« 2009年07月 | メイン | 2009年09月 »

2009年08月31日 近頃思うこと

待機児

 国では政権が代わりましたが、これからどんな政策が実行されていくのでしょうか。特に、子どものことに関してもマニフェストに表されていましたが、どうでしょうか。しかし、今までの少子化対策ではありませんが、その現象を正しく分析しないと、効果が上がらないだけでなく、逆の結果になってしまいかねません。
今、子どもが乳児のころから保育園に入れたいと思う人が増えました。その理由は、最近の不景気で働こうとする人が増えたからであるという考えが多いような気がします。また、最近の若い人は、育児が負担になり、人に預けようとする人が増えたからであるともいわれます。確かにそれらの理由もあるでしょう。しかし、私はどうも少し違うような気がします。その分析の背景には、「子どもは親が育てるのがベスト」であるという考えがありますが、はたしてそうでしょうか。
人は、社会の中で生きています。社会の中でそれぞれがそれぞれの役目を担って生きています。その人としての営みを子どもたちは学んでいきます。それが「生きる力」とも言える部分でしょう。「生きる力」というのは、無人島でサバイバルで生き抜く力ではなく、社会の一員として自分の役割を発揮できるような学びのことをいうような気がします。この営みを「生きる力」というのであれば、人は生まれながらにしてその力が備わり、その力を育てていこうとします。新生児が、自分の声と他児の声を聞き分けていることも分かってきています。
赤ちゃんが寝がえりを始める前に、動いているものを目で追い、音のするほうに顔を向けるという時期があります。そのときには、電池で動くものではなく、風が吹くとゆったりと動くようなモビールのような物を天井からぶら下げたり、風が吹くと美しい音色を奏でるウインドサウンドをぶら下げたりすることで、赤ちゃんの発達を促すと思っていました。しかし、実際に赤ちゃんを見ていると、動くものを目で追う時に、その対象として近くをよちよち歩く他児を目で追ったり、隣で寝ている他児が手足を動かしているのをじっと見ていることが多いのです。音にしても、他児が近くで何か音を立てるとそのほうに顔を向けます。この様子を見ていると、人は自分より強い他の生物が近付いてくることをいち早く察知するために、動きや、音に敏感になり、それが何かを見るためにそちらのほうに顔を向けるようになるのだという気がします。
しかし、少子社会では、家庭の中で自分以外で動いているものは親だけになります。赤ちゃんにとっては、親が動いている姿は速くて目で追うことができないのです。ですから、この時期に他の子どもと一緒にいることが必要になってきます。また、赤ちゃんは、ほかの子どもが遊んでいるのをじっと見つめています。それは、自分で遊ぶ時のために見て学んでいるのです。そして、その遊んでいるものが欲しくなり手を出します。しかし、まだまだものを取り合い、もめます。そこで大人が別の同じものを渡そうとしても、子どもは他児が遊んでいるものが欲しくてぐずることがあります。
これらは、社会の一員になるために、子どもが次第に他とのかかわりを学んでいく姿であると思います。子どもは、赤ちゃんの時から、いろいろの人の中で、他の子どもとのかかわりの中で生きる力を学んでいっているのです。このように、人は小さいころからある時間、子ども集団の中で生活することが必要であり、私は最近、その体験をするために母親は24時間ずっと子どもと二人だけで過ごすことが困難になるようにできているのではないかと思います。最近、兄弟が少なく、地域にも子どもが少なく、他児とかかわりが持てない少子社会では、親は、子どもが乳児のころから子ども集団に入れようという思いを持ちます。それが待機児を生むという状況になるのではないかという気がしています。

投稿者 fujimori : 20:39 | コメント (4)

2009年08月30日 近頃思うこと

テレビ

「ヨミダス歴史館」という法人(教育機関、公共図書館、官庁、一般企業など)向けのサービスがあります。この利用は月額固定料金ですが、明治7(1874)年の創刊号から最新号まで1000万件以上の記事が検索・閲覧できる、日本で初めてのオンラインデータベースです。読売新聞東京本社が今年の2月に、明治・大正・昭和の新聞紙面をネットで検索できるオンラインデータベース「ヨミダス歴史館」のサービスを開始したと発表しました。今までもCD-ROMやDVDによる紙面データベース「明治・大正・昭和の読売新聞」では、検索ができました。また、1986年(昭和61年)以降の記事は、テキストデータベース「ヨミダス文書館」が販売されています。今回、2つのデータベースを統合したものです。
NHKにもNHKアーカイブスというものがあります。2003年2月1日にNHKのテレビ放送開始50周年記念事業として、埼玉県川口市の複合施設「SKIPシティ」内に開設された施設で、NHKが保有している映像・音源などについて、その時代を映し出した様々な記録を後世の代まで広く伝えていこうということで開設されました。NHKのテレビ・ラジオ番組等の膨大な量の映像・音声素材を収蔵しており、また全国のNHK各局と専用回線で結ばれ、素材を伝送することにより番組制作へ活用できるようになっています。また、NHKの映像ライブラリーは全国各地の放送局など52箇所でも「NHK番組公開ライブラリー」としてオンラインで視聴することができます。
民間初のテレビ局である日本テレビが開局したのは、56年前の8月28日です。開局した日のことは以前のブログで書きましたが、最初の番組は、当時の吉田首相などが出席して行われた開所式の実況放送です。読売新聞の「ヨミダス歴史館」には、開所式の慌ただしい準備の様子を伝えている新聞記事が紹介されています。「スタジオ内庭では雨中八百坪のテントを張って開局式場の支度に夜を徹し、式場にはテレビカメラ二台、受像機十台のすえつけも完了した」
また、正力松太郎社長が「明るくたのしいプログラムを提供致しますが、何分受像機が高価なためいますぐ多数の家庭にそなえることは困難であるのでまず大型の受像機を街頭の各所に進出させてテレビを大衆の中にとけこませ、しだいに各家庭に普及させていきたいと思う」と発言しています。この言葉の通り、確かに当時のテレビはとても高価で、なかなか一般の家庭では購入することが困難でした。当時、国家公務員の初任給(大卒程度)が9000円程度でしたが、国内メーカーであるシャープがいち早く開発・発売していましたが、価格は、14インチで17万5000円ですから、ずいぶんと高いですね。ですから、社長のあいさつの中では、すぐに一般の家庭に普及するという抱負ではなく、「街頭テレビ」によってアピールしていくと言っています。
その通りに、翌年には東京都内その他で144台の街頭テレビを公開したそうです。その街頭テレビの前に多くの人が集まって熱中した番組は、力道山がシャープ兄弟を空手チョップでなぎ倒していた姿でした。そのほかにもプロ野球、プロボクシング、 大相撲など、 特に話題のスポーツ中継がある日には、 都心で都電が止まり、窓ガラスが割れ、 百貨店の床が抜けるほどの大混乱を引き起こしたほどです。
昨日から、その日本テレビでは24時間テレビが放送されていますし、選挙速報では大いにテレビがその機能を発揮しています。ずいぶんと進んできたものですね。

投稿者 fujimori : 22:12 | コメント (4)

2009年08月29日 記念日

選挙

今日から、このブログも5年目に入ります。
今から56年前の昨日の28日午前11時20分に民間放送初のテレビ本放送が開始されました。「JOAX-TV、こちらは日本テレビでございます」の第一声とともに始まった日本テレビでは、その2年後の55年、第27回衆議院総選挙で開票速報の放送を開始しました。取材レポートや政局討論会などが組み込まれ、リアルタイムの政治情報が茶の間に送られるようになったのです。
この時の選挙は、とても興味深いものがあります。それまでの内閣は1953年に、吉田茂首相が衆議院予算委員会において放った失言をきっかけに、衆議院において内閣不信任案が上程され、直ちに衆議院を解散(バカヤロー解散)したのちに誕生した第5次吉田内閣です。しかし、総選挙で過半数を獲得できなかった自由党は、改進党と保守連立を模索したが合意に達せず、少数与党でスタートしました。しかし、この吉田内閣は、造船疑獄の発覚と保守内紛で弱体化し、1954年に総辞職し、長期の「吉田政治」に終止符が打たれたのです。
そして、行われたのが第27回衆議院総選挙で、初めて日本テレビで開票速報が放送されたのです。その結果、日本民主党の鳩山一郎を首班とする第1次鳩山内閣が成立しました。この時の投票率は、男79.95%、女72.06%、計75.84%でした。この選挙だけが特別高かったわけではありませんが、今と比べるとずいぶんと選挙に対しての国民の意識が高かったことがうかがわれます。しかし、この選挙で、日本民主党だけでは衆議院で過半数に足りなかったため、首班指名選挙では左右両社会党の支持をもって首班指名を受けた。その際の見返りとして、鳩山は左右社会党に対して早期解散の約束をしたのです。
解散のときには、今のようになんとなく尻つぼみで消えていくのではなく、いろいろなドラマがありました。吉田内閣時代には、「馴れ合い解散」「抜き打ち解散」「バカヤロー解散」といわれるようにとてもワンマン的な解散の仕方が多かったのです。それに対して、当時の第1次鳩山内閣では、私からすると「約束解散」だと思うのですが、解散が行われた瞬間によって、違うイメージを国民に植え付けました。1955年1月24日、衆議院本会議場では政府三演説に対する代表質問が行われていた最中に突然、「ただいま内閣総理大臣から詔書が発せられた旨伝えられましたから、これを朗読いたします」と告げ、突然解散となったのです。約束され、いつ解散するのか待ちわびていた与党民主党と左右両社会党の議員たちは興奮の渦に巻き込まれたのです。
その時のことを後で新聞記者に鳩山が「なぜこの日に」と聞かれたことに対して、淡々と「天の声を聞いたからです」と答えた態度が、今までの吉田内閣の解散と違って、確実に新風を吹き込んでいるというイメージを与えたのです。ですから、そののち、「鳩山ブーム」が沸き起こるのです。しかも、鳩山の陽性の人柄と、政権掌握間近にGHQによって公職追放となったことや、病魔に倒れた悲運に対する同情が集まり、次の選挙では、民主党の候補者に票が集まったのです。
今日という日に、こんなことを振り返るとは、なんだか、不思議な気がします。

投稿者 fujimori : 22:34 | コメント (5)

2009年08月28日 近頃思うこと

夏の終わりの朝顔

 朝顔市から始まった今年の夏、そろそろ終わりに近づいてきました。私は、このころの季節はあまり好きではありません。カラダ的には、とても気持ちのよい、さわやかな季節です。しかし、夏休みで子どもたちが街にあふれ、暑いと言いながら汗びっしょりになり、そんなときに下着を着替えるとか、シャワーを浴びる気持ちよさ、なんだか私は汗かきなのに、汗がだらだら出ると体の毒が出ていく気がします。そんな季節を過ごしていると、ふと冷たい風が体をよぎります。暑い夏の中に、秋の気配を感じます。すると、私はなんだか不安になります。
「秋でもないのに、人恋しくて 寂しくて黙っていると …」ではありませんが、人恋しく、寂しくなるのが秋です。というよりも、長い受験時代のせいか、受験が近付くような、何かやり残しが多いような、準備不足のような不安な気持ちがよぎるのです。夏というのは、開放的で、仕事も予定があまり入っていないので、溜まった仕事を片付けようと思っていたのが、ほとんど片付いていず、夏の間に何をしていたのだろうと思ってしまいます。夏休みの宿題がいっぱい残ってしまって、新学期の始業式が近付いて焦っている子どものような気分です。
 そんな夏の終わりも朝顔です。園の隣のうちには、今の時期には「チョウセンアサガオ」の花が咲きます。
tyosenasagao.jpg
いつもは鈴なりですが、なぜか今年は花が少なく、しかも咲いたのがいつか気がつかないほど早かった気がします。この朝鮮朝顔は、ナス科の植物で、園芸用にはダチュラの名で広く知られていますが、マンダラゲ(曼陀羅華)とか、キチガイナスビなどと呼ばれることもあります。最近は、エンジェルズ・トランペットという名前で売られているのを見かけます。原産地は南アジアの外来種として帰化・野生化したものが見られます。
この花は、仏様が説法するとき、天から降りてきて人の心に喜びを感じることができる花といわれる四つの花(四華:曼陀羅華・摩訶曼陀羅華・曼珠沙華・摩訶曼珠沙華)のうちの一つといわれています。日本へは、江戸時代・明治時代に薬用植物としてもたらされたとされます。この花の名前がキチガイナスビといわれるのは、奇妙な形ということではなく、薬用植物ではあるのですが、使い方によっては毒性も著しく強いからです。ベラドンナやハシリドコロなどと同様にアトロピンを含んでおり、過去には鎮痙薬として使用されました。少し前に、オウム真理教が「ダツラの技法」と称して信者を洗脳、自白させるための薬物原料にこの種類を使ったことで印象が悪くなり、気の毒な話です。
しかし、日本麻酔科学会のシンボルマークにこの花が採用されているほど、重要な役割も持った花です。それは、世界初の全身麻酔手術に成功した江戸時代の医学者、華岡青洲が精製した麻酔薬がこの種を主成分としていたのです。華岡青洲は、ダチュラを主成分とする内服全身麻酔薬「通仙散」を完成させ、日本最初の全身麻酔による乳癌摘出手術に成功したこと、その開発までのエピソードなどが有吉佐和子の小説「華岡青洲の妻」に描かれており、数々の舞台や映画などで上演されています。この話は、次のブログで取り上げるほどとても興味深いものがあります。

