« 2009年04月 | メイン | 2009年06月 »
2009年05月31日 [近頃思うこと]
自尊感情
なぜ、「自尊感情」が必要なのかということで海外ではこんな報告がされているそうです。自尊感情の高い子は、情緒が安定し、責任感があり、社会的適応能力が高い、成績が良い、他の子どもたちや先生とのトラブルが少ない、社会規範をよく守る、授業態度がよくクラスのまとめ役の行動をとるなどの特徴がみられ、さらに重要なこととして、逆境に強いことがあるそうです。ですから、いじめに屈することも少なく、他人の目を気にしない、失敗に動じない、悪い仲間の誘いを断り、「いやだ」と拒否することができるなどといった報告がされていると「日本の子どもの自尊感情はなぜ低いか」(古荘純一著)に書かれてあります。このタイトルを見ると、日本の子どもは、前にあげた行動をとらない子が多いということになります。
古荘さんが、本書で紹介しているQOL(Quality of Life)尺度は、もともとは1965年に自己についての価値観評価の程度を自己報告するものとして開発されました。しかし、この中には、子どもの生活に関する質問が少なく、子どもに対して生かすことが難しいところがありました。それをこのQOLという概念を用いて子どもの支援に結び付けようとWHOが開発研究をしました。そのメンバーのうち2人のドイツの研究者が独自で子ども版のQOL尺度を開発しました。この尺度が本書で紹介されていますが、「Kid-KINDL」と名付けられ、非常に簡潔で、子どもの状況を客観的に把握し評価するのに役に立つと、国際的に高く評価されました。これは、「子どもの主観的な心身両面からの健康度・生活全体の満足度」と定義され、年齢と対象ごとに5種類作成されています。
その中に4~7歳児対象の幼児版もあります。幼児に関しては、子ども自身が質問に答えることには限界があり、親に質問しているものが多くあります。8歳以上では、6つの領域で構成されています。身体的健康度(Physical health)、情緒的ウェルビーイング(気持ち)(Emotional well-being)、自尊感情(Self-esteem)、家族との関係(Family)、友達との関係(Friends)、学校生活(School)という領域を見ると、どんな評価が少しわかります。いま、日本でも研究されている子どもの評価では、Sicsという「子どもたちのエピソードから始める自己評価法」というものですが、そこでは、「安心度」(Wellbeing)と「夢中度」(Involvement)から子どもの活動を評定しようとするものです。どちらにも「ウェルビーイング」という言葉がありますが、その観点から子どもを見るのもとても大切です。しかし、実際は、どんなことなのでしょうか。QOLでは、質問に関して、最近1週間の状態として「いつもそうである」「たいていそうである」「ときどきそうである」「ほとんどそうでない」「まったくそうでない」の5段階で子ども自身に答えてもらうものです。たとえば、情緒的ウェルビーイングでは、小中学生に対して、「楽しかったしたくさん笑った」「つまらなく感じた」「孤独のような気がした」「何もないのにこわくなったり、不安に思った」という質問です。この質問を、親にも「私の子どもは」という言葉を最初につけて行われるようです。そこでは、保護者が子どものQOLをどのようにとらえているかを客観的に知ることができるようです。
古荘さんの本では、これらの領域の中の「自尊感情」について日本の子どもと外国のこどもを比較しています。そこを考えてみます。
投稿者 fujimori : 22:36 | コメント (4)
2009年05月30日 [近頃思うこと]
自信
昨日のブログで書いた「自信」とはどういうことでしょうか。「日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか」(古荘純一著 光文社新書)という本に、子どもの精神面の健康度を図るQOL尺度で測られた調査で、日本の子どもたちが「自分に自信」がなく、「自分自身や学校などの満足度」に対し、多くの子どもが「ほとんどない」を選択したことが記されています。
自信を持つためには、まず自分自身のことを自ら考えることが必要になります。よく自信を持つということは、他人から高い評価を受けることだと思われているところがあります。確かに、それは、うれしいことですし、それによって自信を持ちます。しかし、その評価に自分で納得しなければならないのです。自分自身では、そう思っていないところを褒められても、うれしいと思っても、その次にやる時には、次はそうできるのか、同じような結果が出せるのかという不安を持ちます。ですから、人からの評価は、あくまでも自分を見直すきっかけに過ぎないような気がします。
今回改定された保育所保育指針の中の「情緒の安定」にねらいに、こう書かれている部分があります。
「一人一人の子どもが、周囲から主体として受け止められ、主体として育ち、自分を肯定
する気持ちが育まれていくようにする」
自信を持つということは、自分を肯定的にとらえることです。そのために、「情緒の安定」の内容には、こう書かれてあります。
「保育士等との信頼関係を基盤に、一人一人の子どもが主体的に活動し、自発性や探索意
欲などを高めるとともに、自分への自信を持つことができるよう成長の過程を見守り、適
切に働きかける」
ここには、自信を持つようになるためには、主体的に活動することが必要で、自発性や意欲が必要になってくると書かれてあります。ですから、人から褒められることが、次の行動に対して、自発的になったり、意欲を持ったりするようにならないと自信につながらないのです。
古荘さんは、本の中で、最近の学力低下や少年犯罪、いじめ、生活習慣の乱れなどの子どもの変化に対して、小児精神神経学の観点から見ると、「子どもの指導を強化すべきという意見に世論が流されている」ことを危惧しています。「指導という大人からの強制ではなく、子どもの存在をまずはあるがままに認め、そして子どもを守り育む姿勢が重要」だと思っているそうです。私が提案する「見守る保育の三省」と同じ考え方ですね。
古荘さんは、このような状況の中の子どもたちを「自尊感情」という観点からいろいろと調査をしています。この「自尊感情」は、必ずしも高ければよいということだけではないことを踏まえて考えています。彼のいう「自尊感情」とは、外見、性格、特技、長所短所、自分の持っている病気やハンデキャップなどすべての要素を包括した意味での「自分」を、自分自身で考えるという意味であると定義しています。ですから、これが肯定的な面になると、「自信、積極的、有能感、できるという気持ちや幸せな気持ち、自分を大切に思う気持ち」などととらえ、否定的な面としては、「劣等感、消極的、無力感、できないという気持ち、不幸でつまらないと思う気持ち、自分をみじめに思う気持ち」などと表現できるとしています。この自尊感情について、もう少し、明後日から訪れるドイツと比較しながら考えてみたいと思います。
投稿者 fujimori : 23:18 | コメント (4)
2009年05月29日 [保幼小]
移行2
OECD加盟20カ国で乳幼児期政策に影響する社会、経済、考え方や研究の諸要因を叙述した「乳幼児期の教育と養護」(ECEC)での成功例は、私が考えていたことと同じ内容であることは、私が今迄経験したことと関係があるようです。
特に小学校への移行では、「学校準備」方法ではなく、社会教育伝統を内在する国々背実践されているような、就園年齢は人生に対する幅広い準備と生涯学習の基礎段階とみなした取り組みを推奨しています。私は、振り返ってみると、大学では建築を学びました。それは、人の生活に与える空間の持つ力を感じたからでした。そして、特に環境としての空間が与える影響が大きく、しかし、あまり変えようとしていない学校建築に興味を持ちました。そこで、そのテーマを卒業論文にしたのです。空の上からの飛行機から下を眺めると、点々とある、すぐにわかるような空間が学校です。そこで、子どもに与える影響が大きい環境としての建物を考えたのです。
しかし、実際に使うのは子どもであり、教師です。その利用者としてはどのような空間が必要なのだろうかということを知るために、今度は小学校教師になりました。幸いというか、偶然に1年生の担任になり、その後も低学年を中心に担任をやるうちに、どのようにして小学校に送り出してくれると小学校ではやりやすいかということを肌で知ることになります。しかし、同時に教師としての限界を感じ始めます。それが、学校での担任王国とかクラス王国と言われるような学習形態、また、低学年では、学びは連続的であるにもかかわらず、時間系列に組まれた時間割、カリキュラム、その中で、社会教育に関心を持ち始めます。そのころ、第1期と言われた校内暴力が代表するような学校での「荒れ」が問題になり、その荒れた中学生の面倒を見るにつれて、やはり地域という環境に関心を持ちます。そこで、ブログで書いたような子ども会を作り、社会教育に取り組みます。
そんな経緯の中から、今回のECECで提案されている「学校準備」方式ではなく、「社会教育」を基盤にした考え方の幼児教育は、まさに私が求めてきたことだったのです。そのおもな目的は、「子どもたちすべては、あらかじめ特定された知識や習熟度を達成することよりもむしろ、学習に対する意欲と好奇心、学習における自信を高めていくべきである」ということになるのです。
日本では、OECDの学力調査では次第に下降傾向を呈しています。そのために、国では「ゆとり教育」を見直し、「総合的学習」が縮小されました。しかし、低下の傾向は、かなり前から予兆がありました。先の主目的である「学習に対する意欲」が調査国中、最低でした。また、「自信」がないのも日本の子どもたちの傾向であると言われています。それに比べて、特定された知識を多く持ち、物事の習熟度はかなり高いでしょう。また、それが今の日本での主目的になっています。
また、学習形態も、ECECで推奨されている方法は、学習は大人によって指導されるだけでなく、子ども同士、グループプロジェクト、能動的な教育方法です。しかし、この方法は、教育者が必ずしも子どもたちの遊びにかかわっていないのではないか、子どもの現在の発達に適合する重要な学習経験をさせていないのではないか、という批判を受けました。しかし、その批判は、一時期に当てはまっていたかもしれませんが、実際には、少しずつの修正を加え、継続的に改善されてきています。その取り組み例として、イタリアのレジョエミリア市によるプロジェクトに触発されているところが多いとしています。
どこまで日本は遅れているのでしょうか。
投稿者 fujimori : 23:52 | コメント (4)
2009年05月28日 [保幼小]
移行
以前のブログで、品川区で行われる幼少連携で、幼児期から足し算などを教えるという取り組みについての考え方を書きましたが、幼児教育から小学校教育への移行については、世界でも課題のようです。OECD加盟20カ国の乳幼児期の教育と養護(ECEC)という書籍の中では、乳幼児期政策に影響する社会、経済、考え方や研究の諸要因が記述されています。(園の副園長である中山さんの訳)
2006年に出された「スターティング・ストロングⅡ」では、2001年に出された「スターティング・ストロング」で概説されたECECの成功政策の主要な側面に対する参加各国による対応進展状況が概観されています。そして、結論として執筆者たちによって各国政府が今後重点的に注意を払っていくための政策領域が10項目にまとめられています。その3章が「学校教育との強力かつ平等な連携」です。
ここでは、乳幼児教育及び小学校システムの両者において、より統一された学習方法が採用されるべきであり、就学児童が直面する移行課題に注目すべきであると提案しています。その中で、大きく二つの異なった政策選択をもたらしていることを紹介しています。
フランスや英語圏では「学校準備」方式を採用しています。この方法は、乳幼児年齢での認知発達訓練と、広範囲な知識・技術・気質の獲得に焦点を当てています。しかし、この方法に内在する欠点は、児童の心理と自然学習方策にあまりにふさわしくないプログラムを使っていることとしています。一方、社会教育が伝統的に考えられてきた国々である北部・中部ヨーロッパ諸国では、就園年齢は人生に対する幅広い準備と生涯学習の基礎段階とみなされています。
このように、二通りの考え方がありますが、現在、どの国でも子どもの移行をどうしたらスムーズに行うことができるのか、就学前教育の在り方を考えることは政策課題となっているようです。それは、その移行は、一般的に成長発達への刺激となりますが、なにもせずに突然小学校教育にあげたり、あまり深くがんが絵図に安易に扱われたりすると、とくに児童にとっては退行や失敗の危険性を帯びることになると警告しています。
パートⅡの中で、就学への移行での成功例が示されています。それは、社会教育の伝統を継承している国々での取り組みです。そこには、養護、陶冶、教育を結合させた子どもの教育方法である「ペタゴジー」という概念のようです。そして、乳幼児施設の学校化ではなく、むしろ、乳幼児教育の方法を小学校低学年まで広げるべきであるという強い信念が必要であると提案しています。
この「ペタゴジー」という概念は、毎年訪れているドイツの19世紀にその起源をもつ社会教育での理論、実践のようです。社会教育は、本質的に総合的なものであり、その時の教育者は子どもの全存在、すなわち身体、心情、情緒、創造性、歴史、社会的アイデンティティに働きかけようと試みるものです。
