楽器

昨日の朝日新聞のコラム「天声人語」に、東京紙面の声欄で掲載された「母の音色した53年前の木琴」について触れています。声の蘭への投稿内容は、「投稿者の男性(60)が小学2年の時、母親が木琴を買って教室に届けてくれた。過日の物置整理でそれに再会した」というもので、その男性は再会した木琴を雑巾でふき、「どれみふぁそらしど」の文字が現れた鍵盤で「荒城の月」の冒頭を奏でたという記事です。その記事に連想して、天声人語では、約3万5千年前の楽器がドイツの洞窟で見つかったという記事についても触れています。その笛は、ハゲワシの骨に五つの指穴を開けた、22センチほどの笛です。この笛から、このようにコラムは続けています。「かすかに曲がった細い管を抜ける音には、誰のどんな記憶が宿るのか、興味は尽きない。破片をつないだ笛はあいにく、息を吹き込むにはもろすぎよう。最古の楽器は意外に広い音階を持つらしいと、想像するしかない。洞窟の住人は、肉を食べ骨をしゃぶりながら、音を操る技をわがものにしたようだ。どんな音色にせよ、節をつけて鳴らすことにある種の快感が伴ったと思われる。旧石器時代、生活の傍らにすでに音楽があったことになる。同じ場所では先に、マンモスの牙でこしらえた最古の裸婦像が出た。骨笛もまた、芸術の起源か、信仰や呪術の道具だったのだろう。戯れから娯楽が生まれ、やがて美意識や祈りに昇華する。そんな「音の出世」は確かにあるけれど、記憶の入れ物、運び手としての役割も心にとめておきたい。ほこりまみれの木琴に、大切な人を過去から招く力が潜むのだから」
 このコラムを読んで、私は、以前講演先で連れて行ってもらった先で見た石の木琴(石琴)を思い出しました。そこは、香川県五色台です。そこから見える瀬戸内海は、点々と島影が見えます。
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しかし、今から1万年以上前、日本列島は大陸と陸続きで、現在の瀬戸内海も所々に沼や湖などのある平原だったと考えられているそうです。当時の人々は主に狩猟による生活を営んでおり、そのための道具として石を打ち欠いてつくった石器(打製石器)を使っていました。当然、よく使う石は、そのあたりで取れる石を使うことが多かったでしょう。しかし、黒曜石のように特殊な形に割れる石は、各地に伝わることもあったようですが。ここ五色台や坂出市の金山などで産出する石は、うまくたたくと薄く割れ、その割れ口が刃物のように鋭くなるので、石器の材料としてたいへん優れていました。ですから、ここで産出される石を使った石器は県内だけでなく、西日本の各地で出土しています。
 そんな石を当時の人は石器に使っているときにあることに気が付きます。叩いてみると、いい音がするのです。特に、固いもので叩くと高く澄んだ音がします。そして、音の違う石を並べると音階ができます。sekikin.JPG
この香川県だけに産出する自然石を、1891年ドイツの地質学者ヴァインシェンクが「讃岐〔さぬき〕の岩」の意をこめ「サヌカイト」と命名しましました。木槌で叩くと神秘的で澄んだ美しい音を奏でるところから、地元では「カンカン石」と呼ばれています。そして、2007年、日本の地質百選に選定されました。
 今でも、その澄んだ音の為に玄関のベルの代わりに使われたりしていますし、楽器としての演奏者も存在し、コンサートも開かれていたり、香川県の公共施設のBGMで流れているそうです。また、サヌカイトの風鈴なども作られていて、癒しグッズの一つとして販売されています。
 天声人語ではありませんが、「戯れから娯楽が生まれ、やがて美意識や祈りに昇華する」一つの例でしょう。

