すっかり秋

すっかり、秋になりました。秋には何をする季節かというと、昔からいろいろな言い方があります。「食欲の秋」「読書の秋」「スポーツの秋」「芸術の秋」などです。皆さんは、どのような秋を過ごすのでしょうか。私が好きな曲で喜多条忠作詞、吉田拓郎作曲の「メランコリー」という歌がありますが、歌詞の中にこんなフレーズがあります。「秋だというのに 恋も出来ない」2番の歌詞には、「秋だというのに 旅もできない」とありますが、秋は、恋する季節なのでしょうか、旅をする季節なのでしょうか。
「秋深き 隣は何を する人ぞ」という有名な松尾芭蕉の句があります。この句をそのまま読むと、「隣の人は一体今何をしているのだろうか?ガサガサ音がするのは、秋が深まり冷え込んできたので、衣替えの用意をしているのだろうか。私も、そろそろ冬支度でもし始めなければ」と解釈してしまいます。絵画にしても、俳句や小説にしても、それを見たり、読んだりする人の心境や境遇によって解釈が変わり、作者の意図するところと違ってしまいます。それって、いいのだろうかと思うことがあります。読み手の私たちは作品の批評をするのではなく、その作品に共感でき、自分を投影するから素晴らしい作品と思えることもあるのです。
しかし、その作品が生まれた時の状況や背景を知ると、また違った解釈が生まれ、作品に厚みを感じることができるようになります。「秋深き…」はそういう作品です。この一句は、芭蕉の最後の一句となっています。というのは、死を前にして詠んだ句なのです。秋深くなる9月の終わりに、俳席が畦止亭で開かれ、翌日は、芝柏亭に場所を移して同様の俳筵が巻かれることになっていました。そこに出席するはずだった芭蕉でしたが、体調を崩していた芭蕉は、俳席に出席している方々に申し訳なく、この一句を送りました。その後芭蕉は床に伏し、10数日後亡くなりました。そう思ってこの句を読み返すと、衰弱しつつある自身が、秋深まる夜と同調したように感じ、秋を夜が更けていくとともに、寂しく儚く感じたことでしょう。その儚さは、夜や秋だけでなく、死期が迫ってきた自分自身の人生も合わせて感じたことでしょう。「隣人は何をしているのだろう」という思いも、俳席の楽しき場や、隣の住人のことが気にかかって、その席への思いを馳せている様子がうかがえます。その思いは、俳句仲間に対してだけではなく、自分が経てきた人生に対して自分は何をしてきたのであろうかという思いもあったでしょう。この句会が開かれ、芭蕉が亡くなった9月は、新暦ですと11月末?11月上旬ですから、晩秋です。
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 「旅愁」という原曲がオードウェイというアメリカの音楽家の作曲した曲があります。原題は、「Dreaming of home and mother」という故郷を穏やかな気分で回想するようなものだったようですが、日本では、詩人「犬童球渓」という人が訳詩をしました。熊本県出身だった彼が、故郷を遠く離れた北の国である新潟に勤務していたときに、自身の境遇の苦悩などを綴ったものだともいわれています。「更けゆく秋の夜 旅の空の わびしき思いに ひとり悩む 恋しや古里 なつかし父母 夢路にたどるは 故郷の家路」この歌詞は、林芙美子の「放浪記」の冒頭にも出てきます。
 私は、秋には特にメランコリーになりませんが、ちょっと物思いにふけってみたい気もします。

