ツツジ

 今は、東京では街路のわきでオオムラツツジが満開です。
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先日のブログに、ソメイヨシノの発祥の地の「染井」に住んでいた植木職人の伊東伊兵衛のことを書きましたが、実は、彼は桜というよりもツツジについての専門家でした。彼は、元禄5年(1692年)に「錦繍枕」を刊行していますが、この書籍は、世界最古のツツジとサツキ専門書です。また、彼は、同時代に江戸で活躍した音楽家佐山検校とともに「躑躅(つつじ)」という長歌もの地歌曲を作っていますが、この歌詞の中には、ツツジが22品種詠み込まれています。
 染井の伊東伊兵衛は、「花屋の伊兵衛といふ, つつじを植しおびたゝし,」と言われるほど、たくさんのツツジを植えたようです。なぜ、そんなにたくさんのツツジを所有するようになったかというと、享保4 年 (1719) の自序がある辻雪洞著「東都紀行」にこのように書かれてあります。「杜鵑花(サツキ)今さかりの家有、是なん躑躅(ツツジ)や猪兵衛とて、江北の木商なり、其初めは、藤堂大学頭高久の露除(つゆよけ)の男成しに、大学頭、
草花の類当座に移し持たせ、花過れば悉くぬき捨させけるをば、此伊兵衛植ためけるより、次第次第に、きり島つゝじ、百椿、牡、芍、さしぬ花の木、百竹、百楓、百梅、百桜などゝ、すけばあつまる所成べし。」
伊藤伊兵衛という名は、代々襲名された名前ですが、三代目は、伊藤伊兵衛三之丞といいます。彼は、藤堂大学頭その下屋敷で露除といういわば庭師のような下男のような仕事をしていました。その屋敷でいらなくなった花などを藤堂が彼に持たせ、彼はそれを自分の庭に移植しました。そこで、彼の庭にはたくさんの花や樹木が植えられたのです。その中で「霧島ツツジ」は見事で、彼は自分のことを「きり嶋屋伊兵衛」と名乗ったほどでした。その環境の中で育ち、日本で一番の植木職人になったのがその子、4代目の伊藤伊兵衛政武です。その墓に行ったときのことを書いたのが前回のブログです。
この伊兵衛が活躍する場が多くあったのは、江戸時代の将軍、「家康」「秀忠」「家光」はとても花好きだったそうですし、参勤交代が、全国各地から様々な花卉や草木を江戸にもたらしたことも影響しています。また、江戸の大火と言われる火事が何度か江戸を襲います。そのためい、江戸屋敷は、庭を広くとり、数々の花や樹木を庭園に植えたので、植木職人の需要が多かったようです。それから、徳川の世になり、各地での戦いがなくなり、時代的に安定し、生活にゆとりが生まれたことも影響したでしょう。
伊兵衛父子の著作である「錦繍枕」は、父は自分の最も得意とするツツジ、サツキに関して書かれ、全体的なものとして「花壇地錦抄」をあらわします。この本がベストセラーになり、幕末になって同じ装丁で「長生花林抄」というタイトルで出版されました。その巻頭言には、こう書かれてあります。
「古にいはく 肘をまげて枕とす 楽 其中にありと 僕がたのしみハ花なり 紅の色々ある中に一花数品の変化あるものハ 躑躅きりしまさつきなり 其かたちを委く 画き接木またハ土かひ養ふことまでを書あつめ一巻の草紙となし錦繍枕といふ…」
確かに、花を眺めることは、どの季節でも楽しみです。しかし、その中でも特にツツジが伊兵衛は好きだったようです。そう思って改めてツツジを眺めると、そんな気がしてきます。

