開く

 今、日本中で話題をさらっているのは明日の「日食」でしょう。私も「遮光板」を買って、観察に備えています。その遮光板にはこう書かれてあります。「2009.7.22 皆既日食 日本で観察できるのは…46年ぶり!!ガリレオ望遠鏡発明から、400年」このコメントではありませんが、今年はまさに「世界天文年」です。
 また、国際宇宙ステーションで日本人初の長期滞在を経験した若田光一宇宙飛行士の手で、一昨日、日本人初の有人宇宙施設「きぼう」が完成しました。これは、4半世紀にわたる悲願達成です。この「きぼう」は、宇宙空間という特殊環境を利用した実験施設です。船外実験施設では地球大気や天体を観測したり、過酷な環境に耐えうる新材料のテストを実施するそうです。そのほか、微小重力を利用して、高品質なたんぱく質結晶を作り、医薬品開発に活用したり、放射線や微小重力が生物に与える影響を調べる実験などが計画されているようです。
 このような宇宙への扉を開いたのは、「司令船から切り離された月着陸船イーグルに搭乗するアームストロングは、7月20日午後4時17分(東部夏時間)に船を月面へ着陸させた。」というニュースではないでしょうか。ちょうど今日という日が、その記念日です。その記念日であることで、グーグルの検索画面では月の上に降り立ったアポロ宇宙船と、その後ろに美しく輝く地球が描かれています。また、グーグルは今日、40年前の1969年にアメリカのアポロ11号が人類初となる月面着陸に成功したこの日を記念し、グーグルアースで「ガイド付きの月ツアー」が提供されています。この画面を見てみました。そこでは、アポロ11号で月面に降り立ったバズ・アルドリン元宇宙飛行士と、アポロ17号で月面を歩いた最初の科学者となった地質学者のジャック・シュミット氏のガイドによる月ツアーが始まります。また、月面着陸している宇宙線の3Dモデルを見ることもできますし、360度回転する写真にズームインして宇宙飛行士の足跡を見ることもできます。
今日という日は宇宙への扉を開いた日であり、今年は天体への扉をガリレオが開いて400年という記念年です。また、今年は、1859年(安政6年)の開国・開港から150周年を迎える年に当たります。1854(安政元)年、2度目に来日したペリーと幕府役人との間で、横浜村において日米和親条約が結ばれ、日本は永く続いた鎖国を解いて開国しました。5年後の1859(安政6) 年、安政の五カ国条約にもとづいて横浜は開港場となりました。その年から横浜は生糸を中心とする貿易都市として、ついで重化学工業都市として急速に発展し、ついには首都東京に次ぐ大都市に成長しました。そして、開港百年を記念して編さんされた『横浜市史』の収集資料を基礎に、1981(昭和56)年、和親条約締結した場所に「横浜開港資料館」が開館されています。
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そして、今年は開港150周年ということで、横浜は未来への「出航」をテーマに、「開国博Y150」が開催されています。昨日の休みの日に行ってみました。みなとみらい地区を中心としたメイン会場「ベイサイドエリア」の目玉は、フランスの巨大スペクタクルアート劇団「ラ・マシン」による「巨大なクモ」です。「クモ」は「糸」で巣をつくる動物であり、きわめて創造的な生命体です。ですから、今回のY150のさまざまな会場をつなぎ 「横浜のゆめ」 をつむいでいくと同時に、「Web = クモの巣」 型ネットワーク社会のシンボルとして「クモ」が選ばれているそうです。
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雷魚

