入試問題

 今、受験生は大変でしょうね。私の子どもたちはもう社会人で、身の回りに受験生がいないので、実感がありませんが、私が通勤に使っている東西線は、「早稲田」という駅を通りますので、車内放送で「今の期間は込み合いますので、ご協力をお願いしま~す。」と流れます。ちょうど大学入試が真っ盛りのようです。都立高校の検査日は、来週月曜日のようですが、私立はもう終わっているでしょう。また、私立中学校入試も2月の初めに行われています。
 中学入試問題の試験問題は、時代の変化を感じます。以前のブログでも紹介したように、有名私立中学校の入試問題では、三択問題のようなものはもうほとんど出されず、知識の量を試すような問題から、自分の考えを述べるような問題が増えています。また、国語や社会の問題に出される長文は、その内容がとても面白く、政治家に読んでもらったり、問題を解いてもらいたいものがあります。もちろん、それは漢字テストではありません。
 今年も麻布中学の問題はとても面白かったです。社会の長文は、山形県について歴史や今の農業問題を考えるものでしたが、その一部にこんな個所がありました。山形で農村体験合宿に参加した虫の嫌いなタカシは、東京に帰ってきて、近所のおばあちゃんに農村体験の話をした時の会話です。
 「大変だったねぇ。でも、山形の農家も頑張っているのね。日本の農業はもう限界だ、と言われているのに」それを聞いてぼくは事前学習で調べた日本の農業ついて、得意になって話をした。「第2次世界大戦後の山形は、さくらんぼなど果物の栽培も盛んだし、米の生産もすごかったんだ。でも、最近は米の消費量も減ったし、山形県に進出した企業も海外に工場を移して、だんだんと経済的に困るようになってしまった。その前から若い人は都会に移ってしまっていたし、農地も荒れてしまったんだよ。今、日本の食料自給率は40%くらいだから、支援する政策も必要だと思うな」一気に話したら、おばあちゃんが口を開いた。「よく知っているのねえ。でも、山形県といっても、全部の地域が同じじゃないのよ。おばあちゃんは米沢からお嫁に来たけど、他の地域と十把ひとからげにして考えないでほしいな」ぼくは、意外だった。「えっ、でもあんまり変わらないよ。どこでも農業やっていて過疎化とか、深刻なんでしょ」するとおばあちゃんはこう続けた。「東京から来たお役人がそんなふうに考えていたわ。でも、一つ一つ違う地域にちゃんとあった政策をやってくれないと困るのよ。もちろん、タカシ君みたいに、虫が嫌いで農業が苦手な人がいてもいいけれど、そういう人が地域のことを何も知らないまま、支援する政策を考えても意味がないのではないかしら」
 小学生が考える問題としては難しいですね。しかし、これはきちんと考えなければいけない問題ではあります。今日、学童保育所と保育所の待機児の増加について保護者と話をしました。もちろん、この待機児は都会の問題かもしれません。過疎地では違う問題があります。しかし、それぞれ違う地域で、他の地域の人はわからないということではなく、どちらもどの地域の人も考えなければならない問題です。また、担当する部署だけが考えればいいということでなく、いろいろな部署が、その現象を総合的に検証する必要があります。
 そして、なによりも大切なのは、ただ机上の議論ではなく、きちんと現場を見ることだと思います。

