昨日の日曜日に、妻と高尾にある「多摩森林科学園」に行ってきました。ここは、大正10年2月、宮内省帝室林野管理局林業試験場として発足しました。その後、昭和22年には、林政統一により農林省に移管され、林業試験場浅川支場となり、その名称も昭和32年には、「林業試験場浅川実験林」となりました。現在は、森林・林業・木材産業に関する試験研究機関である独立行政法人森林総合研究所の支所の一つとして、森林環境教育の場における動植物の多様性保全・生態系の役割解明に関する研究を行っています。
ここ多摩森林科学園のサクラ保存林は、わが国の桜の遺伝子を保存し、後世に伝えるために、昭和41年度から造成されたもので、様々な約250種、約2000本の全国の桜を見ることができます。広さも日比谷公園の約3,5倍の57haもあり、ちょっとしたハイキング気分です。そこを散策しながら、途中の満開の花の下で手作りのお弁当を頬張りました。ただし、アルコール類は禁止ですので、いわゆるお花見客はいず、多くは、私たちのような年配の人であふれています。しかし、私は、昔は非公開で、ある時から、大阪の造幣局のように、桜がきれいだからその季節だけ公開していたように記憶しているのですが、現在は、年間を通して一般公開しています。
ここの桜の種類が多いということは、花の咲く時期や、色、大きさ、形などがそれぞれ違っていて、長い期間楽しむことができます。たとえば、秋から冬にかけて咲くものや、緑色や黄色の桜、匂いのある桜もあります。今の時期に咲く緑の花の「御衣黄」が人気がありますが、新緑の木々の中を歩きながら、時たま美しい桜の林に出ると、それぞれ桜ならではと思われる優雅な名前を読みながら、その由来を考えるのも楽しみです。

今の時期でも、まだまだ満開の桜が多いのですが、その中でもひときわ目立つものに「八重桜」があります。この桜は、野生の山桜に対して人里の桜ということから里桜とも呼ばれています。一番人気の黄緑の桜「御衣黄」も八重ですし、同じようにうす黄色の桜「鬱金」もあります。この花は、音では「ウコン」といい、色を表しているのですが、なんだか「鬱(うつ)の金」という感じがして、写真を撮りませんでした。他には、「普賢象」「楊貴妃」「一葉」「八重紅虎の尾」などがありますが、何と言っても有名なものは、「関山」という品種です。それは、桜湯に使う塩漬けにした花はこの種類が多いからです。
園の近くの小学校や幼稚園の入学式に参加すると、控室に通されて、まず「桜湯」が出てきます。桜湯は、お茶の代わりにおめでたい席によく出されますが、見合いや婚礼などの一生を決める祝いの席では、その場だけ取り繕ってごまかす意味の「茶を濁す」ことを忌み嫌うことから、お茶を用いず、代わりの飲み物として桜湯を用います。この桜湯に用いる桜の花の塩漬けは桜漬けとも呼ばれ、がくを除いた花全体を梅酢と塩で漬け込んであります。入れる前は茎の部分が表面に表われた丸まった状態ですが、湯のみ茶碗に入れて湯を差すことで塩漬けの塩が溶けだし、花びらが開いて湯の上面に浮いてくる姿と、同時にほんのりお湯が桜色に染まる様は、まさに日本の伝統美を感じます。
「いにしへの 奈良の都の 八重桜 今日九重に 匂ひぬるかな」(伊勢大輔 詞花集 百人一首)
月別アーカイブ: 4月 2009
横川
新幹線は、地方に行くときにはとても便利な鉄道ですが、その新設によって、それまでの路線が廃止されたり、区間によっては、第三セクターに運営が移管されたりしています。長野新幹線の開業は、高崎駅から長野駅を経て新潟駅までの路線であった「信越本線」を変えてしまいました。今は、信越本線は二つの区間に分割されています。一つは、群馬県高崎市の高崎駅から群馬県安中市の横川駅までと、もう一つは、長野県長野市の篠ノ井駅から新潟県上越市の直江津駅を経由して新潟県新潟市中央区の新潟駅までです。
