最近見直されている「武士道」ですが、もともと武士とはどういう人を指すのでしょうか。二千年前の書物「春秋左氏伝」には、「楚の莊王曰く、それ武は功を定め、兵を将をさむ。故に止戈を武と為す」という言葉があります。「武」という字の由来は、「二」「戈」「止」の三つの文字の組み合わせによる「二つの戈(ほこ)を止める」と言う会意文字であるとする説が知られています。戈(ほこ)とは、いわゆる楯と矛という武器です。止(あし)とは歩くという意味で、前進をすることをいいます。ということで、戈を執って前進することを歩武といいます。
また、後漢の許慎は「説文解字」の中で「武とは撫(ぶ)なり、止戈(しか)なり。禍乱を鎮撫するなり。禍乱を平定して人道の本(もと)に復せしめ、愛撫統一することが武の本義なり」と説いています。そのような「武」という字なので、日本では昔から、聖武、桓武、孝武など天皇の名前に使われることが多かったようです。
そういうことを考えると、「武士」は、もともと戦うものという意味が強く、「武士道」というと、戦うものとしての心構えということになります。ですから、「葉隠」に見られるような「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言としてあらわされるような精神だと誤解されることもあるのでしょう。その誤解が、太平洋戦争中の特攻や玉砕や自決時に使われてしまった悲しい歴史があります。ですから、新渡戸稲造の「武士道」では、心の在り方を表したのです。
それを、江戸時代に山鹿素行が「武」という字を除いて、「士道」という言葉を用いたのかもしれません。彼の著した「山鹿語録」には、戦いのない時代において、武士は特別に生産には従事しない職分なので、どのような存在であるかを問うています。それを、「人倫の道を実現し、道徳の面で万民のモデルになるところにある」ということで、道徳の面でも教養の面でもさらに自己を深めていかなければならないとしています。
また、「山鹿語録」の四十五巻中の「士道」篇には、「ますらおは、ただ今日一日の用を全うすることを極致とすべきである。一日を積んで一月になり、一月を積んで一年になり、一年を積んで十年とする。十年がかさなって百年になる。一日はなお遠く一時にあり、一時はなお長く一刻にあり、一刻もなお余りある一分にある。このことからいえば、千万年のつとめも一分より出て、一日のうちに究まるものである。だから一分の時間をゆるがせにすれば、ついに一日に至り、終わりには、一生の怠りともなる。天地の生々は一分の間もとどまることがなく、人間の血気呼吸も一分の間も止まることがない。だから、その一瞬を大切に生きるべきである」また、「その志が正しい道に志すというものでなければ、まことの道に到達することはできない。だからこそ道に志すというのである。世馴れして物知り顔をする連中は、自己流の判断で道を定めて、そのほかの別の道はないと自分の意見にこだわると、まことの道から遠ざかって、ついには大道に入ることができない。武士の職分を知ったといっても、道に志すところがなく、また、知があっても正しい行ないが伴うのでなければ、万全とはいえない。これも最も詳しく究明しなければならないことである」とあります。
江戸時代、武士道を政治哲学にまで高めて武士の教育をしたのが山鹿素行であり、吉田松陰らに多大な影響を与えたのです。そういえば、保育士も「士道」が必要ですね。

” への4件のコメント

  1. 「どんなことも1から始まる。1ができない人は10も100もできない。だからといってどんなやり方でもいいのではなく、考え方の方向が大事。そしてその考えを支える思いも大切。」こんなことを別の業種の方から教わってきました。そんなこともあり、どんな仕事も突き詰めれば“どう生きるか”の問題にたどり着き、それを抜きにして仕事を考えることはできないのではないかと思うようになりました。士道の考え方も非常に勉強になります。保育士にも士道が必要という考えは、今後ますます重要になってくるように思っています。

  2. 選挙戦真っ只中とあって、この山の中にも遊説カーが最後のお願いを連呼して走っています。それにしても、最近の政治家に品性がなくなってきましてね。ヘベレケになって記者会見する大臣。不祥事はすぐ秘書のせいにして開き直る党首。数え上げたらきりがない。政治不信は、実は政治家不信だと思う。その昔、日本は世界に冠たる「武士道」の国であった。兵士であり、政治家でもあった侍は、武術だけでなく様々な高い教養を身につけ、民の模範だったと思う。まさしく「人倫の道を実現し、道徳の面でモデルになる」存在だったわけです。政治家だけでない、企業家も教育者も世の中を動かすすべての人々が、「武士道」の精神を体現することが、日本の国を救うことになると思う。

  3.  「武士道」言葉の響きはとても良い響きです。ただ、どういう事を武士道というのか、分かりません。イメージでは曲がった事が嫌いで、まっすぐな感じですが…。今回のブログを読んでも、なかなか理解することが難しいのが本音です。だからと言って理解しないままでいるのでなく、自分なりに噛み砕いて、少しずつ理解していこうと思いました。

  4. 「山鹿語録」の「士道」には感銘を受けます。「ただ今日一日の用を全うすることを極致とすべき」という思想の背景には、過去を悔いる、未来を憂いる、そんな時間があるなら「一意専心」で今を燃焼しなさい、との意があるように思われます。私たちは今一体何をなすべきかを真剣に考えずに過去はどうだった、未来はどう、と考えてほぼ無為に時を過ごすことが多いのでは。「正しい道に志す」という時すぐに思い浮かべるのは「多様性」や「相違性」を重んじようという機運です。私は「多様性」や「相違性」をとても重要視しています。それは広がりと深まりを伴うからです。しかし忘れてはならないことは「正しい道に志す」です。何でもいいのではありません。この「正道」をベースにした「多様性」や「相違性」でなければならないと思います。

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