自尊感情

 なぜ、「自尊感情」が必要なのかということで海外ではこんな報告がされているそうです。自尊感情の高い子は、情緒が安定し、責任感があり、社会的適応能力が高い、成績が良い、他の子どもたちや先生とのトラブルが少ない、社会規範をよく守る、授業態度がよくクラスのまとめ役の行動をとるなどの特徴がみられ、さらに重要なこととして、逆境に強いことがあるそうです。ですから、いじめに屈することも少なく、他人の目を気にしない、失敗に動じない、悪い仲間の誘いを断り、「いやだ」と拒否することができるなどといった報告がされていると「日本の子どもの自尊感情はなぜ低いか」(古荘純一著)に書かれてあります。このタイトルを見ると、日本の子どもは、前にあげた行動をとらない子が多いということになります。
 古荘さんが、本書で紹介しているQOL(Quality of Life)尺度は、もともとは1965年に自己についての価値観評価の程度を自己報告するものとして開発されました。しかし、この中には、子どもの生活に関する質問が少なく、子どもに対して生かすことが難しいところがありました。それをこのQOLという概念を用いて子どもの支援に結び付けようとWHOが開発研究をしました。そのメンバーのうち2人のドイツの研究者が独自で子ども版のQOL尺度を開発しました。この尺度が本書で紹介されていますが、「Kid-KINDL」と名付けられ、非常に簡潔で、子どもの状況を客観的に把握し評価するのに役に立つと、国際的に高く評価されました。これは、「子どもの主観的な心身両面からの健康度・生活全体の満足度」と定義され、年齢と対象ごとに5種類作成されています。
その中に4?7歳児対象の幼児版もあります。幼児に関しては、子ども自身が質問に答えることには限界があり、親に質問しているものが多くあります。8歳以上では、6つの領域で構成されています。身体的健康度(Physical health)、情緒的ウェルビーイング(気持ち)(Emotional well-being)、自尊感情(Self-esteem)、家族との関係(Family)、友達との関係(Friends)、学校生活(School)という領域を見ると、どんな評価が少しわかります。いま、日本でも研究されている子どもの評価では、Sicsという「子どもたちのエピソードから始める自己評価法」というものですが、そこでは、「安心度」(Wellbeing)と「夢中度」(Involvement)から子どもの活動を評定しようとするものです。どちらにも「ウェルビーイング」という言葉がありますが、その観点から子どもを見るのもとても大切です。しかし、実際は、どんなことなのでしょうか。QOLでは、質問に関して、最近1週間の状態として「いつもそうである」「たいていそうである」「ときどきそうである」「ほとんどそうでない」「まったくそうでない」の5段階で子ども自身に答えてもらうものです。たとえば、情緒的ウェルビーイングでは、小中学生に対して、「楽しかったしたくさん笑った」「つまらなく感じた」「孤独のような気がした」「何もないのにこわくなったり、不安に思った」という質問です。この質問を、親にも「私の子どもは」という言葉を最初につけて行われるようです。そこでは、保護者が子どものQOLをどのようにとらえているかを客観的に知ることができるようです。
 古荘さんの本では、これらの領域の中の「自尊感情」について日本の子どもと外国のこどもを比較しています。そこを考えてみます。