一位

 今、ANAの機内誌に「日出づる国の鉛筆」という記事が掲載されています。どういうことかと読んでみると、北海道に、かつて国産鉛筆の木軸の8割をまかなっていた町があるといいます。それは、知床にある斜里町だそうです。ですから、タイトルの意味は、「日本で真っ先に昇る朝日を浴びて育った知床半島」の木が鉛筆に姿を変えて、私たちの学問を、産業を支えてきたということのようです。
 この木の名前は、「イチイ」といいます。今は、全く作られていませんが、かつて北海道では、「まず、木を伐採して、土地を開拓しました。その木をマッチや鉛筆の軸の材料にした産業が、ずいぶん栄えたのです。」というのは、知床博物館の館長さんの中川さんの弁です。博物館の裏には、「イチイ」の木への感謝を表して、樹霊塔が建てられているそうです。
 この「イチイ」という名前は、とても由緒があります。昔、中国では衣冠束帯に象牙の笏を持つことになっていました。その習慣にならって、日本でも貴族は笏を持つようになったのですが、その材料として、さまざまな木が試されました。その中で、飛騨の位山にあるこの木で作ったところ、とても出来栄えがよく、それを仁徳天皇に献上したところとても喜ばれました。そこで、褒賞としてこの木に「正一位」という最高の爵位を授けられて以来、この位にちなんでこの木のことを「一位・イチイ」と呼ぶようになったのです。そして、別名で、「笏の木」とも呼ばれます。
また、このイチイは多くの別名を持つことでも有名です。アイヌ語からは、「オンコ」とか「アララギ」という名前で呼ばれます。もちろん、この「アララギ」は、伊藤左千夫を中心に創刊された日本を代表する短歌結社誌の名前の由来です。最初は、「阿羅々木」という当て字で書かれていましたが、本来は「欄」と書きます。他にも、材面が赤いことから「アカギ」と呼ばれたり、材香木から「キャラボク(伽羅木)」と呼ばれたり、「クネニ」という名前は、「ク」は弓、「ニ」は木のことで、「弓になる木」をあらわしています。一位だけあって、いろいろな用途に使われたのですね。
この「イチイ」の木は、岐阜県の「県の木」に指定されていますが、それは、大野郡山之口村位山のイチイ林が古来から有名なことや、飛騨の代表的民芸の一位一刀彫があることなどからです。また、甲信地方ではごく普通に生垣として植えられているなど、山里の人々によく親しまれている木であることも理由の一つだそうです。また、北海道・東北地方にも自生しており、八戸地方では庭木や池垣として普及しています。ですから、八戸の「市の木」の木にも指定されています。以前、八戸駅に降り立ったとき、目の前に大きな「イチイ」の木が植えられていました。
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この木は加工の容易さと材面の鮮やかさから、座机、見台、硯箱、短冊掛、仏壇などの和家具や、建築材として床の間廻りの床柱、床框、落掛や、箸や楊枝、ステッチなどの日用品や、寄木細工、木象嵌などの工芸品など幅広く利用されています。なかでも、狂いが少なく加工がしやすいイチイは、鉛筆の軸木には最適だったのです。
 もうすぐ、新1年生が誕生します。しかし、誰一人、「イチイ」の軸の鉛筆は持っていないでしょう。それどころか、鉛筆も次第に過去の学用品になるのでしょうね。