なんといっても

日本人は、何と言っても富士山が好きですね。読売新聞創刊135周年を記念して新時代の景観を選ぶ「平成百景」が決定しましたが、当然堂々の一位に輝いたのは、「富士山」でした。この投票の反響はずいぶん大きかったようで、投票総数は64万票を上回ったようです。2位以下は、地元・山梨の熱烈な支持で「昇仙峡」で、3位は「知床」でした。また、この投票は、新時代の景観を選ぶということで、平成になってから誕生したり、見直されたりした景観で投票上位に入り、選考委員の評価が高かったのは、「甲府盆地の夜景」と「東京ディズニーリゾート」、「横浜みなとみらい21」「鉄道博物館」「直島」などが選ばれたようです。
環境省では、平成17年度から富士山登山者数の把握を目的に、4登山道の各八合目付近に赤外線カウンターを設置し、八合目以上への登山者数調査を実施していますが、平成20年7月1日から8月31日までの富士山八合目でのカウント数の合計は約30万5千人で、昨年度に比べて約7万3千人も増加しているそうで、また最近人気があるようです。
昔から、富士山は、日本を代表する景色で、その雄大さと美しいフォルム、1日の中で時刻によって、1年の中で季節によってその姿を変え、気品と気高さを感じます。また、眺める方向からも姿を変え、時には荒々しく、時には優しさを私たちに与えてくれ、深い感銘を覚え、「心のふるさと」としてそびえています。
私は、いろいろな場所の桜で見るように、いろいろなところから富士山を見るのが楽しみです。先日、飛行機から富士山を見ることができました。今の季節は、雪が程よくつもっていて、とても美しい姿です。
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飛行機から富士山は、上から見る姿と同時に、雲海を背景に、その上に頭を出す姿も見ることができます。今年の3月には、そのような姿を見ることができました。
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それから、今年は、違ったところから富士山も見ることができました。それは、富士急行の車両の最前列から目の前にそびえる富士山です。
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この電車はお勧めです。300円の特急料金を払えば、大月駅から河口湖駅まで、特急列車フジサン特急に乗ることができます。また、展望室のある車両は、展望席を含めたすべての座席が定員制で、この車両に乗車する場合は区間に関わらず、別途着席整理料金100円を払えばいいのです。しかも、その車両に乗ったときに、乗客は私と妻のほか一組しかいませんでした。
私の住んでいる八王子からも富士山を見るポイントがいくつかあります。ミシュランで選ばれた高尾山からも今年は運良く見ることができました。
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また、1日の中でも姿を変えますが、八王子の駅ビルの屋上から、夕方の富士を今年の初めに見ることができました。
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富士山は、このような姿の美しさだけでなく、その懐の深さによって、多様な自然の豊かさとともに、原生林をはじめ貴重な動植物の分布など、学術的にも高い価値を持っています。その原生林は、豊富な地下水などの恵みももたらしてくれます。
しかし、なかなか世界遺産に登録できないように、自然に対する過度の利用や社会経済活動などの人々の営みは、富士山の自然環境に様々な影響を及ぼしてしまっています。富士山の貴重な自然は、人気があるだけでなく、もっと未来の子供たちのため、その自然環境の保全に取り組まなければならないでしょう。