フレンド

 ケストナーが描いた子どもの時代は、子どもたちは集団で動き、その中で友達ができ、その友達同士で助け合い、危機を乗り切ってきました。それが、映画「ベン」の中では、少年は黒ねずみを友とし、お互いにわかりあい、危機を乗り越えたり、悲しみを共有し合います。最近は、友といってもお互いにつるんでいるだけで、心を許しあったり、悲しみを共有したり、一緒に危機を乗り越えるような友は見当たらなくなりました。そんなときには、子どもたちは、「イマジナリー・フレンド」を持ちます。子どもの創造力から生まれた友達です。この友達を持つときは、孤独であるとか、自分だけが浮いている存在のように思うときとか、いじめを受けているとか、つらい思いをしているときとか、成長する過程での苦しみを分かち合う場合が多いようです。
 イマジナリー・フレンドともいえる存在の有名なのは、「ドラえもん」でしょう。のびた君が、つらい時、困っているときに話を聞いてあげ、その状態から救ってあげます。しかし、正確に言うと、このドラえもんはみんなにも見えるので、少し違うかもしれません。
 しかし、本来のイマジナリー・フレンドは、子どもが大人に成長する過程で気持ちを共有したいときに存在し、成長し、自立するに従って消えていくものなのです。そんな「いけちゃん」というイマジナリー・フレンドをもったヨシオ君の成長物語である「いけちゃんとぼく」という映画を日曜日、妻と見に行きました。この映画の原作は、「毎日かあさん」でテレビ放映もされている西原理恵子さんの絵本です。
この映画のパンフレットには、「いけちゃん」のことがこんなふうに書かれてあります。「いつの頃からかいつもヨシオのそばにいる。ヨシオにしか見えないし、色も形も変幻自在。お父さんが死んだ時も、いじめられたときも、いつも一緒にいてくれた。だが、ヨシオが成長するにつれ、その姿はだんだん見えなくなっていき、とうとう最後の日に いけちゃんはヨシオにあることを打ち明ける。それはあまりにもせつない告白だった…」
いじめられているヨシオは、強くなろうと早く大人になろうとします。しかし、いつもいじめっ子だったヤスとたけしが、別の町の悪ガキ集団に襲撃されている光景を目の当たりにした時、「上には上がいて、上の上には上の上の上があるんだ。無限に続くんだ。宇宙人や恐怖の大王まで。これは連鎖なんだ」と残酷な世界の法則を悟ります。だれかを敵にして、その敵をやっつければ解決するのではなく、その連鎖を断ち切らない限りは解決しないことを知るのです。その連鎖を断ち切る方法を見つけたときに「いけちゃん」は、別れを告げるのです。
パンフレットの中で、精神科医の名越康文さんは、イマジナリー・フレンドのことをこう言っています。「人間というのは、自分の想像の産物が独り歩きするという不思議な知性というか能力を持っていて、しかも“自分の中から出てきた他者”であるその存在に、自分が影響を受けるんです。特に10歳くらいまでの子どもの空想世界は、大人になってからとは全然違うものなんですね。きっと、多くの子どもたちは、彼らにとってもいけちゃんを持っていて、その言葉を超えたコミュニケーションが、無意識の中に深く刻み込まれている。そして大人になると、その時の特別な体験を実社会の中に探し始める。あるいは自分で作りだし、以降の人生を強く突き動かす力になる」
 フレンドを持っている人は幸せです。

