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2009年07月31日 新聞記事より

オバマと孟子

 昨日の孟子の言葉ではありませんが、四字熟語として日常的に使う言葉はあるのですが、そのほかの部分は論語にしても孟子にしても学校で習うほかはあまり触れることがありません。ですから、どのくらいの人が孔子や孟子の言った言葉を覚えているのでしょうか。数日前のニュースで、このような内容が流れました。「“山道は人が歩けば道になるが、歩かなければ雑草でふさがれる”。ワシントンで27日始まった「米中戦略・経済対話」の開会式で、オバマ大統領は演説の中で中国の儒学者、孟子の言葉を引用し、未来を切り開く道を米中両国がともに歩んでいこうと呼びかけた。「相互不信によって道を雑草でふさぐことはあってはならない」と強調し、対立ではなく持続的協力の必要性を訴えた。」
なんと、オバマ大統領が孟子の言葉を引用したのです。しかも、この開会式では、クリントン国務長官は「人々の心が一つになれば、泰山を移すことができる」という孔子の言葉を使って、世界の課題に米中が立ち向かう決意を披露したそうです。また、ガイトナー財務長官も、中国語の熟語「風雨同舟」を持ち出し、経済危機への米中の取り組みを評価したのです。逆に中国の戴秉国国務委員(副首相級)は、「イエス・ウィ・キャン」で演説を締めくくり場内を沸かせたといいますから、しゃれていますね。これらの演説は、事前に用意されていたものでしょうが、米中戦略会議の内容は、気候変動対策などで隔たりはあるものの、この挨拶で双方は気配りを感じさせたということで話題になっています。
オバマ大統領が逸話として例に出した孟子の言葉は、「孟子謂高子曰。山径之蹊間、介然用之而成路、為間不用、則茅塞之矣。今茅塞子之心矣。」(尽心篇・下篇)からです。
 高子は斉地方出身の門人で、孟子の弟子だったのですが、他派に走って孟子のもとから途中で離れてしまった人です。その元弟子に向かって孟子は、「山中の道というのは、常に人が歩いていれば道となるものだ。しかし、少しの間でも歩く人がいなければたちまち茅(ちがや)がこれを塞いでしまうものなのだ。今お前の心は、茅で塞がれている。」ということで、最後は、離れていった弟子に対しての嘆きとも非難ともとれる言葉を言っています。
 泉谷しげるの歌を思い出しました。「久しぶりです」という歌ですが、久しぶりにこの歌を思い出したので少しうろ覚えですが。
「ほんのとなりの街まで 足をのばせばいいことなのに 久しぶりが気はずかしく ついつい御無礼しています。あれほど必要だった人なのに まるで明日にまかせるように 思いで話にしようとしています」先日、ある会社で、懐かしい人たち何人かと会って、夜は数人と食事をしました。とても懐かしく、話が楽しく、なんだか少し前なのに青春時代を思い出したかのような気持ちでした。しかし、その人たちは、たった30分くらいかければ会いに行ける距離にいます。しかし、何となく会うのが気恥ずかしかったのかもしれません。そして、会っての最初は、この歌の二番の歌詞のようでした。「久しぶりの感激も月日のちがいがそうさせるのか おたがいの変化をまるでたしかめあっているようです あれほど必要だった人なのに まるで明日にまかせるように 思い出話にしようとしています」そして、こんな会話をします。3番の歌詞です。「あまり変わってないようだね でも少し腹が出てきたぞ 今なにをしてるの へェそう ちっともしらなかったよ あれほど必要だった人なのに まるで明日にまかせるように 思い出話にしようとしています」
 まさに「山径之蹊間、介然用之而成路、為間不用、則茅塞之矣」ですね。

投稿者 fujimori : 21:44 | コメント (3)

2009年07月30日 近頃思うこと

マニフェストと道

 ここのところ、各党からマニフェストが出されています。選挙のときに候補者は、昔から選挙公報やポスターなどで「公約」を掲げていました。しかし、この公約というものは施政方針よりも広報の手段としての要素が強く、具体性に乏しく、なんとなくイメージ戦略的なところがありました。そこで、日本では、1999年の統一地方選挙の頃からマニフェスト(政策綱領)として方針を明文化することで、施政における責任を担保することになりました。
最近出されているマニフェストを読んでいると、各党とも子育てや幼児教育についての項目が見られます。その部分にも注目し始めたことは評価しますが、読んでいてどうも「縁木求魚」という四字熟語を思い出します。
この言葉は、孟子と斉の宣王との問答に出てくる語です。宣王は斉一国の支配に満足せず、武力で領土を広げていきます。そこで孟子は、「だいたい王は軍を進め、家臣を生死の危険にさらし、諸侯と怨恨を結んで、それで自分の喜びとしているのですか。」と聞きます。それに対して宣王は、そんなことを喜びとしているのではなく、大望を果たしたいからと答えます。では、その大望とはなにか教えてくださいと頼んだところ答えませんでした。そこで孟子は確かに、自分の満足のために行っていないことはわかるが、今のようなやり方で、王の大望を果たそうとするのは、「以若所爲、求若所欲、猶縁木而求魚也」ではないかと言うのです。
「猶(な)お木に縁(よ)りて魚を求むがごとし」とは、「まるで木に登って魚を捕らえようとするようなもの」という意味のことで、「誤った手段では目的が達成できない」という不可能なたとえです。この「縁って」というのは「近づいて」という意味ではなく、「登って」という意味になります。「木に登って魚をとります」ということを宣言しても、木の上に魚がいなければ魚を捕らえることはできません。もし、魚を捕らえたかったら、まずどのような魚がほしいのか、その魚はどんな習性を持っていて、どこに住んでいるのか、何を使えば捕らえることができるのかをきちんと検討する必要があります。ですから、ただ川に行けばいいとか、海行けばいいとかいうだけでもダメなのに、まして木に登って捕ろうということなど絶対に不可能だといっているのでしょう。もしかしたら、今回のマニフェストは、魚を捕りますと言って木に登ってみて捕れなかったら、魚を魚屋で高いお金を払って買おうとしているのかもしれません。
私は、それほど政治運動には興味がありませんし、どの政党がいいとかいうつもりはありませんが、武力やただ無駄なお金を使うよりは王道(王者の徳)によって政治をしてほしいと戒めた孟子と同じ思いがしています。この夏、私の仲間で主催するセミナーで「保育道」についての考えを話します。政治に王道があるように保育にも「道」があると思っています。保育は「保育学」という学問ではなく、人としての生き方、道を考えることだと思っています。
純粋に生きている子どもたちを見ていると、その子たちを守らなければという思いを強くします。

投稿者 fujimori : 23:37 | コメント (5)

2009年07月29日 記念日

28日という日

 昨日の28日は、オートスリアがセルビアに宣戦布告し、第一次世界大戦が始まった日です。1914(大正3)年のことでした。この戦争は、長期にわたり、世界中を巻き込んだのですが、幸いにも日本は戦場とならず、直接の被害にはあいませんでしたので、あまり話題になりません。最後は、ドイツが18年11月に降伏し、翌年ヴェルサイユ条約によって講和成立して終わりました。
この戦争で日本が関わったエピソードとして伝えられていることを、以前徳島県板東を訪れたときにブログに取り上げたことがありました。青島で捕獲して徳島県板東など12か所の収容所に送られたドイツ軍捕虜約4,700名を、特に板東捕虜収容所で丁寧に扱い、地元住民との交流から、ドイツ料理やビールをはじめ、数多くのドイツ文化が日本にもたらされたという話です。ベートーベンの「交響曲第9番」も、このときにドイツ人捕虜によって演奏され、はじめて日本に伝えられたのです。この顛末が「バルトの楽園」という映画になっています。
そのほかにも、海外ではこの戦争を題材にして多くの小説や映画がつくられています。有名なものに「西部戦線異状なし」があります。この映画の原作は、第一次世界大戦の敗戦国ドイツ出身のエーリッヒ・マリア・レマルクが1929年に発表し、世界的な大ベストセラーになった反戦的な小説ですが、映画はアメリカ映画です。しかし、原作同様、戦争の過酷さをドイツ側から描いています。印象に残っている場面は、最後の場面です。長雨の後の晴れた日、静かな戦場からハーモニカの音が聞こえてきます。そこへ一羽の蝶が飛んできたので、塹壕の中にいる常々戦争の悲惨さを訴えているドイツの志願兵であるポール(原作ではパウル)がそっと手を出します。その瞬間、銃声一発しました。それは、敵の弾丸がポールの若い命を吹き消した瞬間でした。しかし、司令部報告では、「西部戦線異状なし、報告すべき件なし」というものでした。
また、映画化もされましたが、アーネスト・ヘミングウェイの長編小説「武器よさらば」があります。この小説は、ヘミングウェイ自身の、イタリア北部戦線の従軍記者時の体験をもとにして書かれており、第一次世界大戦のイタリアを舞台に、アメリカ人のイタリア兵フレデリックとイギリス人看護婦キャサリンとの恋が描かれています。やはり最後が印象的で、キャサリンの妊娠が分かり、二人はスイスへと逃亡しますが、難産の末、子と共にキャサリンは死んでしまい、最後は雨の中をフレデリックは一人立ち去ってゆくところで終わります。
ほかに、私が好きな映画「アラビアのロレンス」も第1次世界大戦の中、オスマントルコからのアラブ独立闘争を描いた歴史映画です。1962年のイギリス映画で、第一次大戦下、イギリス人でありながら、アラブ独立の為にアラブ人を指揮して戦ったT・E・ロレンスの半生を描いた大作史劇映画です。アカデミー賞の10部門にてノミネートされ、7部門で受賞しています。延々と続く広大な白い砂漠と地平線を背景に手を上にあげて兵士を鼓舞するかのようにロレンスが跨ったラクダが駆ける場面が印象に残っています。
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「ジョニーは戦場へ行った」もいろいろと賞をとっています。第一次世界大戦に出兵したジョニーは、戦場で爆撃を受けて負傷し、病院に搬送されます。無事だったのは延髄と性器のみで、目も耳も口も鼻も失い、手足は切断されてしまい、ジョニーは過去を回想しつつ、現実に絶望し、自らの死を望むのですが。
戦争は、どんな場合でも悲惨です。

投稿者 fujimori : 23:27 | コメント (4)

2009年07月28日 近頃思うこと

夏休みラリー

 先週の土曜日、園に出勤しようとしたら、JRの駅は異常な熱気に包まれていました。夏休みの土曜日なのに駅構内は非常に混雑していて、駅員さんはプラカードを持って人の流れを誘導しています。そのプラカードには、「スタンプ台はこちら」と書かれてあります。そうです。先週の25日土曜日から、JR東日本では、大人気アニメ「ポケットモンスター」を起用した、夏休みのファミリーイベント「JR東日本ポケモン・スタンプラリー2009」が始まったのです。首都圏の95駅に設置されてあるポケモンスタンプから6駅を選んでをパンフレットのスタンプ欄に押してゴール駅に行くと、素敵な賞品がもらえるのです。今年の目玉として、7月18日公開の映画「劇場版ポケットモンスター ダイヤモンド・パール アルセウス 超克の時空へ」で初登場するポケモン「アルセウス」をはじめ、映画で活躍するポケモンたちがスタンプで勢ぞろいしていることです。さらに今年は、スタンプラリー開始以来初めて、2匹のポケモンが1つのスタンプ柄になったシークレットスタンプを大崎・秋葉原・北千住の3駅に用意されています。スタンプ台の設置は、朝9時30分~夕方4時までで、その時間帯はどの駅に行っても、スタンプ台を探している子どもたちの姿や、電車の中ではパンフレットを手にした親子をよく見かけます。
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私や私の子どもたちはポケモン世代ではないので、あまりよく知りませんが、95か所にはいろいろなポケモンのスタンプがあり、好きな子であれば、それを集めて回るのは楽しいかもしれません。ちなみに園のある高田馬場駅には「バクオング」、住まいのある八王子駅には「ミュウツー」が置いてあります。ちなみに、シークレットスタンプは、「ピカチュウ&ギザみみピチュー」と「ピカチュウ&ポッチャマ」と「ポッチャマ&ギザみみピチュー」のようですが、その名前は私にとっては何語かわかりませんが、子どもたちには人気があるのでしょうね。
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このような企画は、JR東日本だけでなく、各地でも行われています。関西地域では、JR西日本が、同じように「ポケットモンスター」を起用したスタンプラリーを8月1日(土)から8月16日(日)までの16日間、実施します。この地域の場合は、2つのポケモンスタンプ駅とゴール駅の計3つのスタンプを押せば、2種類のポケモンの賞品のうちのいずれかを抽選でプレゼントされるのと、「ピカチュウサンバイザー」がもれなくもらえます。さらに、ボーナスチャレンジのスタンプ駅で6駅のスタンプを集めれば、ボーナスチャレンジのポケモンの賞品がもれなくもらえます。
また、JR九州は、映画「劇場版ポケットモンスター ダイヤモンド・パール「アルセウス 超克の時空へ」」の公開日に合わせて7月18日から、スタンプラリーを実施しています。この地域では、過去にも2005年の「ワンピース」のときには参加者2,246人、2007年の「仮面ライダー電王」のときには参加者3,637人を集めた実績があります。ほかにもJR東海、北海道などでも行われています。
JR東日本が毎年行っている小中学生の夏休みの期間にあわせて首都圏の主要駅にアニメポケットモンスターの登場キャラクターのスタンプ台を設置するという企画は、1997年から2001・2002年を除き、毎年行われています。1997年のときは、東京都区内の30駅、1998年からは山手線内の10数駅に設置されていただけでしたが、次第に増えていき、2003年2007年からは95駅に設置されています。
私鉄でも同様なスタンプラリーが企画されていますが、私としてはかつてどこかの私鉄が行っていたようなさまざまな星座を集めるとか、惑星を集めるとか、集めた後に図鑑になるような企画のほうが好みなのですが。