私が、以前ドイツのフランクフルトの教育委員会の人の話を聞いた時に、ドイツでは、乳幼児教育は、「教育」と「陶冶」と「養護」を結合させたものだという話を聞きました。その時に、ブログで「陶冶」について書いた覚えがありますが、日本ではこの言葉は最近聞きませんね。それは、人格形成という概念に含まれるものとしたからです。
もう少し、小学校教育への移行についてわかりやすく解説してみようと思います。
投稿者 fujimori : 23:46 | コメント (4)
2009年05月27日 [近頃思うこと]
流言
毎年恒例のドイツミュンヘンへの研修旅行へ来週の月曜日に出発します。毎年ながら、ハラハラするのは、ドイツのホテルでのインターネット環境です。最近、日本では基本的には、いわゆるビジネスホテルと言われるところは、部屋にランが引かれていて、ストレスなしにパソコンをすることができます。また、最近増えたのは、パソコンの貸し出しをするホテルです。ですから、手ぶらでも、部屋からネットを行うことができるのです。
もし、ホテルがそのような環境でないときや、バスや新幹線などで移動中では、今までは、PHSのカードの使い放題を契約していたので、それを使っていました。しかし、その難点は、PHSが入らないような山間とか、宿では困りました。しかし、最近は、auでカード式携帯電話でも使い放題の料金システムができたので、そのカードを使えば、携帯電話が入るところでは、どこでもネットができるようになりました。しかし、海外では、携帯電話には使えるものがあるのですが、カード式で使えるものがありません。それなのに、工業先進国と言われるドイツでさえ、使えるようになっていないホテルが多いので困ります。あっても、かなり費用が高く、昨年はつい日本のように使い放題の感覚で使い、チェックアウトの時の請求金額を見てびっくりしました。
そんな事情ですから、今から予告をしておきます。ドイツには来週の月曜日から再来週の日曜日までドイツに行っていますので、もしブログがアップされなくても、体調が悪いわけではなく、何か異変が起きたわけではなく、ドイツからネットが繋がらないということですから、ご心配は要りません。もし、アップできなくてもドイツでも毎日書いていますので、帰ってきてからまとめてアップします。
そんなわけで、せっかくのドイツ行きですから、ドイツからはドイツ事情を報告します。また、それまでも、海外事情を、少しずつブログで報告します。ただ、それはドイツがいいとか、世界のほうがいいとかいうわけではなく、日本では私たちはどうすればよいか、日本独特な文化をどのように伝承していけばよいかを探るためです。また、日本では当たり前だと思っていることが、世界から見ると非常に特殊なものであることなどに気がつくためです。
今回の新型インフルエンザの対する国民の反応にしてもそうです。昨日のテレビでも、売り切れのマスクを求めて、路上で販売するバイヤーから千円で買う人の姿が映っていました。ヨーロッパではマスクは自分が感染症の病気で他に感染させないためにするもので、予防のためのマスクの習慣はないといいます。先日のテレビでも、人にうつさないためにはマスクはかなり有効であるのに対して、うつらないためにはたいして効果がないことが放映されていました。新聞にも、対策についての各国の対応が票になっていました。マスクについて、感染者の着用についてEUでは、効果ありそう。しかし、着用した感染者が出歩けば感染を広げる。非感染者には効果不明。米国では、非感染者には着用は推奨されないとしています。感染者にはノーコメントです。WHOでは、感染者は着用すべきであるが、非感染者は不要としています。手洗いは、どこでも励行しています。うがいは、EUだけが効果がありそうとしています。集会についてもEUでは、効果は不明とし、逆に中止にすることで社会・経済負担甚大としています。逆に米国では集会の機会を利用して保健当局は感染について周知できるとしています。渡航制限についても、EUでは、効果最少であり、逆に社会・経済負担甚大であるとしています。WHOでも、不要とし、症状ある本人が旅行を慎むとしています。
日本は、流言飛語には弱いですね。
投稿者 fujimori : 23:33 | コメント (4)
2009年05月26日 [近頃思うこと]
逸話
歴史上の人物は、「誰が見たんか~」ではありませんが、いろいろな逸話が残されていますが、それが真実かよくわかりません。また、いろいろな物語として伝記や書物で大方の生涯はわかりますが、その本が誰を主人公にしているかによって、いい人か悪者か評価が分かれてしまいます。
最近映画化された「三国志」でも、私は吉川英治の小説や横山光輝の漫画で知ったので、どうしても劉備玄徳をひいきしてしまいます。また、映画レッドクリフを見ると、周瑜と諸葛亮(孔明)との友情が描かれ、周瑜が格好よく描かれているので、好きになってしまいます。今までだったら、周瑜は、孔明を恐れ、何度か殺そうとし、その作戦の一つが10万本の矢を集めてくる有名なエピソードです。「三国志演義」によると実は周瑜の孔明を殺そうという計画に対して、孔明がひねり出した秘策でしたが、映画「レッドクリフ」では二人の信頼関係を描く要素として描かれています。
最近、NHK大河ドラマ「天地人」を見ていると、ずいぶんと評価が変わってくる人物に、死後徳川幕府によって悪評を流され、極悪人にされてしまった石田三成がいます。テレビでは、その役を若者に人気がある小栗旬が演じていることもあって、ずいぶんとカッコよく描かれています。しかし、もともと彼は様々な逸話が残り、素晴らしい人物であったことが伝えられています。
石田三成は、羽柴秀吉が織田信長に仕えて近江長浜城主となった頃から秀吉の小姓として仕えています。有名な逸話の一つが、彼を召抱えるときの逸話「三杯の茶(三献茶)」です。
ある日、秀吉が近江長浜城主だった頃、鷹狩の途中で領地の観音寺に立ち寄ったときのことです。茶を所望した汗だくの秀吉を見た寺の小姓の三成が、大きな茶碗にぬるいお茶をたっぷり入れて持ってきました。鷹狩でのどが渇ききっていたので、秀吉は一気に飲みきりました。飲み干した秀吉がさらに2杯目を所望すると、三成は2杯目の茶碗は前に比べると小さめで、湯はやや熱めで量は半分くらいでした。それも飲み干し、もう一服を命じました。すると、三成は、今度は熱いお茶を高価な小茶碗で持ってきました。最初から熱いお茶を出すと一気に飲もうとして火傷するので、三成はぬるいものから出したのです。この気配りを秀吉はいたく感心し、三成を長浜城に連れて帰り、召し抱えたと言われています。この逸話は気配りの進めとして、広く語られています。
また、三成は、「大一大万大吉」、もしくは「大吉大一大万」と記された紋を用いました。「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば、世に幸福(吉)が訪れる」という意味とされています。そんな三成が最後を迎える時に逸話「三成と柿」が、三献茶のエピソードと並んで、三成の逸話として有名です。
斬首される前に市中を引き回された際、三成は「水が飲みたい」と言いました。周りの衛兵は「水はない。柿ならあるぞ。食え」と近くの木から柿をとって三成に与えましたが、三成は、「柿は痰の毒であるのでいらない」と答えました。警護の者は「すぐに首を切られるものが、毒断ちして何になる。」と嘲笑すると、三成は「大志を持つものは、最期の時まで命を惜しむものだ。」と泰然としていたといいます。
三成は、残っている逸話が多い人物です。
投稿者 fujimori : 22:38 | コメント (4)
2009年05月25日 [近頃思うこと]
音楽教育
幼稚園や保育園や学校での教育を考える時に、どうしてそれが必要なのだろうかと考えることがあります。その目的が「生きる力」の習得であるとするならば、いわゆる基礎学力と言われる「国語」「算数」「社会」「理科」「英語」などはまあまあわかるのですが、「音楽」や「図工」は、どうでしょうか。たとえば、図工では物を作ったり、創造したりするときに必要であると言われれば、まあ、そういうことが必要な職業もあるだろうと思いますが、音楽はどうでしょうか。昨日のブログではありませんが、教会で賛美歌を歌うというような具体的な目的ならわかるのですが、日本ではどうでしょうか。日常的に歌うことはあったのでしょうか。明治維新以降の教育の目的は、かなり時代を反映します。時代がどんな人材を必要とするかということに関係するからです。
戦後の教育改革で、2つの試案がアメリカのコース・オブ・スタディの考え方をモデルに作成されました。1947年の「試案」の中で、音楽編は「芸術としての音楽」観を示しました。そこで、音楽教育の6つの目標が示されています。「音楽美の理解・感得を行ない、これによって高い美的情操と豊かな人間性を養う」「音楽に関する知識および技術を習得させる」「音楽における想像力を養う(旋律や曲を作ること)」「音楽における表現力を養う(歌うことと楽器を弾くこと)」「楽譜を読む力および書く力を養う」「音楽における鑑賞力を養う」というものです。この考え方は、音楽を音の運動としてとらえ、その特性を技術として認識し、さらに音楽美として教育内容に位置づけたことは、戦前の「軍国教育の手段としての音楽教育」と明らかに異なる方向を示しました。そして、4つの学習領域として、歌唱、器楽、鑑賞、創作それぞれに「指導目標」「児童生徒の生理的心理的発達段階、教材選択の基準」などが記述されました。
それが、1951年の「試案」となると変わってきます。このころは、朝鮮戦争が勃発します。そこで、アメリカの意向で道徳教育の必要性が提唱され、音楽教育の目標も強く影響を受けます。前回の「音楽美の理解感得」は消え「円満な人格」「好ましい社会人」などの文言に変わります。ある意味では、すべての子どもにとって、日常に意味あるものとして位置付けられてきます。それを受けて、戦後という連合軍の占領下での教育ということから離れて、最初の「学習指導要領」が1958年に告示化され、そこで教育課程の国家基準を示し、法的拘束力をもつものとなります。その内容は、鑑賞、歌唱、器楽、創作の4領域に分けられ、歌唱と鑑賞に共通教材が設定されます。
それが、1968年の改訂では、新たに「音楽的感覚の発達を図るとともに、聴取、読譜、記譜の能力を育て、楽譜についての理解を深める」という目的で「基礎」が加えられます。しかし、1978年の改訂では、「基礎」の重要性を意識しすぎて統合的な指導を離れたとの反省から、基礎的・基本的内容の精選を行い、従来の5領域を「表現」と「鑑賞」の2つに整理し、「音楽を愛好する心情の育成」をいっそう重視します。そして、1989年の改訂では、基本方針として、「心豊かな人間の育成」「基礎・基本の重視と個性教育の推進」「自己教育力の育成」「文化と伝統の尊重と国際理解の推進」と定められ、具体的には即興表現などの創造的な自己表現活動等と、国際理解の観点から日本を含めた世界の多様な音楽に親しむことが重視されました。1999年の改訂では、「音楽を愛好する心情」と「音楽に対する感性」「音楽活動の基礎的な能力を培い,豊かな情操を養う」となります。「心情」という言葉は、保育所保育指針の中にも表れている言葉です。この目標は、今回の改定でも引き継がれています。
投稿者 fujimori : 23:25 | コメント (3)
2009年05月24日 [近頃思うこと]
西洋音楽
西洋音楽が日本にもたらされてから、西洋楽器の演奏も盛んになり、子どもたちも様々な楽器を習うことが盛んになりました。その代表的なものにピアノがあります。最近はあまり聞かなくなりましたが、一時期はピアノ教室がたくさんありました。また、しかし、私の園では、ギターを弾く職員が多くなりましたが、かつては保育園や幼稚園の先生になるためには、ピアノが必修でした。
ピアノを習うときには、まず指の練習をします。その時に必ず使われていた楽譜が「バイエル」と言われる教則本です。しかし、昨日の朝日新聞に「ピアノ入門バイエル離れ」という記事が掲載されていました。ある書店の話では、現在は、バイエルのシェアは教材全体の約15%だそうです。この教材を出版している全音楽譜出版社によると、最盛期には年間40万冊売れているのが、現在ではその10分の1、音楽之友社でも5分の1に激減しているそうです。
「バイエル」は、フェルディナント・バイエルというドイツ人作曲家が書いたもので、ベートーベンと同時代の人で、彼の弟子にはツェルニーがいるそうです。このツェルニーも、教材によく使われていました。バイエルやツェルニーは、欧州では、ほとんど使われなくなていた教材が、なぜ日本で教材としてポピュラーになったかということが新聞に書かれています。
音楽取調掛(のちの東京芸大)が1880年にメーソンという人物をアメリカから招きます。それは、担当官がたまたま留学先がアメリカだったからです。メーソンは、唱歌から弦楽器まで音楽を幅広く日本で教えますが、その時にピアノと一緒に日本の洋学教育のためといって持ち込んだのがバイエルだそうです。そのころ、手探りでクラシックを追い求めていた日本人にとって他には指針がなかったということもあって、高度成長期にピアノが一般家庭に広がったと同時にバイエルが教材として一般化したのです。
