昨日の日曜日はとても天気が良く、自宅からもくっきりと富士山を見ることができました。もっと大きく富士山を見ることができないかということで、出かけようと思って、とりあえず、妻と中央線に乗って、山梨の方へ向かいました。どの駅で降りようということでいろいろと考えたのですが、いつも素通ってしまう駅で「猿橋」という大月の一つ東京寄りの駅があるのですが、そこにある「猿橋」を一度見たいと思っていたので、そこで降りることにしました。山梨県大月市猿橋町の桂川にかかる「猿橋」は、山口県の錦帯橋、徳島県のかずら橋と並ぶ、日本三大奇橋の一つです。
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この橋の構造形式は、「肘木けた式」と呼ばれ、橋脚がなく、両岸より張出された四層の桔木を支点とし、上部構造を支えているもので、昭和7年に名勝指定を受けています。猿橋の歴史は古く、初期の建築年代は600年頃百済の国の志羅呼が、猿がつながって対岸に渡る姿を見て、これを造ったという伝説がありますが、よくわかっていません。そのことは、1478年の廻国雑記に、「猿橋とて、川の底千尋に及び侍る上に、三十余丈の橋を渡して侍りけり。此の橋に種々の説あり。昔猿の渡しけるなど里人の申し侍りき。さる事ありけるにや。信用し難し。此の橋の朽損の時は、いづれに国中の猿飼ども集りて、勧進などして渡し侍るとなむ。然あらば其の由緒も侍ることあり。所から奇妙なる境地なり。」と書かれています。
しかし、この橋はとても重要で、戦国時代には、甲斐の国を治めていた武田氏が、抗争において度々猿橋に陣を張ったという記録が残っているように甲州防御の拠点でした。江戸時代になると、徳川幕府により開設された五街道の一つの甲州街道の宿場でもありました。江戸城に万が一の事態に遭ったときには甲府城を幕府の拠点にするための重要な軍用路だったと言われています。
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橋というのは、昔から重要な役目を持っていました。そのために、橋を造る職人は、とても重要視されました。昨年末に鹿児島を訪れた時、「石橋記念公園」に行っていました。ここには、鹿児島市街中央を北西から南東に流れる甲突川の上流から玉江橋、新上橋、西田橋、高麗橋、武之橋という五つの大きなアーチ石橋が架かっています。
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高麗橋
その五つの橋は今から160数年前の江戸時代末期の1940年代に架けられたもので、昔から「甲突川の五石橋」と呼ばれて親しまれていました。これらの石橋は、薩摩藩の財政と「肥後の石工」という絵本に取り上げられた肥後の石工の中でも特に卓越した技術を持っていたと言われた名石工「岩永三五郎」の架橋技術を誇る歴史的所産でした。
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しかし、残念ながら、最近の1993年8月6日の集中豪雨による洪水で、新上橋と武之橋が流失してしまいました。その後、貴重な文化遺産として後世まで確実に残すため、西田橋、高麗橋、玉江橋の三つの橋が河川改修に合わせて移設・保存されることになりました。そして、2000年に移設復元されているところが石橋記念公園なのです。
以前のブログでも「肥後の石工」のことを取り上げましたが、橋という建造物は、その技術がそのまま構造体として見えるために、見ていて感動します。