投稿者 fujimori : 23:48 | コメント (4)

2009年08月27日 新聞記事より

サミット

 今月の26日のニュースで、フランスのサルコジ大統領が、各国に派遣した大使を大統領府に集めた恒例の外交演説で、フランスが主要国(G8)首脳会議の議長国となる2011年から同会議をG14に拡大する意向を示したことが流れました。G8サミットとは、日、米、英、仏、独、伊、加、露8か国の首脳及びEUの委員長が参加して毎年開催される首脳会議です。この8か国を14か国にしたいという提案です。新たに加わる国はどこかということには言及していませんが、プラス中国、インド、ブラジル、エジプト、メキシコ、南アフリカなどが候補とみられます。サルコジ大統領はこれまでも、サミット参加国の拡大を唱えてきていますが、具体的な日程を示したのは初めてです。大統領は演説で、中国など新興国を正式メンバーとしないサミットは「不十分だ」とした上で、来年カナダで開かれるサミットで拡大の道筋を詰め「11年、フランスが議長国を務める際にG8からG14への完全移行を達成したい」と言明しました。
 昨年夏、日本の洞爺湖で行われたサミットの記念写真を見て、アジアから唯一のサミット参加国ということをきっと誇りに思っているだろうということがうかがわれます。ですから、このサルコジ大統領の提案に日本は難色を示すであろうと思っていましたら、やはりそのようです。
この会議では、経済・社会問題を中心に国際社会が直面する様々な課題について、非公式かつ自由闊達な意見交換を通じて物事を決定し、その成果が宣言としてまとめられます。また、サミットには他の国際的なフォーラムと異なり事務局がありませんが、それぞれの国で総合的・横断的に様々な分野を総覧する立場にある首脳がトップダウンで物事を決めるため、適切な決断と措置を迅速に行うことが可能になります。この会議への参加国も時代によって変わってきたようです。
第1回首脳会議はジスカール・デスタン仏大統領(当時)の提案により、1975年11月、パリ郊外のランブイエ城において、日、米、英、仏、独、伊の6か国によって開催されました。その後、76年のプエルトリコ会議からはカナダが参加し、77年のロンドン会議からは欧州共同体(EC)(現在は欧州連合(EU))の欧州委員会委員長が参加するようになりG7となりました。そして、2003年のエビアン・サミット以降は、ロシアを「世界経済」に関するセッションを含め、完全に全ての経済協議に参加させる、「完全G8化」で合意しました。
このようなサミットを見習って、様々なサミットが行われています。今月24日には、東北6県の知事が論議する「東北サミット」が、今年のテーマ「東北の文化戦略」ということで行われました。また、G8サミットで議論される政治や経済の問題は世界中の子どもたちにも大きな影響を与えるということで、2005年からG8で取り上げられる国際問題を子どもたちの視点で話し合う「Junior8(ジュニア・エイト)サミット」がスタートしました。世界を代表する首脳陣に対し、子どもたち自身が貧困や教育などの子どもに関わる問題を解決するための提言を行うのですが、参加者は、ユニセフが主催するコンテストを通じて選ばれます。
今日と明日は、新宿で「GTサミット」が行われています。
samitto2009.jpg
日本中の園長たちが70名ほど集まって、これからの新しい保育を考えようというテーマのもと熱心に話し合われました。園で総合的・横断的に様々な分野を総覧する立場にある園長がトップダウンで物事を決めるため、適切な決断と措置を迅速に行うことが可能になることを信じます。

投稿者 fujimori : 23:47 | コメント (5)

2009年08月26日 近頃思うこと

 最近見直されている「武士道」ですが、もともと武士とはどういう人を指すのでしょうか。二千年前の書物「春秋左氏伝」には、「楚の莊王曰く、それ武は功を定め、兵を将をさむ。故に止戈を武と為す」という言葉があります。「武」という字の由来は、「二」「戈」「止」の三つの文字の組み合わせによる「二つの戈(ほこ)を止める」と言う会意文字であるとする説が知られています。戈(ほこ)とは、いわゆる楯と矛という武器です。止(あし)とは歩くという意味で、前進をすることをいいます。ということで、戈を執って前進することを歩武といいます。
また、後漢の許慎は「説文解字」の中で「武とは撫(ぶ)なり、止戈(しか)なり。禍乱を鎮撫するなり。禍乱を平定して人道の本(もと)に復せしめ、愛撫統一することが武の本義なり」と説いています。そのような「武」という字なので、日本では昔から、聖武、桓武、孝武など天皇の名前に使われることが多かったようです。
そういうことを考えると、「武士」は、もともと戦うものという意味が強く、「武士道」というと、戦うものとしての心構えということになります。ですから、「葉隠」に見られるような「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言としてあらわされるような精神だと誤解されることもあるのでしょう。その誤解が、太平洋戦争中の特攻や玉砕や自決時に使われてしまった悲しい歴史があります。ですから、新渡戸稲造の「武士道」では、心の在り方を表したのです。
それを、江戸時代に山鹿素行が「武」という字を除いて、「士道」という言葉を用いたのかもしれません。彼の著した「山鹿語録」には、戦いのない時代において、武士は特別に生産には従事しない職分なので、どのような存在であるかを問うています。それを、「人倫の道を実現し、道徳の面で万民のモデルになるところにある」ということで、道徳の面でも教養の面でもさらに自己を深めていかなければならないとしています。
また、「山鹿語録」の四十五巻中の「士道」篇には、「ますらおは、ただ今日一日の用を全うすることを極致とすべきである。一日を積んで一月になり、一月を積んで一年になり、一年を積んで十年とする。十年がかさなって百年になる。一日はなお遠く一時にあり、一時はなお長く一刻にあり、一刻もなお余りある一分にある。このことからいえば、千万年のつとめも一分より出て、一日のうちに究まるものである。だから一分の時間をゆるがせにすれば、ついに一日に至り、終わりには、一生の怠りともなる。天地の生々は一分の間もとどまることがなく、人間の血気呼吸も一分の間も止まることがない。だから、その一瞬を大切に生きるべきである」また、「その志が正しい道に志すというものでなければ、まことの道に到達することはできない。だからこそ道に志すというのである。世馴れして物知り顔をする連中は、自己流の判断で道を定めて、そのほかの別の道はないと自分の意見にこだわると、まことの道から遠ざかって、ついには大道に入ることができない。武士の職分を知ったといっても、道に志すところがなく、また、知があっても正しい行ないが伴うのでなければ、万全とはいえない。これも最も詳しく究明しなければならないことである」とあります。
江戸時代、武士道を政治哲学にまで高めて武士の教育をしたのが山鹿素行であり、吉田松陰らに多大な影響を与えたのです。そういえば、保育士も「士道」が必要ですね。

投稿者 fujimori : 23:23 | コメント (4)

2009年08月25日 近頃思うこと

松陰

JR九州の会員情報誌「旅三昧」の8月号の中の特集「ひと紀行」は吉田松陰です。そこには、松陰の簡単な生涯が書かれてあります。
ペリー来航にひと月前に二度目の江戸への旅がありました。そして、ペリー来航の話が伝わってきます。そのうわさの中で、松陰はいてもたってもいられず、佐久間象山らと実際に浦賀に出かけ、自分の目で黒船を確かめます。翌年、ふたたび来航し、日米和親条約に調印しますが、やはり松陰はじっとしてはいられません。アヘン戦争で大国・清が敗北したことを思い、松陰は、日本の危機を乗り越えるには、欧米の軍事力に何としても追いつかなければならないと考えました。そして、自ら海外へ出て欧米の実態を調査することを決意し、同郷の金子重輔と共に漁船に乗り込み、アメリカ軍艦が停泊していた下田沖へと漕ぎ出し、真夜中に軍艦の梯子に飛び乗り、アメリカ行きを頼みます。
 この時のことがアメリカの新聞「センチュリー」紙にこう書かれてあったそうです。「アメリカのフリーゲート艦ミシシッピイ号が江戸湾に到着した。とある日の夕方、きりっとした身なりの気高き風貌の日本の青年が、ちっぽけな小舟を漕いで、同艦に乗り込んで来た。アメリカで勉学をしたい、船に乗せて連れて行ってほしい、これはたっての願いである、ということを、青年は非常に丁寧に懇願した」
 しかし、これが叶えられず、二人は悔し泣きをしたといわれています。その時の様子を「ペリー日本遠征記」の著者ホークスは、次のように記しています。「この事件は、厳しい国法を犯し、知識をふやすために生命まで賭そうとした二人の教養ある日本人の激しい知識欲を示すものとして、興味深いことであった。日本人は確かに探究好きな国民で、道徳的・知的能力を増大させる機会は、これを進んで迎えたものである。この不幸な二人の行動は、同国人に特有のものだと信じられる。また、日本人の激しい好奇心をこれほどよく示すものは他にはあり得ない。…日本人のこの気質を考えると、その興味ある国の将来には、何と夢にあふれた広野が、さらに付言すれば、何と希望に満ちた期待が開けていることか!」
 密航の企てにより、松陰は萩で蟄居を命ぜられます。それでもくじけず、猛烈に読書し、ほかの囚人たちと勉強会まで始めると、何十年もの獄生活で希望を失っていた人まで生き生きとしてきます。獄全体の雰囲気の変わりように役人たちも驚いたほどだったようです。その後、獄を出ることを許され、人物育成の教育に情熱を燃やしたのが松下村塾です。27歳の松陰は、刑死するまでのわずか2年半ほどの間に、のちに明治維新を成し遂げ、近代日本を築き上げた英傑たちを輩出することになるのです。
「冊子を披繙すれば、嘉言林の如く、躍々として人に迫る。顧うに人読まず。即し読むとも行わず。苛に読みて之れを行なわば則ち、千万世と雖も得て尽す可からず。(書物を開いてみると、立派な言葉が林のように並んでいて、人の心にはげしく迫ってくる。しかし人びとは書物を読まない。たとえ読んでもみずから実行しない。まことに書物を読んでみずから実行するのであれば、千万年あったとしても、これらすべてを実行しつくすことはできない。)
 危機感を持って、非常に焦っていることがうかがえます。それほど正直に、天下を憂えていたのでしょう。

投稿者 fujimori : 21:35 | コメント (4)

2009年08月24日 近頃思うこと

ひと紀行

 九州新幹線「つばめ」に乗って車内誌を見ました。よくブログで紹介するのが、飛行機の機内にある機内誌です。また、東海道、東北新幹線の車内誌です。同様に、JR九州には、「Please」という車内誌と、JR九州が発行している会員専用情報誌「旅三昧」があります。この「旅三昧」を、今回水俣で何冊かいただきました。その中で読み物としての特集に「ひと紀行」というものがあり、8月号では「吉田松陰」が取り上げられています。
 幕末に活躍した薩長の志士たちで、薩摩では「郷中教育」という師はいないで、青少年同士の学びあいの教育でしたが、長州では松下村塾で多くの弟子たちに影響を及ぼしたのが、この吉田松陰です。彼は、6歳のころに兵学師範の家であった吉田家の養子になります。そして「山鹿流兵学」を必死に学び、11歳にして藩主・毛利敬親の前で講義をしています。この講義は大成功し、藩主は松陰の非凡さに驚き「将来は素晴らしい兵学者になるだろう」と周囲に話すほどだったといわれています。実際、19歳で独立師範になり、22歳で山鹿流兵学で最も高い地位の免許を手にしています。
 この山鹿流兵学の始祖は山鹿素行です。彼は、会津に生まれています。先日、天地人つながり巡りで会津を訪れた際に、直江兼続屋敷跡に行ってみたら、その同じ場所に「山鹿素行誕生の地」という碑もたっていました。そして、その書は東郷平八郎が書いたものでした。
sokohi.JPG
しかし、彼は6歳のときに父親に従って江戸に出て、9歳のとき大学頭を務めていた林羅山の門下に入り朱子学を学び、15歳からは小幡景憲・北条氏長の下で兵学を、廣田坦斎らに神道を、それ以外にも歌学など様々な学問を学んだようです。
 彼はいろいろな大名から招かれますが、赤穂藩主浅野長直に仕えます。そして8年後には赤穂藩を致仕し、再び江戸で講義をします。そして、古学を提唱し、朱子学の観念論化を批判して「聖教要録」を著したため、幕府に忌まれ、翌年赤穂藩に配流されてしまいます。そのときに赤穂義士の大石内蔵助の年齢は、多感な8歳から17歳で、門弟でもあったわけですから、吉良邸の討ち入りには思想的に影響しているといわれるゆえんでしょう。
 その後、許されて江戸へ戻り兵法を教え、吉田松陰等に影響を与えたのです。新渡戸稲造の「武士道」が最近また注目を浴びていますが、この本はもともと「Bushido, the Soul of Japan」という英文で発表されたもので、「日本人の心」を表したものです。武士というと、どうしても刀を持って、斬り合いをする人というイメージがありますが、江戸時代は、もう戦いはなく、戦うものとしての武士の存在は必要でなくなりました。そこで、「武士の生き方」が問われることになったのです。このように儒教によって理想化された武士の生き方を、従来の「武士道」にたいして、とくに「士道」と呼ぶのですが、この士道の形成に最も力をつくしたのは山鹿素行なのです。これによって初めて、儒教的な「仁義」「忠孝」などの倫理が、武士に要求される規範とされるようになったのです。すなわち、「武力を持った武士」という「武道」から、「教養のある武士」ということで人格的に優れており、国民の模範となる存在を目指した「士道」に代わっていったのです。
彼は、1685年に63歳で亡くなりますが、墓は、園から歩いてもいけるところにある曹洞宗の宗参寺にあります。
sokohaka.jpg