私は、今ある雑誌で映画批評を書いています。その欄で、来月は児童文学の中でも全世界で親から子どもへと70年も読み継がれてきたドイツのケストナーの作品の映画を紹介しました。その作品の中で私が紹介したかった作品は「点子ちゃんとアントン」ですが、残念ながらDVDは廃盤になっていて普通では手に入らないので断念しました。ちなみに私は中古で手に入れたのですが。そこで、「エーミールと探偵たち」と「飛ぶ教室」を紹介しました。「エーミールと探偵たち」の私が子どもころに映画化された作品については、このブログでも書いた気がしますので、本では「飛ぶ教室」を中心に紹介しました。
この作品の中でケストナーの多くの作品のテーマである「友情」について描いています。映画の中で、子どもたちが歌うラップの歌詞にその考えが表れています。それは、真実を見つめることを恐れずによく見つめること。正しいことは勇気を出してぶつかることで世界は広がり、きっと、進むべき道が見つかるはずなので、自分をもっと信じてくよくよするなと歌います。そして、時間がかかるかもしれないけれど、敵対しているグループも、いつも権威をかざしている先輩も、男女の間でも心が一つになることを子どもたちは実感します。そして、その友情の「飛ぶ教室」は、信頼できる先生がいることで飛ぶことができるのだと歌うのです。
友情について歌ったもう一つの歌詞があります。「僕たち二人は、もう友達を捜さなくてもいいね。僕たちはもう見つけたから。お互いに友達と呼べる人がいるから、もうけっして独りじゃないね」この喜びをこう表わしています。「I used to say I and me Now it’s us, now it’s we」(いつも「I(僕は)」や「me(僕の)」という言葉を使っていたのが、これからは「us(僕たちの)」「we(僕たちは)」と言えるようになった)
この友達関係は、心臓手術を受けたばかりで、幼な心に死の危機を予知し、孤独だったダニー少年と多くの仲間と人間を襲い、多くの人を殺し、警察から追われている「ベン」という一匹の黒いネズミです。1切れのパンで知り合った少年とねずみの交遊は、少年はねずみに全てを話せる友を求め、ねずみは純粋な少年に裏切ることのない信頼を見いだしたのです。ですから、少年はねずみの名前があの悪名高いベンと知ってもなお暖かい愛情を贈り、友情の証にこの歌詞のような「ベンの歌」を作って捧げたのです。
「ベン、みんなは君を邪険に扱うけれど、僕はみんなの言うことなんか聞かないよ みんなは君の良さがまったく分からないから。君をきちんと見てみたら、考えが変わるだろうって思うよ ベンみたいな友達がいれば、人の価値がちゃんと分かると思うけど。」という歌詞は、その映画主題歌を子どもの頃に歌っていた、一昨日亡くなった歌手マイケル・ジャクソンの心境のような気がします。
この映画「ベン」の主題歌「ベンのテーマ」をマイケル・ジャクソンが歌ったドーナツ盤のレコードを私は持っています。映画を見て、その歌に感動したからです。そのジャケットの子どものころのジャクソンの写真は、とても愛くるしく映っています。
 映画の最後に、人間たちによって仲間の群れたちとベンは火炎放射を浴び、焼かれてしまいます。少年の部屋へ焼け焦げて息も絶え絶えになったベンがやってきて、少年に抱きしめられながら息を引き取ります。歌詞の最後は、「これだけは覚えて置いて。君には僕という帰る場所があるんだ」マイケルは、帰る場所があったのでしょうか?

伝承

今日の毎日新聞の「地方版」に、こんなニュースがありました。「伊賀鉄道伊賀線の利用者に季節感を感じてもらおうと、“風鈴列車”の運行計画が進んでいる。風鈴には、参加者が詠んだ俳句を付ける。」というものです。昨日のブログのセミではありませんが、あちこちにぶら下げられた風鈴が鳴る列車に乗ると、外国人はどう感じるでしょうね。ずっと、うるさい車内に辟易してしまう人もいるかもしれません。
芭蕉は、うるさいセミの音から「しずかさ」を感じました。日本人は、「風鈴」のおとから「涼しさ」を感じます。ですから、風鈴は基本的には夏のものです。そういえば、先日もこんな新聞記事がありました。「夏本番を前に、東京の職人が江戸風鈴の製作に追われている。」というものです。この記事には、その風鈴が作られる過程も紹介されていました。「約1320度の炉で溶かしたガラスを共竿(ともざお)と呼ばれるガラス管を使って膨らませ、風鈴の形を作る。鳴り口の部分を石ヤスリでぎざぎざに削り、内側から絵付けし、糸を付けて完成。」
ここで紹介されている風鈴は、「江戸風鈴」と呼ばれるもので、ガラス製です。他にも、鉄器(金属製)のものは南部鉄器でできた南部風鈴や高岡風鈴があります。他にも、北条時代からはじまった小田原の伝統工芸のひとつである小田原鋳物から生まれた小田原風鈴も有名です。私は、東京の下町育ちですから、夏になると天秤棒に多数の風鈴をぶらさげた風鈴売りが町々を売りあるく姿は、夏を告げる風情の一つでした。これは、江戸時代から見られた姿で、あつい夏に涼をよぶ小道具として庶民の人気をあつめ、江戸中期にはシノブグサを輪状にたばねて軒先につるした釣忍の小道具にもつかわれました。
このように日本の生活感と、季節感と、感性にマッチした風鈴ですが、実は風鈴の語源は中国で仏堂や塔につるされていた風鐸だと言われています。風鐸は鐘のような形で、中央につりさげられた舌の先の錘が鐸の内側を打って音をだすもので、最初は「占風鐸」といって竹林に下げて風の向き、音の鳴り方で、物事の吉凶を占う道具でした。その後、その音は昔から魔除とされ、風鐸を家の四隅に鐘を取り付け、その音で邪気を払ったりしました。そして、この風鐸が仏堂や塔などの建造物の軒の四方につり下げられ、その音でその周りの住民に災いが起きないようにと鳴っていたのです。そして、それが仏教とともに日本に伝わり、平安、室町時代の上流階級の間では縁側に下げることが流行りました。このように風鐸をつるして外から疫病神が屋敷の中にはいるのを防いだと六学集という書物に書かれてあります。そのように日本でも風鐸は魔除けとして用いられたのですが、それに「風鈴」(ただし当時は「ふうれい」)と名づけたのは鎌倉時代の僧の法然だと言われています。「法然上人行状絵図」には銅製の風鈴が軒に下がっている光景が描かれているそうです。
このように起源が中国であった風鈴が日本の感性に合うように発展してきましたが、その形も地域によって違う発展をしていきます。ガラス風鈴である江戸風鈴も、もともとは、享保年間(1700頃)に長崎のガラス職人がガラスを見せ物として大阪、京都、江戸にて興行しながら伝わったと言われています。そのころガラスは原料を作る技術がなく、外国から輸入をするか、外国人のいる長崎でしか手に入らなかったからです。そして、江戸のガラス屋の問屋である上総屋留三郎が、長崎にガラスの研究にゆき、江戸でガラスの原料を作って卸を始め、ガラス製品がいろいろと作られるようになっていったようです。その一つが江戸風鈴なのでしょう。
子どもの伝承おもちゃ同様、伝承とは、その地域で生まれたというだけでなく、その地域で育ち、その地域の感性に合うように変化してきたものなのです。