もともとの信越本線の区間のうち、軽井沢駅と篠ノ井駅の間は、昨日のブログで取り上げた第三セクターしなの鉄道に経営が移管されて存続されているので、廃止された区間は、横川駅と軽井沢駅の間です。今後、2014年度に北陸新幹線ができた時には、長野駅と直江津駅の間も第三セクター鉄道として経営分離される予定ですので、もしそうなったら、信越本線は、3区間に分かれることになります。
廃止された横川駅と軽井沢駅の間は、現在はバス輸送になっていますが、一部の区間は、遊歩道として整備されています。それは、この間には、昔から坂東と信濃国をつなぐ道として重要な要所で、難所としても有名な「碓氷峠」がありました。この道は、江戸時代には中仙道が五街道のひとつとして整備され、旧碓氷峠ルートが本道とされました。その碓氷峠は、関東と信濃国や北陸とを結ぶ重要な場所と位置づけられ、峠の江戸側に坂本関という関所が置かれました。そして、峠の前後にはそこを越える前に宿泊する坂本宿と、反対側には軽井沢宿が置かれました。
鉄道でも、この碓氷峠を越えることは早くから重要視されていましたが、当時の技術では越えることはなかなか難しかったようです。ですから、とりあえず上野駅から横川駅までの間が1885年に、さらに軽井沢駅から直江津駅までの間が1888年に開通しましたが、横川駅と軽井沢駅の間は輸送のネックとなり、なかなか東京・新潟間が全線開通できませんでした。しかし、延長11.2kmの間に18の橋梁と26のトンネルが建設され、やっと1892年に工事が完了し、横川・軽井沢間が開通したのです。
こんな越すに越されぬ「碓氷峠」には、峠の茶屋があり、団子があるのが定番ですが、横川駅では、上野から横川駅まで開通した年の1885年に、横川駅前で「おぎのや」が創業します。その後、横川駅と軽井沢駅の間にある難所「碓氷峠」を越えるために、全ての列車がここで機関車の付け替えまたは補助機関車の連結を行いました。そのため横川駅での停車時間は長いために「おぎのや」では、駅弁を販売し始めます。最初は、それほど業績は好調ではありませんでしたが、1957年に当時おぎのやの社員であった田中トモミ(のちに副社長)が発案した、「峠の釜めし」がヒットを飛ばし、全国に知られるようになりました。この「峠の釜めし」は長野県各所のドライブインでも売るようになり、昔は、私のルーツの地である諏訪に行くときに、いつも買って食べていました。
この駅弁は、直径15cmほどの栃木県産の益子焼の釜に入った醤油味の炊き込みご飯です。この容器は、持って帰って灰皿などにしたものですが、本当は、単に釜の形をしているだけではなく、実際に1合の御飯を炊くことができます。
ちょっとしたアイデア一つで、会社が変わるのですね。
しなの
今日は、朝から長野県小諸市で講演があったので、昨日の夕方小諸入りをしました。駅に着いて少し時間があったので、すぐ近くの懐古園に桜を見に行ってみました。少し散り始めていましたが、まだちょうど盛りでした。
小諸駅は、JR小海線の駅です。小海線は、山梨県北杜市の小淵沢駅からこの小諸駅までを結ぶ、八ヶ岳東麓の野辺山高原から千曲川の上流に沿って佐久盆地までを走る高原鉄道路線です。途中、清里駅と野辺山駅の間には標高1375mの「JR鉄道最高地点」があり、野辺山駅は標高1345mの「JR線最高駅」です。
しかし、東京から小諸に行くには、小海線経由では時間がかかるので、違うルートで行きます。それは、長野新幹線で軽井沢まで行き、「しなの鉄道」に乗って、小諸駅まで行きます。この「しなの鉄道」は、もともとはJRでしたが、新幹線ができることになって、長野市が75%の出資をして信越本線の軽井沢駅から篠ノ井駅の間を結ぶ鉄道を運営する会社として設立された第三セクターです。
この路線は、当然新幹線ができたために、長距離利用客はみんなそちらを利用してしまい、乗客は減り、開業当初から経営は苦しく、2001年9月の中間決算では累積赤字が24億円以上になり、資本金23億円を上回る債務超過状態に陥りました。その状況は、誰でもわかり、仕方ないと思ってしまうところですが、その後の取り組みが、トップによってこうも変わるかという良い例です。まず、赤字が大きくなった翌年の2002年に、当時の長野県知事であった田中康夫氏は、急成長している旅行会社エイチ・アイ・エス(HIS)社長の澤田秀雄氏に、しなの鉄道の再建を依頼します。彼は、HISに在籍していた杉野氏を社長に推薦します。