 露店でナマズを飼ってきましたが、その店では他には「ウナギ」と「カメ」と「カブトムシ」も売っていました。私が子どものころには、縁日やお祭りの時の露店で売っている生き物は、代表がもちろん金魚釣りですが、そのほかには、釣りとして小さな針のついた釣竿を渡していたのが土用丑の日の主役である「ウナギ釣り」と「ライギョ釣り」でした。
子どものころに見たライギョの姿は強烈でした。体は前後に細長い円筒形をしていますが、口は大きく、下顎が上顎よりも前に突き出ており、鋭い歯が並んでいました。胴の横には蛇のような模様があり、私は子ども心になんだかいかにもその名の通り雷の模様に見えたものです。また、注意事項として、口の中へ手を入れると噛みつかれて出血することがあるので、捕まえるときには気をつけるように言われたことも、この魚の獰猛さを感じた理由でしょう。
自然界では、朝や夕方の薄暗い時間帯、または水が濁っている時に活発に活動します。おもにほかの魚を食べる肉食性ですが、他にも甲殻類、昆虫類、カエルなど水生動物のほかときには水鳥の雛やネズミなどの小動物など幅広く捕まえて食べるようです。水底にじっと潜み、水中や水面を通りかかる獲物に飛びかかっている姿がよく図鑑に載っていました。
また、雷魚という名前からも怖さを感じました。この名前の由来はいろいろあるようです。悪天候時に行動することから「雷を呼ぶ」と見られたからとも、獰猛な捕食行動が「雷が鳴るまでくわえた獲物を離さない」と見られたからとも、「模様が雷の柄」のように見えるからなどがあります。
小さい頃の獰猛で、なんだか怖いと思っていたライギョですが、よく知ってくると、それだけでないことを知りました。産卵の際に水草などを集めて巣を作るものもあるそうですし、卵や稚魚を口内で保護するものなどもいるようです。ライギョといっても、日本では「カムルチー」「タイワンドジョウ」「コウタイ」の3種が分布しています。これらはもともと東アジアに分布し、日本には人為的に導入された外来種で、導入当時には「チョウセンナマズ」とも呼ばれていました。その中で最も大きくなるのが「カムルチー」で、最大90cmくらいまで大きくなります。中国から朝鮮半島に持ち込まれ、日本に持ち込まれたのは割と最近のことで大正の終わりころです。「タイワンドジョウ」は小型で、明治時代に台湾から持ち込まれました。「コウタイ」も全長30cm程度の小型種です。
それにしても、なぜ、縁日などでライギョ釣りがあったのでしょうか。ウナギのように蒲焼で食べることもありましたし、観賞魚として飼われることもありましたが、それにしても不思議です。ただ、私はその恐ろしげな姿故にライギョ釣りはしませんでしたが、今はナマズ同様に飼ってみたいと思います。それは、ナマズ同様、急激に日本から姿を消してしまっているからです。私は、都会育ちですから、魚に懐かしさを感じるのは縁日の思い出と共にあるのかもしれません。
ほかに、飼ってみたいものに「タナゴ」があります。この魚も私の小さかったころの思い出とダブります。懐かしい種は、絶滅危惧種でもあります。大切にしたいものです。

土用

 今日は「土用丑の日」、新聞広告から町の中まで鰻一色です。つくられた記念日として宣伝効果抜群なのは、バレンタインデーと並び称されますね。
 鰻といえば蒲焼ですが、名古屋の「ひつまぶし」もおいしいですね。名古屋に、「なまずや」という「ひつまぶし」で有名な店があります。この店の由来は、「その昔、中山道沿いの御茶屋「なまずの蒲焼き」を供していたのが発祥とされています。その後、岐阜に移り「うなぎの蒲焼き」を始めたところ、それが評判になり「なまずや」という名の「うなぎや」になったということです。さらに時を刻み昭和二六年、ここ尾張名古屋の地に「名古屋なまずや」として営みを創めました。」と書かれています。
 夏バテが始まる丑の日にウナギを食べようという今日という日ですが、確かに日本でスタミナ料理といえば、食材としてうなぎが有名ですが、ナマズもスタミナ不足を解消してくれる食材だったようです。今でも、タイでは「プラードゥック」というナマズが、栄養に優れたスタミナ源として、パワーをつけたいときなどに食べられているそうです。味は淡白で。口当たりは柔らかく、高たんぱく、低脂肪、ビタミンA、B1、B2が豊富な食材です。今では、日本ではナマズ料理あまり食べませんが、古代から食用魚として漁獲されていたようです。
また、ナマズは日本でも川や沼地のような淡水によく見られた魚でした。ですから、さまざまな文化に取り入れられた歴史をもち、浮世絵などの絵画の題材にされました。そんなナマズが、先日、朝顔市に行ったときに露店で300円で売られているのを見つけ、早速買ってきて、いま、園で飼っています。
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扁平な頭部と幅広い口、長い口ヒゲ、鱗がなく、体表はぬるぬるとした粘液で覆われており、目は小さく背側寄りについています。その顔をして、体をくねらせて泳ぐ姿は愛嬌があるのですが、実はかなり貪欲な食性を特徴としています。
基本的には夜行性のようですが、昼間に園では餌をあげるときに寄ってきます。普段は、昼間流れの緩やかな平野部の河川、池沼・湖の水底にいて、岩陰や水草の物陰に潜んでいます。ですから、飼育するときには、水槽の底には川砂を敷き、隠れる場所を作ってあげます。自然界では、口ヒゲを利用して餌を探し、ドジョウやタナゴなどの小魚、エビなどの甲殻類、昆虫、カエルなどの小動物を捕食しますので、基本的には肉食です。ですから、園では、肉食用の餌をあげています。
ナマズといえば、日本では、地震の予兆として暴れるという俗説が広く知られています。東京の羽村町にある羽村動物園には、入ってすぐのところに「地震予知動物観察所」があり、「ナマズ」のほか「キジ」「キンケイ」「コイ」が飼われています。確かに、子どもの頃我が家ではキジを飼っていましたが、地震の前にケーン・ケーンと甲高く鳴いていました。ナマズはどうでしょうか。微振動や電流などに反応しているとも言われていますが、実は科学的な実証は成されていないようです。地下に大鯰が住んでいるという説もありますが、この説は江戸時代中期に民衆の間に広まっていました。「安政見聞誌」には、ウナギを釣りにいったら、ナマズが騒いでいたところ、その3~4時間後に安政江戸地震が起きたということが書かれています。
園のナマズは、地震を教えてくれるでしょうか。

