遊びの什

江戸時代における薩摩藩と会津藩の取り組みが非常に似通っているのは、どうしてでしょうか。教育視察団が派遣されたのでしょうか。たしかに、会津の教育システムの見学には佐久間象山とか吉田松陰が訪れたという記録は残っているそうですので、見ているのかもしれません。また、一昨日書いた私の園での子どもの様子は、なにも会津藩に見学に行ったわけでもありませんが、同じような取り組みです。
会津での「什教育」による「什の掟」の説明書きにはこう書かれてあります。「これは藩校日新館に入学する前の遊び仲間(6?9歳)が毎日午後に集合し遊びの前に話し合う自活的な定めで制裁もある。日新館入学後の日新館童子訓による学校教育の前提となるもの」
ですから、藩校・日新館に入学する前に少年達が行なっていた行為のことを会津では「遊びの什」ともいわれていました。この什という組織に所属している子は6歳から9歳までの4年間ですが、その頃の年齢は数え年でしょうから、いわゆる今でいう脳の臨界期までということになるでしょうか。常々私は、脳の臨界期までの教育と、その後の教育方法は分けるべきであると主張してきました。乳幼児教育から、8歳くらいまでは、人格形成を中心にし、子どもたちの発達をきちんと踏み固めていくことが必要であると思っています。課題としては、コミュニケーション能力とか問題解決能力とか、我慢をする力である行動抑制力などを育てる必要があると思っています。そのときに子どもにとって必要な環境は「異年齢子ども集団」であり、子ども同士が学び合う環境や大人による働きかけが必要になるのです。そのために、アメリカなどでも、8歳くらいまで、小学校でも円形に子どもたちが集まります。その時期の発達をきちんと遂げることによって子どもたちは情緒が安定し、きちんと座って人の話を聞けるようになります。そして、初めて認知的なことを先生から教わるのです。
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それが、会津では10歳になると入学する藩校「日新館」なのです。会津藩校「日新館」という名前は、「大学」にある「苟ニ日モ新タナラバ日ニ日ニ新タニ マタ日ニ新タニセン」(日々心を新たにし、進歩向上しよう)からきています。その言葉を盤銘に刻み、毎日読んで自戒したといわれています。
その教育は藩祖の遺訓を旨とし、文武両道にわたる幅広い内容であったといわれています。まず、15歳までは初等教育として孔子をまつった大成殿を中心として素読所(小学ともいった)があり、そこでは、礼法、書学、武は兵学をはじめ弓術・刀術等武芸全般を学びました。この素読所を修了した者で成績優秀者は講釈所(大学)への入学が認められ、そこでも特に優秀な生徒は、この日新館をおえると、江戸(東京)や長崎にも藩の費用で留学することができました。この「講釈所」での文は漢学を主とし、天文学、蘭学、舎密学(化学)等にわたる多数教科制で、天文台、開版方(印刷所)、文庫(図書館)、水練場(プール)といった施設まで完備し、全国に数ある藩校の中でも屈指の教育機関でした。
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講釈所と水練場(日本最初のプール)
この日新館は文化元年(1804)、5代藩主松平容頌の時代に完成しましたが、当時、藩の借金は40万両を超える額となっており、農民も数年間続いた天明の飢饉などで苦しんでいました。そのため、容頌は藩の一大改革へのりだしました。その基本は、藩政の基盤が士農工商の振興にあり、それをなしとげるためには 家臣団の教育と人材登用にあるという考えにもとづくものでした。
国を立て直そうとするときには、まずは「教育」というのはいつの時代でもいうことですが、その教育を重視するということがどういうことであるか、どのような教育をしていくのかを違ってしまうと、まったく逆の人材を作ってしまいかねません。