投稿者 fujimori : 18:37 | コメント (4)

2009年07月27日 近頃思うこと

砂糖

スカイネットアジア航空機内誌に今特集されている記事が「一握の砂糖」というものです。最初に、砂糖についての質問が掲載されていますが、私はよくブログで「塩の道」など塩についての話題を取り上げますが、意外と砂糖については取り上げたことはなく、この質問を読んでいた知らないことが多いことに気がつきました。
最初の問いである「砂糖を最初につくった国」からわかりません。砂糖の原料が砂糖大根やサトウキビであることは知っていますが、誰がどこで作って、日本にもたらしたかというとわかりません。ニューギニア原産のサトウキビからインド人が作り出し、アレキサンドロスの兵士によって、イスラムやベネチアの商人によって、そしてコロンブスによって地球を一回りし、1500年代の中ごろ長崎に伝えられたといわれているそうです。ですから、ラテン語で砂糖のことをサッカラルムと言いますが、それは古代インドのサンスクリット語のサルカラから来ているそうです。それがシュガーです。そして、長崎にもたらしたのは、平戸に初めて入港したポルトガル船以降の様々な職業のポルトガル人によってです。
これらの砂糖の持ち込みが長崎の地で行われたことが同時に砂糖を使った「ビスカウト」「カステラ」「ケジヤアド」「ボーロ」「タルト」などの南蛮菓子も伝来されていったのです。これらのお菓子は、日本人の口に合うように改良されていったのです。その中の一つが、以前ブログで紹介したことのある「一香口」ですし、松山名物になっている「一六タルト」であったり、「丸ボーロ」「金平糖」「饅頭」そして「羊羹」であったりします。
もうひとつ興味をそそるのが、この機内誌に掲載されている広告に「長崎街道シュガーロード」というシュガーロード連絡協議会のものがあります。塩の道だけでなく、砂糖の道もあるのですね。江戸時代、鎖国のもと海外との交易が制限されて、砂糖貿易も長崎を通じて行われていました。そして、長崎に入った砂糖を京都、江戸などへ運ぶために使われていたのがシュガーロードです。その道は、長崎から佐賀を通り、小倉へと至ります。その道中肥前から長崎と佐賀の名物・名産となって今に伝わります。数は減っていますが、結婚式などの祝い事の伝統菓子・寿賀台もその変形だそうです。
江戸時代、1820年の「長崎出島の図」によると蔵十数棟のうち3つが砂糖蔵だそうです。砂糖は銀と等価でした。佐賀では、あこがれの職業では、1位が軍人、3位裁判官である中で2位は菓子店だったのです。戦前のキャラメル三大メーカーの森永、グリコ、新高の各創業者は佐賀出身であるのも頷けます。
最近、またなりたい職業に「ケーキ屋さん」とか「パティシエ」が上位に上がるようになっています。特にドイツではパティシエは医者並みの社会的地位だと言われています。

投稿者 fujimori : 23:50 | コメント (4)

2009年07月26日 近頃思うこと

CO2

 先日横浜開港博に行ったときに一つのブースで環境についての実験が行われていました。そこでは、CO2について説明をしていました。まず、地球温暖化は、地球の熱を宇宙に放射することによって冷えるのが、二酸化炭素が地球を覆うってしまい、熱が放出できなるから温室のようになって温暖化になることをやさしく説明をしていました。その次に、ではその二酸化炭素を日常私たちはどのくらい出しているのかということをヘヤードライヤーを使って実験をしていました。もちろん、ドライヤー自体からは直接二酸化炭素は出ませんので、その使う電気の元(発電所)からの計算でしょうが、対象が子どもですので、わかりやすくしての実験です。博士を装うって白衣を着た女性がストップウォッチを持って1分間測ります。その横でアシスタントの男性がヘヤードライヤーを動かし、風を出します。それは、いかにもその口から直接二酸化炭素を出しているかのようですので、子どもには実感するうえでとても効果的です。1分たった後で、女性が、この1分使ったら、どのくらいの二酸化炭素を出しているかということを1ℓのペットボトルを取り出して何本分か予想させます。答えは、5本分だそうです。ということは、普通の人がヘヤードライヤーを毎日10分間使うだけで、ペットボトル50本分も出しているというのです。
これは正確ではないでしょうが、目に見えるだけにかなり衝撃的です。CO2量は、一般家庭やオフィスからの排出量が相変わらず増えています。CO2削減の義務を企業にだけ負わせるのでなく、私たち自身も日常生活の中での心がけで行動を見直す必要が求められています。ヘアドライヤーは、熱源に風を当てて熱風を出す構造ですので、電化製品の中では、電子レンジや冷暖房機と並んでかなりの電力を必要とし、よく容量不足の時にブレーカーを落とす元凶の一つといわれるぐらいです。私はヘヤードライヤーを使いませんが、髪を乾かすのに工夫が必要のようです。たとえば、ドライヤーを使う前にタオルでよく水けをふき取るとか、あまり長く使わないなどです。むしろドライヤーで乾いている髪に何度も何度も熱を加えると髪が傷みますし、髪もタンパク質なので熱変性したり焼けたりするそうです。
また、ドライヤーと言うと最近よくレストランや公共施設などの設置されているのが、トイレにあるハンドドライヤーです。これは、菌対策ということもあるのですが、そのためにハンカチを持ち歩かない人が増えてきているそうです。私は、割とハンカチを使うほうですが、手を乾かすのにハンカチを使う場合と、ハンドドライヤーを使う場合と、ペーパータオル1枚使う場合ではエネルギー消費量がどのくらい違うのでしょうか。もちろんハンカチの使用する場合が1番少なく、ハンドドライヤーは、ハンカチの約2倍の負荷がかかり、さらにペーパータオルは、2.4倍も負荷がかかるそうです。しかも、たまにペーパータオルを2枚使う人もいますが、その場合は4.8倍も負荷がかかります。もちろん、ハンカチはそのあと洗濯をするときにかかりますが、機械もメンテにかかるので同じです。
家庭による省エネルギー対策として、どのくらいCO2を減らせるかという表がありました。公共機関利用促進で170万トン、シャワーを1分短縮すれば93万トン、エコバッグを使うことで83万トン、テレビ視聴を1時間短縮すると27万トン、ジャーの保温を停止すると64.5マントン、エコドライブで121.5万トンなど工夫の余地はありそうです。
子どものころから目に見える説明で意識を高め、長期的に物事が考えられるようにし、大人たちが行動で見本を見せていくことが夏休みに子どもたちにしてあげられることのひとつかもしれません。

投稿者 fujimori : 21:54 | コメント (4)

2009年07月25日 近頃思うこと

カブト

 園児が、昆虫界最強のカブトムシを持ってきてくれました。その体は光沢が強く、黒光りしています。また、脚は長く、ツメも大変鋭く、頭部に1本、前胸背板に2本の計3本の角を持っています。この長い胸角と頭角で相手を挟み、強大な力で木から引き剥がして放り投げます。鋭い爪を持つ長い前脚に掴まれたら、なかなか引き離すことができず、職員は腕から出血をしてしまいました。よく、動物園などでも見る世界最大のカブトである「ヘラクレスオオカブトムシ」がいますが、このカブトは、その立派な角に似合わず喧嘩はたいしてうまいほうではなく、闘争心にも欠けるそうです。それに対してこのカブトは、人に対してもおじけづかず、手をだすと猛突進して来て、3本の角で挟もうとします。造形・力・技・闘争心どれをとっても昆虫界ナンバー1といわれています。
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このカブトは、「コーカサスオオカブト」と言われている種類です。「ヘラクレスオオカブト」は、南米産ですが、このカブトは東南アジア産で、アジア最大のカブトムシです。オスの体長は130mmを超えるものもあるそうです。角が3本あることから英語ではスリーホーンビートルと呼ばれています。非常に闘争心が強く、幼虫も好戦的であり、大顎で噛む力も強いそうです。また、オスメスでも喧嘩を良くするので、一緒には飼えないそうです。これら外国さんのカブトムシが一般に出回るようになったのは、1999年に外国産カブトムシの輸入解禁からで、日本種よりもよりも大きな外国産カブトがマニアの間では人気があるようです。
カブトムシという和名の由来は、大きな角のある頭部が日本の戦国時代の武将がかぶる兜のように見えるからということはその中らも容易に推定できますが、実際にこのような角を持った兜は見当たりません。
また、外国ではカブトムシのことをbeetleと言いますが、これは甲虫類全体をさし、クワガタムシのことをstag beetleと言います。この音を聞いてすぐに思い出すのはもちろん「BEATLES」です。ジョン・レノンとスチュアート・サトクリフは、敬愛するロックンローラーバディ・ホリーのバンド名が「バディ・ホリー&ザ・クリケッツ」と言い、クリケッツは「こおろぎ」という意味があるのでそれにあやかって甲虫類の複数形である「ビートルズ」と命名したといわれています。また、このBEETLESというのは、音楽のBEATを加える意味も表わし「ビート・ミュージック」というわけです。
もうひとつ、ビートルと言って思い出すのは、ドイツのフォルクスワーゲン社によって製造された小型自動車の通称「フォルクスワーゲン・ビートル」です。この「ビートル」の愛称で広く親しまれたこの古風な流線型車は、アメリカをはじめ全世界に大量輸出され、2003年のメキシコ工場における生産終了時点までに生産された台数は2,152万台以上に上り、モデルチェンジなしでの1車種としては未曾有の量産記録となっており、おそらく四輪自動車で、今後もこれを破る記録は現れないであろうといわれている伝説的大衆車です。もともと社名であるフォルクスワーゲンは、ドイツ語で「国民車」または「民族の乗用車」の意味ですが、今は株の半数以上はポルシェが持っているようです。
カブトは愛称にも使われるくらい、その姿は何か魅了されるのでしょうね。

投稿者 fujimori : 22:01 | コメント (4)

2009年07月24日 近頃思うこと

雨宿り

 梅雨が明けても雨の日が続いている東京です。日本各地からも雨による被害が報告されています。「平年では」といっても、「平均気温」といっても年によってのでこぼこを平均化したもので、その数値が当たり前というわけではありませんので、その年によって気候の特徴があっていいのですが、全体になんだか心配な方向に向かっていなければいいですね。
 また、今降る雨は梅雨のころと違うのは、突然降ってきたり、突然やんだりします。今朝も家を出るときには大雨で、ズボンの裾と前のほうがびしょぬれになってしまいましたが、電車を降りるころには小降りになり、歩いているうちに次第に晴れてきました。その途中の公園でびっくりしたことがありました。公園の入り口で、後ろ向きの男性が突然ズボンを脱ぎ始めました。少し前に芸能人が公園で起こした事件のようなことが起きるのかと思っていたら、そうではなく、実は途中で晴れてきたので、レインコートを脱いでいたのです。今のレインコートは、普通の服のようなのもあってそのズボンを脱いでいたので、その下には、きちんとした服を着ていました。
 このような姿を見るようになったのは、実は東京都では「東京都道路交通規則」の一部が改正され、今月7月1日から施行されている規定があるのです。それは、「運転者の遵守事項に関する規定(東京都道路交通規則第8条)」で、「傘を差し、物を担ぎ、物を持つ等視野を妨げ、又は安定を失うおそれのある方法で、大型自動二輪車、普通自動二輪車、原動機付自転車又は自転車を運転しないこと」また、「自転車を運転するときは、携帯電話用装置を手で保持して通話し、又は画像表示用装置に表示された画像を注視しないこと」と決められました。そして、その場合5万円以下の罰金が科せられます。この規則により、傘をさして自転車は乗ってはいけないので、多くの人がレインコートを着るようになったのです。すると今の季節のように突然雨が降ったり、やんだりするときには大変ですね。
 まあ、そではなくても、突然と雨が降ると困ります。昔は、よくサザエさんの漫画にも出てきますが、子どもたちが傘を持って父親を駅まで迎えに行きました。また、「母さんが 蛇の目でお迎え うれしいな…」という歌にもあるように母親などが学校に傘を持って行きました。最近はどうでしょうか。今は、コンビニで安い傘を売っているのでそれを買う人が多いようです。また、傘を数本持っていて、職場や学校に「置き傘」といって置いておく人が増えました。
それにしても土砂降りの雨のときには困ります。一時の「雨宿り」が必要です。そんな「雨宿り」からいろいろな出会いがあるようで、歌のテーマになります。有名なのは、さだまさしの「雨宿り」で、最後のフレーズはしゃれています。「…気が付いたら あなたの腕に雨宿り」同様に、五輪真弓も「愛したわ 私 あなたのことを 今は別々の夢を追うけど めぐり逢いは素敵なことね 雨宿りするように二人」と歌っています。建石一作詞で岩出和也が歌っている歌は、「きっとお前も探してた 肩を寄せ合う心の傘を 夢ならさめるな旅の夜 お前と俺の雨宿り」
雨宿りは、心の避難場所でもあるようです。

