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2009年04月30日 近頃思うこと

ツツジ

 今は、東京では街路のわきでオオムラツツジが満開です。
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先日のブログに、ソメイヨシノの発祥の地の「染井」に住んでいた植木職人の伊東伊兵衛のことを書きましたが、実は、彼は桜というよりもツツジについての専門家でした。彼は、元禄5年(1692年)に「錦繍枕」を刊行していますが、この書籍は、世界最古のツツジとサツキ専門書です。また、彼は、同時代に江戸で活躍した音楽家佐山検校とともに「躑躅(つつじ)」という長歌もの地歌曲を作っていますが、この歌詞の中には、ツツジが22品種詠み込まれています。
 染井の伊東伊兵衛は、「花屋の伊兵衛といふ, つつじを植しおびたゝし,」と言われるほど、たくさんのツツジを植えたようです。なぜ、そんなにたくさんのツツジを所有するようになったかというと、享保4 年 (1719) の自序がある辻雪洞著「東都紀行」にこのように書かれてあります。「杜鵑花(サツキ)今さかりの家有、是なん躑躅(ツツジ)や猪兵衛とて、江北の木商なり、其初めは、藤堂大学頭高久の露除(つゆよけ)の男成しに、大学頭、
草花の類当座に移し持たせ、花過れば悉くぬき捨させけるをば、此伊兵衛植ためけるより、次第次第に、きり島つゝじ、百椿、牡、芍、さしぬ花の木、百竹、百楓、百梅、百桜などゝ、すけばあつまる所成べし。」
伊藤伊兵衛という名は、代々襲名された名前ですが、三代目は、伊藤伊兵衛三之丞といいます。彼は、藤堂大学頭その下屋敷で露除といういわば庭師のような下男のような仕事をしていました。その屋敷でいらなくなった花などを藤堂が彼に持たせ、彼はそれを自分の庭に移植しました。そこで、彼の庭にはたくさんの花や樹木が植えられたのです。その中で「霧島ツツジ」は見事で、彼は自分のことを「きり嶋屋伊兵衛」と名乗ったほどでした。その環境の中で育ち、日本で一番の植木職人になったのがその子、4代目の伊藤伊兵衛政武です。その墓に行ったときのことを書いたのが前回のブログです。
この伊兵衛が活躍する場が多くあったのは、江戸時代の将軍、「家康」「秀忠」「家光」はとても花好きだったそうですし、参勤交代が、全国各地から様々な花卉や草木を江戸にもたらしたことも影響しています。また、江戸の大火と言われる火事が何度か江戸を襲います。そのためい、江戸屋敷は、庭を広くとり、数々の花や樹木を庭園に植えたので、植木職人の需要が多かったようです。それから、徳川の世になり、各地での戦いがなくなり、時代的に安定し、生活にゆとりが生まれたことも影響したでしょう。
伊兵衛父子の著作である「錦繍枕」は、父は自分の最も得意とするツツジ、サツキに関して書かれ、全体的なものとして「花壇地錦抄」をあらわします。この本がベストセラーになり、幕末になって同じ装丁で「長生花林抄」というタイトルで出版されました。その巻頭言には、こう書かれてあります。
「古にいはく 肘をまげて枕とす 楽 其中にありと 僕がたのしみハ花なり 紅の色々ある中に一花数品の変化あるものハ 躑躅きりしまさつきなり 其かたちを委く 画き接木またハ土かひ養ふことまでを書あつめ一巻の草紙となし錦繍枕といふ…」
確かに、花を眺めることは、どの季節でも楽しみです。しかし、その中でも特にツツジが伊兵衛は好きだったようです。そう思って改めてツツジを眺めると、そんな気がしてきます。

投稿者 fujimori : 23:34 | コメント (4)

2009年04月29日 近頃思うこと

なんといっても

日本人は、何と言っても富士山が好きですね。読売新聞創刊135周年を記念して新時代の景観を選ぶ「平成百景」が決定しましたが、当然堂々の一位に輝いたのは、「富士山」でした。この投票の反響はずいぶん大きかったようで、投票総数は64万票を上回ったようです。2位以下は、地元・山梨の熱烈な支持で「昇仙峡」で、3位は「知床」でした。また、この投票は、新時代の景観を選ぶということで、平成になってから誕生したり、見直されたりした景観で投票上位に入り、選考委員の評価が高かったのは、「甲府盆地の夜景」と「東京ディズニーリゾート」、「横浜みなとみらい21」「鉄道博物館」「直島」などが選ばれたようです。
環境省では、平成17年度から富士山登山者数の把握を目的に、4登山道の各八合目付近に赤外線カウンターを設置し、八合目以上への登山者数調査を実施していますが、平成20年7月1日から8月31日までの富士山八合目でのカウント数の合計は約30万5千人で、昨年度に比べて約7万3千人も増加しているそうで、また最近人気があるようです。
昔から、富士山は、日本を代表する景色で、その雄大さと美しいフォルム、1日の中で時刻によって、1年の中で季節によってその姿を変え、気品と気高さを感じます。また、眺める方向からも姿を変え、時には荒々しく、時には優しさを私たちに与えてくれ、深い感銘を覚え、「心のふるさと」としてそびえています。
私は、いろいろな場所の桜で見るように、いろいろなところから富士山を見るのが楽しみです。先日、飛行機から富士山を見ることができました。今の季節は、雪が程よくつもっていて、とても美しい姿です。
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飛行機から富士山は、上から見る姿と同時に、雲海を背景に、その上に頭を出す姿も見ることができます。今年の3月には、そのような姿を見ることができました。
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それから、今年は、違ったところから富士山も見ることができました。それは、富士急行の車両の最前列から目の前にそびえる富士山です。
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この電車はお勧めです。300円の特急料金を払えば、大月駅から河口湖駅まで、特急列車フジサン特急に乗ることができます。また、展望室のある車両は、展望席を含めたすべての座席が定員制で、この車両に乗車する場合は区間に関わらず、別途着席整理料金100円を払えばいいのです。しかも、その車両に乗ったときに、乗客は私と妻のほか一組しかいませんでした。
私の住んでいる八王子からも富士山を見るポイントがいくつかあります。ミシュランで選ばれた高尾山からも今年は運良く見ることができました。
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また、1日の中でも姿を変えますが、八王子の駅ビルの屋上から、夕方の富士を今年の初めに見ることができました。
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富士山は、このような姿の美しさだけでなく、その懐の深さによって、多様な自然の豊かさとともに、原生林をはじめ貴重な動植物の分布など、学術的にも高い価値を持っています。その原生林は、豊富な地下水などの恵みももたらしてくれます。
しかし、なかなか世界遺産に登録できないように、自然に対する過度の利用や社会経済活動などの人々の営みは、富士山の自然環境に様々な影響を及ぼしてしまっています。富士山の貴重な自然は、人気があるだけでなく、もっと未来の子供たちのため、その自然環境の保全に取り組まなければならないでしょう。

投稿者 fujimori : 22:17 | コメント (4)

2009年04月28日 講演先にて

茶摘み

もうすぐ「夏も近づく八十八夜」ですね。八十八夜とは雑節の一つで、立春から数えて88日目の日のことを言いますので、今年は、5月2日です。少し前では青森では雪が降ったそうですが、八十八夜は夏に近づく半面、「八十八夜の別れ霜」「八十八夜の泣き霜」などと言われるように、遅霜が発生する時期です。霜のなくなる安定した気候の訪れる時期であると同時に、まだまだ霜も降りることがあるという春から夏へ移る境目の日として重要視されてきました。ですから、雑節として、農家の人にこのころは気をつけなさいというために入れられているのです。また、「八十八」という字を組み合わせると「米」という字になることから、この日は農家の人にとっては特別重要な日とされてきました。東北や山間村落では豊作を願うため、様々な占いを行います。現在でも禁忌が守られているところもあるようです。
八十八夜ころから「あれに見えるは 茶摘みじゃないか」という歌の題名が「茶摘み」というように、新茶の摘み取りが行われます。しかし、まだまだ霜が降りるときがあり、昔は藁をひき、霜を防いだようですが、今は、扇風機で風を送ったり、黒い網で覆ったりしています。また、ちょうど八十八夜の日に摘んだ茶は上等なものとされ、この日にお茶を飲むと長生きするとも言われ、珍重されてきました。そうはいっても、日本列島北から南まで長いわけですから、地域によって、茶摘みの時期は異なります。
たまたま週末に佐賀県「嬉野温泉」に宿泊しましたが、この地は、「嬉野茶」として550年の歴史があります。このお茶は、美容と健康に効果があるといわれ、茶葉が一枚一枚丸いため、玉緑茶(グリ茶)と呼ばれています。江戸時代には、大浦慶という人が嬉野茶を長崎から海外へ出荷し、その利益が坂本龍馬や大隈重信の活動資金になったと言われていています。
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この嬉野市は、2006年1月1日、藤津郡塩田町と嬉野町が合併して誕生した、佐賀県で9番目の市です。少し時間があったので、重要伝統的建造物群保存地区の中で「商家町」として指定されている塩田津に行ってみました。ここは、長崎街道の宿場町として発展した塩田宿を後世に残すための保存運動が行われ、2005年に嬉野市塩田町の川港及び周辺の町家群が指定されています。長崎街道は、江戸時代に整備された脇街道の一つで、豊前国小倉の常盤橋を始点として、肥前国長崎に至る路線で、57里(約223.8km)の道程で、途中に25の宿場が置かれていました。そして、江戸時代においては、鎖国政策の下で全国唯一、幕府が外国との交易を行う港である長崎に通じる街道として、非常に重視されました。
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この旧長崎街道の塩田宿は、交通の要衝であり、有明海に注ぐ塩田川河口7kmの位置にあり、干満の差を利用した河港(津)として栄えたことから「塩田津」と呼ばれました。そして、水陸両路を利用し、明治以降も有田焼の原料となる熊本の天草陶石を陸揚げし陸送する、陶土の町としても繁栄しました。siotatu.jpg
今は、訪れたときには道には人っ子一人いず、閑散としていましたが、たまに出会う町の人は親しげに声をかけてくれました。人がいない分、地中に埋められた電線のおかげもあって、町のたたずまい、耐火機能をもつ江戸後期から明治にかけての「居蔵造」の町家、その他の施設が時代をさかのぼった気にさせてくれます。
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投稿者 fujimori : 23:03 | コメント (4)

2009年04月27日 近頃思うこと

風呂敷と手ぬぐい

最近、漫画「サザエさん」の復刻版が出版されていますが、その漫画を読むと、その時代がよくわかります。今と変わらないところと、当時はよく見かけたのに、最近は全く見かけなくなったものがあります。その一つに、緑色の唐草模様の大風呂敷を背負って、
頬かぶりをし、口の周りにはぐるりと髭が生えているような空き巣や泥棒があります。
絵にかいたような空き巣の特徴は、その風貌だけではありません。忍び込んでくる姿も「抜き足、差し足、忍び足」です。この言葉も、最近、聞かなくなりました。これは、泥棒の歩き方ですが、子どもの頃に、何か悪いことをして逃げる時や、親の目を盗んでおやつを食べようとするときなどにも使いました。そして、サザエさんの漫画に出てくる泥棒は、どこか間が抜けていて、憎めないところがあるように描かれていることが多いようで、ずいぶんと、盗むほうも、盗まれるほうもおおらかだったですね。
ところで、この泥棒がかぶっている手ぬぐいは、昨日のブログの「姉さんかぶり」ではなく、その名の通り、「盗人かぶり」と呼ばれるかぶり方です。このかぶり方は、頭から頬にかけて包み、あごのあたりで、そのまま結ぶか、ねじって結ぶ「頬かぶり」の一種です。しかし、あごの下あで結ぶのではなく、手ぬぐいの両端を左脇にひねって挟み込むか、鼻の下で結びます。最近の強盗や泥棒は、マスクをしたり、ストッキングをかぶったり、外国では覆面をしたりして顔を隠しますが、日本では、このように手ぬぐいで盗人かぶりして人相を隠していました。
また、泥棒が背中に背負っている盗品を包んだ風呂敷の模様の多くは、緑色の唐草模様です。唐草模様というと、学校で習った、ギリシアの神殿などの遺跡でアカイア式円柱などに見られる草の文様が原型です。この文様は、「アラベスク」と言われ、繁栄を示していたためにアラブ諸国ではモスクの装飾としてよく用いられます。そして、メソポタミアやエジプトから各地に伝わり、日本にもシルクロード経由で中国から伝わってきました。
一方、物を包む布としての風呂敷には、その文様として花鳥風月を題材にするものが多く、吉祥文様など日本独特な文様が使われました。唐草模様のそのうちの一つで、江戸時代には、唐草は四方八方に伸びて限りが無く延命長寿や子孫繁栄の印として大変縁起が良い物とされていました。ですから婚礼道具や布団などを唐草の風呂敷で包んでいました。それが、明治から昭和にかけて大型風呂敷の文様として大量生産されたために、獅子舞のかぶり物や泥棒の小道具としてよくつかわれるようになったようです。
最近、泥棒は手ぬぐいや風呂敷は使わなくなりましたが、違う意味で、この両方は使われています。
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手ぬぐいは、装飾用だけでなく、その名の由来のような手をふくのにもつかわれています。素材が綿なので吸水性が良く乾き易いのはもちろんですが、最近、菌対策にも効果があるそうです。手ぬぐいは、ハンカチやタオルなどと違って端っこは「切りっぱなし」ですが、それは、汗を吸ったために生地の中で雑菌が繁殖するのを防いでいるのだそうです。また、「ほつれ」が出てきても、その糸をハサミでカットするだけで、ほつれた部分は3~5ミリ程度で止まるようにできているそうです。
風呂敷も、最近の過剰包装から、エコ、リユースという観点から見直されています。復刻版サザエさんから見直すものが見つかるかもしれませんね。

