この絵は、謙堂文庫所蔵の「文学万代の宝」というものですが、沖田行司さんの書いた「日本人を作った教育」(大巧社)の扉に取り上げられています。その裏には、こんな説明が書かれています。
「近世の寺子屋を描いた浮世絵のほとんどが、このように一見して“学級崩壊”を思わせるような状況を描いている。むしろこうした状態が一般的であったのだろう。そこには、本来子どもは無邪気で生き生きとした存在であるという児童観が投影されている。子どもを小さな大人と見る視点が導入されるのは、子どもの世界に大人の秩序観が適応されてくる近代に入ってからのことである。このように、無秩序にみえても、一定の範囲と限界を越えたときには厳しい罰則が用意されていた。」
この「一定の範囲と限界」というのはどういうところなのでしょうか。ある意味では、人を許容する範囲でしょうが、これは子どもに対してだけではなく、他人に対して最近狭くなっている気がします。上杉謙信の家訓16カ条というのがありますが、その中の16番目は、「心に迷いなき時は人を咎めず」とあるように、人を咎めるときは心に迷いのある時で、すなわち、最近人に対して許容範囲が狭くなってきているということは、心に迷いが多い人が増えているということでしょうか。また、子どもをやたらと怒りつける人は、心に迷いの多い人なのでしょうか。
このような許容の心を持つ指導は落ちこぼれをなくし、学ぶ意欲を増していたと考えられます。そのような教育法は、何も理論的に構築されたり、マニュアルとして伝わってきたのではなく、実践から生み出されたものでしょう。そして、当時の子ども観が影響していると思います。この日本における子ども観が、私は今の時代に必要なことであり、世界でも先駆的な考え方のような気がします。それを前出の本にこう書いてありました。
「“子どもは未熟な大人”という欧米社会に根強くみられる児童観とは異なり、ある一定の年齢に達するまで、なるべく人間の手をくわえないで、子どもを自然の状態においてその成長を見守るという児童観が日本にはあった。今も各地に子どもを中心とするお祭りが多く残っているが、それは子どもが大人に比べて神に近い存在と考えられていたからである。」
だからといって、子どもは何をしてもいいというわけではなく、「一定の限界」がありました。寺子屋においても教育指導としての「罰」が用意されていたようです。この本にはどんな時に「罰」が与えられていたかが書かれてあります。
「不品行にして他人に妨害を加うる者」「怠惰にして学業未熟なるもの」「喧嘩争論するもの」「他人を欺き若くは盗するもの」とあります。「怠惰…」という項目以外は、基本的に他人に危害を及ぼす時で、いわゆる共生する社会人になるためのルールであり、自分だけが行儀が悪かろうが、あくびをしようが、姿勢が悪かろうが、そんなことは気にはならなかったようです。
また、罰するときにも、武士の子どもの教育では体罰は好ましくないものとされていたようです。誇りを重んじる武士社会にあって、その存在を否定するような体罰は、むしろ武士の誇りを傷つけるものと考えられていたからです。子どもといえども、一人の人間としての尊厳を守ってあげていたのですね。
この江戸時代の浮世絵は、今でいえば、学級崩壊寸前と言ってもいいような無秩序状態ですね(笑)。でも当時の子供たちにとっては、これが自然のありのままの姿だったんですね。まあ、「見守る保育」ならぬ「見守る教育」の原型ですね。そもそも子どもの世界には、大人のそれとは違う秩序(無政府状態に見えてちゃんとしたルールがある)が存在していることを大人は理解しないといけない。それをしないで、見かけだけの秩序を求めるから、子供のストレスが学級崩壊となって現れるのだと思います。落ちこぼれは、ひょっとしたら子どもたちでなく、心の許容範囲が狭い大人たちが、原因になっていることも多いのでは…。やっぱり、藤森先生!「省我の森小学校」を創って、日本の教育を変えないといかんですね(笑)。
見事な“学級崩壊”の絵ですね。今だと大問題として取り上げられるんでしょうね。「小さな大人」と見るか「1人の人間」と見るか、たったこれだけの違いですが、大きな違いです。ただ教育の問題というだけでなく、今の社会の問題として捉えるべきことだと思います。この絵を多くの人に見てもらって議論してみたいですね。
今という時代をどうみるか、という大局的な問題を考えざるを得ない、と今日のブログを読みながら直感しました。今回紹介された「寺子屋」の風景は「これから」の時代の予兆であり、同時に「歴史は繰り返される」の故事の示唆でしょう。「学級崩壊」という現象は大人の意向にそぐわない子どもたちの状態を「大人の側」から命名したものです。この「大人の側」の論理の背景にある歴史に思いを馳せるなら、「富国強兵」のために一糸乱れぬ秩序の下「滅私奉公」を必然とした時代性が浮かびあがります。あらゆる意味で時代の転換点である今、整列に過剰な反応を示し、姿勢の良さを優先順位の先におき、「管理、管理、管理」というかつての軍隊教育に底通するトラウマに捉われている「先生」たちの多さに愕然としながら、それでも時代は確実に移り変わっている、という確固たる事実認識のもと子どもたちに接する必要があると痛感した次第です。
写真の画像は今の時代だと確実に「学級崩壊」として捉えられるのに対して、当時はこの風景が一般的であるというのが、驚きます。写真だけ見るととても自由に見えますが、「一定の限界」を越えないというのが、今の時代と違うと思いました。更には限界を越えてしまった子どもに対しての罰の考え方も、子どもとして扱うのでなく、一人の人間として対応することが素晴らしいと思いました。私の幼い頃は、口で言っても分からない子は叩かないと治らない、という環境で育ってきたので、寺子屋の教育方法は本当に先進的だと思いました。