彼は、その後2年間に経営改革を行います。たとえば、高齢者の乗降介助を行う「トレインアテンダント」やサポーター制度を新設したり、JRでなくなったために使用されなくなった発券機は、会社の公式ホームページで一般向けに販売したりします。また、不利な契約の解消やコスト削減と増収、「儲ける」事を意識付ける厳しい社員教育を行いました。
そのような経営改革により、しなの鉄道は減価償却費前の利益で黒字計上するようになりました。しかし、大口出資先である長野市の当時の田中康夫知事は、2004年には減損会計導入を進めたいと言い、「上下分離方式」を主張する杉野氏と対立することになります。しかし、大口出資先である長野市にはかなわず、杉野氏は社長を辞任することになります。次の社長として、減損会計に踏み切るために、スカイマークエアラインズ(現スカイマーク)の元社長であった井上雅之を社長に迎えます。彼も、駅構内で宝くじを販売したり、鉄道施設内での映画、テレビドラマ、コマーシャル撮影の誘致をしたり、さまざまな事業を展開します。その結果、2005年度決算において開業以来の初めて最終損益において黒字を計上したのです。
その井上氏は、昨年辞任していますが、さまざまな取り組みは受け継がれ、黒字も続いているようです。人が少ない、そんな環境ではないから仕方ないは言い訳かもしれません。
逸話
映画のレッドクリフPartⅡは、日本人が好きな三国志を題材にしているので大当たりのようです。この三国志は、話の展開が面白いだけでなく、それぞれの作戦の駆け引きの痛快さがあり、その場面が逸話として伝えられ、日本でも名言になったり、慣用句になったりして、普段からなじみのある言葉が多いことも人気の秘密かもしれません。その中で、映画の主題である「赤壁の戦い」は、三国志の序盤のハイライトだけあって、さまざまな逸話が生まれています。しかし、それは、事実というよりも、それを面白おかしく爽快に伝えているので、本によって少し違っています。
有名なものに、「反間の計」、孔明が夜陰に紛れて矢を盗む「草船借箭の計」、曹操の艦隊を鎖で繋ぐ「連環の計」、そして、先日書いた「東南の風」などがあります。
その中の「苦肉の策(くにくのさく)」は、映画では少し違って描かれていましたが、この言葉は今でも「苦し紛れに生み出した手段・方策」という意味の慣用句として使われています。もともとは、この兵役の戦いで使われた作戦の一つで、害は他人から及ぼされるもので、自らは及ぼさないであろうという人の心理を利用したもので、「苦肉の計」「苦肉の謀」ともいわれています。
周瑜率いる劉備・孫権連合軍が、曹操軍の艦隊に立ち向かうために火で焼き払う「火計」という作戦を用いるのですが、誰が敵陣に潜り込んで火をつけるかというときに、周瑜の家来であった黄蓋が提案した計画です。黄蓋は、この戦いで曹操軍に対抗するための有力な対抗案が出せないとして司令官である周瑜を罵倒します。しかし、周瑜はこの言動を咎め、兵卒の面前で鞭打ちの刑に処します。黄蓋の体は傷だらけになり、敵である曹操軍に投降を申し出ます。曹操は最初疑っていましたが、蔡和から黄蓋が杖百打の刑を受けたという手紙を受け取ると、使者の言っていることが真実だと信じて投降を承知します。こうして偽装投降に成功した黄蓋は曹操軍に放火することに成功し、曹操軍は壊滅することになるのです。
また、中国のことわざに「ガチョウの羽根の扇子を揺らす(揺鵞毛扇)」という言葉があります。何かを画策する様子を指しています。映画の中でも、諸葛孔明はいつも手に「羽扇」というガチョウの羽で出来た扇子を持っています。扇子というより、団扇(うちわ)のようです。この扇子は、後漢から晋時代にかけて文人の間で流行していたものを、諸葛亮も白羽扇を愛用していました。三国志描いたどんな作品にも、ほとんどの孔明は白羽扇を持っています。映画の中で、周瑜が「なぜ羽根扇子を持っているのか」と孔明に聞いたら、孔明は、「熱くならないためです。」と答えたので、周瑜が「あなたのような人でも熱くなることがあるのですか」というシーンがありました。