自信

 昨日のブログで書いた「自信」とはどういうことでしょうか。「日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか」(古荘純一著 光文社新書)という本に、子どもの精神面の健康度を図るQOL尺度で測られた調査で、日本の子どもたちが「自分に自信」がなく、「自分自身や学校などの満足度」に対し、多くの子どもが「ほとんどない」を選択したことが記されています。
 自信を持つためには、まず自分自身のことを自ら考えることが必要になります。よく自信を持つということは、他人から高い評価を受けることだと思われているところがあります。確かに、それは、うれしいことですし、それによって自信を持ちます。しかし、その評価に自分で納得しなければならないのです。自分自身では、そう思っていないところを褒められても、うれしいと思っても、その次にやる時には、次はそうできるのか、同じような結果が出せるのかという不安を持ちます。ですから、人からの評価は、あくまでも自分を見直すきっかけに過ぎないような気がします。
 今回改定された保育所保育指針の中の「情緒の安定」にねらいに、こう書かれている部分があります。
「一人一人の子どもが、周囲から主体として受け止められ、主体として育ち、自分を肯定
する気持ちが育まれていくようにする」
 自信を持つということは、自分を肯定的にとらえることです。そのために、「情緒の安定」の内容には、こう書かれてあります。
「保育士等との信頼関係を基盤に、一人一人の子どもが主体的に活動し、自発性や探索意
欲などを高めるとともに、自分への自信を持つことができるよう成長の過程を見守り、適
切に働きかける」
 ここには、自信を持つようになるためには、主体的に活動することが必要で、自発性や意欲が必要になってくると書かれてあります。ですから、人から褒められることが、次の行動に対して、自発的になったり、意欲を持ったりするようにならないと自信につながらないのです。
 古荘さんは、本の中で、最近の学力低下や少年犯罪、いじめ、生活習慣の乱れなどの子どもの変化に対して、小児精神神経学の観点から見ると、「子どもの指導を強化すべきという意見に世論が流されている」ことを危惧しています。「指導という大人からの強制ではなく、子どもの存在をまずはあるがままに認め、そして子どもを守り育む姿勢が重要」だと思っているそうです。私が提案する「見守る保育の三省」と同じ考え方ですね。
 古荘さんは、このような状況の中の子どもたちを「自尊感情」という観点からいろいろと調査をしています。この「自尊感情」は、必ずしも高ければよいということだけではないことを踏まえて考えています。彼のいう「自尊感情」とは、外見、性格、特技、長所短所、自分の持っている病気やハンデキャップなどすべての要素を包括した意味での「自分」を、自分自身で考えるという意味であると定義しています。ですから、これが肯定的な面になると、「自信、積極的、有能感、できるという気持ちや幸せな気持ち、自分を大切に思う気持ち」などととらえ、否定的な面としては、「劣等感、消極的、無力感、できないという気持ち、不幸でつまらないと思う気持ち、自分をみじめに思う気持ち」などと表現できるとしています。この自尊感情について、もう少し、明後日から訪れるドイツと比較しながら考えてみたいと思います。

移行2

 OECD加盟20カ国で乳幼児期政策に影響する社会、経済、考え方や研究の諸要因を叙述した「乳幼児期の教育と養護」(ECEC)での成功例は、私が考えていたことと同じ内容であることは、私が今迄経験したことと関係があるようです。
 特に小学校への移行では、「学校準備」方法ではなく、社会教育伝統を内在する国々背実践されているような、就園年齢は人生に対する幅広い準備と生涯学習の基礎段階とみなした取り組みを推奨しています。私は、振り返ってみると、大学では建築を学びました。それは、人の生活に与える空間の持つ力を感じたからでした。そして、特に環境としての空間が与える影響が大きく、しかし、あまり変えようとしていない学校建築に興味を持ちました。そこで、そのテーマを卒業論文にしたのです。空の上からの飛行機から下を眺めると、点々とある、すぐにわかるような空間が学校です。そこで、子どもに与える影響が大きい環境としての建物を考えたのです。
 しかし、実際に使うのは子どもであり、教師です。その利用者としてはどのような空間が必要なのだろうかということを知るために、今度は小学校教師になりました。幸いというか、偶然に1年生の担任になり、その後も低学年を中心に担任をやるうちに、どのようにして小学校に送り出してくれると小学校ではやりやすいかということを肌で知ることになります。しかし、同時に教師としての限界を感じ始めます。それが、学校での担任王国とかクラス王国と言われるような学習形態、また、低学年では、学びは連続的であるにもかかわらず、時間系列に組まれた時間割、カリキュラム、その中で、社会教育に関心を持ち始めます。そのころ、第1期と言われた校内暴力が代表するような学校での「荒れ」が問題になり、その荒れた中学生の面倒を見るにつれて、やはり地域という環境に関心を持ちます。そこで、ブログで書いたような子ども会を作り、社会教育に取り組みます。
 そんな経緯の中から、今回のECECで提案されている「学校準備」方式ではなく、「社会教育」を基盤にした考え方の幼児教育は、まさに私が求めてきたことだったのです。そのおもな目的は、「子どもたちすべては、あらかじめ特定された知識や習熟度を達成することよりもむしろ、学習に対する意欲と好奇心、学習における自信を高めていくべきである」ということになるのです。
 日本では、OECDの学力調査では次第に下降傾向を呈しています。そのために、国では「ゆとり教育」を見直し、「総合的学習」が縮小されました。しかし、低下の傾向は、かなり前から予兆がありました。先の主目的である「学習に対する意欲」が調査国中、最低でした。また、「自信」がないのも日本の子どもたちの傾向であると言われています。それに比べて、特定された知識を多く持ち、物事の習熟度はかなり高いでしょう。また、それが今の日本での主目的になっています。
 また、学習形態も、ECECで推奨されている方法は、学習は大人によって指導されるだけでなく、子ども同士、グループプロジェクト、能動的な教育方法です。しかし、この方法は、教育者が必ずしも子どもたちの遊びにかかわっていないのではないか、子どもの現在の発達に適合する重要な学習経験をさせていないのではないか、という批判を受けました。しかし、その批判は、一時期に当てはまっていたかもしれませんが、実際には、少しずつの修正を加え、継続的に改善されてきています。その取り組み例として、イタリアのレジョエミリア市によるプロジェクトに触発されているところが多いとしています。
 どこまで日本は遅れているのでしょうか。

