待機児

 国では政権が代わりましたが、これからどんな政策が実行されていくのでしょうか。特に、子どものことに関してもマニフェストに表されていましたが、どうでしょうか。しかし、今までの少子化対策ではありませんが、その現象を正しく分析しないと、効果が上がらないだけでなく、逆の結果になってしまいかねません。
今、子どもが乳児のころから保育園に入れたいと思う人が増えました。その理由は、最近の不景気で働こうとする人が増えたからであるという考えが多いような気がします。また、最近の若い人は、育児が負担になり、人に預けようとする人が増えたからであるともいわれます。確かにそれらの理由もあるでしょう。しかし、私はどうも少し違うような気がします。その分析の背景には、「子どもは親が育てるのがベスト」であるという考えがありますが、はたしてそうでしょうか。
人は、社会の中で生きています。社会の中でそれぞれがそれぞれの役目を担って生きています。その人としての営みを子どもたちは学んでいきます。それが「生きる力」とも言える部分でしょう。「生きる力」というのは、無人島でサバイバルで生き抜く力ではなく、社会の一員として自分の役割を発揮できるような学びのことをいうような気がします。この営みを「生きる力」というのであれば、人は生まれながらにしてその力が備わり、その力を育てていこうとします。新生児が、自分の声と他児の声を聞き分けていることも分かってきています。
赤ちゃんが寝がえりを始める前に、動いているものを目で追い、音のするほうに顔を向けるという時期があります。そのときには、電池で動くものではなく、風が吹くとゆったりと動くようなモビールのような物を天井からぶら下げたり、風が吹くと美しい音色を奏でるウインドサウンドをぶら下げたりすることで、赤ちゃんの発達を促すと思っていました。しかし、実際に赤ちゃんを見ていると、動くものを目で追う時に、その対象として近くをよちよち歩く他児を目で追ったり、隣で寝ている他児が手足を動かしているのをじっと見ていることが多いのです。音にしても、他児が近くで何か音を立てるとそのほうに顔を向けます。この様子を見ていると、人は自分より強い他の生物が近付いてくることをいち早く察知するために、動きや、音に敏感になり、それが何かを見るためにそちらのほうに顔を向けるようになるのだという気がします。
しかし、少子社会では、家庭の中で自分以外で動いているものは親だけになります。赤ちゃんにとっては、親が動いている姿は速くて目で追うことができないのです。ですから、この時期に他の子どもと一緒にいることが必要になってきます。また、赤ちゃんは、ほかの子どもが遊んでいるのをじっと見つめています。それは、自分で遊ぶ時のために見て学んでいるのです。そして、その遊んでいるものが欲しくなり手を出します。しかし、まだまだものを取り合い、もめます。そこで大人が別の同じものを渡そうとしても、子どもは他児が遊んでいるものが欲しくてぐずることがあります。
これらは、社会の一員になるために、子どもが次第に他とのかかわりを学んでいく姿であると思います。子どもは、赤ちゃんの時から、いろいろの人の中で、他の子どもとのかかわりの中で生きる力を学んでいっているのです。このように、人は小さいころからある時間、子ども集団の中で生活することが必要であり、私は最近、その体験をするために母親は24時間ずっと子どもと二人だけで過ごすことが困難になるようにできているのではないかと思います。最近、兄弟が少なく、地域にも子どもが少なく、他児とかかわりが持てない少子社会では、親は、子どもが乳児のころから子ども集団に入れようという思いを持ちます。それが待機児を生むという状況になるのではないかという気がしています。