また、「華容道(かようどう)」という言葉がありますが、これは場所の名前です。赤壁の戦い後、曹操は退却するときに華容道を経て江陵に向かおうとします。途中、華容道を抜ければ曹仁の待つ城まで戻れると思ったのもつかの間、そこで、関羽が曹操を待ち伏せしていました。その時、曹操に恩義のある関羽は,静かに道を開け、これで恩義は返したと去っていました。「華容道」とは、関羽が過去の曹操との義理のために、曹操を逃がしてあげる話です。
昔は、さまざまな逸話から生き方を学び、道徳観を身につけていたのでしょうね。
麻酔
サイエンスの2月号に「髪の毛でわかる古代の薬」と題した記事が掲載されていました。その記事は、古代アンデスでは植物からつくった幻覚作用をもつ薬が治療に使われていたというものです。その記事によると、「アメリカ先住民の社会では,精神活動に影響をあたえる植物が霊的な儀式や民間療法に用いられたことが知られている。また,南アメリカの古代アンデス地方の墓に鼻から吸引する「かぎたばこ」が入れられていたことから,幻覚作用をおこす薬が古くから利用されていたと推定されてきた。」その推測が事実であることがチリ北部で発見された「ティワナク文化期(西暦500~1000年ころ)」のミイラ群の毛髪を分析してわかったそうです。この毛髪を分析してみると、アンデス地方に生えている特定のツル科植物に含まれている精神に作用する「ハルミン」という物質が検出されたようです。この物質は、アンデスの人々は幻覚作用をおこすためではなく,治療用の薬としてこの植物を使っていた可能性が高いといいます。いわゆる、今で言うと治療の時に使う麻酔のようなものだったのでしょう。
このような体をマヒするNARCOTICS(ナルコティクス)という言葉を「麻酔」と訳し、そのほかにも「麻薬」「麻痺」「麻疹」など、五体の痺れを示す表現にすべて麻の字がつくのは、大昔、中国の人がこれらの麻酔は麻(大麻)からもたらされると考えたからだそうです。
その由来に関係する人物が、日曜日に見た「レッドクリフPartⅡ」に出てきます。映画の中で、曹操軍は、兵士たちの間で疫病がはやり、困ります。その時治療する曹操の専属医である「華陀」という人物が登場します。彼は、「後漢書」の「華陀(かだ)伝」によると、西域の胡人で、「麻沸散」という大麻から作った麻酔薬を、酒と一緒に病人に飲ませ、麻酔状態になったところで腹と背を切開し、胃腸にあった患部を摘出し縫合し、一か月で快癒させたとあります。この薬は麻(大麻)から作られたので麻沸散といい、以後、ナルコティクスに関する言葉にはすべて「麻」の字がつくとしています。
特にこの麻沸散は、外科手術の時に用いられた麻酔薬で、華佗はこれを使用して世界で初めての全身麻酔による切開手術を行ったといわれていますが、この命名には華佗自身の悲話が伝わっています。
「華佗元化には妻と「沸」と言う名前の1人息子がいました。ある日のこと。華佗が妻と沸を連れて山中に散策へと出かけ、華佗と妻が二人で薬草を探している間、息子の沸は1人で遊んでいました。華佗と妻は必要な薬草を手に入れ、さて帰ろうかと周りを見まわしてみると息子の姿が見当たりません。急いで探し回ると、我が子が力なく倒れているのを見つけました。急いで介抱してみましたが、すでに沸は事切れていました。沸は毒の実を食べたのでした。華佗はその実を調べてみると、どうやら適量であれば麻薬効果があることがわかり、念願の麻薬完成にこぎ着けた華佗は、その麻酔薬に我が子の名である「沸」をつけ「麻沸散」と名づけたのです。