ビルの形

 最近、次々と新しいビルが建てられていますが、それは高いだけでなく、奇抜な形をしたものが多くみられるようになりました。よく、絵などでビルを描くとなると、真四角な直方体の絵を描きます。しかも、薄っぺらいビルがなんだか、近未来的な気がします。超高層ビルとなると、たぶんそれは、構造上そうなるのでしょう。それは、以前のブログでも紹介した「霞が関ビル」のイメージです。それが、最近、構造上どうなっているのか不思議に思うような形状をしているビルを見かけるようになりました。
 私の園から、新宿の副都心が遠くに見えるのですが、間近のビルの間から不思議な形のビルが見えます。その形は、コクーン(繭)のような外観をしている2008年10月に竣工した「コクーンタワー」です。
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この建物の設計は、西新宿では「東京都庁舎」「新宿パークタワー」などを手がけた丹下都市建築設計です。コンセプトについて建築主の学校法人モード学園は、「創造する若者を包み込み、触発させるインキュベーション空間を創出しています。教育施設としての交流機能を持たすべく学生サロンを配し、全体を立体キャンパスととらえ従来の学校建築とは異なる構成により、今までにない超高層学校建築を実現しています」と発表しています。
階数は地下3階、地上50階です。地上高層部の構造は、インナーコアと3つのダイアゴナル・フレームと呼ぶ斜め格子の構造体で構成されています。外観にそれがそのまま表れ、一つのデザインになっています。低層階から中階層に向かって徐々に平面に広がり、中階層を過ぎて頂部に向かうと再び小さくなっています。15階~39階には、内部にオイルダンパーを配置し、減衰力を加えることで、地震や風による揺れを低減する仕組みになっているようですが、柱で支える建物から、法隆寺の五重塔のように柱を宙に浮かせて振動を吸収する仕組みから、ずいぶんと進化してきました。「教育施設としての交流機能を持たすべく学生サロンを配し」という点では、吹き抜け空間を3層ごとに配しています。
 もう一つ紹介する建物が、「デビアス銀座ビル」です。優雅なうねりを伴ったステンレスにバイブレーションと呼ばれる仕上げを施して、そこに文字を彫り込んでいます。
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場所は銀座マロニエ通り沿いにあり、ブランド店のビルが立ち並ぶ銀座においても、ひときわ目を引きます。建築主はアイスバーグ・V28ビル・南青山スクエアと同じ英ヴェロックス・アセット・マネジメント社が手掛けた商業ビルです。
地上11階・地下1階・高さ60m、優美な曲線をガラスとステンレス・スティールにより表現した正面が特徴的となっています。この形は、近未来的というよりも、シュールリアリズムの絵のような、ダリの絵の垂れ下がった時計のような、幻想的な感じがします。この建物の基本設計は、光井純&アソシエイツによるものです。光井純氏は、以前ブログで周回した日本橋三井タワーなども手掛けてきた建築家です。ストアコンセプトを担当したのは、フランス人建築家であるクリストフ・カルペンテです。エッチングガラスや洗練された黒檀製ディスプレイカウンターなど、異素材を使い光と影が交錯するイメージ空間が演出されているそうです。
最近のビルは、街角にあるオブジェのように、街を立体的に彫刻しているかのようです。

とげ

 最近、園で節分の行事を行いました。地域の文化をきちんと伝承しようということ行事の一つの目的ですので、玄関には、柊の枝に鰯の頭を刺したもの(柊鰯)を飾りました。これは、鰯のにおいを鬼が嫌がるとか鰯を焼く煙を嫌がるとか言われていることと、柊の葉のとげを鬼が嫌がるからです。鬼は目を刺されることを嫌うので、柊の葉のとげで鬼の目を突く意味があるからです。
高尾山で有名な高尾町には、サイカチの木が植えてあるところがあります。サイカチの木は、幹や大枝に小枝が退化変形した鋭い棘があります。この棘は、何回も分岐を繰りかえします。棘は鬼から守るのではなく、一般的には草食動物から身を守るためといわれています。しかし、この地に植えられているのは、敵から守るために植えられているといわれています。
このあたりは、廿里古戦場と言われているところで、戦国時代の永禄12年(1569)10月1日、武田信玄の武将・小山田信茂と滝山城主・北條氏照の重臣・横地監物らとが一大血戦を行なったところです。甲斐の武田信玄は北條氏康の本拠である小田原城を攻めようとして2万の兵を引き連れて甲州を出発し、碓氷峠を越えて武蔵方面の北条氏の諸城を次々と攻略しながら南下して、滝山城を攻めるため拝島に陣をしきました。一方、信玄の武将で岩殿山城主・小山田信茂は小仏峠を越えて滝山城に向かって侵入します。小河内もしくは檜原から来ると思っていた北条方は意表を突かれ、氏照が命じて急いで廿里に戻り、迎え撃とうとしましたが、奇計を謀った小山田隊に敗北を喫してしまいます。この時に信茂がとった戦法は、前方・側面・後方から攻撃する「鳥雲の陣」(鳥のように集まり、雲のように散る)でした。
この後、武田軍により、北条氏照の居城である滝山城は三の丸まで攻め込まれましたが、かろうじて落城は免れました。信玄は滝山城の守りが堅いのを見て軍を退き、小田原城へと向かいます。小田原城では、北条氏康、氏政父子が、上杉謙信が小田原城へ迫った時と同じように籠城策をとります。その理由は、小田原城は難攻不落の城であり、たとえ、武田信玄勢が包囲しても、簡単に落城することはないと思ったからであり、また、攻勢にでた時に挟み撃ちにできると思ったからです。しかし、武田信玄は城下に火を放ち、たった4日間で撤退をはじめます。
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     小田原城
その後、加住丘陵を利用した滝山城は、北側は多摩川まで絶壁ですが、南側は標高差が小さく、南からの攻撃に弱点があることが明らかとなり、小仏峠を睨んだ強力な防衛拠点の構築を急ぎ、小仏峠に近い要害の地に八王子城を築き、本拠を滝山城から移転しました。また、滝は落ちるということから八王子城に移したといわれています。
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   八王子城
この北条氏は、北条政子のいわゆる北条氏と区別して、後北条氏と呼ばれていますが、今年はこの話題が何回か登場すると思います。というのは、この時に小田原城に籠城した氏康の7男で、上杉謙信の養子になったのが、NHK大河ドラマ「天地人」に出てくる「上杉景虎」なのです。ですから、景虎は、氏康の子である氏政や滝山城や八王子城の城主であった北条氏照とは兄弟なのです。
ことしの「天地人」めぐりの地は、八王子もその一つです。