テレビ

「ヨミダス歴史館」という法人(教育機関、公共図書館、官庁、一般企業など)向けのサービスがあります。この利用は月額固定料金ですが、明治7(1874)年の創刊号から最新号まで1000万件以上の記事が検索・閲覧できる、日本で初めてのオンラインデータベースです。読売新聞東京本社が今年の2月に、明治・大正・昭和の新聞紙面をネットで検索できるオンラインデータベース「ヨミダス歴史館」のサービスを開始したと発表しました。今までもCD-ROMやDVDによる紙面データベース「明治・大正・昭和の読売新聞」では、検索ができました。また、1986年(昭和61年)以降の記事は、テキストデータベース「ヨミダス文書館」が販売されています。今回、2つのデータベースを統合したものです。
NHKにもNHKアーカイブスというものがあります。2003年2月1日にNHKのテレビ放送開始50周年記念事業として、埼玉県川口市の複合施設「SKIPシティ」内に開設された施設で、NHKが保有している映像・音源などについて、その時代を映し出した様々な記録を後世の代まで広く伝えていこうということで開設されました。NHKのテレビ・ラジオ番組等の膨大な量の映像・音声素材を収蔵しており、また全国のNHK各局と専用回線で結ばれ、素材を伝送することにより番組制作へ活用できるようになっています。また、NHKの映像ライブラリーは全国各地の放送局など52箇所でも「NHK番組公開ライブラリー」としてオンラインで視聴することができます。
民間初のテレビ局である日本テレビが開局したのは、56年前の8月28日です。開局した日のことは以前のブログで書きましたが、最初の番組は、当時の吉田首相などが出席して行われた開所式の実況放送です。読売新聞の「ヨミダス歴史館」には、開所式の慌ただしい準備の様子を伝えている新聞記事が紹介されています。「スタジオ内庭では雨中八百坪のテントを張って開局式場の支度に夜を徹し、式場にはテレビカメラ二台、受像機十台のすえつけも完了した」
また、正力松太郎社長が「明るくたのしいプログラムを提供致しますが、何分受像機が高価なためいますぐ多数の家庭にそなえることは困難であるのでまず大型の受像機を街頭の各所に進出させてテレビを大衆の中にとけこませ、しだいに各家庭に普及させていきたいと思う」と発言しています。この言葉の通り、確かに当時のテレビはとても高価で、なかなか一般の家庭では購入することが困難でした。当時、国家公務員の初任給(大卒程度)が9000円程度でしたが、国内メーカーであるシャープがいち早く開発・発売していましたが、価格は、14インチで17万5000円ですから、ずいぶんと高いですね。ですから、社長のあいさつの中では、すぐに一般の家庭に普及するという抱負ではなく、「街頭テレビ」によってアピールしていくと言っています。
その通りに、翌年には東京都内その他で144台の街頭テレビを公開したそうです。その街頭テレビの前に多くの人が集まって熱中した番組は、力道山がシャープ兄弟を空手チョップでなぎ倒していた姿でした。そのほかにもプロ野球、プロボクシング、 大相撲など、 特に話題のスポーツ中継がある日には、 都心で都電が止まり、窓ガラスが割れ、 百貨店の床が抜けるほどの大混乱を引き起こしたほどです。
昨日から、その日本テレビでは24時間テレビが放送されていますし、選挙速報では大いにテレビがその機能を発揮しています。ずいぶんと進んできたものですね。