茶摘み

もうすぐ「夏も近づく八十八夜」ですね。八十八夜とは雑節の一つで、立春から数えて88日目の日のことを言いますので、今年は、5月2日です。少し前では青森では雪が降ったそうですが、八十八夜は夏に近づく半面、「八十八夜の別れ霜」「八十八夜の泣き霜」などと言われるように、遅霜が発生する時期です。霜のなくなる安定した気候の訪れる時期であると同時に、まだまだ霜も降りることがあるという春から夏へ移る境目の日として重要視されてきました。ですから、雑節として、農家の人にこのころは気をつけなさいというために入れられているのです。また、「八十八」という字を組み合わせると「米」という字になることから、この日は農家の人にとっては特別重要な日とされてきました。東北や山間村落では豊作を願うため、様々な占いを行います。現在でも禁忌が守られているところもあるようです。
八十八夜ころから「あれに見えるは 茶摘みじゃないか」という歌の題名が「茶摘み」というように、新茶の摘み取りが行われます。しかし、まだまだ霜が降りるときがあり、昔は藁をひき、霜を防いだようですが、今は、扇風機で風を送ったり、黒い網で覆ったりしています。また、ちょうど八十八夜の日に摘んだ茶は上等なものとされ、この日にお茶を飲むと長生きするとも言われ、珍重されてきました。そうはいっても、日本列島北から南まで長いわけですから、地域によって、茶摘みの時期は異なります。
たまたま週末に佐賀県「嬉野温泉」に宿泊しましたが、この地は、「嬉野茶」として550年の歴史があります。このお茶は、美容と健康に効果があるといわれ、茶葉が一枚一枚丸いため、玉緑茶(グリ茶)と呼ばれています。江戸時代には、大浦慶という人が嬉野茶を長崎から海外へ出荷し、その利益が坂本龍馬や大隈重信の活動資金になったと言われていています。
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この嬉野市は、2006年1月1日、藤津郡塩田町と嬉野町が合併して誕生した、佐賀県で9番目の市です。少し時間があったので、重要伝統的建造物群保存地区の中で「商家町」として指定されている塩田津に行ってみました。ここは、長崎街道の宿場町として発展した塩田宿を後世に残すための保存運動が行われ、2005年に嬉野市塩田町の川港及び周辺の町家群が指定されています。長崎街道は、江戸時代に整備された脇街道の一つで、豊前国小倉の常盤橋を始点として、肥前国長崎に至る路線で、57里(約223.8km)の道程で、途中に25の宿場が置かれていました。そして、江戸時代においては、鎖国政策の下で全国唯一、幕府が外国との交易を行う港である長崎に通じる街道として、非常に重視されました。
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この旧長崎街道の塩田宿は、交通の要衝であり、有明海に注ぐ塩田川河口7kmの位置にあり、干満の差を利用した河港(津)として栄えたことから「塩田津」と呼ばれました。そして、水陸両路を利用し、明治以降も有田焼の原料となる熊本の天草陶石を陸揚げし陸送する、陶土の町としても繁栄しました。siotatu.jpg
今は、訪れたときには道には人っ子一人いず、閑散としていましたが、たまに出会う町の人は親しげに声をかけてくれました。人がいない分、地中に埋められた電線のおかげもあって、町のたたずまい、耐火機能をもつ江戸後期から明治にかけての「居蔵造」の町家、その他の施設が時代をさかのぼった気にさせてくれます。
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風呂敷と手ぬぐい

最近、漫画「サザエさん」の復刻版が出版されていますが、その漫画を読むと、その時代がよくわかります。今と変わらないところと、当時はよく見かけたのに、最近は全く見かけなくなったものがあります。その一つに、緑色の唐草模様の大風呂敷を背負って、
頬かぶりをし、口の周りにはぐるりと髭が生えているような空き巣や泥棒があります。
絵にかいたような空き巣の特徴は、その風貌だけではありません。忍び込んでくる姿も「抜き足、差し足、忍び足」です。この言葉も、最近、聞かなくなりました。これは、泥棒の歩き方ですが、子どもの頃に、何か悪いことをして逃げる時や、親の目を盗んでおやつを食べようとするときなどにも使いました。そして、サザエさんの漫画に出てくる泥棒は、どこか間が抜けていて、憎めないところがあるように描かれていることが多いようで、ずいぶんと、盗むほうも、盗まれるほうもおおらかだったですね。
ところで、この泥棒がかぶっている手ぬぐいは、昨日のブログの「姉さんかぶり」ではなく、その名の通り、「盗人かぶり」と呼ばれるかぶり方です。このかぶり方は、頭から頬にかけて包み、あごのあたりで、そのまま結ぶか、ねじって結ぶ「頬かぶり」の一種です。しかし、あごの下あで結ぶのではなく、手ぬぐいの両端を左脇にひねって挟み込むか、鼻の下で結びます。最近の強盗や泥棒は、マスクをしたり、ストッキングをかぶったり、外国では覆面をしたりして顔を隠しますが、日本では、このように手ぬぐいで盗人かぶりして人相を隠していました。
また、泥棒が背中に背負っている盗品を包んだ風呂敷の模様の多くは、緑色の唐草模様です。唐草模様というと、学校で習った、ギリシアの神殿などの遺跡でアカイア式円柱などに見られる草の文様が原型です。この文様は、「アラベスク」と言われ、繁栄を示していたためにアラブ諸国ではモスクの装飾としてよく用いられます。そして、メソポタミアやエジプトから各地に伝わり、日本にもシルクロード経由で中国から伝わってきました。
一方、物を包む布としての風呂敷には、その文様として花鳥風月を題材にするものが多く、吉祥文様など日本独特な文様が使われました。唐草模様のそのうちの一つで、江戸時代には、唐草は四方八方に伸びて限りが無く延命長寿や子孫繁栄の印として大変縁起が良い物とされていました。ですから婚礼道具や布団などを唐草の風呂敷で包んでいました。それが、明治から昭和にかけて大型風呂敷の文様として大量生産されたために、獅子舞のかぶり物や泥棒の小道具としてよくつかわれるようになったようです。
最近、泥棒は手ぬぐいや風呂敷は使わなくなりましたが、違う意味で、この両方は使われています。
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手ぬぐいは、装飾用だけでなく、その名の由来のような手をふくのにもつかわれています。素材が綿なので吸水性が良く乾き易いのはもちろんですが、最近、菌対策にも効果があるそうです。手ぬぐいは、ハンカチやタオルなどと違って端っこは「切りっぱなし」ですが、それは、汗を吸ったために生地の中で雑菌が繁殖するのを防いでいるのだそうです。また、「ほつれ」が出てきても、その糸をハサミでカットするだけで、ほつれた部分は3?5ミリ程度で止まるようにできているそうです。
風呂敷も、最近の過剰包装から、エコ、リユースという観点から見直されています。復刻版サザエさんから見直すものが見つかるかもしれませんね。