しかし、1970年代に他の教材が欧米から入ってくるようになると、バイエル信奉に会議の目が向くようになります。バイエルは、あまりにも指の技術的な訓練に比重が置かれすぎていること、ハ長調ばかりで他の調への対応が遅れる、ドイツ古典派の狭い様式しか学べないなどという理由です。それでも、まだまだバイエルにこだわっている人もいるようですが、「今や選択肢の一つにすぎなくなった」と記事では結んでいます。
私もピアノを習ったことがありますが、どのくらい弾けるかという目安に「バイエル何番です」という言い方をしていましたし、教員の資格をとるときにも、1年生はオルガンを弾いて音楽を教えないといけませんでしたから、バイエル100番くらいまで弾けることというのがありました。しかし、途中でやはりただ指の訓練だけではつまらなくなります。その時に使った教材は、「ブリュグミュラー25の練習曲」です。この教材の当時、ほとんどの人が使っていたと思います。その教材は、1曲ごとにきちんとタイトルがつけられていて、なんだか名曲が弾けるようになった気分がしました。そして、その曲が耳について、このレコードを買ったほどです。私がよく覚えているのは、最初に載っている曲、「素直な心」で、その次の「アラベスク」は今でも耳についています。和音から始まる「狩猟」や最後の曲「貴婦人の乗馬」も懐かしいですね。
私は、その程度しか弾けませんが、そのあと「ソナチネ」「チェルニー30番」「ソナタ」など、誰もが練習した教材です。
投稿者 fujimori : 22:34 | コメント (4)
2009年05月23日 [地域を知る]
西洋文化
大分にザビエルがもたらした文化の中で、いくつか子どもに関することがあります。昨日のブログで紹介した日本での「西洋外科手術発祥」である病院を開院したアルメイダは、そのほかにも素晴らしい事業を残しています。それは、遊歩公園の途中にある「育児院と牛乳の記念碑」に書かれてあります。その記念碑の横には、こんな趣旨の説明が書かれてありました。
「日本最初の洋式病院を建てたポルトガルの青年医師アルメイダが、ここ府内(大分市)に来た当時の日本は戦乱が続き、国民の中には貧窮の余り嬰児を殺す風習があった。これを知ったアルメイダは自費で育児院を建て、これらの嬰児を収容し乳母と牝牛を置いて牛乳で育てた。これは、近世における福祉事業の先駆である」

ルイス・デ・アルメイダは、当時の日本で貧しさゆえに広く行われていた赤子殺しや間引きの現実にショックを受けます。そこで、まず、豊後府内で一軒の家を入手します。そして、乳母を雇い、牛を飼い、牛乳で赤ん坊を育てようとしたと伝えられています。ですから、そこにある碑には、「牛乳の記念碑」とも書かれてあるのですが、「牛乳の碑」は、静岡県の下田にもあります。江戸末期、アメリカ領事のハリスが、日本で「牛乳を飲みたい!」と言ったところ、それまで日本では牛の乳を飲むなどという「奇習」は無かったので断ったら、どうしてもというので、奉行所は止む無く和牛の乳を搾って提供したという記録が残っているそうです。もし、そうであれば、大分での乳児院で牛乳を飲ませたほうが随分と古いことになるのでしょう。その後、アルメイダは、天草の河内浦で没しますが、商人から無償奉仕の医師へと転身し、病人と乳児に尽くした波乱の生涯で、天草にも碑があるそうです。今でも、大分市医師会の事業の1つとして昭和44年4月1日に大分市内に「アルメイダ病院」という名の病院が建てられています。
また、こんな碑もあります。「西洋音楽発祥の地像」というものです。ザビエルがキリスト教の布教をしたとなると、当然賛美歌は歌うはずです。それが、西洋音楽に初めて触れることになったということは容易に想像できます。しかも、聖歌隊も結成されたようです。その碑には、こんな説明が書かれてあります。「1557年(弘治3年)の聖週間には二つの聖歌隊ができ、オルガンの伴奏で賛美歌が合唱されたと当時の文献は報じている。また、外人神父からビオラを学んだ少年達は1562年(永禄5年)7月、領主大友宗麟の前でこれを演奏し大いに賞賛を博した」そうです。この碑の横にある像は、子どもたちが一生懸命に大きな口をあけて、牧師が弾くビオラに合わせて歌を歌っている姿で、とてもほほえましいものです。
音楽だけでなく、当然教会に関係する西洋の演劇や美術も伝えられたでしょう。そんなことで「西洋劇発祥記念碑」が建てられています。碑によると、クリスマスに、府内のキリスト教会では信者の手によって、「アダムの堕落と贖罪の希望」「ソロモンの裁判を願った二人の婦人」等々の西洋劇が演じられたのが日本における洋劇の最初だそうです。以来、府内教会ではクリスマスや復活祭に、聖書に基づく数々の宗教劇が演じられるならわしになったということです。

このような生活に密着した西洋の文化が広まっていったきっかけを作ったザビエルは日本人を、「今まで出会った異教徒の中でもっとも優れた国民」であると賞し。特に名誉心、貧困を恥としないことをほめています。
江戸時代までに日本を訪れた外国人の日本への評価は、かなり高いものがありますね。
投稿者 fujimori : 22:44 | コメント (4)
2009年05月22日 [講演先にて]
ザビエル
私は、最近地方に講演に行くことが多いのですが、その目的以外に何か地方にもたらしているかということを思うことがあります。現代は、テレビやネットなどで情報が世界中に瞬時に伝わりますので、人がその地を訪れて情報や文化を伝えるということは少ないでしょう。しかし、講演などをよく頼まれるというのは、やはり人が人にじかに会って、生の声で伝える効果があるのでしょう。とは言っても、講演内容以外ではなかなか伝えるものが少なく、それよりも地方から学ぶことがたくさんあり、とてもありがたく思います。
情報がなかなか伝わらなかった昔は、いろいろな方法で情報や文化が伝わっていました。大きな役割をもっていたのは、やはり商人でしょう。産物や商品のやり取りと同時に文化も交流していたでしょう。また、ブログでも取り上げた参勤交代も大きな役割をしていたようです。
では、世界との文化交流はどうしていたでしょう。それは、やはり商人が大きな役割をはたしていました。また、冒険家も、たまたま漂着した船からも文化が伝わりました。鉄砲伝来などはそうでした。それと同時期にキリスト教が日本に伝わりますが、布教活動によっても、その宗教を広めるだけでなく、さまざまな文化を伝えることになりました。
その中で、大きな足跡を残した人に「フランシスコ・ザビエル」がいます。彼は、マラッカで日本人ヤジローと出会い,日本に行くことを決意します。仏教にしても、宗教の力はすごいですね。どんなこんながあろうとも、信念を貫こうとする人が多く、そのおかげで、いろいろな文化が生まれています。
ザビエルというと、歴史で習った「以後よく見かけるクリスチャン」と覚えた1549年に鹿児島に到着し,布教活動を許されたのが「日本へのキリスト教伝来」です。この後,平戸・博多を経て京都まで行き、天皇や将軍に会おうとしますが、会見は許されず、やむなく山口を経由して大分に入ります。このルートには、様々なザビエルの足跡が残されています。今回、大分を訪れた際、いただいた「ザビエル」というお菓子の名前からも、大分にも来たことを知ることができます。
ザビエルの大分滞在は短期間だったようですが,これをきっかけに,この地には宣教師がしばしば訪れることになり,キリスト教伝導活動の拠点のひとつとなっただけでなく、さまざまなものがもたらされ、日本発祥の地となったものがたくさん残されています。大分市には府内城跡から南の方に、長く伸びた遊歩公園があり、ここには発祥の地を記念した多数の記念像や記念碑があります。
リスボンで生まれたルイス・デ・アルメイダは,貿易商として巨大な財産を築きました。しかし、航海中にフランシスコ・ザビエルの弟子である修道士のグループと出会い、一緒に日本に上陸した彼は民衆の困窮を目撃し,彼等を救済するためにイエズス会士となります。たまたま外科医師の免許を持っていたアルメイダは、ザビエルが大分に滞在していた6年後の1557年、私財を投じて大分に病院を設立します。病院は,一般疾病患者のためのものとハンセン病患者のためのものを別個に建てて治療にあたり、内科はもとより、日本最初の洋式外科手術が盛んに行われました。この病院には、外来のほか入院の設備もあって、開院5年後には入院患者が百人を超えていたようです。また、病院に来ることのできない患者のためには、巡回診療も行われていたそうです。この病院に日本最初の医学校が併設され、若き日本人学生が西洋医学を学びました。この公園には、まさにアルメイダが、日本人助手とともに外科手術をはじめようとしている像が建っています。
投稿者 fujimori : 23:49 | コメント (4)
2009年05月21日 [講演先にて]
おもと
大分県の宇佐に行ってきました。この地のブログは以前に書きましたが、宇佐神宮で有名なところです。この宇佐神宮の神様が降り立った山として崇められ、現在でも本当の頂上は神域として立ち入り禁止区域になっている「御許山」(おもとやま)が、宇佐神宮の奥の院としてそびえています。たいして高い山ではありませんが、宇佐平野のどこからでも見えます。この「御許山」は、「大元山」と表記されている地図もあるようですが、宇治神宮の神が降り立つというと、たぶん、「御許山」でしょう。
地図を見ていると、この山が、「万年青(おもと)」の発祥の地と書かれてありました。この名前の由来は、万年青の根茎が太く大きいことから「大本・大元(おおもと)」といわれ、それが「おもと」になったという説がありますが、ここ「御許山」で500年位前に自生していた珍しい品種を採取して育てたのが始まりで、この地から良質の万年青が産出されたことから「おもと」になったという説が有力です。そして、寒い冬にも緑の葉の色を変えないところから「万年青」の文字があてられたといわれています。
この「万年青」は、知る人ぞ知る植物で、昔からめでたい植物、縁起の良い植物と言われ、慶長11年に徳川家康公がおもとを床の間に飾って江戸城に入城したことでも有名な「伝統園芸植物」で、春蘭、富貴蘭等同様の人気があります。その魅力は葉姿や色彩、葉芸の変化だと言われ、茶道の「詫び、寂び」の境地にも通じており、その色彩と葉姿の中に自然の織り成す芸は千変万化で貴品があるといわれています。
私が若いころにある地域のお父さんたちと子ども会を作り、その顧問をしていた時のことです。その地域に、「おもとのおじいさん」と呼ばれている万年青をたくさん育てているお年寄りがいました。そのお年寄りに万年青の話をすると、喜んで、得意げに万年青の話をしてくれます。また、「クモの博士」と呼ばれているお年寄りがいました。その家には、玄関先から奥の部屋まで、クモの飼育箱が並んでいて、世界中のクモを飼っていました。そこで、子ども会のお父さんたちと「地域にはいろいろな特技や趣味をもったお年寄りがいるね」「せっかくだから、この人材を子どもたちに使えないだろうか」という話になり、子ども会のリーダーの子どもたちに「地域に、どんな特技を持ったお年寄りがいるか、調べてみない?」と持ちかけました。そこで、「地域お年寄り地図」を作ろうということになりました。子どもたちは、子ども会の日、地域センターに集まり、グループに分かれて、地域のお年寄りを訪ねて、いろいろな話を聞いて回り、そのあとセンターに集まって、地域の地図の中に、どの場所に、どんなお年寄りがいるかを書き込んでいきます。そして、みんなが調べ終わった後で、各グループのリーダーが、調べた結果を発表します。
この活動が評価されて、社会教育の映画化されることになりました。今でも社会教育関連の貸し出し16ミリフィルムの中に、確か「輝け!子どもたち」というタイトルで所蔵されているところがあると思います。
その映画は、1日の活動を追ったものでしたが、実際は二日間かけて撮影されました。子どもたちは、とても自然にふるまってくれましたが、私を含めて大人たちは、なんだか頬がひきつっているようです。万年青から連想した懐かしい思う出です。
投稿者 fujimori : 23:28 | コメント (4)
2009年05月20日 [近頃思うこと]
バリア
最近、東京では建築物や公共施設、公共交通機関のバリアフリー化が進んでいます。それは、平成6年に制定された「ハートビル法」で「高齢者、身体障害者等が円滑に利用できる特定建築物の建築の促進に関する法律」が定められていることと、平成12年に制定された「交通バリアフリー法」で「高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律」が定められていることで、段差の解消や視覚障害者誘導用ブロックの設置など、着実に整備が進んできているのです。
バリアフリーという言葉は、もともとは住宅建築用語で、障害のある人が社会生活をしていく上で障壁(バリア)となるものを除去するという意味です。ここでいう、バリアである障壁は何かというと、「バリアフリーにしてあります」ということに代表されるのは、段差がないことをいうことが多いようです。しかし、本来は、そういった物理的な障壁だけでなく、障害者の社会参加を困難にしている社会的、制度的、心理的なすべての障壁の除去という意味なのです。ですから、英語では、設備やシステムが広く障害者や高齢者などに対応可能であることを指して「アクセシビリティ」(accessibility)という用語がよく使われるようです。