投稿者 fujimori : 23:00 | コメント (5)

2009年08月23日 講演先にて

つばめ

「つばめ」のロゴマークといえば、旧国鉄のシンボルマークです。1930年(昭和5年)10月、東海道本線の東京駅から神戸駅までの間で運転を開始した特急が「燕」でした。その後、1930年(昭和5年)~1943年(昭和18年)と、1950年(昭和25年)~1975年(昭和50年)の間、国鉄には「燕」・「つばめ」の愛称を持つ特急列車が運行されており、戦前・戦後を通じ国鉄を代表する特急列車の愛称とされてきた、伝統ある列車名です。とくに、1964年(昭和39年)の東海道新幹線開業以前は東海道本線の特急であり、長年にわたって国鉄を代表する名門列車とされてきたのです。
現在のプロ野球球団東京ヤクルトスワローズの前身は、国鉄の外郭団体である財団法人鉄道協力会を中核として、財団法人鉄道弘済会、日本通運、日本交通公社などの企業により設立された「国鉄野球株式会社」の運営する「国鉄スワローズ」だったので、当時の国鉄特急である「つばめ」にちなんで、愛称名をスワローズとしました。その後、産経新聞に譲渡されてから鉄腕アトムに因んでチーム名を「アトムズ」と改称したのですが、再度ヤクルト本社へ譲渡されてしばらくして、虫プロダクションが倒産してしまい、アトムのキャラクター使用を取りやめたので、また元の「スワローズ」へ戻して現在に至っています。
このツバメのシンボルマークは、国鉄バスの側面にも描かれており、現在のJRバスグループでもこれを踏襲して、バスの車体にツバメを模したデザインのマークが描かれています。また、この由緒ある「つばめ」という列車名が、2004年(平成16年)3月以降、九州旅客鉄道(JR九州)が九州新幹線で新八代駅・新水俣駅・川内駅 ・ 鹿児島中央駅間を運行している新幹線列車の愛称として使われています。今回、この新幹線を利用して水俣まで行きました。また、シンボルとしてのツバメは、JR九州では、鉄道車両を飾るワンポイントとして、一般用から特急用に至るまで広く使用しています。
tubame.jpg
今回乗車した新幹線「つばめ」は、いくつか工夫や新しい取り組みが見られます。800系新幹線で、その鉄道車両で2005年度のグッドデザイン賞を受賞しています。商品デザイン部門で公共交通関連機器・設備においてです。
まず、乗って驚いたのが、後ろから目に入るのが座席の背です。その背は高く後ろからだと頭が見えません。しかも、妻面にクスノキが使われています。
tubamezaseki.JPG
座席にすわるとシートは、西陣織のモケットです。頭を後ろに着けると、座高が高い私でも十分と頭を休めることができる高さですし、その弾力をやさしく頭を支えます。また、座席のアームの部分やアームから取り出すテーブルも背と同じクスノキで作られています。
tubametukue.JPG
また、前の瀬戸の間は割と広く取られており、パンフレット袋の素材は黒い革です。そして、日よけのブラインドも木製で、それら木材にはすべて不燃処置が施されているそうです。
tubameburaindo.JPG
資料によると、座席の基部も木製なのは、座席の重量を大幅に軽量化することにより3両1ユニット化によって増えた軸重を軽減するという目的もあるそうです。そして、1、5号車の新八代駅寄りには、車椅子スペースとバリアフリー対応トイレが設けられており、出入り台の壁は柿渋色、客用ドアは古代漆色という伝統色が使われていて、手すりや握り棒は熊本産のサクラ材が使用されています。そして、トイレはサクラ材の手すりで温かさを感じますし、洗面室には八代のイグサの縄のれんがさがっています。
tubame2noren.JPG
全体的に日本の「和」を基本コンセプトとして、伝統の技が随所に光り、独自の意匠が施されています。
いろいろなところで、和の伝統が見直されてきています。

投稿者 fujimori : 23:41 | コメント (4)

2009年08月22日 講演先にて

もやい

 様々な取り組みには共通点があります。特に、人を対象にするような取り組みにはほかの分野にも通じるような、ほかの分野に参考になるようなことがあります。
水俣病からのイメージを逆転発想し、地域環境を再生して成功した水俣では、とても面白い活動がいくつかあります。そのひとつに「村丸ごと生活博物館」があります。自分たちの暮らしを案内するのは、8名の生活学芸員、山菜とりや野菜作りなどにいそしむ15名の生活職人が、この町のあるもの探しの研修を受けます。自分の家、家まわり、集落のことなど自分たちの暮らしを調べていきます。地域にあるものを探して、確認していくのです。あるものを写真で撮り、「この草木は何と呼んでいるの?」「何に使うの?」というように外の人があるものに驚いて質問することによって、この集落の持っている暮らしの力を引き出していこうというものです。この試みは、元気な街づくりが目的で、外からいろいろな人が訪れるようになり、村人たちは住む誇りを持ち、自信も出てきたそうです。この取り組みが認められ、2005年に「第4回豊かなむらづくり全国表彰」農林水産大臣賞を受賞しています。
水俣再生は「もやい直し」といいます。「もやい」とは、「もやい結び」という紐の結び方を思い浮かべますが、もやいの意味は、もともと船をつなぐことや一緒に何かをするという意味があります。そこで、水俣では、人と人との関係、自然と人との関係が壊れてしまった地域の中で水俣病と正面から向き合い、対話し協働する取り組みを「もやい直し」と名づけました。そのために誰でも気軽に集まり、利用できる施設が水俣・芦北地方に3ヶ所建設されました。今回は、そのひとつの「もやい館」での講演でした。
moyai.JPG
吉本さんの著書「地元学って何だろう」の中で、吉本さんはこのもやい直しの四つの原則を挙げています。「人それぞれの違いを認め合い」「人と人の距離を近づけ」「話し合い」「対立のエネルギーを、創造するエネルギーに転換する」です。この四つの原則は、私は組織の在り方でもいえることのような気がします。今、質の向上に競争原理を入れることといわれることがありますが、それは教育、福祉分野では逆に質の低下を招いていることは既に証明されています。それよりも「協同」「協力」であるといわれていますが、その協同、協力とはどういうことかというと、上にあげた四つの原則が当てはまると思います。
地元学は、三つの元気を作ることとしています。一つ目は人が元気になることです。そして、人が元気であるためには逆境と笑いが人を育てると言います。逆境は、それにあっても前向きにとらえて行動することで元気になるのです。未来に希望を描き、環境都市づくりに果敢に挑戦していった住民協働の心が、「もやい直し」になったのです。二つ目は地域の自然が元気なことが必要だといいます。海、山、川が元気であれば、生産と生活の場が豊かになり、漁業、林業、農業の基盤が整い、食べ物を得るだけでなく、遊びの場にもなるのです。三つ目は経済が元気になることだと言います。しかし、この経済は必ずしもお金が必要ということではありません。お金は人の縁を切り、季節をなくす側面があると言います。そうでなく、昔からあった「結」とか「もやい」といった助けあいのような共同と自給自足の経済であるのです。
いまこそ、日本は国の在り方、人の生き方、地域の再生を考えないといけない時期に来ているかもしれません。

投稿者 fujimori : 22:22 | コメント (4)

2009年08月21日 近頃思うこと

人が生きていく上で大切なもの、そしてよりよく生きるためにもう一度見直そうというものに「衣食住」があり、それを少子社会の中で生活している子どもたちにどのように文化として伝えていくかということで「食育」「服育」「住育」という言葉が生まれ、それに対する具体的な取り組みが始められています。しかし、人を、子どもたちを支えているものはそれだけではありません。私が大学のときの卒論で取り組んだもののひとつのテーマは、「子どもたちは、街の中を歩き、街の人と出会い、街の中で子ども同士がかかわることで教育の目的の半分は達成できる」というものでした。地域の子育て力です。
そのような観点から、もう一度地域環境を見直そうという動きがあります。街が人を育て、人が街を育てるということを再生しようというもので、「街育」という考え方です。それは、ブログで紹介しましたが、私が子ども会の顧問をしていた時に映画になった取り組みの「地域お年寄り地図作り」や、今年の園の遠足で試みた「商店街巡りウォークラリー」などは、まず、地域の資源を発掘しようというものです。地域に内在している資源を探す活動です。
このような考え方を「地元学」と言って取り組んでいるのが、以前やはりこのブログで紹介した九州熊本県の「水俣」での活動です。そんな水俣に今日、明日の講演のために訪れました。
minamatawan.JPG
水俣と言うと誰でも「水俣病」を思い浮かべ、そのためにこの地域は様々な苦労をしてきました。よく見られるような被害者が、二次的な被害を被るというような差別を受けたこともあったようです。それを逆転した発想で、水俣病問題の解決と水俣病で疲弊した町の再生を環境から始めようと、水俣病患者と共に取り組んだことで2004年の第4回と2005年の第5回「日本の環境首都コンテスト」で総合1位の評価を受けています。
この取り組みを「地元学を始めよう」(岩波ジュニア新書)という本の中で吉本哲郎さんという人が紹介しています。この本を、以前、水俣の友だちから頂きました。今回、水俣を訪れるにあたって、少し紹介したいと思います。
吉本さんは、水俣で生まれ、大学を卒業後水俣市役所に勤務しますが、昨年、水俣病資料館館長を経て、退職して地元学ネットワークを主宰しています。私も以前この資料館を訪れましたが、過去の悲惨な資料よりも、それを学びとして未来への提案をしようとしている姿を感じることができ、その取り組みに感動してその時のブログに書いた記憶があります。
その考え方が、地域を知ること、おのれを知ることから始め、地域の持っている力、人の持っている力を引き出すという「地元学」の基本「あるもの探し」なのです。それが次第に「問題解決型」の地域づくりに加えて、「価値創造型」へ転換していくことになるのです。それが、資料館に展示されている水俣病で昨年亡くなった杉本さんの言葉「人様は変えられないから 自分が変わる」という言葉に表現されています。
まだまだ学ぶことはたくさんありそうです。

投稿者 fujimori : 21:47 | コメント (4)

2009年08月20日 近頃思うこと

衣食住

 学校時代に習った友情と信頼関係の代表である「管鮑の交わり」という言葉がありますが、これは、管仲と鮑叔牙との交わりのことを言いますが、その管仲が管子という書物の中で「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」という政策の基礎となる考え方を述べています。「穀物倉庫がいっぱいになってはじめて礼節を知り、衣食が十分になってはじめて名誉や恥を知る」ということですが、人は、適当な「衣食住」が必要です。しかし、物事は「過ぎたるは及ばざるが如し」ではありませんが、倉廩に穀物をいっぱい貯めすぎるとかえって礼節を忘れることになり、衣食にぜいたくになりすぎるとかえって 名誉なのか恥辱なのかもわからなくあることが多い気がします。「衣食住」をどう考えるか、どのようなことが適当なのかを知る必要があるでしょう。そのために「食育」があります。同様に「衣育」「住育」が必要になります。
 先月のフジテレビの「エチカの鏡」で「住育の家」という番組が放映されたようです。そこで取り上げられていたのは、宇津崎友見さんが、家族が幸せになる「住育」を提唱しているというものだったようです。そこで、家族が幸せになり、親も子供も皆が笑顔になるためにコミュニケーションがとりやすい環境づくりである「住育」のポイントをわかりやすく解説していました。お父さんの存在感、子供が幸せに五感を育むことができる環境、さらには使いやすい水回りのポイントなどを、具体的でわかりやすく紹介していきます。それは、どうも私の子どもの頃の家の造りのようです。子ども部屋など独立してなく、一家団欒の茶の間、人と出会う縁側、人を家に招き入れる応接間など、常に人とかかわるような場所が用意されていました。最近の住宅にはその代わりに一人で閉じこもれる場所が増えた気がします。
 また、「衣育」という観点から「服育」という取り組みも行われるようになりました。制服メーカーや繊維メーカーやミキハウスなどがそのような取り組みを提案しています。株式会社チクマは、服育とは何かということでにこう書いてあります。「学校教育は、“知育”“徳育”“体育”の三育が柱であると言われています。健やかな身体を育む“体育”の一つとして“食育”が取り上げられ、“食”のあり方が重要であると再認識されるようになった事は御承知の通りです。そのような中、私たちは“生きる力”を育むという観点から、“衣服”も子どもたちにとって非常に重要な意味を持っているのではないかと考えました。」
確かに、衣についてもどうあるべきかを考えないといけないかもしれません。このコメントの中にもあるように、国際的にも通じる「服装マナーやセンス」、オンとオフを切り替える「自由と規律」、個と社会の関わりを考える「社会性」、衣服から考える「もったいない」の精神と実践としての衣服の「3R」、衣服を通してできる「安全性の確保」等、子どもたちに伝えなければならない事は数多くあるのではないかという点では共感できます。特に、これからは地球環境に対する考え方から、私たちが日常着ている衣服からどのように環境に貢献していくかを考えることも重要です。
また、村田堂という会社は、「衣服を通じて、人を育て、人を創る」というのが企業活動において最も重視しているところのようで、小学校から高校、一般までいくつかのテーマで「服育活動」をしています。
「食育」だけでなく、人としての環境を考えていくことは様々な分野で必要とされているところです。