身長と火

 今、私は、保育室のスケールがどのくらいがよいのかを検討する委員会に幹事として参加しています。それは、とても面白いのですが、なかなか難しいものです。というのも、じっとしている人のスケールと、何かをしている人の必要なスケールが違うからです。そして、何かをしているというと、何をしているかによっても違うのです。もし、学校の教室のように全員が席に座って先生の話を聞く場合と、グループで子どもたちが話し合うときと、子どもたちが作業をするときとそれぞれ必要な大きさが違うからです。
 かつて、やはり保育園の建築基準を検討する委員会に出ていたことがありました。そのときに、避難階段の幅をどうするかという検討をした時に、一人の大人が下りることのできる幅があればいいかというと、実際の園では、大人は子どもを抱っこしたり、手をひいたりして下りることになるので、幅は広くとる必要があります。
 また、人のスケールは、年齢によって違うだけでなく、国によっても、時代によっても違います。私の園には、エレベーターがありますが、それに乗る時にみんな気にするのが、乗る人が多すぎて、いつ「ブー」となってしまうかです。どのエレベーターにも定員と、最大総重量が書かれてあります。エレベーターの積載量は、500キロとか900キロとか1トンとかで定義されていますが、定員はそれを「ひとりあたり65キロ」で計算されています。これは、「建築基準法施工例第129条の5」と「JIS規格」によって決められています。しかし、全員が65キロ以上の男の人だけで乗る場合とか、体重が多い外国の人が乗る場合はどうするのでしょうね。少し前のデータですが、厚生労働省健康局によると、年齢によって違いますが、一番重くなる30~39歳での平均が、男性が170.6cm68.2kg、女性が157.6cm53.5kgというようになっていました。日本では、やはり65キロが妥当なのでしょう。
ただし、現代の米国人の体格は非常に増えていることに危機感があるようです。米国立保健統計センターによると、20~74歳の成人について、平均体重は男性が60年の75.4キロから86.6キロに、女性も63.6キロから74.5キロに増えています。そんなアメリカのエレベーターの基準体重はどのくらいでしょうね。
身長にしても同様なことがいえるようです。キッチン台の高さも、ちょうど良い高さは、身長の半分に5センチ足した高さといわれています。ですから、当然昔よりも平均身長が高くなっている今は、キッチン台も昔より高くなっているようで、80センチから85センチが多いようです。身長について、先週の金曜日の朝日新聞のコラム天声人語に「人間の身長と火について」面白いことが書かれてありました。
「人間の定義は様々だが、「火を使う動物」とも言う。太古から火の扱いに長じてきた。その理由について作家の池澤夏樹さんが、「人の身体サイズは火を使うのにちょうど良い大きさだった」という説を引いている(『母なる自然のおっぱい』新潮社)▼人がもしネズミのようなサイズだったら、身の丈に合うのは極小の焚(た)き火だ。消えないようにするのは至難の業だったろう。逆にゾウのように大きければ、山火事の心配のない焚き火場を見つけるのは難しかったに違いない▼つまり人間は、燃やし続けやすく扱いやすい火の大きさに、ぴたりのサイズに生まれついたのだそうだ。」
 最近、火事が多いのは、人の身長が伸びすぎて、火との関係がアンバランスになってきたからかもしれませんね。