投稿者 fujimori : 23:14 | コメント (4)

2009年07月23日 行事

音頭

 今週末は園の夕涼み会です。「地域文化の伝承」と「親子のふれあい」と「保育を厚くする」いう目的で行います。「親子のふれあい」では、今年のテーマ「世界」を親子でパスポートを片手に様々な体験しながら回ります。世界の衣装を着てみたり、世界の料理を食べてみたり、世界の楽器を鳴らしてみたりです。「保育を厚くする」という点では、この行事が単にイベントで終わるのではなく、日々の保育につなげていく工夫をします。世界の衣装は、3,4,5歳児の「ごっこゾーン」の変身コーナーに置かれます。世界の食事では、毎月国を決めて、その国の料理を味わっています。楽器は、製作ゾーンにその材料が置かれ、子どもたちは今後もいろいろとつくることができるようになります。
 もうひとつも目的である「地域の文化の伝承」のおもなものは、「盆踊り」があります。今、夕方になると希望の子が集まって練習する曲が全園に流れてきます。その曲を聴きながら、夕涼み会が近付いてきたことを感じます。私が子どものころに、近くの神社から盆踊りの練習している曲が流れてくるのを聞きながら、祭りが近付いてきたことを感じ、わくわくしたものです。その曲に一つが「落四音頭」という近くの小学校の音頭です。その踊りを隣の公立幼稚園の年長さんと私の園の年長さんが合同で、小学6年生から習ったものです。一緒に、小学校に入学してから躍る音頭です。
 もう一つの曲は、つい一緒に口ずさんでしまいます。「ハァ 踊り踊るなら チョイト  東京音頭 ヨイヨイ 花の都の 花の都の真中で サテ ヤットナ ソレ ヨイヨイヨイ  ヤットナ ソレ ヨイヨイヨイ」言わずと知れた「東京音頭」です。作詞西條八十、作曲中山晋平というコンビは、「東京行進曲」と同じコンビですので、東京を描くのにぴったりです。当時と少し歌詞は変わっていますが、まさに東京の名所、特徴を表しています。「よせて返して 返して寄せる東京繁昌の人の波」「昔や武蔵野 芒の都 今はネオンの灯の都」「花は上野よ 柳は銀座 月は隅田の屋形船」「おさななじみの観音様は 屋根の月さえなつかしや」「西に富士の嶺 東に筑波 音頭とる子はまん中に」
音頭というのは「なになにするときに音頭をとる」というように「先に立ってすること」という意味もありますが、「大勢が歌にあわせて踊ることやその踊り」のことをいいます。作詞の西條は「どうせ書くなら、ひとつ東京全市を賑やかに踊り狂わせる」ような音頭を書こうと意図したとおり、当時の東京市民は、空き地に組まれたやぐらを真ん中に、スピーカーから割れんばかりのこの曲に合わせて浴衣がけの人々が踊り狂いました。中山の作曲も、誰もが思わず口ずさんでしまうような日本的風土にぴったりと合って、まさに晋平節の真髄です。
もともとは「丸の内音頭」という曲名で1932年(昭和7年)に制作され、日比谷公園での盆踊り大会で披露されたそうです。それを1933年(昭和8年)、当時の東京市民すべてが歌えるように改題・改詞され、小唄勝太郎と三島一声の歌唱でレコード化され、爆発的に流行しました。そして、このレコードは、なんと当時の文部省推薦に選ばれています。レコードの売り上げは発売当時だけで120万枚に達したといいます。その後も時代を越えたロングヒットとなり、総売上枚数は正確には不明だそうですが、1971年の時点で2000万枚以上を売り上げているともいわれています。
最近は、どの年代でも、誰でも思わず口ずさむような共通な歌はなくなってきた気がします。

投稿者 fujimori : 23:20 | コメント (4)

2009年07月22日 地域を知る

馬車道

 海の日に「開港博」に行くときにみなとみらい線で「馬車道」という駅で降りました。この町はとても由緒のある街です。昨日のブログで書いた日米和親条約の締結後、日本初の総領事として赴任したハリスの強硬な要求により「日米通商修好条約」を結びます。これによって貿易のため横浜港が開かれたのが横浜開港記念日なのですが、そのとき同時に関内に外国人居留地が置かれました。その関内地域と横浜港を結ぶ道路のうちの1つとして開通したのがこの馬車道なのです。その頃、外国人はこの道を馬車で往来していましたので、「異人馬車」と呼んでいました。それから「馬車道」と呼ばれるようになったそうです。その名残として今でも馬車道十番館の入り口あたりに、馬の水飲み場が残されています。
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また、この道は日本の外国文化への玄関口でもありましたですから、横浜には様々な「日本初」というものが多く見られます。開港博の中で「横浜ものがたり」というブースで、横浜から全国に伝わったさまざまな「はじめて」が紹介されています。その多くは、この馬車道から生まれており、その碑がたくさんあります。
まず有名なのが、「ガス灯」で、日本初のガス灯が、明治3年フランス人技師の手で設計されました。そして、「アイスクリーム」の発祥は、町田房造の氷水店で、明治2年の夏に初めて「あいすくりん」の名前で売り出されたものです。一人前の値段は2分(現在の価値で約8000円)と大変高価であり、当初は外国人にしか売れなかったそうです。今では、5月9日がアイスクリームの日で、馬車道では無料で街に来た人に「馬車道あいすくりん」を配っています。また、慶応3年、馬車道の各商店街が競って、柳や松を植えたのが「近代街路樹」の始まりといわれています。また、この道は個人の馬車だけでなく、「乗合馬車」も走っていました。明治2年、日本初の乗合馬車が、吉田橋から東京まで2頭だて6人乗りで走りましたが、東京まで約4時間かかったといわれています。
そのほかにも、明治元年、日本人として最初の写真家下岡蓮杖によって写真館「相影楼」が開かれたり、明治3年12月8日、日本で初めての日刊新聞「横浜毎日新聞」が創刊されています。
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そんな街を大切にしようということで、馬車道商店街(周辺)では「馬車道協定書」という、景観を守り、地域をより良くするため、街造りの協定が結ばれています。その理念として第1条には、「馬車道は、“日本の異国文化発祥の地”として、開港横浜の歴史・文化を大切にするとともに、新しい文化を提案する」と書かれてあります。協定書にはハードとソフト両面から提案されています。ハードでは、歴史資産を保存・修復などや歩行者空間の提案をしています。景観として、カラーリング提案もされていて、ベーシックカラー「緑・茶・黒・白」と、サブカラー「アクセントカラー」が定められています。
ソフト面として、「街で楽しむソフト」として、人と人、文化と文化、国と国が出会う“人間交流”の街として、“街での時間消費を楽しむ”ためのソフト機能の充実と、「家に持ち帰るソフト」として、異国文化・西洋文化の発祥地として、“馬車道が提案する生活文化を、人々の生活の中に持ち帰り楽しんでもらう”ための生活提案ソフト機能の充実が提案されています。
この協定書は、園作りにも参考になりそうです。

投稿者 fujimori : 22:09 | コメント (4)

2009年07月21日 記念日

開く

 今、日本中で話題をさらっているのは明日の「日食」でしょう。私も「遮光板」を買って、観察に備えています。その遮光板にはこう書かれてあります。「2009.7.22 皆既日食 日本で観察できるのは…46年ぶり!!ガリレオ望遠鏡発明から、400年」このコメントではありませんが、今年はまさに「世界天文年」です。
 また、国際宇宙ステーションで日本人初の長期滞在を経験した若田光一宇宙飛行士の手で、一昨日、日本人初の有人宇宙施設「きぼう」が完成しました。これは、4半世紀にわたる悲願達成です。この「きぼう」は、宇宙空間という特殊環境を利用した実験施設です。船外実験施設では地球大気や天体を観測したり、過酷な環境に耐えうる新材料のテストを実施するそうです。そのほか、微小重力を利用して、高品質なたんぱく質結晶を作り、医薬品開発に活用したり、放射線や微小重力が生物に与える影響を調べる実験などが計画されているようです。
 このような宇宙への扉を開いたのは、「司令船から切り離された月着陸船イーグルに搭乗するアームストロングは、7月20日午後4時17分(東部夏時間)に船を月面へ着陸させた。」というニュースではないでしょうか。ちょうど今日という日が、その記念日です。その記念日であることで、グーグルの検索画面では月の上に降り立ったアポロ宇宙船と、その後ろに美しく輝く地球が描かれています。また、グーグルは今日、40年前の1969年にアメリカのアポロ11号が人類初となる月面着陸に成功したこの日を記念し、グーグルアースで「ガイド付きの月ツアー」が提供されています。この画面を見てみました。そこでは、アポロ11号で月面に降り立ったバズ・アルドリン元宇宙飛行士と、アポロ17号で月面を歩いた最初の科学者となった地質学者のジャック・シュミット氏のガイドによる月ツアーが始まります。また、月面着陸している宇宙線の3Dモデルを見ることもできますし、360度回転する写真にズームインして宇宙飛行士の足跡を見ることもできます。
今日という日は宇宙への扉を開いた日であり、今年は天体への扉をガリレオが開いて400年という記念年です。また、今年は、1859年(安政6年)の開国・開港から150周年を迎える年に当たります。1854(安政元)年、2度目に来日したペリーと幕府役人との間で、横浜村において日米和親条約が結ばれ、日本は永く続いた鎖国を解いて開国しました。5年後の1859(安政6) 年、安政の五カ国条約にもとづいて横浜は開港場となりました。その年から横浜は生糸を中心とする貿易都市として、ついで重化学工業都市として急速に発展し、ついには首都東京に次ぐ大都市に成長しました。そして、開港百年を記念して編さんされた『横浜市史』の収集資料を基礎に、1981(昭和56)年、和親条約締結した場所に「横浜開港資料館」が開館されています。
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そして、今年は開港150周年ということで、横浜は未来への「出航」をテーマに、「開国博Y150」が開催されています。昨日の休みの日に行ってみました。みなとみらい地区を中心としたメイン会場「ベイサイドエリア」の目玉は、フランスの巨大スペクタクルアート劇団「ラ・マシン」による「巨大なクモ」です。「クモ」は「糸」で巣をつくる動物であり、きわめて創造的な生命体です。ですから、今回のY150のさまざまな会場をつなぎ 「横浜のゆめ」 をつむいでいくと同時に、「Web = クモの巣」 型ネットワーク社会のシンボルとして「クモ」が選ばれているそうです。
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投稿者 fujimori : 23:39 | コメント (4)

2009年07月20日 近頃思うこと

雷魚

 露店でナマズを飼ってきましたが、その店では他には「ウナギ」と「カメ」と「カブトムシ」も売っていました。私が子どものころには、縁日やお祭りの時の露店で売っている生き物は、代表がもちろん金魚釣りですが、そのほかには、釣りとして小さな針のついた釣竿を渡していたのが土用丑の日の主役である「ウナギ釣り」と「ライギョ釣り」でした。
子どものころに見たライギョの姿は強烈でした。体は前後に細長い円筒形をしていますが、口は大きく、下顎が上顎よりも前に突き出ており、鋭い歯が並んでいました。胴の横には蛇のような模様があり、私は子ども心になんだかいかにもその名の通り雷の模様に見えたものです。また、注意事項として、口の中へ手を入れると噛みつかれて出血することがあるので、捕まえるときには気をつけるように言われたことも、この魚の獰猛さを感じた理由でしょう。
自然界では、朝や夕方の薄暗い時間帯、または水が濁っている時に活発に活動します。おもにほかの魚を食べる肉食性ですが、他にも甲殻類、昆虫類、カエルなど水生動物のほかときには水鳥の雛やネズミなどの小動物など幅広く捕まえて食べるようです。水底にじっと潜み、水中や水面を通りかかる獲物に飛びかかっている姿がよく図鑑に載っていました。
また、雷魚という名前からも怖さを感じました。この名前の由来はいろいろあるようです。悪天候時に行動することから「雷を呼ぶ」と見られたからとも、獰猛な捕食行動が「雷が鳴るまでくわえた獲物を離さない」と見られたからとも、「模様が雷の柄」のように見えるからなどがあります。
小さい頃の獰猛で、なんだか怖いと思っていたライギョですが、よく知ってくると、それだけでないことを知りました。産卵の際に水草などを集めて巣を作るものもあるそうですし、卵や稚魚を口内で保護するものなどもいるようです。ライギョといっても、日本では「カムルチー」「タイワンドジョウ」「コウタイ」の3種が分布しています。これらはもともと東アジアに分布し、日本には人為的に導入された外来種で、導入当時には「チョウセンナマズ」とも呼ばれていました。その中で最も大きくなるのが「カムルチー」で、最大90cmくらいまで大きくなります。中国から朝鮮半島に持ち込まれ、日本に持ち込まれたのは割と最近のことで大正の終わりころです。「タイワンドジョウ」は小型で、明治時代に台湾から持ち込まれました。「コウタイ」も全長30cm程度の小型種です。
それにしても、なぜ、縁日などでライギョ釣りがあったのでしょうか。ウナギのように蒲焼で食べることもありましたし、観賞魚として飼われることもありましたが、それにしても不思議です。ただ、私はその恐ろしげな姿故にライギョ釣りはしませんでしたが、今はナマズ同様に飼ってみたいと思います。それは、ナマズ同様、急激に日本から姿を消してしまっているからです。私は、都会育ちですから、魚に懐かしさを感じるのは縁日の思い出と共にあるのかもしれません。
ほかに、飼ってみたいものに「タナゴ」があります。この魚も私の小さかったころの思い出とダブります。懐かしい種は、絶滅危惧種でもあります。大切にしたいものです。