梅雨明け

東京では今日は少し雨が降りましたが、関東甲信越地方は7月14日に梅雨明けしています。梅雨明けは、地方ごとに気象台が気象庁と打ち合わせ、1週間先までの予報資料で降雨の有無などを判断して決めていますが、梅雨は、太平洋高気圧が南から張り出して日本列島を覆い、梅雨前線を北に押し上げることで明けるのです。東京では、平年が7月20日ですから、少し早いようです。梅雨入りは平年より2日くらい遅かったようですが。それよりも、今年の特徴として、東海や北陸、近畿、中国地方などの梅雨明けより関東甲信越のほうが早かったという点です。名古屋地方気象台によると、関東甲信地方が東海地方より先に梅雨明けしたのは2001年以来で、統計を取り始めた1951年以降、過去に8度あるだけだということです。
また、九州北部がなかなか梅雨明けしないようです。この地方も関東甲信地方より遅かったのは、7年ぶりだそうです。競争ではないので、なにも早いほうがいいわけでもないのですが、それが何か気象に影響しないかどうかということが心配です。今日の新聞によると、今年は大陸からの寒気に押されて、太平洋高気圧の張り出しが弱く、梅雨前線が九州北部付近の上空に停滞しているために、九州地方では、来週いっぱいは梅雨明けしないとみており、しばらくぐずついた天気が続くそうです。
 それよりも、今年は気をつけたほうがいい現象が起きています。気象庁によると、ペルー沖の海面水温が上がり、日本上空の高気圧の発達を抑えることで、冷夏や大雨の原因となるエルニーニョ現象が発生しており、冬まで続く可能性が高いといっています。エルニーニョの年には、57年の諫早豪雨や82年の長崎豪雨、97年に鹿児島県出水市で21人が死亡する大雨などが起きていますので、九州地方の方は気をつけて準備をしておいたほうがいいかもしれません。
 「エルニーニョ」という言葉は、は、スペイン語で「男の子-神の子-」という意味だそうです。もともとは、ペルー北部の漁民が毎年クリスマスのころに現れる沿岸の小規模な暖流のことを「エルニーニョ」と呼んでいました。この暖流は、その時期になるとあらわれるものですが、数年に一度、ペルー沿岸だけでなく、もっと広範囲の中部太平洋赤道域から南米沿岸まで海域で海面水温が平年に比べて高くなり、塩分が少ない海水が現れる状態が6カ月から1年程度続くことがあり、その現象を「エルニーニョ」と区別するため「エルニーニョ現象」と呼んでいます。これとは逆に、中・東部太平洋赤道域の海面水温が平年に比べて低くなる現象をスペイン語で「女の子」を意味する「ラニーニャ現象」と呼んでいます。
エルニーニョ現象が起こると世界各地で気温や降水量の変化が顕著に現れやすくなり、日本では、長梅雨、冷夏、暖冬、日本付近では台風の発生数が減少する傾向があるそうです。世界では各地に高温、低温、多雨、少雨などが発生するようです。また、海水温の変化による影響として、ある地域では漁業不振で大打撃を受け、ある地域では殆ど水揚げされないはずの魚介類が大漁となることがあるそうです。日本では暖冬で冬物が販売不振に陥るため、経済にも影響が波及します。エルニーニョ現象の原因はまだよくわかっていないそうですが、熱帯の太平洋全体におよぶ気象の変化、さらには地球全体の気象の変化と関係しているといわれているように、これらの現象も結局は人間が引き起こしているのかもしれませんね。
気象異常は、災害だけでなく経済にまで影響しますので、気をつけたいものです。