机の上

 私の机の上には、春を放ち始めている花が飾られています。毎日、その花を眺めて、春が近いことを感じています。この花は、まさに「春を呼ぶ花」と言われている「放春花」という花で、2月19日の誕生花です。その中で、私の机の上にある花は、「黒潮」という品種のものです。学名では、 Chaenomeles speciosaと呼ばれますが、Chaenomelesは 「chaino(開ける)+ melon(リンゴ)」が語源で、「裂けたリンゴ」という意味ですが、そう思ってみるとそう見えないこともありませんね。また、speciosa は 「美しい」「華やか」という意味です。
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この「放春花」は、普通に呼ばれている名は、「ボケ」の花です。ずいぶんと違う印象ですね。日本語で「ボケ」というと、「時差ボケ」とか、漫才での「ボケと突っ込み」とか、「天然ボケ」というような使い方をします。また、「ピンボケ」のように、ぼんやりした状態をさすように、あまり良いイメージがありません。ですから、この花が、そのような名前がつけられていることが不思議です。実は、このボケという花は、そのあと大きな黄色い実をつけます。その形が「瓜」に似ているので、「木になる瓜」ということで「木瓜」となり、この字を音読みして「もくくわ」となり、「モケ」となり「ボケ」になったといわれています。
正月のおせち料理などの飾りとして使われる花を、私は紅白梅だと思っていました。どうも、この「ボケ」という花のようです。
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そして、「ボケ」という花は、机の上にある花のように真っ赤な色をしていると思っていたのですが、品種の一つに「なごり雪」というものがあるように、真っ白いものも、ピンクやオレンジのものあるようです。
「ボケ」の原産地は、中国大陸と言われていますが、日本に自生するボケに「クサボケ」といわれるものがありますが、これはあまり幹が太くならず、草のように生い茂ります。中国からは、比較的早く平安時代に入ってきた帰化植物です。最初は、どうも薬草として庭などに植えられていたようで、江戸時代には江戸(東京)小石川に薬草として植えられていたようです。それが、明治時代から大正時代にかけて一般に植物を楽しむブームが起こり、ボケもいろいろな品種が作られ、花を観賞するようになりました。
「ボケ」は、日本中どこでも育ち、耐寒性も強く、耐暑性もあり、特別な土を用意することも必要なく、ずいぶんと育てやすいようです。その「ボケ」にも、11月頃から咲き出す花もあり、その種類には、特に「寒木瓜」と呼んで、春に開花するものと分けています。
 また、この花のいわれとなった「瓜」に似た秋になる実ですが、果実酒として利用できます。もともと「ボケ」は「花梨」と親戚ですので、同じような黄色い大きな実です。その果実酒の「ボケ酒」は、やはり「花梨」と同様、喉に良いとされ、風邪をひいたときなどに飲むといいといわれています。お酒を入れず、砂糖を多く入れた「ボケシロップ」は子どもも飲むことができます。
私が、一時期小学校の教員をしていた時がありましたが、その3月の最後の授業の日に、保護者たちがみんな集まって授業参観をしてくれました。そして、終わってから、記念に「ボケ」の盆栽をもらったことを、机の上の花を見るたびに思い出します。