選挙

今日から、このブログも5年目に入ります。
今から56年前の昨日の28日午前11時20分に民間放送初のテレビ本放送が開始されました。「JOAX-TV、こちらは日本テレビでございます」の第一声とともに始まった日本テレビでは、その2年後の55年、第27回衆議院総選挙で開票速報の放送を開始しました。取材レポートや政局討論会などが組み込まれ、リアルタイムの政治情報が茶の間に送られるようになったのです。
この時の選挙は、とても興味深いものがあります。それまでの内閣は1953年に、吉田茂首相が衆議院予算委員会において放った失言をきっかけに、衆議院において内閣不信任案が上程され、直ちに衆議院を解散(バカヤロー解散)したのちに誕生した第5次吉田内閣です。しかし、総選挙で過半数を獲得できなかった自由党は、改進党と保守連立を模索したが合意に達せず、少数与党でスタートしました。しかし、この吉田内閣は、造船疑獄の発覚と保守内紛で弱体化し、1954年に総辞職し、長期の「吉田政治」に終止符が打たれたのです。
そして、行われたのが第27回衆議院総選挙で、初めて日本テレビで開票速報が放送されたのです。その結果、日本民主党の鳩山一郎を首班とする第1次鳩山内閣が成立しました。この時の投票率は、男79.95%、女72.06%、計75.84%でした。この選挙だけが特別高かったわけではありませんが、今と比べるとずいぶんと選挙に対しての国民の意識が高かったことがうかがわれます。しかし、この選挙で、日本民主党だけでは衆議院で過半数に足りなかったため、首班指名選挙では左右両社会党の支持をもって首班指名を受けた。その際の見返りとして、鳩山は左右社会党に対して早期解散の約束をしたのです。
解散のときには、今のようになんとなく尻つぼみで消えていくのではなく、いろいろなドラマがありました。吉田内閣時代には、「馴れ合い解散」「抜き打ち解散」「バカヤロー解散」といわれるようにとてもワンマン的な解散の仕方が多かったのです。それに対して、当時の第1次鳩山内閣では、私からすると「約束解散」だと思うのですが、解散が行われた瞬間によって、違うイメージを国民に植え付けました。1955年1月24日、衆議院本会議場では政府三演説に対する代表質問が行われていた最中に突然、「ただいま内閣総理大臣から詔書が発せられた旨伝えられましたから、これを朗読いたします」と告げ、突然解散となったのです。約束され、いつ解散するのか待ちわびていた与党民主党と左右両社会党の議員たちは興奮の渦に巻き込まれたのです。
その時のことを後で新聞記者に鳩山が「なぜこの日に」と聞かれたことに対して、淡々と「天の声を聞いたからです」と答えた態度が、今までの吉田内閣の解散と違って、確実に新風を吹き込んでいるというイメージを与えたのです。ですから、そののち、「鳩山ブーム」が沸き起こるのです。しかも、鳩山の陽性の人柄と、政権掌握間近にGHQによって公職追放となったことや、病魔に倒れた悲運に対する同情が集まり、次の選挙では、民主党の候補者に票が集まったのです。
今日という日に、こんなことを振り返るとは、なんだか、不思議な気がします。

夏の終わりの朝顔

 朝顔市から始まった今年の夏、そろそろ終わりに近づいてきました。私は、このころの季節はあまり好きではありません。カラダ的には、とても気持ちのよい、さわやかな季節です。しかし、夏休みで子どもたちが街にあふれ、暑いと言いながら汗びっしょりになり、そんなときに下着を着替えるとか、シャワーを浴びる気持ちよさ、なんだか私は汗かきなのに、汗がだらだら出ると体の毒が出ていく気がします。そんな季節を過ごしていると、ふと冷たい風が体をよぎります。暑い夏の中に、秋の気配を感じます。すると、私はなんだか不安になります。
「秋でもないのに、人恋しくて 寂しくて黙っていると …」ではありませんが、人恋しく、寂しくなるのが秋です。というよりも、長い受験時代のせいか、受験が近付くような、何かやり残しが多いような、準備不足のような不安な気持ちがよぎるのです。夏というのは、開放的で、仕事も予定があまり入っていないので、溜まった仕事を片付けようと思っていたのが、ほとんど片付いていず、夏の間に何をしていたのだろうと思ってしまいます。夏休みの宿題がいっぱい残ってしまって、新学期の始業式が近付いて焦っている子どものような気分です。
 そんな夏の終わりも朝顔です。園の隣のうちには、今の時期には「チョウセンアサガオ」の花が咲きます。
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いつもは鈴なりですが、なぜか今年は花が少なく、しかも咲いたのがいつか気がつかないほど早かった気がします。この朝鮮朝顔は、ナス科の植物で、園芸用にはダチュラの名で広く知られていますが、マンダラゲ(曼陀羅華)とか、キチガイナスビなどと呼ばれることもあります。最近は、エンジェルズ・トランペットという名前で売られているのを見かけます。原産地は南アジアの外来種として帰化・野生化したものが見られます。
この花は、仏様が説法するとき、天から降りてきて人の心に喜びを感じることができる花といわれる四つの花(四華:曼陀羅華・摩訶曼陀羅華・曼珠沙華・摩訶曼珠沙華)のうちの一つといわれています。日本へは、江戸時代・明治時代に薬用植物としてもたらされたとされます。この花の名前がキチガイナスビといわれるのは、奇妙な形ということではなく、薬用植物ではあるのですが、使い方によっては毒性も著しく強いからです。ベラドンナやハシリドコロなどと同様にアトロピンを含んでおり、過去には鎮痙薬として使用されました。少し前に、オウム真理教が「ダツラの技法」と称して信者を洗脳、自白させるための薬物原料にこの種類を使ったことで印象が悪くなり、気の毒な話です。
しかし、日本麻酔科学会のシンボルマークにこの花が採用されているほど、重要な役割も持った花です。それは、世界初の全身麻酔手術に成功した江戸時代の医学者、華岡青洲が精製した麻酔薬がこの種を主成分としていたのです。華岡青洲は、ダチュラを主成分とする内服全身麻酔薬「通仙散」を完成させ、日本最初の全身麻酔による乳癌摘出手術に成功したこと、その開発までのエピソードなどが有吉佐和子の小説「華岡青洲の妻」に描かれており、数々の舞台や映画などで上演されています。この話は、次のブログで取り上げるほどとても興味深いものがあります。