また、ユニバーサルデザインという言葉がありますが、これも、障害者や高齢者が使いやすいようなデザインというわけではなく、ユニバーサルですから、他にも、文化、言語の違い、老若男女といった差異、人種、能力の如何を問わず多様な人々が利用しやすいよう都市や生活環境である施設・製品・情報をデザインするということなのです。
ずいぶん前になりますが、北欧を訪れた時の経験です。その時に、あらゆる店舗の階段のところに細いレールのようなものが付いていました。そのころ、まだバリアフリーという概念が浸透していませんでしたので、なぜかと思いましたら、そのレールは乳母車の車輪を通すためにものでした。勿論、車いすも通ることができるのでしょうが、その時にバリアとは、必ずしも障害者のための障壁ではなく、バギーや乳母車を押していることもハンデにしないという考え方を知りました。また、電車に乗ったときに、「犬可」とか「自転車可」という車両を見たときに、犬を連れていることでも、自転車に乗っていることでもそのこと自体をバリアにしないという考え方を知りました。
また、その時に感じたのは、今はどうかわかりませんが、たとえば、「犬可」という車両に乗ったときに、当然、私は犬を連れていませんでしたが、その車両では、犬を連れていない人は乗れないのではなく、犬を連れている人が優先されるということで、通路に寝ている犬をみんな避けて通っていましたし、座席は、犬が乗ってくると譲っていました。段差も、すべてスロープにするのではなく、レールを使って登れますが、そうでない人は階段を使います。
最近、園がバリアフリーといって、すべての場所から段差がなくなり、敷居のようにまたぐ場所がなくなっていますが、一番良く使う子どもたちから、段差を越える力や、敷居をまたいで歩く力を奪ってしまっていて、子どもたちは、地域の中や、自然の中は歩けなくなってしまいそうです。自然の道は、段差だらけです。
投稿者 fujimori : 22:37 | コメント (4)
2009年05月19日 [記念日]
缶とタライ
今の若い人は、吉本新喜劇の島木譲二のカンカンヘッドで行われような、お笑いなどでよく見かける空の「一斗缶」もしくは、その蓋を頭にぶつける場面がありますが、この一斗缶を知っている人は少ないでしょうね。また、ザ・ドリフターズのコントで使用され、その後よく頭の上に落とすものとしてよく使われるようになった「金ダライ」も、本来の使い方を知っている人は少なくなっているでしょう。
私の子どものころは、この一斗缶は家庭でもよく使われていただけでなく、使い終わった容器も主にコンロなどいろいろなものに使われていました。一斗缶とは、尺貫法の単位で定められた一斗の容量を持つ缶のことです。よく、ご飯を食べる時に「10合炊く」といいますが、これが1升です。そして、その10倍である10升が1斗という量です。ご飯を一人1号食べるとしたら、1斗は、100人分です。そして、この10倍の量が戦国時代の大名の石高に使われる1石となります。ちなみに、お米の量でよく使われる1俵とは、4斗です。
日本では、明治時代になって、1升が1.8039リットルと定められたので、その10倍である1斗は、18.039リットルとなりました。この約1斗の容積を持つ直方体形のブリキ缶が、「一斗缶」です。そして、1959年(昭和34年)のメ-トル法の実施にともない、日本工業規格(JIS)が改訂され、缶の名称が「18リットル缶」と決まりました。
現在、家庭などでは、灯油などを入れるプラスチック製の容器である通称ポリタンクと呼ばれるものに変わっていきますが、業界では、このスチールの18リットル缶がさまざまな物を入れる包装容器としての優秀性が認められ、消防法、船舶安全法、毒物及び劇物取締法などの規制に適合した容器として認定されています。また、この一時期、5ガロン缶(1ガロン = 3.7854118リットル)とも呼ばれていたこともありました。そこで、5ガロンと18リットルを掛け合わせて、昨日の5月18日が18リットル缶の日となっています。
ブリキ缶の日本における歴史は意外と古く、江戸時代末期の文化年間(1861~1863年)に「京都の竜門堂安之助という人が、当時輸入した品物の容器であった、ブリキ函を再利用して茶筒などを制作した」と言われています。それが、18リットル缶としての容器は、明治維新により欧米文化が文明開化と同時にイギリスのサミエル商会が18リットル缶に詰めた灯火石油の販売を始めたのが始まりだと言われています。
一方、天井から突然落ちてきて出演者の頭部を直撃する「金ダライ」も、一般家庭で洗い桶として使われていました。たらいとしては、最初は、木製のものを使っていました。よく浮世絵にあるように、洗濯だけでなく、行水や、すいかを冷やすのに使ったり、出産時の産湯に使われていました。また、テレビなどの時代劇では、旅籠で客人が足を洗うのにも使っていたように、昔は水道の水を出しっぱなしで使わずにためて使っていたので、ためるために容器として使われていました。それが、第二次世界大戦後、アルミニウムやメッキ鋼板で作られるようになり、その後、トタンを用いた金だらい(かなだらい)中心となり、そして、プラスチック製のものへ変わっていきます。使い方も、洗濯用途もなくなり、行水は風呂場でシャワーを浴びるようになり、小さい洗面器になりました。この「金ダライ」の面白い使い方を最近見かけました。有名な建築家が設計した幼稚園の園庭にある流しです。その流しの水を受けるのに、この金ダライを使っていたのです。面白い発想ですね。
投稿者 fujimori : 23:08 | コメント (4)
2009年05月18日 [近頃思うこと]
空間の質2
韓国の分析では、韓国でコーナー保育が機能しているのは、「日本ではプレイルームもたくさんあるので教室を細かくコーナーで区切らなくても、子どもたちがもめずに、自分の居場所を見つけて遊べる。しかし、韓国は日本と比べてグラウンドも施設も狭いので、狭いスペースで遊ばせて、子どもたちをそのままにしておくともめるばかり。だから環境的な面からみても、韓国ではコーナー保育が役立った」としています。しかし、私が委託された研究での調査ではとても面白いことがわかりました。保育園においてコーナーの設置に影響するものに違う理由が現場では起きていたのです。
保育室の活用は、国で定められている最低基準に関係なく、その使い方は各園で工夫をしています。特に生活の場面が多い保育園では、どのように保育室を使うかは大きな課題です。実際に調査をした結果を見ると、その中で、食事、午睡、遊びの行為の切り替えが課題であるということがわかりました。住宅でも、かつてのそこで遊び、食事をし、寝るといった日本の茶の間から、3LDKというようにそれぞれの機能別に部屋が分かれてきました。さいきん、学校ではランチルームのように、教室で食事をとらないで、別室でとるところが増えています。また、同様に幼稚園や保育園でもランチルームがあるところが多くなりました。
調査では、0歳児、1・2歳児では、食事や午睡を行う場所は約9割の保育所で保育室を使用していたのに対し、3歳以上児になると、一つの行為に対して、保育室だけでなく、遊戯室や食事室など、さまざまな場所が使用されています。それぞれの機能でそれぞれの部屋が分かれているのは理想ですが、実際はそんな贅沢なことはできませんので、その使用の工夫を、実際はどのように行っているかの調査でみると、食事、午睡ともに保育室で行う割合で53.7%、食事が保育室、午睡が遊戯室など別な部屋というパターンが27.5%、食事室で食事をとる場合は10%程度ですが、そのあと、食事室から保育室へ戻り午睡をするパターンは6.4%でした。
すると、食事を食事室でとる場合と、食事室を設置していないが食事と午睡が別の部屋の場合と、食事と午睡を同じ場所で行っている場合を調査してみると、この関係が意外と保育内容や遊びコーナーに影響していたのです。食事室を設置することで保育内容に影響しているものは、食について学ぶミニキッチンの設置について、有意差が見られました。
しかし、食事室の有無よりも、食事と午睡の場が別であるかどうかの方が影響していました。特に、最近問題になっている保育園における午睡をするかしないかでは、「午睡をしない子どもが過ごせる場所がある」について大きく影響していました。
また、保育室に常時設置されている遊びコーナーの中で、ままごとコーナー、絵本コーナーなどは割とどんな条件の中でも比較的設置しやすいコーナーのようですが、造形コーナーやブロックコーナーなどは、食事室があることや食事と午睡の場を分けることが影響していました。分けることで、保育室内に空間的な余裕ができ、その結果、子どもたちが常時、造形遊びやブロック遊びができる空間ができるようです。
保育園の生活の中で大きな時間を占める食べることと寝ることを、もう少し人間らしく保障することが結局は大切であるということですね。
投稿者 fujimori : 23:18 | コメント (4)
2009年05月17日 [近頃思うこと]
空間の質
日本の保育室は狭いので、コーナーなどは設置できないと思っていますが、コーナー保育が充実している韓国では、その理由をこう考えているようです。
「日本では外で遊べるオープンスペースが広く、プレイルームもたくさんあります。だから、教室を細かくコーナーで区切らなくても、子どもたちがもめずに、自分の居場所を見つけて遊べるのです。でも、韓国は日本と比べてグラウンドも施設も狭いので、狭いスペースで遊ばせて、子どもたちをそのままにしておくともめるばかり。だから環境的な面からみても、韓国ではコーナー保育が役立ったんですね」
子どもがもめるので、コーナーを作ったというのは面白いですね。というのは、普通であれば、このコーナーを使う時間帯は「自由選択遊び」と位置付けているように、先生が一斉に何かやらせるのではなく、子どもたちがやりたいことを自由に選択できるための環境のためだと思いますし、日本では、広いので自分の居場所を見つけやすいけれど、狭い韓国では見つけにくいので、コーナーで区切ったといいます。日本のように、ただ広い空間の方が、自分の居場所を見つけにくいと思うのですが。
もう一つ、環境の質として、その空間にどのようなものの環境を用意するかを考えないといけないと思います。たとえば、あるコーナーには、テレビが置いてあって、いつでもお笑いが見れるとか、あるコーナーには漫画が置いてあるとか、テレビゲームを一日中やることができるとかいうことで自分の居場所を見つけてはおかしなことになります。韓国では、どんなものを用意しているかというと、まず、教材の量は日本の比ではないくらい多いようです。これは、ドイツやフランスに行っても感じることですが、棚いっぱいに積まれてあります。日本では、目移りするからとか、散らかすだけだからと言って、ほとんどない状態です。ですから、子どもが遊ぶものを選ぶというよりも、先生が出して遊ばせるような保育になってしまうのでしょう。さすが、教育にかけるお金が対GNP比で7.1%もあり、世界第2位のわけです。
そんな教材の中で、最近「21世紀に向けての創造性開発としてのアイデンティティ定着のための伝承遊び教育」が意識的に取り組まれているようです。私の園でも、「伝承遊びゾーン」が用意されています。
その意図を私は、「所属観をきちんと持つことにより、自尊感情を持ち、世界に貢献できる人材となる」と思っています。
その他、すごろくなどのような社会領域を学ばせる目的のものや、発想を刺激するものも多いようです。たとえば、コンピュータにしても、それを使って自分の遊び道具を作ったり、お話をインターネットで調べたりするときなどに使うようです。
「こどもにとって良い環境とは?」ということはとても難しいことです。それは、生きることの意味を問うているようなものだからです。しかし、少なくとも、「こうしてあげよう」「このようにさせよう」ということではなく、レッジョ・エミリアの教育方法の創設者のひとりであるローリス・マラグッツィさんが言っているように「子どもは教えさえすれば受動的に学ぶのではなく、子どもが何か自ら主体的に行為する中に学びは存在している」ということを再度確認すべきだと思います。
投稿者 fujimori : 21:51 | コメント (3)
2009年05月16日 [近頃思うこと]
保育室という空間
保育室という空間の問題は、単純に広さだけの問題ではありません。その質が子どもに影響します。その環境の質も評価しなければなりませんが、日本では、昨日のブログだけでもわかるようにどうも収納する場所という意識が強いようです。今回、学習指導要領、幼稚園教育要領、保育所保育指針が改定されました。それは、教育、保育の内容を見直したものですが、それに伴う教室、保育室の室内、屋外環境も見直さないといけないのですが、どうもあまり連動していないようです。
ある幼児教室のパンフレットに韓国の幼児施設が紹介されていました。韓国では、いま国民全員でとても過激な受験戦争に翻弄され、かつての日本における子どもを大人がただコントロールしているイメージがあります。しかし、そのやり方を幼児期から行ってしまうと、学校教育にはスムーズに移行せず、かえって言われたとおりに動くだけの人材になってしまうことに気付き、保育の質を見直す動きが始まっています。子どもを宝だと思う国だからこそ、日本と違ってその変化は速いようです。そんな日本との違いを、このパンフレットの中で名古屋市立大学教授の丹羽さんと韓国慶南大学校教授の朴さんが話をしています。