インドカレー

 今年の「第4回B級ご当地グルメの祭典!B-1グランプリ in YOKOTE」は今月の20日に最終日を迎え、開催地である地元の「横手やきそば」が初のゴールドグランプリに輝きました。ブログで何度も書きましたが、私は各地のB級グルメが好きですし、特に焼きそばが好きなので、この結果に興味がそそられます。それは、まだ私は横手を訪れたことはなく、ましてや横手の焼きそばを食べたことがないからです。
 この順位の決め方は、客が使い終わった割り箸を気に入った料理に投票し、その重さを競います。そして、ゴールドグランプリに選ばれたのが、「横手やきそば」で、シルバーグランプリは「八戸せんべい汁」(青森)、ブロンズグランプリは「津山ホルモンうどん」(岡山)でした。来年の大会は神奈川県厚木市で開かれることが決まったようです。
 各地には、ご当地ものと呼ばれる食べ物があります。有名なところでは香川の讃岐うどんとか、札幌ラーメンとかですが、どうしてこの場所にその店が増えたのかは様々な理由があるようです。もちろん、その地方の風土、伝統、歴史の中から生まれ、伝承されてきたものが多いのですが、B級グルメになると、村おこしのように仕掛けられたものが多いようです。
また、もともと日本人が好きな食べ物が、その地方によって料理法や味付けが違ってその地方の名物になることもあります。たとえばラーメンなどはそうです。各地にいろいろなラーメンが名物になっています。ですから、よくラーメン博物館のように各地のラーメンを集めた場所があることがあり、いろいろなラーメンを食べ比べられるようになっています。同じようなコンセプトで、日本全国の特徴的なカレーを出す店舗を招聘するということで開館したテーマパーク「カレー博物館」がありました。しかし、残念ながら、2007年3月31日に開業から累計来館者数は約870万人を超えて閉館しています。このようにカレーも、日本人が好きでよく食べる料理です。そのカレーは、あまり地域差はないのですが、私の園の周りから九段下にかけてカレー店が多く見られます。しかも、それはチェーン店ではなく、インド人がやっているような店です。それは、インド大使館が近くにあるので、インド人が多いからだと聞いていました。
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ところが、最近あの電気街とメイドカフェで有名な秋葉原にカレー店が急増しています。どうしてかということを、日経に経済アナリストである森永卓郎氏が分析していました。 その理由については、大きく分けてインド人説と日本人説があるそうです。インド人説とは、インド人の食事場所としてカレー屋が立地したというものです。秋葉原では、よくインド・パキスタン系の人を多く見かけます。それは、インド人はエレクトロニクスが大好きで、秋葉原に買い物に来る観光客がとても多いからです。従業員のインド人が顧客対応をしてくれる店もあるくらいです。もう一つのインド人説は、秋葉原周辺で働くインド人が増えたということだそうです。秋葉原駅周辺にはオフィスビルが林立し、その多くはIT(情報技術)系の企業です。そのために、そこで働くインド人のIT技術者が増えているのだといいます。
 しかし、森永氏は別の見解を持っています。秋葉原のカレー店は、アキバ系日本人の食事場所として発展したのではないかと思っているそうです。現に秋葉原のカレーはインド人が好む本格インド料理ではなく、500円から800円程度の手軽なものがほとんどを占めているそうです。
 どこで何がはやるのか興味がありますね。

