教科書

今日は、小学校の入学式でした。卒園児たちが文部科学省から贈呈された新しい教科書を、ピカピカのランドセルに入れて挨拶に来てくれました。
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いよいよこの教科書を使って授業が始まるのですが、1年生でも様々な教科があります。その中でも、とくに「国語」の授業が多く、全体の3.6割くらいを占めます。1.6割くらいを算数が占めています。寺子屋でも「よみ・かき・そろばん」が重視されていましたから、当然そこに時間を多く割いていました。その中でも、文字の習得が一番の課題でしたから、今でいう「国語」の授業は、全体の6~7割も占めていたようです。
文字に関して、小学校学習指導要領では、「平仮名及び片仮名を読み,書くこと。また,片仮名で書く語の種類を知り,文や文章の中で使うこと。」「第1学年においては,別表の学年別漢字配当表の第1学年に配当されている漢字を読み,漸次書き,文や文章の中で使うこと。」とあります。おおざっぱに言うと、平仮名47文字、片仮名47文字、漢字80字です。ところが、寺子屋では、このほかに「変体仮名」がたくさんあり、それも覚えなければなりません。漢字も、学年ごとに配当されていたわけでもありませんでしたし、名前に使う漢字もずいぶん難しいものもありました。それをどう教えたのでしょうか。寺子屋の楽しい勉強法「子どもたちは象をどう量ったのか?」(西田知己著 柏書房)の中で紹介されています。
 「寺子屋の師匠は“いろは”順にこだわらず、身近なところから言葉を増やしていくよう指導していました。鳥や花など、すでに知っているものの名前を書かせ、読み書きの能力を広げていったのです。だんだん文字が読めるようになり、身の回りにあるものの名前の知識も増えてくると、それに応じて読む分量も増やされていきます。単語をつなぎ合わせた、やや長めのフレーズに進み、そして今度は、ひとまとまりの内容を持つ文章へと次第にステップ・アップしていきます。」
 その内容は、まあまあ今の教科書と大差なさそうですね。しかし、そこには実は大きな違いがいくつかあります。まず、一斉に前で先生が講義をするという形でないために、ステップ・アップしていく教材や時期は、個々によって、違っているのです。また、学びが自発的であるために、そばであくびをしていたり、顔に墨を塗ったりしてふざける子がいても先生はあまり気にしません。
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 教科書の内容も今と少し違っていました。今の国語に取り上げられている文章は「説明文」と「物語文」です。それに対して寺子屋での教科書(往来物)は、寓話タイプの昔話が多かったようです。これも物語文ではありましたが、社会性のある教訓が織り込まれていたようです。
 また、机の並べ方も自由でした。寺子屋に入学するときにそれぞれは机を持ち込んでいました。それを、好きな所に好きなように並べていました。たとえば、みんなで輪になり、向き合ってお互いの顔が見えるようにして手習いをしている絵が前出の本に紹介されていました。
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以前のブログでも紹介しましたが、アメリカでは、授業の導入時は、教師は子どもたちを教室の床の上に車座に座らせて、自身はその中心に陣取って説明を行います。そして、この車座のガイダンスが終了すると子どもたちは次々とグループや個別の学習作業へと移行していきます。移動する先は様々であり、床の上に寝そべって本を読み始める子ども、机の下に入り込んでコミュニケーションをとる子どもなど学習の姿勢も様々です。
 なんと、江戸時代の寺子屋にその原型を見ているようです。

教科書” への5件のコメント

  1. 寺子屋の自発的な学びは聞けば聞くほど驚かされます。個にきちんと対応しレベルアップを図るところは、できることなら見てみたいです。江戸時代から現代までの間に教育の形態がずいぶん変わりましたが、子どもにとって必要な変化だったのか考えさせられます。

  2. 故きを温ねて新しきを知るといいますが、寺子屋の教育のやり方が、現代のアメリカの教育にもつながる極めて優れたものであることがよくわかります。明治期の富国強兵策に始まる今の一斉の授業形態は、高度経済成長期までは機能したかもしれませんが、少子化社会の今では時代遅れになっていますね。これからの日本で必要なのは、自発性と自由な発想と豊かな交渉力を持った人材だと思います。藤森先生が、もし小学校をお創りになるのだったらどんな学校になるんでしょうね。想像するだけでもワクワクします。

  3. 出勤時に、新小学一年生の我が子の初登校の姿を、ビデオカメラで撮っている父親を見ました。「凄いパワーだな…」「愛情表現も色々だな…」等と思いながら満員電車に乗車、そしたら、今度は、新社会人一年生の会話「オレ、満員電車ヤダ!会社、行きたくねえ~!」と言っているのを聞き、これも≪小1プロブレム?≫と失笑でした。
    確かに、教育のあり方には色々と思うところがあります。
    中学生から「英語」の勉強をしてきているのに、何故?会話ができないのか?…誰かのせいにするつもりはありませんが(自分の勉強不足ですが…)素朴な疑問です(笑)
    目で見て耳で聴き、知識で判断することはとても大事なことです。が、目で見たこと、耳で聴いたことを、どう感じとるか…正に「他人と共に生きる力」から学んでいくものですよね。
    色々な人とコミュニケーションをとれる力。エンドレスの課題です(笑)

  4.  久々に小学校の教科書を見たような気がします。当時、一番最初に国語の教科書で何を学んだか思い出そうとしているのですが、なかなか思い出せません。ただ2年生の時に必死に暗記させられた話しだけは、今でも覚えています。
     当時の寺子屋の文字の指導というのは昔の事なのに、とても新鮮に感じました。無理に「いろは~」にこだわらず、身近な物から文字指導につなげ、そして少しずつレベルアップを試みている所がそう感じたのかもしれません。そして、アメリカで導入している授業が江戸時代の寺子屋ですでに行われていたというのは、とても信じがたいことです。まだまだ寺子屋で行われたいたことで驚くことは、もっとたくさんありそうな気がします。

  5. 寺子屋の風景絵をみ、あくびをしながら背伸びをしている子を見つけ、「あ~、うちの息子も寺子屋に行っていれば・・・」と思いました。寺子屋のおおらかな雰囲気がとてもいいですね。そして学習内容の進度が個々の子どもたちに合わせられている、という至極当たり前の事実を知り現在の不自然さを痛感しました。寺子屋にも「カリキュラム」があり、しかし学年齢ごとに達成が強制されている今の学校のカリキュラムとは趣きを異にします。それぞれの子どもの進度に合わせて教材が変わっていきます。子どもの自主性・自発性に頼らなければなりません。明治大正期、学制が発布されても現在のように学校が形骸化せず各学校の特色が出て面白いと思います。

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