昨日のブログで紹介した宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」は、賢治が亡くなる約2年前、病床で手帳に鉛筆書きされたものです。この手帳は、「雨ニモマケズ手帳」と呼ばれていて、その存在は賢治の生前には家族にも知られておらず、その背景からも本作は未発表だったようです。この手帳が一昨年の夏に全国各地で公開されました。その前に全国公開されたのは、賢治の生誕100年を記念して95年から96年にかけてでしたので12年ぶりでした。
この手帳は自省とその当時の賢治の願望が綴られた内容となっています。この「雨ニモ…」も段によってそれぞれ願望が謳われます。第一段では、健康に対する願望です。特に手帳にこの詩を書こうと思ったのは、「昭和6年35歳 9月、炭酸石灰とその製品見本をもって上京し、神田区八幡館で発熱臥床した。このとき死を覚悟して、父母近親への遺書二通を書いたが、父の厳命によって帰宅し、病床生活に入った。11月3日、手帳に「雨ニモマケズ」を書いた。」とあるように花巻の実家に戻って闘病中だったからかもしれません。何をするにしても、どんな願いを持ったとしてもまず体が丈夫でないといけないのです。そして、この「雨にも風にも雪にも夏の暑さにも負けない丈夫な体というのは、精神的な意味でもそれに負けない健康な心も持つことの必要性を自分に言い聞かせているのでしょう。
最近、出版界やテレビなどで活躍している経済評論家の勝間和代氏は、左右の銘として「三毒」を挙げます。彼女のブログには「仏教の三毒とは“妬む”“怒る”“愚痴る”でして、この3つをすることを、戒めています。自分のツキをよくするためには、この3つの毒を追い出して、“妬まない”“怒らない”“愚痴らない”を心掛けるわけです。昔は紙に大きく印刷して貼っていたのですが、最近ちょっと気持ちがおろそかになっていたので、また、心掛けたいと思います。」と書かれてあります。しかし、この内容についてはずいぶんと異論があるようです。それは、仏教でいう「三毒」は少しニュアンスが違っているからです。仏教でいう三毒とは「貪・瞋・痴」であるとし、とくに痴とは、愚痴ることでなく、物事を正しく認識したり判断したりできないこと。愚かであることです。賢治は、「雨ニモ…」の2段目でこの三毒を越え、自己を滅却して、仏の知恵を授かりたいという願いが謳われています。このころ賢治は、熱心な法華経信徒であり、煩悩の三毒から解毒された状態を理想とする行者としての賢治の願いだったのです。
三段では、生・病・老・死の四苦に苦しむ人々への癒しに身を投じ、ともに歩みたいという願いが書かれてあります。そして、最後の段になってはじめて今までの主語が「私」であることが分かるのです。そして、死を目の前にしながらも壮絶な人生への歩みが願いとして歌われます。馬鹿にされようと、相手にされまいと、われ一人ただ真っ直ぐに歩み続けたいと願うのです。菩薩道を求めての賢治の生涯は終わりに近づくにつれ、その求め方はいよいよ激しくなっているのです。
この「雨ニモ…」は、悟ったように穏やかである半面、ひとりでも自分は進んでいくといった気概を私は感じます。
病床で書かれたのが「雨ニモマケズ」だったんですね。それを想像して読むと宮沢賢治の思いをより強く感じます。健康な体と健康な心。このバランスが上手く取れているのが理想なのですが、そうでないときの方が圧倒的に多いです。健康な体と健康な精神のバランスをとるのは、実はすごく大変なことなのではないかと、最近ようやく分かってきました。バランスが悪いときにどう調整していくか。それが「いかに生きるか」ということにもつながっていくのではと思っています。
宮沢賢治は天台宗学による法華経信仰を貫いた人ですが、「貪・瞋・痴」の「三毒」の捉え方は宗派によって異なります。日蓮の御消息文(信徒への書簡)には、『減劫の時は小の三災をこる、ゆわゆる飢渇・疫病・合戦なり、飢渇は大貪よりをこり・疫病は愚痴よりをこり、合戦は瞋によりをこる』とあります。末法は三毒強盛の民衆が多いので、社会も国土も乱れるという思想です。天台宗では個人の精神修養的な側面の強かった「三毒」論が日蓮に至って、「立正安国」という宗教による社会変革運動の根拠に大きく飛躍したということです。
以前、「雨ニモマケズ」というキャッチフレーズの窓のコマーシャルを見ました。その時は何も思いませんでしたが、宮沢賢治が書いた物なんですね。やっと繋がりました。つくづく自分の教養の無さを情けなく感じました…。
「雨ニモマケズ」は宮沢賢治が、病気の時に書いたとブログを読んで知り、それだけ文学への情熱があり、そして丈夫な体、健康な心がないと何も出来ない。丈夫な体は分かりますが、健康な心というのは…勝間和代さんの左右の銘の「三毒」が無いことが、健康な心だと、私は思います。確かにそんな気持ちがあると、物事にも集中できないし、何も上手くいかない気がします。
残念ながら「三毒」に冒されている私ですから、宮澤賢治先生の言葉は地獄の業火の如く熾烈です。私の「三毒」をも焼き尽くしてくれるか。宮澤賢治先生の生きていた時代の岩手は「なめとこ山のくま」や「グスコーブドリ」の世界さながらの状況、あるいはそれ以上に凄惨を極める現実がそこにはあったようです。その状況に直面して賢治先生は何をしたか。岩手の農民が真に理想郷イーハトーブの住人であるように実に具体的な方法を用いました。精神論を唱えるだけの説教師ではなかった。田んぼの稲が育つための肥料作りや農民がより高い理想を掲げて仕事に従事できるための哲学を分かりやすく説き、そしてその農民と共に汗し涙した。「雨ニモマケズ」の詩はそれ以上でもそれ以下でもない賢治先生の思いを文字化しています。そして「犀の如くひとり行け」というお釈迦様の教説を実践しました。昭和の「上行菩薩」に他なりません。