公園

子どもの権利条約の第3条には、「児童に関するすべての措置をとるに当たっては、公的若しくは私的な社会福祉施設、裁判所、行政当局又は立法機関のいずれによって行われるものであっても、児童の最善の利益が主として考慮されるものとする。」とあります。これは、子どもに関係のあることを行うときには、子どもにもっともよいことは何かを第一に考えなければならないということです。児童公園の設置は、「児童に関する措置」です。子どもの権利条約が日本でも批准された今、このことを意識しなければならないのです。しかし、日本ではあまり意識されてこなかったというのが現実です。
野山が広がり、川や海があり、田んぼのあぜ道が続いているような自然が豊かな場所では、あらゆる場所が子どもの遊び場でした。しかし、都会では、道路が子どもたちの遊び場でした。しかし、道路に車が通るようになると、子どもたちの遊び場は失われて行きました。江戸時代にも、道で遊んでいた子どもが交通事故に巻き込まれることも多く、大八車でひき殺して死罪になった例があるそうです。明治の終わりごろになると交通量は増え、1910年(明治43)に市区改正委員の窪田清太郎が東京市議会に「小公園設置に関する建議案」を提出しています。ここには「近来市内交通機関ノ発達に伴ヒ、往来益々頻繁に赴ケルニ拘ワラズ、児童ノ多クガ通路ヲ馴駆スルガ如キ、当ニ交通ノ妨害タルノミナラズ、其危険少シトセズ」と述べられています。
そこで、公園に遊び場が必要と思われ始めました。そんな時代、日比谷公園が1903年(明治36)に開園したとき、アメリカのモデルプレイグラウンドと呼ばれる、児童指導員がいる遊び場の形態を模した300坪の児童遊園が設置されました。1924年(大正13)、米国留学から戻ってきた末田ますが、東京YMCAから東京都の嘱託になって、キリスト教会の福祉活動として本格的に公園児童指導を展開しました。もちろん、この指導には水を使った遊びなどもあったそうですが、当時の道路や路地には、遊びの四元素に触れられる場はたくさんあり、なにも公園でする必要はなく、しかも、当時は結核やチフス、赤痢といった流行病が蔓延していて、そういうものは不衛生と考えられていた時代ですから、三種の神器と呼ばれるブランコ・滑り台・砂場が生まれてきたのです。
一方、以前のブログでも紹介したドイツの「モグラの家」のような冒険遊び場も、日本には1970年代に初めて紹介され、住民主体の自発的な運営により、現在200近い団体が冒険遊び場づくりに取り組んでいます。しかし、私は、必ずしも三種の神器が悪いとは思いません。これらは、子どもたちが好きな遊具ですし、大人でも面白いと思うことがあります。ただ、それらの遊具が申し訳程度に置かれ、どこでも変わらない子どもだましのようなデザインのものが設置されているのをよく見かけます。公園全体の動線の中で配置され、子どもの興味関心を持つ色や形をデザインされていれば、子どもは飽きもせず遊びこむのです。
ゴミ埋立地だったモエレ沼のために日系米国人の彫刻家イサム・ノグチが設計したモエレ沼公園は、全体を一つの彫刻と見なすダイナミックな構想で、2002年度のグッドデザイン大賞を受賞しています。今日、ここを自転車で回りました。ここには、滑り台やブランコが置いてありますが、あたかも一つの作品のようです。そこで遊ぶ子どもたちは、彫刻と戯れるという贅沢な体験ができそうです。そんな公園が、子どもの興味をそそるだけでなく、街に彩りを添えるでしょう。
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遊びと自然

子どもの権利条約「第31条」には、「休み、遊ぶ権利」が書かれてあります。「 締約国は、休息及び余暇についての児童の権利並びに児童がその年齢に適した遊び及びレクリエーションの活動を行い並びに文化的な生活及び芸術に自由に参加する権利を認める。」
それぞれの子どもたちのために、その年齢に適した遊びを用意しなければなりません。それは、決して、管理しやすいとか、危険が少ないとか、汚くないとかいうような大人の都合でつくられるのではなく、あくまでも子どもにとってどうかを考えなくてはなりません。しかし、それは単に子どもが好きかどうかということではなく、人間の成長にとって大切な遊びの重要性を考え、提案しなければならないのです。そんな意味で、児童遊園がつくられているでしょうか?
子どもにとっての最高の遊びの遊具は、自然界にある火、水、木、土だといわれています。これらを、どのように公園に生かし、子どもたちが自然と触れ合うことができるかを意図するのも必要です。もうひとつ、最近の少子社会で重要なアイテムとして「子ども集団」が必要な気がします。いかに、集団で遊ぶことを促すかということです。
ベストセラーになったロバート フルガム著「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」ではありませんが、砂場は、子どもにはとても人気がある場所です。この砂場は、19世紀後半のドイツが発祥の地です。大きな公園の中に砂場が盛られ、そこで遊ぶ子どもを警官が監視していました。それを見たキリスト教徒がボストンの幼稚園へ持ち帰ったのが原型だといわれています。ドイツでは、この砂場に水が流れ込むようにできていて、砂と水を合わせて泥んこになって遊びます。日本でも、泥んこ保育を行っている園もあります。
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しかし、ここでなかなか難しい問題が起きます。自然界のものは、清潔に問題があり、危険を伴うことが多いのです。雨が降るとぐちゃぐちゃになるので、公園で土は嫌われます。火や水は危険だから禁止されています。きれいに剪定された樹木はありますが、廃材を使って秘密基地を木の上につくったりすることはできません。水があっても人工的な流れで、縁はコンクリートで固められ、魚はいませんし、ましてやオタマジャクシやカエルがいる泥っぽい水たまりは汚いとして排除されます。そのように、土や水は、管理の手間がかかるために排除される傾向にあるのです。
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ニュータウンの園の近くに大きな池を作りましたが、その底を何にするか意見が分かれました。結局、土ではなくタイルを敷き詰めました。それでも自然はすごいもので、そのタイルにも泥が溜まり、藻が発生し、ザリガニが生息するようになりました。今度は、それを掃除するかで意見が分かれました。意見が分かれるのは仕方ないのですが、その議論の中には、子どもにとって何が必要かという議論がなく、景観としての池作りだったのです。管理しにくい、面倒なものはどんどん排除されていくような公園づくりは、子どもの世界から、自然界の素材そのままの要素と子どもが自然と触れ合う場所を、どんどん奪ってしまっていったのです。
今、羽根木プレーパークのような冒険広場運動の実践が行われています。また、ビオトープのような自然生態系を残した公園も試みられてきています。また、その運営管理も公的なものから住民参加のものに変わってきています。今後、どのような児童公園ができてくるのでしょうか。また、海外ではどんな試みが行われているのでしょうか。