籠と手ぬぐい

 先日、山手線に乗ったとき、私が子どもの頃によく見かけた乗客を目にしました。それは、頭に手ぬぐいをまいて、茶色や紺の大きな風呂敷に包んだ大きな荷物を背負ったおばちゃん(おばあちゃん)を数人見かけたのです。普通であれば、席を譲られるであろう年齢の女性が、自分の背丈ほどあろう大きさの、四角に包み込まれたいかにも重そうな(30?から50?を越えると言われています)荷物を背負って、まだラッシュがおさまらない朝早くに電車に乗っているのです。
 彼女らの多くは、常磐線沿線の農家から、都区内に野菜などを売りに行く「行商のあばちゃん」なのです。私は、子どものころは総武線沿いの浅草橋の駅の近くに住んでいて、中学校は神田駅の近くでしたので、浅草橋から総武線で秋葉原までひと駅乗り、山の手か京浜東北線に乗り換え、ひと駅神田駅まで乗って通学していたので、よく見かけたので、家にも売りによく来ていたので、街中でもよく見かけた姿でした。
電車に乗っているときには、彼女らは席には座らず、荷物を席に置き、その前に立ちます。それは、降りるとき背負うのに、座席の高さを利用して、腰をかがめ、背中に背負うのです。背負い縄は、肩が痛くならないようにカラフルなで太く編んだものです。背負っている荷物は、たいていは、何段にも積み重ねた大きな背負い籠をに入れていることが多いのですが、背負子に積んであることもあります。背負子とは、木枠に短い爪をほぼ直角に付け、その水平な爪に荷物を載せ、背負い縄で負う形式の運搬具です。
彼女らの特徴は、どうしてかわかりませんが、背の低いお年寄りが多いことです。これは、たぶん、背が低いほうが腰を痛めないのでしょう。もう一つの特徴は頭に手ぬぐいをかぶっていることです。広げた手ぬぐいの中央を額にあて、左右から後ろに回し、端を折り返して頭上 にのせたり、その三角の先を前に持ってきて、額のところに挟んだりする、いわゆる昔から働く女性の手ぬぐいのかぶり方である「姉さん被り」というものです。
最近、園では季節柄の手ぬぐいを装飾に使っていますが、もともとは、手・顔・体などをぬぐったり、かぶり物にする布でした。そして、ふつう一幅(曲尺の一尺一寸五分、約34.8cm)で、二尺五寸から三尺(約113.6cm)ぐらいの長さですが、古くは六尺や五尺の長手ぬぐいもありました。この長い手ぬぐいは鉢巻・かぶりものや、帯の代わりにも使われました 。
手ぬぐいを被ったというと、こんな花足を思いだします。「笠は 五枚編んだのですが、お地蔵様は六体おられたからです。はて、こまった。このままでは こちらのお地蔵様がお寒かろう・・。そして ふと思いついて、自分の頭にかぶっていた手ぬぐいを 最後のお地蔵様の頭にかぶせ」という「笠地蔵」です。このように、もともと手ぬぐいは、日除け・ほこり除けで頭を保護する以外に、慎みや信仰の表現でもあったので、かぶりものにするのが本来の使い方だそうですが、そうであればどうして「手をぬぐう」という「手ぬぐい」という名前になったのでしょうね。
まだまだ都会でも、手ぬぐいを頭にかぶった姿が見られますが、いつまで見ることができるのでしょうね。