投稿者 fujimori : 23:13 | コメント (5)

2009年08月19日 映画

ドイツのケストナー博物館で開かれている「食を巡る400年の歴史」を紹介している記事にはこんなことも書かれてありました。「“乾杯”という行為が、中世では毒を盛っていないという信頼の証だった・・・・・・など、知って面白い雑学も得られる」
以前のブログでドイツでの乾杯をテーマで書いたことがあります。プローストと言いながらグラスの底を合わせるドイツ式の乾杯。日本では、グラスの口元を合わせますが、どちらにしてもどうしてカチーンと合わせるのでしょうか。
乾杯という儀式は、古代に神や死者のために神酒を飲んだ宗教的儀式が起源です。それが次第に人々の健康や成功を祝福する儀礼に変化していったそうです。しかし、グラスを合わせるのはまた違った説がいくつかあります。
「酒の中に宿っている悪魔を追い払うために、グラスを会わせて音を立てる」「グラスを勢いよくぶつけ合うことで、互いの酒を互いのグラスに飛ばしあい、それを混ぜ合わせ、毒が混入していないことを証明しあう」「家の主と客が乾杯し、同時に飲み干すことで、客にすすめる酒に毒が入っていないことを証明する」などです。このように毒が入っていないことを表すのは、王位継承権争いで毒殺合戦が横行した時代であったため、また毒のわかりにくいリキュール類は特に危険な存在であったためにそのような習慣が生まれたと思われます。
一方、中国には“干杯”(ガンベイ)という儀式があります。これは、その字のごとく「杯を乾す」ということで、「グラスを空にする」ということです。また、乾杯はその宴を始める時に1回やるものですが、中国では、最初の一回だけではなく、お酒を飲む際に毎回乾杯することが礼儀です。昔、中国に行ったときに農林局の役人さんたちと飲んだことがあったのですが、それこそ大変でした。毎回干杯をするのですから。しかも、本当に飲みほしたかを毎回グラスの底を見せ合うのです。
乾杯という儀式は、広い意味で食育というか、食の文化の一つであることには違いありません。同じように、 食育には「味覚の教育」が必要であると言われています。フランスでは、ワインの醸造学者が小学校の先生たちと始めたのが、食の本物の味や生産地を知る「味覚の教育」といわれる授業です。映画「未来の食卓」のパンフレットにも「小さい子どもたちは、舌も敏感で、食を五感でとらえます。その大切な時期に、食を通して子どもたちの味覚と豊かな感性を育てる教育が必要である」と書かれてあります。その大切な時期に、食を通して子どもたちの味覚と豊かな感性を育てる教育で、フランスでは多くの小学校で実践され、毎年、味覚の週間としてもイベントでも実施されているそうです。実際に給食のときに子どもたちが好き嫌いを言う時にわかりますが、嫌いな理由が味だけでないことが多いのです。食感、色、舌触り、匂いなどでその食材のイメージを持ってしまいます。そのように子どもたちは、五感から感じることが味にも影響を与えます。
mirainosyokutaku.JPG
また、フランスで行われている食育の一環として国で予算をつけて推進しているものに「教育ファーム」があります。いわゆる農家体験です。農家を開放して畜産や農業の様子を子どもたちに体験させて食の現場を知らしめるというものです。
フランスは、食育の先進地といわれています。映画「未来の食卓」は、決して未来ではなく、「現在の食卓」にしていかなければ取り返しがつかなくなってしまいそうです。

投稿者 fujimori : 23:13 | コメント (4)

2009年08月18日 映画

食卓

今年の3月のフランスの新聞に「現代のフランスの若者の姿」という特集があり、その中で「将来に対してどのくらい若者が自信を持っているか」というデータが掲載されていました。そこでは、例えばデンマークなどでは60%、アメリカが54%、スウェーデン49%、中国43%、ドイツ36%、スペイン32%という数値の中でフランスはとても低く、26%しかありませんでした。(ちなみに日本は5%)そのようなこともあり、フランスでは今幼児教育改革が行われています。このような低い数値では、フランスの将来が危ないということでしょう。今まで、ただ少子化を防ごう、子どもを増やそうというスローガンのもと、経済効率を優先してきた付けが回ってきたことへの反省でしょうか。
フランスでは、このような経済効率化はいろいろな所にひずみを起こし、国民の心だけでなく、体にも栄養を及ぼし始め、その反省からいろいろなことに取り組み始めています。そのひとつに「食」があります。フランスは、食料自給率が100%を超える農業大国です。(ちなみに日本は40%以下で先進国で最低)しかし、フランスでは農薬を使っている農家の方々ががんなどの深刻な健康被害にあっていることが問題になっています。
そんな中で2006年からバルジャック村の給食センターはオーガニックを導入。有機栽培で育った食材、そしてなるべく地元の食材(地場産食品)を使った給食を、ガール県の公立校3校、私立1校、村の一人暮らしの高齢者を対象に200食を届けることになり、同時に、校庭の隅の小さな畑で子どもたちは野菜作りにチャレンジします。そんな試みにフランスの小さな村が立ち上がり、挑戦します。その1年間を追ったドキュメンタリー映画が「未来の食卓」です。先日、妻と二人で見に行きました。
この映画は、昨年11月にフランスで公開され、当初20館で上映が始まりました。公開後、見た人の口コミで広がり、56館まで拡大し、また映画を観た人が自分のライフスタイルにオーガニックを取り入れることを意識し始め、生徒の決定により食堂をオーガニック化した大学も現れるなど、社会的なムーブメントを起こしているそうです。この映画の冒頭で「人間の行動が病を生むのです。その最たる物が化学汚染です」と発言するシーンが出てきます。
日本では正確な数字はわからないとしていますが、日本農薬要覧によると、1年間で農薬26万590トン、うち殺虫剤は10万360.5トンが出荷数量として記録されているようです。この数字は耕地面積1haに対して撒かれる散布量を算出すると、世界2~3位だそうです。しかも、食料純輸入額の4兆600億円は世界ダントツ1位で、食料の60%を輸入に頼っているのが現状ですから、恐ろしくなりますね。
夏の間、ドイツのケストナー博物館では「食を巡る400年の歴史」(Zu Gast. 4000 Jahre Gastgewerbe)が開催されているようです。この展覧会では、400年前の食器やテーブルマナーからファストフードなど現代の食文化に至るまで、食に関する膨大な資料を通して、生命を維持し、文化を発展させてきた「食」の真髄を探るということで開催されています。また、外食する際に、味と同等、もしくはそれ以上に印象に残るのが接客サービスや食事環境ということからの観点の展示もあるようです。
どの国でも「食育」が盛んのようですが、フランスのように農薬使用の見直しとか、殺虫剤の散布の見直しとか、食料自給率向上とか、ムーブメントとしての具体的な運動に発展していかないのでしょうか。

投稿者 fujimori : 20:34 | コメント (4)

2009年08月17日 旅先にて

竜王

 人間力とはという話をした安藤忠雄さんは、今世界中から注目されている建築家です。彼の活動は建築でけでなく、町を創造し、木を植え、発想の転換を自ら実践して見せてくれます。それに駆り立てる原動力は「冒険」であるといいます。それは、彼の経歴が非常に特殊であるということが大いに関係していると思います。今月号のCasaの特集の中で安藤氏は「私の場合は、正規の建築教育を受けずに“この道で生きていこう”と自分で勝手に決めて奔り出した。スタート時点が、すでにレールを外れていましたから……。自ら探して、つくらないと仕事がない。平和な生き方を選び得ない状況があったんです。それを40年間続けてきましたから、さすがにもう疲れてきて“闘いたくない”気持ちもありますが。どっちにしても人生1回です。ならば、最後まで夢を追いかけて、人生を全うしたい。」と言っています。
 なんとなく、私の人生と重なるところがあります。ただ、彼ば天才なので、仕事や取り組みはとてもダイナミックです。その分、冒険は多かったのかもしれません。しかし、それが作品に影響を与え、海外の有名なデザイナーたちがこぞって彼とのコラボレーションをしたがるのは、彼の建築の持つ独特の“強さ”であるといわれています。
 その彼の作品を日本でもいろいろなところで見ることができます。このブログでも紹介したものでは、長野県「小海町高原美術館」とか愛媛県「坂の上の雲ミュージアム」ando.sakanoue.JPGなどがありますが、今回、珍しい建物の設計である「竜王駅」に妻と行ってみました。
この駅は、山梨県甲斐市竜王新町にあり、中央本線の駅で、甲府より松本よりにひと駅行ったところにあります。この竜王駅は、2004年甲斐市が「竜王駅都市拠点整備事業」で、安藤氏に設計を依頼し、2006年に着工、昨年3月に完成したものです。安藤氏の設計というとコンクリート打ち放しのボリュームがあるものが多いのですが、この駅舎は鉄骨2階建ての「鉄とガラス」で作られ、鋭角的なボリュームが結びあわされた形をしています。それは、山梨特産の水晶の原石や鎹がモチーフだそうです。
ryuoeki2kai.jpg
また、南北の駅前広場を結ぶ長さ約120メートルの自由通路はガラス張りの外観です。ryuoekihasi.jpg
また、ガラスを通して富士山や南アルプス、八ヶ岳などを眺望できるのが特徴です。
ryuoekiyama.jpg
安藤氏の数々の建築の中で一度訪れてみたいと思っていたのが、香川県の瀬戸内海に浮かぶ直島にある、建物がすべて地下に埋まった「地中美術館」です。今度そこを訪れる計画があるので、とても楽しみにしています。
安藤忠雄さんは、建築というのは、クライアントと建設会社、建築家とが一緒になって挑戦する“冒険”であるべきだと言います。ともに同じ目標に向かって奔ろうと。大事なのは、つくる形の前に動機の部分なんだといっています。そして、最後にこう締めくくっています。「今、建築も投資の対象で、土地を買って、建物を建てて、償却して、あるいは販売して儲けていくというようなことになっています。でも、私は、建築というのは意義のある仕事なんだということを信じているわけです。この夢を感じられなくなった時が、終わりだなと思いながら、この仕事を続けているんです」
 私は、最近保育が投資の対象になり始めているような気がします。しかし、保育はとても意義のある仕事です。その夢をいつまでも感じていたいと思っています。

投稿者 fujimori : 22:52 | コメント (5)

2009年08月16日 近頃思うこと

パロディー

 宮沢賢治の「雨ニモマケズ」という詩は、とても意味が深く、とくに仏教がよくわかっていなければ真の解釈は難しいかもしれません。しかし、そのようなその詩の本当の意味とか、本人の思いはどうであろうかということは研究者の課題であり、誰でもその詩を読んで感動するということは、その言わんとすることを理解するというよりは、自分の置かれている境遇なり、年齢において共感するところがあるからで、必ずしもそれが自分なりの解釈でもいいのではないかと思っています。
 この「雨ニモ…」が多くの人々に共感されることと、教科書に掲載されることが多いこととは、少し違う意図があるように思えます。たとえば、広大無辺な慈悲の心を持つ「慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル」という言葉も、軍国主義教育下においては「滅私奉公」や「欲しがりません 勝つまでは」という思想として利用されたり、「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ」ということを、戦争に対して無批判的に時流に迎合するということに解釈する時代もありました。
 また、この詩はある願望が書かれていたり、どのような人間になりたいかということが書かれてあるので、昔からパロディー化されてきます。有名なところでは、賢治のふるさとである盛岡市の小児科の医師が学会で発表されたもので、どこかの校長先生の作のようです。今の子どもを表していますが、今はその子も大きくなって親になっているでしょう。「雨ニモアテズ 風ニモアテズ 雪ニモ 夏ノ暑サニモアテズ ブヨブヨノ体ニ タクサン着コミ 意欲モナク 体力モナク イツモブツブツ 不満ヲイッテイル 毎日塾ニ追ワレ テレビニ吸イツイテ 遊バズ 朝カラ アクビヲシ 集会ガアレバ 貧血ヲオコシ アラユルコトヲ 自分ノタメダケ考エテカエリミズ 作業ハグズグズ 注意散漫スグニアキ ソシテスグ忘レ リッパナ家ノ 自分ノ部屋ニトジコモッテイテ 東ニ病人アレバ 医者ガ悪イトイイ 西ニ疲レタ母アレバ 養老院ニ行ケトイイ 南ニ死ニソウナ人アレバ 寿命ダトイイ 北ニケンカヤ訴訟(裁判)ガアレバ ナガメテカカワラズ 日照リノトキハ 冷房ヲツケ ミンナニ 勉強勉強トイワレ 叱ラレモセズ コワイモノモシラズ コンナ現代ッ子ニ ダレガシタ」子どもたちが「現代っ子」と言われて久しくなりますが、ここの書かれている子ども像は時代が過ぎてますます課題として重要な観点となっています。
 また、少し変わったパロディーが、最近、経済成長著しい中国で、中国版「私はこういう人になりたい」が話題になっているそうですが、その詩が笹川陽平氏のブログで紹介されていました。この願望は非常に具体的で、いろいろな国に対してどのようなイメージを持っているかがわかります。「サウジの給料をもらい イギリスの家に住み 日本女性を嫁にして 韓国女性を愛人に スペイン女性と遊びたい。フランスのワインを飲み オーストラリアの海鮮料理を食べ キューバの葉巻を吸ってみたい。イタリアの革靴を履いて スイスの腕時計をつけ フィンランドの携帯電話を使いたい。ロシアの別荘を買い フィリッピンの家政婦を雇い イスラエルのガードマンを使いたい。アメリカの飛行機に乗り ドイツの車を運転 そして、中国の共産党幹部になる。そういう人に私はなりたい!!」
 この願望では、私は「日本女性を嫁にして」というところしか当てはまりませんが、ほかはそれほどしたいと思いません。