サミット

 今月の26日のニュースで、フランスのサルコジ大統領が、各国に派遣した大使を大統領府に集めた恒例の外交演説で、フランスが主要国(G8)首脳会議の議長国となる2011年から同会議をG14に拡大する意向を示したことが流れました。G8サミットとは、日、米、英、仏、独、伊、加、露8か国の首脳及びEUの委員長が参加して毎年開催される首脳会議です。この8か国を14か国にしたいという提案です。新たに加わる国はどこかということには言及していませんが、プラス中国、インド、ブラジル、エジプト、メキシコ、南アフリカなどが候補とみられます。サルコジ大統領はこれまでも、サミット参加国の拡大を唱えてきていますが、具体的な日程を示したのは初めてです。大統領は演説で、中国など新興国を正式メンバーとしないサミットは「不十分だ」とした上で、来年カナダで開かれるサミットで拡大の道筋を詰め「11年、フランスが議長国を務める際にG8からG14への完全移行を達成したい」と言明しました。
 昨年夏、日本の洞爺湖で行われたサミットの記念写真を見て、アジアから唯一のサミット参加国ということをきっと誇りに思っているだろうということがうかがわれます。ですから、このサルコジ大統領の提案に日本は難色を示すであろうと思っていましたら、やはりそのようです。
この会議では、経済・社会問題を中心に国際社会が直面する様々な課題について、非公式かつ自由闊達な意見交換を通じて物事を決定し、その成果が宣言としてまとめられます。また、サミットには他の国際的なフォーラムと異なり事務局がありませんが、それぞれの国で総合的・横断的に様々な分野を総覧する立場にある首脳がトップダウンで物事を決めるため、適切な決断と措置を迅速に行うことが可能になります。この会議への参加国も時代によって変わってきたようです。
第1回首脳会議はジスカール・デスタン仏大統領(当時)の提案により、1975年11月、パリ郊外のランブイエ城において、日、米、英、仏、独、伊の6か国によって開催されました。その後、76年のプエルトリコ会議からはカナダが参加し、77年のロンドン会議からは欧州共同体(EC)(現在は欧州連合(EU))の欧州委員会委員長が参加するようになりG7となりました。そして、2003年のエビアン・サミット以降は、ロシアを「世界経済」に関するセッションを含め、完全に全ての経済協議に参加させる、「完全G8化」で合意しました。
このようなサミットを見習って、様々なサミットが行われています。今月24日には、東北6県の知事が論議する「東北サミット」が、今年のテーマ「東北の文化戦略」ということで行われました。また、G8サミットで議論される政治や経済の問題は世界中の子どもたちにも大きな影響を与えるということで、2005年からG8で取り上げられる国際問題を子どもたちの視点で話し合う「Junior8(ジュニア・エイト)サミット」がスタートしました。世界を代表する首脳陣に対し、子どもたち自身が貧困や教育などの子どもに関わる問題を解決するための提言を行うのですが、参加者は、ユニセフが主催するコンテストを通じて選ばれます。
今日と明日は、新宿で「GTサミット」が行われています。
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日本中の園長たちが70名ほど集まって、これからの新しい保育を考えようというテーマのもと熱心に話し合われました。園で総合的・横断的に様々な分野を総覧する立場にある園長がトップダウンで物事を決めるため、適切な決断と措置を迅速に行うことが可能になることを信じます。