みる

 先日、私の園の保護者に「脳の臨界期」の話をしたところ、「脳の臨界期までに子どもにしなければならないことは何ですか?早期教育ですか?」とある父親から聞かれました。私は、「それまでに大切なことは、子どもに、いろいろな経験、体験をさせることです。」と答えました。臨界期以降、さまざまな学習をしていくうえで、バーチャルな世界での勉強が多くなります。その時に、その学習内容が身につくか、定着するかは、それまでの体験が、ものを言います。たとえば、「田」という漢字を習った時に、本当の田んぼを見たことがある子は、その字の形を実感から覚えます。見たことがない子は、その形をそのとおりに暗記しなければなりません。
 昨日のブログではありませんが、漢字でも、その字の形は覚えても、その字をどのような場面で使うかは、考えないといけないのです。パソコンで、音を入れると、その漢字がずらっと出てきます。その中から、どの漢字を選ぶかは自分が決めなければなりません。最近は、前後関係からパソコンが予想してくれるようにはなりましたが、微妙な場合は、書き手の気持ちの問題もあるので、やはり人間が決めざるを得ないのです。昨日の漢字の例の「みる」もたくさんの意味があります。
一番多く使われるのは、もちろん「目で事物の存在などをとらえる。視覚に入れる。眺める」という意味です。ただ、漢字では、このただ目に入れるだけでも入れ方のよって使う漢字は違ってきますが。その次の意味に「見物・見学する」があります。この意味では「劇をみる」などに使います。そして、「そのことに当たる。取り扱う。世話をする」という意味があります。このときは、「看る」と書きます。「事務をみる」「子どもの面倒をみる」のように使います。そして「 調べる。たしかめる」という意味があります。「辞書をみる」など使います。そして「こころみる。ためす」ときにもみるを使います。「切れ味をみる」などがそうでえす。「観察し、判断する。うらなう。評価する。」としては、「手相をみる」「将来をみる」「人をみる目がない」などに使います。「診る」という漢字を使うことが多いのは、「診断する」場合で、「医者にみてもらう」などがそうです。「新聞でみた」と使う場合は、「読んで知る」という意味で使います。「痛い目をみる」
というときのみるは、「身に受ける。経験する」という意味です。「見当をつける。そのように考える。理解する」という意味では、「明日は雨とみられる」とか「このようにみると」などと使う場合などでしょう。また、言われてみれば、そういう使い方もあると思うのが古語などに「夫婦になる。連れ添う」というときにも使うときがあります。 また、「みる」という単独で使わないで、「さわってみる」とか「やってみる」というように、動詞の連用形に「て」を添えた形に付く場合があります。そうすることによって「ためしに…する」「とにかくそのことをする」という意味になります。
「みまもる」というときの「みる」はどれが適当でしょうか。