明日という日

 昨日、園の携帯電話にこんなメールが入ってきました。「東京都光化学スモッグ情報(2009/07/16) 東京都の光化学スモッグの発令・解除状況をお知らせします。 発令地域 区西部 学校情報:14時20分提供 予報:発令なし 注意報:発令なし 警報:発令なし」
今の時期は、ほとんど毎日こんな情報が流れてきます。特に、この中の「学校情報」というのは、子どもに影響する程度ですが注意を要します。
自治体では、大気汚染防止法に基づき、常に大気汚染の監視を行っています。また、全国の大気汚染測定局では、24時間自動で1時間ごとの大気汚染の状況を測定しています。環境省はそのデータを収集し、「そらまめ君」(環境省大気汚染物質広域監視システム)によって情報提供をしています。このネーミングは、シャレで「空をマメに監視している」ということからつけられています。そして、環境省では,光化学スモッグによる被害防止のために,2002年6月27日より,携帯電話で光化学スモッグの注意報・警報の発令状況と1時間ごとの大気中濃度を見ることができるサイトを開設しました。外に出るようなときとか、外で長時間仕事をしたり、外でイベントをやるときとかには、その情報を見るように言われています。同時に、地方自治体では大気汚染物質を排出している工場・事業場に排出量の削減を実施するように要請したり、幹線道路などでは電光掲示板などで自動車の使用の自粛を促すことになっています。また、自治体によっては、「光化学オキシダント注意報」が発令された場合、教育委員会、有線放送、広報車等を通じて住民に知らされます。新宿区でも、携帯電話とパソコンメールのその情報が自動的に入るようになっています。
 この「光化学スモッグ」は、1945年にアメリカのロサンゼルスで初めて観測され、そのため「ロサンゼルス型スモッグ」とも呼ばれています。日本では1970年7月18日に、東京都杉並区の高校でグランドで体育の授業中に、女子生徒が突然目の痛みや頭痛、のどの痛みなどを訴えて倒れ、43人が病院へ運ばれました。そして、東京都公害研究所の調査によって光化学スモッグによるものということが判明して以来、注目されるようになりました。そこで、明日の7月18日は「光化学スモッグの日」と決められています。
どうして「光化学オキシダント」という物質が発生するかというと、塗料や接着剤などに溶剤として含まれている揮発性有機化合物と、自動車や工場からの排気ガスに含まれる窒素酸化物が太陽からの紫外線を受けて化学反応を起こすと生まれるといわれています。特に気温が高く、風が弱く、日差しの強い日は大気中の光化学オキシダントの濃度が高くなり、大気中に白くモヤがかかったようになります。この現象を「光化学スモッグ」というのです。
平成19年の「光化学オキシダント注意報」の発令状況は、発令都道府県数が28都府県で、発令延べ日数が全国で220日(18年は177日)だったそうです。また、光化学大気汚染によると思われる全国での被害届人数は、14県で合計1,910人(18年は8都県289人)だったそうです。
この夏、窓も開けられず、子どもたちが外で思い切り遊んだり、時としてプールにも入れない状況が起きるのは、結局は人間が自ら招いた結果なのです。

