるでしょう。いわゆる車座になって食事をするということです。でも、一家団欒という字の「欒」という感じは難しい字ですね。どういう意味かよくわかりませんが、同じような字で恋という字の旧漢字は「戀」と書きます。下が木の代わりに心と書くのですが、どういう関係なのでしょうか。たぶん、団欒の「欒」は、木を囲んでお互いに顔を見たり、思いを打ち明けたり、話をしていることを表しているのかもしれません。心で恋をするのに対して、木を挟んで恋するのかもしれません。また、「欒」の上の部分は,糸,言,糸 で、糸がもつれている様子を表します。ですから、「欒」は,もつれた木という意味もあります。ということで、家で,もつれた糸をおしゃべりしながら,ほどいてまき直すという意味かもしれません。そうではなくて、糸がもつれるように,おしゃべりをしているという意味からかもしれません。他には、欒は小さな集まりと云う意味もあるようです。
また、大学生などの集まりのことを「サークル」ということがあります。同じ趣味を持った人が集まり、その仲間で活動することをいいますが、語源は円座を組んで臨んだことからくると言われています。アメリカでは、このブログでも取り上げましたが、小学校では低学年では子どもたちは丸くなって座っていろいろなことを話し合います。また、丸くなって座ることによっての効果が中野民夫氏の「ワークショップ」(岩波新書)の前書きに書かれてあります。
「20年ほど前でも小学校だけでなく、大学院のクラス、様々なミーティングやワークショップ、そして創造的なビジネスのミーティングも椅子を使うことがあるにしろだいたい輪の形になって座ります。輪になって座ると、お互いの顔がよく見えます。話す人は語りかける相手の表情や反応を見ながら話せるし、聞く人は話す人の表情や身振りを見ながら話を聞けるので、お互いに適切な反応がしやすく、インタラクティブな場になります。普通の教室スタイルで人の背中越しに発言者の話を一方的に聞くことになれていると、一重の輪になって座ることはなんだか全体をむき出しになった感じで、初めは居心地がよくありません。でも、その場の雰囲気を作るのは、ひとりひとりなのです。誰が上でも下でもなく、よくも悪くもその場を作る責任と権利はひとりひとりに等しくあります。今、自分がこの輪の一部を担っているという自覚が促されるのです。」
オランダのイエナプラン教育における教室での学習活動では、車座になって話し合う「サークル対話」という形式が、繰り返し使われます。しかも、サークルの持ち方でもいろいろなあるようです。日本では、今回の小学校学習指導要領では、様々な授業形態が示されています。「個別指導」「グループ別指導」「繰り返し指導」ほな何種類か示されていますが、その形は指導の仕方です。イエナプランでの様々な形は学習形態です。先生主導か、子ども主体かの違いがよくわかります。オランダのサークル学習には、特定のテーマを決めずに自由に話合う「オープン・サークル」、前もってグループリーダーや一定の子どもが話題を準備した「準備サークル」、グループリーダーが何かをみなに伝えるためのサークル、何かを一緒に見たりそれについて話し合ったりするサークル、観察サークル、報告サークル、自由作文の朗読サークル、テーマ学習サークルなどがあります。
 一家団欒の形が日本らしい関わりとしたら、もう少し授業形態に「団欒形式」を考えたらいいと思うのですが。

投稿者 fujimori : 19:46 | コメント (5)