漢字

最近は、漢字が読めない人と、どのくらい漢字が読めるかを試す人がニュースで話題になっています。それだけ、漢字が注目を浴びているということでしょうが、確かに私の子どものころの国語のテストは、「よみ、かき」というだけあって、漢字の読みと、漢字の書き取りテストが必ず入っていました。それに加えて、最近は言わなくなりましたが、書き順も、送り仮名やはねるか止めるかなども覚えました。読みでは、わざと普段は使わないであろう特殊な読みを問う問題がありました。たとえば、「行脚」とか「行灯」などは未だに覚えていますが、なかなかそんな言葉を使う機会はありません。
また、同じ発音でも、その前後関係で使う漢字が違います。たとえば、はっきりと「橋」と「箸」のように意味も全く違うし、漢字も全く違う場合はいいのですが、微妙なニュアンスの場合はどの漢字を使うか迷うことがあります。最近、パソコンで文章を使うときに、漢字の書き順と書送り仮名とか、点を付ける、付けないとかでは迷わなくなりました。それよりも、どの漢字を使うかを考えることが大変になりました。よく打ち間違えるのが、「始め」と「初め」、「写す」と「映す」、「取る」「撮る」「採る」「捕る」「執る」「獲る」「盗る」などまだまだあります。この微妙な差は、どの漢字を使うかで、心持などが入り、逆に日本らしい細やかさを感じます。その差は、なにも漢字だけでなく、英語にもありますが、もっと直接的な差であるようです。
たとえば、「みる」という言葉を英語でいうと、大まかに「see」と「look」と「watch」があります。たとえば、1人称を表す言葉として、日本語では、「私」のほかに「ぼく」とか「おれ」とか300種類くらいあるといわれていますが、英語では、「I」ひとつです。それに比べて、「みる」という音は日本ではひとつですね。英語のそれぞれの違いは、「see」は「見えている状態」「look」は、「それに加えて特定の対象物に焦点を合わせた状態」「watch」は、「それに加えて対象物の動きを逐一目で追う状態」というように言われています。したがって、seeから順に注意深く見るように見方が深まっていくように使い分けます。
それを日本語では、音ではひとつですが、その意味は非常に多くの場面で使います。その違いを、漢字で表す場合は、書き分けて書きます。瞑想における「みる」は、「観る」を使います。観には超然としたクールさ、マインドに絡まない一定の距離感が感じられます。観を辞書で引いてみると、「〔仏〕 自分の心をみつめ、仏・菩薩や象徴的像、宗教上の真理を出現させ、直観する修行法。」とあります。もちろん、この漢字を仏教用語としてだけ使うわけではありませんので、必ずしもこのような使い方をするだけではありませんが。したがって、「観」とは、普通は、「意識として在る」ことなのでしょう。そのほかにも、「みる」を当てる漢字はいろいろとあります。「診る」「看る」「視る」などです。ここにも、いろいろな見方が言い表されています。その差は、これらの漢字を使った熟語でどの漢字を使うかでわかります。
漢字検定で、どのくらい漢字が書けるかだけを試し、それを必死に覚えこませるだけでなく、漢字を通して日本人の持つ繊細な心持、その本質を見よとする心なども感じてほしいと思います。