「韓国の幼児教育が日本と一番違う点は、コーナー保育をとてもきちんと実施しているところですね。コーナー保育とは、各教室や、園全体をコーナー的な発想で区切って、子どもたちに好きなコーナーに行って遊ばせること。科学、言語、ままごと遊び、音律活動コンピュータコーナーなど、6から10コーナーくらいに区切られていて、コーナーには、いろいろな遊びの教材が置いてあります」
この中で、このコーナー保育は日本にもアメリカから入ってきたけれどあまりうまく機能していないといいます。それは、空間はその環境を用意するだけでなく、その次のその使い方にあることを示唆しています。
「日本では登園してきた子どもたちをまず1時間くらい自由に遊ばせる自由遊びの時間がありますが、その時間を韓国では“自由選択遊び”として運営しています。それは先生がその日のテーマに合わせていろいろな教材をコーナーに置いておくと、そこへ子どもたちが入ってきて、教材を選んで遊ぶやり方のこと」
韓国では1980年以前は日本と同じような教育を行っていましたが、1982年制定の幼稚園教育課程から、コーナー保育を取り入れてきました。韓国も日本も、アメリカの教育の影響は受けていますが、コーナー保育が根付かなかった日本に比べ、なぜ韓国ではここまで定着した背景に、幼稚園、保育園の施設環境が影響しているといいます。その分析を、私は面白く感じました。なぜかというと、そこには保育室の広さが影響しているというからです。日本で、基準の保育室が子どもにとって狭いと言われ、それは狭いと子どもは走りまわれないからだと思っている人が多いような気がします。そうでないところでは、狭いといろいろなコーナーが作れず、また作っても食事の時や午睡の時には片付けざるを得ないから常設のコーナーは無理だと思っています。どちらにしても、日本の保育室は狭く、全く貧弱であるということはだれでも思うことです。しかし、韓国の人はそう思っていないようです。(続く)
投稿者 fujimori : 22:07 | コメント (4)
2009年05月15日 [近頃思うこと]
空間2
保育所における保育室の広さの最低基準が国によって定められていますが、この決め方を見ると、日本の空間に対する考え方がわかります。日本では、「保育室又は遊戯室の面積」ということで、幼児一人あたりの面積が決められていますが、この保育室は何をする部屋であるかというと、もちろん子どもが遊ぶところという言い方になりますが、実際は、この部屋で遊ぶだけでなく、食事をし、休息、昼寝をしたりします。その大きさが、一人当たり1.98㎡ということは、寝食遊のために別々の空間を用意することはできず、遊んだ後でそこを片付けて食事にし、それを片付けて昼寝をします。ですから、外国の人に驚かれるのですが、日本の机は足がたためるようになっているのです。また、イスは積み重ねられるようになっています。こんな生活を見ると、私は子どもの頃に食事をした後で、ちゃぶ台を片付けて布団を敷いた戦後間もなくのころの生活を思い出します。
こんなことを考慮してフランスなどでは広さを決めています。パリでは、子ども一人あたり知育室のみで3.1㎡、知育室と午睡室兼用の場合5.5㎡と決めたり、ロワール県では、遊戯室として3㎡、休息室として3㎡というように分けています。イヴリン県では、子供専用区画として6~8㎡、知育室3~4㎡、食事コーナー0.8㎡、午睡室1㎡、トイレ0.6㎡というように細かく分けて基準が設定されています。また、イングランドでは「子どもが使用できる純空間」として2歳未満3.5㎡、2歳児2.5㎡、3歳以上児2.3㎡と決まられています。ニュージーランドでも、「子どもの遊びに供せない区域は含まない」という表現も用いられています。
それにしても日本における生活の貧困さを感じます。そうでなくとも、単純に2歳一人あたりの面積を比較しただけでも、フランス、アメリカ、ドイツ、ニュージーランド、イングランドの州、県、市における基準の中で日本は最も小さい広さです。こ日本における子どもの生活の貧困さは、フランスの県レベルで保育所施設推奨基準を見ても感じます。「施設入り口」の条件に「一番大きな子どもが、着替えのために寝転んだり、座れたりするスペースを確保することが必要である」とあります。日本では、入り口には、靴を収納するだけのシューズボックスが並んであるだけのところが多く、座る場所や、ましてや寝転ぶ場所として確保することは想定されていません。また、「事務室」の内容に「最低でも、両親と2人の子どもを受け入れられる広さの面積が必要である」とあり、事務所とは、単に事務をするところということだけではなく、家族との面談の場所として捉えており、そのような役割を園は担っていることが理解できます。
そのほかにも、「調理室」を、「このスペースは、遊戯室(保育室)から離すことによって、子どもが食事やその他の活動の時間を静かに過ごすことができるようにすること」と決めてあり、日本で多く見られるような保育室のように元気よく活動する場所で食事をすることは考えていないようです。また、「衛生室」として、オムツ交換台やトイレの基準が決められており、トイレのところに「小さなサイズのトイレ」ということと、「子どものプライバシーを尊重し、お互い離れた場所に配置すること。子どもが水を流す装置を作動させることができるようにする」とあります。この基準は、2歳までの保育所ですが、お互いのトイレを、水を流す音があまり聞こえないように離すようにというような細かい配慮もされています。
ここまで見てくると、生活の貧困さだけでなく、子どもに対して、その人権への配慮や一人の人間としての尊厳を大切にしていることがわかります。
投稿者 fujimori : 23:44 | コメント (5)
2009年05月14日 [近頃思うこと]
空間
子どもにとって生活するうえでの空間は必要です。それは、最近の子どにかけている三間と言われる「仲間」「時間」と「空間」は少し違います。昨日のブログのように「仲間」や「時間」は子どもが主体的に過ごす仲間や時間がなくなってきたということですが、「空間」は必ずしもそうではありません。たとえば、食事をする場所が必要だかといっても、なにも主体的に食事をしようが、給食のように与えられて食事をしようが空間的な広さにはそう関係ありません。しかし、空間のしつらえである子どもの発達に影響するような環境としての「空間」は、変わってきます。
問題は、まず、空間が広さとしてどの程度子どもにとって必要であるかということです。そのときに、まずその空間でどのようなことをするかによって広さが決まります。たとえば、多くの保育所では、0~6歳までの子どもを11時間以上保育しており、そこでは養護と教育の一体提供としての保育、食事やお昼寝、排泄等、さまざまな営みが行われています。そのなかで食事をする場合は、どのくらいの広さが必要であるかということはほぼわかっています。平均的スケールは、「建築資料集成」という本に載っていますし、実際に子どもが食べている場面で計ってみればわかります。しかし、そのときに、子どもがひとりで食事をするときと、数人で食事をするときの一人あたりの面積は若干違いますし、子どもの食事を大人が介助する場合の広さも違いますし、食事の前に配膳したり、終わって片づけをしたりする場合も違ってきます。ですから、食事をするときに必要面積は、決まってくるといっても、どのように食べさせるかということで違ってきます。
お昼寝に必要な面積もほぼ決まってきます。しかし、一斉に同じ時間に寝かせるときと、個々によって眠くなる時間に合わせて寝に行くようにしたり、自分で起きてきたりする場合はベッドの間に通路を作らないといけないので、必要な広さは若干違ってきます。ですから、子どもの生活に必要な広さは、子どもの体位や動作に必要な空間の大きさ等に違いがあるだけでなく、本来は子どもの活動と保育内容に必要な環境・空間として、面積に加え環境の質で規定していくことが必要になってきます。
そんな子どもにとって必要な空間について難しいのは、子どもにとって最も重要な「遊び」の空間です。子どもの遊びにとって、どのくらいの広さが必要であるかという議論はとても難しいです。しかし、保育室では、その使用はほとんど子どもの「遊び」ですから、厄介です。それは、園庭の広さも同様です。子どもの遊びは、単純に「広いからいいね」といって、いつも学校の校庭で遊ばせればいいわけではありません。私の園で、押入れを改装して、子どもの遊び空間を作りましたが、その狭い中に入って、子どもが遊ぶことも子どもにとっては興味深いようです。

保育園では、年齢によって、保育室の広さの最低基準が決められています。いちばん小さくていいのは、もちろん、まだ寝返りがやっとの赤ちゃんです。「乳児室の面積は、乳児又は前号の幼児一人につき一・六五平方メートル以上であること」と決められています。赤ちゃんは次第にハイハイをするようになります。すると、這う距離が必要になります。ですから、「 ほふく室の面積は、乳児又は第一号の幼児一人につき三・三平方メートル以上であること」となり、少し大きくなります。しかし、じっと座れるようになると、また、必要面積は小さくなります。そのかわり、園庭が必要になります。「保育室又は遊戯室の面積は、前号の幼児一人につき一・九八平方メートル以上、屋外遊戯場の面積は、前号の幼児一人につき三・三平方メートル以上であること」この広さを見ると、国は乳幼児にはどのようなことをすればよいかがわかります。では、外国ではどのように考えるのでしょうか。以前に少しブログでも書きましたが、もう一度整理してみたいと思います。(続く)
投稿者 fujimori : 23:40 | コメント (5)
2009年05月13日 [近頃思うこと]
三間
今の子どもたちは「三間」がないと言われています。それは、「仲間」「時間」「空間」です。では、子どもにとって仲間は何人いればよいのでしょうか。どのくらいの時間があればいいのでしょうか。どのくらいの広さがあればいいのでしょうか。少し前に、保護者会である保護者に「家庭で気をつけることは何でしょうか?」と聞かれたので、「今、キャンペーンを張っているものに“早寝、早起き、朝ごはん”というのがあります。子どもはなるべく早く寝かせてあげてください」と言ったら、ある父親から「何時に寝れば、早寝になるのでしょうか?」と聞かれました。そこで私は、「幼児であれば、8時くらいに寝かせればいいのではないですか」と答えたら、「園が8時半までやっているので、それは無理ではないですか?」と言われてしまいました。「早く寝ましょう」と言っても、いったい何時なら早いのか迷うかもしれません。
そういう意味では、最近の子どもは、仲間がいないと言われても、何人であれば仲間なのでしょう。2人であれば確かに複数になりますが、なんだか仲間ではない数です。また、何で仲間がいるのかというと、一緒に遊ぶからです。ということは、遊ぶために必要な子どもの数となると、その遊びの種類によります。野球の試合をやろうとして、仲間を集めるとすると、18人必要になります。ゲームでも、人生ゲームなどは4人必要ですが、将棋をやろうとすれば2人で間に合います。簡単に、「今の子は、仲間がいない」とは言えないかもしれません。
時間にしても、「今の子どもは時間が足りない」と言われても、では、10分あればいいのか、1時間必要なのかよくわかりません。何で時間がないかというと、遊ぶ時間がないということとすると、仲間と同様、何の遊びをするために時間なのか、何をするために時間なのかによって違ってきます。しかも、時間がないといってもみんな公平に1日24時間使える時間があります。子どもだけが、時間が少ないわけではありません。
こうして考えると、仲間や時間がないというのは、絶対的な量ではなく、子どもが主体的に遊べる仲間がいないことと、子どもが主体的に遊べる時間がないということなのでしょう。そうであるとしたら、子どもから「仲間」「時間」をなくしているのは、大人のせいなのではないでしょうか。子どもの世界に大人が干渉し、仲間を本人の意思に関係なく大人が構成し、子どもの時間を大人がすべてコントロールしているということになります。
このように大人が子どもの世界に干渉するというのは、少子社会であることも影響しているでしょう。子どもの数が少ないと、子どもの行動が目につくからです。また、その行動に口を出すことができるからです。
そんな中で、「空間」が今の子どもにないということはどういうことでしょうか。小学校や幼稚園、保育園などの子どもの施設には、子どもに必要な最低の空間の広さが決められています。その広さは、子ども一人当たりどのくらいの広さが必要かということです。たとえば、保育園については、現在は、2歳から6歳時には一人当たり1.98㎡と決められています。では、どうしてその広さが決められているのでしょうか。また、何をするために必要な広さなのでしょうか。ちょっと、考えてみたいと思います。(続く)
投稿者 fujimori : 22:27 | コメント (4)
2009年05月12日 [近頃思うこと]
ごみ
先日の記事で世界遺産の地ではごみ問題が深刻化していることが問題になっていました。また、富士山のようにごみの問題で世界遺産に登録できないところもあります。人は生活をする上でごみが出ることは仕方ないことがあります。しかし、そのごみがどうなるかは人任せのところがあります。誰かが、どこかで何とかしてくれるだろうとか、自然と消滅するだろうと思ってしまうのです。しかし、消滅せずに残ってしまう素材もありますし、いくら自然素材を使っても、消滅をするのには時間がかかります。そこで、それまでどこかに置いておかなければなりません。それぞれが、好きな所に捨てていたら、すぐに町はごみだらけになってしまいます。縄文時代の青森の三内丸山遺跡跡では、ごみがきちんと燃えるゴミと燃えないごみとに分別され、ごみ収集所に集められている遺跡が発掘されています。