この華陀は、曹操があまりに頭痛がひどいときに「よろしければ私が頭を切り開いて中身を見ましょうか?」と言って、麻酔の存在を知らなかった曹操の怒りを買い、殺されてしまったと映画のパンフレットに書かれてあります。他の資料には、手術を暗殺と思い込んだ曹操によって殺されてしまい、華陀の医学は後世にあまり残らなかったと書かれてありました。
レッドクリフで「茶」を知り、「麻酔」も知ることができました。
気象分析
気象を読むというのは、とても重要なことだったでしょう。それは、衣食住に関係するからです。特に、食は多いに天候が影響しました。それは、生活自体が自然と共生していたからです。確か以前のブログに書いたことがあると思いますが、ある時から人間は自然を征服しよう、押さえつけようとしてかえって自然の脅威にさらされることになってきてしまっています。もう一度「自然と共生する」ということは、「自然に沿って生きる」ということであり、「自然を読み取る」ことが必要になってきています。
本当のことはわかりませんが、初めて自然を読んだのは、「ノアの方舟」だったかもしれません。日本では、日食のときに天岩戸が閉ざされ、同じ皆既日食が原因で卑弥呼が殺されたという説があります。自然現象は、人間の暮らしに役に立つこともあり、また、暮らしを襲うこともあり、また、それを利用して民を統率したり、戦いに利用したりしました。
自然の力を借りて戦った有名な逸話の一つに「借東風」という言葉があります。これは、その字の通り、「東風を借りた」ということで、東風を利用して戦ったということです。このタイトルの京劇があり、そのDVDも発売されているくらい有名な逸話です。この「借東風」という言葉は、いまでも中国でよく使われるそうですが、たとえば、会社で部下が素晴らしい企画書を提出したときに、上司はそのままほめるのではなく、さりげなく「君の提案は正に“諸葛亮借東風”だね」などと使うそうです。この言葉の由来のエピソードが、映画「レッドクリフPartⅡ」の主題です。
「赤壁の戦い」では、劉備と孫権の連合軍は、敵対する曹操の大軍に比べて圧倒的に戦力的に少ないのにもかかわらず、その曹操の大軍を破ったという歴史的に有名な戦いです。このなかで勝利を呼び込んだのが「冬場における東南の風」を利用した戦艦への火攻めだったのです。曹操軍は、艦隊を鎖で繋ぐ「連環の計」の作戦を立てたのに対して、そこに火を放つ「火計」の策を考えますが、風向きが逆で味方のほうに火が来てしまうということで困り果てていた周瑜に対して、孔明が「東南の風を起こしましょう」と提案し、まさにその風が起こり、大勝利を得るという話です。
季節は冬でしたので、この時期には「東南の風」はほとんど吹かないようですので、「三國志演義」では、諸葛孔明が七星壇を築いて祈祷を行ない、3日3晩「東南の風」を吹かせたことになっていますが、正史の「三国志」には、強風が吹いたという程度しか記述はないそうです。どちらにしても、風が変わりそうだという読みがあってこの計を使ったということで、孔明は、当時の風水学の一部、現在の気象学に卓越していたのでしょう。
「東南の風は、呼んだのか、読んだのか。」ということで、映画のパンフレットに大東文化大教授の渡邉義浩さんが書いています。
「そもそも、近代以前の戦いは、すべてを合理的な判断で行うわけではない。うらないなどの呪術が、軍事と密接に結びついていた。こうした呪術的兵法を“漢書”では、“孫子”などとの“兵家”と区別して、“兵陰陽家”と呼んでいる。軍を起こすときに、その日時の吉兆を定め、天体の方角に留意し、天象・気候を観察して、鬼神の助力を得るという、きわめて呪術性の高い兵法である。」
しかし、孔明は人智を超えた呪術的な能力で風を呼んだのではなく、あくまでも風が起こる場所を気候の観察から予測したのではという考え方のようです。
気象
最近、空気が乾燥してあちらこちらで山火事が起きているようです。その時には、風の向きによっては、民家のほうに火の手が迫ってくると心配ですね。また、少し前のニュースで、山焼きを見物していた人のほうに風向きが変わり、やけどをしたというニュースも流れました。