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2009年07月19日 近頃思うこと

土用

 今日は「土用丑の日」、新聞広告から町の中まで鰻一色です。つくられた記念日として宣伝効果抜群なのは、バレンタインデーと並び称されますね。
 鰻といえば蒲焼ですが、名古屋の「ひつまぶし」もおいしいですね。名古屋に、「なまずや」という「ひつまぶし」で有名な店があります。この店の由来は、「その昔、中山道沿いの御茶屋「なまずの蒲焼き」を供していたのが発祥とされています。その後、岐阜に移り「うなぎの蒲焼き」を始めたところ、それが評判になり「なまずや」という名の「うなぎや」になったということです。さらに時を刻み昭和二六年、ここ尾張名古屋の地に「名古屋なまずや」として営みを創めました。」と書かれています。
 夏バテが始まる丑の日にウナギを食べようという今日という日ですが、確かに日本でスタミナ料理といえば、食材としてうなぎが有名ですが、ナマズもスタミナ不足を解消してくれる食材だったようです。今でも、タイでは「プラードゥック」というナマズが、栄養に優れたスタミナ源として、パワーをつけたいときなどに食べられているそうです。味は淡白で。口当たりは柔らかく、高たんぱく、低脂肪、ビタミンA、B1、B2が豊富な食材です。今では、日本ではナマズ料理あまり食べませんが、古代から食用魚として漁獲されていたようです。
また、ナマズは日本でも川や沼地のような淡水によく見られた魚でした。ですから、さまざまな文化に取り入れられた歴史をもち、浮世絵などの絵画の題材にされました。そんなナマズが、先日、朝顔市に行ったときに露店で300円で売られているのを見つけ、早速買ってきて、いま、園で飼っています。
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扁平な頭部と幅広い口、長い口ヒゲ、鱗がなく、体表はぬるぬるとした粘液で覆われており、目は小さく背側寄りについています。その顔をして、体をくねらせて泳ぐ姿は愛嬌があるのですが、実はかなり貪欲な食性を特徴としています。
基本的には夜行性のようですが、昼間に園では餌をあげるときに寄ってきます。普段は、昼間流れの緩やかな平野部の河川、池沼・湖の水底にいて、岩陰や水草の物陰に潜んでいます。ですから、飼育するときには、水槽の底には川砂を敷き、隠れる場所を作ってあげます。自然界では、口ヒゲを利用して餌を探し、ドジョウやタナゴなどの小魚、エビなどの甲殻類、昆虫、カエルなどの小動物を捕食しますので、基本的には肉食です。ですから、園では、肉食用の餌をあげています。
ナマズといえば、日本では、地震の予兆として暴れるという俗説が広く知られています。東京の羽村町にある羽村動物園には、入ってすぐのところに「地震予知動物観察所」があり、「ナマズ」のほか「キジ」「キンケイ」「コイ」が飼われています。確かに、子どもの頃我が家ではキジを飼っていましたが、地震の前にケーン・ケーンと甲高く鳴いていました。ナマズはどうでしょうか。微振動や電流などに反応しているとも言われていますが、実は科学的な実証は成されていないようです。地下に大鯰が住んでいるという説もありますが、この説は江戸時代中期に民衆の間に広まっていました。「安政見聞誌」には、ウナギを釣りにいったら、ナマズが騒いでいたところ、その3~4時間後に安政江戸地震が起きたということが書かれています。
園のナマズは、地震を教えてくれるでしょうか。

投稿者 fujimori : 21:29 | コメント (4)

2009年07月18日 新聞記事より

梅雨明け

東京では今日は少し雨が降りましたが、関東甲信越地方は7月14日に梅雨明けしています。梅雨明けは、地方ごとに気象台が気象庁と打ち合わせ、1週間先までの予報資料で降雨の有無などを判断して決めていますが、梅雨は、太平洋高気圧が南から張り出して日本列島を覆い、梅雨前線を北に押し上げることで明けるのです。東京では、平年が7月20日ですから、少し早いようです。梅雨入りは平年より2日くらい遅かったようですが。それよりも、今年の特徴として、東海や北陸、近畿、中国地方などの梅雨明けより関東甲信越のほうが早かったという点です。名古屋地方気象台によると、関東甲信地方が東海地方より先に梅雨明けしたのは2001年以来で、統計を取り始めた1951年以降、過去に8度あるだけだということです。
また、九州北部がなかなか梅雨明けしないようです。この地方も関東甲信地方より遅かったのは、7年ぶりだそうです。競争ではないので、なにも早いほうがいいわけでもないのですが、それが何か気象に影響しないかどうかということが心配です。今日の新聞によると、今年は大陸からの寒気に押されて、太平洋高気圧の張り出しが弱く、梅雨前線が九州北部付近の上空に停滞しているために、九州地方では、来週いっぱいは梅雨明けしないとみており、しばらくぐずついた天気が続くそうです。
 それよりも、今年は気をつけたほうがいい現象が起きています。気象庁によると、ペルー沖の海面水温が上がり、日本上空の高気圧の発達を抑えることで、冷夏や大雨の原因となるエルニーニョ現象が発生しており、冬まで続く可能性が高いといっています。エルニーニョの年には、57年の諫早豪雨や82年の長崎豪雨、97年に鹿児島県出水市で21人が死亡する大雨などが起きていますので、九州地方の方は気をつけて準備をしておいたほうがいいかもしれません。
 「エルニーニョ」という言葉は、は、スペイン語で「男の子-神の子-」という意味だそうです。もともとは、ペルー北部の漁民が毎年クリスマスのころに現れる沿岸の小規模な暖流のことを「エルニーニョ」と呼んでいました。この暖流は、その時期になるとあらわれるものですが、数年に一度、ペルー沿岸だけでなく、もっと広範囲の中部太平洋赤道域から南米沿岸まで海域で海面水温が平年に比べて高くなり、塩分が少ない海水が現れる状態が6カ月から1年程度続くことがあり、その現象を「エルニーニョ」と区別するため「エルニーニョ現象」と呼んでいます。これとは逆に、中・東部太平洋赤道域の海面水温が平年に比べて低くなる現象をスペイン語で「女の子」を意味する「ラニーニャ現象」と呼んでいます。
エルニーニョ現象が起こると世界各地で気温や降水量の変化が顕著に現れやすくなり、日本では、長梅雨、冷夏、暖冬、日本付近では台風の発生数が減少する傾向があるそうです。世界では各地に高温、低温、多雨、少雨などが発生するようです。また、海水温の変化による影響として、ある地域では漁業不振で大打撃を受け、ある地域では殆ど水揚げされないはずの魚介類が大漁となることがあるそうです。日本では暖冬で冬物が販売不振に陥るため、経済にも影響が波及します。エルニーニョ現象の原因はまだよくわかっていないそうですが、熱帯の太平洋全体におよぶ気象の変化、さらには地球全体の気象の変化と関係しているといわれているように、これらの現象も結局は人間が引き起こしているのかもしれませんね。
気象異常は、災害だけでなく経済にまで影響しますので、気をつけたいものです。

投稿者 fujimori : 19:06 | コメント (4)

2009年07月17日 記念日

明日という日

 昨日、園の携帯電話にこんなメールが入ってきました。「東京都光化学スモッグ情報(2009/07/16) 東京都の光化学スモッグの発令・解除状況をお知らせします。 発令地域 区西部 学校情報:14時20分提供 予報:発令なし 注意報:発令なし 警報:発令なし」
今の時期は、ほとんど毎日こんな情報が流れてきます。特に、この中の「学校情報」というのは、子どもに影響する程度ですが注意を要します。
自治体では、大気汚染防止法に基づき、常に大気汚染の監視を行っています。また、全国の大気汚染測定局では、24時間自動で1時間ごとの大気汚染の状況を測定しています。環境省はそのデータを収集し、「そらまめ君」(環境省大気汚染物質広域監視システム)によって情報提供をしています。このネーミングは、シャレで「空をマメに監視している」ということからつけられています。そして、環境省では,光化学スモッグによる被害防止のために,2002年6月27日より,携帯電話で光化学スモッグの注意報・警報の発令状況と1時間ごとの大気中濃度を見ることができるサイトを開設しました。外に出るようなときとか、外で長時間仕事をしたり、外でイベントをやるときとかには、その情報を見るように言われています。同時に、地方自治体では大気汚染物質を排出している工場・事業場に排出量の削減を実施するように要請したり、幹線道路などでは電光掲示板などで自動車の使用の自粛を促すことになっています。また、自治体によっては、「光化学オキシダント注意報」が発令された場合、教育委員会、有線放送、広報車等を通じて住民に知らされます。新宿区でも、携帯電話とパソコンメールのその情報が自動的に入るようになっています。
 この「光化学スモッグ」は、1945年にアメリカのロサンゼルスで初めて観測され、そのため「ロサンゼルス型スモッグ」とも呼ばれています。日本では1970年7月18日に、東京都杉並区の高校でグランドで体育の授業中に、女子生徒が突然目の痛みや頭痛、のどの痛みなどを訴えて倒れ、43人が病院へ運ばれました。そして、東京都公害研究所の調査によって光化学スモッグによるものということが判明して以来、注目されるようになりました。そこで、明日の7月18日は「光化学スモッグの日」と決められています。
どうして「光化学オキシダント」という物質が発生するかというと、塗料や接着剤などに溶剤として含まれている揮発性有機化合物と、自動車や工場からの排気ガスに含まれる窒素酸化物が太陽からの紫外線を受けて化学反応を起こすと生まれるといわれています。特に気温が高く、風が弱く、日差しの強い日は大気中の光化学オキシダントの濃度が高くなり、大気中に白くモヤがかかったようになります。この現象を「光化学スモッグ」というのです。
平成19年の「光化学オキシダント注意報」の発令状況は、発令都道府県数が28都府県で、発令延べ日数が全国で220日(18年は177日)だったそうです。また、光化学大気汚染によると思われる全国での被害届人数は、14県で合計1,910人(18年は8都県289人)だったそうです。
この夏、窓も開けられず、子どもたちが外で思い切り遊んだり、時としてプールにも入れない状況が起きるのは、結局は人間が自ら招いた結果なのです。

投稿者 fujimori : 21:12 | コメント (4)

2009年07月16日 旅先にて

荒城

「水を 沢山 くんで来て 水鉄砲で 遊びましょう 一 二 三 四 ちゅっ ちゅっ ちゅっ」という「幼稚園唱歌」の中にある「水遊び」という歌の歌詞です。この「幼稚園唱歌」は、東京女子高等師範学校の教授だった東基吉の依頼により、幼児のための口語の歌詞に作曲された20曲の唱歌から成っています。この曲集の出版は1901年ですから、当時としてはこの歌詞のような口語で書かれた歌は珍しかったようです。作曲を依頼されたのは瀧廉太郎が17曲、鈴木毅一が3曲を担当しています。歌詞の大部分は、東基吉の夫人くめが担当しましたが、瀧自身が作詞したものが4曲あり、この「水遊び」という曲は歌詞も瀧で、22歳でした。
 瀧廉太郎といえば、以前大分を訪れたとき遊歩公園に「滝連太郎終焉の地」という標柱が建っていましたが、病を得た廉太郎は大分の父母の家に身を寄せ、1903年6月29日ここで没したそうです。
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 瀧廉太郎といえば有名に曲が何曲かありますが、特に「荒城の月」は、土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲による歌曲は、哀切をおびたメロディーと歌詞が特徴で、海外の賛美歌にもなっているくらいです。その歌詞は、七五調(今様形式)で、曲は西洋音楽のメロディーが融合した名曲です。この曲は、明治34年(1901年)に中学校(旧制中学校)唱歌の懸賞の応募作品として、瀧廉太郎が作曲したもので、原曲は無伴奏の歌曲でした。歌詞は、東京音楽学校が土井晩翠に懸賞応募用テキストとして依頼したものです。この「荒城」とは、どの城であるか論議されるところですが、土井晩翠は、仙台生まれなので、「青葉城」ではないかという説と、福島県会津若松市を訪れたときにイメージがわいたとして、「鶴ヶ城」をモデルにして書いたとも、また、滝廉太郎が曲を大分県竹田市の岡城址で連想したとかいわれ、それぞれ歌碑が設置されているようです。
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 「春高楼の花の宴 巡る盃 影さして 千代の松が枝 分け出でし 昔の光今いづこ」とあまりに有名な1番の歌詞ですが、長い年月を得た老松の枝を分けてさす光は、非常に美しい情景を思い起こします。「秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて 植うる剣に照り沿ひし 昔の光今いづこ」この2番の出だしである「秋陣営」は、上杉謙信の「霜は軍営に満ちて秋気清し数行の過雁月三更」からとったと言われ、霜が降り、澄み切った秋の空を雁が飛んで行く姿に哀愁を感じるとともに、鶴ヶ城での戊辰戦争の時の悲惨な戦いが思い出されます。「今荒城の夜半の月 変わらぬ光 誰がためぞ 垣に残るはただ葛 松に歌ふはただ嵐」さまざまな戦争やいろいろな出来事があっても変わらないのは月の光です。静けさの中で蔦は壁を伝い、松を揺らし、音を立てているのはそこに当たる風の音だけです。「天上影は変はらねど 栄枯は移る世の姿 映さんとてか今も尚 ああ荒城の夜半の月」栄枯盛衰、諸行無常の世の中で 月の光はいつの世も変わらず照らしています。今宵も城影からさしてくる月の光を浴びながらそんな感傷にふけります。
 本当の歌詞の意味は少し違うかもしれませんが、私は、会津の鶴ヶ城を訪れて、この歌詞が頭の中をよぎりました。大切にしたい歌ですね。