 最近見直されている「武士道」ですが、もともと武士とはどういう人を指すのでしょうか。二千年前の書物「春秋左氏伝」には、「楚の莊王曰く、それ武は功を定め、兵を将をさむ。故に止戈を武と為す」という言葉があります。「武」という字の由来は、「二」「戈」「止」の三つの文字の組み合わせによる「二つの戈(ほこ)を止める」と言う会意文字であるとする説が知られています。戈(ほこ)とは、いわゆる楯と矛という武器です。止(あし)とは歩くという意味で、前進をすることをいいます。ということで、戈を執って前進することを歩武といいます。
また、後漢の許慎は「説文解字」の中で「武とは撫(ぶ)なり、止戈(しか)なり。禍乱を鎮撫するなり。禍乱を平定して人道の本(もと)に復せしめ、愛撫統一することが武の本義なり」と説いています。そのような「武」という字なので、日本では昔から、聖武、桓武、孝武など天皇の名前に使われることが多かったようです。
そういうことを考えると、「武士」は、もともと戦うものという意味が強く、「武士道」というと、戦うものとしての心構えということになります。ですから、「葉隠」に見られるような「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言としてあらわされるような精神だと誤解されることもあるのでしょう。その誤解が、太平洋戦争中の特攻や玉砕や自決時に使われてしまった悲しい歴史があります。ですから、新渡戸稲造の「武士道」では、心の在り方を表したのです。
それを、江戸時代に山鹿素行が「武」という字を除いて、「士道」という言葉を用いたのかもしれません。彼の著した「山鹿語録」には、戦いのない時代において、武士は特別に生産には従事しない職分なので、どのような存在であるかを問うています。それを、「人倫の道を実現し、道徳の面で万民のモデルになるところにある」ということで、道徳の面でも教養の面でもさらに自己を深めていかなければならないとしています。
また、「山鹿語録」の四十五巻中の「士道」篇には、「ますらおは、ただ今日一日の用を全うすることを極致とすべきである。一日を積んで一月になり、一月を積んで一年になり、一年を積んで十年とする。十年がかさなって百年になる。一日はなお遠く一時にあり、一時はなお長く一刻にあり、一刻もなお余りある一分にある。このことからいえば、千万年のつとめも一分より出て、一日のうちに究まるものである。だから一分の時間をゆるがせにすれば、ついに一日に至り、終わりには、一生の怠りともなる。天地の生々は一分の間もとどまることがなく、人間の血気呼吸も一分の間も止まることがない。だから、その一瞬を大切に生きるべきである」また、「その志が正しい道に志すというものでなければ、まことの道に到達することはできない。だからこそ道に志すというのである。世馴れして物知り顔をする連中は、自己流の判断で道を定めて、そのほかの別の道はないと自分の意見にこだわると、まことの道から遠ざかって、ついには大道に入ることができない。武士の職分を知ったといっても、道に志すところがなく、また、知があっても正しい行ないが伴うのでなければ、万全とはいえない。これも最も詳しく究明しなければならないことである」とあります。
江戸時代、武士道を政治哲学にまで高めて武士の教育をしたのが山鹿素行であり、吉田松陰らに多大な影響を与えたのです。そういえば、保育士も「士道」が必要ですね。