季節の移ろいは、花だけでなく、風でも感じることができます。それは、風の温かさだけでなく、その向きによって感じることができます。大きく言えば、冬の北風から、夏の南風に変わるということですが、風の向きというのは、もう少し微妙のようです。たとえば、学校で習ったのは、海風、陸風という風で、海岸地帯に見られる風です。この風の向きは季節によって変わるのではなく、昼は海から陸へ、夜は陸から海へと風向が1日の中で変化する風です。
風の向きは、いろいろな気象状況によって変わります。やはり少し前のニュースで、成田空港で貨物機の事故がありましたが、この事故は、風の変化やズレに遭って着陸に失敗したもののようです。この風のズレは、ウインドシア(wind shear)と呼ばれ、大気中の垂直方向または水平方向の異なる2点間で、風向や風速が劇的に異なることをいいます。その時には、ダウンバーストもしくはマイクロ・バーストと呼ばれる強い下降気流を伴うことが多く、離着陸中の航空機にとって非常に脅威となります。
東京では、最近よく強風で交通機関が乱れることが多いのですが、このように交通機関では風を読まなければなりませんし、石川遼が、マスターズ予選落ちしましたが、そのゴルフでも風の流れを読まなければなりません。
このような風の流れだけでなく、気象の変化は、事故を起こしたり、私たちの生活に深いかかわりを持っています。当然、その変化は、戦いのときにも利用されました。戦いを指揮をする大将や軍師は、この気象の変化に詳しくなければなりませんし、気象に詳しい人は戦いに勝利しました。古くは、源平の「壇ノ浦の戦い」です。この戦いでは、前半では、潮の流れを利用した平家が有利に進みますが、潮の流れが変わると形勢は一変し、源氏が勢いを盛り返し、平家は滅亡します。
また、いわゆる元寇と言われている「文永の役」「弘安の役」では、神風が吹いて日本が勝ったと言われていますが、台風ではないかとか、熱帯性低気圧ではないかといろいろと言われていますが、気象現象が戦いに影響したことには間違いないようです。
また、戦国時代を代表する合戦の一つである「川中島の戦い」では、「霧」が主役を務めます。武田軍の作戦を見破った上杉軍は、夜霧にまぎれて妻女山を下り、明るくなって霧が薄くなり始めると、妻女山から武田本陣に向かって怒濤のごとく攻めていきます。そして、序盤は霧に守られた上杉軍が優勢でしたが、霧が晴れて妻女山別働隊が参戦してからは武田軍が盛り返します。結局は、引き分けになりますが、このときの霧の発生について、今でも、いろいろな人が気象学的に検証しています。
他にも、桶狭間の戦いのときの雷雨にしても、大方の予想を裏切って戦いに勝ったという例は、気象現象が影響していることが多いようです。今回の映画「レッドクリフ」も、気象現象が主役の一つです。孔明は、気象予報士だったようです。
染井
東京では、あっという間に桜の季節が終わってしまいました。まさに「花の色は移りにけりないたずらに」です。しかし、日本の花の素晴らしいところは、種類によって咲く時期がずれていて、次から次へと咲きつないでいきます。少しブログで堅い話が続きましたので、花見でもしたいと思います。
まだ、桜が咲き始めていない3月ころに上野に行ったときに、すでに「寒緋桜」が咲いていました。まだまだいろいろな花が咲き始めていないころに鮮やかな濃いピンク色をした花をつけるので、春が来たのを実感します。
そのころから「桜前線」が気になります。ここでいう桜は「ソメイヨシノ」で、その花の開花日です。この桜は、「染井吉野」と書き、学名を「Prunus × yedoensis」といい、アメリカでは「Japanese cherry」というように、日本の代表的な花で、花見といったら「ソメイヨシノ」の花を見ることが多いようです。この花は、日本各地にその名所がありますが、私は、毎年どこかに行きたくなり、昨年はブログで都電と桜ということで神田川沿いの桜を紹介しましたが、今年は、友人と東京周辺の見どころの一つである「千鳥ヶ淵(皇居)」に夜桜を見に行きました。