移行

 以前のブログで、品川区で行われる幼少連携で、幼児期から足し算などを教えるという取り組みについての考え方を書きましたが、幼児教育から小学校教育への移行については、世界でも課題のようです。OECD加盟20カ国の乳幼児期の教育と養護(ECEC)という書籍の中では、乳幼児期政策に影響する社会、経済、考え方や研究の諸要因が記述されています。(園の副園長である中山さんの訳)
2006年に出された「スターティング・ストロング?」では、2001年に出された「スターティング・ストロング」で概説されたECECの成功政策の主要な側面に対する参加各国による対応進展状況が概観されています。そして、結論として執筆者たちによって各国政府が今後重点的に注意を払っていくための政策領域が10項目にまとめられています。その3章が「学校教育との強力かつ平等な連携」です。
 ここでは、乳幼児教育及び小学校システムの両者において、より統一された学習方法が採用されるべきであり、就学児童が直面する移行課題に注目すべきであると提案しています。その中で、大きく二つの異なった政策選択をもたらしていることを紹介しています。
 フランスや英語圏では「学校準備」方式を採用しています。この方法は、乳幼児年齢での認知発達訓練と、広範囲な知識・技術・気質の獲得に焦点を当てています。しかし、この方法に内在する欠点は、児童の心理と自然学習方策にあまりにふさわしくないプログラムを使っていることとしています。一方、社会教育が伝統的に考えられてきた国々である北部・中部ヨーロッパ諸国では、就園年齢は人生に対する幅広い準備と生涯学習の基礎段階とみなされています。
このように、二通りの考え方がありますが、現在、どの国でも子どもの移行をどうしたらスムーズに行うことができるのか、就学前教育の在り方を考えることは政策課題となっているようです。それは、その移行は、一般的に成長発達への刺激となりますが、なにもせずに突然小学校教育にあげたり、あまり深くがんが絵図に安易に扱われたりすると、とくに児童にとっては退行や失敗の危険性を帯びることになると警告しています。
パート?の中で、就学への移行での成功例が示されています。それは、社会教育の伝統を継承している国々での取り組みです。そこには、養護、陶冶、教育を結合させた子どもの教育方法である「ペタゴジー」という概念のようです。そして、乳幼児施設の学校化ではなく、むしろ、乳幼児教育の方法を小学校低学年まで広げるべきであるという強い信念が必要であると提案しています。
この「ペタゴジー」という概念は、毎年訪れているドイツの19世紀にその起源をもつ社会教育での理論、実践のようです。社会教育は、本質的に総合的なものであり、その時の教育者は子どもの全存在、すなわち身体、心情、情緒、創造性、歴史、社会的アイデンティティに働きかけようと試みるものです。
 私が、以前ドイツのフランクフルトの教育委員会の人の話を聞いた時に、ドイツでは、乳幼児教育は、「教育」と「陶冶」と「養護」を結合させたものだという話を聞きました。その時に、ブログで「陶冶」について書いた覚えがありますが、日本ではこの言葉は最近聞きませんね。それは、人格形成という概念に含まれるものとしたからです。
 もう少し、小学校教育への移行についてわかりやすく解説してみようと思います。