投稿者 fujimori : 21:29 | コメント (5)

2009年04月26日 近頃思うこと

籠と手ぬぐい

 先日、山手線に乗ったとき、私が子どもの頃によく見かけた乗客を目にしました。それは、頭に手ぬぐいをまいて、茶色や紺の大きな風呂敷に包んだ大きな荷物を背負ったおばちゃん(おばあちゃん)を数人見かけたのです。普通であれば、席を譲られるであろう年齢の女性が、自分の背丈ほどあろう大きさの、四角に包み込まれたいかにも重そうな(30㎏から50㎏を越えると言われています)荷物を背負って、まだラッシュがおさまらない朝早くに電車に乗っているのです。
 彼女らの多くは、常磐線沿線の農家から、都区内に野菜などを売りに行く「行商のあばちゃん」なのです。私は、子どものころは総武線沿いの浅草橋の駅の近くに住んでいて、中学校は神田駅の近くでしたので、浅草橋から総武線で秋葉原までひと駅乗り、山の手か京浜東北線に乗り換え、ひと駅神田駅まで乗って通学していたので、よく見かけたので、家にも売りによく来ていたので、街中でもよく見かけた姿でした。
電車に乗っているときには、彼女らは席には座らず、荷物を席に置き、その前に立ちます。それは、降りるとき背負うのに、座席の高さを利用して、腰をかがめ、背中に背負うのです。背負い縄は、肩が痛くならないようにカラフルなで太く編んだものです。背負っている荷物は、たいていは、何段にも積み重ねた大きな背負い籠をに入れていることが多いのですが、背負子に積んであることもあります。背負子とは、木枠に短い爪をほぼ直角に付け、その水平な爪に荷物を載せ、背負い縄で負う形式の運搬具です。
彼女らの特徴は、どうしてかわかりませんが、背の低いお年寄りが多いことです。これは、たぶん、背が低いほうが腰を痛めないのでしょう。もう一つの特徴は頭に手ぬぐいをかぶっていることです。広げた手ぬぐいの中央を額にあて、左右から後ろに回し、端を折り返して頭上 にのせたり、その三角の先を前に持ってきて、額のところに挟んだりする、いわゆる昔から働く女性の手ぬぐいのかぶり方である「姉さん被り」というものです。
最近、園では季節柄の手ぬぐいを装飾に使っていますが、もともとは、手・顔・体などをぬぐったり、かぶり物にする布でした。そして、ふつう一幅(曲尺の一尺一寸五分、約34.8cm)で、二尺五寸から三尺(約113.6cm)ぐらいの長さですが、古くは六尺や五尺の長手ぬぐいもありました。この長い手ぬぐいは鉢巻・かぶりものや、帯の代わりにも使われました 。
手ぬぐいを被ったというと、こんな花足を思いだします。「笠は 五枚編んだのですが、お地蔵様は六体おられたからです。はて、こまった。このままでは こちらのお地蔵様がお寒かろう・・。そして ふと思いついて、自分の頭にかぶっていた手ぬぐいを 最後のお地蔵様の頭にかぶせ」という「笠地蔵」です。このように、もともと手ぬぐいは、日除け・ほこり除けで頭を保護する以外に、慎みや信仰の表現でもあったので、かぶりものにするのが本来の使い方だそうですが、そうであればどうして「手をぬぐう」という「手ぬぐい」という名前になったのでしょうね。
まだまだ都会でも、手ぬぐいを頭にかぶった姿が見られますが、いつまで見ることができるのでしょうね。

投稿者 fujimori : 23:08 | コメント (4)

2009年04月25日 近頃思うこと

みる

 先日、私の園の保護者に「脳の臨界期」の話をしたところ、「脳の臨界期までに子どもにしなければならないことは何ですか?早期教育ですか?」とある父親から聞かれました。私は、「それまでに大切なことは、子どもに、いろいろな経験、体験をさせることです。」と答えました。臨界期以降、さまざまな学習をしていくうえで、バーチャルな世界での勉強が多くなります。その時に、その学習内容が身につくか、定着するかは、それまでの体験が、ものを言います。たとえば、「田」という漢字を習った時に、本当の田んぼを見たことがある子は、その字の形を実感から覚えます。見たことがない子は、その形をそのとおりに暗記しなければなりません。
 昨日のブログではありませんが、漢字でも、その字の形は覚えても、その字をどのような場面で使うかは、考えないといけないのです。パソコンで、音を入れると、その漢字がずらっと出てきます。その中から、どの漢字を選ぶかは自分が決めなければなりません。最近は、前後関係からパソコンが予想してくれるようにはなりましたが、微妙な場合は、書き手の気持ちの問題もあるので、やはり人間が決めざるを得ないのです。昨日の漢字の例の「みる」もたくさんの意味があります。
一番多く使われるのは、もちろん「目で事物の存在などをとらえる。視覚に入れる。眺める」という意味です。ただ、漢字では、このただ目に入れるだけでも入れ方のよって使う漢字は違ってきますが。その次の意味に「見物・見学する」があります。この意味では「劇をみる」などに使います。そして、「そのことに当たる。取り扱う。世話をする」という意味があります。このときは、「看る」と書きます。「事務をみる」「子どもの面倒をみる」のように使います。そして「 調べる。たしかめる」という意味があります。「辞書をみる」など使います。そして「こころみる。ためす」ときにもみるを使います。「切れ味をみる」などがそうでえす。「観察し、判断する。うらなう。評価する。」としては、「手相をみる」「将来をみる」「人をみる目がない」などに使います。「診る」という漢字を使うことが多いのは、「診断する」場合で、「医者にみてもらう」などがそうです。「新聞でみた」と使う場合は、「読んで知る」という意味で使います。「痛い目をみる」
というときのみるは、「身に受ける。経験する」という意味です。「見当をつける。そのように考える。理解する」という意味では、「明日は雨とみられる」とか「このようにみると」などと使う場合などでしょう。また、言われてみれば、そういう使い方もあると思うのが古語などに「夫婦になる。連れ添う」というときにも使うときがあります。 また、「みる」という単独で使わないで、「さわってみる」とか「やってみる」というように、動詞の連用形に「て」を添えた形に付く場合があります。そうすることによって「ためしに…する」「とにかくそのことをする」という意味になります。
「みまもる」というときの「みる」はどれが適当でしょうか。

投稿者 fujimori : 22:15 | コメント (4)

2009年04月24日 近頃思うこと

漢字

最近は、漢字が読めない人と、どのくらい漢字が読めるかを試す人がニュースで話題になっています。それだけ、漢字が注目を浴びているということでしょうが、確かに私の子どものころの国語のテストは、「よみ、かき」というだけあって、漢字の読みと、漢字の書き取りテストが必ず入っていました。それに加えて、最近は言わなくなりましたが、書き順も、送り仮名やはねるか止めるかなども覚えました。読みでは、わざと普段は使わないであろう特殊な読みを問う問題がありました。たとえば、「行脚」とか「行灯」などは未だに覚えていますが、なかなかそんな言葉を使う機会はありません。
また、同じ発音でも、その前後関係で使う漢字が違います。たとえば、はっきりと「橋」と「箸」のように意味も全く違うし、漢字も全く違う場合はいいのですが、微妙なニュアンスの場合はどの漢字を使うか迷うことがあります。最近、パソコンで文章を使うときに、漢字の書き順と書送り仮名とか、点を付ける、付けないとかでは迷わなくなりました。それよりも、どの漢字を使うかを考えることが大変になりました。よく打ち間違えるのが、「始め」と「初め」、「写す」と「映す」、「取る」「撮る」「採る」「捕る」「執る」「獲る」「盗る」などまだまだあります。この微妙な差は、どの漢字を使うかで、心持などが入り、逆に日本らしい細やかさを感じます。その差は、なにも漢字だけでなく、英語にもありますが、もっと直接的な差であるようです。
たとえば、「みる」という言葉を英語でいうと、大まかに「see」と「look」と「watch」があります。たとえば、1人称を表す言葉として、日本語では、「私」のほかに「ぼく」とか「おれ」とか300種類くらいあるといわれていますが、英語では、「I」ひとつです。それに比べて、「みる」という音は日本ではひとつですね。英語のそれぞれの違いは、「see」は「見えている状態」「look」は、「それに加えて特定の対象物に焦点を合わせた状態」「watch」は、「それに加えて対象物の動きを逐一目で追う状態」というように言われています。したがって、seeから順に注意深く見るように見方が深まっていくように使い分けます。
それを日本語では、音ではひとつですが、その意味は非常に多くの場面で使います。その違いを、漢字で表す場合は、書き分けて書きます。瞑想における「みる」は、「観る」を使います。観には超然としたクールさ、マインドに絡まない一定の距離感が感じられます。観を辞書で引いてみると、「〔仏〕 自分の心をみつめ、仏・菩薩や象徴的像、宗教上の真理を出現させ、直観する修行法。」とあります。もちろん、この漢字を仏教用語としてだけ使うわけではありませんので、必ずしもこのような使い方をするだけではありませんが。したがって、「観」とは、普通は、「意識として在る」ことなのでしょう。そのほかにも、「みる」を当てる漢字はいろいろとあります。「診る」「看る」「視る」などです。ここにも、いろいろな見方が言い表されています。その差は、これらの漢字を使った熟語でどの漢字を使うかでわかります。
漢字検定で、どのくらい漢字が書けるかだけを試し、それを必死に覚えこませるだけでなく、漢字を通して日本人の持つ繊細な心持、その本質を見よとする心なども感じてほしいと思います。

投稿者 fujimori : 22:51 | コメント (5)

