ししおどし

建築家である上田篤氏は、「庭と日本人」という新書のなかで、「西洋の庭園は園(その)だが、日本の庭園は庭(にわ)だ」と言っています。その違いを「園という漢字は、それをソノと読んだ日本語とともに“果実などを栽培する畑”のことをいうが、庭という漢字、またそれをニワとよんだ日本語は、ともに“何かの行事の行われる場所”をさす」と言っています。その何かの行事については、「日本人は時代時代によっていろいろの理想の世界をかんがえ、それを庭の中に表現してきた。歴史的に見るとそういうことがいえる。」そして、日本の文化は、「文化的遺伝子のダイナミックは発想」であり、それが日本では神ということもあり、その神はゴッドではなく、「物と物との関係性」であると説明しています。
まさに、私は日本の「庭」は、関係性の表現のような気がします。それは、海外の園で見られるような花や果実や水のエデンの園ではなく、石や苔なの物と物がある緊張感を持ちながらそれぞれがその存在に影響を与えている関係を表している気がします。
奈良時代の終わりから平安時代にかけて、玄賓僧都という高徳の僧が天皇に召されました。しかし玄賓は名声を嫌い、奈良の「山の辺」を出て、丹波や備中の田舎を転々とします。そこで、世間では、山田を転々とする玄賓僧都の事を山田僧都と呼ぶようになりました。あるとき、備中国・湯川寺に滞在していた山田僧都は、収穫の秋になると、農夫のいでたちで、雀やカラスを追い払い、農民たちに大変感謝されました。この案山子役を引き受けてくれた山田僧都の事を農民たちが親しみを込めて「山田のかかし」と呼びました。今でも案山子のことを「げんぴんそうず」といいますが、それは、「玄賓僧都」の姿が玄賓の隠遁姿に似るからとも、玄賓の創案によるからともいわれています。
彼はまた、農民のために、農村地帯で田畑を荒らす鹿や猪、鳥を音でおどして追い払う仕掛けを作りました。そして、江戸期の漢詩人、石川丈山は、この故事により、鹿や狸を追うこの道具を日本庭園に配置し、「丈山考案の園水を利用して音響を発し、鹿猪が庭園を荒らすのを防ぎ、又、丈山自身も閑寂の中にこの音を愛し老隠の慰め」としたのです。そして、丈山は、その仕掛けを玄賓僧都の陰徳を偲んで「僧都(そうず)」と名付け、そこから、別名「添水(そうず)と言われるようになりました。それを、昭和32年に苔寺で同じものが作られ、「鹿威し(ししおどし)」と表示されて以来、その呼び名が一般化したという事です。
「鹿威し」とは、水力により自動的に音響を発生する装置で、中央付近に支点を設け、一端を開放した竹筒に水を注ぎ、水がいっぱいになるとその重みで竹筒が傾き、水がこぼれて内部が空になる。すると竹筒は元の傾きに戻る。この際に竹筒が支持台(石など)を叩き、音響を生ずるという仕掛けです。何も音のしない庭園に、時折轟く鹿おどしの音がかえって静寂を呼びます。日本庭園の凛とした静けさをより強調するために、かえって、少しの音がある方が効果的です。この鹿おどしについて竹山道雄は「それはどんな楽器の音にも似ていない。空洞の中のみじかい木霊のようである。竹筒にこもった響きが清水に洗われ、覆った木の葉の中に吸い込まれる。(中略)静寂の中に点をうって、そのために時間がひきしめられている。」と書いています。
 私の園で湧き水を利用して「ししおどし」を作りたいと以前のブログで書きましたが、やっと念願がかない、玄関脇に作りました。京都の詩仙堂の鹿おどしとはいきませんが、一定間隔で、小気味よい音が響いています。
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