ミヤマヨメナ

東京では、ここに2,3日急に暖かくなりました。そういう季節になると、さまざまな花が咲き始めます。園の裏の入り口には、昨年植えた草が残っていましたが、春になって花をつけ始めました。一つは、パンジーといわれている三色スミレです。大きな花の品種や、小さい花の品種とも花をつけています。
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もう一つは、これはパンジーのように決して派手ではありませんが、この花からとても日本的な美しさを感じます。また、その名前もとても日本らしさを感じます。
この花は、もともと日本の多くの場所に自生する多年草のキク科の草です。道端でよく見かける野菊の一つで、秋にうす紫か白い菊の花をつけます。一般的にそれらをまとめて「ヨメナ(嫁菜)」と呼ばれます。この種類は、若芽を摘んで食べることがあり、古くは万葉集の時代から使われていたようで、オハギ、あるいはウハギと呼ばれています。それを入れて炊き込んだ「ヨメナご飯」なども有名です。そのヨメナの中で、山地の日陰に生える多年草で、多くの野菊が夏から秋にかけて咲きますが、3,4,5月の春から夏にかけて開花する種類があり、その名を和名で、は深山に生えるヨメナの意味で、「ミヤマヨメナ(深山嫁菜)」と呼ぶ品種があります。春に開花するので「野春蘭」「野春菊」「東菊」と呼ばれ、古くから栽培されていました。
こうしてミヤマヨメナは、栽培品種として改良されてきました。特に江戸時代から、茶花、庭の下草として利用されるようになり、それ故に改良が行われ、様々な園芸品種が存在しています。切り花に向く草丈の高くなる品種と鉢植えに向く背の低い品種の2タイプに分けることができます。花色は主に紫、白、ピンクなどと多くあります。
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時は鎌倉乱世の時代。源実朝が急死して源氏直系の将軍が居なくなったために北条政子は京の皇族の鎌倉への下向を、後鳥羽上皇に要請しました。その結果、源頼朝の血筋で左大臣・九条道家の子・三寅が決まりましたが、まだ幼いため、政子が代理として政務を見る事になりました。そして、三寅は8歳で元服して藤原頼経と名のり、征夷大将軍になったのですが、この将軍後継者問題で、幕府の横暴に屈した後鳥羽上皇は、その子・土御門上皇、順徳天皇らと密かに倒幕の計画を練り、ついに後鳥羽上皇は諸国の兵を募って挙兵します。武士が政権を握って以来、初の朝廷と武士との対決であった「承久の変」です。そして、上皇軍は敗北し、首謀者の後鳥羽上皇は隠岐島へ、土御門上皇は土佐へ、順徳天皇は佐渡へ流されます。その後、順徳上皇は、20年余年後に亡くなるまで佐渡島で暮らします。都での雅やかな生活が忘れられない日々の続くある日、庭に咲く清楚な野菊に目がとまり、気に入ってこの花がそばにあればしばし、みやこのことも忘れられると漏らします。そして、こんな和歌を詠みます。「いかにして契りおきけん白菊を都忘れと名づくるも憂し」それ以来、島民の間ではミヤコワスレと呼ぶようになったといいます。
それが、ミヤマヨメナの別名として栽培されるようになったのです。今の時期、花屋に行くと色とりどりの花の中にあって、清楚で可憐な草姿をし、日本的風情が感じられる「ミヤコワスレ」は、その名からも哀愁を感じ、ずっと親しまれてきました。これらの由来にはいろいろな説があるようですが、その花を眺めながら、そんな時代と、その時の思いに気持ちを馳せることも、花を眺めるときの趣向かもしれません。