投稿者 fujimori : 21:21 | コメント (5)

2009年08月15日 近頃思うこと

なりたいひと

昨日のブログで紹介した宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」は、賢治が亡くなる約2年前、病床で手帳に鉛筆書きされたものです。この手帳は、「雨ニモマケズ手帳」と呼ばれていて、その存在は賢治の生前には家族にも知られておらず、その背景からも本作は未発表だったようです。この手帳が一昨年の夏に全国各地で公開されました。その前に全国公開されたのは、賢治の生誕100年を記念して95年から96年にかけてでしたので12年ぶりでした。
この手帳は自省とその当時の賢治の願望が綴られた内容となっています。この「雨ニモ…」も段によってそれぞれ願望が謳われます。第一段では、健康に対する願望です。特に手帳にこの詩を書こうと思ったのは、「昭和6年35歳 9月、炭酸石灰とその製品見本をもって上京し、神田区八幡館で発熱臥床した。このとき死を覚悟して、父母近親への遺書二通を書いたが、父の厳命によって帰宅し、病床生活に入った。11月3日、手帳に「雨ニモマケズ」を書いた。」とあるように花巻の実家に戻って闘病中だったからかもしれません。何をするにしても、どんな願いを持ったとしてもまず体が丈夫でないといけないのです。そして、この「雨にも風にも雪にも夏の暑さにも負けない丈夫な体というのは、精神的な意味でもそれに負けない健康な心も持つことの必要性を自分に言い聞かせているのでしょう。
最近、出版界やテレビなどで活躍している経済評論家の勝間和代氏は、左右の銘として「三毒」を挙げます。彼女のブログには「仏教の三毒とは“妬む”“怒る”“愚痴る”でして、この3つをすることを、戒めています。自分のツキをよくするためには、この3つの毒を追い出して、“妬まない”“怒らない”“愚痴らない”を心掛けるわけです。昔は紙に大きく印刷して貼っていたのですが、最近ちょっと気持ちがおろそかになっていたので、また、心掛けたいと思います。」と書かれてあります。しかし、この内容についてはずいぶんと異論があるようです。それは、仏教でいう「三毒」は少しニュアンスが違っているからです。仏教でいう三毒とは「貪・瞋・痴」であるとし、とくに痴とは、愚痴ることでなく、物事を正しく認識したり判断したりできないこと。愚かであることです。賢治は、「雨ニモ…」の2段目でこの三毒を越え、自己を滅却して、仏の知恵を授かりたいという願いが謳われています。このころ賢治は、熱心な法華経信徒であり、煩悩の三毒から解毒された状態を理想とする行者としての賢治の願いだったのです。
三段では、生・病・老・死の四苦に苦しむ人々への癒しに身を投じ、ともに歩みたいという願いが書かれてあります。そして、最後の段になってはじめて今までの主語が「私」であることが分かるのです。そして、死を目の前にしながらも壮絶な人生への歩みが願いとして歌われます。馬鹿にされようと、相手にされまいと、われ一人ただ真っ直ぐに歩み続けたいと願うのです。菩薩道を求めての賢治の生涯は終わりに近づくにつれ、その求め方はいよいよ激しくなっているのです。
この「雨ニモ…」は、悟ったように穏やかである半面、ひとりでも自分は進んでいくといった気概を私は感じます。

投稿者 fujimori : 23:16 | コメント (4)

2009年08月14日 近頃思うこと

夢を持つ

 生きる意欲はどれだけ将来に対して夢が持てるかということに大きく関係してきます。このことはブログでも折に触れて書いていることですが、将来の夢とは様々なことがあります。まず、子どものころに持つ夢とは「将来どんな職業になりたいか」ということでしょう。子どもが選ぶ職業は、ずいぶんと子どもの置かれている時代、環境に左右されることが多くあります。というのは、知識がまだ少ない子どもたちが知っている職業は限られてくるからです。ですから、一番身近な「保育園、幼稚園の先生」とか「学校の先生」が一番に挙げられるのでしょう。しかし、この職業は一番身近だけあって、この職業に対するイメージは自分の担任であることが多いので、その担任にもよるでしょう。その人が知っている一部の印象によってその職業全体の印象をつけてしまっていることにもっと責任を感じてほしいものです。
 子どもたちはテレビから情報を得るようになると、テレビの中の人に憧れるようになります。「歌手」「タレント」「野球の選手」などです。また、いろいろなお店を知ることによって「ケーキ屋さん」「花屋さん」「お寿司屋さん」などを挙げることも多く、しかし、これらの職業は好きというよりも扱っている商品が好きという場合も多いようです。そして、いろいろなことをやったり、体験するようになると、自分の好きなこと、得意なことがわかってきます。「サッカーの選手」「大工さん」「料理の先生」「画家」「ピアノの先生」などです。次第に、子どもの中に大人から吹き込まれた職業のステイタスがわかってきます。「お医者さん」「弁護士さん」「首相」などを挙げる子も出てきます。
 この夢が実際に職業を持つようになると現実的になっていきます。「課長、部長になりたい」「会社を経営したい」「収入を多く得たい」などであり、仕事ではなく、「恋人がほしい」「誰かいい人と結婚したい」「子どもがほしい」「いい家庭を作りたい」ということもあります。これも周りの環境に影響されます。最近、結婚をしたがらない若者が増えていますが、それは、親を含めて身の回りにうらやましがるような結婚生活をしている人が少ないからだと言います。また、子どもをほしがらない人も増えているのは、子どもがいることの大変さばかりが目につくからのようです。
 次第に年をとるに従って、夢がかなわないことを知るようになります。そのときに夢が無くなってしまうような気になることが多いのですが、それは違います。私も年をとってくると「どんな職業になりたい」とか「何がほしい」とかいうよりも「どんな生き方をしたいか」という夢を持つようになります。それが、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」で謳われていることかもしれません。「雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫なからだをもち 慾はなく 決して怒らず いつも静かに笑っている 一日に玄米四合と 味噌と少しの野菜を食べ あらゆることを 自分を勘定に入れずに よく見聞きし分かり そして忘れず 野原の松の林の陰の 小さな萱ぶきの小屋にいて 東に病気の子供あれば 行って看病してやり 西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い 南に死にそうな人あれば 行ってこわがらなくてもいいといい 北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろといい 日照りの時は涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き みんなにでくのぼーと呼ばれ 褒められもせず 苦にもされず そういうものに わたしは なりたい」

投稿者 fujimori : 22:48 | コメント (4)

2009年08月13日 近頃思うこと

人間力

 人は自分が生きているあかしを求めようとします。自分が今ここに存在する意味を考えます。それは将来への希望であったり、生きる意欲をもたらします。今の日本の若者が生きる意欲を失い、将来への夢を失い始めています。
6年くらい前になりますが、「若者に夢と目標を抱かせ、意欲を高める : ~信頼と連携の社会システム」という報告書が「人間力戦略研究会」から出されました。この報告書の中で、「人間力に関する確立された定義は必ずしもないが、本報告では、社会を構成し運営するとともに、自立した一人の人間として力強く生きていくための総合的な力と定義したい。」として「人間力」について定義しています。
またさかのぼること1996年、文部省の中央教育審議会(中教審)は「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」という諮問に対する第1次答申を出しました。その中で、「我々はこれからの子供たちに必要となるのは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性であると考えた。たくましく生きるための健康や体力が不可欠であることは言うまでもない。我々は、こうした資質や能力を、変化の激しいこれからの社会を[生きる力]と称することとし、これらをバランスよくはぐくんでいくことが重要であると考えた」という「生きる力」を中心に据えての話です。しかし、その後、教育はどのような具体的な取り組みをしてきているのでしょうか。ますます、「生きる力」「人間力」は弱まってきている気がします。
今月号のCasaの特集は建築家安藤忠雄の「人間力」「建築力」です。 彼は人間力についてこう語っています。
「人間というものは、考えて苦しみ、考えて苦しみ、苦しみつつも前進しながら生きていく。そしてその間に、生きる喜びを味わいながら、社会の理不尽への“怒り”を乗り越えていかなくてはならない。その思いの深さ、情熱の激しさが人間の生の原動力になる。私はずっとそう思っているわけです。建築家というと芸術的な仕事のように思われがちですが、実はこれほど現実的でドロドロした仕事はありません。多くの人間と、何より多額のお金が動きますから……。いくらいいアイデアが頭にあっても、経済や法律といった、いろいろなしがらみがあってなかなか思う通りに進まない。
そのとき、動かない仕事を動かすのが、“人間力”なんです。周囲の人間を巻き込んで、なんとしてもこれを作り上げるのだという気迫、デザイン力を超えた個人の情熱の力です」
そして、日本の歴史を振り返ります。自然と共生するような西欧都市の骨格ができたのは19世紀後半ですが、そのころの日本は明治維新で西洋近代化の社会を引き入れることに一生懸命でそれどころではなかったのです。しかし、西洋化するスピードの速さは世界の奇跡だと言われていますが、それができたのは寺子屋を含めて江戸時代からの教育が生き届いていた点であると指摘しています。都市のビジョンがなくとも、民族の尺度が高かった故、形の上では世界都市を造りえた。それが東京だと言います。
 これからの時代をどんな人間力がつくっていくのでしょうね。そして、教育はどんな人間力を作っていくのでしょうか。

投稿者 fujimori : 23:23 | コメント (4)

2009年08月12日 近頃思うこと

トクサ

 一昨日のテレビで、手作りの数珠つくりの名人が出ていました。白檀の木を丸く切り取って磨いていくのです。その磨く方法でとても考えさせられたことがありました。まず、磨くときにやすりを使うのですが、そのやすりは紙やすりでも、鮫肌のような動物性のやすりでもなく、植物を使います。木という植物を磨くのにはやはり植物を使うといいのでしょう。その植物は「木賊」を使うというテロップが出ました。この字は漢名からきているそうですが、「トクサ」と読みます。
トクサの莖の表皮細胞の細胞壁には多量の珪酸質が含まれ、表面が堅く、特に筋状の部分がざらざらしているため、これを煮て乾燥させ、紙ヤスリのようにして研磨の用途に使ってきました。そこで、「砥石になる草」ということで「砥ぐ草」から「トクサ」と名づけられたのです。ですから、「砥草」とも書きます。
テレビでは、このトクサを、数珠を磨くのに使っていましたが、ほかにはどんなものを磨いているのでしょうか。多くは、木製品の作業工程などの磨き仕上げる工程に使用されています。たとえば、高級なつげのくしの歯や漆器の木地加工、クラリネットなどのリード楽器の竹製リードを磨いて調整するのにもトクサが用いられています。また、骨・爪などを磨くのに使い、音楽家の滝廉太郎が、身だしなみに気を遣って常々トクサで爪を磨いていたことは有名な話です。そのほか、さび落としなどの金属の研磨や、面白いところでは、和傘の骨を磨いたりするのに使われたり、オオトクサなどでは、歯を磨いて歯ブラシの代わりに利用します。そこで、別名「歯磨草(はみがきぐさ)」と呼ばれることもあります。
また、このトクサは、地下茎があって横に伸び、地上茎を直立させます。その姿のおもしろさから、庭で栽培されることもあります。特に日本庭園の水辺などに植えられています。その形からラテン語の「Equisetum」は、「equus(馬)+ saeta(刺毛)」が語源で、たくさん輪生するスギナの細い枝の形を馬のしっぽにたとえたのでしょう。この姿が水回りには似合いということで、私の園の手水鉢の後ろにトクサを置いてあります。
tokusa.JPG
もうひとつ、このトクサの特徴があります。それは、中空で節があり、引っ張ると節で抜けます。節の部分にはギザギザのはかま状のものがあって、それより上の節の茎がソケットのように収まっていますが、このはかま状のぎざぎざが葉に当たる。茎の先端にツクシの頭部のような胞子葉群をつけ、ここに胞子ができる。私の子どものころに、祖母の家の庭の池の周りに植えられていて、その茎を使って節から引き抜いてよく遊んだものでした。
また、当然漢方にも使われます。干した茎は木賊(もくぞく)と呼ばれる生薬で、その煎液を飲用すると目の充血や涙目に効果があるといわれています。また、腸出血などを抑える薬にもなることから、昔はこの「トクサ」を刈ることで生計を立てていた人もいたそうです。
 数珠を磨く話から木賊の話に行きましたが、話は戻します。テレビでは、数珠を磨いた後に本当のつやを出すために、多くの数珠を袋に入れてそれを洗濯板のようなところでこすり合わせます。それは艶はお互いがこすりあうことで出てくるということです。
 私は、人間の艶も人同士が擦りあうこと、人同士の関係性から出てくるのだと思っています。