2009年04月23日 新聞記事より

主体性と環境

 私は講演の中でよく旭山動物園のオランウータンの話をします。旭山動物園では、他に先駆けてオランウータンの空中散歩を観客に見せました。大勢の観客のはるか上のロープを伝わって、隣にあるえさ場まで移動するのです。それを見ている観客は、落ちやしないかとヒヤヒヤして見ています。その時に、飼育員がこう言います。「皆さんは、オランウータンが落ちてはしないかと心配して見ていることでしょう。ご安心してください。決して、落ちません。もし落ちてしまうようでしたら、この世には、オランウータンは存在していません。そんなことでは、遺伝子は残してこれるはずはないからです。」
 すべての遺伝子は、自分たちの種を存続させるように受け継がれています。それを、人為的に、意図して何かをしてしまったら、もともと持っている力を失わせてしまっていることが多いのです。ところが、18日のニュースで、「能美市のいしかわ動物園で、オランウータン1頭が空中展示施設から落下、園内を逃走した。」というニュースが流れました。空中展示施設とは、旭山動物園にあるような「空の散歩道」といって、高さ10~13メートルの鉄製支柱4本にワイヤを張り、来園者は頭上を行き来するオランウータンを観察できる仕組みです。このニュースを聞いて、私はどうして落ちたのだろうと思いました。人間に飼われていることによって、本来持っている力を失わせてしまったのだろうかと思いました。
すると、そういうわけではなく、逃げないように、乗る台の下には電流(約9000ボルト)を流しており、このオランウータンは、その電線に誤って触れ、驚いた勢いで落下したとみられています。やはり、人為的環境が、本来持っている力を上回ってしまったのです。しかし、さすがオランウータンだと思ったのは、ふだん、その部分に触れないようにするのは、「触れないよう学習させており」と言っていて、「したがって、これまで問題はなかった」と言っていることです。人為的環境には、本能ではなく、学習が必要なのですね。
 最近、動物園の動物たちは子育てをしなくなったということをよく聞くようになりました。もともとは動物は、出産、育児ということは、自分たちの遺伝子を残すためには自然のことでしょう。しかも、その育児にしても人間のように育児書を読むことも育児相談することもしません。それなのに子育てができるのは、「身体にもともと備わった感覚に身をゆだねてそれに導かれることが大きな理由である。それが身体の規定力というものである。」と、早稲田大学教授で、人間と動物の親子関係を考察している根ヶ山光一氏は書いています。さらに氏は、この身体の規定力という力は大人が持っているよりもはるかに子どもに備わっている能力のほうが強い主張性を持っていると言っています。ですから、子育ては、大人からの規定力よりも、子どもの身体からの訴えにしたがって自然と適切な子育てに導かれていることが多いといいます。
 ですから、子どもの主体性を再認識する必要があるのです。子どもを大切にするからと言って、ただ子ども中心にしようという「子ども主体」という情緒的なことではなく、遺伝子を残していくという営みでは子ども主体というのはとても重要なことなのです。そんなことから最後に根ヶ山氏はこんなことを提起しています。
「そういった主体性・能動性がのびのびと発揮できるような環境作りと、それをふまえたおとなと子どもの望ましい共生の創生を模索していく必要があるだろう。」

投稿者 fujimori : 21:39 | コメント (4)

2009年04月22日 近頃思うこと

アレルギー

 園では、新年度が始まりました。毎年、新年度になると行うものの一つに子どものアレルギー調査があります。園では、昼食、夕食、おやつ、捕食を出すために、とりあえず食についてのアレルギーを調査し、医師との相談のうえ除去食治療を行うのです。最近、その対象児童が増えてきたことに何か心配になります。今年の除去食治療を行う予定の園児は、全園児の16%もいます。ほとんどは2歳までの子ですので、ミルクしか飲まない0歳児を除いて1、2歳までの園児の中では60%もいます。そのアレルギーのほとんどは卵白ですが、大豆や乳製品、中には、水も含めてほとんどだめという子もいます。
 最近の子どもの体がおかしいという実感調査では、1978年の調査では、「背中ぐにゃ」という席についてきちんと座っていることができず、背筋がぐにゃっと曲がっている状態が1位でした。2位は、「朝からあくび」で、3位が「アレルギー」でした。ところが1990年以来、アレルギーがずっとトップで、いわゆる免疫系の異常が問題だそうです。
 瀧井宏臣著「教育七五三の現場から」(祥伝社)の本の中に、こんなことが紹介されています。日本の小児医療の司令塔ともいえる東京都世田谷区にある国立成育医療センターが2000年に医学部の学生を対象に実施したアトピー素因の調査結果です。
 その結果、95人の学生中85人、全体の90%がアレルギー体質を持っているという結果が出ました。過去の調査では、1960年代ではわずか数%だったのが、70年代で25%、90年代で40%、そして、2000年には90%に達したといいます。この本の中では、このような状況を「最近の乳幼児でアレルギー体質でない子どもを見つけるほうが難しい。」とまで言っています。
 なぜ、こんなにもアレルギー体質が増えたかということを成育医療センター部長はこんなことを言っています。
「アレルギー体質の激増は遺伝子そのものの変化ではなく、免疫を担当する細胞の一つ、ヘルパーT細胞の型がⅠ型からⅡ型に変わったからだということです。Ⅰ型はIgE抗体の生産を抑えますが、Ⅱ型は生産を促進する働きがあります。両者はお互いの細胞の増殖を抑制しあうので、どちらかが優位に立ち、一生続くことになるそうです。では、どうなるとⅡ型が優位になるのでしょうか。妊娠中、胎児は母親にとって異物と同じですから、免疫のしくみが働いて胎児を排除しないように、Ⅰ型は出産後、赤ちゃんが細菌やウイルスに感染することによって発達するのです。ところが、清潔すぎる環境や抗生物質の過剰投与によって、乳幼児期に細菌やウイルスに感染することが少なくなってしまった。その結果、Ⅰ型の発達を妨げ、Ⅱ型が優位になってしまったというのです。抗生物質の投与などによって日本の乳幼児死亡率は世界一低くなりましたが、その代償として、子どもたちの9割がアレルギー体質になった。」
 これは、あくまでもまだ仮説の段階ではありますが、要するに、菌対策というあまりに清潔主義に陥り、また、熱などが出た時に、自らそれを下げる努力をする前に薬で下げてしまう事、ただ子どもに感染症をうつさないように神経質になることなどが、子どもの体に変調をきたしているようです。

投稿者 fujimori : 22:06 | コメント (4)

2009年04月21日 近頃思うこと

あす

井上靖の小説に「あすなろ物語」という作品があります。この小説は、明日は檜になろうと願いながら、永遠になりえない「あすなろ」の木の説話に託し、何者かになろうと夢を見、向上と発展を望みながらもがき、ついにはその願望も果たせない人間の悲しい運命を重ね合わせた作者の自伝的小説だと言われています。しかし、作者の井上は、「自伝小説ではありません。あすなろの説話の持つ哀しさや美しさを、この小説で取り扱ってみたかったものです」と述べています。
「あすなろ」という木は、その読み方からもそうですし、漢字で書いても「翌檜」と書くように「「あすは檜になろう、あすは檜になろう」と思いながらもついに檜になれない悲しい木であるといわれています。確かに、「檜」という木は、日本特産の木で、建築材として最良です。また、奈良や京都などの仏像のほとんどは、この「檜」が彫られています。それは、やわらかく、彫りやすく、それなのに耐久性があるからです。ですから、全国で植林されています。
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その名前も、「火の木」というように、この木を使って火をおこしやすかったために、昔から重宝されていたでしょう。また、よく、浴槽に入れたり、部屋のにおいに使ったりしますが、この幹や葉からとれる精油は香料や薬用になります。慣用句として「檜舞台」ということがありますが、檜は非常に高価な木材であって、これで作られた舞台は一流のものだったため。能楽や歌舞伎などは、すべて檜舞台で行われます。ですから、ここで踊ることは、自分の能力を発揮することができる「晴れの舞台」なのです。
「日本三大美林」には、「青森の檜葉(ひば)」「秋田杉」「木曽の檜」(ひのき)が選ばれています。確かにその中には「檜」がありますが、青森の「ヒバ」という木は、あすなろの木のことです。高級建築材としては、ヒノキが有名ですが、この青森ヒバ(あすなろ)は、それよりも高級な材木と注目されています。
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それは、ヒバは、昔から「ヒバ普請の家には蚊が3年は寄り付かない」といわれるほど、殺菌性のあるヒノキチオールの含有量が多く、ダニの発生を防いだり、特に白蟻には他のどの木よりも強く、また、腐りにくく、耐水性があって湿気にも強く、強度もヒノキと同じくらいあるので土台や柱、軒廻り、浴室、濡縁、ベランダなどに用いられます。
ただ、ヒノキのように大きく育つのが遅いので、「明日はなろう」という未来を夢見ているかのように見えたのでしょう。先日、いただいた「ブリザードフラワー」の中に、このあすなろの葉が入っていました。それは、「明日はヒノキになろう」という希望を表しているのか、殺菌作用を利用しているのかわかりませんが、両方あるのかもしれません。
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これを見ると、ヒノキにはヒノキの良さがあり、ヒバ(あすなろ)には、ヒバの良さがあるので、「ヒバは何もヒノキになろうとしなくてもいいのに」と思ってしまいます。三国志の中の劉備玄徳が提案する「天下三分の計」という「三勢力が鼎立し均衡を保つ戦略」は、劉備が提案する真意とは違うかもしれませんが、私は、このように提案します。それぞれがそれぞれの良さを持って、それぞれが自立し、それらが連携を持ち、お互いが成り立つという考え方が必要なような気がします。

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2009年04月20日 散歩

八重

昨日の日曜日に、妻と高尾にある「多摩森林科学園」に行ってきました。ここは、大正10年2月、宮内省帝室林野管理局林業試験場として発足しました。その後、昭和22年には、林政統一により農林省に移管され、林業試験場浅川支場となり、その名称も昭和32年には、「林業試験場浅川実験林」となりました。現在は、森林・林業・木材産業に関する試験研究機関である独立行政法人森林総合研究所の支所の一つとして、森林環境教育の場における動植物の多様性保全・生態系の役割解明に関する研究を行っています。
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ここ多摩森林科学園のサクラ保存林は、わが国の桜の遺伝子を保存し、後世に伝えるために、昭和41年度から造成されたもので、様々な約250種、約2000本の全国の桜を見ることができます。広さも日比谷公園の約3,5倍の57haもあり、ちょっとしたハイキング気分です。そこを散策しながら、途中の満開の花の下で手作りのお弁当を頬張りました。ただし、アルコール類は禁止ですので、いわゆるお花見客はいず、多くは、私たちのような年配の人であふれています。しかし、私は、昔は非公開で、ある時から、大阪の造幣局のように、桜がきれいだからその季節だけ公開していたように記憶しているのですが、現在は、年間を通して一般公開しています。
ここの桜の種類が多いということは、花の咲く時期や、色、大きさ、形などがそれぞれ違っていて、長い期間楽しむことができます。たとえば、秋から冬にかけて咲くものや、緑色や黄色の桜、匂いのある桜もあります。今の時期に咲く緑の花の「御衣黄」が人気がありますが、新緑の木々の中を歩きながら、時たま美しい桜の林に出ると、それぞれ桜ならではと思われる優雅な名前を読みながら、その由来を考えるのも楽しみです。
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今の時期でも、まだまだ満開の桜が多いのですが、その中でもひときわ目立つものに「八重桜」があります。この桜は、野生の山桜に対して人里の桜ということから里桜とも呼ばれています。一番人気の黄緑の桜「御衣黄」も八重ですし、同じようにうす黄色の桜「鬱金」もあります。この花は、音では「ウコン」といい、色を表しているのですが、なんだか「鬱(うつ)の金」という感じがして、写真を撮りませんでした。他には、「普賢象」「楊貴妃」「一葉」「八重紅虎の尾」などがありますが、何と言っても有名なものは、「関山」という品種です。それは、桜湯に使う塩漬けにした花はこの種類が多いからです。
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園の近くの小学校や幼稚園の入学式に参加すると、控室に通されて、まず「桜湯」が出てきます。桜湯は、お茶の代わりにおめでたい席によく出されますが、見合いや婚礼などの一生を決める祝いの席では、その場だけ取り繕ってごまかす意味の「茶を濁す」ことを忌み嫌うことから、お茶を用いず、代わりの飲み物として桜湯を用います。この桜湯に用いる桜の花の塩漬けは桜漬けとも呼ばれ、がくを除いた花全体を梅酢と塩で漬け込んであります。入れる前は茎の部分が表面に表われた丸まった状態ですが、湯のみ茶碗に入れて湯を差すことで塩漬けの塩が溶けだし、花びらが開いて湯の上面に浮いてくる姿と、同時にほんのりお湯が桜色に染まる様は、まさに日本の伝統美を感じます。
「いにしへの 奈良の都の 八重桜 今日九重に 匂ひぬるかな」(伊勢大輔 詞花集 百人一首)