2009年09月04日 近頃思うこと

日本らしさ

 日本で誇れるものは何かと聞かれると、何を挙げるでしょうか?また、もし外国人が日本を訪れたとしたら、どこに行きたいでしょうか。日本というと何をイメージするでしょうか。ドイツで買ってきた世界地図帳の日本のところには、「富士山」「金閣寺」「忍者」「原爆」「相撲」「歌舞伎」などが書かれてあります。
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日本に行って「どこに行きたい?」「何を食べたい?」と聞かれて「「富士山」「東京」「すし」と答えていたアメリカの高校生たちが日本にホームステイツアーにやってきました。今年の8月11日に放映された NHKのドキュメンタリー番組「ドキュメント20min.」の再放送を先日見ました。その番組は、アメリカの高校生のホームステイ先として人気がある長崎県・平戸市の漁村を紹介しています。ここは、長崎市から車で約3時間の平戸市・志々伎(しじき)地区で、人口200人あまりの小さな漁村で、これといった観光資源もありません。しかし、アメリカの高校生たちが選ぶ世界各地のホームステイツアー・50余りの中から、断トツで2年連続世界一の評価を受けました。どうしてそんなに高校生に人気があるのか?何が高校生の心に響くのか? ということを米高校生と住民の4日間に密着し、その秘密を探るという番組です。
もちろん、この場所には今の高校生たちが興味や関心のありそうなものはありません。ゲームセンターも、ショッピングの場所も、高層ビルも、しかも、一緒に生活するのは、英語はおろか方言しかしゃべらないホストファミリーの人たちです。しかし、考えてみると、ゲームセンターも、ショッピングモールも、高層ビルも、英語を話す人もアメリカでは満ち溢れています。しかし、ここに来た高校生たちは、地元の暮らしを体験しながら、ここでしかないものにふれます。そして、最後は涙の別れになるのです。
ここにしかないもの、今のアメリカにはないものとは何でしょうか?番組の最後に何がよかったのか、何に感動したのかとインタビューをしています。その答えに考えてしまいました。まず、答えたのが「家族みんなで食事をしたこと」だそうです。今、アメリカではそれぞれが一人で食事をすることが多いそうです。というよりも、答えた高校生はいつも一人で食事をするのだそうです。最近、日本でも食育基本法が制定され、家庭における一家団欒の機能が注目されており、政府は家族の日を制定する方針を決めました。ということは、そのような機能が減ってきているということでしょう。一家団欒とは、家族が同じ場所に集まって、なごやかな楽しい時間を過ごすことですが、もちろんこれは日本独特のものではありません。しかし、「人を出し抜く」「人に勝つ」「人よりすぐれる」という価値観が、「みんなで楽しく」という時間を少なくしていることは確かですし、特に主として農耕民族として協力して生活してきた日本では、社会の一員であろうとする意識は子どものころから学んできたでしょう。ベビーシッター一人に食事を食べさせられてきた米英とは少し違うかもしれません。
感動したことのもうひとつは、「道で会う人が挨拶をしてくれること」でした。これも、なにも日本独特のものではないかもしれませんが、アメリカではしないそうです。東京でも、道で知らない人から声をかけられたら逃げなさいと教えるような時代になってきています。社会の中で生きていくことを学んだ地域の教育力が低下してきているということです。
園は、子どもにとっての社会です。小さいうちから、みんなに見守られながら育つ経験を積んでいく必要があるでしょう。

投稿者 fujimori : 23:12 | コメント (5)

2009年09月03日 近頃思うこと

ゲーム

地下鉄構内などにおいてある情報誌「R25」の今週号の特集に「やってない子を探す方が難しい!?イマドキの子どものゲーム事情」があります。最近、私の園の若い男性職員との話で、ゲーム世代だと思うことがあります。それは、たとえばレッドクリリフトいう映画の話で、三国志を話題にすると、意外とよく知っていて驚くことがあります。しかし、それは、本で読んだのではなく、ゲームでやったそうです。同じように、ガンダムでもアニメで知っているより、ゲームで知っています。いろいろな知識をゲームで知るようです。また、この夏休みにも観光地などで子どもの姿を見かけることが多かったのですが、そのほとんどがゲームをしている姿です。R25には、ゲーム人口が書かれてありました。「コンピュータエンターテインメント協会(以下、CESA)が発行するゲームに関する意識調査報告書『2009 CESA一般生活者調査報告書』によれば、男子は3~14歳で8割以上、女子は3~9歳で5割以上、10~14歳で約8割が家庭用ゲームで遊んでいるそうです(2008年調査より)。これを全人口に当てはめると、3~14歳のゲーム人口は推計で1025万人。想像以上の数です。」
この結果で、記事にも描かれてありますが、女子のゲーム参加率が意外と高いことにオドロいたとありますが、確かに、私も街でゲームをしている子を見ると、ほとんど男の子ですし、職員もゲームの話をするのは男性がほとんどです。しかし、90年代半ば~後半あたりから『パラッパラッパー』『バイオハザード』といった新機軸ゲームが多数登場してきたことで、主に若い女性のゲームに対する意識の変化が広がり、徐々に女性のゲーム人口が増えていきたそうです。CESA事務局の町谷太郎さんが、こう説明しています。「純粋にゲームに没頭しやすい男性に対し、女性はゲームから知識や情報など何かを得ようとする傾向にあります。かつては『ゲームをする人=オタク』といった偏見から、パズルゲームなど一部例外を除き、女性にとってとっつきにくい市場背景がありました。しかし、そうしたなかで、2005年に脳トレや学習系ゲームなどが登場したことで、さらに幅広い層にゲームが浸透したとのではないかと考えられます」
そういえば、ゲームというと戦いゲームのような、また、敵をやっつけるようなものを思い浮かべますが、脳トレなどのように、脳をトレーニングしたり、漢字や歴史を学んだりするゲームも多くなりました。先の報告書のハードウェア別の調査では、DSの利用率が男女とも3~9歳で6割以上、10~14歳で7割以上とダントツのトップを示したそうです。また、親が子どもにゲームソフトを買い与えるのは平均で年3本程度だそうです。この多くが誕生日やクリスマスなど、行事でのプレゼントです。
こんなに増えてくると、わが子に与えないのも難しくなります。「みんなも持っている」「仲間外れになる」「話が合わない」などと言ってせがむ子に納得させるのは難しいですね。ですから、「子どもに長時間ゲームをさせない良い方法」を求めるのは仕方ないかもしれません。この特集の後半は、そのようなことが書かれてあります。「ゲーム脳の恐怖」を書いた日本大学教授の医学博士、森昭雄氏は「ゲームに時間制限を設ける場合、なぜそれが必要かを話し合い、子どもに納得してもらうことが大切です。それこそゲームをやめたからといって、そのあと一日中テレビを観ていてはあまり意味がありませんからね。ゲームのやりすぎにより、ほかにすべきことの時間が失われることを子どもに理解させ、彼らの方から時間制限を設けるような話し合いが必要になってくるでしょう」と言っています。
本当は、時間制限が必要なのは、父親のほうであることが多いのも時代かもしれません。