このように、ある大きさの集落を形成するようになると、やたらなところには捨てるわけにはいかなくなるのです。
人口が密集していた江戸時代の江戸の町では、最初は、自分が住んでいる近くの川や堀や空き地にごみを捨てていました。人口が増えてくると、それではごみが腐り異臭を放ったり、川が汚れたり、大変なことになってきました。そこで、困った江戸幕府は、1655年11月、「ごみは永代島に捨てるように」と、ごみを捨てる場所を決めました。しかし、そこまでみんなが常に捨てに行くことはできません。そこで、地域には、一時ためておく場所を決め、そこから定期的に永代島に捨てに行くようになったのです。その一時ためておく場所として、町ごとに空き地に穴をほって仕切り板で囲った共同のごみためを作り、ごみを上からそこに投げ入れて捨てます。たいていのごみためは井戸やトイレのそばの、そのごみを船に積むのにべんりなところに作られました。それは、このごみを永代島に運ぶのには、船を使ったからでした。そして、大きなごみためから船にごみを移すのは、船を動かす人の仕事でした。そうやって永代島に運ばれたごみは、永代浦あたりに埋め立てられていきました。今の夢の島のように、海岸線に埋立地がこうやって作られていったのです。
現代、ごみは、捨てられるものと、再利用されるものと、再使用するものに分けられて捨てられます。そのときに、それぞれの家庭でいらなくなったものは、とりあえず「ごみ箱」に捨てられます。たまに大切なもの、あとから使えるものをごみ箱から急いで探すこともあります。しかし、ごみ箱をごみ収集所に持っていかれてしまったら、いくら後で使いたいと持っても、大切なものを捨ててしまったと思っても取り返しがつきません。逆に、大切な情報などは、不用意に捨てると誰かに使われたり、悪用されかねません。ですから、最近は家庭用シュレッダーがはやっていて、細かく割いて捨てるようにもなりました。
パソコンを使っている時、便利なのは、そこで作ったデータなりを後で再利用したり、再使用することができます。しかし、何でもかんでもとっておくと、いっぱいになってしまうので、いらなくなったもの、もう使わないであろうデータは「ごみ箱」に捨てます。そのときに、大切なものを捨ててしまった時、ごみ箱をひっくり返して中身を全部出して、その中から使えるものを探し出すことがあります。そのときに、まだごみ箱の中に残っている場合はいいのですが、ごみ箱をからにした後で思い出して困ることがあります。
しかし、パソコンは私にはよくわからないところがあって、実は、ごみ箱をからにするだけではデータは完全に消去できないようです。市販のデータ消去ソフトを何回も使わないといけないようです。いまや、ごみの処理はパソコン上でも厄介ですね。
投稿者 fujimori : 22:49 | コメント (4)
2009年05月11日 [地域を知る]
未明と三重吉
日本各地にはいろいろな碑がたっています。それがどうしてその場所に建っているかの由来はさまざまです。趣味で建てるとか、人よせのためとかの場合もありますが、何かゆかりがある場合が多いようです。
連休に、妻と直江津に行ったときに鵜の浜温泉に宿泊しました。温泉の由来は、よくブログで取り上げますが、動物が浸かっているのを見つけたとか、有名な僧が開湯したとか、先日は小野小町が開湯した温泉でしたが、そのようにその温泉の発見にはロマンがあります。しかし、鵜の浜温泉は、そんなロマンはありません。ここは、昭和31年に、帝国石油株式会社が石油天然ガス採取のために採掘した井戸から良質な温泉が湧出したために温泉地になったのです。
ここは、開湯にはロマンがありませんが、昔からこの地に言い伝えられてきた伝説があります。それは「人魚伝説」です。「天明の中期(江戸時代半ば)、毎晩のように雁子の常夜灯を目当てに佐渡島から通う不思議な女がいました。雁子の若者はふとしたことからこの女と知り合い、毎晩、常夜灯を仲立ちにして、逢う瀬を楽しんでいました。しかしある晩、母親に引き止められた若者は常夜灯の明りを休んでしまいました。その翌朝、佐渡の女の死体が上がり、それを聞いた若者は悔やみ佐渡の女を追って、海に身を投げたのです。」この話を読むと、ブログで取り上げた小川未明の童話「赤いろうそくと人魚」を思い出します。実は、本当にこの伝説からこの童話が生まれたそうです。というのは、作者の小川未明は、新潟県高田(現上越市)に生まれています。
その高田には、復元された高田城が美しい姿を見せています。
その城も見に行ってみました。というのは、この城の城主であった家康の6男松平忠暉は、そのあと諏訪に流され、そこで亡くなるのですが、その墓が諏訪にある私の家の菩提寺にあるので、なんとなく縁を感じたからです。高田の駅やアーケードもとても美しく整備され、城内にある日本画家小林古径の旧邸や美術館も非常に日本の美を表現して美しいものでした。

未明の父親の澄晴は、かつて修験者でした。そして、上杉謙信の熱烈な崇拝あり、春日山のふもとに上杉神社を創建するため奔走しました。先日、上杉神社を訪れた時、その宝物館の隣に「小川未明文学館」があるのに驚き、どうしてだろうと訝ったものでした。こんな理由があったのですね。
広島の原爆ドームの前には、日本の童話や童謡、昔話などを「文学」にまで高めた先覚者、鈴木三重吉の文学碑が立っていました。
左側には、三重吉の胸像が置かれ、台座には雑誌「赤い鳥」の表紙の字型をそのまま取って刻まれています。そして、その右側の碑の台座には三重吉自筆の一文が刻まれています。「私は永久に夢を持つ ただ年少時のごとく ために悩むこと浅きのみ 三重吉」というものです。

なぜ、ここにこのような碑が建てられているかというと、彼は、広島市猿楽町(現・広島市中区大手町)で生まれています。そこで、碑だけでなく、毎年、広島県内を中心に全国の子どもたちから集まった数千の作文と詩から「鈴木三重吉賞」が選ばれ、また、鈴木三重吉の研究・資料発表を目的とする「鈴木三重吉赤い鳥の会」も広島市を基盤に活動を続けているそうです。
各地にある碑から、どうしてその地にそれが建っているのかを知ることは興味深いものがあります。
投稿者 fujimori : 17:59 | コメント (4)
2009年05月10日 [地域を知る]
群言
いろいろな地域を訪れると、メイン通りはシャッター通りと化し、人通りもまばらな地域と、地方なりの特色を生かした産業を興し、活気があるとか、その地域を活性かるような人がいたり、小さな村でも東京だけでなく、世界にも名が知られるような実績を残している企業があったりと、単純に地方だからとか、過疎だからとか、なにも資源がないからだということがが単に言い訳に過ぎないことを実感することがあります。昨日のブログで紹介した「元気なモノ作り中小企業300社」に選ばれた「中村ブレイス」もそうでしょう。
国土交通省では、従来型の個性のない観光地が低迷する中、各観光地の魅力を高めるためには、観光振興を成功に導いた人々の中から「観光カリスマ百選」として選定して、選ばれた方々の経歴や事績などについて紹介しています。それは、彼らのたぐいまれな努力に学ぶことが極めて効果が高いと考えられるからとしています。
「中村ブレイス」と同じ世界遺産に指定されたる島根県の石見銀山を本拠地に全国展開している衣料・雑貨の会社があります。この会社は、小田急デパート、そごう、三越恵比寿店などで素材にこだわった衣料・雑貨を販売している「群言堂」です。この会社は、TV東京「ガイアの夜明け」でも特集もされていました。「復古創新」がコンセプトで、田舎暮らしで産まれてくるものを都会で売ることで、廃れそうになっていた技術を残そうとしています。この本社は、年商10億円の利益を茅葺きの古民家の移築、石見銀山の町並み再生につぎ込み、カフェやギャラリーを併設し、二回からは、その中に輪を望むようにして休憩室の広間があります。
その店の代表である松場登美さんと大吉さんご夫妻が「観光カリスマ百選」に選ばれました。その名称も「わらしべカリスマ」。自然体の発想で、銀山町のにぎわい再興を仕掛けたということが評価されました。その発想は、「それぞれの夢を大切にし、個人が光り、その結果、町も光る」で、ユニークな企画を次々と繰り出し、町が活性化するとともに、地域住民のふるさと意識を高め、自らデザイン・販売する生活雑貨は、石見銀山の生活文化を発信し、観光客の増加に貢献したとされています。
松場さんは、「一口に言えば、石見銀山大森町にこだわりながら、この町にあるごくふつうのものをデザインし、情報発信したい。そしてそれに共感してくれる人たちが町を訪れてくれたら。」 ということで「石見地域デザイン計画研究会」を立ち上げました。さまざまな地域活性のための、活動をしていったのですが、当時を振り返り松場さんは「はじめから地域をなんとかしよう、という発想はなかった。会員それぞれの夢を大切にし、個人が光り、その結果、町も光るという発想を貫いてきた。」と言います。
さらに、交流の場として、文明を排除した家「群言堂」を作ります。中国の友人が命名したそうですが、「一言堂」という一人の権力者の発言で率いられる世界とは反対に、群となった人たちがそれぞれに発言しつつも一つの良い流れを作ってゆく世界ということで「群言堂」と名付けます。
松葉さんが感じている美意識とは、よそにない自然や歴史を背景にした素材で勝負することのようです。「自然というのは柿の葉っぱを見ても、一つとして同じものがない。私はその違いが好き。だから、布を企画するとき、織り方や糸、染めについて微妙に違うムラがある感じを出したいと思う。朽ちた土壁から、わらが見える様子もすごくきれいに感じる。そういうことも素材に生かしたいのです。」
地域を生かし、地域を信じることから、地域の美が生まれてくるのです。
投稿者 fujimori : 23:27 | コメント (5)
2009年05月08日 [講演先にて]
中小企業
不況だと言われて久しくなりますが、そんな中でも元気のいい企業があります。中小企業庁では、現在事業活動を行っている中小企業、これから事業を起こそうと思っている人に対する支援を行っていますが、その活動の中で、「2009年元気なモノ作り中小企業300社」を選定しています。私たちはとかく大企業に目を向けがちですが、日本の企業の中で海外から大きな評価を受けているものに高度なモノづくり技術を持っている中小企業があります。また、その中には、規模は小さくても、モノ作りを通じ地域経済に貢献している企業、社会的課題に対応して新規分野を開拓している企業なども存在します。そんな企業を選んだのが「元気なモノ作り中小企業300社」です。
今年選ばれて企業の中に、今年で創業35年になる「中村ブレイス」という会社があります。この会社を講演に来たついでに訪ねてみました。あいにく、内部は見せてもらえませんでしたが、「外観はどうぞ写真を撮ってください」と言われたので、何枚か写真に収めました。
この会社は、石見銀山がある島根県大田市で義肢や人工乳房などを製造し、国内はもとより欧米をはじめ約30カ国に出荷しています。社長の中村俊郎さんは、島根県の教育委員会委員長も務め、地元の石見銀山の世界遺産登録にも尽力し、オンリーワンの技術を磨き、石見銀山のある故郷にこだわり続ける中村さんは「若者が育つ街としてこれからも踏ん張る」と意欲を語っています。
京都や米国で義肢装具作りの修業をした74年末、生家の納屋を作業場として26歳のときに1人で起業します。義肢やコルセットは市場は小さいですが、一定の需要はあります。そんな業界の中で、丁寧な作り込みが評判となり、口コミで徐々に注文が舞い込み始めます。この会社が大きく飛躍したのには、社長の下従業員みんなで「使う人の身になって喜ばれるものを」ということで開発されたシリコーン製医療用靴の中敷きです。この製品は、骨折や扁平足や外反母趾などの治療、矯正に使われ、最近では国内外で年間5万~6万人が利用し、同社の売り上げの約3割を占めているそうです。
また、「求められるものを」との思いは事故や病気で失った耳、手の指、乳房などを製作する技術にも生かされます。そんな製品づくりは、「メディカルアート研究所」の設立をもたらし、医療と美術の両立に力を入れています。
社長の中村さんのモットーがあります。それは、従業員を何よりも大切にすることです。こんなエピソードがあります。創業まもないころに知人に頼まれて初めて雇った20歳前の青年が、朝来て1時間も働くと「疲れた」と言って帰ってしまうということが起きます。そんな青年を周囲からは、退職させることを勧められます。しかし、中村さんは、「最初の青年を生かせなければ、どんな社員も育てられない」と考え、粘り強く青年と向き合い、その結果、「怠けているのではなく、本人は一生懸命なのが分かった」ということで、青年の勤務時間は徐々に伸び、7年半後には通常勤務をできるまでになったということです。
そんな考え方で、経営悪化を理由に従業員を辞めさせたこともないということです。むしろ子育てのために退職した女性に子どもの世話が一段落した時点で、せっかく育てた人材を生かさない手はないということで、積極的に復帰させます。中村さんは「ものづくりの基本は人材」と語ります。