投稿者 fujimori : 22:35 | コメント (4)

2009年08月11日 近頃思うこと

兄弟

 人は生まれてすぐに自分の泣き声とほかの子の泣き声を区別するということが最近分かってきました。また、情緒の分化の中では嫉妬心はずいぶんと早いこともわかってきます。ですから、赤ちゃんも一人だけを大切に育てれば安心するでしょうし、落ち着きます。しかし、兄弟がいるとなかなかそうはいきません。親を独占するわけにはいかないのです。その代わり、兄弟で遊んだり、兄弟から学ぶことも多いのです。
庄野潤三の「あわれときびしさ」という小説の中で、こんなくだりがあります。「兄弟の多い家族に育ったものは、子供のうちから“何でも自分の思った通りにはならないものだ”という悟りを得るようになる。まわりで否応なしにそういう躾をしてくれる。」子どもたちは、親を独占すると自分の思い通りのことができます。ゲームをすると、いつも勝つこともできます。それは、親が子どもに合わせてくれるからです。それが、兄弟の間ではなかなかそうはいかないことが多いのです。それはそこには子どもにとっての社会があるからです。人はひとりでいる時よりも、自分一人をいつも保護してくれる人がいる時よりも、自分は社会の中の一員であると思えることが情緒を安定させると思っています。
最近、少子社会になると、直接親に自分だけに何かやってもらうことが多くなります。その時に子どもは他の子どもの存在を疎ましく思ったり、他の子どもとの関係から学ぼうとしないで、他の子どもとの関係を断ち切ろうとします。これは、何も人間だけに限らないようです。最近のペットブームから、ペットでも同じようなことがあります。朝日新聞の「どらく」にこんな相談が載っていました。
「我が家に愛想のいい利口な柴犬がいます。この子に姉妹をつくろうと、1週間前に赤ちゃんの柴犬を迎え入れました。迎え入れて2、3日たったころ先住犬と子犬を一緒にしました。すると先住犬の様子がおかしくなってしまいました。部屋の端に寝転び、子犬に近づきません。私が仕事に行っている間に胃液を十数カ所にも吐き、その後食事もとりません。いつもはまったく吠えないのに、子犬に近づきわざわざ吠えることもあります。もう一度子犬と別にしたら以前のように戻りました。どうしたらよいでしょうか?」というものです。回答としては、「赤ちゃんが家に来てまだ1週間。先住犬は今までの生活がガラっと変わってしまったことに、心と体がついていけていないのでしょう。飼い主が留守の間は、別にして、飼い主が一緒にいる時に、一緒にして、赤ちゃんをサークルに入れたままで、先住犬をなでてあげたり、抱っこしてあげたりして、たくさん「いい思い」をさせてあげてください。「赤ちゃんが来ても、嫌なことは何もなかった」と思わせると同時に、「ママは赤ちゃんがいても、ちゃんと私をなでてくれたり、抱っこしてくれたり今までどおりに接してくれるんだ」と安心させてあげることができます。一番に思うことは「愛犬同士の関係を左右するのは、ほとんどが飼い主さんの行動や心持ちである」ということです。」
そして、心構えとしてこう提案します。一つは「飼い主さんが「より頼れるリーダー」になる」こと、二つ目は、「心配し過ぎない、あえて干渉しすぎないことも愛情」ということで、飼い主が心配して過度に声を掛けたり、気にしてしまったりすると「ああ、ママも心配なのね。私ってやっぱりかわいそうなんだ…」と余計状態が悪化したり、「こうやってご飯を食べないと、ママが声をかけてくれたり、構ってくれたりする」と勘違いして、余計ごはんを食べなくなって困らせたりと、先住犬が「赤ちゃん帰り」をしてしまうこともあります。群れのメンバーが増えたことは、決してかわいそうなことではなく、とても楽しいこと。いま、その楽しくなるまでのハードルを柴ちゃんは頑張って越えようとしている状態です。「赤ちゃんが来て、楽しいね。ママもいろいろ頑張るから、一緒に協力してね」という気持ちで接してあげてください。赤ちゃんを意識して吠えてみたり、嫌がる素振りを見せたりすることもあるかもしれませんが「そんなことしてもしょうがないよ、これから赤ちゃんはずっとおうちにいるんだからね」くらいの気持ちであまり干渉せず、柴ちゃんのペースに合わせて接しさせてください。」
 人間と同じですね。

投稿者 fujimori : 23:47 | コメント (4)

2009年08月10日 地域を知る

山車

 昨日の新聞多摩版にこんな記事が掲載されていました。
「関東有数の山車まつりと称される「八王子まつり」が、八王子市内で開かれている。最終日の9日には市内各地で山車の辻合わせが行われ、クライマックスを迎える。戦災で山車が焼けたが、70年代に地域住民が再建し、活気を取り戻した。市の有形文化財の11台を含む計19台の山車が登場する。9日は甲州街道(国道20号)で重さ約4トンの大みこしが披露され、おはやしの競演なども行われる。」
 この八王子祭りは私が住んでいる八王子のお祭りです。ほかの地域のお祭りだけでなく、地元のお祭にも行ってみようということで、昨日の日曜日に妻と二人で山車を見に行きました。この祭りはかなり歴史があります。八幡八雲神社祭礼を「下の祭り」、多賀神社祭礼を「上の祭り」として江戸時代中期から明治中期にかけて人形山車の祭りとして行われていて、300年以上の歴史があります。そして、明治中後期以降は、彫刻を全面に施した彫刻山車の祭りとして、関東一円に名声を博していました。しかし、昭和20年の戦禍に会い、8台の山車が消失してしまいました。今は、焼失した山車も再建され、昭和41年に上と下の祭りが統合され八王子まつりとなったのです。また、近年では伝統の「下の祭り」「上の祭り」の復活が呼びかけられ、神事はそれぞれの日程で巡行を分けて行われています。
dasi.jpg
今、NHKの朝ドラで「つばさ」という川越を舞台にしたドラマが放送されていますが、そこでも川越祭りが放送されます。川越が江戸の北の守りであれば、幕府領であった八王子は幕府の西の砦でした。ですから、江戸時代に八王子と川越を中心として山車祭りの文化圏が築かれていったのです。八王子の山車には外観が三通りあります。一本柱建て人形山車、二・三層鉾山車、入母屋造り堂宮形式です。山車は、様々な彫刻を施し、山車のよっては屋根の上には様々な人形が飾られています。その人物は、「神武天皇」「織田信長」「浦島太郎」「雄略天皇」「応神天皇」「素戔嗚尊(スサノウノミコト)」などです。
dasiningyo.jpg
山車のもうひとつの特徴は、山車の後ろで山車ごとの特徴のある祭囃子が行われていて見る人を楽しませてくれます。もともと民俗芸能である神楽とそれに付随する音楽である囃子は昔から各地域にあるそれぞれの祭に密着して発展してきています。その神楽の起源は、出雲に始まり埼玉の鷺宮を経て江戸に入り、江戸中期に現代の江戸里神楽の形になりました。神楽の内容は神話や神社の縁起などを仕組んだものが数多かったのですが、江戸に入ってからは茶番風の滑稽なものが盛んに演じられるようになり、庶民のたのしみとなりました。それら神楽の演目の中で、特に下町では庶民的な親しみを見せる「おかめ」「ひょっとこ」「狐」の出しものなどが喜ばれています。山車の後ろでは江戸祭囃子の笛、太鼓による祭囃子は祭りの雰囲気を盛り上げます。また、この奏者や演じ手たちは、他の邦楽と違って、祭りを主催する神社や寺社の氏子や檀家である一般人の場合が多いのは、氏子や檀家が祭りのために練習をし、祭りのときのみ演奏されてきたものが多いためであり、地域に根付いて伝承されてきた音楽であるという特徴のためである。また、奏者に少年少女が多く見られます。
kodomokagura.jpg
 上手に、一生懸命に踊っている少年少女を見ていると、伝承文化は継承されていっていることを実感します。

投稿者 fujimori : 23:07 | コメント (4)

2009年08月09日 講演先にて

タンとテール

 旅の楽しみは、その地域ならでは風景や自然、歴史や伝統、そしてお祭りなどの行事や文化、そして、そこで暮らす人々との出会いなど様々なものがありますが、その地域における食ももちろん楽しみです。もしかしたら、今、旅をする人の多くはその地域の食を求めての人が多いかもしれません。私はよく地方に行くことが多いので、「いろいろな地域のおいしいものが食べられていいですね」と言われますが、実は意外にそうではないのです。それは、先方で用意してくれる食事の多くは昼食は幕の内弁当のようなもので、確かに中身は豪華なものがたくさん入っているのですが、決まり切った刺身とかてんぷらとか魚の切り身などです。それもありがたい話でぜいたくは言えませんが。また、夜も気を使ってくれるとしたら会席料理がほとんどです。これには少しはその地域の食材が入りますが、どこに行っても京風となるとどうかなと思います。
もうひとつ、その地方に伝わるおいしいものといったら意外とB級グルメのようなもののことが多いので、先方がそんなものを出しては申し訳ないと思うのでしょう。私は意外と焼きそばとかお好み焼きが好きなほうなので、そういうものでいいと思うのですが。あと、あまり品数がいらないと思うこともあります。たとえば、ウニは大好きで、今が旬だからと出してくれても、本当は温かいご飯にウニだけでいいのです。そのほかのものがあるとかえってウニの味を邪魔してしまうので、気を遣わなくていいのにと思ってしまいます。
でも、こんなことを書くと今度地方に行ったときにだれもごちそうしてくれなくなるかもしれませんね。もちろん、基本的には好き嫌いがありませんので、なんでも大丈夫ですし、それよりもいろいろな話をすることが楽しいですので、皆さんとご一緒のときには何でも構いません。
しかし、私だけでどこかで好きなものを食べてくださいと言われるときには、その地方の名物をいただきます。先日の香川ではもちろんさぬきうどんを食べるために探し歩きましたし、仙台ではもちろん「牛タン焼」を食べました。
なぜ、仙台で牛タンなのか不思議ですが、第二次世界大戦後間もない食糧難の時代、仙台に駐留していたGHQが大量に牛肉を消費したあと残ったタンとテールを有効に活用するために、仙台の焼き鳥店「太助」初代店主である佐野啓四郎が、肉牛の舌(牛タン)を、タンシチューから着想して、タンを薄い切り身にして塩焼きするという調理法を考案したのが始まりだと言われています。しかし、これもよくある話で、どこが元祖で、そこが家元か実のところよくわかっていないようです。
gyutan.jpg
牛タン定食のオーソドックスなものとしては、店員が塩味やタレをつけた牛タンを炭火等で焼いて、レモン汁は付けずにそのまま食べます。人気は塩味のようですが、半分ずつというミックスもあります。そしてご飯は、消化に良い麦飯です。吸い物としてはテールスープです。これに漬物として、きゅうりと白菜の朝漬けと「南蛮」という赤唐辛子の味噌漬けがつきます。ちょっと辛いので、夏は汗が出てきます。テールスープは、牛の尻尾のぶつ切りを煮たスープで、栄養たっぷりで、コラーゲンも豊富に含まれ、肌がすべすべになり、滋養強壮にもよいとされています。

投稿者 fujimori : 17:54 | コメント (4)