荒城

「水を 沢山 くんで来て 水鉄砲で 遊びましょう 一 二 三 四 ちゅっ ちゅっ ちゅっ」という「幼稚園唱歌」の中にある「水遊び」という歌の歌詞です。この「幼稚園唱歌」は、東京女子高等師範学校の教授だった東基吉の依頼により、幼児のための口語の歌詞に作曲された20曲の唱歌から成っています。この曲集の出版は1901年ですから、当時としてはこの歌詞のような口語で書かれた歌は珍しかったようです。作曲を依頼されたのは瀧廉太郎が17曲、鈴木毅一が3曲を担当しています。歌詞の大部分は、東基吉の夫人くめが担当しましたが、瀧自身が作詞したものが4曲あり、この「水遊び」という曲は歌詞も瀧で、22歳でした。
 瀧廉太郎といえば、以前大分を訪れたとき遊歩公園に「滝連太郎終焉の地」という標柱が建っていましたが、病を得た廉太郎は大分の父母の家に身を寄せ、1903年6月29日ここで没したそうです。
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 瀧廉太郎といえば有名に曲が何曲かありますが、特に「荒城の月」は、土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲による歌曲は、哀切をおびたメロディーと歌詞が特徴で、海外の賛美歌にもなっているくらいです。その歌詞は、七五調(今様形式)で、曲は西洋音楽のメロディーが融合した名曲です。この曲は、明治34年(1901年)に中学校(旧制中学校)唱歌の懸賞の応募作品として、瀧廉太郎が作曲したもので、原曲は無伴奏の歌曲でした。歌詞は、東京音楽学校が土井晩翠に懸賞応募用テキストとして依頼したものです。この「荒城」とは、どの城であるか論議されるところですが、土井晩翠は、仙台生まれなので、「青葉城」ではないかという説と、福島県会津若松市を訪れたときにイメージがわいたとして、「鶴ヶ城」をモデルにして書いたとも、また、滝廉太郎が曲を大分県竹田市の岡城址で連想したとかいわれ、それぞれ歌碑が設置されているようです。
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 「春高楼の花の宴 巡る盃 影さして 千代の松が枝 分け出でし 昔の光今いづこ」とあまりに有名な1番の歌詞ですが、長い年月を得た老松の枝を分けてさす光は、非常に美しい情景を思い起こします。「秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて 植うる剣に照り沿ひし 昔の光今いづこ」この2番の出だしである「秋陣営」は、上杉謙信の「霜は軍営に満ちて秋気清し数行の過雁月三更」からとったと言われ、霜が降り、澄み切った秋の空を雁が飛んで行く姿に哀愁を感じるとともに、鶴ヶ城での戊辰戦争の時の悲惨な戦いが思い出されます。「今荒城の夜半の月 変わらぬ光 誰がためぞ 垣に残るはただ葛 松に歌ふはただ嵐」さまざまな戦争やいろいろな出来事があっても変わらないのは月の光です。静けさの中で蔦は壁を伝い、松を揺らし、音を立てているのはそこに当たる風の音だけです。「天上影は変はらねど 栄枯は移る世の姿 映さんとてか今も尚 ああ荒城の夜半の月」栄枯盛衰、諸行無常の世の中で 月の光はいつの世も変わらず照らしています。今宵も城影からさしてくる月の光を浴びながらそんな感傷にふけります。
 本当の歌詞の意味は少し違うかもしれませんが、私は、会津の鶴ヶ城を訪れて、この歌詞が頭の中をよぎりました。大切にしたい歌ですね。