そして、社のモットーである「THINK(考えよ)」と書かれた紙が社内のいたるところに張られています。「何もないところからのスタートで、知恵を絞るしかない。今でも変わらないモットー」とは中村社長の原点です。
投稿者 fujimori : 22:13 | コメント (4)
河井名言
私のこのブログの第1回目のテーマも河井継之助の言葉から始まっているように、どうも、彼の言葉が私の琴線に触れるようです。それは、司馬遼太郎の「峠」の影響かもしれませんが、長岡の河合継之助博物館に行っても、そんな言葉に出会います。
博物館の中で、彼の自筆で書かれた堂々たる書体の掛け軸が目にとまります。そこに書かれているのは、「一忍可以支百勇一静可以制百動」(一忍以って百勇を支うべく 一静以って百動を制すべし)という言葉です。 この言葉は継之助が普段から自らに言い聞かせていた座右銘です。もともとは、中国の詩人である蘇老の「一忍可以支百憂 一静可以制百動」という格言からの引用とされています。ただ、蘇老は、初めのほうの段で「百憂」と言っているのを、継之助は、「百勇」に変えています。博物館でボランティア説明員から説明を受けたのですが、「この言葉は、リーダーとしてのあるべき姿です」と言われました。そう思うと、私は、「勇」よりも「憂」のほうがいいと思うのですが、たぶん、継之助の時代と、自分の置かれている立場が「勇」に変えさせたのでしょう。
この言葉の解釈を、私なりにするとすれば、「多くの人の憂いを支えるためには、自らは忍を持ってしなければならないし、多くの人を動かそうとすれば、リーダーは信念をしっかり持って揺れ動かず、じっと、みんなを見守っていなければならない」ということでしょうか。
こんな掛け軸もありました。これも継之助が揮毫したもので、「青山是処可埋骨 白髪向人羞折腰」というものです。この意味はよくわかりません。というのは、最初の段のほうは、たぶん「人生いたる所に青山あり」という「人間到処有青山」という言葉に関係があるでしょう。この言葉は、釈月性の詩「將東遊題壁」にあります。「男兒立志出郷關 學若無成不復還 埋骨何期墳墓地 人間到処有青山」というものですが、「男が志を立てて、故郷を出立したからには 学問が、もし成就出来無ければ、二度とは帰ってこない。骨を埋めるのは、どうして故郷の地であることを望もうか。人間には、いたるところに墓所とすべき青山があるのだ。」という意味です。ということから、「人間到る処青山有り」というのは、人間は、どこで死んでも骨を埋めるぐらいの、青々とした山はあるということから、志を天下に求め、どこで死んでもいいつもりで、大いに活躍するということをいいます。このことから、継之助が書いた「此処青山可埋骨、白髪問人羞折腰」というのは、「どこかしこにも骨を埋めるような青山はある。白髪にして、人に問うのは、腰を折るのはじである」という意味でしょうか。
このほかにも、「民は国の本(もと) 吏は民の雇(やとい)」という「民が国の本であり、役人は民の雇いである」という言葉も記されています。「天下になくては成らぬ人になるか、有ってはならぬ人となれ、沈香もたけ屁もこけ。牛羊となって人の血や肉に化してしまうか、豺狼となって人間の血や肉をくらいつくすかどちらかとなれ。」「人間万事、いざ行動しようとすれば、この種の矛盾が群がるように前後左右に取り囲んでくる。大は天下のことから、小は嫁姑のことに至るまですべて矛盾に満ちている。この矛盾に、即決対処できる人間になるのが、俺の学問の道だ。」「不遇を憤るような、その程度の未熟さでは、とうてい人物とはいえぬ。」などなどあります。
心に響く言葉は、今の自分に当てはまる言葉ですね。
投稿者 fujimori : 21:38 | コメント (4)
2009年05月07日 [近頃思うこと]
師
人は、人生の中で、自分の生き方に影響する人と幾度か出会います。勿論、最初に出会う人は親でしょう。親は、一生子どもに影響していきます。ですから、子どもを育てながら自らも成長していく必要があります。時として、それは反面教師になることもあるでしょうし、全く子どもを顧みない親のこともあるでしょうが、それも子どもには影響していくのです。しかし、この出会いは、自主的ではありません。良くも悪くも、運命ともいえる、定めであるのです。
その次に影響するのは、学校の先生かもしれません。それは、「師」と呼ばれるものです。師とは、「わが師の恩」といわれるように、学問や芸能などを教える人のことを指します。しかし、正確に言うと、学校の先生は違うかもしれません。それは、やはり師と仰ぐ人としては、教わるほうに主体がなければならないからです。本来は、何を誰から学ぶかは、自分で決めなければならないのです。そうであるからこそ、人生に影響を与えることになるのです。
歴史的に名を残す人の多くは、人生に影響を及ぼす「師」と出会っています。それは、運命的な出会いの場合もありますし、自ら選んで訪ねる場合もあります。上杉謙信も、直江兼続も、「師」と出会っています。「師」には、僧侶や神父など宗教上の指導者という意味もあります。「師」という字の偏の「𠂤」とは、積み重ねることを意味します。つくりの「帀」は、あまねく行動するという意味があります。ですから、師とは、多くの人を集めた集団、また、それを率いる人のことを指すのです。
長岡藩の河井継之介は、備中松山の藩財政を立て直した山田方谷のもとへ留学するために旅立ちます。その場所は、岡山から鳥取の米子まで行く伯備線の途中にあるのですが、今は、その名をとって、方谷駅というのがあります。ずいぶん前ですが、ちょうどその駅を通過したときに司馬遼太郎の「峠」の中の継之助が方谷を訪ねるあたりを読んでいたので、ブログに書いた覚えがあります。
「峠」の中で、継之助が遊女と会話をするところがあります。遊女が、継之助に、なぜ、方谷を訪ねるのかという問いに対して、「お会いして人物を見たしかめ、たしかなるようならば入門する」「なんの学問を」「生き方の学問を、だ」「立身なさろうとするのでございますか」「ちがう」このような会話から継之助の考える学問というものがわかります。そして、「(人の世は、自分を表現する場なのだ)と思っていた。なにごとかは、人それぞれで異なるとしても、自分の志、才能、願望、うらみつらみ、などといったもろもろの思いを、この世でぶちまけて表現し、燃焼しきってしまわねば怨念がのこる」
こんな思いで方谷を訪ねるのですが、方谷は継之助にこう言います。「お気の毒ですが、私にはひまがない。とても講学はできませぬ」それに対して継之助は、「心得ております。私は先生から経書(儒学の原典)の講義を拝聴しにまいったのではございませぬ」「では、なにをしに」「先生の日常になさることを学びたくて参ったのでございます」
いかにも実践を重んじる陽明学を学んだ継之助らしいですね。実際に、弟子としての学びは、先生と起居を共にするだけだったようです。しかし、こんな学びがあったようです。「夜分など、方谷にひまがあると雑談をしてくれる。その雑談が、継之助にとって宝石のように貴重であった。」
単なる知識を得るためだけの勉学をしなかった継之助は、実践、行動そのものが学びだったのでしょう。
投稿者 fujimori : 23:39 | コメント (4)
2009年05月06日 [近頃思うこと]
河井
今年6月に新潟県長岡で行われる「第8回全国藩校サミットin長岡」の中で、基調講話を行うのですが、その講師は、「河井継之助記念館館長」である稲川明雄氏で、「長岡藩学の系譜と米百俵教育の理念」というテーマで話をするようです。稲川さんは、最近、現代書館からシリーズ藩物語として「長岡藩―雪の重み、戊辰の戦い、それらをも糧に、新発想で立ち向かう長岡人の源流を読む。」という書籍を発行しています。その紹介文には、「世界を均一の思考で統一させよういう、グローバリズムという名の妖怪の徘徊する現代。否、日本にはかつて各地にそれぞれの文化を持った「藩」というほぼ独立した「国」があった。その藩風・匂いを思い出して、我々の足元を確認して世界を語ろうというシリーズ」と書かれてあります。
このテーマは、まさに今求められていることです。私が、寺子屋について考え、また、男脳と女脳の違い、それは、人それぞれにはそれぞれの役目があり、それらの人がそれぞれの役目を果たすことで、人間の遺伝子を残していくという課題です。それは、個を殺して集団に合わせるという考え方から、よい個を作ることでよい集団が生まれ、よい集団はよい個を作るという考え方です。それぞれの藩が自立し、それぞれの藩がそれぞれの文化を持つことで、それぞれの役目を果たすことができ、それが国を良くするという考え方です。
こんな考え方で行動した河井継之助が残した言葉が、長岡で訪れた「河井継之助博物館」に所蔵されていました。ボランティアの解説を聞きながら、「あれっ?」と思った言葉がありました。それは、「出処進退」という言葉です。この言葉は、「政治家の出処進退は政治情勢を見て、本人自らが決めるものだ。」という例が示すように「今の役職・地位にとどまるか、それをやめて退くか、という身の処し方」をいいます。
この言葉を河井は、「出るとき進むときは人の助けが要るが、おるとき退くときは己の力のみである。自ら決せよ」といっています。この部分を、司馬遼太郎の「峠」では、「「人というものが世にあるうち、もっとも大切なのは出処進退という4つでございます。そのうち進むと出ずるは人の助けを要さねばならないが、おると退くは、人の力をからずともよく、自分で出きるもの。拙者が今大役を断ったのは退いて野におる、ということで自ら決すべきことでござる。天地に恥ずるところなし。」
何かの役をやる時、また、何かを推し進めようとするときは、人からの推しや助けが必要ですが、退くときは、自分で決めるべきであるということです。最近の政治家などを見ると、出るときは自分から出ますが、退く時には人から言われてのことが多いようで、河井の考え方とまったく逆である気がします。今、多くで使われている「とどまるか、辞めるかを自分で決める」のではなく、「とどまるのは周りが決め、辞めるのは自分で決めるべき」ということになるのでしょう。
一昨日のNHK大河ドラマではありませんが、退くのはとても勇気と決断がいります。そして、人は退くときには悪く言います。また、人の間違いを非難するのに比べて、それを認めるのには勇気がいります。ですから、人を非難するとき、人を退かせる時には、その人への配慮を忘れないようにしたいものです。
投稿者 fujimori : 23:37 | コメント (4)
2009年05月05日 [記念日]
幼少体験
今日は、子どもの日ですが、いつの時代でも子育ては難しいものです。それは、子育て中には、結果が見えないからです。こうすれば、こうなるということもありませんし、また、人生にいつにおいてが結果なのかもわかりません。また、どうなることが幸せなのかもわかりませんので、親は子どもをその時としてできるだけ良いことをしようと考えますが、それは必ずしも子ども自身が望むものかどうかはわかりません。
しかし、子どもを将来のために教育します。「何の為に勉強するの?」という問いに対して、いつの時代も明確に答えられる大人はいないと言われてきました。しかし、結果的には、教育は子どもに影響しますし、将来の人格形成におおきく作用することは確かです。
上杉謙信は、幼名を長尾虎千代といいましたが、7歳から14歳までの7年間を、新潟上越市にある春日山城下の林泉寺に預けられ、7代目名僧・天室光育に出会い、厳しく「仏の教え」、「神の道」を教わります。
それは、こんな背景がありました。謙信の父である長尾為景は内乱に悩まされていました。長尾為景の勢力は、春日山城のある上越周辺、栖吉城・栃尾城などの虎御前実家の周辺、三条城の中越などでしたが、反長尾為景勢力は、上田坂戸城(南魚沼市)城主・長尾房長、政景を中心とした上田衆でした。この上田衆を率いていた政景が、のちの謙信の養子となり跡を継ぐことになる景勝の父親です。その長尾為景は隠居し、嫡男である晴景に家督を譲ります。しかし、その数年後、病没した為に、7歳になった晴景の弟の長尾虎千代(長尾景虎、後の上杉謙信)は、林泉寺に預けられることになるのです。
幼い頃は利かん気で腕白、弓矢、刀であそぶのが何よりも好きだったと資料に書いてありました。また、よく城の模型を作り城攻めをして遊んでいたといわれていました。しかし、寺僧に武芸は禁物でしたがが、天室光育和尚は見て見ぬふりをして、大胆にもそれを黙って見守っていたといわれています。次第に、その悪童ぶりは影を潜め、神童ぶりを表します。その後、上杉謙信は「毘沙門天」に心を惹かれるようになっていくのです。このころの教えに影響を受けたのか、もともとそのような気質を持っていたのかはわかりませんが、謙信は、武士と言う人間に生まれたからには、そのような意気込みがなければ武士道を全うできないと考えていました。そして、こんなことを言っていますが、この考え方も、幼いころ受けた林泉寺の住職天室光育の教えが大きいかもしれません。
「武士の子は、14、5歳の頃までは、わがままであっても勇気を育て、臆する気持ちを持たせぬようにせよ。勇気ある父を持つ子は臆する心を持たぬ。父は常々、この道を説き諭すことが大事である。少年時代の教育が一番大事である」
今は、武士の世ではありませんが、子どものころのわんぱくやいたずらや、何かに熱中することは、将来のために様々な経験をしていることには変わりがありません。その子どもとしての生きる力を、次第に人に貢献する力、「義」に変えていくことは今にも参考になることです。