2009年08月08日 講演先にて

仙台

 いろいろな所に旅に出ると、いろいろなことに出会います。その出会いから新しいことを知ることがあります。新しい人に出会うかもしれません。新しい場所、新しい歴史の発見、とても刺激的です。しかし、行くだけではそれらと出会うことはあっても、自分の身になることはできません。それは、乳幼児期の発達の条件と同じで、そこに自ら働きかけないことには意味がないのです。そのことに興味や関心を持たないといけないのです。
 私は、休暇を取って旅に出ることは今はなかなかできません。しかし、ありがたいことに、全国に講演なり、仕事で行くことが多いので、その時に少しでも時間を見つけてその地域を歩きまわることにしています。よく仕事で行くと、その時間以外はホテルなどの部屋に閉じこもってどこにも出かけない人がいることを聞きますが、そんな勿体ない事はないと思います。また、確かに仕事で疲れてしまうこともありますが、逆に頭を使う仕事の場合が多いので、体を使うことは休息になります。もうひとつ、自分のタイプなのでしょうが、休日などでも家でゴロゴロしているともったいないと思って、どこかに出かけようとしてしまいます。周りから、疲れているのだから少しは休息をしたらと言われますが、どうも駄目なのです。
 そのように何気なく出かけたり、仕事で出かけたりした先で思いがけないことに出会うとうれしくなります。今回出かけた先の仙台では、着いた夜は花火大会でした。
sendaihanabi.JPG
ブログでもちょうど花火のことを書きましたが、私は子どものころから隅田川の花火を見ながら育ったせいか、花火の音がすると、音のするほうに足が向いてしまうのです。人出がたくさんで、歩けないくらい混んでいても進んでしまいます。よく、地方の人は人混みが苦手という人がいますが、私は、人混みはそれほど苦痛ではありません。ただ、最近は、痴漢に間違われてしまうような冤罪があるので、気をつけますが。
 そして、次の日の6日から7,8日までは仙台七夕祭りです。
今年はちょうど前日に花火を見に商店街を歩いたので、いつもどのように飾っているかをと不思議に思っていましたが、それを見ることができました。前日の4日の日に早朝各商店街が長さ10m以上の巨大な竹を山から切り出し、小枝を払います。そして、横に渡した棒に基本5本1セットの吹き流しをひもで引き上げていくのです。吹き流しは、一番上には丸い花紙で作ったボンボンがつけられ、その下にはおり姫の飾り糸を象徴した長い紙をたらし、機織りや技芸の上達を願ったのです。
tanabatajunbi.JPG
 たなばた自体は古くから全国的に行われている風習で、元禄のころの江戸では、短冊や吹き流しを付けた飾りが登場しました。仙台では「たなばたさん」といわれ、伊達政宗の時代には盛んに七夕の行事が取り入れられました。政宗が婦女に対する文化向上の目的でたなばたを奨励したためだと言われています。政宗は七夕に関する和歌を8首も詠んでいるそうです。笹飾りの竹は小枝を落として物干しざおに使い、小枝は飾りがついたまま川に流して水を浴び、洗い物をしたと伝えられているそうです。それが、本来の「みそぎ」をして盆の準備をする日ということでした。それが明治に入って一度衰退しますが、昭和になって仙台商人の有志が七夕飾りを復活させ、今に至っているということです。
sendaitanabata.jpg
 仙台での講演の帰りに覗いた七夕飾りの根元には、午前中に各商店街ごとに飾り付け審査で選ばれた賞ごとに、金、銀、銅のプレートが付けられていました。その手の込んだ飾りを見ていると、仙台ではこの七夕祭りが終わると夏が終わった気がするのだろうなと思いました。

投稿者 fujimori : 17:04 | コメント (4)

2009年08月07日 近頃思うこと

休暇

 今、学校は夏休み真っ盛りです。しかし、園は夏休みがありません。ほかの仕事でも夏休みがないところも多いでしょう。昔は、園には様々な特別休暇がありました、お盆休みとか、年度末、年度初め休暇とか、開園記念日とか、生理休暇などです。それらの休暇が今は有給休暇にまとめられています。そんな有給休暇を上手に使って、夏の間に海外などの旅行に行く職員がいます。職場としても、園児が少なくなる夏の間の有給を消化してもらえると助かります。いくら権利だと言っても、忙しい時期に有給を使って長く休みを取られると、ほかの人に負担がのしかかってくるので、計画的に使ってほしいと思っています。
 そうはいっても、有給休暇はなかなか取りづらいようです。有給休暇の取得に関してオンライン旅行会社「エクスペディア」が実施した「有給休暇実態調査2009」が公表されています。「有給休暇取得率」は、仏、独、米、豪などの主要11カ国中、日本は2年連続堂々の最下位でした。また、「有給休暇をすべて取得した人の割合」の項目では、イギリスが79%で1位、続いてフランスが78%、スペイン77%、ドイツ76%、カナダ76%、アメリカ66%、オーストリア57%、イタリア56%、オーストラリア56%、ニュージーランド55%、そして最下位が日本で、なんと8%という結果です。それにしても、ワースト2の10位であるニュージーランドにずいぶんと大きく水をあけられています。追いつくのには、何年もかかりそうです。ただし、法で定められている有給休暇の日数は日本では10日で、先進国の中ではワースト2ですが、最も少ないのはアメリカの0日です。
 有給休暇をすべて取得できない理由の第1位としては「仕事が忙しく、休暇をとっている暇がない」(39.5%)、第3位には「とりづらい雰囲気」(23%)などが挙がっているそうです。R25という雑誌に、有給を摂って旅行に行くために秘訣が載っていました。これは、「仕事が忙しいあなたのための週末海外!」(情報センター出版局刊)の著者、吉田友和さんが提案しているものです。「仕事をある程度こなしたうえで、“旅キャラ”を確立するのがポイント。『あの人はいつも旅ばっかりしているから…』と思われれば、有休はガゼンとりやすくなりますよ。そもそも有休をとれないっていうのは、物理的な理由よりも、むしろ精神論的な部分が大きいと思うんです。みんなが気を遣いすぎているというか…。最近は世の中的にも休暇取得を奨励するような風潮があるので、その点でもずいぶん有休をとりやすくなっていると思いますね」
 そして、吉田さんによると、「旅キャラ」を確立する主なポイントを以下のようにあげています。「自分がいかに旅好きなのかをアピールする」「旅行に行く時は嘘をつかずにきちんと公表する」「旅行以外の理由では極力有休をとらない」「普段から仕事で上司ににらまれない程度の成果を残す」「職場へのお土産は欠かさない」だそうです。
1週間程度の有給休暇でやってみたいこととしては、51%の人が「1~3泊程度の国内旅行」を挙げ、「4泊以上の海外旅行」(29%)、「温泉」(29%)だそうです。また、ヨーロッパ並みの3~4週間の長期有給休暇がとれた場合にしたいことでは「4泊以上の海外旅行」が55%でトップに挙がり、「4泊以上の国内旅行」(35%)、「1~3泊程度の国内旅行」(20%)となります。私も旅行が好きで、時間を見つけてはいろいろな所に出かけるようにしています。それは、決して必ずしも海外とか、遠いところというわけではなく、日本にもいろいろといいところがあります。上手に有給休暇を使って、普段から視野を広げる必要があると思います。

投稿者 fujimori : 17:41 | コメント (4)

2009年08月06日 記念日

ゲン

 今日は、広島の「原爆の日」です。今年で原爆投下から64年になります。
genbaku.JPG
ブログでも書きましたが、先日広島に行って、久しぶりに原爆ドームを見てきたこともあって、原爆が投下された午前8時15分には講演先のホテルにいたのですが、テレビで放映されていた「原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」に合わせて、起立して1分間の黙とうを捧げ、約5万人の犠牲者を悼み、また世界の平和を祈りました。先日の第1次世界大戦開戦記念日のときのブログではありませんが、戦争は、いつの世でも、どんな大義名分があろうとも人類だけでなく、すべての生き物にとって悲惨なものです。それは誰でもわかっていることですが、なかなか戦争はなくなりませんね。命の価値にはその数には関係がありませんし、誰の命とかにも関係ありませんが、それでも多くの一般的な人々を一度に殺傷してしまい、しかもその後遺症に何代にもわたって襲われる原子爆弾の使用は、二度と繰り返さない決意と合意が特に必要です。
こんな気持ちになるのも、ただ毎年繰り返される式典をニュースで見てもその決意は少しずつ薄らいでいきますが、実際に広島に行って原爆ドームを見てみるとか、原爆資料館を訪れるとまた平和を願う気持ちが新たになります。ですから、いま、オバマに広島に来てもらおうとしているのです。
もうひとつ、私が直接のその悲惨さを知った一つのきっかけになったのが漫画「はだしのゲン」があります。私はその漫画を読みましたし、そのシリーズの実写映画の3本ともビデオに録画して持っています。この「はだしのゲン」は、広島での被爆体験を基に漫画家、中沢啓治さんが描いたベストセラー漫画ですが、今日のニュースによると、「はだしのゲン」全10巻の英訳版が完成し、ほかにも十数カ国語に翻訳され、世界各国で幅広く読まれ始めているそうです。
この漫画をアメリカで読んだ人は、「学校では被爆の苦しみを教わらなかった」「ゲンは核兵器の恐ろしさを伝える生き証人だ」などの感想を持ち、初めて知る被爆者の苦難に衝撃を受けた様子です。その結果、「われわれ米国人は、恐るべき核の破壊力を教えられていない。ヒロシマ、ナガサキの惨劇がまた繰り返されるかも、と思うと恐ろしい」という感想を述べた人もいるそうです。また、最近は「はだしのゲン」を教材に取り入れる高校や大学が出てきているようです。教材で取り上げた教師の一人は、「ゲンは被爆体験を世代や文化を超えて伝える力を持っている。学生はゲンに触発され、さまざまな社会や政治の問題を深く考えるようになった」と言っていますし、また、この教材で勉強した人には、「原爆の熱線で溶けた人の顔を漫画で初めて見て、あまりのショックで口を閉じるのも忘れてしまった。敗戦国の人たちが負った心の傷を、これまで考えもしなかった」と語っているそうです。そんな反響の中で、作者の中沢さんは「まずは米国でしっかり読まれてほしい。オバマ大統領にも娘さんたちと一緒にぜひ読んでもらいたい」と話しています。
まだまだアメリカでは原子爆弾の使用を正当化する風潮がありますが、戦争の悲惨さをドキュメントで伝えることも事実をきちんと伝えるという意味では重要なことですが、物語映画などの映像で伝えることも大切です。また、この「はだしのゲン」のような漫画にも世界に伝える力があるのかもしれません。

投稿者 fujimori : 23:12 | コメント (4)

2009年08月05日 近頃思うこと

園の前の花

 身の回りには様々な自然があります。空には星が瞬き、草木が息づき、昆虫が動き回っています。私はそれらどの自然を見ても興味がわきますし、それらについていろいろと知りたいほうです。しかし、いろいろなことに興味を持つ分だけ一つのことにはあまり深くなく、いろいろなことを知りません。星も代表的な星しか知らず、草木も目立ったものしか名前を知らず、虫も同様です。本当は、もっといろいろなことを知ったらさぞかし面白いだろうと思うことがあります。そんなときに、身の回りに物知り博士がいたらいろいろと教わるのにと思います。というのは、名前などいくら図鑑などで調べても、写真と比べてもなかなかわからないことが多いからです。ですから、少しでも知っているものに出会うと少しうれしくなります。
 先日、園の周りを歩いてみました。その時にブログで書いた蝉の抜け殻を見つけたのですが、今の時期、花は暑さに参っているようで、元気良く咲いている花は、カタカナの名前の花が多い気がします。その中で、園の前にたくさんの花をつけている草を見つけました。
yaburan.jpg
この花は、自生もしていますが、見たものは移植されたものです。その花は、ユリ科の薮蘭(やぶらん)です。山菅(やますげ)ともいいます。国内では、本州や四国、九州、沖縄に自生していて、林の地面付近など薄暗い場所で見かけることが多い常緑多年草です。ですから、林縁などの藪に自生して、葉は、平たく細長い線状で蘭に似ていることから、江戸時代のころに、「藪蘭」と名付けられました。
 昔から、繁殖力は旺盛で、対陰性も強いことから、比較的育て方が簡単であることから、庭園の地面を覆う下草などとして利用されたりしています。果実は、球形で直径約7ミリで、熟すと黒くなり、種子は果実を破って飛び出します。根茎は太く短く堅い木質で、根にはひげ根が多数あって、根にはところどころに肥大した小塊があります。初冬にこの根の肥大部分だけを掘り取り、水洗いして天日でよく乾燥させます。これを生薬名で、「大葉麦門冬」といいます。大葉麦門冬は主に漢方に配剤され、「農業全書」(1696)の薬種類の麦門冬には、「大小二種あり、大きなるはやぶの中に多し。紫花をひらく。性もっともよし」との記述があり、民間薬としても滋養強壮・催乳・咳止めに用いられています。
よく、ほかの薬でも「滋養強壮」という言葉を聞きますが、それは、体の様々な臓器を刺激し、貧血を治し、栄養をつけ、強いからだにして体質の変化を図る目的で行うものです。ですから、滋養強壮によいとされる食べ物は、疲れやすく、体力がないと思っている人や、働き過ぎのための疲れが溜まり、脱力感、不眠、食欲不振、胃腸障害などのある人の為に食されてきました。このヤブランは、その中の一つです。
また、催乳というのは、母乳がよく出るような役目ということです。母乳は乳児にとっての最良の栄養品ですが、なかなか出ない人もいます。そんなときに、簡単に人工栄養に切り替えないで、なるべく母乳を飲ませるようにします。そんなときに服用したようです。もともと、母乳があまり出ないということは、母体の体調に影響することが多いのです。ですから、滋養強壮に使われるということは、催乳にも良いとされているのでしょう。
何気なく咲いている花にも、昔の人は目を向けていたのでしょう。

投稿者 fujimori : 21:13 | コメント (3)