主体性と環境

 私は講演の中でよく旭山動物園のオランウータンの話をします。旭山動物園では、他に先駆けてオランウータンの空中散歩を観客に見せました。大勢の観客のはるか上のロープを伝わって、隣にあるえさ場まで移動するのです。それを見ている観客は、落ちやしないかとヒヤヒヤして見ています。その時に、飼育員がこう言います。「皆さんは、オランウータンが落ちてはしないかと心配して見ていることでしょう。ご安心してください。決して、落ちません。もし落ちてしまうようでしたら、この世には、オランウータンは存在していません。そんなことでは、遺伝子は残してこれるはずはないからです。」
 すべての遺伝子は、自分たちの種を存続させるように受け継がれています。それを、人為的に、意図して何かをしてしまったら、もともと持っている力を失わせてしまっていることが多いのです。ところが、18日のニュースで、「能美市のいしかわ動物園で、オランウータン1頭が空中展示施設から落下、園内を逃走した。」というニュースが流れました。空中展示施設とは、旭山動物園にあるような「空の散歩道」といって、高さ10?13メートルの鉄製支柱4本にワイヤを張り、来園者は頭上を行き来するオランウータンを観察できる仕組みです。このニュースを聞いて、私はどうして落ちたのだろうと思いました。人間に飼われていることによって、本来持っている力を失わせてしまったのだろうかと思いました。
すると、そういうわけではなく、逃げないように、乗る台の下には電流(約9000ボルト)を流しており、このオランウータンは、その電線に誤って触れ、驚いた勢いで落下したとみられています。やはり、人為的環境が、本来持っている力を上回ってしまったのです。しかし、さすがオランウータンだと思ったのは、ふだん、その部分に触れないようにするのは、「触れないよう学習させており」と言っていて、「したがって、これまで問題はなかった」と言っていることです。人為的環境には、本能ではなく、学習が必要なのですね。
 最近、動物園の動物たちは子育てをしなくなったということをよく聞くようになりました。もともとは動物は、出産、育児ということは、自分たちの遺伝子を残すためには自然のことでしょう。しかも、その育児にしても人間のように育児書を読むことも育児相談することもしません。それなのに子育てができるのは、「身体にもともと備わった感覚に身をゆだねてそれに導かれることが大きな理由である。それが身体の規定力というものである。」と、早稲田大学教授で、人間と動物の親子関係を考察している根ヶ山光一氏は書いています。さらに氏は、この身体の規定力という力は大人が持っているよりもはるかに子どもに備わっている能力のほうが強い主張性を持っていると言っています。ですから、子育ては、大人からの規定力よりも、子どもの身体からの訴えにしたがって自然と適切な子育てに導かれていることが多いといいます。
 ですから、子どもの主体性を再認識する必要があるのです。子どもを大切にするからと言って、ただ子ども中心にしようという「子ども主体」という情緒的なことではなく、遺伝子を残していくという営みでは子ども主体というのはとても重要なことなのです。そんなことから最後に根ヶ山氏はこんなことを提起しています。
「そういった主体性・能動性がのびのびと発揮できるような環境作りと、それをふまえたおとなと子どもの望ましい共生の創生を模索していく必要があるだろう。」

アレルギー

 園では、新年度が始まりました。毎年、新年度になると行うものの一つに子どものアレルギー調査があります。園では、昼食、夕食、おやつ、捕食を出すために、とりあえず食についてのアレルギーを調査し、医師との相談のうえ除去食治療を行うのです。最近、その対象児童が増えてきたことに何か心配になります。今年の除去食治療を行う予定の園児は、全園児の16%もいます。ほとんどは2歳までの子ですので、ミルクしか飲まない0歳児を除いて1、2歳までの園児の中では60%もいます。そのアレルギーのほとんどは卵白ですが、大豆や乳製品、中には、水も含めてほとんどだめという子もいます。
 最近の子どもの体がおかしいという実感調査では、1978年の調査では、「背中ぐにゃ」という席についてきちんと座っていることができず、背筋がぐにゃっと曲がっている状態が1位でした。2位は、「朝からあくび」で、3位が「アレルギー」でした。ところが1990年以来、アレルギーがずっとトップで、いわゆる免疫系の異常が問題だそうです。
 瀧井宏臣著「教育七五三の現場から」(祥伝社)の本の中に、こんなことが紹介されています。日本の小児医療の司令塔ともいえる東京都世田谷区にある国立成育医療センターが2000年に医学部の学生を対象に実施したアトピー素因の調査結果です。
 その結果、95人の学生中85人、全体の90%がアレルギー体質を持っているという結果が出ました。過去の調査では、1960年代ではわずか数%だったのが、70年代で25%、90年代で40%、そして、2000年には90%に達したといいます。この本の中では、このような状況を「最近の乳幼児でアレルギー体質でない子どもを見つけるほうが難しい。」とまで言っています。
 なぜ、こんなにもアレルギー体質が増えたかということを成育医療センター部長はこんなことを言っています。
「アレルギー体質の激増は遺伝子そのものの変化ではなく、免疫を担当する細胞の一つ、ヘルパーT細胞の型が?型から?型に変わったからだということです。?型はIgE抗体の生産を抑えますが、?型は生産を促進する働きがあります。両者はお互いの細胞の増殖を抑制しあうので、どちらかが優位に立ち、一生続くことになるそうです。では、どうなると?型が優位になるのでしょうか。妊娠中、胎児は母親にとって異物と同じですから、免疫のしくみが働いて胎児を排除しないように、?型は出産後、赤ちゃんが細菌やウイルスに感染することによって発達するのです。ところが、清潔すぎる環境や抗生物質の過剰投与によって、乳幼児期に細菌やウイルスに感染することが少なくなってしまった。その結果、?型の発達を妨げ、?型が優位になってしまったというのです。抗生物質の投与などによって日本の乳幼児死亡率は世界一低くなりましたが、その代償として、子どもたちの9割がアレルギー体質になった。」
 これは、あくまでもまだ仮説の段階ではありますが、要するに、菌対策というあまりに清潔主義に陥り、また、熱などが出た時に、自らそれを下げる努力をする前に薬で下げてしまう事、ただ子どもに感染症をうつさないように神経質になることなどが、子どもの体に変調をきたしているようです。

