JR九州の会員情報誌「旅三昧」の8月号の中の特集「ひと紀行」は吉田松陰です。そこには、松陰の簡単な生涯が書かれてあります。
ペリー来航にひと月前に二度目の江戸への旅がありました。そして、ペリー来航の話が伝わってきます。そのうわさの中で、松陰はいてもたってもいられず、佐久間象山らと実際に浦賀に出かけ、自分の目で黒船を確かめます。翌年、ふたたび来航し、日米和親条約に調印しますが、やはり松陰はじっとしてはいられません。アヘン戦争で大国・清が敗北したことを思い、松陰は、日本の危機を乗り越えるには、欧米の軍事力に何としても追いつかなければならないと考えました。そして、自ら海外へ出て欧米の実態を調査することを決意し、同郷の金子重輔と共に漁船に乗り込み、アメリカ軍艦が停泊していた下田沖へと漕ぎ出し、真夜中に軍艦の梯子に飛び乗り、アメリカ行きを頼みます。
この時のことがアメリカの新聞「センチュリー」紙にこう書かれてあったそうです。「アメリカのフリーゲート艦ミシシッピイ号が江戸湾に到着した。とある日の夕方、きりっとした身なりの気高き風貌の日本の青年が、ちっぽけな小舟を漕いで、同艦に乗り込んで来た。アメリカで勉学をしたい、船に乗せて連れて行ってほしい、これはたっての願いである、ということを、青年は非常に丁寧に懇願した」
しかし、これが叶えられず、二人は悔し泣きをしたといわれています。その時の様子を「ペリー日本遠征記」の著者ホークスは、次のように記しています。「この事件は、厳しい国法を犯し、知識をふやすために生命まで賭そうとした二人の教養ある日本人の激しい知識欲を示すものとして、興味深いことであった。日本人は確かに探究好きな国民で、道徳的・知的能力を増大させる機会は、これを進んで迎えたものである。この不幸な二人の行動は、同国人に特有のものだと信じられる。また、日本人の激しい好奇心をこれほどよく示すものは他にはあり得ない。…日本人のこの気質を考えると、その興味ある国の将来には、何と夢にあふれた広野が、さらに付言すれば、何と希望に満ちた期待が開けていることか!」
密航の企てにより、松陰は萩で蟄居を命ぜられます。それでもくじけず、猛烈に読書し、ほかの囚人たちと勉強会まで始めると、何十年もの獄生活で希望を失っていた人まで生き生きとしてきます。獄全体の雰囲気の変わりように役人たちも驚いたほどだったようです。その後、獄を出ることを許され、人物育成の教育に情熱を燃やしたのが松下村塾です。27歳の松陰は、刑死するまでのわずか2年半ほどの間に、のちに明治維新を成し遂げ、近代日本を築き上げた英傑たちを輩出することになるのです。
「冊子を披繙すれば、嘉言林の如く、躍々として人に迫る。顧うに人読まず。即し読むとも行わず。苛に読みて之れを行なわば則ち、千万世と雖も得て尽す可からず。(書物を開いてみると、立派な言葉が林のように並んでいて、人の心にはげしく迫ってくる。しかし人びとは書物を読まない。たとえ読んでもみずから実行しない。まことに書物を読んでみずから実行するのであれば、千万年あったとしても、これらすべてを実行しつくすことはできない。)
危機感を持って、非常に焦っていることがうかがえます。それほど正直に、天下を憂えていたのでしょう。
先日、吉田松陰はどんな人だったかという話を聞く機会がありました。若い頃は非常に狭い地域でしか学ばなかったそうですが、偶然にもその地で多くの素晴らしい人物との出会いがあったようです。そんなこともあり強い思いをもつようになったという話だったと思います。私は「まず強い思いをもつこと」と教わってきました。行動が大切なのは十分に承知していますが、やはりそれを支える思いは欠かせないと思っています。強い思いを持つこととそれを実行に移すことのバランスをとることの大切さを、吉田松陰の生き方から教わった気がします。
吉田松陰の一生を振り返ってみると、常識を遥かに超えた高い志に殉じたとの思いを深くします。と言えば、かっこいいですが、今から考えれば狂気の沙汰かもしれない。江戸遊学中に宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するも、藩からの関所通過書が届かないので、「友との約束は破れない」とあっさり脱藩。その罪により藩士の身分を失う。成功の確率の薄いアメリカの密航を企てたために、獄に入れられることに。最後は、幕府の老中を暗殺する計画が発覚して獄死。志のためには手段を選ばない目的至上主義とも思える彼の過激な行動と思想は、長州の若者たちを突き動かし維新回天の原動力になったことは間違いありません。今年は、吉田松陰先生没後150年。萩市では様々な記念行事が行われるそうです。
吉田松陰は歴史の教科書で知ったくらいで、実際に何をして人なのか詳しくは知りませんでした。今回のブログを読んで印象に残ったのは、吉田松陰という人物はかなりの勉強家というか、探究心がとても強い人なんですね。牢獄の中でも囚人達と勉強会をするほど、結局それが自身を大きくしたのかもしれません。「千万年あったとしても、実行しつくすことはできない」という言葉はとても考え深いと思いました。吉田松陰まで大きな存在になることは、おそらく不可能かと思いますが、考え方は見習って、もっと自分を磨いていこうと思います。
もし、生きて明治維新を迎えたとき、この吉田松陰はどういう立場で明治の時代を生きたことでしょう。吉田松陰、佐久間象山から学ぶところは大きいような気がします。それにしても米国新聞「センチュリー」や「ペリー日本遠征記」の当該記述には感動します。吉田松陰の渡米未遂を両者ともポジティブに論評しています。特に後者の「日本人の激しい好奇心」というところは私自身実に共感するところであり、ホークスの炯眼に驚くばかりです。また「人物育成の教育」のために出獄を許す長州藩の心意気、先見の明にも感銘を受けます。松下村塾が起こり、ここから維新の原動力となる人々が生れて来たことを思えば、当時の長州藩は「人材」の本来の意味がわかっていたのだろうと首肯できます。「天下を憂えていた」ことはネガティブではなくポジティブに作用した。見習いたいと思いました。