上に立つ

 舞台上で、演技者が上手に演技ができないときには、誰のせいでしょうか。もちろん、その演技者の生まれつきの才能が影響するでしょう。しかし、それをどう引き出し、他の演技者と関係をつけていくのかは、演出家によりますし、それ以上に監督の力によるところがあります。
 私は、いつも肝に銘じているのは、あの「旭山動物園」の再生です。来場者がどんどん減ってきて、廃園まで迫られていた動物園を、上野動物園に匹敵する来場者を迎えるようになった経緯です。その劇的な変化、次々と出される新鮮な企画、動物への深いまなざし、それは、スタッフの交代や、一新ではないのです。同じスタッフで、同じメンバーで、同じ環境の中で変わっていったのです。それは、いろいろな要因があったと思いますが、その中心は、動物園の園長の交代でした。
 また、先日のテレビ東京の「カンブリア宮殿」で「餃子の王将」が取り上げられていました。このチェーン店は、低迷する外食産業の中、4年連続全直営店黒字を達成しているそうです。それまで赤字低迷が続いていた中、たたき上げで社長に登り詰めた大東社長に変わったときから見事に建て直っていきます。やはり、同じスタッフですが、各店舗の店長が、言われたとおりに動くことから、自分自身の裁量で決めたメニューやサービスを認めることによって、率先して、現場に立ち、店舗を指導っしていきます。大東社長を筆頭に徹底したこの率先垂範と現場主義が店を変えていきます。
和田秀樹さんの公式 HIDEKIWADA.COMマガジンで「道の教育より徳の教育を」ということが書かれてありました。
「私が研修医時代、最初に入った内科の医局は、国家公務員であるはずの教授がベンツのSクラスとジャガーに乗り、広尾のガーデンヒルズに愛人を囲っていたことを週刊新潮に実名報道されたような人だったが、患者に謝礼を要求するのが恒常化していたし、とにかく権威主義だった。結果的に、そこにいた医者もみんな謝礼をもらうし、患者に威張るし、研修医にろくに指導をしなかった。 次の医局は、教授が二代続けて東大教授の学者家系の人だったが、親の家に住んでいたのに10年落ちのカリーナに乗るような私服を肥やす人でなかった。学者肌の教授のおかげで、指導はものすごくしっかりしていた。
東北大学の老人科の非常勤講師をしていた頃の教授も、腰が低く、患者に呼ばれたらすぐに走っていくような人だったが、部下の医者も総じて腰が低かった。東北大学は医者が威張ることで有名な病院だったので、そこだけが際立っていた記憶がある。
医者の態度が悪いので、入試面接を課すようになったが、医者の態度が悪い理由の90%は指導教授のせいだと私は信じている。なのに、その指導教授が「医者に向かない」と判断したら、入試面接で落とすことができるようになった。東大をはじめとする心ある大学が入試面接を廃止したのは、まさに「徳」である。」
 人の上に立つような人は、いくら地位があっても、いくら言っていることが立派でも、知識が豊富でも、自らの徳がなければ、スタッフを育てることはできませんし、そのスタッフは人への思いやりに欠け、新しいものを創造していくことはできません。