ソメイヨシノは、とてもその花の命が短いですが、また花吹雪や、地面を覆うばかりの花びらや千鳥ヶ淵のお濠の水の上に散った桜の花びらもとてもきれいです。「ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花ぞ散るらむ(紀友則)」ではありませんが、本当にその時期時期の楽しみ方がありますね。

その桜が終わったかなと思う頃に、葉から先につけた木に「八重桜」が咲きはじめます。八重桜は、花を鈴なりにつけます。友人から頂いた「景色桜」という盆栽の桜が今、満開です。桜という木は、本来は大きくならないと花をつけないそうですが、盆栽仕立ての桜は今盛りです。
昨日、桜は終わってしまったのですが、巣鴨、駒込あたりの「染井町」に行ってみました。このあたりは、江戸時代には染井村といい、多くの植木屋が軒を並べ、菊やつつじなど四季折々の花々を楽しめる名所地で、花卉・植木の一大生産地でした。また、この地で江戸時代以後 数多くの優れた園芸品種が誕生していますが, 中でも染井吉野は、この地から植栽が始められ、初めは見事な桜の代名詞として「吉野桜」と呼ばれましたが、誕生地であるこの場所の地名である「染井」の名を加えて「染井吉野」と名付けられ、今では世界を代表する桜の品種となったのです。

なかでも植木屋の第一人者, 染井の伊東伊兵衛は、「花屋の伊兵衛といふ, つつじを植しおびたゝし, 花のころハ貴賤群集す, 其外千草万木かずをつくすとなし, 江都第一の植木屋なり, 上々方の御庭木鉢植など, 大かた此ところよりささぐること毎日々々なり」といわれるほど有名でした。

ところで、世界的に有名なソメイヨシノは、実は種子を作る能力がなく 自力で繁殖できません。そのため 世の中のソメイヨシノは すべて一本の木から 接木などによって増やされたもので, 遺伝子はどれも同じ、いわゆるクローンとも言えます。ですから、特定の病気に掛かりやすく、環境変化にとても弱いので、大切にしなくてはならないのです。
義
「愛」の前立の兜を身につけた直江兼続は、利によって動く戦乱の世にありながら、上杉謙信の「義」を尊び重んずる生き方を引き継いでいます。今の時代に求められている「義」の心、その「義」をひたすら追求し、その義によってまっすぐに生きようとした精神が、今NHK大河ドラマで描かれている「天地人」の主題かもしれません。
今日、早速妻と見に行った「レッドクリフPartⅡ」のパンフレットには、映画感想家の大林さんがこの映画のことを「男たちの魂は、“仁・義・礼・智・信”という思想から外れることなく、女たちの心は決して“愛”に迷うことなく、かくも熱き死闘を繰り広げた。」と書いています。そして、ウー監督の一貫するテーマは、「正義、勇気、友情、絆、愛」であるとしています。そして、「義」を軸に「希望」を描くことにブレはないといいます。したがって、「“義”と“愛”がある限り進化し続ける」とウー監督を総評します。
この映画のもとである「三国志」は、吉川英治作品と、横山光輝の作品で知った私の中の主人公は、「義を重んじ、常に民のことを思う劉備玄徳」ですが、この映画は、どちらかというと、孫権の司令官「周瑜」と、劉備の軍師である「孔明」との友情と、作戦が中心に描かれていました。映画は、全体としては、漫画を見ている感じでしたが、パンフレットの最初に書かれているウー監督の日本人に向けて書かれてあるメッセージに、この映画を見る意味を感じます。
「私たちが暮らしている今は、過去に生きた人々の勇気ある行動が積み重なってできてきました。世界的不況・不信の時代だからこそ、一人一人の決断で今を変えて新しい未来を作りましょう。みなさんがそれぞれの“奇跡”を起こす時です。未来に勇気を。」
物事の正しい道筋や、人間のふみおこなうべき正しい道のことを「義理」といいます。いわゆる対人関係や社会関係の中で、お互いに守るべき道理のことを指すこともありますが、そうではなく、いわゆる「正義の道理」を意味する場合は、朱子学柄来ています。林羅山は、「義理」を「人の履むべき道」という意味で使っていますし、中江藤樹には、「明徳のあきらかなる君子は義理を守り、道を行ふ外には毛頭ねがふ事なく」と「文武問答」で書いています。