投稿者 fujimori : 21:06 | コメント (5)

2009年07月15日 旅先にて

会津と天地人

私は東京生まれですので、「江戸っ子」ですということがあります。同じように大阪生まれですと「浪速っ子」と言ったり、北海道生まれですと「道産子」と言ったりします。しかし、江戸っ子には、もう少し厳密な意味が含まれます。「江戸で生まれ育った生粋の」ということが条件になります。生まれただけでなく、育っていることも条件になりますし、「生粋」という条件も入ります。生粋ということはどういう意味かというと、もう日等に言い方である「ちゃきちゃきの江戸っ子」という言葉があります。この「ちゃきちゃき」とは、長男(嫡男)の長男(嫡男)を意味する「嫡嫡」がなまった言葉で、3代続きの長男である場合のみ「ちゃきちゃきの江戸っ子」と言うようです。
また、「先祖代々ここの出身です」ということがあります。その時の「先祖代々」とはどのくらいの間のことを言うのでしょうか。たとえば、「先祖代々の墓」というのがありますが、だいたいにして今のような墓が造られたのはそれほど昔ではないので、代々といってもそれほどの長い間ではないはずです。これは「代々この職業です」という場合も同じで、それほどの長い間ではないでしょう。
今、NHK大河ドラマで「天地人」が放映されていますが、このころの戦国時代から江戸時代にかけて、大名たちは頻繁に国替えが行われていたようです。これは「転封」といって、江戸幕府(将軍)が、手柄に対する褒美であったり、罰則であったりで、大名の領土を別の場所に移すことで、「移封」とも「所替」とも「得替」とも言ったようです。私は妻とこの大河ドラマつながりの場所を訪れることにしていますが、この戦国時代から江戸時代にかけてがドラマの舞台の時には、訪れる場所はいろいろと変わっていきます。2006年に放映された山内一豊とその妻千代との話の「功名が辻」では、ずいぶんと転々としました。
尾張国(愛知県)に生まれ、織田信長に仕え、秀吉の与力となった時の功績により、近江国で400石を与えられ、この後、播磨国(兵庫県)を中心に2000石を領します。その後、豊臣秀次の宿老となり若狭国高浜城主、まもなく近江長浜城主となります。そして、遠江国掛川に所領を与えられ、最後には土佐国一国の領主としておえます。一体、どこの国の城主だったかわからないほどです。
今年の大河ドラマ「天地人」も、それほどあちらこちらではありませんが、主人公である直江兼続もいろいろな地で城主になります。大きく言えば、新潟、山形、福島が舞台です。今まで、新潟県の長岡、上越、直江津を訪ね、山形県の米沢、山形を訪ね、今回は福島県会津を訪ねました。この地にある「鶴ヶ城」は、文献史上では「黒川城」とか「会津城」とか「若松城」と呼ばれます。
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この鶴ヶ城は、戊辰戦争の際に、会津勢の立て篭もったことで有名ですが、実は上杉景勝が2年くらい城主になっています。ちょうど先週NHK大河ドラマで伊達政宗が葦名氏と連年戦いを繰り返していることに対して直江兼続が説得に行くところが放映されました。その説得にもかかわらず、政宗は葦名氏を滅ぼし、黒川城を手にします。しかし政宗は、その後秀吉に臣従し、会津を召し上げられ、代わって蒲生氏郷が黒川城に入ります。彼は、近世城郭に改造し、城下町を整備し、名も「鶴ヶ城」に改めます。しかし、氏郷の子である秀行が家中騒動のために下野国宇都宮に移封されたために、越後国春日山より上杉景勝が入封します。しかし、1600年、関ヶ原の戦いで西軍に加担した上杉景勝を徳川家康は石高を下げ、出羽国米沢に移封するのです。
この城の五層の天守閣が昭和40年(1965)に復元され、干飯櫓・南走長屋が平成13年に復元され、一般公開されています。復元にあたって、発掘調査や資料調査に基づいて設計が行われ、工事には往時の工法や技法を用いて本格的に復元されています。

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2009年07月14日 近頃思うこと

不倒

「薩摩の訓え」というものに「男の順序」が書かれてあるものがあります。1番は、「何かに挑戦し、成功した者」である人です。その次は、「何かに挑戦し、失敗した者」です。その次は、「自ら挑戦しなかったが、挑戦した人の手助けをした者」そして、「何もしなかった者」で、男として最低であるものは、「何もせずに批判だけしていた者」ということです。これは、昔なので「男」の順序を表していますが、実は「人としての順序」なのでしょう。こう改めて書かれると、自分はどのようであるか、何かをしようとするときには自分はどんなスタンスであるかということを振り返ります。
福島県会津地方に古くから伝わる縁起物・郷土玩具の一つに「起き上がり小法師」(おきあがりこぼし)があります。
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いま、東京では「会津」キャンペーンをしており、いろいろな場所にポスターが貼ってありますが、そのメインキャラクターは、会津の人にとってなじみの深い「赤ベこ」という首を振る赤い張子の牛をデザインしたものです。その郷土玩具は有名ですが、最近人気のあるものに稚児をかたどった可愛らしい「起き上がりこぼし」があります。会津地方ではこの小法師を「十日市」という毎年一月十日に行なわれる縁日で家族の人数+1個を購入し一年間神棚などに飾るようです。
「起上り小法師」は、底におもりをつけた、だるまの人形で、何度倒しても起き上がる事から「七転八起」という精神が含まれています。この人形は、もともとは中国のものです。会津のもう一つの郷土玩具である「赤ベこ」はその材料が張子で作らられていますが、この張子という紙を張り重ねて立体を作るやり方も中国でうまれました。唐の時代(616~906)の中国は、さまざまな文化が生まれました。その頃、酒宴で酒をすすめる道具の一つに「酒胡子」と呼ばれる玩具がありました。その形は尻のとがったコマのようなものでクルクルと廻り、倒れた方向にいた人が何か芸をしなければなりません。今でも、さいころ代わりにそのようなコマを使うことがあります。その「酒胡子」が、「不老不死」を意味する「不倒翁」として張子の玩具に変身していき、お酒の席などでもてはやされました。そのころの室町幕府は、中国との貿易を盛んに行っていました。渡航した日本の人たちが日本に持ち帰ってきたお土産の中にこの「不倒翁」がありました。「不倒翁」とは老いてもますます元気な意で長寿をあらわします。ですから、その姿は翁です。しかし、日本では、転ばしてもすぐ起き上がるおもしろい動作から、都の人たちは翁を子ども向けのかわいらしい姿に作り代えてしまったのです。それが「起上り小坊師」という「小坊師」子どもという名前が付いています。そして、子どもの成長を願う親の心にもピッタリ合い、おもちゃとして大流行しました。これが江戸へ運ばれて、いろいろな意味がその人形にこめられ、変化をしてきました。
今、会津で売られている「起き上がりこぼし」は、赤い衣を着ているのが普通ですが、それは、その姿から達磨大師をイメージし、坊さんがまとう朱衣を表しています。また、起きあがる姿は病気平癒への願いが込められています。そのとき朱色は疱瘡に効き目があるといわれ、子どもの病気見舞いの手みやげに使われるようになりました。また、「七転び八起き」の縁起をかつぎ、子孫繁栄、商売繁盛などにも使われるようになりました。「何度失敗しても挑戦し続ける」日本人の心の支えとなっているのです。

投稿者 fujimori : 22:37 | コメント (5)

2009年07月13日 江戸文化

遊びの什

江戸時代における薩摩藩と会津藩の取り組みが非常に似通っているのは、どうしてでしょうか。教育視察団が派遣されたのでしょうか。たしかに、会津の教育システムの見学には佐久間象山とか吉田松陰が訪れたという記録は残っているそうですので、見ているのかもしれません。また、一昨日書いた私の園での子どもの様子は、なにも会津藩に見学に行ったわけでもありませんが、同じような取り組みです。
会津での「什教育」による「什の掟」の説明書きにはこう書かれてあります。「これは藩校日新館に入学する前の遊び仲間(6~9歳)が毎日午後に集合し遊びの前に話し合う自活的な定めで制裁もある。日新館入学後の日新館童子訓による学校教育の前提となるもの」
ですから、藩校・日新館に入学する前に少年達が行なっていた行為のことを会津では「遊びの什」ともいわれていました。この什という組織に所属している子は6歳から9歳までの4年間ですが、その頃の年齢は数え年でしょうから、いわゆる今でいう脳の臨界期までということになるでしょうか。常々私は、脳の臨界期までの教育と、その後の教育方法は分けるべきであると主張してきました。乳幼児教育から、8歳くらいまでは、人格形成を中心にし、子どもたちの発達をきちんと踏み固めていくことが必要であると思っています。課題としては、コミュニケーション能力とか問題解決能力とか、我慢をする力である行動抑制力などを育てる必要があると思っています。そのときに子どもにとって必要な環境は「異年齢子ども集団」であり、子ども同士が学び合う環境や大人による働きかけが必要になるのです。そのために、アメリカなどでも、8歳くらいまで、小学校でも円形に子どもたちが集まります。その時期の発達をきちんと遂げることによって子どもたちは情緒が安定し、きちんと座って人の話を聞けるようになります。そして、初めて認知的なことを先生から教わるのです。
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それが、会津では10歳になると入学する藩校「日新館」なのです。会津藩校「日新館」という名前は、「大学」にある「苟ニ日モ新タナラバ日ニ日ニ新タニ マタ日ニ新タニセン」(日々心を新たにし、進歩向上しよう)からきています。その言葉を盤銘に刻み、毎日読んで自戒したといわれています。
その教育は藩祖の遺訓を旨とし、文武両道にわたる幅広い内容であったといわれています。まず、15歳までは初等教育として孔子をまつった大成殿を中心として素読所(小学ともいった)があり、そこでは、礼法、書学、武は兵学をはじめ弓術・刀術等武芸全般を学びました。この素読所を修了した者で成績優秀者は講釈所(大学)への入学が認められ、そこでも特に優秀な生徒は、この日新館をおえると、江戸(東京)や長崎にも藩の費用で留学することができました。この「講釈所」での文は漢学を主とし、天文学、蘭学、舎密学(化学)等にわたる多数教科制で、天文台、開版方(印刷所)、文庫(図書館)、水練場(プール)といった施設まで完備し、全国に数ある藩校の中でも屈指の教育機関でした。
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講釈所と水練場(日本最初のプール)
この日新館は文化元年(1804)、5代藩主松平容頌の時代に完成しましたが、当時、藩の借金は40万両を超える額となっており、農民も数年間続いた天明の飢饉などで苦しんでいました。そのため、容頌は藩の一大改革へのりだしました。その基本は、藩政の基盤が士農工商の振興にあり、それをなしとげるためには 家臣団の教育と人材登用にあるという考えにもとづくものでした。
国を立て直そうとするときには、まずは「教育」というのはいつの時代でもいうことですが、その教育を重視するということがどういうことであるか、どのような教育をしていくのかを違ってしまうと、まったく逆の人材を作ってしまいかねません。