松陰

JR九州の会員情報誌「旅三昧」の8月号の中の特集「ひと紀行」は吉田松陰です。そこには、松陰の簡単な生涯が書かれてあります。
ペリー来航にひと月前に二度目の江戸への旅がありました。そして、ペリー来航の話が伝わってきます。そのうわさの中で、松陰はいてもたってもいられず、佐久間象山らと実際に浦賀に出かけ、自分の目で黒船を確かめます。翌年、ふたたび来航し、日米和親条約に調印しますが、やはり松陰はじっとしてはいられません。アヘン戦争で大国・清が敗北したことを思い、松陰は、日本の危機を乗り越えるには、欧米の軍事力に何としても追いつかなければならないと考えました。そして、自ら海外へ出て欧米の実態を調査することを決意し、同郷の金子重輔と共に漁船に乗り込み、アメリカ軍艦が停泊していた下田沖へと漕ぎ出し、真夜中に軍艦の梯子に飛び乗り、アメリカ行きを頼みます。
 この時のことがアメリカの新聞「センチュリー」紙にこう書かれてあったそうです。「アメリカのフリーゲート艦ミシシッピイ号が江戸湾に到着した。とある日の夕方、きりっとした身なりの気高き風貌の日本の青年が、ちっぽけな小舟を漕いで、同艦に乗り込んで来た。アメリカで勉学をしたい、船に乗せて連れて行ってほしい、これはたっての願いである、ということを、青年は非常に丁寧に懇願した」
 しかし、これが叶えられず、二人は悔し泣きをしたといわれています。その時の様子を「ペリー日本遠征記」の著者ホークスは、次のように記しています。「この事件は、厳しい国法を犯し、知識をふやすために生命まで賭そうとした二人の教養ある日本人の激しい知識欲を示すものとして、興味深いことであった。日本人は確かに探究好きな国民で、道徳的・知的能力を増大させる機会は、これを進んで迎えたものである。この不幸な二人の行動は、同国人に特有のものだと信じられる。また、日本人の激しい好奇心をこれほどよく示すものは他にはあり得ない。…日本人のこの気質を考えると、その興味ある国の将来には、何と夢にあふれた広野が、さらに付言すれば、何と希望に満ちた期待が開けていることか!」
 密航の企てにより、松陰は萩で蟄居を命ぜられます。それでもくじけず、猛烈に読書し、ほかの囚人たちと勉強会まで始めると、何十年もの獄生活で希望を失っていた人まで生き生きとしてきます。獄全体の雰囲気の変わりように役人たちも驚いたほどだったようです。その後、獄を出ることを許され、人物育成の教育に情熱を燃やしたのが松下村塾です。27歳の松陰は、刑死するまでのわずか2年半ほどの間に、のちに明治維新を成し遂げ、近代日本を築き上げた英傑たちを輩出することになるのです。
「冊子を披繙すれば、嘉言林の如く、躍々として人に迫る。顧うに人読まず。即し読むとも行わず。苛に読みて之れを行なわば則ち、千万世と雖も得て尽す可からず。(書物を開いてみると、立派な言葉が林のように並んでいて、人の心にはげしく迫ってくる。しかし人びとは書物を読まない。たとえ読んでもみずから実行しない。まことに書物を読んでみずから実行するのであれば、千万年あったとしても、これらすべてを実行しつくすことはできない。)
 危機感を持って、非常に焦っていることがうかがえます。それほど正直に、天下を憂えていたのでしょう。

ひと紀行

 九州新幹線「つばめ」に乗って車内誌を見ました。よくブログで紹介するのが、飛行機の機内にある機内誌です。また、東海道、東北新幹線の車内誌です。同様に、JR九州には、「Please」という車内誌と、JR九州が発行している会員専用情報誌「旅三昧」があります。この「旅三昧」を、今回水俣で何冊かいただきました。その中で読み物としての特集に「ひと紀行」というものがあり、8月号では「吉田松陰」が取り上げられています。
 幕末に活躍した薩長の志士たちで、薩摩では「郷中教育」という師はいないで、青少年同士の学びあいの教育でしたが、長州では松下村塾で多くの弟子たちに影響を及ぼしたのが、この吉田松陰です。彼は、6歳のころに兵学師範の家であった吉田家の養子になります。そして「山鹿流兵学」を必死に学び、11歳にして藩主・毛利敬親の前で講義をしています。この講義は大成功し、藩主は松陰の非凡さに驚き「将来は素晴らしい兵学者になるだろう」と周囲に話すほどだったといわれています。実際、19歳で独立師範になり、22歳で山鹿流兵学で最も高い地位の免許を手にしています。
 この山鹿流兵学の始祖は山鹿素行です。彼は、会津に生まれています。先日、天地人つながり巡りで会津を訪れた際に、直江兼続屋敷跡に行ってみたら、その同じ場所に「山鹿素行誕生の地」という碑もたっていました。そして、その書は東郷平八郎が書いたものでした。
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しかし、彼は6歳のときに父親に従って江戸に出て、9歳のとき大学頭を務めていた林羅山の門下に入り朱子学を学び、15歳からは小幡景憲・北条氏長の下で兵学を、廣田坦斎らに神道を、それ以外にも歌学など様々な学問を学んだようです。
 彼はいろいろな大名から招かれますが、赤穂藩主浅野長直に仕えます。そして8年後には赤穂藩を致仕し、再び江戸で講義をします。そして、古学を提唱し、朱子学の観念論化を批判して「聖教要録」を著したため、幕府に忌まれ、翌年赤穂藩に配流されてしまいます。そのときに赤穂義士の大石内蔵助の年齢は、多感な8歳から17歳で、門弟でもあったわけですから、吉良邸の討ち入りには思想的に影響しているといわれるゆえんでしょう。
 その後、許されて江戸へ戻り兵法を教え、吉田松陰等に影響を与えたのです。新渡戸稲造の「武士道」が最近また注目を浴びていますが、この本はもともと「Bushido, the Soul of Japan」という英文で発表されたもので、「日本人の心」を表したものです。武士というと、どうしても刀を持って、斬り合いをする人というイメージがありますが、江戸時代は、もう戦いはなく、戦うものとしての武士の存在は必要でなくなりました。そこで、「武士の生き方」が問われることになったのです。このように儒教によって理想化された武士の生き方を、従来の「武士道」にたいして、とくに「士道」と呼ぶのですが、この士道の形成に最も力をつくしたのは山鹿素行なのです。これによって初めて、儒教的な「仁義」「忠孝」などの倫理が、武士に要求される規範とされるようになったのです。すなわち、「武力を持った武士」という「武道」から、「教養のある武士」ということで人格的に優れており、国民の模範となる存在を目指した「士道」に代わっていったのです。
彼は、1685年に63歳で亡くなりますが、墓は、園から歩いてもいけるところにある曹洞宗の宗参寺にあります。
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つばめ