会津と天地人

私は東京生まれですので、「江戸っ子」ですということがあります。同じように大阪生まれですと「浪速っ子」と言ったり、北海道生まれですと「道産子」と言ったりします。しかし、江戸っ子には、もう少し厳密な意味が含まれます。「江戸で生まれ育った生粋の」ということが条件になります。生まれただけでなく、育っていることも条件になりますし、「生粋」という条件も入ります。生粋ということはどういう意味かというと、もう日等に言い方である「ちゃきちゃきの江戸っ子」という言葉があります。この「ちゃきちゃき」とは、長男(嫡男)の長男(嫡男)を意味する「嫡嫡」がなまった言葉で、3代続きの長男である場合のみ「ちゃきちゃきの江戸っ子」と言うようです。
また、「先祖代々ここの出身です」ということがあります。その時の「先祖代々」とはどのくらいの間のことを言うのでしょうか。たとえば、「先祖代々の墓」というのがありますが、だいたいにして今のような墓が造られたのはそれほど昔ではないので、代々といってもそれほどの長い間ではないはずです。これは「代々この職業です」という場合も同じで、それほどの長い間ではないでしょう。
今、NHK大河ドラマで「天地人」が放映されていますが、このころの戦国時代から江戸時代にかけて、大名たちは頻繁に国替えが行われていたようです。これは「転封」といって、江戸幕府(将軍)が、手柄に対する褒美であったり、罰則であったりで、大名の領土を別の場所に移すことで、「移封」とも「所替」とも「得替」とも言ったようです。私は妻とこの大河ドラマつながりの場所を訪れることにしていますが、この戦国時代から江戸時代にかけてがドラマの舞台の時には、訪れる場所はいろいろと変わっていきます。2006年に放映された山内一豊とその妻千代との話の「功名が辻」では、ずいぶんと転々としました。
尾張国(愛知県)に生まれ、織田信長に仕え、秀吉の与力となった時の功績により、近江国で400石を与えられ、この後、播磨国(兵庫県)を中心に2000石を領します。その後、豊臣秀次の宿老となり若狭国高浜城主、まもなく近江長浜城主となります。そして、遠江国掛川に所領を与えられ、最後には土佐国一国の領主としておえます。一体、どこの国の城主だったかわからないほどです。
今年の大河ドラマ「天地人」も、それほどあちらこちらではありませんが、主人公である直江兼続もいろいろな地で城主になります。大きく言えば、新潟、山形、福島が舞台です。今まで、新潟県の長岡、上越、直江津を訪ね、山形県の米沢、山形を訪ね、今回は福島県会津を訪ねました。この地にある「鶴ヶ城」は、文献史上では「黒川城」とか「会津城」とか「若松城」と呼ばれます。
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この鶴ヶ城は、戊辰戦争の際に、会津勢の立て篭もったことで有名ですが、実は上杉景勝が2年くらい城主になっています。ちょうど先週NHK大河ドラマで伊達政宗が葦名氏と連年戦いを繰り返していることに対して直江兼続が説得に行くところが放映されました。その説得にもかかわらず、政宗は葦名氏を滅ぼし、黒川城を手にします。しかし政宗は、その後秀吉に臣従し、会津を召し上げられ、代わって蒲生氏郷が黒川城に入ります。彼は、近世城郭に改造し、城下町を整備し、名も「鶴ヶ城」に改めます。しかし、氏郷の子である秀行が家中騒動のために下野国宇都宮に移封されたために、越後国春日山より上杉景勝が入封します。しかし、1600年、関ヶ原の戦いで西軍に加担した上杉景勝を徳川家康は石高を下げ、出羽国米沢に移封するのです。
この城の五層の天守閣が昭和40年(1965)に復元され、干飯櫓・南走長屋が平成13年に復元され、一般公開されています。復元にあたって、発掘調査や資料調査に基づいて設計が行われ、工事には往時の工法や技法を用いて本格的に復元されています。

不倒

「薩摩の訓え」というものに「男の順序」が書かれてあるものがあります。1番は、「何かに挑戦し、成功した者」である人です。その次は、「何かに挑戦し、失敗した者」です。その次は、「自ら挑戦しなかったが、挑戦した人の手助けをした者」そして、「何もしなかった者」で、男として最低であるものは、「何もせずに批判だけしていた者」ということです。これは、昔なので「男」の順序を表していますが、実は「人としての順序」なのでしょう。こう改めて書かれると、自分はどのようであるか、何かをしようとするときには自分はどんなスタンスであるかということを振り返ります。
福島県会津地方に古くから伝わる縁起物・郷土玩具の一つに「起き上がり小法師」(おきあがりこぼし)があります。
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いま、東京では「会津」キャンペーンをしており、いろいろな場所にポスターが貼ってありますが、そのメインキャラクターは、会津の人にとってなじみの深い「赤ベこ」という首を振る赤い張子の牛をデザインしたものです。その郷土玩具は有名ですが、最近人気のあるものに稚児をかたどった可愛らしい「起き上がりこぼし」があります。会津地方ではこの小法師を「十日市」という毎年一月十日に行なわれる縁日で家族の人数+1個を購入し一年間神棚などに飾るようです。
「起上り小法師」は、底におもりをつけた、だるまの人形で、何度倒しても起き上がる事から「七転八起」という精神が含まれています。この人形は、もともとは中国のものです。会津のもう一つの郷土玩具である「赤ベこ」はその材料が張子で作らられていますが、この張子という紙を張り重ねて立体を作るやり方も中国でうまれました。唐の時代(616~906)の中国は、さまざまな文化が生まれました。その頃、酒宴で酒をすすめる道具の一つに「酒胡子」と呼ばれる玩具がありました。その形は尻のとがったコマのようなものでクルクルと廻り、倒れた方向にいた人が何か芸をしなければなりません。今でも、さいころ代わりにそのようなコマを使うことがあります。その「酒胡子」が、「不老不死」を意味する「不倒翁」として張子の玩具に変身していき、お酒の席などでもてはやされました。そのころの室町幕府は、中国との貿易を盛んに行っていました。渡航した日本の人たちが日本に持ち帰ってきたお土産の中にこの「不倒翁」がありました。「不倒翁」とは老いてもますます元気な意で長寿をあらわします。ですから、その姿は翁です。しかし、日本では、転ばしてもすぐ起き上がるおもしろい動作から、都の人たちは翁を子ども向けのかわいらしい姿に作り代えてしまったのです。それが「起上り小坊師」という「小坊師」子どもという名前が付いています。そして、子どもの成長を願う親の心にもピッタリ合い、おもちゃとして大流行しました。これが江戸へ運ばれて、いろいろな意味がその人形にこめられ、変化をしてきました。
今、会津で売られている「起き上がりこぼし」は、赤い衣を着ているのが普通ですが、それは、その姿から達磨大師をイメージし、坊さんがまとう朱衣を表しています。また、起きあがる姿は病気平癒への願いが込められています。そのとき朱色は疱瘡に効き目があるといわれ、子どもの病気見舞いの手みやげに使われるようになりました。また、「七転び八起き」の縁起をかつぎ、子孫繁栄、商売繁盛などにも使われるようになりました。「何度失敗しても挑戦し続ける」日本人の心の支えとなっているのです。