流言

 毎年恒例のドイツミュンヘンへの研修旅行へ来週の月曜日に出発します。毎年ながら、ハラハラするのは、ドイツのホテルでのインターネット環境です。最近、日本では基本的には、いわゆるビジネスホテルと言われるところは、部屋にランが引かれていて、ストレスなしにパソコンをすることができます。また、最近増えたのは、パソコンの貸し出しをするホテルです。ですから、手ぶらでも、部屋からネットを行うことができるのです。
 もし、ホテルがそのような環境でないときや、バスや新幹線などで移動中では、今までは、PHSのカードの使い放題を契約していたので、それを使っていました。しかし、その難点は、PHSが入らないような山間とか、宿では困りました。しかし、最近は、auでカード式携帯電話でも使い放題の料金システムができたので、そのカードを使えば、携帯電話が入るところでは、どこでもネットができるようになりました。しかし、海外では、携帯電話には使えるものがあるのですが、カード式で使えるものがありません。それなのに、工業先進国と言われるドイツでさえ、使えるようになっていないホテルが多いので困ります。あっても、かなり費用が高く、昨年はつい日本のように使い放題の感覚で使い、チェックアウトの時の請求金額を見てびっくりしました。
そんな事情ですから、今から予告をしておきます。ドイツには来週の月曜日から再来週の日曜日までドイツに行っていますので、もしブログがアップされなくても、体調が悪いわけではなく、何か異変が起きたわけではなく、ドイツからネットが繋がらないということですから、ご心配は要りません。もし、アップできなくてもドイツでも毎日書いていますので、帰ってきてからまとめてアップします。
 そんなわけで、せっかくのドイツ行きですから、ドイツからはドイツ事情を報告します。また、それまでも、海外事情を、少しずつブログで報告します。ただ、それはドイツがいいとか、世界のほうがいいとかいうわけではなく、日本では私たちはどうすればよいか、日本独特な文化をどのように伝承していけばよいかを探るためです。また、日本では当たり前だと思っていることが、世界から見ると非常に特殊なものであることなどに気がつくためです。
 今回の新型インフルエンザの対する国民の反応にしてもそうです。昨日のテレビでも、売り切れのマスクを求めて、路上で販売するバイヤーから千円で買う人の姿が映っていました。ヨーロッパではマスクは自分が感染症の病気で他に感染させないためにするもので、予防のためのマスクの習慣はないといいます。先日のテレビでも、人にうつさないためにはマスクはかなり有効であるのに対して、うつらないためにはたいして効果がないことが放映されていました。新聞にも、対策についての各国の対応が票になっていました。マスクについて、感染者の着用についてEUでは、効果ありそう。しかし、着用した感染者が出歩けば感染を広げる。非感染者には効果不明。米国では、非感染者には着用は推奨されないとしています。感染者にはノーコメントです。WHOでは、感染者は着用すべきであるが、非感染者は不要としています。手洗いは、どこでも励行しています。うがいは、EUだけが効果がありそうとしています。集会についてもEUでは、効果は不明とし、逆に中止にすることで社会・経済負担甚大としています。逆に米国では集会の機会を利用して保健当局は感染について周知できるとしています。渡航制限についても、EUでは、効果最少であり、逆に社会・経済負担甚大であるとしています。WHOでも、不要とし、症状ある本人が旅行を慎むとしています。
 日本は、流言飛語には弱いですね。