公園遊具

 園から少し離れたところに公園ができました。西武線の線路わきです。工事中、出来上がるにつれてどんな公園になるのか、どんな設備ができるのか、どんな遊具が置かれるか予想を立てていました。まず、戸惑ったのが、公園の周りを高いフェンスで覆い始めたときです。どう見ても、野球やサッカーができるほどの広さがありません。であれば、そんな高いフェンスが必要な用途はなんだろうか不思議でした。広い場所でないとしたら、何かの遊具が設置されるでしょう。一昔前までは「公園の三種の神器」とよばれるブランコ・スベリ台・砂場がよく設置されていました。しかし、これらは事故が多いと最近消え始めています。また、最近流行っている公園として、自然型公園で、ビオトープとか、林とか、サンクチュアリー的なものも多く見られます。しかし、そんな気配はありません。大きな木が数本公園の真ん中に植えられ、芝生がところどころにつくられます。この様子では、一時はやったゲートボール場にもなりそうにありません。
完成に近づいたころ、一つの遊具が設置されたのです。それは、バスケットゴールでした。よく、アメリカ映画などに出てくるような景色です。
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完成後、いつの時間帯でも、私が登園する朝7時台から、帰りの20時ころまで必ず誰かがそこを使っています。ある日の夕方、そこを通ったら私の園の男性職員が数人でそこでバスケをやっていました。次の日に聞いたら、知らない人も数人交じって一緒にバスケをやったということです。ちょっと、その光景は珍しく、何となく都会型の公園のような気がしました。
そういえば、多摩ニュータウンの保育園にいたときに、近くの広場で若者がスケートボードをやっていました。しかし、近所からの苦情で、そこではスケートボードができないような突起をいくつも作ったのです。私は、ある会合で、それはおかしいのではないかと言いました。中、高校生などの若者が集える公園が少なく、また、中高校生の集団はなんだか怖い気がして追い出そうとするけれど、かえって、そうすると隠れていろいろとすることになるのではないか。中、高校生などの若者が集う場所を、みんなの視線が集まる真ん中に作った方がいいのではないかと提案しました。
今、都市の公園には、子どもの姿を見ることが稀になりました。このままいったら、公園で遊ぶ子どもがいなくなる恐れもあります。家やマンションのロビーでゲームをやっている姿を見かけます。それか、塾通いです。もちろん、周りに自然があり、わくわくするような体験ができるところならいいのですが、都会ではそれは無理です。ですから、もう少し、公園というものを幼児から若者までを視野に入れ、地域に対象者に合わせてそれぞれの機能を点在する計画を立てる必要があると思います。
そうした計画の中で、最近、高齢者向きの公園もゲートボールだけでなく、いろいろと考えられるようになりました。たとえば、幅広い年齢層が軽い運動を行える「健康遊具」が置かれているところも人気があります。これには背もたれが湾曲していて背中を伸ばせる「背伸ばしベンチ」や、腰を回す運動を行える「ツイストボード」や、足の裏のつぼを刺激する道などもあります。
では、子どものための公園とは、三種の神器の代わりにどんなものがいいのでしょうか。もう少し考えてみたいと思います。