セミの鳴き声

 山寺に登る途中で、「セミの鳴き声」という昔のおもちゃを買いました。このおもちゃは、棒につけられたタコ糸の先にセミをかたどった竹筒がくくられていて、その竹筒を棒を持って振り回すと、セミの鳴き声がするというものです。
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それは、棒の先端に「松やに」がついていて、タコ糸はちょうどこの「松やに」のところにくくられているので、棒を持って回転したときに、「松やに」とタコ糸が摩擦されて音が出て、その音が竹筒の共鳴胴に響く仕組みになっているのです。このようなおもちゃは、日本の伝承おもちゃとして売れていたのですが、実は、同じようなおもちゃがアジアの一部や南米にも見られます。それは、竹筒の両端に油紙を張り、紙の一端の真ん中から丈夫な紐を通して棒に縛りつけて、同じようにぐるぐる回転させることによって、唸り音を出します。そのほかにも、セミの声を出すものとして、歌舞伎などでは、セミに似せた声を出す時に使いますが、竹筒を吹いて「ミンミンセミ」の鳴き声を出すおもちゃがあります。この笛は、細い管の中にリードが入っていて吹き口になり、太い方の管の両端を両掌で押さえて、片方の掌を時どき離しながら吹きます。よく、同じように竹筒の両端を抑えて鳴き声を出すものとして、ウグイス笛もあります。
 買った「セミの鳴き声」をぶんぶん回すと、ここから出てくる音の色はミンミン蝉が少し嗄れたような鳴き声でした。ですから、聞いていた職員は、カエルの鳴き声みたいと言っていました。というのも、このセミと同じ発音方法で蛙の鳴き声を出すおもちゃがあるのです。ただ、蝉よりも形が大きく、紐はプラスチック製で釣り糸を使い、棒の部分には松やには塗りません。たぶん、かえるとセミは、本当は同じような鳴き声かもしれません。それにしても、回して出る音はとてもうるさい音が出ます。実際の鳴き声も、セミにしても、帰るにしてもうるさいくらいの鳴き声です。
 まだ、山寺ではセミは鳴きだしていませんので、森の中はシーンとしています。しかし、夏になるとさぞかしうるさいだろうと思います。しかし、この山寺で、松尾芭蕉は、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と、うるさいセミと相反する「閑さ」を詠んでいるのです。しかも、「しずか」を「静か」という漢字ではなく、「閑か」という漢字を使っています。
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夏目漱石が始めてこの言葉を用いたとき、彼はそれを、ひらがなで「しん」と表現していました。そこから、「しんしん」という言葉とか、「しーん」という言葉のイメージと重なります。
暑い夏の昼下がり、山寺の山道を歩いていると、どこからか蝉の声が聞こえてきます。そのうるさいセミの声を聞いた芭蕉は、「閑かさや」と感動します。それは、そのうるさい鳴き声は、岩にしみいっていくようで、よりその森の中の静けさを際立たせているようです。
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このように、うるさい声のセミの鳴き声にも趣を感じるのは、日本人だからかもしれません。日本人のセミへの思い入れは深いようで、平安時代から伝わる横笛の名器には、竹の節に枝を少し残したまま切り取って、ちょうど蝉が木に止まっているような形に作った「蝉折」と呼んだ笛もあったそうです。芭蕉の句は、日本人の感性ゆえに詠まれた句かもしれません。
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仙山