その後、大人になってからも、謙信は、今度は8代目 益翁宗謙大和尚より、厳しくも慈愛に満ちた禅の奥義を学びます。そして、益翁宗謙大の謙の一字をもらって、「謙信」と名乗ることになるのです。
投稿者 fujimori : 21:57 | コメント (4)
2009年05月04日 [旅先にて]
長岡
江戸時代の教育を担っていたものに寺子屋がありますが、これは、主に庶民のためのものであったのに対して、長崎の大村でも訪れた藩校は、諸藩が藩士の子弟を教育するために設立した学校です。また、寺小屋への入学はかなり自主的でしたが、藩校へは藩士の子弟はほぼ強制的に入学させられていたようです。このような藩校は、徳川の世になり、平和になったために各地に設立されていきました。日本初の藩校は、1669年(寛文9年)に岡山藩主池田光政が設立した岡山学校が最初です。しかし、そのころはまだ珍しく、全行的に広がったのは、1700年半ばですが、それは、多くの藩が藩政改革のための有能な人材を育成しなければならなくなったからです。藩を立て直そうとするためには、まずは「教育」なのです。そして、そのためにまずは、各地では優秀な学者の招聘も盛んに行われたのです。そして、思惑通り、この藩校で育っていった人材が地方文化の振興を図り、各地域から時代をリードする政治家や学者の輩出していったのです。
地域の風土に根ざした個性的な教育で数多くの人材が輩出された藩校教育を見直すことをねらいとして、毎年、藩校のあった地域で「藩校サミット」が行われています。毎回、藩校を設けた大名家の末裔と全国の教育関係者が集うそうです。先月末の「産経新聞」に、この藩校サミットのことが掲載されていました。「江戸時代に300諸侯と称された大名家の1割に相当する殿様の末裔、約30人が集う第8回全国藩校サミットin長岡が6月20日、新潟県長岡市で開かれる。実行委員会によると、これだけ多くの殿様の末裔が参加するのは初めてという。」この記事にあるように、今年の第8回は、新潟県長岡で開かれます。
この長岡は、NHK大河ドラマで、ちょうど今放送されている時代に、直江家を相続した兼続が、新たな城「与板城」を築城しました。また与板の村も整備させ、鍛冶産業にも力を注いで大いに発展させました。
そんな長岡でのサミットですが、ここには、「藩校教育と米百俵の精神」といわれているものがあります。それは、城下町であったこの地は、武士の世から続いた義の精神と教育によって、多様な文化や産業、経済を営んできました。それらの精神は、長岡藩の藩校「崇徳館」で力強く育まれました。そんなことをテーマに、今準備に大変のようです。地元紙には、こんな取り組みが紹介されていました。「同市の小中学生が論語の素読を披露しようと練習に励んでいる。全国の藩校で重要な教材だった論語。同サミット実行委は昨年11月、長岡藩の「祟徳館」で素読を学んだのとほぼ同じ7歳から14歳の子どもを集め「論語素読の会」を結成した。実行委は「かつて外国人が驚くほどの勤勉さを誇った日本人を形作った論語は、学ぶところが多い」と音読の意義を語る。」
この長岡の「崇徳館」からは、河井継之助、小林虎三郎、三島億二郎など、現在の長岡を語るうえで欠かせない人物が教育を受けています。一時、ブログに何度も登場し、私が熱中した司馬遼太郎の「峠」の主人公である河井継之助の居宅跡と博物館があります。
それにしても、彼の生涯を知るにつけ、歴史は「あの時こうだったら」という積み重ねであるという実感を持ちます。また、この崇徳館は、その後、「米百俵」の故事で有名な「国漢学校」へと引き継がれ、多くの人物を輩出しています。教育の力を感じます。

投稿者 fujimori : 22:17 | コメント (4)
2009年05月03日 [旅先にて]
魚沼
日本の主食はもちろん未だに「米」で、その中で、コシヒカリは南は九州から北は本州秋田県・宮城県までで生産され、日本全国の1/3以上がコシヒカリだそうです。しかし、このコシヒカリの誕生は新しく、1944年に新潟県農事試験場の農林22号と農林1合の交配が起源であると伝えられています。その後、福井県にある福井農事改良実験所で研究が行われ、1956年に福井県で品種登録が行われ、農林100号という番号がつきました。これがコシヒカリです。その後、新潟県南魚沼郡塩沢町中子(現南魚沼市中子)で、本格的に栽培されるようになり、味の良さや高価な取引値から、全国的に生産されるようになったのです。「あきたこまち」や「ひとめぼれ」など他の人気のある品種も、このコシヒカリがたくさんの品種と掛け合わされて誕生したものです。
北陸地方の勢力圏のことを、越国と呼びます。それが、7世紀末には、今でもよく知られている越前・越中・越後に分割されるのですが。この農林100号は、福井県・石川県・富山県・新潟県・山形県の一部など「越国」でおもに生産されますので、「木枯らしが吹けば色なき越の国 せめて光れや稲 越光」と開発担当者が「越光」と命名します。今はカタカナが商品名称になっていますが、昔は漢字「越光」でした。
なぜ、こんなに人気があるかというと、お米のアミロース・アミノペクチン・たんぱく質という美味しさのバランスが日本人の味覚にぴったりだったからでしょう。また、コシヒカリは高温の時でも、概観品質が低下せず、浸水などの対抗性なども強く、これらも一番生産されている理由になっています。
このこしひかりの生産地の中でも特においしいと言われているものが、世界屈指とも言われる豪雪地で、山々から流れ込むミネラル豊富な雪解け水がおいしいお米を育んでいると言われているのが、福島、群馬、長野の3県と県境を接し、信濃川、魚野川とその支流の流域である新潟県魚沼地方の「魚沼産コシヒカリ」です。この「魚沼産」は、食味・色・ツヤ・ねばり(お米の美味しさの4大要素)のすべてを、バランスよく高いレベルで持合わせ、食べると非常に美味しい米です。魚沼は、まだ水をはってはいませんでしたが、とても美しい田園風景です。

コシヒカリの名産地として有名な南魚沼は、戦国時代には「越後上田荘」とよばれていました。この地が、今年の大河ドラマ「天地人」の主人公である「直江兼続」「上杉景勝」の生誕地です。

この地から、大河ドラマは始まりました。映画やテレビドラマの舞台として取り上げられる地は、訪れる人が多くなります。特に、NHK大河ドラマや、NHK朝ドラといわれる「連続テレビ小説」は影響が大きいようで、地元からの誘致運動も盛んのようです。今年の主人公の直江兼続を取り上げてほしいという誘致運動でも昭和19年から始まったという年表が張り出してありました。ずいぶんと古くからそれらしき動きがあるのですね。
「天地人」のテレビの最初のほうのテーマは、上杉景勝や直江兼続がまだ喜平次や与六と呼ばれていた少年時代の魚沼での逸話です。その中で特に印象に残っているのは、「雲洞庵」という曹洞宗の古刹で、景勝と兼続が北高全祝や通天存達から学問を学び、高潔な精神を養ったとされる日々です。この庵の北高全祝禅師は、越後の国主上杉謙信や甲斐の国主武田信玄の禅の師として、民百姓の迷惑を思われ両雄に川中島で戦うように図ったり、謙信公に塩を甲斐に送らせるよう指導したといわれています。

投稿者 fujimori : 21:13 | コメント (5)
2009年05月02日 [講演先にて]
五教
長崎からの帰りには、長崎空港を使いますが、この空港は少し不便な所にあります。というのは、長崎市内からは大村湾をはさんでほぼ反対側の大村市にあるからです。先日、帰るときに飛行機に乗るまでに少し時間があったので、いつもは素通る大村市を散策してみました。歩いていると、途中に「五教館御成門」という重文の門がありました。

「五教館」は、大村藩の藩校です。大村藩4代藩主純長公が寛文10年(1670)に大村城郭内に「集義館」を文武の教育のために開設しました。その後、「静寿園」と改められ、寛政2年(1790)9代藩主純鎮は規模を大きくし、学問所を「五教館」、武道場を「治振軒」の2つとしました。この五教館には、藩令により藩士の子弟に限らず,農民や町人の子弟も入学していました。歴代教授の中には著名な学者もいて、同館から多くの人材を輩出しているそうです。その後、現在の場所に移り、現存しているのは、藩主の出入りに使用されていた通称「黒門」と呼ばれている門だけです。
「五教」とは「五倫」の道を教えるという意味です。昨日のブログで書いた「助長」の考え方を示した孟子が唱えた考え方で、「人倫五常」と呼ばれるものです。これは、人との関わりのあり方を示したものです。「五常」とは、「四徳(仁・義・礼・智)」に「信」が足されたもので、「五倫」とは、「親・義・別・序・信」の五つで、大辞林では、孟子の「教似人倫、父子有親、君臣有義、夫婦有別、長幼有序、朋友有信」から、儒教における五つの基本的な人間関係を規律する五つの徳目であると書かれてあります。
まず、「父子有親」は、親子関係を表しています。それを「親」といっていますが、これは、「一つになろうとするしたしみ」であるといわれています。この関係は主に子から親に対しての心構えを言っていますが、最近の子ども虐待のニュースを見聞きするたびに、親子というだけあって、「親」の情を持ってほしいと思います。つぎの「君臣有義」は、君臣間の関係をよく維持するための最も大事な心構えは「義」であると言っています。これは、上杉でも大切にされていたもので、「状況に応じた正しい行動をする」ということです。最近では、なにも君主に対してということではなく、仕事をする上での心構えのような気がします。「夫婦有別」は、夫婦の在り方を言っていますが、この「別」は、当時としてはとても面白い考え方だと思います。それは、「各々の本分・職能を乱さない区別」ということのようで、夫婦は、なにも一心同体ではなく、それぞれの役割を持って、共に生きることであることだと思います。「長幼有序」というのは、よく言われますが、年配者と若者の間の順序をわきまえるということです。それは、なにも年長者が偉いということではなく、年長者は年長者の自覚を持ち、その年輪に対して敬意を払うということでしょう。さいごの「朋友有信」は、友達との関係は、「信」という「偽りのないまことの心」で接するべきであるということです。
この「五倫」は戦国時代に崩れてしまった家族倫理・社会倫理の立て直しを計って孟子がそれ以前の教えに基づいて具体化したものですが、しかし、人との関係性が希薄になってきている今、これをそのまま当時の考えの通りに使うわけにはいきませんが、このような考え方に耳を傾けるべき多くの知恵が含まれています。
投稿者 fujimori : 20:32 | コメント (5)
2009年05月01日 [近頃思うこと]
助長
学校教育法の22条に幼稚園の目的が書かれてあります。
「幼稚園は、義務教育およびその後の教育の基礎を培うものとして、幼児を保育し、幼児の健やかな成長のために適当な環境を与えて、その心身の発達を助長することを目的とする。」
この文章の中には、いくつかのキーワードがあります。まず、幼児教育において「教育の基礎」とは、何なのでしょうか。どこかの区で計画されているような足し算などの計算をさせることや、文字を書かせることなのでしょうか。それは、「その後の教育」であり、そのための基礎ではないと思うのですが。
また、「幼児を保育し」ということもよく考えないといけないことでしょう。日本では、「保育」「教育」という言葉の共通認識がないために、非常に議論がしにくいところがあります。その次にとても大事な「環境」とは何かという点です。この環境はもちろん自然環境だけではないことはわかるのですが、子どもにとって必要な環境とは何か、成長のためにどんな環境を用意すればよいかということになると難しくなります。しかも、「適切な環境」ではなく、「適当な環境」です。
以上の事柄は、保育の中でよく論じられるところですが、「助長する」ということに関してはあまり論じることはありません。しかし、儒教では「助長」ということはひとつのテーマです。
孟子の弟子、公孫丑が、孟子が養っているという「浩然の気」というものについて尋ねたところ、孟子が、「浩然の気とは、日常から義を踏み行い、それが集まることによって自然の中から生じてくるものであり、気を養うために義を踏み行うなどという無理をしてもいけないものだ。」ということの例えとして、次の話をしました。
「宋人有閔其苗之不長而揠之者、芒芒然歸、謂其人曰、今日病矣、豫助苗長矣、其子趨而往視之、苗則揠矣、天下之不助苗長者寡矣、以爲無益而舎之者、不耘苗者也、助之長者揠苗者也、非徒無益、而又害之、」(昔、宋に畑の苗がなかなか成長しないので悩んでいた男がいた。そこで男は苗を一本ずつ引っこ抜いて伸してやった。作業を終えてヘトヘトに疲れ切って家に帰って来て、家族に向かって言った。「今日は疲れてしまったよ。苗が伸びるのを助長してやったんでね。」驚いた彼の息子が急いで畑に行ってみると、苗はすっかり枯れていた。天下には、苗を助長しようとするものが少なくない。また、はじめから気を養うことは無益だとして捨ておき、ただ意志や理性だけを重視する者もいるが、これは苗を植えながら草取りをしないで放っておくもので、苗は十分生長できない。また「気」だけが大事としてこれを助長する者は、苗を助けて伸すのと同じなのだ。少しも益がないばかりか、その物を根本から害ってしまうものだ。」
「助長」すると言うことは、その字のごとく、「助けて生長させる」という意味ですが、急いで大きくしようとし、無理に力を掛けてしまうと、反って害するという戒めの言葉でもあります。特に、幼児教育においては戒めなければならない言葉です。