ケイトウ

 花の名前は、そのいわれを聞くとなるほどと感心するものがあります。昨日のブログの「酔芙蓉」などは、その代表的なもので、「酔うほどに赤くなるかのように時間の経過で次第に赤くなる芙蓉の花」というのは、よくそんな名前をつけたなあと思います。また、その形があるものに似ていることからその名前が付けられることがあります。私が感動したのは、以前のブログで書いたことのある「すみれ」の花です。これは、大工さんが使う「墨入れ(すみいれ)」に形がそっくりです。また、「鷺草(さぎそう)」を見た時にも感動しました。本当に鷺が優雅に飛んでいる姿にそっくりだからです。
 最近、あまり見なくなりましたが、やはり私が子どものころに見て、あまりにその花の名前がその形を言い当てている花に「ケイトウ」があります。漢字で書くと「鶏頭」と書きます。真っ赤な花がニワトリの頭のトサカにそっくりなのです。英語でも「cocks-comb」(鶏のとさか)といいますから、誰が見てもそう見えるのでしょう。しかし、今では羽毛ケイトウの方がよくつくられているようですし、花色も赤のほかに、オレンジ、黄色などがあります。ですから、花が細長くなった品種が出てきて、ケイトウというイメージからはだいぶ違って来て、昔のトサカケイトウを見ることが少なくなってきました。先日、酔芙蓉を見に行ったときに、途中でトサカケイトウが咲いていて、とても懐かしい気がしました。
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夏から秋にかけ、赤・桃色・黄色などの花穂ができますが、原種では赤色です。原産地はアジア、アフリカの熱帯地方と推定され、この地方では花と葉は食用とされているそうです。日本には古く万葉時代にはすでに渡来していました。ですから、万葉集の中に何首か鶏頭を詠んだ歌がありますし、与謝野蕪村なども詠んでいます。
鶏頭というとよく間違える四字熟語があります。それは、「牛のしっぽになるよりも、鶏の頭になる方がいい」ということで、「鶏頭牛尾」という言葉を思い浮かべますが、本当は「寧ろ鶏口と為るとも、牛後と為ること無かれ。」ということで、「鶏口牛後」と言います。この言葉は、宋末期、元初期の曾先之の著した史書である「十八史略」のなかにあります。
秦は諸侯を恐喝し、領土の割譲を求めました。洛陽に蘇秦という者がいました。秦の恵王に遊説しましたが、用いられませんでした。そこで燕の文侯のところへ行って、趙と南北に同盟を説きました。燕は蘇秦に資金を与え、趙に行かせました。粛侯にこう説いた、「諸侯の兵力を合わせれば、それは秦の兵力の十倍に値します。力を合わせて、西方の秦を攻撃すれば、秦は必ず敗れるでしょう。大王の為に考えますと、六ヶ国が南北に同盟し、秦を排斥すればいいでしょう。」そこで、粛侯は蘇秦に資金を与え、諸侯と同盟を結ばせようとしました。そのときに蘇秦が使ったことわざが「寧為鶏口、無為牛後。」(小さな組織のトップになっても、大きな組織に従属してはならない。)こうして、南北六国の同盟が成立したのです。
ここでいう「鶏口」はニワトリの口で、小さい組織のトップをあらわしています。そして、「牛後」は牛の尻尾とも尻ともいわれ、大きい組織の下働きをあらわしています。ですから、秦に従属するより、たとえ小国でも独立を保て、と説いたのです。
でも、どうして鶏頭ではなく、鶏口なのでしょうか。ケイトウの花を見ながら考えてしまいました。