 現在は、当然のように使い、その便利さも意識しないものがたくさんあります。私は地方に行くことが多いのですが、そのときに便利に使うものに交通機関があります。今まで、便利な乗り物と言えばもちろん「車」でした。しかし、車は都内を走る時には、時として、不便を感じることがあります。まず、都内の渋滞です。目的地までのかかる時間が読めません。ですから、講演とか、人と待ち合わせをするときには非常にリスクを伴います。また、都内は、駐車場に困ります。少しの時間でも今は路上に止めることはできません。また、土地が高いということもあって、いろいろな施設に駐車場が少ないです。それでも、他に交通手段がないのであれば仕方ありませんが、都内は、電車や地下鉄が張り巡らされていて、目的地まで行く方法が何通りもあるくらいです。
 また、地方に行く場合は、時間が貴重なときには、飛行機や新幹線があります。これらの路線は限られていますので、特に飛行機の場合は、飛行場が目的地の近くにあればいいのですが、そうでないと利用は難しくなります。その時には、新幹線を使います。東京から行くときは、東海道、山陽道の場合は、岡山か広島あたりが、新幹線か飛行機かの境目であり、東北の場合は、ほとんど新幹線利用で、日本海側へはほとんど飛行機利用です。
 そんなわけで私は、かなり新幹線のお世話になっています。あんなに速くて、快適で、ありがたい乗り物はありません。その開発に関しての苦労には頭が下がります。
先日、講演の途中で「仙山線」に乗りました。その路線は、その名の通り「仙台」と「山形」を結んでいますが、すべての途中駅は、仙台市内と山形市内にあり、途中で他の市町村を通ることなく県庁所在地同士を直接結んでいるという珍しい路線です。このような両都市のみで完結する鉄道路線は日本全国でもこの仙山線のみだそうです。
この路線は、日本の鉄道の歴史に大いなる貢献をしています。途中駅である作並温泉のある「作並」駅のホームに、「交流電化発祥の地」と書かれた碑があります。
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そのそばの説明板には、「我が国の交流電化は、仙山線におけるデータを基礎として北陸本線、東北本線の電化へ、さらには新幹線へと世界に誇る鉄道として飛躍的に発展した。作並は、記念すべき交流電化発祥の地であります」と書かれてあります。日本では、戦後全国的に電化を進める際に、路線の電化費用を抑えられる商用周波数による交流電化についての研究が1953年(昭和28年)頃から開始されました。当初は、世界で初めて交流電化を実用化したフランスからの電気機関車などを輸入する予定でしたが、日本側は重電メーカが政府に国産を働きかけ、1955年に仙山線で試験を実施します。その後、1957年(昭和32年)に試験区間は仙台から作並間に拡大され、同時に交流電化区間における営業運転が開始されたのです。作並から山寺間はすでに直流電化されていたので、作並駅は日本初の交直流接続駅となり、交直流地上切り替えのための設備が設けられ、日本初の交直流両用電車(491系)が試作され、車上切り替えの試験も実施されたのです。ここで得られたデータや技術は、以後の幹線交流電化やそこで運転される車両にも活かされ、さらには新幹線の成功にもつながっていくことになるのです。
 山寺駅から見える立石寺は、蝉の声がしみいる岩がそびえたっています。
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集中力