「つばめ」のロゴマークといえば、旧国鉄のシンボルマークです。1930年(昭和5年)10月、東海道本線の東京駅から神戸駅までの間で運転を開始した特急が「燕」でした。その後、1930年(昭和5年)?1943年(昭和18年)と、1950年(昭和25年)?1975年(昭和50年)の間、国鉄には「燕」・「つばめ」の愛称を持つ特急列車が運行されており、戦前・戦後を通じ国鉄を代表する特急列車の愛称とされてきた、伝統ある列車名です。とくに、1964年(昭和39年)の東海道新幹線開業以前は東海道本線の特急であり、長年にわたって国鉄を代表する名門列車とされてきたのです。
現在のプロ野球球団東京ヤクルトスワローズの前身は、国鉄の外郭団体である財団法人鉄道協力会を中核として、財団法人鉄道弘済会、日本通運、日本交通公社などの企業により設立された「国鉄野球株式会社」の運営する「国鉄スワローズ」だったので、当時の国鉄特急である「つばめ」にちなんで、愛称名をスワローズとしました。その後、産経新聞に譲渡されてから鉄腕アトムに因んでチーム名を「アトムズ」と改称したのですが、再度ヤクルト本社へ譲渡されてしばらくして、虫プロダクションが倒産してしまい、アトムのキャラクター使用を取りやめたので、また元の「スワローズ」へ戻して現在に至っています。
このツバメのシンボルマークは、国鉄バスの側面にも描かれており、現在のJRバスグループでもこれを踏襲して、バスの車体にツバメを模したデザインのマークが描かれています。また、この由緒ある「つばめ」という列車名が、2004年(平成16年)3月以降、九州旅客鉄道(JR九州)が九州新幹線で新八代駅・新水俣駅・川内駅 ・ 鹿児島中央駅間を運行している新幹線列車の愛称として使われています。今回、この新幹線を利用して水俣まで行きました。また、シンボルとしてのツバメは、JR九州では、鉄道車両を飾るワンポイントとして、一般用から特急用に至るまで広く使用しています。
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今回乗車した新幹線「つばめ」は、いくつか工夫や新しい取り組みが見られます。800系新幹線で、その鉄道車両で2005年度のグッドデザイン賞を受賞しています。商品デザイン部門で公共交通関連機器・設備においてです。
まず、乗って驚いたのが、後ろから目に入るのが座席の背です。その背は高く後ろからだと頭が見えません。しかも、妻面にクスノキが使われています。
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座席にすわるとシートは、西陣織のモケットです。頭を後ろに着けると、座高が高い私でも十分と頭を休めることができる高さですし、その弾力をやさしく頭を支えます。また、座席のアームの部分やアームから取り出すテーブルも背と同じクスノキで作られています。
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また、前の瀬戸の間は割と広く取られており、パンフレット袋の素材は黒い革です。そして、日よけのブラインドも木製で、それら木材にはすべて不燃処置が施されているそうです。
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資料によると、座席の基部も木製なのは、座席の重量を大幅に軽量化することにより3両1ユニット化によって増えた軸重を軽減するという目的もあるそうです。そして、1、5号車の新八代駅寄りには、車椅子スペースとバリアフリー対応トイレが設けられており、出入り台の壁は柿渋色、客用ドアは古代漆色という伝統色が使われていて、手すりや握り棒は熊本産のサクラ材が使用されています。そして、トイレはサクラ材の手すりで温かさを感じますし、洗面室には八代のイグサの縄のれんがさがっています。
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全体的に日本の「和」を基本コンセプトとして、伝統の技が随所に光り、独自の意匠が施されています。
いろいろなところで、和の伝統が見直されてきています。