日本で最初に劇場公開されたジャッキー主演作品は、「ドランクモンキー 酔拳」という作品です。この作品は、1978年製作の香港の映画作品で、たいへんな興行成績を遂げました。この映画は、酔えば酔うほど強くなる、世にも不思議な酔八拳を修行の末伝授され、その技を駆使して悪者をやっつけるという話です。ジャッキーが酒瓶と杯を持って、酒を飲みながら敵の攻撃をかわす仕草は、酔えば強くなるというのは、体が柔らかくなり、戦っているというよりも演舞しているという感じで、相手の力に抵抗するのではなく、敵の力を吸収し、のらりくらりと動きまわるという酔拳です。
酔えば酔うほどふつうは顔が赤くなります。神奈川県を流れる酒匂川の水に酔ったかのように、朝咲く白い花が時間の経過とともに桃色をおび、夕には紅色へと色を変えていく「酔芙蓉」という花があります。南足柄市千津島地区の農道1kmの間に酔芙蓉が700本と芙蓉100本が植栽され、今きれいに花を咲かせています。
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その花を妻と見に行ってきました。南足柄市といえば、「まさかりかついで 金太郎」と歌われる足柄山の金太郎のふる里で,神奈川県西北に位置し、豊な水と緑に囲まれた地域です。丹沢系や箱根外輪山の美しい山並みに抱かれた足柄平野に、酒匂川が流れ、豊かに実った稲穂がこうべを垂れ、農家ではまさに稲刈りの真っ最中でした。
この稲穂が実った水田を縁取るかのように、土手に真っ赤な、曼珠沙華の花が咲き誇っています。まさに時はお彼岸。別名「彼岸花」と呼ばれる曼珠沙華は、以前ブログで取り上げたのですが、埼玉県日高市にある巾着田では一面に咲いていて有名ですが、畦道に縁取るように咲いているのがお似合いです。
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私は、どうも「芙蓉」と同じころに似たような花をつける、大韓民国の国花でもあり、日本では昔「朝顔」といわれた「ムクゲ」の花との区別がつきにくいのですが、直線的な枝を上方に伸ばすムクゲの樹形に対し、芙蓉は多く枝分かれして横にこんもりと広がること、葉がムクゲより大きいこと、めしべの先端が曲がっていることなどで区別します。酔芙蓉は、この芙蓉の八重咲きの園芸品種です。
小田急線に乗って、新松田駅で降り、そこから大雄山行きのバスに乗り15分余り、「東まました」バス停で降り、15分ほど歩くと両端に酔芙蓉の花が1キロも続いている農道にでます。その中を、写真を撮りながらゆっくりと歩いて行くと、白かった酔芙蓉は次第にうすピンクに染まっていきました。
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一番先まで行って、戻ってくるころには、背景の山々は薄暗くなるにつれ、次第にシルエットに変わり、酔芙蓉の花も大分赤くなってきて、まさに酒に酔ったようです。シルバーウイークには、子供が小さいとどこかにつれて行かなければならないでしょうが、この年齢になると妻と喧騒から逃れて、ゆっくり田園地帯を歩き、美しい花を眺めるのもなかなかいいものです。花の美しさに少々酔ったようです。
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大観