投稿者 fujimori : 22:57 | コメント (4)

2009年09月02日 近頃思うこと

変革期のリーダー

 日本での政権が代わっただけでなく、いろいろな分野で変革期です。昨年、世界全体が経済危機に見舞われました。私は経済にはあまり強くありませんので、聞いた話ですが、経済のメカニズムを分析したことで評判になった書籍が、住友銀行から米国のゴールドマンサックスに転進し、その後独立してニューヨークで投資銀行を経営する神谷秀樹氏の書いた「強欲資本主義 ウォール街の自爆」(文春新書)です。もう1冊は、東京大学経済学部から大蔵省を経て、現在は慶応義塾大学ビジネススクールの准教授を勤めるハーバード大学経済学博士・小幡績氏の「すべての経済はバブルに通じる」(光文社新書)だそうです。そこで、この昨年度ベストセラーの著者同士が経済について対談した新書が今年の5月に発行されました。それが「世界経済はこう変わる」 (光文社新書)です。
 この本の中で、経済だけでなく、他の分野にも参考になる話が多くあります。私は、そこで書かれている「変革期のリーダー」は、とても示唆に富む内容である気がします。小幡氏は現在の日本が停滞している理由を「デザイナー不足だと思う。国をデザインする人がいない。社会システムをデザインする人もいない。」と言っています。私も、日本には、保育がデザインされていないと思います。デザインには、その国にマッチしなければなりません。日本の風土、歴史、伝統にマッチするデザインを考えないといけないと思います。そのために、明治維新以後急速に入ってきた欧州文化、戦後あこがれた米国文化から独立し、逆に世界に発信していけるような保育のデザインが必要な時期だと思います。
小幡氏は、こう説明します。「官僚はすごく頭のいいエリートではあるが、昭和30年代以降は、そのエネルギーを、社会のデザインを考えることには投入せず、既存のデザインを守ることに終始してきた。たしかに、よくできた社会のデザインをむやみに変えようとする昨今の一部を見るとそれも一理あると思う。目先の利害でめちゃくちゃにされるよりは、かえってよく練られて作られていたデザインを維持しようとする守旧派の官僚にも、自己正当化する論拠はある。しかし、社会を見直し、そこで暮らす人々の話を聞けば、それが全く誤りであることに気づくはずです。1950年の社会と21世紀の社会は全く違うのです。社会が違えば、制度も根本からデザインを変えないといけない。」
そんな変革期におけるリーダーの在り方にも言及しています。「理想のリーダー像が“良きに計らえ”では、変革期のリーダーは務まらないと思う。リーダーは、まず、いいデザインを組んで、方向性を与えている。そうして、組織のメンバーには、ある程度自由にやらせるから、彼らは、いきいきと、自ら一生懸命働く。さらに、生き生きとした個々が集団でまとまり、すべての構成員が組織全体を高めることを考えていくことができており、組織のために頑張る。」
そして、今までの「方向性は、売上拡大、シェア拡大、という右上がりの成長を目指せばよく、欧米に追い付き追い越せで、同じものをより効率的に、より高品質で作ればよかった。外交も政治も米国追随、欧米型の社会の成立を目指すということで、方向性は決まっていた。つまり、リーダーのビジョン、方向性の決断は必要なかったし、構成員は、みな誰でも、それは分かっていたのである。そういう分かりやすい時代だった。しかし、今後は、そうではない。」と言います。そんな時代のリーダーは、「方向性も、そして、不断に起こる右か左かの決断を行わないといけない。そして、その戦略の意図を組織に伝えないといけない。リーダーの仕事ははるかに難しくなってきている。したがって、今後は、ビジョンと決断力、決断力すべてを備えたリーダーが必要である反面、単なるトップダウンではなく、組織が内部から、自発的に盛り上がるスタイル、これが新しい組織の形になると思う。」
この考え方は、特にノンプロフィットである職種においてはなおさらです。保育、教育におけるリーダーは特にこうあるべきことは、ドラッカーも「非営利組織の経営」の中で述べています。