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2009年07月12日 地域を知る

よく外国がいいとか、昔がよかったという人がいます。逆に日本が素晴らしいとか、今の時代が素晴らしいという人もいます。しかし、今を生きる私たちは、今をよくする必要があり、そのために外国のことや昔のことから学ぶ必要があるのです。外国にはその国の歴史や風土の中ではぐくまれた文化があり、昔にはその時代に必要な文化が形成されているのです。
薩摩の郷中教育や会津の什教育における子ども同士のかかわりから学ぶシステムは、意味の時代でも学ぶべきところがありますが、そこで教えていた内容は必ずしも今の時代にそのまま通用するものではありません。そのことを踏まえ、薩摩と会津での教えを見てみたいと思います。
薩摩の郷中教育の訓えには、「九ヶ条之掟」というものがあります。「忠孝を旨とし 文武の鍛練を励め」「礼儀をわきまえ郷中の団結を心がけよ」「山坂達者(山を走って足腰を鍛える)を励め」「何事にも詮議を尽し方針が定まった後は異論を立てず言い訳をするな」「嘘をつくな。弱音を吐くな」「卑怯な振る舞いはするな。短気を起こすな」「弱い者をいじめるな。目上を重んじ親に反抗するな」「無刀で門外へ出てはならない」「脇差一本を身に付けて町の辻角をまわるな」「いかなる時でも刀を抜いてはならない。抜けばただでは鞘に納めるな」の九つです。この中で、今でも子ども集団を形成するうえで必要な事柄がいくつかあります。「礼儀…」と「何事…」「嘘…」「卑怯…」「弱い者…」などでしょう。
一方、会津では6歳から9歳までの幼年者は、地域ごとの組に振り分けられました。これらの組は「お話の什」または「遊びの什」と呼ばれ、子ども同士の「遊び」のなかから、年長者への礼儀やさまざまな知識を身につけさせようというのが狙いでした。そのために子どもたちは、「什」の誓ひ(掟)」というのを大声で復唱します。「年長者の言ふことに背いてはなりませぬ」「年長者には御辞儀をしなければなりませぬ」「虚言を言ふことはなりませぬ」「卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ」「弱いものをいぢめてはなりませぬ」「戸外で物を食べてはなりませぬ」「戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ」これら7カ条に加えて「ならぬことはならぬものです」というのがあります。
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会津といえば、10歳になると入学が義務付けられていた「日新館」という藩校が有名ですが、そこに入る前の6歳から4年間、「什」で過ごし、藩士としての心得が繰り返し教え込まれました。その教育の方法が薩摩の郷中教育と同じような子ども同士の学び合いがあったのです。町内の区域を「辺」という単位に分け、辺を細分して「什」という藩士の子弟のグループに分けました。什とは「十人」を一単位とする組織のことですが、別に必ずしも十人というわけではなく、人数はまちまちだったようです。この什には藩士の子弟といっても身分差別は全くなかったようです。什では「什長」というリーダーが選ばれ、什長は毎日、什の構成員の家の座敷を輪番で借りて、什の構成員を集めて「什の掟」を大声で復唱します。
このように、薩摩と会津の教育制度は、非常に似通っており、両藩ともに少・青年期において、居住する町内においてお互いの学び合いを行っているのです。そして、その学びには、子どもたちの自活的な活動があったのです。

投稿者 fujimori : 22:51 | コメント (4)

2009年07月11日 講演先にて

少年自治

 私の園では、3,4,5歳児は朝、登園してくると出欠席をとるまでの時間、自分たちで遊ぶことができるゾーンを選ぶことができるようになっています。ただし、使うことができるゾーンは、中央にあるボードに○のついたゾーンだけです。それは、先生がいろいろな都合で、開設するゾーンを決めているためです。ある日、子どもたちは×がついているゾーンを使いたいと先生に交渉しました。先生と子どもたちはこんなやり取りを始めました。「その場所は今日使うことになっているからごめんね」「だったら、そのゾーンは他の場所より早く片付けるからいいでしょ?」「じゃあ、9時までね?」「うん、いいよ」ということで、ボードのそのゾーンの横に○と「9時」が書かれました。その日以来、どのゾーンを○にするかということを朝、子どもたちと先生で話し合いをして決めることにしました。先生も含めて数人の子たちが、開設するお知らせボードを真ん中に、丸いテーブルを囲んで話し合いをしている姿が見られるようになりました。
 ある日、子どもたちはこんなことを言い出しました。「先生、どれを○にするかはもう自分たちだけで決めるから先生はいなくていいよ。」ということで、今は、子どもたちだけでどのゾーンを開設するかを話し合って決めています。ある朝、その横を通ったときにこんなやり取りが見られました。3歳児の子が「ねえ、ここを○にしてよ」「だめ、みんなここはきちんと片づけないから」と5歳児の子ども。「ちゃんと、片付けるよ」「じゃあ、もし片付けられなかったら、明日は×にするよ」
 こんなやり取りは、異年齢集団だから行われるのかもしれません。もし、同年齢児集団で同じようなことが起きるとしたら、力関係で命令してしまうことになってしまうでしょう。異年齢集団では、年長児が指示をしてもそこには思いやりが感じられます。
 何度かブログで紹介した薩摩の郷中教育では、少・青年期において居住する町内において子どもたちの異年齢集団を形成し、その中での自治的に学び合いを重視した教育方法です。だいたい7歳くらいから10歳までを「小稚児」、11歳から15歳くらいまでを「長稚児」、それ以上の青年を「二才(にせ)」と呼び、それぞれが町内単位で組織を形成し、そしてそのグループごとに「頭」というリーダーを置いて、自主的に勉学します。若き日の西郷隆盛が下加治屋町郷中の「二才頭(にせがしら)」を勤めていたというように、子ども同士で教えあうときに、学びが大きいのは教える側の方であったようです。
 かつて何かを知っていることに価値のあった場合は、教わる側のためであったのが、創造する力とか、コミュニケーション能力とか、問題解決能力が重要になってきた時代では教える側に力が備わってきます。そんな学びが大きい立場を先生が占めるのはもったいない気がします。それを子どもにさせるのが学び合いなのです。
このような薩摩藩における「郷中教育」と同じように、年長者が年下の者を教え・訓戒するという教育方法をとっていたのが、会津の「什」や「辺」という教育制度です。今日は、講演で会津に来ています。私は、毎年妻とNHK大河ドラマの舞台を訪れることにしていますが、今年の「天地人」関係の長岡、直江津、米沢、山形を訪ね、最後に会津を明日は歩こうと思います。そして、「什」教育についても考えてみたいと思います。

投稿者 fujimori : 21:45 | コメント (4)

2009年07月10日 新聞記事より

レンタル

 先日の7月4日の読売新聞にこんな記事が掲載されていました。
「DVDレンタル最大手「TSUTAYA」を展開するカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)は洋画の名作DVD100本を1本100円(原則として7泊8日)でレンタルするキャンペーンを始めた。出版各社が文庫で展開している「夏の100冊」をヒントに「フォレスト・ガンプ 一期一会」「ローマの休日」など名作100本を「心が泣いた」「恋に落ちて」など12テーマに分けて紹介、全国1376店で8月末まで実施する。」というものです。
 私はあまりTSUTAYAは利用しませんが、ここのカード会員は20~30歳代を中心に3231万人(4月末現在)もいるそうですからすごいですね。しかし、この100冊のラインアップを見ると、ずいぶんと懐かしい名作が並びます。ちなみに、今年上半期のランキングは以下のとおりです。1、きみに読む物語 2、エターナル・サンシャイン 3、スター・ウォーズエピソード4新たなる希望 4、クラッシュ 5、ミリオンダラー・ベイビー 6、ライフ・イズ・ビューティフル 7、死ぬまでにしたい10のこと 8、ラブ・アクチュアリー 9、ショーシャンクの空に 10、アメリですが、この中では私は3作品しか見ていませんが、どういう人が借りているのでしょうか。実際のレンタル利用が多いのは50~60歳代だそうです。そして、最近の不況による「巣ごもり消費」の拡大をにらみ、名作DVDの格安レンタルで中高年の会員増を狙うようです。
また、新しいところで、TSUTAYAグループの株式会社ツタヤオンラインは、今年の1月末にTSUTAYA online総会員数が1,500万人を突破したというニュースも流れました。これは、パソコン向け・携帯電話向け双方総合エンターテインメント情報サイトで、店舗と同じクオリティのショッピングを可能とする通販サービスで、携帯電話での買い物というライフスタイルを構築いたしました。
この新しい企画を次々に発信しているTSUTAYAは、カルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社(通称CCC)が運営しています。CCC創業当時からのメッセージは、「不可能に見えたことも、可能にしてくれたのは夢。今、新しい世界を見るために、新しい夢を見る」「ONLY DREAM,COME TRUE 」だそうです。
1982年に増田宗昭が、大阪府枚方市の枚方駅前ビル5Fに喫茶店兼貸レコード店「LOFT」を開店したのが始まりです。そして、翌年、大阪府枚方市にTSUTAYA 1号店「蔦屋書店 枚方駅前店」をオープンします。蔦屋とは、増田宗昭社長の祖父が置屋を経営していて、その屋号が「蔦屋」だったからですが、1号店の開店当日、友人から江戸時代の地本問屋「蔦屋」の主人で、写楽、喜多川歌磨、十返舎一九、滝沢馬琴ら狂歌師・戯作者などを送り出した蔦屋重三郎の話を聞かされ、彼にあやかりたい、という2つの理由で「TSUTAYA」と名付けられたとホームページには書かれています。
創業者の増田氏は、「何より痛感したのは、『とにかくやってみる』ことの大切さ。これが人間が成長するための最良で最大の方法と学んだ。」と言っています。とにかくやってみるということは新しいことに挑戦する人の共通の心構えです。また、この新しいものに取り組むためには、何でも無鉄砲にやるのではなく、情報収集が必要です。その情報について増田氏は、「情報は、集めるよりも「集まる」ものが大切。人から好かれない人間に情報は集まらない」と言っています。おおきく伸びた企業からの学びは大きいですね。

投稿者 fujimori : 22:31 | コメント (5)

2009年07月09日 近頃思うこと

発見科学

 まだまだ梅雨空が続き、子どもたちはプールに入れない日が多く、日々もてあまし気味です。また、園の道を挟んだ向こう側の屋上には小学校のプールがあり、小学生がプールに入っている歓声が聞こえてきます。そんな夏の風景ですが、ドイツでは乳幼児施設ではあまり子どもたちがプールに入っているのを見ません。というより、今まで一度も見たことがありません。地下にプールがある学童は見たことがありますが、幼稚園、保育園では見かけません。というのは、プールで泳がせるということはしないところの方が普通のようです。それは、昨日のブログでも書いたように、泳げるようになるということは、あまり科学の目を養うことにはならないからのようです。園は、社会的に価値のある知識を効果的に作り上げるための理論的な根拠がないからでしょう。
 ドイツで夏に園を訪れたときによく見る子どもの活動は、「水遊び」です。水を入れた水槽から水をすくったり、容器に入れたり、移したりしています。また、水が噴き出る口を狭くしたりして、水を遠くに飛ばしてみたり、水を砂と混ぜて泥水を作ってこねたり、砂で川を作って水を流したり、水を素材としていろいろな遊びをするのが夏の園の風景のようです。そこから、子どもたちはいろいろな発見をするようです。私の園でも、プールには入るのですが、それを待っている子どもたちのために水遊びの場所を提供することにしています。
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 ジーン・ハーレン氏とメアリー・リプキン氏が「Science Experiences for the Childhood Years」という本を出版しました。その中で、発見科学を効果的に指導するための4つの役割が書かれてあります。一つ目は、世話役としての役割です。子どもたちが成長する機会を持てるような環境を整えます。そのときに大切なことは、子どもの活動でちょっとぐらい散らかっても寛容でなければならないということです。そして、新しい冒険的な試みをいとわない気質や、失敗から教訓を学ぶ能力が必要であるのです。
 次に、触媒としての役割です。この役目は、子どもたちに自分で考え問題解決をするのだということに気づかせ、知的な力を活性化させます。かつての教師像は、究極の知識源とみなされ、自分の知識と子どもの知識との隔たりを必要以上に大きく見てしまっていました。そうすると、子どもの知的な能力が見えにくくなってしまいます。触媒としての役割の教師は、自分自身も発見の喜びにあふれ、子どもたちを前向きに応援するような雰囲気を作りだします。
 次の役割は、助言者としての役割です。子どもたちにあまり多くの情報は出さず、子どもたちの探求を注意深く観察し、近くで耳を傾けます。一人一人の子どもたちが新しい考えを練り上げ、問題解決に取り組める時間をたっぷりととります。この役割は、直接的なものではなく、支援するコーチとしての役割です。
 そして最後がモデルとしての役割です。このモデルとして示すものは、すぐれた学習者が持っている重要な特性です。好奇心、価値理解、粘り強さ、創造性といった特性です。そして、それらのお手本を示すのではなく、自分の経験や思考プロセスを子どもたちに示して、前向きな学習気質のモデルを示すことです。
 教師が前向きな態度を持ち、自分に必要な役割が何かをわかっていると、子どもたちが科学的発見から得た達成感を分かち合い、喜べるという点で報われ、個人的に成長できるとこの本では提案しています。

投稿者 fujimori : 23:57 | コメント (4)