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2009年04月19日 地域を知る

横川

 新幹線は、地方に行くときにはとても便利な鉄道ですが、その新設によって、それまでの路線が廃止されたり、区間によっては、第三セクターに運営が移管されたりしています。長野新幹線の開業は、高崎駅から長野駅を経て新潟駅までの路線であった「信越本線」を変えてしまいました。今は、信越本線は二つの区間に分割されています。一つは、群馬県高崎市の高崎駅から群馬県安中市の横川駅までと、もう一つは、長野県長野市の篠ノ井駅から新潟県上越市の直江津駅を経由して新潟県新潟市中央区の新潟駅までです。
もともとの信越本線の区間のうち、軽井沢駅と篠ノ井駅の間は、昨日のブログで取り上げた第三セクターしなの鉄道に経営が移管されて存続されているので、廃止された区間は、横川駅と軽井沢駅の間です。今後、2014年度に北陸新幹線ができた時には、長野駅と直江津駅の間も第三セクター鉄道として経営分離される予定ですので、もしそうなったら、信越本線は、3区間に分かれることになります。
廃止された横川駅と軽井沢駅の間は、現在はバス輸送になっていますが、一部の区間は、遊歩道として整備されています。それは、この間には、昔から坂東と信濃国をつなぐ道として重要な要所で、難所としても有名な「碓氷峠」がありました。この道は、江戸時代には中仙道が五街道のひとつとして整備され、旧碓氷峠ルートが本道とされました。その碓氷峠は、関東と信濃国や北陸とを結ぶ重要な場所と位置づけられ、峠の江戸側に坂本関という関所が置かれました。そして、峠の前後にはそこを越える前に宿泊する坂本宿と、反対側には軽井沢宿が置かれました。
鉄道でも、この碓氷峠を越えることは早くから重要視されていましたが、当時の技術では越えることはなかなか難しかったようです。ですから、とりあえず上野駅から横川駅までの間が1885年に、さらに軽井沢駅から直江津駅までの間が1888年に開通しましたが、横川駅と軽井沢駅の間は輸送のネックとなり、なかなか東京・新潟間が全線開通できませんでした。しかし、延長11.2kmの間に18の橋梁と26のトンネルが建設され、やっと1892年に工事が完了し、横川・軽井沢間が開通したのです。
こんな越すに越されぬ「碓氷峠」には、峠の茶屋があり、団子があるのが定番ですが、横川駅では、上野から横川駅まで開通した年の1885年に、横川駅前で「おぎのや」が創業します。その後、横川駅と軽井沢駅の間にある難所「碓氷峠」を越えるために、全ての列車がここで機関車の付け替えまたは補助機関車の連結を行いました。そのため横川駅での停車時間は長いために「おぎのや」では、駅弁を販売し始めます。最初は、それほど業績は好調ではありませんでしたが、1957年に当時おぎのやの社員であった田中トモミ(のちに副社長)が発案した、「峠の釜めし」がヒットを飛ばし、全国に知られるようになりました。この「峠の釜めし」は長野県各所のドライブインでも売るようになり、昔は、私のルーツの地である諏訪に行くときに、いつも買って食べていました。
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この駅弁は、直径15cmほどの栃木県産の益子焼の釜に入った醤油味の炊き込みご飯です。この容器は、持って帰って灰皿などにしたものですが、本当は、単に釜の形をしているだけではなく、実際に1合の御飯を炊くことができます。
ちょっとしたアイデア一つで、会社が変わるのですね。

投稿者 fujimori : 19:34 | コメント (4)

2009年04月18日 講演先にて

しなの

 今日は、朝から長野県小諸市で講演があったので、昨日の夕方小諸入りをしました。駅に着いて少し時間があったので、すぐ近くの懐古園に桜を見に行ってみました。少し散り始めていましたが、まだちょうど盛りでした。
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 小諸駅は、JR小海線の駅です。小海線は、山梨県北杜市の小淵沢駅からこの小諸駅までを結ぶ、八ヶ岳東麓の野辺山高原から千曲川の上流に沿って佐久盆地までを走る高原鉄道路線です。途中、清里駅と野辺山駅の間には標高1375mの「JR鉄道最高地点」があり、野辺山駅は標高1345mの「JR線最高駅」です。
 しかし、東京から小諸に行くには、小海線経由では時間がかかるので、違うルートで行きます。それは、長野新幹線で軽井沢まで行き、「しなの鉄道」に乗って、小諸駅まで行きます。この「しなの鉄道」は、もともとはJRでしたが、新幹線ができることになって、長野市が75%の出資をして信越本線の軽井沢駅から篠ノ井駅の間を結ぶ鉄道を運営する会社として設立された第三セクターです。
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この路線は、当然新幹線ができたために、長距離利用客はみんなそちらを利用してしまい、乗客は減り、開業当初から経営は苦しく、2001年9月の中間決算では累積赤字が24億円以上になり、資本金23億円を上回る債務超過状態に陥りました。その状況は、誰でもわかり、仕方ないと思ってしまうところですが、その後の取り組みが、トップによってこうも変わるかという良い例です。まず、赤字が大きくなった翌年の2002年に、当時の長野県知事であった田中康夫氏は、急成長している旅行会社エイチ・アイ・エス(HIS)社長の澤田秀雄氏に、しなの鉄道の再建を依頼します。彼は、HISに在籍していた杉野氏を社長に推薦します。
彼は、その後2年間に経営改革を行います。たとえば、高齢者の乗降介助を行う「トレインアテンダント」やサポーター制度を新設したり、JRでなくなったために使用されなくなった発券機は、会社の公式ホームページで一般向けに販売したりします。また、不利な契約の解消やコスト削減と増収、「儲ける」事を意識付ける厳しい社員教育を行いました。
そのような経営改革により、しなの鉄道は減価償却費前の利益で黒字計上するようになりました。しかし、大口出資先である長野市の当時の田中康夫知事は、2004年には減損会計導入を進めたいと言い、「上下分離方式」を主張する杉野氏と対立することになります。しかし、大口出資先である長野市にはかなわず、杉野氏は社長を辞任することになります。次の社長として、減損会計に踏み切るために、スカイマークエアラインズ(現スカイマーク)の元社長であった井上雅之を社長に迎えます。彼も、駅構内で宝くじを販売したり、鉄道施設内での映画、テレビドラマ、コマーシャル撮影の誘致をしたり、さまざまな事業を展開します。その結果、2005年度決算において開業以来の初めて最終損益において黒字を計上したのです。
その井上氏は、昨年辞任していますが、さまざまな取り組みは受け継がれ、黒字も続いているようです。人が少ない、そんな環境ではないから仕方ないは言い訳かもしれません。

投稿者 fujimori : 20:51 | コメント (4)

2009年04月17日 映画

逸話

映画のレッドクリフPartⅡは、日本人が好きな三国志を題材にしているので大当たりのようです。この三国志は、話の展開が面白いだけでなく、それぞれの作戦の駆け引きの痛快さがあり、その場面が逸話として伝えられ、日本でも名言になったり、慣用句になったりして、普段からなじみのある言葉が多いことも人気の秘密かもしれません。その中で、映画の主題である「赤壁の戦い」は、三国志の序盤のハイライトだけあって、さまざまな逸話が生まれています。しかし、それは、事実というよりも、それを面白おかしく爽快に伝えているので、本によって少し違っています。
有名なものに、「反間の計」、孔明が夜陰に紛れて矢を盗む「草船借箭の計」、曹操の艦隊を鎖で繋ぐ「連環の計」、そして、先日書いた「東南の風」などがあります。
その中の「苦肉の策(くにくのさく)」は、映画では少し違って描かれていましたが、この言葉は今でも「苦し紛れに生み出した手段・方策」という意味の慣用句として使われています。もともとは、この兵役の戦いで使われた作戦の一つで、害は他人から及ぼされるもので、自らは及ぼさないであろうという人の心理を利用したもので、「苦肉の計」「苦肉の謀」ともいわれています。
周瑜率いる劉備・孫権連合軍が、曹操軍の艦隊に立ち向かうために火で焼き払う「火計」という作戦を用いるのですが、誰が敵陣に潜り込んで火をつけるかというときに、周瑜の家来であった黄蓋が提案した計画です。黄蓋は、この戦いで曹操軍に対抗するための有力な対抗案が出せないとして司令官である周瑜を罵倒します。しかし、周瑜はこの言動を咎め、兵卒の面前で鞭打ちの刑に処します。黄蓋の体は傷だらけになり、敵である曹操軍に投降を申し出ます。曹操は最初疑っていましたが、蔡和から黄蓋が杖百打の刑を受けたという手紙を受け取ると、使者の言っていることが真実だと信じて投降を承知します。こうして偽装投降に成功した黄蓋は曹操軍に放火することに成功し、曹操軍は壊滅することになるのです。
また、中国のことわざに「ガチョウの羽根の扇子を揺らす(揺鵞毛扇)」という言葉があります。何かを画策する様子を指しています。映画の中でも、諸葛孔明はいつも手に「羽扇」というガチョウの羽で出来た扇子を持っています。扇子というより、団扇(うちわ)のようです。この扇子は、後漢から晋時代にかけて文人の間で流行していたものを、諸葛亮も白羽扇を愛用していました。三国志描いたどんな作品にも、ほとんどの孔明は白羽扇を持っています。映画の中で、周瑜が「なぜ羽根扇子を持っているのか」と孔明に聞いたら、孔明は、「熱くならないためです。」と答えたので、周瑜が「あなたのような人でも熱くなることがあるのですか」というシーンがありました。
また、「華容道(かようどう)」という言葉がありますが、これは場所の名前です。赤壁の戦い後、曹操は退却するときに華容道を経て江陵に向かおうとします。途中、華容道を抜ければ曹仁の待つ城まで戻れると思ったのもつかの間、そこで、関羽が曹操を待ち伏せしていました。その時、曹操に恩義のある関羽は,静かに道を開け、これで恩義は返したと去っていました。「華容道」とは、関羽が過去の曹操との義理のために、曹操を逃がしてあげる話です。
昔は、さまざまな逸話から生き方を学び、道徳観を身につけていたのでしょうね。

投稿者 fujimori : 22:24 | コメント (4)

2009年04月16日 映画

麻酔

 サイエンスの2月号に「髪の毛でわかる古代の薬」と題した記事が掲載されていました。その記事は、古代アンデスでは植物からつくった幻覚作用をもつ薬が治療に使われていたというものです。その記事によると、「アメリカ先住民の社会では,精神活動に影響をあたえる植物が霊的な儀式や民間療法に用いられたことが知られている。また,南アメリカの古代アンデス地方の墓に鼻から吸引する「かぎたばこ」が入れられていたことから,幻覚作用をおこす薬が古くから利用されていたと推定されてきた。」その推測が事実であることがチリ北部で発見された「ティワナク文化期(西暦500~1000年ころ)」のミイラ群の毛髪を分析してわかったそうです。この毛髪を分析してみると、アンデス地方に生えている特定のツル科植物に含まれている精神に作用する「ハルミン」という物質が検出されたようです。この物質は、アンデスの人々は幻覚作用をおこすためではなく,治療用の薬としてこの植物を使っていた可能性が高いといいます。いわゆる、今で言うと治療の時に使う麻酔のようなものだったのでしょう。
このような体をマヒするNARCOTICS(ナルコティクス)という言葉を「麻酔」と訳し、そのほかにも「麻薬」「麻痺」「麻疹」など、五体の痺れを示す表現にすべて麻の字がつくのは、大昔、中国の人がこれらの麻酔は麻(大麻)からもたらされると考えたからだそうです。
その由来に関係する人物が、日曜日に見た「レッドクリフPartⅡ」に出てきます。映画の中で、曹操軍は、兵士たちの間で疫病がはやり、困ります。その時治療する曹操の専属医である「華陀」という人物が登場します。彼は、「後漢書」の「華陀(かだ)伝」によると、西域の胡人で、「麻沸散」という大麻から作った麻酔薬を、酒と一緒に病人に飲ませ、麻酔状態になったところで腹と背を切開し、胃腸にあった患部を摘出し縫合し、一か月で快癒させたとあります。この薬は麻(大麻)から作られたので麻沸散といい、以後、ナルコティクスに関する言葉にはすべて「麻」の字がつくとしています。
特にこの麻沸散は、外科手術の時に用いられた麻酔薬で、華佗はこれを使用して世界で初めての全身麻酔による切開手術を行ったといわれていますが、この命名には華佗自身の悲話が伝わっています。
「華佗元化には妻と「沸」と言う名前の1人息子がいました。ある日のこと。華佗が妻と沸を連れて山中に散策へと出かけ、華佗と妻が二人で薬草を探している間、息子の沸は1人で遊んでいました。華佗と妻は必要な薬草を手に入れ、さて帰ろうかと周りを見まわしてみると息子の姿が見当たりません。急いで探し回ると、我が子が力なく倒れているのを見つけました。急いで介抱してみましたが、すでに沸は事切れていました。沸は毒の実を食べたのでした。華佗はその実を調べてみると、どうやら適量であれば麻薬効果があることがわかり、念願の麻薬完成にこぎ着けた華佗は、その麻酔薬に我が子の名である「沸」をつけ「麻沸散」と名づけたのです。
この華陀は、曹操があまりに頭痛がひどいときに「よろしければ私が頭を切り開いて中身を見ましょうか?」と言って、麻酔の存在を知らなかった曹操の怒りを買い、殺されてしまったと映画のパンフレットに書かれてあります。他の資料には、手術を暗殺と思い込んだ曹操によって殺されてしまい、華陀の医学は後世にあまり残らなかったと書かれてありました。
レッドクリフで「茶」を知り、「麻酔」も知ることができました。