エア

CS放送「日テレG+」で2月7日放送された「日常ながら運動」という番組で、「太ももの後ろ側からお尻にかけて気になる脂肪を、スピードスケートのフォームを取り入れた運動で下半身をすっきり引き締めましょう。」というダイエット法を放送していました。それを「エアスケート」と言っていました。また、番組の最後に、ほかにも様々なスポーツのまねをするとよいでしょうと勧めていました。たまに、駅のホームで、ゴルフの素振りをしている人を見かけますが、まさか、ダイエットをしているわけではないでしょうが、運動にはなるかもしれませんね。ただ、自宅でやってほしいとは思いますが。
 確かに、その動きをすれば、運動していることになるので、当然体にはいいのでしょうが、それを今はやりの「エア」を使うと、なんだか新しい提案に聞こえますね。1昨年あたりから、「エア」という言葉を聞くようになりました。北京オリンピックの開会式の時に少女が歌った歌は、後で指摘されましたが、「エア」でした。いわゆる「口パク」といって、後ろで流される声に合わせて口だけ動かして如何にも本人が歌っているかのように見せることです。しかし、「エア」は、「口パク」と違って、他人が歌っている声に合わせること、声だけでなく、振り付け、しぐさ、表情など視覚的にもその声に合わせたり、合間のトークもいれこんだりします。
 この「エア」で有名になったのが、「エアあやや」といわれる「はるな 愛」さんが、松浦亜弥のコンサートライブの音声を流しながら、オーバーアクションを交えて踊ったり、トークを入れたりする芸があります。
 もう一つ有名になったのが、「エア・ギター」と呼ばれるギターの弾きまねがあります。ギターと言っても、エレキギターが主で、大げさな振りで、体全体で表現します。これが特に有名になったのは、1996年からフィンランドのオウルで開催されているオウル・ミュージック・ビデオ・フェスティバルの一環として行われている「エア・ギター」世界選手権で、2004年、2005年の大会では、日本人が二年連続で4位に入賞し、2006年の大会では日本人が初優勝、続いて2007年大会でも日本人が優勝して二連覇を果たしたからです。
 この「エア・ギター」の起源にはいろいろと言われていますが、1970年代のハードロックのボーカリストが、ギタリストが長いギターソロを行っている最中に手持ち無沙汰になってしまうのを解消するため、マイクスタンドをギターに見立てて弾く真似をしたのが最初という説が有力です。この「エア~」は、視覚に訴えるために、テレビではとても効果があります。
少し違いますが、テレビ放映が始めリ、視覚的に訴え、見ていて面白い企画ということでテレビの特性をフルに使ったのが、クイズ番組「ジェスチャー」でした。この番組は、1953年2月20日から1968年3月25日までNHKで放送されたクイズ番組で、日本のテレビ史上初めてのクイズ番組でした。柳家金語楼キャプテン率いる白組(男性陣)と水の江滝子率いる紅組(女性陣)に分かれ、出された問題を解答者がジェスチャーだけで表し、それを時間内に当てていくゲームです。身振り手振りで表現するオーバーアクションは、答えを知っている視聴者からみると、とても面白く、人気があった番組です。
これも、いい運動になるかもしれませんね。

舞台

 芝居には、舞台が必要です。保育園、幼稚園には、子どもの活動の内容、それによる発達に影響を及ぼす環境の一つとして、「場」があります。それは、いわば活動の舞台ともいえます。その場としての舞台は、空間としての広さを含めて、「空間デザイン」「舞台装置」「舞台照明」など、その動きに意味を持たせるために重要な要素なのです。では、それぞれの人はどのような役割を持つのでしょうか。例えば、演技者とはだれなのでしょうか。演技者は、いわば、芝居の中心人物であり、舞台を所狭しと動き回って、自分を表現する人です。そういうと、園では、もちろん演技者は「子ども」ということになります。しかし、違う見方をすることがあります。
 以前、ある国では、保育者の資格を演劇学校で取れるというのを聞いたことがあります。その授業内容を見た時に、例えば、モップを取り出して、「これを使って演技しなさい!」というような課題を出していました。保育者候補は、モップを持って、話しかけたり、またいで魔法のほうきに見立てたりしていました。このような時には、保育者が演技者になり、子どもたちは観客です。演技者の演技を見て、楽しんだり、まねをしたり、いろいろなことを教わります。この考え方の園が多いような気がします。その時は、保育者は、パフォーマンスを行い、職人芸とも言われる保育技術で子どもを牽きつけます。その素晴らしい演技に、保護者は素晴らしい保育者であると感動します。しかし、子どもは、観客なのです。
 本来は、子どもは主人公でなければならないのです。子どもが、舞台とも言える保育室で、生き生きと活動しなければならないのです。では、そのようなときに保育者はどのような位置づけなのでしょうか?今までは、子どもを観客にしてしまい、自ら演技者になってしまった園も多く見られましたが、そうでなくても、演技者である子どもに、手取り足取りして、演技指導をする保育者も多く見られます。言った通りに演技することを強制するのです。子どもは、言われたとおりに動くだけです。しかし、このように演技していた子たちは、社会に出て、やはり演技指導をしてくれる人を求め、自らの生き方をしなくなります。
 そこで、最近は、引き出し役というファシリテーターとか、ディレクターとか言われることが多くなりました。俳優の段田安則さんが、このたび初の舞台演出を手掛けることになったそうです。その心境についてインタビューされている記事が、朝日新聞の「どらく」に掲載されていました。
「一つの芝居にはいろいろな見せ方がありますが、このラインで行こうと決めるのが演出です。例えば、あの山に登るにはこのルートで行こうと決めて役者たちに示す。それが難しいルートでも簡単でも、いいルートを見つけるのが演出家で「みなさん、どこでもいいから登ってください。」ではだめなんです。」また、その演出の仕方もさまざまあると言っています。「演技にはノータッチでセンスを大事にする人、一字一句セリフの音にこだわる人など、方法論は本当に千差万別です。」長い経験の中で、こんなことが大切なのではないかということに気付いてそうです。「稽古場の空気を大切にして、役者が能動的に演じられるようモチベーションを高めてあげたいですね。楽しいだけではもちろんだめですが、案外そういうことも大事ではないかと日ごろ感じていました。」
 どの世界にも通じることですね。