向ヶ丘(本郷台地)から忍ヶ丘(上野台地)に向かって歩いて行くと、その境に、当地の伝承によれば、文明年間(1469 〜1486)に室町幕府第九代足利義尚が再建したという神社があります。創建年代は不明だそうですが、ちょうど境になるということで「境稲荷神社」といいます。その社殿の北側には、源義経とその従者が奥州へ向かう途中に弁慶が見つけ、一行ののどをうるおしたと伝えられている「弁慶鏡ヶ井戸」が残されています。
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この井戸の水は、「江戸志」などの江戸時代の史料によると、名水だったそうで、一時埋め戻されたのですが、昭和 15年に再び掘り出し、とくに昭和 20年の東京大空襲などでは多くの被災者を飢渇から救ったと記録されています。この井戸の脇には、掘り出した際の記念碑の石碑があり、造立者の中に画伯横山大観の名も見えます。
彼の名前があるのは、彼がこの地に住んでいたからです。その住居の跡地に「横山大観記念館」が建っています。ここを見学してきました。
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パンフレットによると、「ここは、日本画の巨匠横山大観(1868?1958)が住んでいた上野池之端の住居を、そのまま記念館として公開しています。大観が、ここに住居を構えたのは、明治42都市(1909)のことです。最初は狭かった敷地も、大観が画家として名をなすにしたがって拡張され、大正8年にほぼ現在の規模となりました。昭和20年(1945)3月10日、空襲により旧住居が焼失したため、大観はしばらく熱海伊豆山の別荘に移り住みます。昭和29年(1954)8月、焼失した旧住居の土台をそのまま用いて新居が再建され、大観は再び池之端に暮らしはじめます。以来、昭和33年(1958)2月に90歳で没するまで、ここで数多くの作品を制作しました。昭和51年(1976)3月に静子夫人が亡くなり、遺族から大観の作品や習作、遺品、画稿、スケッチ帳などが寄贈されて横山大観記念館が設立され、同年11月に開館しました。」と書かれてあります。
 ここは、展示品を鑑賞するというよりも、横山大観が過ごした住居から、彼の描いた日本画を彷彿とさせるような建物の設えや、ディテールを感じることができます。彼のお気に入りの一階の「鉦鼓洞」(炉の間)の床の間には、大観の絵や親交の篤かった菱田春草の絵の軸装の作品が季節に合わせてそのまま掛けられています。パンフレットにあるように、ここは、心の安らぎを感じられる美術館をモットーとしており、できるかぎり建物の雰囲気をいかし、靴を脱いで入る日本建築の良さが残されています。
 私のブログのタイトル「臥竜塾」の「臥竜」とは、将来天に上るために今は伏せている龍のことで、学んでいる最中のことをいいます。そのイメージで、私がタイトルに使われている龍の絵を書きました。その絵が、園のセミナールームにかけられています。同じ階の相談室には、大観の龍が飾られています。その龍は、雲の間でしきりに活動している龍です。横山大観は、干支が龍というとこもあり、龍の絵を何枚か描いています。横山大観記念館に、「横山大観還暦祝画帖」という巻物がありますが、ここには、小林古径や速水御舟、前田青邨など有名な日本画家が龍をテーマに絵や字を書いて送っています。こんなものがもらえてうらやましいですね。また、「横山大観喜寿祝色紙」も何枚か展示されています。

弥生

 昨日のブログで取り上げた弥生美術館は、文京区弥生町にあります。しかし、この辺は江戸時代には水戸藩の中屋敷で、町名は付けられていませんでした。明治になってこの地が政府に収用された時にもなかったのですが、明治5年、町家ができはじめて町名が必要になりました。さあ、なんという町名にしようかと迷ったときに、たまたま旧水戸藩の廃園に、水戸斉昭の歌碑が建てられており、そこにはこのような歌が刻まれていました。「ことし文政十余り一とせといふ年のやよひ十日さきみだるるさくらがもとに」という文章があったことから、そのなかの弥生をとり。向ヶ岡弥生町になったのです。上野の森は、かつて「忍ヶ岡」と呼ばれていました。そのこちら側が、忍ヶ岡の向こうということで「向ヶ岡」です。
弥生とは、もちろん3月のことですが、「弥」とは、「いや」ということで弥栄(いやさかえ)と使うように、ますますということで、生は「生ひ」のことで、生育のことです。ですから、「弥生」とは、草木がますます生ふるということになり、絵縁起の良い言葉です。しかし、水戸斉昭は歌の中でさくらの美しい向ヶ岡の地に「向岡記」碑が3月に建て建てられたと詠んだだけですので、特に弥生には意味がなかったのですが、この町名はのちに日本中に知られることになります。
それは、明治17年、東京大学の有坂〓蔵、坪井正五郎、白井光太郎の3人が、根津谷に面した貝塚から赤焼きのつぼを発見、これが「通常の貝塚発見土器(縄文土器)とは異なる土器」と認められ、新しい様式の土器の発見となったのです。この土器の名前を、発見地の地名を取って「弥生(式)土器」と名付けられたのです。
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そして、この名前は、稲作文化を象徴する「弥生時代」という「縄文時代」に対応する時代区分になったのです。そして、日本中の人が学校で習うことになり、弥生という名前が知れ渡ったのです。
司馬遼太郎氏は「街道を行く」の中で、根津駅から弥生坂をのぼった向ヶ岡近辺について次のように記述しています。「弥生というような稲作文化の象徴のようなことばをもつ町名から、稲作初期の土器が出て、弥生式土器となづけられた。まことにめでたいといわねばならない。」これは、弥生という言葉が3月頃に草木がますます生えてくるということから、稲作が盛んに行われてきた弥生時代と重ねて感慨深かったのでしょう。
 この向ヶ岡の向こうには、先に書いたように、かつて忍ヶ丘と呼ばれていた上野台地と本郷台地の間にあった地名がありました。この忍ヶ岡に対して忍の池となり、それが次第に不忍池となったという説が有力ですが、そのほかにも、10くらい説があるらしいのですが、おもなものに、忍ヶ岡の下にある池という理由で「不忍」の池と呼んでいたとか、「新編武蔵風土記稿」には、周囲に笹が多く茂っていたことから篠輪津(しのわず)が転じて不忍になったという説が書かれてあり、「望梅毎談」には、ここで男女が忍んで逢っていたからという説が書かれてあります。
この池は、中央の弁天島を中心に大きく3分割されています。蓮池、ボート池、鵜の池にと遊歩用の土手で仕切られています。昨日訪れた時、ボート池では多くの手漕ぎボートに混じって、足漕ぎボートのスワン型ボートも家族を乗せて所狭しと泳ぎ回っていました。
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未来