投稿者 fujimori : 23:23 | コメント (4)

2009年04月15日 映画

気象分析

気象を読むというのは、とても重要なことだったでしょう。それは、衣食住に関係するからです。特に、食は多いに天候が影響しました。それは、生活自体が自然と共生していたからです。確か以前のブログに書いたことがあると思いますが、ある時から人間は自然を征服しよう、押さえつけようとしてかえって自然の脅威にさらされることになってきてしまっています。もう一度「自然と共生する」ということは、「自然に沿って生きる」ということであり、「自然を読み取る」ことが必要になってきています。
本当のことはわかりませんが、初めて自然を読んだのは、「ノアの方舟」だったかもしれません。日本では、日食のときに天岩戸が閉ざされ、同じ皆既日食が原因で卑弥呼が殺されたという説があります。自然現象は、人間の暮らしに役に立つこともあり、また、暮らしを襲うこともあり、また、それを利用して民を統率したり、戦いに利用したりしました。
自然の力を借りて戦った有名な逸話の一つに「借東風」という言葉があります。これは、その字の通り、「東風を借りた」ということで、東風を利用して戦ったということです。このタイトルの京劇があり、そのDVDも発売されているくらい有名な逸話です。この「借東風」という言葉は、いまでも中国でよく使われるそうですが、たとえば、会社で部下が素晴らしい企画書を提出したときに、上司はそのままほめるのではなく、さりげなく「君の提案は正に“諸葛亮借東風”だね」などと使うそうです。この言葉の由来のエピソードが、映画「レッドクリフPartⅡ」の主題です。
「赤壁の戦い」では、劉備と孫権の連合軍は、敵対する曹操の大軍に比べて圧倒的に戦力的に少ないのにもかかわらず、その曹操の大軍を破ったという歴史的に有名な戦いです。このなかで勝利を呼び込んだのが「冬場における東南の風」を利用した戦艦への火攻めだったのです。曹操軍は、艦隊を鎖で繋ぐ「連環の計」の作戦を立てたのに対して、そこに火を放つ「火計」の策を考えますが、風向きが逆で味方のほうに火が来てしまうということで困り果てていた周瑜に対して、孔明が「東南の風を起こしましょう」と提案し、まさにその風が起こり、大勝利を得るという話です。
季節は冬でしたので、この時期には「東南の風」はほとんど吹かないようですので、「三國志演義」では、諸葛孔明が七星壇を築いて祈祷を行ない、3日3晩「東南の風」を吹かせたことになっていますが、正史の「三国志」には、強風が吹いたという程度しか記述はないそうです。どちらにしても、風が変わりそうだという読みがあってこの計を使ったということで、孔明は、当時の風水学の一部、現在の気象学に卓越していたのでしょう。
「東南の風は、呼んだのか、読んだのか。」ということで、映画のパンフレットに大東文化大教授の渡邉義浩さんが書いています。
「そもそも、近代以前の戦いは、すべてを合理的な判断で行うわけではない。うらないなどの呪術が、軍事と密接に結びついていた。こうした呪術的兵法を“漢書”では、“孫子”などとの“兵家”と区別して、“兵陰陽家”と呼んでいる。軍を起こすときに、その日時の吉兆を定め、天体の方角に留意し、天象・気候を観察して、鬼神の助力を得るという、きわめて呪術性の高い兵法である。」
しかし、孔明は人智を超えた呪術的な能力で風を呼んだのではなく、あくまでも風が起こる場所を気候の観察から予測したのではという考え方のようです。

投稿者 fujimori : 23:26 | コメント (4)

2009年04月14日 近頃思うこと

気象

 最近、空気が乾燥してあちらこちらで山火事が起きているようです。その時には、風の向きによっては、民家のほうに火の手が迫ってくると心配ですね。また、少し前のニュースで、山焼きを見物していた人のほうに風向きが変わり、やけどをしたというニュースも流れました。
季節の移ろいは、花だけでなく、風でも感じることができます。それは、風の温かさだけでなく、その向きによって感じることができます。大きく言えば、冬の北風から、夏の南風に変わるということですが、風の向きというのは、もう少し微妙のようです。たとえば、学校で習ったのは、海風、陸風という風で、海岸地帯に見られる風です。この風の向きは季節によって変わるのではなく、昼は海から陸へ、夜は陸から海へと風向が1日の中で変化する風です。
風の向きは、いろいろな気象状況によって変わります。やはり少し前のニュースで、成田空港で貨物機の事故がありましたが、この事故は、風の変化やズレに遭って着陸に失敗したもののようです。この風のズレは、ウインドシア(wind shear)と呼ばれ、大気中の垂直方向または水平方向の異なる2点間で、風向や風速が劇的に異なることをいいます。その時には、ダウンバーストもしくはマイクロ・バーストと呼ばれる強い下降気流を伴うことが多く、離着陸中の航空機にとって非常に脅威となります。
東京では、最近よく強風で交通機関が乱れることが多いのですが、このように交通機関では風を読まなければなりませんし、石川遼が、マスターズ予選落ちしましたが、そのゴルフでも風の流れを読まなければなりません。
このような風の流れだけでなく、気象の変化は、事故を起こしたり、私たちの生活に深いかかわりを持っています。当然、その変化は、戦いのときにも利用されました。戦いを指揮をする大将や軍師は、この気象の変化に詳しくなければなりませんし、気象に詳しい人は戦いに勝利しました。古くは、源平の「壇ノ浦の戦い」です。この戦いでは、前半では、潮の流れを利用した平家が有利に進みますが、潮の流れが変わると形勢は一変し、源氏が勢いを盛り返し、平家は滅亡します。
また、いわゆる元寇と言われている「文永の役」「弘安の役」では、神風が吹いて日本が勝ったと言われていますが、台風ではないかとか、熱帯性低気圧ではないかといろいろと言われていますが、気象現象が戦いに影響したことには間違いないようです。
また、戦国時代を代表する合戦の一つである「川中島の戦い」では、「霧」が主役を務めます。武田軍の作戦を見破った上杉軍は、夜霧にまぎれて妻女山を下り、明るくなって霧が薄くなり始めると、妻女山から武田本陣に向かって怒濤のごとく攻めていきます。そして、序盤は霧に守られた上杉軍が優勢でしたが、霧が晴れて妻女山別働隊が参戦してからは武田軍が盛り返します。結局は、引き分けになりますが、このときの霧の発生について、今でも、いろいろな人が気象学的に検証しています。
他にも、桶狭間の戦いのときの雷雨にしても、大方の予想を裏切って戦いに勝ったという例は、気象現象が影響していることが多いようです。今回の映画「レッドクリフ」も、気象現象が主役の一つです。孔明は、気象予報士だったようです。

投稿者 fujimori : 21:03 | コメント (4)

2009年04月13日 近頃思うこと

染井

 東京では、あっという間に桜の季節が終わってしまいました。まさに「花の色は移りにけりないたずらに」です。しかし、日本の花の素晴らしいところは、種類によって咲く時期がずれていて、次から次へと咲きつないでいきます。少しブログで堅い話が続きましたので、花見でもしたいと思います。
まだ、桜が咲き始めていない3月ころに上野に行ったときに、すでに「寒緋桜」が咲いていました。まだまだいろいろな花が咲き始めていないころに鮮やかな濃いピンク色をした花をつけるので、春が来たのを実感します。
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そのころから「桜前線」が気になります。ここでいう桜は「ソメイヨシノ」で、その花の開花日です。この桜は、「染井吉野」と書き、学名を「Prunus × yedoensis」といい、アメリカでは「Japanese cherry」というように、日本の代表的な花で、花見といったら「ソメイヨシノ」の花を見ることが多いようです。この花は、日本各地にその名所がありますが、私は、毎年どこかに行きたくなり、昨年はブログで都電と桜ということで神田川沿いの桜を紹介しましたが、今年は、友人と東京周辺の見どころの一つである「千鳥ヶ淵(皇居)」に夜桜を見に行きました。
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ソメイヨシノは、とてもその花の命が短いですが、また花吹雪や、地面を覆うばかりの花びらや千鳥ヶ淵のお濠の水の上に散った桜の花びらもとてもきれいです。「ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花ぞ散るらむ(紀友則)」ではありませんが、本当にその時期時期の楽しみ方がありますね。
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その桜が終わったかなと思う頃に、葉から先につけた木に「八重桜」が咲きはじめます。八重桜は、花を鈴なりにつけます。友人から頂いた「景色桜」という盆栽の桜が今、満開です。桜という木は、本来は大きくならないと花をつけないそうですが、盆栽仕立ての桜は今盛りです。
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昨日、桜は終わってしまったのですが、巣鴨、駒込あたりの「染井町」に行ってみました。このあたりは、江戸時代には染井村といい、多くの植木屋が軒を並べ、菊やつつじなど四季折々の花々を楽しめる名所地で、花卉・植木の一大生産地でした。また、この地で江戸時代以後 数多くの優れた園芸品種が誕生していますが, 中でも染井吉野は、この地から植栽が始められ、初めは見事な桜の代名詞として「吉野桜」と呼ばれましたが、誕生地であるこの場所の地名である「染井」の名を加えて「染井吉野」と名付けられ、今では世界を代表する桜の品種となったのです。
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なかでも植木屋の第一人者, 染井の伊東伊兵衛は、「花屋の伊兵衛といふ, つつじを植しおびたゝし, 花のころハ貴賤群集す, 其外千草万木かずをつくすとなし, 江都第一の植木屋なり, 上々方の御庭木鉢植など, 大かた此ところよりささぐること毎日々々なり」といわれるほど有名でした。
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ところで、世界的に有名なソメイヨシノは、実は種子を作る能力がなく 自力で繁殖できません。そのため 世の中のソメイヨシノは すべて一本の木から 接木などによって増やされたもので, 遺伝子はどれも同じ、いわゆるクローンとも言えます。ですから、特定の病気に掛かりやすく、環境変化にとても弱いので、大切にしなくてはならないのです。

投稿者 fujimori : 21:13 | コメント (4)