遊びの什

江戸時代における薩摩藩と会津藩の取り組みが非常に似通っているのは、どうしてでしょうか。教育視察団が派遣されたのでしょうか。たしかに、会津の教育システムの見学には佐久間象山とか吉田松陰が訪れたという記録は残っているそうですので、見ているのかもしれません。また、一昨日書いた私の園での子どもの様子は、なにも会津藩に見学に行ったわけでもありませんが、同じような取り組みです。
会津での「什教育」による「什の掟」の説明書きにはこう書かれてあります。「これは藩校日新館に入学する前の遊び仲間(6~9歳)が毎日午後に集合し遊びの前に話し合う自活的な定めで制裁もある。日新館入学後の日新館童子訓による学校教育の前提となるもの」
ですから、藩校・日新館に入学する前に少年達が行なっていた行為のことを会津では「遊びの什」ともいわれていました。この什という組織に所属している子は6歳から9歳までの4年間ですが、その頃の年齢は数え年でしょうから、いわゆる今でいう脳の臨界期までということになるでしょうか。常々私は、脳の臨界期までの教育と、その後の教育方法は分けるべきであると主張してきました。乳幼児教育から、8歳くらいまでは、人格形成を中心にし、子どもたちの発達をきちんと踏み固めていくことが必要であると思っています。課題としては、コミュニケーション能力とか問題解決能力とか、我慢をする力である行動抑制力などを育てる必要があると思っています。そのときに子どもにとって必要な環境は「異年齢子ども集団」であり、子ども同士が学び合う環境や大人による働きかけが必要になるのです。そのために、アメリカなどでも、8歳くらいまで、小学校でも円形に子どもたちが集まります。その時期の発達をきちんと遂げることによって子どもたちは情緒が安定し、きちんと座って人の話を聞けるようになります。そして、初めて認知的なことを先生から教わるのです。
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それが、会津では10歳になると入学する藩校「日新館」なのです。会津藩校「日新館」という名前は、「大学」にある「苟ニ日モ新タナラバ日ニ日ニ新タニ マタ日ニ新タニセン」(日々心を新たにし、進歩向上しよう)からきています。その言葉を盤銘に刻み、毎日読んで自戒したといわれています。
その教育は藩祖の遺訓を旨とし、文武両道にわたる幅広い内容であったといわれています。まず、15歳までは初等教育として孔子をまつった大成殿を中心として素読所(小学ともいった)があり、そこでは、礼法、書学、武は兵学をはじめ弓術・刀術等武芸全般を学びました。この素読所を修了した者で成績優秀者は講釈所(大学)への入学が認められ、そこでも特に優秀な生徒は、この日新館をおえると、江戸(東京)や長崎にも藩の費用で留学することができました。この「講釈所」での文は漢学を主とし、天文学、蘭学、舎密学(化学)等にわたる多数教科制で、天文台、開版方(印刷所)、文庫(図書館)、水練場(プール)といった施設まで完備し、全国に数ある藩校の中でも屈指の教育機関でした。
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講釈所と水練場(日本最初のプール)
この日新館は文化元年(1804)、5代藩主松平容頌の時代に完成しましたが、当時、藩の借金は40万両を超える額となっており、農民も数年間続いた天明の飢饉などで苦しんでいました。そのため、容頌は藩の一大改革へのりだしました。その基本は、藩政の基盤が士農工商の振興にあり、それをなしとげるためには 家臣団の教育と人材登用にあるという考えにもとづくものでした。
国を立て直そうとするときには、まずは「教育」というのはいつの時代でもいうことですが、その教育を重視するということがどういうことであるか、どのような教育をしていくのかを違ってしまうと、まったく逆の人材を作ってしまいかねません。

