翻訳

 太宰治の名著である「走れメロス」と「魚服記」の鎌田紳爾による翻訳本「走ろっけメロス」が、昨日の読売新聞に紹介されていました。何語に翻訳された本かというと、題名からもわかるように、この本の作者である太宰治の故郷、津軽の言葉に翻訳した本です。原文との対話形式で、津軽出身者以外にも解るように書かれてあり、津軽語による朗読CDも付いています。
この本の書評を作家の「三浦しをん」さんが書いています。
「津軽語版“走れメロス”を文字で読むだけでも、新鮮なリズムが感じられる。たとえば、“見事、対岸の樹木(じゅもぐ)の幹さ、たもぢがる事(ごと)、出来(でぎ)だのせ。ありがて”とか“いまだって、汝(な)は我(わ)ごと無心ね待ってらびょん”とか。
 三浦さんは、この本で小説と方言について重要な問題提起をしていると言っています。「現在、日本の小説の多くは共通語(東京の山の手言葉)と言っていいだろう」で書かれる。だが、それは作者のネイティブな言語ではない場合もある。かといって、方言を忠実に文字化しても、その土地の出身者以外には意味が通じない可能性が高い。文字で表現するしかない小説は、多様な方言をどこまで取り入れて作品に豊穣をもたらし、“共通語”という一元化と中央主義に抵抗すればいいだろうか。もうひとつ、文字表現からはこぼれ落ちていく発音のニュアンス(それこそがまさに、“感情”を表現する重要な部分のはずだ)に、どうやって敏感でいられるだろうか。」
 以前の「モンスターペアレント」というテレビ番組の中で、方言を使う教師に対して、母親が子どもに悪い影響を与えるので担任を代えてほしいと言ってきたシーンがありました。確かに、いわゆる標準語を話すことが将来どの職業についても必要なことかもしれません。しかし、方言とはその地域の文化でもありますし、方言を話す人は、その人の文化でもあるので、簡単にそれを否定することはできません。
 私は、東京育ちですので、ほぼ標準語に近い言葉を日常使いますが、それでもいわゆる「江戸言葉」を父親が使っていたので、その方言を使うことがあります。しかし、どうしても江戸の言葉は、「べらんめえ調」と言われるように、その発音や語彙は周辺の山の手言葉や西関東方言とは多少異なり、なんだか強く聞こえることが多いようです。全体的にも、おおむね関東の言葉は、関西の言葉よりも強い言い方に聞こえるようです。たとえば、子どもが何か失敗をした時に「あほやなあ」というと、なんだか愛情がこもっているように聞こえますが、「ばかじゃないの」というと、馬鹿にしているように聞こえます。
最近は、東京でも、江戸からの独特な話し方をする人は年輩者を中心とする東京出身者にわずかに存在しているだけになりつつありますが、よく例に出される「し、しゃ、しゅ、しょ」と「ひ、ひゃ、ひゅ、ひょ」の混同を父親はしていました。また、その他の母音でも、その転訛・脱落などがありました。たとえば、「江戸っ子」を「えでっけ」と言ったり、「手拭」を「てのごい」と言ったりします。
他に面白いところでは、よく東北地方で意志や同意をするときに最後に「べ」や「べえ」をつけますが、これは関東地方でもつけます。しかし、東京だけは関西や東海地方と同じように「う」とか「よう」をつけます。例えば、西関東方言で「行くべ」や「これだべ(だんべ・だっぺ)」と言うところが、東京方言では「行こう」「行くんだろう」や「これだろ(う)」となります。
若い人の使う良くない言葉と言われることが多い、文節や文章の最後に「さ」をつける傾向も実は東京の方言の一つです。「あのさ、昨日さ、行ったんだけどさ」他の地域の人が聞くと、だらしなく聞こえますね。そのように、方言は他の地域では違った印象に聞こえることがありますが、その地域では一つの文化であることがあります。文化を大切にしようという割には、よく園では、先生の言葉が荒いとか、乱暴という苦情を聞くことがあります。確かに乱暴な言葉である時もあるかもしれませんが、江戸っ子言葉であることもあるのです。