2009年04月12日 映画

「愛」の前立の兜を身につけた直江兼続は、利によって動く戦乱の世にありながら、上杉謙信の「義」を尊び重んずる生き方を引き継いでいます。今の時代に求められている「義」の心、その「義」をひたすら追求し、その義によってまっすぐに生きようとした精神が、今NHK大河ドラマで描かれている「天地人」の主題かもしれません。
今日、早速妻と見に行った「レッドクリフPartⅡ」のパンフレットには、映画感想家の大林さんがこの映画のことを「男たちの魂は、“仁・義・礼・智・信”という思想から外れることなく、女たちの心は決して“愛”に迷うことなく、かくも熱き死闘を繰り広げた。」と書いています。そして、ウー監督の一貫するテーマは、「正義、勇気、友情、絆、愛」であるとしています。そして、「義」を軸に「希望」を描くことにブレはないといいます。したがって、「“義”と“愛”がある限り進化し続ける」とウー監督を総評します。
この映画のもとである「三国志」は、吉川英治作品と、横山光輝の作品で知った私の中の主人公は、「義を重んじ、常に民のことを思う劉備玄徳」ですが、この映画は、どちらかというと、孫権の司令官「周瑜」と、劉備の軍師である「孔明」との友情と、作戦が中心に描かれていました。映画は、全体としては、漫画を見ている感じでしたが、パンフレットの最初に書かれているウー監督の日本人に向けて書かれてあるメッセージに、この映画を見る意味を感じます。
「私たちが暮らしている今は、過去に生きた人々の勇気ある行動が積み重なってできてきました。世界的不況・不信の時代だからこそ、一人一人の決断で今を変えて新しい未来を作りましょう。みなさんがそれぞれの“奇跡”を起こす時です。未来に勇気を。」
物事の正しい道筋や、人間のふみおこなうべき正しい道のことを「義理」といいます。いわゆる対人関係や社会関係の中で、お互いに守るべき道理のことを指すこともありますが、そうではなく、いわゆる「正義の道理」を意味する場合は、朱子学柄来ています。林羅山は、「義理」を「人の履むべき道」という意味で使っていますし、中江藤樹には、「明徳のあきらかなる君子は義理を守り、道を行ふ外には毛頭ねがふ事なく」と「文武問答」で書いています。
先日のブログで紹介した上杉謙信の「家訓」の中にも3番目に「義理」が出てきます。「心に欲なき時は義理を行ふ」とあります。心に欲がないときにこそ、義理の道を行うことができるということです。人は、いろいろな行動を起こす時、仕事をするとき、利益を得ようとする時、何をその根拠とするのでしょうか。そこには、私は「大義」が必要だと思います。しかし、何が「人のふみ行うべき重大な道義」である大義であるかは、とてもむずかしい判断です。ですから、上杉謙信は、大義を持って動くときには欲を持ってはいけないと言ったのでしょう。そして、このような精神があったからこそ、「義」の将として後世になっても評価されたのでしょう。
映画「レッドクリフ」、NHK大河ドラマ「天地人」ともに「義」がテーマであることは、偶然なのでしょうか、今の人に求められている精神なのでしょうか。

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2009年04月11日 近頃思うこと

 私の園の園歌は、私が作ったものですが、もともとは私が主催していた子供会のために作ったものでした。その歌の3番の歌詞は次のようなものです。
「夢を探そう 僕らの町で 愛を語ろう 私の町で みんなの夢を集めれば 愛のあふれる 町になる」
 今年のNHK大河ドラマ「天地人」の主人公である武将・直江兼続の兜の前立には「愛」があしらわれていることで有名です。その兜を、先日米沢市の上杉神社稽照殿で見てきました。
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兼続が、なぜこの「愛」という文字を使ったかは、俗説として「仁愛」や「愛民」の精神に由来するとも言われていたり、上杉謙信の『義』に対する教えを学び、愛国心を常に持つためなど、色々と説はありますが、テレビの宣伝文句として、「ひたすら利のみを求める戦国時代に、「愛」を重んじ、「義」を貫き通した武将・直江兼続。」という言葉が用いられ、いかにも今の時代に多くの人が欲しているであろう内容になっています。しかし、実は、良くわかっていませんし、どうも今でいう「愛」ではないようです。今の有力な説としては、上杉謙信が毘沙門天の信仰を表した「毘」の字を旗印に使用するなど、当時、神名や仏像を兜や旗などにあしらう事は広く一般に行われていたことから、「愛染明王」や「愛宕明神」など軍神的な要素を入れたのではないかということや、または「愛宕権現」の信仰を表したものではないかといわれています。
「愛」という概念はとても難しいので、ここでそれを解き明かそうとは思いませんが、平安文学では「愛(かな)し」と読ませ、いとおしみ離れ難い心境をあらわすことばでした。ですから、私が作った園歌の中の「愛を語ろう」は、地域や子どもをいとおしむ気持ちを表しているつもりです。しかし、国をいとおしむ気持ちである「愛国心」を、戦時中に国に対する「忠誠心」と同じように使われ、政府が世論を掌握するに効果的であった徹底的な国家に対する愛国(忠誠)心教育が実施されたために、本来の意味が誤解されることがあります。
今月4月1日から全国の小学校・中学校において、新しい学習指導要領の一部が先行実施されていますが、この新しい学習指導要領では、教育基本法の改正等を踏まえ、改定されています。教育基本法の「教育の方針」第2条には、「教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。」と書かれてありましたが、今回の改定では、「教育の目標」第二条の五に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」との表現を加えたことで、「我が国と郷土を愛する」というように「愛」という言葉をはっきり使ったことと、「道徳教育」の目標に「我が国と郷土を愛し」との表現を加えたことなどから「愛国心」論議がなされました。
家族を愛し、地域を愛し、国を愛することは別に悪いわけではありませんが、「国に対して、自分を殺して忠誠を誓え!」と言われるとちょっと首をかしげたくなります。

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2009年04月10日 近頃思うこと

個性

幼児期に、子どもたちの個性を伸ばすことが、子どもたちを無秩序にさせている原因の一つと考えている人がいるとしたら、そこには、勘違いが二つあります。一つは子どもを放任している姿を見て「個性を重視している」と思ってしまうことと、乳幼児施設や保護者が、子どもの思いのままに行動させることを「個性を重視している」と思っているということです。
個性とは、その名の通り「個人的な特性」のことを指します。人には様々な個人差があります。その個人差には、大きく二通りあるような気がします。一つは、発達のスピードが個々によって違う場合です。たとえば、いつ歩けるようになるか、いつおむつが取れるようになるかなどです。しかし、この個人差は、広い意味では、個性を形成するうえで、影響を及ぼすことはありますが、直接、個性にはなっていきません。それは、質の個人差ではないからです。それに対して、「絵が得意」とか、「何かを作るのが得意」とかいうものは、それぞれの質の個人差ですので、個性になっていきます。
この二つの個人差は、それを援助し、尊重されなければなりません。それは、子どもの発達を助長することが大人の役目であり、一方、各自の特性を生かすことが社会を形成するうえで、大切だからです。
私は、今、小学館の「3,4,5の保育」という雑誌の中で、映画評論を隔月で書いています。今度取り上げる作品は、「ぼくが天使になった日」です。この映画では、アメリカで行われている「スペリング大会」が重要な意味を持ちます。主人公が、全米スペリング大会に出場するからです。この映画の説明で、このように書いています。
「この映画が始まると、出演者名がスクリーンに現れると同時に、子どもの声で、単語の説明が始まります。
はみだし者:仲間に入れず、無視される人。みんなと違う人。
特別:すぐれていること。普通や平凡でないこと。
反逆:権力や世の流れに対して逆らって行動すること。
天才:すばらしい才能を持っている人
こんな言葉が続きます。これらの単語のイメージはまったく逆ですが、不思議と意味は近いものがあります。この映画の主人公の10歳の男の子は、はじめはみんなからの評価は「はみだし者」だったのが、次第に「特別な人」になっていき、「反逆児」だったのが、「天才児」になっていくのです。本人は何も変わっていかないのに評価が変わっていくのです。」
このほかに、この映画では単語の説明が並びます。
異質:同じでないこと。他と違うこと。
ユニーク;たったひとつなこと。同じもの、並ぶものがないこと。
フリーク:普通でないもの。珍しい異形の見本として見世物などに展示される風変わりな人や動物などのこと。または、傑出した有機の持ち主。
この言葉などは、使い方のよっては、まったく逆の意味になってしまうような言葉ですね。本の中の私の文章は、次の言葉で締めくくっています。
「男女にしても、年齢にしても、子ども像にしても私たちはずいぶん思い込まされているものが多くあります。子どもたち一人一人が、本当の自分を見つけていけるようなお手伝いをしていけたらと思っています。」それが個性尊重です。

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2009年04月09日 江戸文化

子どもの文化

昨日のブログで書いた日本における児童観について、同じようなことを山口県立大學の准教授であるウィルソン・エイミーさんが書いていました。
「アメリカでは、子どもは“小さな大人”としてみられることが多いように思います。生まれて間もないのに、飾り付けがきちんとされた個室を与えて、1歳児なのに、小さなジーパンをはかせて。厚い生地のジャケットやひも付きの靴、大人のものと変わらないようなファッション。お話が少しできるようになったら、選択肢を与えて“今日はパン?シリアル?”“どっちの絵本がいいの?”とか、子どもの考え方や意見がしっかり育つような教育をしています。しつけにおいても、大人の社会で子どもが礼儀正しくいられるように、しっかりとした“YES・NO”を求めるし、従わないと罰を与えることがあります。(近年では、体罰ではなく、好きなテレビが見られないとか、一定期間と友達と遊べないとか)。それがうまくいったときに、礼儀正しい子どもに育つのですが、その逆に、ショッピングセンターのど真ん中で体を床に投げ出して大泣きしている子どもを見ることも少なくありません。」
子どもに選択させるというのは、一見子ども主体に思いますが、実は礼儀から意見を言わせようとしたり、また、責任をとらせようという大人の考え方をあてはめていることが多く、子どもの意見を尊重しているというわけではないようです。ですから、かえって、このような礼儀正しさの強要は、わがままを言ったり、無理なことを強引に押し通そうとする子を生んでしまっているのです。それに比べて、日本では、こう考えているということが続けて書かれています。
「それに対して、日本では、子どもに自分で着やすい服を着せること、一緒に寝ること、子どもの行きたい方向に親も行くといった、子どもを中心とした生活をしているように思います。私の子どもの保育園の保育士を見て、いつも感動し自分も見習おうといているのは、子どもの怒りやイライラ感を無理やりにやめさせようとせずに、そのまま受け止め、子どもの気持ちをわかってあげることで子どもが素直になるということです。
日本の子育てがうまくいったときに、アメリカと違った意味での“子どもの文化”を伝えることで、子どもらしさが育っているような気がします。」
新入学の時期に、小1プロブレムについてのコメントがいろいろなところで言われていますが、1年生が自分勝手なのは、幼稚園、保育園時代に個性を重視しすぎるからということを聞くことがあります。しかし、私は、どうもアメリカのように子どもを早くきちんとさせようとすることに原因があるように思います。幼児期に、きちんと子どもを子どもとして扱われ、その時期の育ちをきちんと保障され、子どもの思いをきちんと受け止められた子ほど情緒が安定し、素直になると思います。また、1年生できちんとさせようと急ぐよりも、寺子屋のように、小学校に入っても、もう少しおおらかに、子どもらしさを保証してあげる環境を考えたほうがいと思うのですが。
「昔のように子どもをきちんとさせる」という「昔」とはいつのころのことなのでしょうか。戦時中のことなのでしょうか。礼儀正しい武家社会でも、子どもが大切にされていた「子どもの文化」が日本にはあったようです。

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2009年04月08日 江戸文化

許容

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この絵は、謙堂文庫所蔵の「文学万代の宝」というものですが、沖田行司さんの書いた「日本人を作った教育」(大巧社)の扉に取り上げられています。その裏には、こんな説明が書かれています。
「近世の寺子屋を描いた浮世絵のほとんどが、このように一見して“学級崩壊”を思わせるような状況を描いている。むしろこうした状態が一般的であったのだろう。そこには、本来子どもは無邪気で生き生きとした存在であるという児童観が投影されている。子どもを小さな大人と見る視点が導入されるのは、子どもの世界に大人の秩序観が適応されてくる近代に入ってからのことである。このように、無秩序にみえても、一定の範囲と限界を越えたときには厳しい罰則が用意されていた。」
この「一定の範囲と限界」というのはどういうところなのでしょうか。ある意味では、人を許容する範囲でしょうが、これは子どもに対してだけではなく、他人に対して最近狭くなっている気がします。上杉謙信の家訓16カ条というのがありますが、その中の16番目は、「心に迷いなき時は人を咎めず」とあるように、人を咎めるときは心に迷いのある時で、すなわち、最近人に対して許容範囲が狭くなってきているということは、心に迷いが多い人が増えているということでしょうか。また、子どもをやたらと怒りつける人は、心に迷いの多い人なのでしょうか。
このような許容の心を持つ指導は落ちこぼれをなくし、学ぶ意欲を増していたと考えられます。そのような教育法は、何も理論的に構築されたり、マニュアルとして伝わってきたのではなく、実践から生み出されたものでしょう。そして、当時の子ども観が影響していると思います。この日本における子ども観が、私は今の時代に必要なことであり、世界でも先駆的な考え方のような気がします。それを前出の本にこう書いてありました。
「“子どもは未熟な大人”という欧米社会に根強くみられる児童観とは異なり、ある一定の年齢に達するまで、なるべく人間の手をくわえないで、子どもを自然の状態においてその成長を見守るという児童観が日本にはあった。今も各地に子どもを中心とするお祭りが多く残っているが、それは子どもが大人に比べて神に近い存在と考えられていたからである。」
だからといって、子どもは何をしてもいいというわけではなく、「一定の限界」がありました。寺子屋においても教育指導としての「罰」が用意されていたようです。この本にはどんな時に「罰」が与えられていたかが書かれてあります。
「不品行にして他人に妨害を加うる者」「怠惰にして学業未熟なるもの」「喧嘩争論するもの」「他人を欺き若くは盗するもの」とあります。「怠惰…」という項目以外は、基本的に他人に危害を及ぼす時で、いわゆる共生する社会人になるためのルールであり、自分だけが行儀が悪かろうが、あくびをしようが、姿勢が悪かろうが、そんなことは気にはならなかったようです。
また、罰するときにも、武士の子どもの教育では体罰は好ましくないものとされていたようです。誇りを重んじる武士社会にあって、その存在を否定するような体罰は、むしろ武士の誇りを傷つけるものと考えられていたからです。子どもといえども、一人の人間としての尊厳を守ってあげていたのですね。