逸話

 歴史上の人物は、「誰が見たんか?」ではありませんが、いろいろな逸話が残されていますが、それが真実かよくわかりません。また、いろいろな物語として伝記や書物で大方の生涯はわかりますが、その本が誰を主人公にしているかによって、いい人か悪者か評価が分かれてしまいます。
 最近映画化された「三国志」でも、私は吉川英治の小説や横山光輝の漫画で知ったので、どうしても劉備玄徳をひいきしてしまいます。また、映画レッドクリフを見ると、周瑜と諸葛亮(孔明)との友情が描かれ、周瑜が格好よく描かれているので、好きになってしまいます。今までだったら、周瑜は、孔明を恐れ、何度か殺そうとし、その作戦の一つが10万本の矢を集めてくる有名なエピソードです。「三国志演義」によると実は周瑜の孔明を殺そうという計画に対して、孔明がひねり出した秘策でしたが、映画「レッドクリフ」では二人の信頼関係を描く要素として描かれています。
 最近、NHK大河ドラマ「天地人」を見ていると、ずいぶんと評価が変わってくる人物に、死後徳川幕府によって悪評を流され、極悪人にされてしまった石田三成がいます。テレビでは、その役を若者に人気がある小栗旬が演じていることもあって、ずいぶんとカッコよく描かれています。しかし、もともと彼は様々な逸話が残り、素晴らしい人物であったことが伝えられています。
 石田三成は、羽柴秀吉が織田信長に仕えて近江長浜城主となった頃から秀吉の小姓として仕えています。有名な逸話の一つが、彼を召抱えるときの逸話「三杯の茶(三献茶)」です。
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ある日、秀吉が近江長浜城主だった頃、鷹狩の途中で領地の観音寺に立ち寄ったときのことです。茶を所望した汗だくの秀吉を見た寺の小姓の三成が、大きな茶碗にぬるいお茶をたっぷり入れて持ってきました。鷹狩でのどが渇ききっていたので、秀吉は一気に飲みきりました。飲み干した秀吉がさらに2杯目を所望すると、三成は2杯目の茶碗は前に比べると小さめで、湯はやや熱めで量は半分くらいでした。それも飲み干し、もう一服を命じました。すると、三成は、今度は熱いお茶を高価な小茶碗で持ってきました。最初から熱いお茶を出すと一気に飲もうとして火傷するので、三成はぬるいものから出したのです。この気配りを秀吉はいたく感心し、三成を長浜城に連れて帰り、召し抱えたと言われています。この逸話は気配りの進めとして、広く語られています。
 また、三成は、「大一大万大吉」、もしくは「大吉大一大万」と記された紋を用いました。「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば、世に幸福(吉)が訪れる」という意味とされています。そんな三成が最後を迎える時に逸話「三成と柿」が、三献茶のエピソードと並んで、三成の逸話として有名です。
 斬首される前に市中を引き回された際、三成は「水が飲みたい」と言いました。周りの衛兵は「水はない。柿ならあるぞ。食え」と近くの木から柿をとって三成に与えましたが、三成は、「柿は痰の毒であるのでいらない」と答えました。警護の者は「すぐに首を切られるものが、毒断ちして何になる。」と嘲笑すると、三成は「大志を持つものは、最期の時まで命を惜しむものだ。」と泰然としていたといいます。
 三成は、残っている逸話が多い人物です。