 昨日のブログで「飛行機」を取り上げましたが、実は昨日は「航空日」でした。この記念日は、ずいぶん前の1940(昭和15)年に制定されていましたが、国民にとってより親しみやすいネーミングということで、運輸省航空局(国土交通省)が1922(平成4)年に民間航空再開40周年を記念して「空の日」と改めました。そして、9月30日まで「空の旬間」が設けられています。
 どうしてこの日に決められたかというと、1911(明治44)年のこの日に、和歌山県出身の山田猪三郎が開発した山田式飛行船が滞空時間1時間で東京上空を20?ほど飛行したことを記念しているそうです。しかし、どうもそれが本当にその日かは怪しいそうですが。その日が実際はいつかであるかは別としても、ライト兄弟が世界初の飛行機を発明したのが1903年ですから、当時、空を飛ぶのが夢の時代に東京の空を1時間も飛んでいるというのは感動したことでしょうね。ただ、航空といっても飛行機ではなく、飛行船のようです。そして、この記念日は、第2次世界大戦終戦に伴い、連合軍による航空活動の禁止命令のため一時休止されましたが、昭和28年(1953年)には、復活されています。
 それから何年もたっていないのに、月に何度もいけるようになりました。昔の人は、それをどのくらい予想していたのでしょう。1895年にハーバート・ジョージ・ウェルズ(H・G・ウェルズ)が、「タイムマシン」という小説を発表して評判になっています。この小説は、日本では1913年(大正2年)に黒岩涙香が「八十万年後の社会」という題名で「萬朝報」に連載し、大好評を博しています。それにしても80万年後先とはずいぶんと先ですね。多分、タイムマシンは未来になってもできることは不可能だと思っていたのかもしれませんね。
H・G・ウェルズは、イギリスの小説家・SF作家で、「SFの父」と呼ばれています。その彼の誕生部が今日9月21日で、今日のグーグルのロゴに表わされています。彼の小説には、その後のSF作家に影響したものが多く、また、今を予言したものも多くあります。タイムマシンだけでなく、蛸型の火星人、透明人間などを初めて登場させたり、「盗まれた細菌」では、細菌をテロの道具として使うことがテーマですし、「神々の糧」では合成食品を扱っています。
今、「弥生美術館」で「S20?40’ぼくたちの未来予想図」と称して、「昭和少年SF大図鑑展」が開かれています。今日、妻と見に行ってきました。ここでは、戦後の復興期から高度経済成長期にかけて発行された沢山の少年少女雑誌の中で、子どもたちを魅了した近未来を予見したような未来予想図が展示されています。それは、誰もが自由に宇宙に行ける未来、自在に空を飛ぶ乗物や流線型の高速車が走り、超高層ビルが立ち並ぶ未来都市、何でも言うことを聞いてくれるロボット、宇宙からの侵略者や怪獣と化学兵器を駆使して戦うスーパーヒーローなどです。
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ちょうど私が小、中学生の頃で、いつか実現されるだろうということを信じて、様々な未来を空想し、夢を描いていました。
それらの夢のいくつかが実現し、昔では考えられない進歩を遂げています。しかし、そんな時代の今、子どもたちは未来に夢を持っているでしょうか。それとも、すべての夢はかなえられてしまっているのでしょうか。