2009年08月04日 近頃思うこと

今月の1日、第91回全国高校野球選手権大会の49代表が全部出そろいました。8日から、夏の代表的なイベント高校野球が開幕します。各地域では、どこが代表高になるかで悲喜こもごもだったことでしょう。先日訪れた香川では、藤井学園寒川が古豪・高松商を破り、1974年の創立(創部)以来初の甲子園出場を決めたということを聞きました。この寒川野球部のOBにココリコの遠藤がいることが話題になっていましたが、彼は、高校へ進学するときに複数の名門校からスカウトされたそうです。しかし、彼の地元の大阪は甲子園での道はかなり激戦区でしたので、香川の同校に進学したそうです。しかし、結局は度時期に尽誠学園に在籍していた今巨人軍の谷の活躍で阻まれ、甲子園出場の夢は果たせなかったのです。
甲子園への道はなかなか険しく、甲子園出場は高校球児の夢です。そのための練習はとても大変です。特に夏の大会に向けての練習は暑さの中ずいぶんときついことでしょう。先日、遠藤がその思い出を語っていたことを聞きました。その話の中で、なんといってもきつかったのは、のどが渇いても「水を飲んではダメ!」というもので、草むらに隠した水を浸した手拭いを、球を拾うふりをして吸っていたと言っていたそうです。
今の常識では、水分は、随時補給が基本になっています。摂取量は、野球、サッカー、バスケットの場合、練習前は250~500ml、練習中は500~1000ミリリットルが目安です。今日の読売新聞に熱中症のことが特集されています。熱中症とは、体の中と外の「あつさ」によって引き起こされる、様々な体の不調であり、専門的には、「暑熱環境下にさらされる、あるいは運動などによって体の中でたくさんの熱を作るような条件下にあった者が発症し、体温を維持するための生理的な反応より生じた失調状態から、全身の臓器の機能不全に至るまでの、連続的な病態」されています。熱中症という漢字は、「熱に中る」という意味をもっているそうです。
先日の大雪山系トムラウシ山でツアー客ら8人が凍死した遭難事故にしても、どうもガイドの状況判断の読み違いが原因のようですが、この熱中症による死亡事故も、依然として無くならない状況のようです。紫外線が体にはよくないと言われながらも太陽のもとで行う運動会に相変わらず愛着があるように、何が体に良くないかをいうとことよりは、根性論で運動をさせようとする人が多いのでしょうか。熱中症は「無知と無理から生まれる」いわれています。汗をかくということは、体の中から水分を外へ出してしまうということですので、出してしまったら、補わないと体の調子は悪くなるということは当然なことです。ただ、水だけをとっても、吸収のスピードがあまり良くないはため、脱水からの回復があまり早くありませんので、塩分を捕ることで吸収スピードが早くなり、回復が早くなるのです。水分を補給するときには、一緒に塩分を摂ることが大切です。これが、スポーツドリンクです。そして、このスポーツドリンクには糖分も含まれています。糖分を一緒にとることによって、運動時のエネルギー補給という意味もあります。
水分を摂ることは、運動時だけでなく、「習慣」することによって暑さによるストレスに強くなるなどの効果があります。日常時の水分補給の目安としては、就寝と起床時、入浴の前中後、食事に付け加えるなどして150~200ml程度(約コップ一杯)飲むことが必要だと言われています。そして、個人の好きなときに飲むことができるようにする方法(自由飲水)では、旧態の「運動中、水は飲むな」とあまりかわりのない状況になる可能性が強く、定期的にとらせるほうが、体温上昇の抑制効果があったという研究報告があります。
上手に水を摂るようにしたほうがいいようですね。

投稿者 fujimori : 21:42 | コメント (4)

2009年08月03日 近頃思うこと

抜け殻

 先日訪れた万象園では、急いで夏を取り戻そうと蝉が盛んに鳴いていました。たぶん、ほとんどはクマゼミだったと思います。大型で、翅は透き通っていて、日差しが強くなる時間帯に腹をふるわせながら「シャンシャンシャンシャン…」と大声で鳴いていました。また、私の園の周りでは、アブラゼミが大きな声を立てています。「ジジジジジ…」という鳴き声は、じりじり照りつける太陽の暑さをより増幅させているようです。
 そんな日、園の裏の公園に散歩に行って、木の下にこんなものを見つけました。
utusemi.jpg
「空蝉の身をかへてける木のもとになほ人がらのなつかしきかな」
 空蝉です。いわゆる蝉の抜け殻です。地上に出ると短期間で死んでいくセミは 日本では古来より感動と無常観を呼び起こさせ「もののあはれ」の代表で、その蝉の抜け殻を空蝉と呼びました。もともと、「現(うつ)し臣(おみ)」から「この世の人」というのことを「うつせみ」というようになったという説があります。その音を漢字に当てはめて、万葉集では、空蝉と表記されます。それは、まさにこの世の中は、蝉のぬけがらのように仮のもので、はかないものだというイメージが重なったのでしょう。
 先ほどの短歌は、「源氏物語」五十四帖の巻の一つで、第3帖「空蝉」の中で歌われています。17歳のころの源氏が、どうしても忘れられない女性を慕うのですが、女性は身分の違いなどから源氏を避けます。避けられるとますます燃え上っていくのが恋で、なんとか会おうと忍び込みますが、彼女は薄絹1枚を残して逃げ去ってしまいます。そこで、源氏は、その衣を持って帰って大事にして、蝉の抜け殻になぞって歌を贈るのです。「空蝉が抜け殻だけを残して去っていくように、衣1枚を残して去ったあなたを 木の下であなたをお慕いして、懐かしく思い返しています。」と詠むのです。これに対して空蝉は、「空蝉の羽におく露の木がくれて しのびしのびに ぬるる袖かな」(空蝉の羽に降りる露のように、木の陰に人目をはばかって隠れて、私もあなた様を思って密かに袖を涙で濡らしています)
セミは、不完全変態をする虫です。しかも、儚さの代表として言われてきましたが、実は飼育が困難であるために成虫期間は1~2週間ほどと言われていたのですが、自然界では1か月ほど生きるようです。また、以前のブログでも書きましたが、人間から見ると地上に出てから自由になれて、それまでの地中にいる間はじっと耐えている期間だと勝手な思い込みがありますが、どちらが生きているあかしかわかりません。そんなことからすると、幼虫として地下生活する期間は3~17年(アブラゼミは6年)もあるので、決して儚いわけではなく、ずいぶんと長生きをする昆虫です。
しかも、このセミの抜け殻はとても貴重なものです。中国で古くから蝉蛻(蝉退とも書きます)という漢方薬として使われているのです。この漢方薬は、止痒、解熱作用などがあるとされており、日本でも、蝉退を配合することとによって消風散という漢方薬がつくられ、保険適用処方でも服用できます。消風散は、湿疹などの皮膚病の治療に使われています。臨床応用としても、解熱、鎮静薬、風邪などの発熱、悪寒に解熱薬として用いたり、蕁麻疹などの皮膚掻痒症に止め痒的効果や咽喉炎、結膜炎などの症状に消炎作用、化膿症や中耳炎に粉末にして塗布したりするそうで、決して蝉の抜け殻は空蝉ではなさそうです。

投稿者 fujimori : 22:59 | コメント (4)

2009年08月02日 講演先にて

 各地でやっと梅雨が明け始めました。暑い日が続きます。東京にいると、ピカチュウ探しに都内のJR駅を走り回っている子どもをよく見かけますが、今でも海へ山へ出かけているのでしょうか。海というと思いだす歌が、以前にこのブログで取り上げたことのある「我は海の子」と「海」という歌があります。「海」は、1913(大正2)年、「尋常小学唱歌(五)」に発表されたもので、昼と夜の海をよく表現しています。「松原遠く 消ゆるところ 白帆のかげは 浮ぶ ほしあみ 浜に高くして かもめは低く 波にとぶ 見よ昼の海 見よ昼の海」この歌からは、遠近だけでなく、高低差も、1,2番では明暗まで立体的に海を表しています。
 この歌の歌詞のように、浜辺の樹木というと、「松」が代表的なものです。松は、常緑樹で、針葉樹であるので防砂林には適しているからでしょう。静岡県の「三保の松原」、福井県の「気比の松原」、佐賀県の「虹ノ松原」の3ヶ所は日本三大松原として有名です。
 また、松という木は、日本では長寿を表す縁起のよい木とされていて、松、竹、梅のうちの一つで、食べ物などでは、松が一番上等とされています。また、能、狂言の舞台には背景として必ず描かれていますが、この松は演目によって山の松や浜の松、庭の松などに見立てられます。なぜ松が書かれてあるのかというと、色々な説があるようです。もともと能は野外で行われていました。そして舞台が大きな木の下に作られていました。それは、一つには、昔から大木には神が宿ると信じられていて、舞台を守っていただくという考え方もあったこと、また、季節で葉が散ったり、毛虫が落ちてこないように1年中色の変わらない松の木が好んで使われていたといわれています。歌舞伎でも「松羽目物」といって、能舞台をまねて歌舞伎の舞台の正面に老松を描いた舞台装置があり、能、狂言から取材した演目の多くでこれを使っています。
 今日訪れた琴平の金丸座(旧金毘羅大芝居)は、天保6年(1835)に建てられた、現存する日本最古の芝居小屋です。この舞台の背景も松が描かれています。
kabukibutai.jpg
 江戸時代になって、徳川家の本姓が「松平」であったこと、松と竹は他の植物を松ヤニや根っこで枯らして自分たちだけが群生するという特性を持っていることなどから封建時代の武士にとってもっとも理想的な姿であったために、松と竹はめでたい木として扱われ、鏡板と切戸の周りに描かれるようになりました。また、その樹形も盆栽によくつかわれるようにそこに歴史を感じるような様々な形をしていることなどから日本の文化を象徴する樹木となっていきます。また常緑樹として冬も緑の葉を茂らせることから、若さ・不老長寿の象徴とされ、日本の城に植えられ、非常時に実や皮が食料になるため重宝されてきました。
 また、松は江戸時代の多くの大名屋敷の庭園にも使われました。そして、庭園内には、特別に名前のついた松が存在します。高松にある「栗林公園」にも多くの松が使われていますが、中に鶴亀松(百石松)という110個の石を組み合わせ亀をかたどった岩組の背中に鶴が舞う姿をした黒松を配した美しい松があります。
riturinmatu.jpg
 また、丸亀二代目藩主京極高豊候により、中津の海浜に中津別館として築庭された「中津万象園」は、白砂青松の松原に続いて1500余本の矮松を植え、庭の中心には京極家先祖の地である近江の琵琶湖を形どった八景池があります。また、庭園内には、枝葉の直径15m余り、樹齢600年と云われている「天下の名松」といわれている「大傘松」があります。
mansyoen.JPG

投稿者 fujimori : 16:19 | コメント (4)

2009年08月01日 近頃思うこと

世界の花火

 今、日本各地で「花火大会」が行われています。先日も東京で「隅田川花火大会」が行われました。私が子どものころからこの花火を見ていました。花火が打ち上げられるたびに「たまや!」「かぎや!」という掛け声が、各家庭の屋根の上の物干し台から聞こえてきたものでした。花火は、もともと通信手段の一つであった「のろし」であると思われています。そして、日本人で最初に花火を見たのは、徳川家康であるという説があります。このように特に花火として外国から伝わったわけでもなく、日本の文化として改良されてきました。
ところが、この花火は外国でも見ることがあります。ディズニーランドでも花火が打ち上げられますし、アメリカでは独立記念日には各地で花火が打ち上げられます。先日、訪れた佐世保には、ハウステンボスで世界各国で活躍する花火師たちによる「第1回世界花火師競技会」が行われるというポスターが貼られていました。イタリアとオランダと中国と、そして日本の花火師たちの競演です。中国からは、北京オリンピックの開幕式・閉幕式の花火を手掛けた金山出口煙花製造有限公司からあげられるようですし、日本の花火師は昨年の上海国際音楽花火で第2位に輝いた北九州の株式会社ワキノアートファクトリーが上げるようです。
しかし、現在では日本の花火は世界一華麗で美しく、世界一精巧であるといわれています。日本の花火の色の主体は、炭火色と言われる色で、これが和火と言われるものです。硝石・硫黄・木炭を主として作られた火薬で、色は赤橙色でした。ですから、当時書かれた浮世絵の中の花火の色は、赤橙色一色なのです。それが、明治維新の頃になると、外国から様々な発色剤が輸入されてきて、これらを使って花火に色を加えたのが鍵屋でした。この頃からの新しい色を「洋火」とよびます。大正時代に入ると、日本の花火製作はさらに活発になり、普通の円形の花火に、芯を入れた「芯物花火」、芯が二重に入る「八重芯」、芯が三重の「三重芯」、最近は、芯が四重になる「四重芯」が完成しています。
日本の菊花型割物花火の特色は3点あります。まず、まんまるく(球形に)、大きく空に色とりどりの花を拡げる。次に、花弁のひとつひとつの色が変わる。そして、ひとつの円でなく花の芯のように二重三重の円(同心球)を描くというものです。
それら日本の花火に対して、外国のとくにアメリカ、ヨーロッパ(イタリア、スペインなど)、オーストラリア系の花火は必ずしも円く開きません。それは、打ち上げ方や演出の根本的な違いだけでなく、花火玉の形にも基本的な違いがあるそうです。日本の花火玉は球形ですが、外国のものは円筒形なのです。また花火に詰められる「星」も日本のものは球状です。さらに、別々の色を出す火薬を幾層にも重ねて丸めた物で、途中で色が変わったりします。外国の花火は円筒形で一種類の色の火薬だけを機械でプレスして作るので色の変化はありません。しかし、外国の花火のような円筒形では、同じ直径なら球形の入れ物より中身をたくさん詰められるという利点があります。さらに短い円筒形の花火をいくつか重ねて、順に点火していくようにするため、花火は直径より長い筒型のものになり、各ユニットの内容を変えて組み合わせることでより中身の濃い花火が制作できます。
 日本の花火師の素晴らしい技術によって、世界の花火よりも美しい姿を見せてくれます。

投稿者 fujimori : 22:46 | コメント (4)