音楽教育

 幼稚園や保育園や学校での教育を考える時に、どうしてそれが必要なのだろうかと考えることがあります。その目的が「生きる力」の習得であるとするならば、いわゆる基礎学力と言われる「国語」「算数」「社会」「理科」「英語」などはまあまあわかるのですが、「音楽」や「図工」は、どうでしょうか。たとえば、図工では物を作ったり、創造したりするときに必要であると言われれば、まあ、そういうことが必要な職業もあるだろうと思いますが、音楽はどうでしょうか。昨日のブログではありませんが、教会で賛美歌を歌うというような具体的な目的ならわかるのですが、日本ではどうでしょうか。日常的に歌うことはあったのでしょうか。明治維新以降の教育の目的は、かなり時代を反映します。時代がどんな人材を必要とするかということに関係するからです。
 戦後の教育改革で、2つの試案がアメリカのコース・オブ・スタディの考え方をモデルに作成されました。1947年の「試案」の中で、音楽編は「芸術としての音楽」観を示しました。そこで、音楽教育の6つの目標が示されています。「音楽美の理解・感得を行ない、これによって高い美的情操と豊かな人間性を養う」「音楽に関する知識および技術を習得させる」「音楽における想像力を養う(旋律や曲を作ること)」「音楽における表現力を養う(歌うことと楽器を弾くこと)」「楽譜を読む力および書く力を養う」「音楽における鑑賞力を養う」というものです。この考え方は、音楽を音の運動としてとらえ、その特性を技術として認識し、さらに音楽美として教育内容に位置づけたことは、戦前の「軍国教育の手段としての音楽教育」と明らかに異なる方向を示しました。そして、4つの学習領域として、歌唱、器楽、鑑賞、創作それぞれに「指導目標」「児童生徒の生理的心理的発達段階、教材選択の基準」などが記述されました。
 それが、1951年の「試案」となると変わってきます。このころは、朝鮮戦争が勃発します。そこで、アメリカの意向で道徳教育の必要性が提唱され、音楽教育の目標も強く影響を受けます。前回の「音楽美の理解感得」は消え「円満な人格」「好ましい社会人」などの文言に変わります。ある意味では、すべての子どもにとって、日常に意味あるものとして位置付けられてきます。それを受けて、戦後という連合軍の占領下での教育ということから離れて、最初の「学習指導要領」が1958年に告示化され、そこで教育課程の国家基準を示し、法的拘束力をもつものとなります。その内容は、鑑賞、歌唱、器楽、創作の4領域に分けられ、歌唱と鑑賞に共通教材が設定されます。
それが、1968年の改訂では、新たに「音楽的感覚の発達を図るとともに、聴取、読譜、記譜の能力を育て、楽譜についての理解を深める」という目的で「基礎」が加えられます。しかし、1978年の改訂では、「基礎」の重要性を意識しすぎて統合的な指導を離れたとの反省から、基礎的・基本的内容の精選を行い、従来の5領域を「表現」と「鑑賞」の2つに整理し、「音楽を愛好する心情の育成」をいっそう重視します。そして、1989年の改訂では、基本方針として、「心豊かな人間の育成」「基礎・基本の重視と個性教育の推進」「自己教育力の育成」「文化と伝統の尊重と国際理解の推進」と定められ、具体的には即興表現などの創造的な自己表現活動等と、国際理解の観点から日本を含めた世界の多様な音楽に親しむことが重視されました。1999年の改訂では、「音楽を愛好する心情」と「音楽に対する感性」「音楽活動の基礎的な能力を培い,豊かな情操を養う」となります。「心情」という言葉は、保育所保育指針の中にも表れている言葉です。この目標は、今回の改定でも引き継がれています。

西洋音楽

西洋音楽が日本にもたらされてから、西洋楽器の演奏も盛んになり、子どもたちも様々な楽器を習うことが盛んになりました。その代表的なものにピアノがあります。最近はあまり聞かなくなりましたが、一時期はピアノ教室がたくさんありました。また、しかし、私の園では、ギターを弾く職員が多くなりましたが、かつては保育園や幼稚園の先生になるためには、ピアノが必修でした。
ピアノを習うときには、まず指の練習をします。その時に必ず使われていた楽譜が「バイエル」と言われる教則本です。しかし、昨日の朝日新聞に「ピアノ入門バイエル離れ」という記事が掲載されていました。ある書店の話では、現在は、バイエルのシェアは教材全体の約15%だそうです。この教材を出版している全音楽譜出版社によると、最盛期には年間40万冊売れているのが、現在ではその10分の1、音楽之友社でも5分の1に激減しているそうです。
「バイエル」は、フェルディナント・バイエルというドイツ人作曲家が書いたもので、ベートーベンと同時代の人で、彼の弟子にはツェルニーがいるそうです。このツェルニーも、教材によく使われていました。バイエルやツェルニーは、欧州では、ほとんど使われなくなていた教材が、なぜ日本で教材としてポピュラーになったかということが新聞に書かれています。
音楽取調掛(のちの東京芸大)が1880年にメーソンという人物をアメリカから招きます。それは、担当官がたまたま留学先がアメリカだったからです。メーソンは、唱歌から弦楽器まで音楽を幅広く日本で教えますが、その時にピアノと一緒に日本の洋学教育のためといって持ち込んだのがバイエルだそうです。そのころ、手探りでクラシックを追い求めていた日本人にとって他には指針がなかったということもあって、高度成長期にピアノが一般家庭に広がったと同時にバイエルが教材として一般化したのです。
しかし、1970年代に他の教材が欧米から入ってくるようになると、バイエル信奉に会議の目が向くようになります。バイエルは、あまりにも指の技術的な訓練に比重が置かれすぎていること、ハ長調ばかりで他の調への対応が遅れる、ドイツ古典派の狭い様式しか学べないなどという理由です。それでも、まだまだバイエルにこだわっている人もいるようですが、「今や選択肢の一つにすぎなくなった」と記事では結んでいます。
私もピアノを習ったことがありますが、どのくらい弾けるかという目安に「バイエル何番です」という言い方をしていましたし、教員の資格をとるときにも、1年生はオルガンを弾いて音楽を教えないといけませんでしたから、バイエル100番くらいまで弾けることというのがありました。しかし、途中でやはりただ指の訓練だけではつまらなくなります。その時に使った教材は、「ブリュグミュラー25の練習曲」です。この教材の当時、ほとんどの人が使っていたと思います。その教材は、1曲ごとにきちんとタイトルがつけられていて、なんだか名曲が弾けるようになった気分がしました。そして、その曲が耳について、このレコードを買ったほどです。私がよく覚えているのは、最初に載っている曲、「素直な心」で、その次の「アラベスク」は今でも耳についています。和音から始まる「狩猟」や最後の曲「貴婦人の乗馬」も懐かしいですね。
私は、その程度しか弾けませんが、そのあと「ソナチネ」「チェルニー30番」「ソナタ」など、誰もが練習した教材です。