あす

井上靖の小説に「あすなろ物語」という作品があります。この小説は、明日は檜になろうと願いながら、永遠になりえない「あすなろ」の木の説話に託し、何者かになろうと夢を見、向上と発展を望みながらもがき、ついにはその願望も果たせない人間の悲しい運命を重ね合わせた作者の自伝的小説だと言われています。しかし、作者の井上は、「自伝小説ではありません。あすなろの説話の持つ哀しさや美しさを、この小説で取り扱ってみたかったものです」と述べています。
「あすなろ」という木は、その読み方からもそうですし、漢字で書いても「翌檜」と書くように「「あすは檜になろう、あすは檜になろう」と思いながらもついに檜になれない悲しい木であるといわれています。確かに、「檜」という木は、日本特産の木で、建築材として最良です。また、奈良や京都などの仏像のほとんどは、この「檜」が彫られています。それは、やわらかく、彫りやすく、それなのに耐久性があるからです。ですから、全国で植林されています。
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その名前も、「火の木」というように、この木を使って火をおこしやすかったために、昔から重宝されていたでしょう。また、よく、浴槽に入れたり、部屋のにおいに使ったりしますが、この幹や葉からとれる精油は香料や薬用になります。慣用句として「檜舞台」ということがありますが、檜は非常に高価な木材であって、これで作られた舞台は一流のものだったため。能楽や歌舞伎などは、すべて檜舞台で行われます。ですから、ここで踊ることは、自分の能力を発揮することができる「晴れの舞台」なのです。
「日本三大美林」には、「青森の檜葉(ひば)」「秋田杉」「木曽の檜」(ひのき)が選ばれています。確かにその中には「檜」がありますが、青森の「ヒバ」という木は、あすなろの木のことです。高級建築材としては、ヒノキが有名ですが、この青森ヒバ(あすなろ)は、それよりも高級な材木と注目されています。
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それは、ヒバは、昔から「ヒバ普請の家には蚊が3年は寄り付かない」といわれるほど、殺菌性のあるヒノキチオールの含有量が多く、ダニの発生を防いだり、特に白蟻には他のどの木よりも強く、また、腐りにくく、耐水性があって湿気にも強く、強度もヒノキと同じくらいあるので土台や柱、軒廻り、浴室、濡縁、ベランダなどに用いられます。
ただ、ヒノキのように大きく育つのが遅いので、「明日はなろう」という未来を夢見ているかのように見えたのでしょう。先日、いただいた「ブリザードフラワー」の中に、このあすなろの葉が入っていました。それは、「明日はヒノキになろう」という希望を表しているのか、殺菌作用を利用しているのかわかりませんが、両方あるのかもしれません。
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これを見ると、ヒノキにはヒノキの良さがあり、ヒバ(あすなろ)には、ヒバの良さがあるので、「ヒバは何もヒノキになろうとしなくてもいいのに」と思ってしまいます。三国志の中の劉備玄徳が提案する「天下三分の計」という「三勢力が鼎立し均衡を保つ戦略」は、劉備が提案する真意とは違うかもしれませんが、私は、このように提案します。それぞれがそれぞれの良さを持って、それぞれが自立し、それらが連携を持ち、お互いが成り立つという考え方が必要なような気がします。