幼児期に、子どもたちの個性を伸ばすことが、子どもたちを無秩序にさせている原因の一つと考えている人がいるとしたら、そこには、勘違いが二つあります。一つは子どもを放任している姿を見て「個性を重視している」と思ってしまうことと、乳幼児施設や保護者が、子どもの思いのままに行動させることを「個性を重視している」と思っているということです。
個性とは、その名の通り「個人的な特性」のことを指します。人には様々な個人差があります。その個人差には、大きく二通りあるような気がします。一つは、発達のスピードが個々によって違う場合です。たとえば、いつ歩けるようになるか、いつおむつが取れるようになるかなどです。しかし、この個人差は、広い意味では、個性を形成するうえで、影響を及ぼすことはありますが、直接、個性にはなっていきません。それは、質の個人差ではないからです。それに対して、「絵が得意」とか、「何かを作るのが得意」とかいうものは、それぞれの質の個人差ですので、個性になっていきます。
この二つの個人差は、それを援助し、尊重されなければなりません。それは、子どもの発達を助長することが大人の役目であり、一方、各自の特性を生かすことが社会を形成するうえで、大切だからです。
私は、今、小学館の「3,4,5の保育」という雑誌の中で、映画評論を隔月で書いています。今度取り上げる作品は、「ぼくが天使になった日」です。この映画では、アメリカで行われている「スペリング大会」が重要な意味を持ちます。主人公が、全米スペリング大会に出場するからです。この映画の説明で、このように書いています。
「この映画が始まると、出演者名がスクリーンに現れると同時に、子どもの声で、単語の説明が始まります。
はみだし者:仲間に入れず、無視される人。みんなと違う人。
特別:すぐれていること。普通や平凡でないこと。
反逆:権力や世の流れに対して逆らって行動すること。
天才:すばらしい才能を持っている人
こんな言葉が続きます。これらの単語のイメージはまったく逆ですが、不思議と意味は近いものがあります。この映画の主人公の10歳の男の子は、はじめはみんなからの評価は「はみだし者」だったのが、次第に「特別な人」になっていき、「反逆児」だったのが、「天才児」になっていくのです。本人は何も変わっていかないのに評価が変わっていくのです。」
このほかに、この映画では単語の説明が並びます。
異質:同じでないこと。他と違うこと。
ユニーク;たったひとつなこと。同じもの、並ぶものがないこと。
フリーク:普通でないもの。珍しい異形の見本として見世物などに展示される風変わりな人や動物などのこと。または、傑出した有機の持ち主。
この言葉などは、使い方のよっては、まったく逆の意味になってしまうような言葉ですね。本の中の私の文章は、次の言葉で締めくくっています。
「男女にしても、年齢にしても、子ども像にしても私たちはずいぶん思い込まされているものが多くあります。子どもたち一人一人が、本当の自分を見つけていけるようなお手伝いをしていけたらと思っています。」それが個性尊重です。
四国が生んだ維新の英雄坂本竜馬は、脱藩の後、倒幕運動で優れた才覚を発揮し、薩長同盟や大政奉還の難事業を完成させた天才です。「はみだし者」→「特別」→「反逆」→「天才」と評価を変えさせた典型ですね。歴史に名を残した人物はみな同じ道をたどっています。そう言えば、ちょっと前の日本の総理大臣にも「変人」と呼ばれながら、抵抗勢力への戦いを叫んで、選挙で天才的な能力を発揮した人物がいましたね(笑)。かく言う私も、この業界ではたぶん変人扱いされているかも。商売そっちのけで、藤森先生のおっかけをしているんですから(笑)。「3・4・5の保育」は、ライバル誌ですが、せいがの森保育園も特集されているようなので、今から本屋さんに買いに行ってきます(笑)。
子どもの個性(=個人的な特性)を形作る二つの個人差。一つは発達のスピード、もう一つは質の個人差とまとめておられました。一つ目の発達の段階や速度については、幼児教育界において、よく理解されていると思います。しかし、質の個人差としての「個性」は学ぶ機会も少なく、質の個人差を的確に捉えることができる先生も少ないと感じています。もし、我々が個性について学べは、質の個人差を指し示す語彙が増えてきます。そうすれば、質の個人差の理解を先生同士で共有することもできます。発達にスケールがある様に、個性にもスケールがあるはずです。私はこれからも「こどもとこせい」の研究を続けていきたいと思います。
「個性」は統率された集団を構成する「人」の対義語的に理解把握されがちです。そして「個性」は「芸術家」ベクトルの象徴語として時に「個性」の特化が「社会不適応」「特別」「天才」とされます。日本語表現ではとても難しい字義を有するのがこの「個性」という2字熟語でしょう。この語の使用については慎重さが要請されます。それに比して同じ「個」を用いながらも「個人」となると語感として特殊性は薄れ、さらに今日のブログで表現されていた「個人差」となると「あなた」と「わたし」、「彼」「彼女」がまさに個別具体的なそれとしてイメージされます。それゆえ、「個人差を大切に」のほうが「個性の重視」よりも、より具体的です。「本当の自分」こそが「個性」であり死ぬまでの課題なのに「個性を伸ばすことが、子どもたちを無秩序にさせている」という見解はあまりに幼稚過ぎるというか、冗談でしょう、と思えてきます。
「子どもたち一人一人が、本当の自分を見つけていけるようなお手伝い」本当にそうですね。そのお手伝いをするために何を考えなければいけないか、これは大きな課題です。本当の自分を見つけ、個性を生かし社会に貢献する力をつけていくための道は、決して一本道ではないと思っています。小さな大人にしつけていくようなものではないはずです。子どもたちが進んでいく道を堂々と選択し続けていける、その基礎づくりのお手伝いをしていきたいと思います。
個性を伸ばすことの勘違いが、実は私も勘違いしていたかもしれません。個性を伸ばすために、子どもを思いのままに行動させる事は、実は個性を伸ばす事ではないのですね。しっかりと子どもそれぞれの「特性」を見抜き、それに応じた援助をしてあげることが「個性を重視」することなんですね。そして映画での特別、反逆、天才、異質などの単語を聞いた瞬間に「反逆」「異質」の二つはとてもマイナスなイメージで捉えてしまいがちですが、冷静になって単語の意味を考えると決して、そうではないのですね。私自身、まだまだ間違った思い込みをしていることが多くあると思いますし、子どもが本当の自分を見つけ出せるようなお手伝いをしていきたいです。