 最近の子どもの様子で相談を受けることがあります。その一つに「子どもたちの集中力が欠けている」ということがあります。聞いてみると、何をやるにしてもすぐ飽きてしまったり、周りばかり気にして集中していなかったり、人の話を集中して聞くことができないというものです。
 では、そんな子はどんな時でも、何やっている時でも集中していないかを聞いてみます。また、どのくらいの間しか集中できないのかを聞いてみます。私は、以前に書いて本の中で、子どもたちが集中しないのは、大人が集中させていないからではないかということを書いたことがありました。テレビは、だいたい15分ごとにCMが入ります。しかも、集中して見入っているときに、いい場面になると突然コマーシャルになることが多いのです。園生活でも、集中して物を作っていたり、本を読んでいると、突然「お方付け!」という声が響き渡ります。その声が聞こえないくらい集中していると、「何度言ったら聞こえるの!」とダメ押しされます。今の時代、子どもたちの時間を細切れにして、次々にいろいろなことをさせようとすることが多い気がします。そんなことから、最近は学校で「ノーチャイム」といって、子どもの活動を時間で区切らない試みが始まっています。
また、子どもは大人と違って、いろいろなことに興味関心があり、好奇心旺盛です。また、集中できる時間も、大人と違ってもともと長くはありません。数年前から、人間らしいものを考えるときに働く前頭葉が注目を浴びていますが、その前頭前野の活発な活動のリミットは、人がどのくらい集中できるかということで計ることができます。すると、集中力は大人のレベルでも40?50分くらいで切れてしまうそうです。ですから、まあ、1時間が限度です。また、教育の現場で言われる集中力は、小学生では学年×10分が最高であると言われています。ということは、1年生では、10分です。ですから、幼児ではすぐに周直が切れてしまうのは当たり前ですね。簡単に集中力がないと言わずに、子どもたちが何に取り組んでいるのか、何をしたがっているかを見る必要があるような気がします。
もう一つ、最近「引っ掻き、かみつき」が多いという相談を受けることがあります。そして、それは、子どもの発達段階において起きることであり、思いに反してまだ言葉が出ないときにそのような行動に出るのだということをいうことがあります。私は、少し違う見解を持っています。一つは、少子社会において育てられた子が、集団に入って自分の思い通りに行かなかったり、集団の中でのストレスに原因の一つがある気がします。それは、保育園では1,2歳児の頃、幼稚園では3,4歳児のころにかみつきが多いからです。もう一つは、その子の性格とか、その子の家庭での環境に原因がある気がします。「思いに反して言葉が出ないころなので、きちんと言葉で伝えることを教えていきましょう」という指導を受けることがありますが、私は違う気がします。私はその行動はある意味で大人に最近多い、DVのように、すぐに手が出てしまうというような行動に近い気がします。ドメスティックバイオレンスという暴力をする人に対して、言葉で伝えることを教えればなくなるということと同じような気がするのです。そうではなく、とっさに手が出る、かみつくという行動を辞めさせるしかないのです。また、周りの大人が、カーッとしてすぐに手を出す環境も見直さなければなりません。最近、引っ掻きかみつきが増えたのは、家庭ですぐに手を出す保護者が増えたことも影響しているのかも知れません。
どんな時にも、子どもは、大人を映す鏡であり、大人の影響、社会の影響を受けやすい存在なのです。