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2009年04月07日 江戸文化

小野

寺子屋における教科書ともいえる「往来物」によく登場する人の一人に「小野小町」がいます。彼女は、女子のための往来物によく登場するようです。彼女は、クレオパトラ、楊貴妃と並ぶ世界三大美女の一人といわれています。また、百人一首の中にも収められているように歌の才能も多くの認めるところだったようです。しかし、その美しさゆえに恋多き女性として、華麗な恋遍歴を積み重ねていきます。その美貌も歳とともに衰え、多くの男性は去っていきます。そんな心境を歌にしたものが有名です。
「色見えでうつろうものは世の中の 人の心の花にぞありける」(花の色は目に見えて色などがはっきりと変わっていくことが分かるが、それに比べてその変り方が目に見えないのは、人の心だ)というように、人の心の中が変わっていく虚しさをうたっていますし、晩年には、あの百人一首でも有名な「花のいろは移りにけりないたずらに 我が身世に降る長雨せしまに」(いたずらに過ぎていく時の移ろいの中で、春の長雨が降っている間に、自分もただ眺めているだけで何もしないうちに色褪せてきてしまった。そんな今は、どうすることもできない)というような、美しさの人生は、最後は嘆きの人生のようです。
 寺子屋の教材としては、あまり恋物語は適していないので、歌人としての紹介だったようです。それにしても、小野の小町はずいぶんと逸話が多い人物です。また、その逸話を題材にした能や浄瑠璃や謡曲などがあります。それらの作品群のことを「小町物」というほど一つのジャンルを形成していました。能の小町物には、和歌の素晴らしいよみ手として彼女をたたえるものと、恋物語を題材にするものなどがありますが、「卒塔婆小町」などに代表される小野小町が年老いてからの話などがあります。この話の挿絵には、年老いて、乞食になって卒塔婆に腰かけている姿が描かれ、とてもみじめなもので、こんな姿で、百人一首のあの歌を詠んだと思うと、みじめになりますね。
こんなに逸話を多く残した小町ですから、各地に彼女にまつわる場所があります。先日、妻と訪れた山形県にある「小野川温泉」もゆかりがありました。
小野川温泉の開湯の由来は、こんな伝説があります。承和3年(836)に小野小町が父親を探して京都から東北への旅を重ねます。そのころ父親は、出羽の守(山形県知事に該当)として山形に居たのです。僅かの供をつれた若い女性の孤独な旅でした。しかし、長旅で身も心も疲れ果てて米沢の街はずれの小野川までやっと辿り着いたとき、小川に自分の顔を写してみました。すると、川面に映った自分の顔は、疲れきって、鬼のように見えます。(後に土地の人達はこの川を鬼面川と呼ぶようになりました)そして、疲労が重なり大病を患って倒れてしまいます。しかし、小町は偶然その川辺に湯煙を見つけました。そこを少し掘ると滾々と湯が湧き出てきたために、これは天からの授かりものと考え、その湯に3日ほど浸かると、小町の体の内側から元気が湧いてきて肌にも張りがでてきました。そうして後もう一度小町は、おそるおそる川面に自分の顔を映してみました。すると、そこには今度は若く妖艶で美しい顔がありました。しかも、偶然釣りにきた父親とも再会する事が出来ました。さらに温泉療養を続けて、病気も完治し、京へ帰ることにしました。再び美しくなった小町は、京でまた貴公子たちの注目を集めます。しかし、残酷にも歳には勝てないということを思い知らされるのです。この小町が開湯した温泉は、「小野川温泉」と名付けられ、この地には「小町休み石」や「薬師如来尊堂」など小町に縁があるものが点在しています。天正17年(1589)には伊達政宗も湯治に訪れたそうで、米沢市の奥座敷として米沢十湯の一つに数えられています。

投稿者 fujimori : 23:27 | コメント (4)

2009年04月06日 江戸文化

教科書

今日は、小学校の入学式でした。卒園児たちが文部科学省から贈呈された新しい教科書を、ピカピカのランドセルに入れて挨拶に来てくれました。
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いよいよこの教科書を使って授業が始まるのですが、1年生でも様々な教科があります。その中でも、とくに「国語」の授業が多く、全体の3.6割くらいを占めます。1.6割くらいを算数が占めています。寺子屋でも「よみ・かき・そろばん」が重視されていましたから、当然そこに時間を多く割いていました。その中でも、文字の習得が一番の課題でしたから、今でいう「国語」の授業は、全体の6~7割も占めていたようです。
文字に関して、小学校学習指導要領では、「平仮名及び片仮名を読み,書くこと。また,片仮名で書く語の種類を知り,文や文章の中で使うこと。」「第1学年においては,別表の学年別漢字配当表の第1学年に配当されている漢字を読み,漸次書き,文や文章の中で使うこと。」とあります。おおざっぱに言うと、平仮名47文字、片仮名47文字、漢字80字です。ところが、寺子屋では、このほかに「変体仮名」がたくさんあり、それも覚えなければなりません。漢字も、学年ごとに配当されていたわけでもありませんでしたし、名前に使う漢字もずいぶん難しいものもありました。それをどう教えたのでしょうか。寺子屋の楽しい勉強法「子どもたちは象をどう量ったのか?」(西田知己著 柏書房)の中で紹介されています。
 「寺子屋の師匠は“いろは”順にこだわらず、身近なところから言葉を増やしていくよう指導していました。鳥や花など、すでに知っているものの名前を書かせ、読み書きの能力を広げていったのです。だんだん文字が読めるようになり、身の回りにあるものの名前の知識も増えてくると、それに応じて読む分量も増やされていきます。単語をつなぎ合わせた、やや長めのフレーズに進み、そして今度は、ひとまとまりの内容を持つ文章へと次第にステップ・アップしていきます。」
 その内容は、まあまあ今の教科書と大差なさそうですね。しかし、そこには実は大きな違いがいくつかあります。まず、一斉に前で先生が講義をするという形でないために、ステップ・アップしていく教材や時期は、個々によって、違っているのです。また、学びが自発的であるために、そばであくびをしていたり、顔に墨を塗ったりしてふざける子がいても先生はあまり気にしません。
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 教科書の内容も今と少し違っていました。今の国語に取り上げられている文章は「説明文」と「物語文」です。それに対して寺子屋での教科書(往来物)は、寓話タイプの昔話が多かったようです。これも物語文ではありましたが、社会性のある教訓が織り込まれていたようです。
 また、机の並べ方も自由でした。寺子屋に入学するときにそれぞれは机を持ち込んでいました。それを、好きな所に好きなように並べていました。たとえば、みんなで輪になり、向き合ってお互いの顔が見えるようにして手習いをしている絵が前出の本に紹介されていました。
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以前のブログでも紹介しましたが、アメリカでは、授業の導入時は、教師は子どもたちを教室の床の上に車座に座らせて、自身はその中心に陣取って説明を行います。そして、この車座のガイダンスが終了すると子どもたちは次々とグループや個別の学習作業へと移行していきます。移動する先は様々であり、床の上に寝そべって本を読み始める子ども、机の下に入り込んでコミュニケーションをとる子どもなど学習の姿勢も様々です。
 なんと、江戸時代の寺子屋にその原型を見ているようです。

投稿者 fujimori : 16:44 | コメント (5)

2009年04月05日 江戸文化

小1

東京都教育委員会では、平成16年に「東京都教育ビジョン」というものを出しています。その中で「幼稚園・保育所・小学校の連携強化による小学校への円滑な移行」が提言されていますが、その意図として「現在、小学校では、「小1プロブレム」と呼ばれるような状況が生じており、幼児期からの心の教育や幼稚園・保育所と小学校教育との接続の重要性が改めて注目されている。」とあります。
私は、幼小連携は大切だと思います。子どもたちの発達は連続性があり、行く施設が変わる時の連続性をどう保障していくかはとても重要な課題です。しかし、ここにあげられている「小1プロブレム」は連携の希薄さからだけでしょうか。先月に品川区の新しい取り組みが新聞で紹介されていました。
「小学校に入った児童が授業中に座っていられないなどの「小1プロブレム」に対応するため、東京都品川区教育委員会は、幼稚園・保育園と小学校の一貫教育のカリキュラムを作ることを決めた。集団生活のルールなどを教え、就学前後の教育の連続性を得る目的。2010年度にも導入する。区立・私立の幼稚園や保育園の園長、区立小の校長、学識経験者らを集めた「就学前教育推進委員会」を5月に設ける。カリキュラムは、入学前の10月頃から小1の6月頃までの子供が対象。集団生活に慣れるよう、ドッジボールや合奏など集団で力を合わせる体験を盛り込む。「トイレには休み時間中に行く」など、入学後に必要になるルールも教える。幼稚園などには小学校教員が出向いて教える方法などを想定しており、入学までに簡単な計算やひらがなの読み書きを教えることが出来ないかも検討している。」
先月卒園していった子どもたちは、いよいよ小学校生活が始まります。その子たちは、園では集団で過ごしていました。当然トイレには自分ひとりで行き、お集まりなどではきちんと座って先生の話を聞いていました。また、集団で遊ぶときには当然ルールがあり、それを守らないと他の子から注意をされていました。「東京都教育ビジョン」の中で書かれている「小1プロブレム」について注釈が書かれてあります。
「4月 小学校に入学したばかりの小学校1年生が集団行動が取れない、授業中に座っていられない、話を聞かないなどの状態が数ヶ月継続する状態。これまでは1か月程度で落ち着くと言われていたが、これが継続するようになり就学前の幼児教育が注目され出した。」
なぜ、こんな状態になるのでしょうか。また、この状況に対して「就学前の幼児教育が注目」というのはわかりますが、どうして、「就学後の学校教育の在り方の見直し」を考えないのでしょうか。寺子屋での教育を見ると、6,7,8歳の授業態度は今の時代からすると、かなりひどいものがあります。それを認めて、本人の自主性を重んじた教育が、教育効果を上げているのです。最近、子どもたちの学力が低下してきているといわれていますが、その原因の一つにじっと座れなかったり、きちんと人の話を聞けないということがあるといわれています。しかし、どうして寺子屋のような授業態度で、成果が上がっていたのでしょうか。

投稿者 fujimori : 22:07 | コメント (5)