先日のブログで紹介した上杉謙信の「家訓」の中にも3番目に「義理」が出てきます。「心に欲なき時は義理を行ふ」とあります。心に欲がないときにこそ、義理の道を行うことができるということです。人は、いろいろな行動を起こす時、仕事をするとき、利益を得ようとする時、何をその根拠とするのでしょうか。そこには、私は「大義」が必要だと思います。しかし、何が「人のふみ行うべき重大な道義」である大義であるかは、とてもむずかしい判断です。ですから、上杉謙信は、大義を持って動くときには欲を持ってはいけないと言ったのでしょう。そして、このような精神があったからこそ、「義」の将として後世になっても評価されたのでしょう。
映画「レッドクリフ」、NHK大河ドラマ「天地人」ともに「義」がテーマであることは、偶然なのでしょうか、今の人に求められている精神なのでしょうか。
愛
私の園の園歌は、私が作ったものですが、もともとは私が主催していた子供会のために作ったものでした。その歌の3番の歌詞は次のようなものです。
「夢を探そう 僕らの町で 愛を語ろう 私の町で みんなの夢を集めれば 愛のあふれる 町になる」
今年のNHK大河ドラマ「天地人」の主人公である武将・直江兼続の兜の前立には「愛」があしらわれていることで有名です。その兜を、先日米沢市の上杉神社稽照殿で見てきました。
兼続が、なぜこの「愛」という文字を使ったかは、俗説として「仁愛」や「愛民」の精神に由来するとも言われていたり、上杉謙信の『義』に対する教えを学び、愛国心を常に持つためなど、色々と説はありますが、テレビの宣伝文句として、「ひたすら利のみを求める戦国時代に、「愛」を重んじ、「義」を貫き通した武将・直江兼続。」という言葉が用いられ、いかにも今の時代に多くの人が欲しているであろう内容になっています。しかし、実は、良くわかっていませんし、どうも今でいう「愛」ではないようです。今の有力な説としては、上杉謙信が毘沙門天の信仰を表した「毘」の字を旗印に使用するなど、当時、神名や仏像を兜や旗などにあしらう事は広く一般に行われていたことから、「愛染明王」や「愛宕明神」など軍神的な要素を入れたのではないかということや、または「愛宕権現」の信仰を表したものではないかといわれています。
「愛」という概念はとても難しいので、ここでそれを解き明かそうとは思いませんが、平安文学では「愛(かな)し」と読ませ、いとおしみ離れ難い心境をあらわすことばでした。ですから、私が作った園歌の中の「愛を語ろう」は、地域や子どもをいとおしむ気持ちを表しているつもりです。しかし、国をいとおしむ気持ちである「愛国心」を、戦時中に国に対する「忠誠心」と同じように使われ、政府が世論を掌握するに効果的であった徹底的な国家に対する愛国(忠誠)心教育が実施されたために、本来の意味が誤解されることがあります。
今月4月1日から全国の小学校・中学校において、新しい学習指導要領の一部が先行実施されていますが、この新しい学習指導要領では、教育基本法の改正等を踏まえ、改定されています。教育基本法の「教育の方針」第2条には、「教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。」と書かれてありましたが、今回の改定では、「教育の目標」第二条の五に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」との表現を加えたことで、「我が国と郷土を愛する」というように「愛」という言葉をはっきり使ったことと、「道徳教育」の目標に「我が国と郷土を愛し」との表現を加えたことなどから「愛国心」論議がなされました。
家族を愛し、地域を愛し、国を愛することは別に悪いわけではありませんが、「国に対して、自分を殺して忠誠を誓え!」と言われるとちょっと首をかしげたくなります。