もやい

 様々な取り組みには共通点があります。特に、人を対象にするような取り組みにはほかの分野にも通じるような、ほかの分野に参考になるようなことがあります。
水俣病からのイメージを逆転発想し、地域環境を再生して成功した水俣では、とても面白い活動がいくつかあります。そのひとつに「村丸ごと生活博物館」があります。自分たちの暮らしを案内するのは、8名の生活学芸員、山菜とりや野菜作りなどにいそしむ15名の生活職人が、この町のあるもの探しの研修を受けます。自分の家、家まわり、集落のことなど自分たちの暮らしを調べていきます。地域にあるものを探して、確認していくのです。あるものを写真で撮り、「この草木は何と呼んでいるの?」「何に使うの?」というように外の人があるものに驚いて質問することによって、この集落の持っている暮らしの力を引き出していこうというものです。この試みは、元気な街づくりが目的で、外からいろいろな人が訪れるようになり、村人たちは住む誇りを持ち、自信も出てきたそうです。この取り組みが認められ、2005年に「第4回豊かなむらづくり全国表彰」農林水産大臣賞を受賞しています。
水俣再生は「もやい直し」といいます。「もやい」とは、「もやい結び」という紐の結び方を思い浮かべますが、もやいの意味は、もともと船をつなぐことや一緒に何かをするという意味があります。そこで、水俣では、人と人との関係、自然と人との関係が壊れてしまった地域の中で水俣病と正面から向き合い、対話し協働する取り組みを「もやい直し」と名づけました。そのために誰でも気軽に集まり、利用できる施設が水俣・芦北地方に3ヶ所建設されました。今回は、そのひとつの「もやい館」での講演でした。
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吉本さんの著書「地元学って何だろう」の中で、吉本さんはこのもやい直しの四つの原則を挙げています。「人それぞれの違いを認め合い」「人と人の距離を近づけ」「話し合い」「対立のエネルギーを、創造するエネルギーに転換する」です。この四つの原則は、私は組織の在り方でもいえることのような気がします。今、質の向上に競争原理を入れることといわれることがありますが、それは教育、福祉分野では逆に質の低下を招いていることは既に証明されています。それよりも「協同」「協力」であるといわれていますが、その協同、協力とはどういうことかというと、上にあげた四つの原則が当てはまると思います。
地元学は、三つの元気を作ることとしています。一つ目は人が元気になることです。そして、人が元気であるためには逆境と笑いが人を育てると言います。逆境は、それにあっても前向きにとらえて行動することで元気になるのです。未来に希望を描き、環境都市づくりに果敢に挑戦していった住民協働の心が、「もやい直し」になったのです。二つ目は地域の自然が元気なことが必要だといいます。海、山、川が元気であれば、生産と生活の場が豊かになり、漁業、林業、農業の基盤が整い、食べ物を得るだけでなく、遊びの場にもなるのです。三つ目は経済が元気になることだと言います。しかし、この経済は必ずしもお金が必要ということではありません。お金は人の縁を切り、季節をなくす側面があると言います。そうでなく、昔からあった「結」とか「もやい」といった助けあいのような共同と自給自足の経済であるのです。
いまこそ、日本は国の在り方、人の生き方、地域の再生を考えないといけない時期に来ているかもしれません。