2009年04月04日 江戸文化

男女

今年の初め、NHK総合テレビで、NHKスペシャル「女と男」という番組を3回シリーズで放送していました。その第2回目のテーマは、「何が違う?なぜ違う?」ということで、男女の差についての放送でした。その番組の中で、男女平等の国の代表であるアメリカで新たな“男女区別”がはじまっているという内容で、小学校や中学校の義務教育現場で、男女別授業を行う学校が増えていることを紹介していました。私が子どものころにも、男女別々に授業をしたことがありました。それは、家庭科とか保健体育の授業です。なぜ分けたかというと、男女に対して教える内容が違っていたからです。それは、ある刷り込みによって、男女の役割分担をしていたからです。それはおかしいということで、男女が同じ内容を、同じ教室の中で授業を受けることになりました。しかし、同じといっても、成長期には特に男女の差=性差が出てきます。そこで、それぞれの性に合った教育をしようという試みです。すなわち、教える内容は同じでも、その教え方、学び方に男女差があるのではないかということです。
この性差について医学の分野でも、病気の男女の違いを重視する動きが広まっています。こうした動きの背景にあるのは、最近、次々と新たな男女差が見つかっているからのようです。特に、脳は、性ホルモンなどの影響で性差が生まれていることが最近になってはっきりしてきました。そして、その差は、「同じことをしていても、脳の使いようが男女で異なっている」ということがわかってきたからです。では、脳の使い方が違うというのはどういうことかというと、「男女それぞれで得意なことが違う」ということです。では、なぜ人間は男女で得意なことをわざわざ違うようにしたのかというと、「ともに生き延びる」ためであるといいます。狩猟採集時代では、ヒトの祖先はいつも飢えとの戦いのなかにあったために、役割分担をしていろいろな食糧を確保する生存戦略を採ったといわれています。
脳の使い方に男女差があるということは、教育方法を変えてみようと思うかもしれませんね。番組の中では、授業を女子はみんな仲良く、みんな友達だと言って姿勢を正しくして話を聞くと身になるようですが、男子は、ハイハイと競って手を挙げて、床に転がったり、姿勢を悪くしたほうが身になるというのです。ということで、園や学校で、「姿勢を正しくして、前を向いてきちんと先生の話を聞きなさい!」というのは、女子には通じますが、男子の場合は、そうすることで耳を素通りしてしまって、身にならないといいます。ということは、園や学校では、女性脳に向いているような授業がされているのではないかということが言えそうです。
知能テストを解くときに使った脳の場所を調べたところ、男女で違っているらしいという事実が浮かび上がってきています。得意な能力を生かせるように、男女では脳のネットワークが異なっている可能性が高いということがわかってきた今、ただ、大人の一方的な論理から子どもに「きちんとしなさい!」「背筋を伸ばして!」という声かけは、子どもの得意なことを失わせているかもしれません。思い思いの格好での学びを寺子屋ではおおらかに認めていたようです。それが、江戸時代の日本が、世界最高の教育水準を誇る教育先進国であったゆえんのような気がします。

投稿者 fujimori : 21:28 | コメント (4)

2009年04月03日 江戸文化

一斉

小学校の新1年生が入学式を終えて、教室に入るとまず何をするのでしょうか。私は、新しい学校建築を体験するために小学校に勤務したことがありますが、新1年生を担任したことを思い出します。体育館で入学式を終えて教室に戻る途中で、並んでいた一番後ろの大きい子が手をポケットに突っこんで、ぶらぶら歩いていました。そこで、私が「手をポケットから出しなさい。」というと、「うるせえなあ、てめえだってするくせによ!」と言われたのです。この後の経緯については、かつてブログで書いたのでここでは書きませんが、そのあと教室に入ると、みんなきれいに並んである机の前に立ちます。そして、一斉に「起立!礼!着席!」という号令のもと、イスに座ります。この日から、子どもたちは延々と何年も机の前に座って、多くの時間は先生の話を聞いて過ごすことになるのです。考えてみると、なんともすごい話です。
このような一斉授業に対して、最近多くなっているのが学習塾などで見られる個別指導といわれるものです。しかし、どうもこの定義はあいまいで、塾によって違うようですが、多くは講師1人に対して生徒が少人数であるとか、いわゆるマンツーマンで指導することを指しているようです。一斉に多くの人数を相手にするよりは、少人数を相手にするほうがきめ細かな指導ができるというものです。
では、寺子屋などで行われた個別指導というのはどのようなものだったのでしょうか。どうも、塾で行われているような個別指導とは少し違うようです。また、「江戸の学び」(河出書房新社)の本の中から読み取ってみたいと思います。まず、一斉授業の象徴である教科書ですが、寺子屋ではどのような教科書を使っていたのでしょうか。たとえば、「読み書きそろばん」となると、当然手本が必要になってきます。これも以前のブログで紹介しましたが、「往来物」という往復書状を師匠が書き写した手書きの「お手本」が渡されました。それを見ながら「草紙」という練習帳に写していくのです。その時に、「個別指導」というのは、個別に教えるということではなく、その子にあったお手本が渡されるということのようです。本の中で群馬県のある寺子屋の例が書かれています。「師匠が弟子一人ひとりの必要性を勘案して策定した計62人分の個別学習カリキュラムを記した「弟子記」「次弟子記」がつくられた。一人ひとりの名前を挙げて、そのものが学ぶべき教科書である往来物が選択されている。」
いわゆる学習は自主性と自発性を持って行われていたために、個別指導というのは、個別の習熟度によって教材を変えたり、指導内容を変えたりしたということで、教え方の問題ではないということで、特に、一人ひとりを相手にしたということではないのです。そのように環境をその子にあったものを用意するということがきめ細かいということで、教師一人当たりの子どもの人数を少なくして指導するようであれば、かえって、一斉よりも管理が強くなってしまうことになるのです。
このような寺子屋での個別指導は、画一性や落ちこぼれをなくし、おおらかな教育を生んできました。本の中で、「もしも、寺子屋で一斉教授を行おうとすれば、寺子屋で起きていた子どもたちの悪ふざけは、学習の障害として排除されなければならなかったであろう。子どもたちのおおらかさは、寺子屋で採用されていた個別教授のあり方に強く規定されていたのである。」

投稿者 fujimori : 22:32 | コメント (4)

2009年04月02日 江戸文化

学齢

来週には、小学校の入学式があります。東京では、桜の開花は早かったのですが、そのあと冷え込んだために入学式のころは、桜が満開のようです。「サクラ咲いたら一年生 ひとりで行けるかな 隣に座る子いい子かな 友達になれるかな 誰でも最初は一年生 ドキドキするけどドンといけー ドッキドキドン!一年生」
日本では、小学校への入学は、学校教育法(昭和22年)第22条によって定められています。「保護者(中略)は、子女の満6才に達した日の翌日以後における最初の学年の初めから、満12才に達した日の属する学年の終わりまで、これを小学校(中略)に就学させる義務を負う。(後略)」このことにより、保護者は6歳になると小学校に行かせる義務があるという「義務教育」という考え方が生まれます。そして、学校に就学して教育を受けることが適切とされる年齢のことを学齢といいます。戦後の日本では、義務教育の対象年齢のことを学齢と称するため、日本国籍者についての学齢期と義務教育期は同一のものをさしていることになります。
しかし、この学齢期が小中学校教育を受けるのに最適な年齢であるかどうかは個人によって違います。そこで、多くの外国では、児童の発達に合わせて小学校に入学する時期を猶予して基準年齢を遅らせたり、逆に早めたりすることがあります。日本でも義務教育への就学猶予という制度もあります。その理由としては、病弱、発育不完全その他やむを得ない事由のために就学困難と認められる場合です。しかし、多くの外国では、特にヨーロッパでは学齢に達した児童が学校の授業に適応できる程度まで成長しているという「学齢成熟」に達しているかいないで判断することが多いようです。ドイツ連邦共和国などでは、その時期は、保護者や現場の教員などの意見が反映されます。こうすることで、小学校入学後に落ちこぼれて落第をすることを減らせるというメリットがあるようです。
日本では、あくまでも年齢主義をとっているので、原級留置処置といういわゆる落第もあまり見られません。外から見える形がみんなと同じでないと、可哀そうという考え方が強いようです。しかし、江戸時代の寺子屋ではどうだったのでしょう。
寺子屋でも基本的には入学年齢は決められていましたが、その運用では、現在のヨーロッパをはじめとする諸外国と非常に近いものがありました。それは、実年齢というよりも成熟年齢で判断をしていました。しかし、それも面白いデータがあります。それは、地域差があるということです。江戸と下野との表が「江戸の学び」(河出書房新社)にあります。寺小屋への入学年齢が下野では、1歳1名、2歳3名、3歳7名、4歳2名、5歳11名、6歳6名、7歳4名、8歳4名、9歳3名、11歳1名、12歳1名です。ずいぶんと各年齢に散らばっています。それに比べて江戸では、6歳26名、7歳8名、8歳6名、9歳3名、10歳1名、12歳1名となっています。当時は義務教育ではありませんが、江戸では、6歳になったら寺子屋に通わせるという均一的な考えが強かったようです。また、小さい年齢から預けるのは早期教育ということではなく、先日のブログでも書きましたが、地方では、寺子屋は託児的な意味合いが強かったからでしょう。ただ、成熟してから入学をさせるという意味の就学猶予はどちらの地域でも行っています。
周りの目を気にせずに、本当に子どものことを考えると、そうなるのかもしれません。

投稿者 fujimori : 22:56 | コメント (4)

2009年04月01日 江戸文化

寺子屋の生活

寺子屋に子どもを出す時、親はどのような心境だったか、子どもたちはどのような心境だったかが「江戸の学び」の中で市川寛明さんが紹介している川柳で読み取ることができます。
「手習子 腹が痛いと 母に言い」という句を読むと、学校に行きたくないと思った時に、母親に「おなかが痛い!」というのは変わらないようです。しかも、母親というものは、それはわがままで行きたくないと思う反面、本当におなかが痛かったらどうしようと心配します。私は、行きたくないときに、おなかが痛いといわゆるうそを言っているのではなく、行きたくないときには本当におなかが痛くなるのだと思います。多くの病気は、気の持ち方でそのような症状になることがあるのです。ですから、その気持ちを理解してあげなければ、おなかの痛いのは治らないでしょう。
「いきは牛 帰りは馬の 手習子」学校に向かう子どもの様子が目に浮かびます。登校する時には、朝からなんとなくだらだらして、歩くときもぶらぶらしますが、帰ってくるときは一目散に飛んで帰ってきます。これは、会社に行くお父さんにも言えることかもしれません。子供だけを責められませんね。
「手習子 弁当箱を さしに持ち」「昼飯を 外から怒鳴る 手習子」寺子屋では、給食がありません。だからといって、みんなお弁当を持ってきたわけでもなく、それぞれの家庭の状況、考え方でお弁当の子や自宅に帰って食べる子などさまざまであったようです。これは、外国と似ています。だからといって、差別観を持つとか、可哀そうということよりも、個々のあり方を尊重するといった今の時代の先端の考え方です。
「さはがしい 八つ上りまへ 九々のこゑ」寺子屋の授業は、基本的には個別指導です。一斉に教師が声を張り上げて、みんなを前に向かせて講義をするという形はとりません。しかし、寺子屋の終了時間である八つ(おやつというように、今で言うとだいたい午後3時ころ)になると、みんなで集まって「お帰りの会」のようなものをやっていたようです。そこでは、みんなで声をあわっせて九九を暗唱していたようです。
その暗唱が終わると、子どもたちは一斉に、蜂の子を散らしたように部屋から外に飛び出していきます。「手習子 蜂の如くに 路地から出」子どもたちが出たあとの部屋は、嵐お後の静けさのように、突然静かになります。「手習の 跡は野分の 八つ下がり」この句からは、いわゆる授業中でも、そんなシーンと静まり返っているのではなく、かなり子どもたちは自由にしていたようです。それは、帰宅したわが子の顔を見ればわかります。
「八下り 母の吹き出す 黒坊」顔に墨をつけて帰ってきた子を見て、叱るよりは吹き出してしまいます。隣の子とふざけあっていたのでしょうか、また、先生に怒られて顔に墨を塗られたのでしょうか。こんなおおらかな親子関係はほほえましいですね。そして、「急いで顔を洗っておいで!」と言いつつ「手習子 母の頼みで 糠袋」今でいう石鹸の代わりのぬか袋を子どもに渡します。「顔を洗ったら御飯だよ!」という母親は少し前までいたような気がします。「手習子 一皮剥けて 飯を喰い」
このようなおおらかで、自由にのびのびと生活、勉強をしている子どもたちは、当時、世界の中でも非常に高い学力を持っていたようです。このころの寺子屋に、もう一度学ぶべきかもしれません。

投稿者 fujimori : 22:17 | コメント (4)