2009年07月08日 近頃思うこと

科学

 最近、幼児教育における「科学する目」が重要視されていますが、何が科学かというと、なかなかわかりにくいことがあります。ドイツでは、水と油による実験を見せてもらいました。それは、ある科学体験をしたことになります。それは、驚きであり、発見でした。科学という英語は「science」ですが、その語はラテン語の「scire」を語源としていますが、それは「知ること」という意味です。ということは、幼児に対して「科学する目」を養おうとすることは、「知る」という人間の自然な能力を育んでいるということになるのでしょう。しかも、子どもは本来、いろいろなものを知りたがるということは、科学する心を持ち合わせているということになるのです。それが、好奇心という言葉なのでしょう。
 好奇心は、もともと人間が持ち合わせているものですが、それが促されるか、そがれるかは子どもたちの体験が影響するようです。それは古典的な心理学研究でもわかっていることですが、情緒的な愛着が育っている乳児では、母親がいると安心して自発的な好奇心を示したり、探索行動を行ったりします。しかし、反対に不安や強い恐れがあると、探索をやめたり、好奇心がそがれると言われています。
 最近、子どもの評価として「sics」という概念が注目されています。それは、「Well-Being」=安心度(らしさ・安心・心地よさの度合い)と「Involvement」=夢中度(ひと、もの、ことに心はずませてかかわる度合い)から子どもを見ていくというものですが、この二つの子どもの心は科学するうえでも大切なものです。そして、その情緒的な経験がその子にとって長期的な価値を持つための大切なことをレイチェル・カーソンが「センス・オブ・ワンダー」という自然研究における有名な本の中で次のように書いています。「ひとたび、美しいという感覚、新しく未知なるものへの興奮、共感、同情、感嘆や愛などの感情がわき起こると、感情をゆり動かしたものへの知識を渇望するようになる。そして、その知識が見出されると、永続的な意味を持つのだ」
 知識は、子ども自らの渇望がなければなりません。知識とは、教え込まれ、叩き込まれるものではなく、知りたいという好奇心がなければならないのです。そのために、まず、感情がゆり動かされるような体験が必要になります。
 そのように得られた知識とはどのようなものなのでしょうか。それを、今までは例えば数学の公式であるとか、歴史の年号であるとか、漢字書き取りであるとかでしたが、ハーバードの教育学者のハワード・ガードナーは、知能というものは、いろいろな場面での「問題解決」「問題創造」「問題発見」であるとしました。そして、それはだれでも多かれ少なかれ持っているもので、8つの異なった知能が組み合わさっていると考えました。
 それは、論理、数学的知能(数学的、論理的、科学的な概念を理解したり使用したりする能力)、言語的知能(考えを表現するために言葉を使う能力)、音楽的知能(音楽で考える能力や、パターンを聞いたり、認識したり、記憶したりする能力)、空間的知能(空間的な世界を心の中で思い描く能力)、身体、運動的知能(身体を使って問題を解決したり何かを作り出す能力)、対人的知能(他の人々を理解する能力)、内省的知能(自分の感情について考えたり、自分自身を理解する能力)、博物的知能(生き物を見分けて分類することなど、自然界でパターンを見出す能力)の8つです。
 このような考え方が、以前にドイツ報告でも書いたような最近の世界での幼児教育の取り組みに影響をしていて、あのPISAの学力調査の問題に影響していることがよくわかります。

投稿者 fujimori : 22:59 | コメント (4)

2009年07月07日 近頃思うこと

夕顔

 朝顔市で多く見るしたては「行灯仕立て」と言い、鉢のまわりに何本か支柱をたて、そこに輪をつけて、蔓をからませていくやり方です。店の人から、あまり葉が茂っていないものの方が、花がきれいに咲くと教えてくれました。ですから、小さな葉、細い蔓のほうが大きな花をつけるようです。また、そこに植えてある花の種類は、4種のものが主流です。そして、色の濃い花と淡い花が多いものと選びます。その中で、茶色の朝顔を「団十郎」と呼びます。本来は、「団十郎」という特定の品種のことですが、歌舞伎の団十郎が好んだ色ということで茶色の系統を「団十郎」と呼んでいます。
 そんな日本独特の朝顔ですが、「朝顔」という巻が、「源氏物語」54帖のなかの第20帖にあります。この朝顔は、源氏が若い頃から熱をあげていた女君の一人です。しかし、源氏の求愛を拒み続け、結局は独身を貫き通して出家してしまいます。その朝顔という名前は、源氏からアサガオの花を添えた和歌を贈られたという逸話からきています。「見しおりの露忘られぬあさがほの 花のさかりは過ぎやしぬらむ」(昔みた忘れられない朝顔も 花のさかりは過ぎたのでしょうか。)朝顔は、意外と早くしぼんでしまい、そのあとの姿は美しく咲き誇っていた姿とのギャップが激しく、とてもみじめに映ってしまいます。
 今回の朝顔市でもう一つ目を引いたのが大輪の真っ白い花をつけている「夕顔」があります。園へのお土産に、この夕顔も買いました。
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 「夕顔」は、「源氏物語」では第4帖にあります。光源氏が17歳のころ、乳母の見舞いの折、粗末な家の垣根に,きれいな夕顔の花に目を留めます。その花を源氏が取りにやらせたところ、邸の住人の使いの人が「これに花を載せてお持ちなさい」と扇を渡してくれました。夕顔の花が載せられた扇は良い薫物の香りと共に,きれいな字で和歌が書かれていました。「心当てに それかとぞ見る 白露の 光添へたる 夕顔の花」(もしかしたらあなた様かと思いました。白露のような光を添えている夕顔の花のように美しい方なので)その歌に魅せられた源氏は、和歌で返事をします。「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる花の夕顔」(近寄って確かめてください。夕暮れに見た美しい花を)
その後源氏は、彼女のところに通うようになります。しかし,相手の住まいは粗末な家であるために、お忍びで訪れますが、彼女は、自分の名を明かさず、源氏もその女性の正体を知らさぬまま、二人は逢瀬を繰り返しました。ある日,光源氏は夕顔を人が住んでいない荒れた邸に連れて行きます。そして、うとうとと眠りについた夜、源氏の枕元に女性の幽霊が立っていたのです。あわてて太刀を抜き打ち払おうとするとしばらくして幽霊は消えてしまいます。ところが、おびえた夕顔は息も絶え絶えで、光源氏の必死な呼びかけにも答えず身体は冷たくなっていき、そのまま亡くなってしまうのです。
「見し人のけぶりを雲と眺むれば 夕の空もむつましきかな」(かつて契りを結んだ人を火葬にした煙があの雲かと思って眺めていると、この夕方の空も慕わしいことです)出会ってから最後を迎えるまでの夕顔の君は、まさに暁を待たずに死んでいく夕顔を彷彿とさせます。蕾のまま死んでいく夕顔の姿を、「ただ冷えに冷え入りて、息は疾く絶えはてにけり。いはん方なし」と描写しています。

投稿者 fujimori : 22:29 | コメント (5)

2009年07月06日 江戸文化

牽牛

明日の7月7日は新暦の七夕です。七夕とは年に一度、おり姫星と、ひこ星が天の川をわたって会うことを許された特別な日とされています。このおり姫星とは織女星として知られ、こと座のベガです。一方、ひこ星とは牽牛星で、わし座のアルタイルという星です。このベガとアルタイルは、はくちょう座のデネブとで夏の大三角を形作り、夏の星の中で王座です。
このひこ星が牽牛星と言われているのは、彼は牛の世話をすることが毎日の仕事でした。また、こんな逸話もあります。「彼は牛小屋の藁を寝床にしました。彼は毎日牛の世話をして、兄夫婦の生活を助けました。彼には名前が付けられなかったので、近所の人達は彼を「牽牛」(牛引き)と呼びました。」というように牽牛の牽とは牽引すると使うように引っ張るという意味です。古代中国では、牛はとても貴重な動物で、その世話をすることが大切な仕事だったのです。ですから、ひこ星は織姫をあまりに愛したために牛を追わなくなったために2人の仲を裂かれてしまうのです。
古代中国で大切にされた牛と取引されたと薬という説と、中国の古医書「名医別録」では、牛を牽いて行き交換の謝礼にした薬がありました。その高価な生薬はその由来から「牽牛子」(けんごし)と呼ばれるようになりました。この薬は、下剤や利尿剤や幻覚剤として使用されました。この薬とは、朝顔の種を粉末にしたものです。朝顔の種は、煮ても焼いても炒っても効能があります。
もともと朝顔は、今から千百年以上も前の奈良時代に中国から遣唐使によって我が国に伝来したと言われています。当時はこの朝顔の種子と言うものが大変貴重な漢方薬として珍重され下剤用として使われていました。また薬として入って来た朝顔が今のような鑑賞用として栽培されるようになったのは江戸時代に入ってからの事です。奈良時代初に薬用として中国より導入されました。その時は花の色は青色だけでした。その花色も、赤・白などが表れ、文化・文政の頃から観賞用植物として盛んに栽培されるようになりました。そして、明治中期ころ、「入谷の朝顔」と世に宣伝されるようになりました。今日から三日間、入谷の鬼子母神での朝顔市です。そこに行って、朝顔を買ってきました。
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実は、明治中期から始まったのですが、昭和20年終戦の時には、このあたりは一面の焼け野原になってしまい、江戸以来の情緒も、下町の人情も消えうせてしまいました。このころは、情緒などというより先に、今日は食べ物にありつけるかというように食料の確保や様々な物資の確保の方が身に迫っていたのです。しかし、昭和 22年になって、商店街の再建と共に人心の荒廃を療そうと「入谷の朝顔」を復活させようという動きが起こり、焼けた街路樹の跡や、空地に種を捲き、人々に配ったのです。こうして、「入谷の朝顔」が復活しました。 翌年、朝顔を中心とした植木の市(現在は朝顔のみを売る朝顔市)が牽牛星と織姫が1年に一度会う七夕にちなみ、7月6・7・8 日に決められました。それは、朝顔の種子を牽牛子ともいうからです。
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しかし、この時期に開催するとなると、本当に朝顔が咲くようになる時期よりはだいぶ早いので、当初は大変苦労をしたそうです。現在では、ビニールハウスの利用や栽培技術の発展により、朝顔市の日には、立派な花を咲かせた朝顔が所狭しと並べられています。この情景はとても情緒があります。

投稿者 fujimori : 23:58 | コメント (4)

2009年07月05日 新聞記事より

コラム2

アメリカの子どもと日本の子どもは、その国民性による違いよりも個人差の問題であることが多いのですが、おおむねその国の国民性と言われる共通した特性があることはあります。それは、風土や伝統や歴史などから形作られてきたということがあるでしょうが、現在、ボーダレス化された世界で、子どもたちはどの国で仕事をするか、どの国の人と仕事するかわからない時代がくるときに、必要な力は国が変わっても同じである必要があります。
この子どもに共通な必要な力はドイツに行っても感じます。しかし、ある企業が私のところに来て、これから外国の子ども向けに商品開発をするときのポイントは何かと聞かれた時に、私はこう答えました。「一言でいうと、日本で商品を売る時には“この商品は、清潔で安全です”ということが受けますが、外国では“この商品を使うことで子どもたちは自立をします”というキャッチフレーズが受けるのではないでしょうか」と助言しました。どうも、日本は子どもへの対応で重視しているものが少し違うようです。
昨日の朝日新聞のコラムに、江崎玲於奈先生のアメリカと日本の教育の違いについての話を聞いたときに考えたことが紹介されていました。
 「世の中に出たらこの子も荒波にもまれて苦労するだろう、という認識はアメリカも日本も同じです。その前提を踏まえて、アメリカは、世の荒波に対抗できるよう今のうちに厳しく強く育てておこうと考え、日本は、厳しい未来が待っているのだから今くらい楽にさせてやろうと考えているように私には見えます」とおっしゃっておられた。サバイバル能力をいかに身につけさせるか、それには、自立できる生活能力を身につけさせるのはとても大事なことと理解した。
 この話はずいぶん前のことでしょうが、この傾向はますます顕著になってきている気がします。それどころか、厳しい未来のことを考えての対応の違いではなく、逆に日本では、短期的に見ての対応のような気がします。新聞のコラムではこのような問題提起をしています。
「自立させるために一人一部屋の子供室を与える」という話はよく聞くが、果たしてそれだけで子供は自立した人間に育っていくだろうか。子供室の掃除、子供たちの衣服の洗濯、調理・後片付けなど全ての家事に子供を参加させないでどうやって子供を自立した人間にするのだろうと、アメリカからやってきた青年と話していて思った。 対面式キッチンが普及して、夫や子供たちとのコミュニケーションがよくなった、彼等がキッチンに入ってくる回数も増えたと喜ぶ声を主婦からよく聞くが、まだまだ家事を分担しあう、助け合う、それぞれに育っていく、というところまでは行っていないようだ。
 住居の在り方でLDKというキッチンをダイニングやリビングに隣接させ、主婦を奥まった場所からみんなが集う場所に引っ張り出す形式を考えだしました。このコラムのように、今度は、子どもたちをみんなが集う場所に引っ張り出し、客としてではなく、家族の一員としての役割を持たせることが必要でしょう。同じ屋根の下で暮らしていても、それだけでは家族ではないことは確かです。家族の一員であるという意識が、子どもを自立させていくのかもしれません。