お手玉

 ドイツなどの海外に行くときに何をお土産にしようかと思うことがあります。一番に思うことは「日本の物」を持っていこうと思うことがあります。また、帰国するときに、日本へのお土産を何にしようかと思うときに、その国のものと思います。しかし、ドイツから持って帰るときに、maid in inndonesiaという文字を裏に見たときにがっかりします。逆に、お土産の持ってい行っても、それがその国では広く行きわたっていることを知るとがっかりします。というより、なんだか恥ずかしくなります。しかし、今はもう情報はボーダレスですし、産地もいろいろな国で作っているのでしかないかもしれません。
そんなときに、外国の子どもたちへの土産として、日本の伝承おもちゃを持っていくことがあります。しかし、昨日のブログの「折り紙」は、そのものではドイツのフレーベル教育でも行われていますし、なにも日本独特のものではないのですが、どんなものを折るかには日本独特のものがありますし、折り紙が和紙の物や日本の柄の物は日本独特のものです。
他にも、同じようなものがあります。それは「お手玉」です。お手玉は、実は世界的な伝承遊びのひとつなのです。黒海周辺の遊牧民が袋に粒状の物を入れて遊んでいたのが始まりと言われています。日本では、奈良時代に中国から伝わり、当時は手ごろな大きさの小石や水晶を利用したことから石名取玉と呼ばれていました。実際に聖徳太子が遊んだとされる水晶も発見されているそうです。そして、平安時代から主に女の子の遊びとして好まれました。その後日本各地に広まり、結果現在では「おじゃみ」や「てんちゃん」など300を超える呼び名が各地に存在します。現代のお手玉は江戸時代から、明治初期にかけて多く作られたものです。、
同時に、世界では違うように発展していきます。日本のお手玉は、布で作った小袋の中に、小豆や大豆、数珠玉などを入れて完成します。他にも、はぶ茶、そば米、しじみの貝殻、米、コーンなどの粒玉を入れて閉じたものを使いますが、世界中では、動物の骨、木の実、金属、プラスティック……などなどいろいろな物をお手玉にしています。
遊び方も少し違うようです。日本のお手玉では片手で投げ上げ、一方の手で受け止めて、初めの手に落とす「シャワー式」の投げ方が多いですが、両手で投げて両手で受け止める「ジャグリング式」の投げ方が世界的におおいようです。また、お手玉の数も、日本では一般的に2個が多く、上級者になると、3つ以上の玉を用いたり、片手で複数個を投げることをすることもあります。ジャグリングとはもともと動力のない道具を、肉体のみをもって操作することで、数の物を空中に投げ続ける技を意味していました。しかし現在では、大道芸、曲芸ないしはパフォーミングアートだと思っている人もいますが、海外では、保育の教材としてその玉を売っていることがあります。最近、その手先の細やかな動きが前頭葉を発達させるとして見直され、学校教材としてや老人の認知症予防に繋がるとして注目されています。
折り紙にしても、お手玉にしても、人が手を使い、指を使う生き物である限り、どこの場所でも同じような遊びが生まれるのは当然かもしれません。しかし、それがどのように発展してくるかは、その国の風土なり、産業なり、生産物によって変わってくるのでしょう。そういう意味でも、伝承遊びは子どもに伝えていかなければならないものかもしれません。

折り紙

 もう30年くらい前のことですが、プライベートで妻とカナダに行ったときのことです。カナダでは妻の友人であるカナダ人の家庭に泊めてもらいました。ある日、少し時間があったので散歩に一人で出かけました。すると、小学校がありました。そこでその学校を突然訪れてみました。私は、初めての海外でした。そのときに、ずいぶんとびっくりしたことがいくつかありました。まず、学校の校庭は全面芝生で、その校庭にはフェンスとか柵とか何もなく、道路と同じ面です。そして、中に入っていき、自分の身分を明かし、見学をお願いしました。すると、校長室に通されました。その校長はとても若い男性でびっくりしました。日本では、最近若い校長が増えてきましたが、そのころは校長というとかなり年配者でした。それは、教師が、主任になり、教頭になり、そのあとに校長になるからです。カナダでは、校長は教師とは全く別な職種なので、新聞などで募集をしたり、企業からヘッドハンティングを保護者がしたりすると聞きました。
 その校長に、学校の見学をお願いしてみると、快く承諾してくれ、校内をどこでもいいから好きに見てよいと言われました。まず、体育館に行くとまだ休み時間のようで、子どもたちが自由に体育館中を走り回っていました。すると、突然、放送で校長が話し始めました。チャイムなどなく、突然話し始めたのです。すると、自由に走り回っていた子が、一斉に体育館に書かれてある白線の上に、黙って、さっと座ったのです。校長は、「日本から見学したいという人が来たので、対応するように」という内容でした。話をしている間、子どもたちは先生がいるわけでもないのですが、静かに聞いていて、話終わるとまた元気よく走り出しました。見事でした。
 そのあと、教室を回っていたところ、あるクラスの担任から、子どもたちに折り紙を教えてあげてほしいと頼まれました。そこで、鶴の折り方を教えることにしました。まず、みんなに折り紙を三角になるように二つに折るように見本を見せました。すると、子どもたちは三角に二つに折って、その折り目を持って「鶴だ!鶴だ!」とひらひらさせながらとても喜んでいました。それを見て、このあと折るのをあきらめました。それがやっとの子どもたちに、そのあとの難しい工程はとても無理だと思ったからです。そのときに、折り紙は日本の文化であり、日本人は器用なのだということを再認識しました。
 たしかに、日本伝統の折り紙遊びは海外でも「Origami」の名称で知られ、多くの人たちに愛好されています。ですから、ドイツ研修にみんなでお土産を持っていくと、何人かは折り紙を持っていきます。しかしドイツでは、幼児教育の創始者フリードリヒ・フレーベルが考えた幼稚園教育には、「恩物」と呼ばれる遊具と、「手技」と呼ばれる遊戯が含まれていて、手技の一つが紛れもない折り紙でした。この恩物と手技は、三つの範疇を含んでいます。明治時代の翻訳では「物品科」「美麗科」「知識科」といいました。その中の物品科で普通の折り紙が取り入れられ、美麗科では、座布団折りや対称的な模様を折ったりしました。また、知識科では、折り紙から簡単な幾何学を教えていました。
 折り紙は、空間把握力や手先の器用さ、集中力を養う教育的・治療的効果などがあり、さらに折り紙は、数理・幾何の世界への優れた具体的なアプローチ手段であり、論理的思考をするための数学的訓練手段であるとしています。