芝居

 私の自宅のある町内では、割と素人落語が盛んです。たまに、町内寄席が開催されたり、落語家を読んで余生を開催します。日曜日の新聞のチラシ広告に「鹿芝居」が開催されるという案内がありました。
 芝居では、普通は俳優が演技をしますが、そのほかにもいろいろな人が演技をすることがあります。特に、同じ芝居の中でも歌舞伎のように地域で発展してきたものは、「素人歌舞伎」と呼ばれるようなさまざまな職業の人、例えば、農業、商店主、会社員等が上演する歌舞伎もあります。また、地域によっては、子どもが演じる「子ども歌舞伎」があることもあります。また、素人芝居と呼ばれるものに、作家の人たちが演じる文士芝居も有名です。
 誰が演じるかというだけでなく、何人で演じるということであれば、よく尾形イッセーが演じるような「ひとり芝居」という、一人で演じるような芝居もあります。
 そのようなさまざまな芝居の中で、噺家が芸人の面白さや芸達者ぶりを盛り込みながら楽しませてくれる、「噺家芝居」を縮めたものの「鹿芝居」というものが、明治時代から寄席などで行われてきました。「はなしか」芝居を縮めて「しか」芝居です。いかにも、噺家がやる芝居の名前らしいですね。また、落語家がやる芝居だけに、ハプニングがあったり、オチがあったり、ずいぶんと楽しそうです。これが、私の地域で催されるのです。
 この知らせのチラシには、こんなことが書かれてあります。
「鹿芝居は三遊亭圓朝の時代から、盛んに行われていました。この時代は素人芝居も全盛で、各町内や大店では余興と称し、大きな規模のモノから小さな芝居までかなり盛んだったようです。大正から昭和にかけては、有名小説家たちの文士芝居も盛んに行われました。」
 映画などなく、民衆の楽しみは芝居が中心だったようです。しかも、それは、見物するだけでなく、自ら演じる楽しさもあった素人芝居も盛んだったようです。この素人芝居は、素人だけに失敗や、あせりや、ぎこちなさも余興のうちだったようです。そんなことが、チラシにも書かれています。
「なれない草履履きで高座に上がるため、草履を履かずに外を歩いてきたり、大事な小道具を持たずに舞台に上がってしまうなんて事がしばしば起こってきます。穴を埋めようと芝居の途中だというのに、のこのこ楽屋に戻ってしまい、かえって大きな穴が空いてしまうなんて事もあります。まじめにやればやるほどお客様が大笑いするというのも、噺家役者にとってはちょいと悔しい処でもあります。」
 そんな鹿芝居の出し物は、「らくだ」というものです。
この話は、長屋に住む本名が「馬」で、あだ名が「らくだ」という人物の話です。
この「らくだ」というあだ名ですが、1821年に両国に見世物としてきたラクダを見た時に、あんなにも大きくても役に立たないと江戸っ子は考えたようです。そこから体だけでかくって役に立たない者を「らくだ」と言いだしたようです。
 この話の内容は、昨日のブログではありませんが、フグを食べたせいか、ラクダが死んでしまったということから始まります。「真打の大ネタ」と称される古典の大作のようですが、本題は「駱駝の葬礼」といわれるように、始まりから主人公のラクダは、死人として登場する珍しい話です。死というものでさえ、ネタにしてしまう落語の世界はたくましいですね。