投稿者 fujimori : 22:45 | コメント (4)

2009年07月04日 新聞記事より

今日のコラム

 今日の朝日新聞のコラムに「日米子育て観の違い」ということで、鈴鹿規子さんがアメリカから日本に留学してきている20代の男性との話について書いています。
 その話の中でそのアメリカ人の彼が日本でホームステイをした時に「日本人の家庭で家族の一員として暮らさせてもらう」と思っていたら彼を「お客さま」として迎えたことが一番驚いたということです。「朝ごはんから夜寝るまで至れり尽くせりで、親切心はわかるがかえって居心地が悪かったという」ようです。日本人は、確かに外国人に対して、特にアメリカ人にはなかなか家族のようには接することはしないような気がします。家族のように扱うということは、どういうことでしょうか。
先日、私の園の男性職員がちょっとミスをしました。その報告を受けた私は「あっ、そう。今後気をつけて!」と返答したら、後で私のところに来て、「園長先生はいつも職員を家族のように思っていると言っていたのに、そういう怒り方をしてくれなかった。もっと、家族のように怒ってほしい」と言われました。確かに、私は、報告を受けたときに真剣に聞かず、聞き流しました。それは、そのことに気づくかと思っての対応でしたが、それを、きちんと気づいてくれたのです。私は、人は誰でもミスをするものだと思っていますので、「もう二度としません」などという言葉はあまり信じません。しかし、それを少なくするような今後の工夫なり、そのことによって誰かに迷惑をかけているということだけは忘れないように、また、悪いことをしてしまったという気持ちをいつまでも持ち、ミスにマヒしたいでほしいと思っています。その気持ちが伝わった気がしました。
留学したアメリカ人が家族のように思わなかった理由を文化の違いだと思ったようです。「アメリカでは、子供も家の中で役目を持っていて、“これはあなたの仕事よ。いくら勉強が忙しくても家族の一員なら自分の役目は果たしなさい”と言われるという。」それに対して日本では、「その家の子どもさえもお客さま扱いされている。これでお互いに思いやり、助け合うという気持ちが育つのだろうかと、アメリカの家庭教育との違いに驚いたという。 」そこに生活習慣の内容の違いより、「文化が違うのだなあ」と感じたのはそのことだったと言っています。「アメリカでは、18歳になったら家を出て自立するのだから、その時に何でも自分で出来るように家の仕事を覚えておきなさいと幼いときから言われていたそうだ。」と書かれています。
しかし、これは本当かなと思いました。というのは、私の家でもアメリカの男子高校生を、ひと月くらいホームステイを受けていた時、彼は毎日はいているズボンや下着を私の妻に突出して「お母さん、洗濯しておいて!」とテレビを見ながら振り向きもせず言ったものでした。勿論与えられていた部屋も掃除もしませんでした。私の子どもたちでさえ、遠慮して頼んだり、家事を手伝うのにと思ったものでした。プライバシーの重視にしても当時中学生だった娘の部屋にノックもせずに入り、娘は、「お兄ちゃんでさえノックするのに!」と怒っていました。彼は、アメリカではかなり上流家庭の子で、優秀な学生でした。しかし、彼が我が家にホームステイをしてくれたおかげで、わが子たちは「日本人とは」とか、「アメリカ人とは」の前に、個人差ということを感じることができた気がします。

投稿者 fujimori : 21:27 | コメント (4)

2009年07月03日 近頃思うこと

かおり

 昨日、ある町を歩いていると、突然いいにおいがしてきました。それは煎餅のような匂いです。町を歩いていると、さまざまな匂いがしてくることがあります。その多くは、食べ物の匂いです。ケーキやパンなどスウィーツの匂いが駅で漂ってくることがあります。それは明らかに匂いをさせて、購買意欲を高めようとしているのでしょう。このように、商品の看板を、文字ではなく、においでする場合があります。もうすぐに来る「土用の丑」の日の鰻屋などはまさにそういう気がします。私がよくあるく商店街では、店頭で魚やホタテや焼き鳥を焼いてにおいを出させていますし、北海道などに行くと、露店でトウモロコシを焼いているのをよく見かけますが、これもそういう効果があるでしょう。私の子どもの頃に、匂いを看板にしていた店は、お茶屋さんでした。店頭でお茶を煎じていて、その匂いを町に振りまいていて、宣伝していました。
 食べ物による匂いはその季節ということではありませんが、季節によってその町のにおいを感じることがあります。それは、花の匂いです。匂いの強い金木犀、沈丁花、クチナシなどの花は近くを通っただけでにおいを感じます。
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また、梅林などは一つの花のにおいというわけではなく、全体にほのかに匂いが漂ってきます。富良野に行ったときには、町全体からラベンダーの香りがしていました。
 そのほか、地方に行って強烈な街の匂いがすることがありますが、それは、温泉街に行ったときの硫黄のにおいであったり、温泉の匂いです。また、海辺に行くと、独特の海の匂いがします。それは、どうもわかめなどの海藻の匂いのようです。
そのように、いろいろな町では匂いがすることがありますが、それは、その町の文化であり、歴史であったりします。そこで環境庁では、「豊かなかおりとその源となる自然や文化・生活を一体として将来に残し、伝えていくため、”かおり風景”」を広く募集しました。そして、特に優れた「かおり風景」として100地点が選定されています。100選には、花や樹木、潮風、温泉、みかん・カボス・りんご等の果物などの自然の香りのほか、にかわ、墨、線香、茶、塩わかめづくりなどの伝統工芸や地方の特産などに関わるものなど様々な「かおり風景」が選ばれています。
この選ばれた香りを見ると、必ずしも聴覚を刺激するにおいだけでなく、違う匂いもあることの気が付きます。その一つが、東京で選ばれた「神田古書店街」です。ここの説明として「約200mにわたる古書店街の古書類から独特のかおりが漂う。明治時代より数多くの学生やサラリーマンなどに利用されてきた。特に秋には神田古本祭りが行われ、大勢の人々でにぎわう。」とあります。確かに、古書の匂いはありますが、それだけでなく、いわゆる雰囲気という意味での香りが感じられます。
これらの香りは、香りそのものというよりも町のたたずまいであったり、そこの景色であったり、自然であったりします。それを環境庁ではこのように呼びかけています。「日本には、私たちにやすらぎやゲンキをあたえてくれるすばらしい景色がたくさんあります。そんな景色を体全体で感じるとき、そこには必ずすばらしいかおりがあると思いませんか?環境省は、そんなかおりのある風景をいつくしみ、守りつづけている地域の方々を心から応援したいと思っています。」
もう少し、身の回りの町の匂いを感じてみようと思います。

投稿者 fujimori : 21:05 | コメント (4)

2009年07月02日 近頃思うこと

気象

 地層を見て、それに魅せられる子もいるでしょうし、化石を見てとりつかれる子もいるでしょう。その違いはどうして生まれるのでしょうか。また、ほとんどの人は何かに取りつかれるものを持っているのでしょうが、それとの出会いはある意味では偶然でしょうから、自分は何に取りつかれるのかわかりません。また、その取りつかれたものが職業になるとは限りません。それがきっかけの場合もありますが、全く違う場合もありますから、子どもにはどんな環境を用意してあげればよいか、何を体験させてあげればよいかは難しいですね。
 今年の1月に行われた気象予報士の試験で山崎一哉君が、合格時の年齢13歳7か月(中学1年)で、最年少気象予報士となりました。これまでの記録が14歳1か月ですから、半年ほど記録を更新したのです。今年で31回目となる気象予報士試験の受験者は4329人いた中で、合格者はたったの272人、合格率6・3%の狭き門です。今回の合格者の平均年齢は37・8歳で、逆に最高齢は65歳だったそうです。
山崎君は、幼稚園の頃に買ってもらったお天気の漫画をきっかけに、テレビの天気予報が大好きになり、最初は、雲の写真や図鑑などをよく見ていたといいます。小学生の頃、家族でハワイ旅行に行く途中の飛行機の中で見ていた「雲の本」に夢中になったのが、受験のきっかけになったそうです。そして、試験には小5の時から挑戦していたそうです。彼の将来の夢は、「化学者」だそうです。気象予報士は、直接職業には結びつかないようです。
そういえば、現在RAG FAIR(ラグフェア)のボーカルパーカッション(ボイパ)として活躍している「おっくん」こと奥村政佳さんは、10年前、高校2年生のころ最年少気象予報士として合格しています。その後、筑波大学(第一学群自然学類地球科学専攻)に入学しますが、アカペラサークル「Doo-Wop」に入り、「ボイパ」というものを世に知らしめました。私も、そのころテレビで大学生対抗のようなものがあり、それを知り驚いたものです。このときをきっかけにして、気象予報士の道ではなく、音楽に道を歩んでいます。
しかし、今でも天気図を眺めるのが好きなようです。彼のある日のブログを読むと、「ただいま新幹線。空は青空、山は緑。天気図チェック合間にブログの更新でもいたしましょう」ではじまり、その日のブログの最後は「さ、そろそろ天気図に戻りますか。」で終わっています。パソコンでたえず気象情報をチェックしているようですね。また、彼は大学時代は保育士のバイトをしていたこともあり、メンバーの中で子ども好きで有名ですが、保育士にはなっていません。
人は、いろいろな経験をする中で、何が好きか、何をしているときが楽しいかそれぞれ違います。また、職業として、どんなことをやるのかもそれぞれ違います。好きなことが、趣味になるのか、職業になるのか、成長していくうえでの通過点であるのかもそれぞれ違います。今、園で様々な子どもたちを見ていると、これから先どんな職業について、どんな人生を送るのだろうかと考えてしまいます。そして、そのために、今をどのように過ごさせればよいかということを考えないといけないとも思います。子どもが現在を最も良く生きることを保障するのは、望ましい未来をつくり出す力の基礎を培うためなのです。

投稿者 fujimori : 23:32 | コメント (4)

2009年07月01日 近頃思うこと

地層

 昨日のコメントではありませんが、本当に日本では地学が重視されなくなってきています。ずいぶん前の話ですが、ある中学入試問題の一つにいくつかの石を入れたビニール袋を配って、「これらの石からわかることを書け」という問題があったように覚えています。その問題に対して、子どもたちは何を書いたのでしょう。私たちが中学校で習ったことは、「安山岩」と「花崗岩」と「凝灰岩」の違いについてです。安山岩と花崗岩は、火山岩で、凝灰岩は堆積岩です。そして、花崗岩は石英とか長石などが入っていて、白っぽい色をしています。それに比べて、堆積岩は堆積した地層が押し固められてできたものです。特に凝灰岩は火山灰が固まってできたものですので、粒の大きさはまちまちです。また、安山岩と花崗岩の違いは、安山岩は斑状組織に対して、花崗岩は深成岩なので等粒状組織です。まあ、覚えていることと言ったら、そんな程度のことです。
しかし、日本は火山国家ですので、さまざまな石があります。昨日紹介した「サヌカイト」も美しい石の1種です。その石は、「日本の地質百選」に選ばれています。この百選を選んだ動機について、次のように書かれています。「美しい日本の国土、火山の恵み・温泉、美しい景観の観光地もみんな、それを形作っている日本列島の地質があってこそのものです。あるいは地震や地すべりなどの被害も、また地質現象の結果です。日本の地質現象は多岐にわたっており。世界の地質学者が、その素晴らしさに注目しています。そこで日本全体から、地質現象のよくわかるところを百箇所選び出し、そのユニークさを顕彰し、広く知っていただくことにしました。」
ちなみに東京都では3か所選ばれています。「伊豆大島」は、「玄武岩からなる成層火山で、数万年前から活動を始め、1986年の噴火は記憶に新しい」という理由からで、「三宅島」は、「雄山を中心として歴史時代から現在までしばしば激しく噴火している。2000年からも活動し続けている」という理由で、「父島無人岩(ボニナイト)」は、「ボニナイトはマグネシウムを多く含む特殊な安山岩で、地球内部のマントル上部に直接由来する珍しい岩石」という理由からのようです。
また、2001 年に、ユネスコが地質学的に特別意義のある地域や自然公園の発展を推進するメンバー国の努力を支援することが勧告され、以来「ジオパーク (geopark)」という考え方がユネスコと支援のもと発足しています。これは、地質学的に見て貴重な特徴などを持つ地域を指定し、保全、利用する自然公園の考え方です。日本では、2008年に国内の認定機関として日本ジオパークネットワーク (JGN) が発足しています。平成20年に島原半島地域が日本ジオパークの国内第1号に認定されました。
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これにより、島原半島地域は、「島原半島ジオパーク」として、世界ジオパークの認定を申請しているそうです。ほかにも日本ジオパーク委員会から世界ジオパーク委員会(GGN)へ認定申請されるのは、洞爺湖地域(北海道)、糸魚川地域(新潟)で、全部での3地域です。2008 年 6 月現在で世界 では、57 か所が認定されています。
地層や岩石には地球の過去のことがらが残されています。きっと、そんなことに興味を持つ子どもはいるはずですので、学校でももっと触れてほしい気がします。

投稿者 fujimori : 21:36 | コメント (4)