理系の北斎

受験世代としては、どうしても理系か文系が気になるところです。それは、学問として研究をする場合は、文系は、主に人間の活動を研究の対象とする学問の系統とされており、理系は、主に自然界を研究の対象とする学問の系統とされているからです。しかし、世の中に出ると、それは大学とか研究分野がどちらかというよりは、文系的発想か理系的発想かを考えることが多くなりました。男女の脳の違い同様、人によって、理系と文系的な発想か異なるような気がすることがあります。実際は、両方の発想が必要ですが、どうも人によって違うためにチームが必要な気がします。今回の学習指導要領で重視された「聞く力」「話す力」が必要であるということは、文系の人は理系的発想をする人の意見を聞く力が必要ですし、理系の人は、文系的発想を聞く力が必要なのです。
今月号の「サライ」で、面白い記事を見つけました。「浮世絵の見方」という特集です。その最初の記事は、「北斎・広重 二大絵師徹底比較」ということで、浮世絵の風景画における二大巨頭である葛飾北斎と歌川広重について、どうして彼らの浮世絵を西洋印象派の巨匠たちが絶賛し、彼らの絵の何が江戸庶民を熱狂させ、西洋画壇に衝撃を与えたかということを探るというものです。
浮世絵における風景画の二大巨匠である北斎と広重は、ライバルとして同時代を生きたと言われ比較されますが、実際は北斎の方が37歳も上です。北斎は「富岳三十六景」、広重は「東海道五十三次」が有名ですが、さの作風の違いを学習院大学教授で、千葉市武術館館長の小林さんは、こう分析します。「北斎の“富岳三十六景”は、洋画の遠近法を大胆に活用。加えて舶来の化学染料ベルリン・ブルー、通称“ベロ藍”と呼ばれる鮮烈な青を使った実験的な作品で、風景表現に新しい魅力を開拓しています。もちろん、広重も遠近法は駆使します。しかし彼は、人々が見たいと願う視点で、風景の美しさを詠嘆的に、情緒たっぷりに描いて成功しています。」
この2人の違いを、この本の中ではこう書かれています。北斎の方は、「画面構成は力強く、緊張感に満ちて劇的だ。一見すると演出過多なほどだが、そこに描かれる植物・動物・事象はきわめて写実性が高い」それに対して広重の方は、「いかにもそれらしく描かれながら、むしろ写実とは違う。それでも、大方の人が共感する詩的な情緒表現においては、広重は一段と優っている」この二人に違いを「理系の北斎」と「文系の広重」と形容させる所以であると言っています。
この「理系」と「文系」の違いは、花鳥画を見ればもっとはっきりすると書かれています。北斎の「芥子」という作品は、数輪の花が風にたわむれる様子を動的に描いています。広重の切手でも有名な「月に雁」は、詩情豊かな秋の情景を切り取った画であるといいます。北斎は観察眼に優れて、その絵は現実的にして合理的。広重の絵は誰もが共有できる情趣をうまく絵にのせている点で俳諧的だといいます。小林さんは「現実的という意味で北斎が、“俗”なら、広重は“雅”。あるいは北斎が知性の技の人なら、広重は感性の技の人といえると思います」といっています。
2人の絵をじっと見ていると、なんとなく理系的発想と文系的発想がわかる気がします。園の私の部屋には、富士山の上、空高く昇ってゆく龍を描いた北斎の「富士越龍」が飾られています。