よく外国がいいとか、昔がよかったという人がいます。逆に日本が素晴らしいとか、今の時代が素晴らしいという人もいます。しかし、今を生きる私たちは、今をよくする必要があり、そのために外国のことや昔のことから学ぶ必要があるのです。外国にはその国の歴史や風土の中ではぐくまれた文化があり、昔にはその時代に必要な文化が形成されているのです。
薩摩の郷中教育や会津の什教育における子ども同士のかかわりから学ぶシステムは、意味の時代でも学ぶべきところがありますが、そこで教えていた内容は必ずしも今の時代にそのまま通用するものではありません。そのことを踏まえ、薩摩と会津での教えを見てみたいと思います。
薩摩の郷中教育の訓えには、「九ヶ条之掟」というものがあります。「忠孝を旨とし 文武の鍛練を励め」「礼儀をわきまえ郷中の団結を心がけよ」「山坂達者(山を走って足腰を鍛える)を励め」「何事にも詮議を尽し方針が定まった後は異論を立てず言い訳をするな」「嘘をつくな。弱音を吐くな」「卑怯な振る舞いはするな。短気を起こすな」「弱い者をいじめるな。目上を重んじ親に反抗するな」「無刀で門外へ出てはならない」「脇差一本を身に付けて町の辻角をまわるな」「いかなる時でも刀を抜いてはならない。抜けばただでは鞘に納めるな」の九つです。この中で、今でも子ども集団を形成するうえで必要な事柄がいくつかあります。「礼儀…」と「何事…」「嘘…」「卑怯…」「弱い者…」などでしょう。
一方、会津では6歳から9歳までの幼年者は、地域ごとの組に振り分けられました。これらの組は「お話の什」または「遊びの什」と呼ばれ、子ども同士の「遊び」のなかから、年長者への礼儀やさまざまな知識を身につけさせようというのが狙いでした。そのために子どもたちは、「什」の誓ひ(掟)」というのを大声で復唱します。「年長者の言ふことに背いてはなりませぬ」「年長者には御辞儀をしなければなりませぬ」「虚言を言ふことはなりませぬ」「卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ」「弱いものをいぢめてはなりませぬ」「戸外で物を食べてはなりませぬ」「戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ」これら7カ条に加えて「ならぬことはならぬものです」というのがあります。
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会津といえば、10歳になると入学が義務付けられていた「日新館」という藩校が有名ですが、そこに入る前の6歳から4年間、「什」で過ごし、藩士としての心得が繰り返し教え込まれました。その教育の方法が薩摩の郷中教育と同じような子ども同士の学び合いがあったのです。町内の区域を「辺」という単位に分け、辺を細分して「什」という藩士の子弟のグループに分けました。什とは「十人」を一単位とする組織のことですが、別に必ずしも十人というわけではなく、人数はまちまちだったようです。この什には藩士の子弟といっても身分差別は全くなかったようです。什では「什長」というリーダーが選ばれ、什長は毎日、什の構成員の家の座敷を輪番で借りて、什の構成員を集めて「什の掟」を大声で復唱します。
このように、薩摩と会津の教育制度は、非常に似通っており、両藩ともに少・青年期において、居住する町内においてお互いの学び合いを行っているのです。そして、その学びには、子どもたちの自活的な活動があったのです。