投稿者 fujimori : 22:35 | コメント (4)

2009年09月01日 近頃思うこと

変革期

 P・F・ドラッカーは、21世紀という急激な変化と不確実性の時代にあって、経営戦略自体が前提とすべきものは何か、何か確実なものはあるのかという問いに対して、これからの時代にあって確実なものは、「先進国における少子化」「支出配分の変化」「コーポレート・ガバナンスの変容(企業統治。株主などが自分たちの利害や、企業の経営方針などについて対話できる制度、また、その理念)」「グローバル競争の激化」「政治の論理との乖離」と言っています。ここでトップに挙げられているのは、先進国における少子化です。これは、確実にくるであろう時代です。特に日本においては、かつて人類が経験したことのないスピードでその変化は起きています。
 人は、変化に対して抵抗します。変わることを恐れます。それは、変化には改革が伴わなければならないからです。少子化に対してもそれを食い止めようとします。それは、高齢者の増加に反して労働人口が減少し、労働活力が低下したり、高齢者を支えるシステムが成り立たなくなったり、社会にひずみが起こるからです。ですから、少しでも生んで育てやすい社会を作ろうとします。しかし、生みやすいといって、親が誰でもいいからと言ったり、育てやすいといって、たとえば子育て費用を負担したり、かつての保育所のように託児機能を増やそうとしますが、たとえ、そのために子どもが増えたとしてもいくつか問題があります。その子どもたちが、労働しようとしなければ、高齢者を支えなければ意味がありません。また、かえって支えなければならない若者が多くなればもっと負担になります。ですから、子どもを増やすだけでなく、その子どもをどう育てるかの取り組みがなければいけないのです。そこで、「支出配分の変化」が必要になってきます。
 子どもをどう育てるかということになると、その子どもの育つ環境は今までと大きく違うところがあります。それは、少子社会で、子ども集団がなくなり、子ども集団で育つ力が育ちにくくなっているということへの変化です。これが「少子化」です。少子化は、それを食い止めるだけでなく、少子社会での育ちの文化を新たに創造していかなければならないのです。すると、託児としての保育所機能から、子ども集団の育ちを保障する保育所への変化が必要になってくるのです。もう一度、子ども集団を考えていかなければならないのです。
 ドラッカーは、10年前、15年前の経営書や経営セミナーが取り上げていた「変化への抵抗」という問題は最近なくなったと言います。変化が不可避なことは、誰もが納得したからです。しかし、まだまだ変化を拒否する人たちが経営に直接関係のない分野には多くいます。それが、教育、保育界です。しかし、その分野こそ、未来を担う人材を育てているところだけに「変化はコントロールできない。出来ることは、その先頭に立つことだけである」必要があるのです。変化はリスクに満ち、楽ではありません。悪戦苦闘を強いられます。また、今後数十年どころか、今後数年のうちに顕在化してくるに違いない諸々の問題に対し、準備することは不可能である。そこで、変化に対処するのではなく、変化の先頭に立たないかぎり、企業、大学、病院、保育園、幼稚園いずれにしても、生き残ることはできないといわれています。「急激な構造変化の時代にあっては、生き残れるのは、自ら変化の担い手、チェンジ・リーダーとなるものだけである。チェンジ・リーダーとは、変化を機会としてとらえるもののことである。変化を求め、機会となすべき変化を識別し、それらの変化を意味あるものとするものである。」というドラッカーの言葉は、政権が交代した今、もう一度私たちに訴えてくるものがあります。自ら変化していく力を持ちたいものです。

投稿者 fujimori : 22:19 | コメント (5)