西洋文化

 大分にザビエルがもたらした文化の中で、いくつか子どもに関することがあります。昨日のブログで紹介した日本での「西洋外科手術発祥」である病院を開院したアルメイダは、そのほかにも素晴らしい事業を残しています。それは、遊歩公園の途中にある「育児院と牛乳の記念碑」に書かれてあります。その記念碑の横には、こんな趣旨の説明が書かれてありました。
「日本最初の洋式病院を建てたポルトガルの青年医師アルメイダが、ここ府内(大分市)に来た当時の日本は戦乱が続き、国民の中には貧窮の余り嬰児を殺す風習があった。これを知ったアルメイダは自費で育児院を建て、これらの嬰児を収容し乳母と牝牛を置いて牛乳で育てた。これは、近世における福祉事業の先駆である」
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 ルイス・デ・アルメイダは、当時の日本で貧しさゆえに広く行われていた赤子殺しや間引きの現実にショックを受けます。そこで、まず、豊後府内で一軒の家を入手します。そして、乳母を雇い、牛を飼い、牛乳で赤ん坊を育てようとしたと伝えられています。ですから、そこにある碑には、「牛乳の記念碑」とも書かれてあるのですが、「牛乳の碑」は、静岡県の下田にもあります。江戸末期、アメリカ領事のハリスが、日本で「牛乳を飲みたい!」と言ったところ、それまで日本では牛の乳を飲むなどという「奇習」は無かったので断ったら、どうしてもというので、奉行所は止む無く和牛の乳を搾って提供したという記録が残っているそうです。もし、そうであれば、大分での乳児院で牛乳を飲ませたほうが随分と古いことになるのでしょう。その後、アルメイダは、天草の河内浦で没しますが、商人から無償奉仕の医師へと転身し、病人と乳児に尽くした波乱の生涯で、天草にも碑があるそうです。今でも、大分市医師会の事業の1つとして昭和44年4月1日に大分市内に「アルメイダ病院」という名の病院が建てられています。
 また、こんな碑もあります。「西洋音楽発祥の地像」というものです。ザビエルがキリスト教の布教をしたとなると、当然賛美歌は歌うはずです。それが、西洋音楽に初めて触れることになったということは容易に想像できます。しかも、聖歌隊も結成されたようです。その碑には、こんな説明が書かれてあります。「1557年(弘治3年)の聖週間には二つの聖歌隊ができ、オルガンの伴奏で賛美歌が合唱されたと当時の文献は報じている。また、外人神父からビオラを学んだ少年達は1562年(永禄5年)7月、領主大友宗麟の前でこれを演奏し大いに賞賛を博した」そうです。この碑の横にある像は、子どもたちが一生懸命に大きな口をあけて、牧師が弾くビオラに合わせて歌を歌っている姿で、とてもほほえましいものです。
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 音楽だけでなく、当然教会に関係する西洋の演劇や美術も伝えられたでしょう。そんなことで「西洋劇発祥記念碑」が建てられています。碑によると、クリスマスに、府内のキリスト教会では信者の手によって、「アダムの堕落と贖罪の希望」「ソロモンの裁判を願った二人の婦人」等々の西洋劇が演じられたのが日本における洋劇の最初だそうです。以来、府内教会ではクリスマスや復活祭に、聖書に基づく数々の宗教劇が演じられるならわしになったということです。
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 このような生活に密着した西洋の文化が広まっていったきっかけを作ったザビエルは日本人を、「今まで出会った異教徒の中でもっとも優れた国民」であると賞し。特に名誉心、貧困を恥としないことをほめています。
 江戸時代までに日本を訪れた外国人の日本への評価は、かなり高いものがありますね。

ザビエル

 私は、最近地方に講演に行くことが多いのですが、その目的以外に何か地方にもたらしているかということを思うことがあります。現代は、テレビやネットなどで情報が世界中に瞬時に伝わりますので、人がその地を訪れて情報や文化を伝えるということは少ないでしょう。しかし、講演などをよく頼まれるというのは、やはり人が人にじかに会って、生の声で伝える効果があるのでしょう。とは言っても、講演内容以外ではなかなか伝えるものが少なく、それよりも地方から学ぶことがたくさんあり、とてもありがたく思います。
 情報がなかなか伝わらなかった昔は、いろいろな方法で情報や文化が伝わっていました。大きな役割をもっていたのは、やはり商人でしょう。産物や商品のやり取りと同時に文化も交流していたでしょう。また、ブログでも取り上げた参勤交代も大きな役割をしていたようです。
 では、世界との文化交流はどうしていたでしょう。それは、やはり商人が大きな役割をはたしていました。また、冒険家も、たまたま漂着した船からも文化が伝わりました。鉄砲伝来などはそうでした。それと同時期にキリスト教が日本に伝わりますが、布教活動によっても、その宗教を広めるだけでなく、さまざまな文化を伝えることになりました。
 その中で、大きな足跡を残した人に「フランシスコ・ザビエル」がいます。彼は、マラッカで日本人ヤジローと出会い,日本に行くことを決意します。仏教にしても、宗教の力はすごいですね。どんなこんながあろうとも、信念を貫こうとする人が多く、そのおかげで、いろいろな文化が生まれています。
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ザビエルというと、歴史で習った「以後よく見かけるクリスチャン」と覚えた1549年に鹿児島に到着し,布教活動を許されたのが「日本へのキリスト教伝来」です。この後,平戸・博多を経て京都まで行き、天皇や将軍に会おうとしますが、会見は許されず、やむなく山口を経由して大分に入ります。このルートには、様々なザビエルの足跡が残されています。今回、大分を訪れた際、いただいた「ザビエル」というお菓子の名前からも、大分にも来たことを知ることができます。
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ザビエルの大分滞在は短期間だったようですが,これをきっかけに,この地には宣教師がしばしば訪れることになり,キリスト教伝導活動の拠点のひとつとなっただけでなく、さまざまなものがもたらされ、日本発祥の地となったものがたくさん残されています。大分市には府内城跡から南の方に、長く伸びた遊歩公園があり、ここには発祥の地を記念した多数の記念像や記念碑があります。
リスボンで生まれたルイス・デ・アルメイダは,貿易商として巨大な財産を築きました。しかし、航海中にフランシスコ・ザビエルの弟子である修道士のグループと出会い、一緒に日本に上陸した彼は民衆の困窮を目撃し,彼等を救済するためにイエズス会士となります。たまたま外科医師の免許を持っていたアルメイダは、ザビエルが大分に滞在していた6年後の1557年、私財を投じて大分に病院を設立します。病院は,一般疾病患者のためのものとハンセン病患者のためのものを別個に建てて治療にあたり、内科はもとより、日本最初の洋式外科手術が盛んに行われました。この病院には、外来のほか入院の設備もあって、開院5年後には入院患者が百人を超えていたようです。また、病院に来ることのできない患者のためには、巡回診療も行われていたそうです。この病院に日本最初の医学校が併設され、若き日本人学生が西洋医学を学びました。この公園には、まさにアルメイダが、日本人助手とともに外科手術をはじめようとしている像が建っています。
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