後楽

 リーダーというものは、激しい攻撃にあうことがあります。それは、変化をしようとするからです。率先して、チェンジにチャレンジするのがリーダーであるからです。人は、変化にはしり込みをします。今、そこそこやれているものを変えようとするのは、特に勇気が要ります。しかも、その変化には先の見通しがなければなりません。その見通しが立てられるのも、リーダーの資質であるとすれば、リーダーが攻撃されるのは必然かもしれません。
野球の巨人軍のホームグラウンド東京ドームにほど近いところに「後楽園」があります。同じ名前の公園が岡山にもあります。この名前の由来は、「士は天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」という中国の「岳陽楼記」からきています。この岳陽楼とは、中国でよく知られた古代建築の一つです。昔から、多くの文人墨客が岳陽楼を詠った詩や文章を書いています。その中で最も有名なのが、1000年前の北宋時代の范仲淹が書いた「岳陽楼記」です。そして、その中で一番有名な句が、この「先天下之憂而憂 後天下之楽而楽」でいうもので、その中の一部を取って、「先憂後楽」という四字熟語になっています。また、この「岳陽楼記」を書いた范仲淹という人は、中国・北宋の政治家であり文人でした。彼は、六経・易に通じ常に感激して天下を論じ一身を顧みなかったといわれています。
「天下の憂いに先立ちて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」とは、「士はまさに、天下国家の憂いを世の人々が未だ憂えない前に憂え、世の人々が楽しみ、豊かになった後に楽しむものである。」という指導者の心得を表したものです。この言葉のように、リーダーは、世の中をよく見て、他の人より先にその現状を憂えてまず行動すべきです。人々が困ったり、憂えたりしてからやっと憂えるのであれば、リーダーの資格がないと言えるでしょう。
そして、その憂いに対して行動しようとするときには、さまざまな障害があるかもしれません。「自反而縮。雖千万人。吾往矣。」です。この言葉は、「自(みずか)ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖(いえど)も吾(われ)往(ゆ)かん。」ということで、中国の古典「孟子」の公孫丑上篇にある一節で、孔子が「大勇」について語った言葉です。その意味は、「自らを省みて、正しくないとわかれば、たとえ相手がとるにたらないものでも私は恐れる。しかし自らを省みて、正しいと思うのであれば、私は千万の敵であろうと恐れることはない。」ということです。「縮」というのは、「義理にあう」「正しい」ということであり。よく自分のことを振り返り、その行為は、見栄のためであるとか、自分の保護のためであるとか、物欲のためであるとかではなく、自分としてはやましい心はなく、正しいと思えるのであれば、どんなに世界中が反対しようとも自分の道を貫くべきであるということです。
 その道を貫くのは、勇気がいります。勇気の源は、内心の正しさであると言っているのです。相手の強さ、年齢、地位ではありません。自分にやましいことがあれば、子どもの前でもひれ伏すしかないのです。

わが身

 人を動かす時には、「その人を動かす」というよりも「その人が動く」ことによって、その行動の効果は違ってきます。その人の生き方に共感することによって動くことがあります。その人は、目的ではなく、主体でなければならないのです。でなければ、常の横にいて、指示をしなければ動かなくなってしまうからです。また、動くと言っても、「言った通りに動く」というのであれば、時間をかけて訓練をすればいいのですが、動く時に判断を伴う場合は難しくなります。しかも、その判断を自らしなければならない時にはより難しいです。ロボットを開発するうえで、それがどこまでできるようになるかが開発の大きなポイントです。しかし、最終的には、その判断に勘や、雰囲気や、感情が伴う場合は、人間にかなうものはありません。
 人を動かす時に、いくら教えても、いくら言ってもなかなか真意が伝わらないことがあります。それは、そのリーダーたる人への共感が薄いということもあります。その人の生き方、考え方に共感していると、人は動いてくれます。よく、「自分のことは棚に上げて」人にお説教する人がいますが、その場合に無理やりに頷かせることはできますが、人を感動させたり、心から納得してはくれません。
 論語の子路篇の中で孔子はこんなことを言っています。「その身正しければ令せずして行われ、その身正しからざれば令すといえども行われず」指導者の行為が正しければ、人は命令しなくても自ら動くのですが、その人自身の行為が正しくなければ、いくら人に命令してやらせようとしても、人はその人の言葉に従って動きはしないのであるということです。
 モデリングということばがあります。学ぶことは、「まねる」ことから始まり、「まねぶ」になり、「まなぶ」になります。その真似る対象で一番影響のあるのは、リーダーであり、子どもからすると親であり、身近な大人です。反面教師という言葉がありますが、これは大きくなってからの影響で、自分の考えができてからの話です。しかも、「ああは、なりたくない」と思えるのですが、「どうしたらよいか」ということにはつながりません。
 東京都の取り組みで「子どもにあいさつさせよう!」というものがありますが、私はこのスローガンよりも、「子どもにあいさつしよう!」という方がいいと思います。先日、園の見学者から、保護者からの苦情の一つに「職員があいさつしない」というものがありますと言われました。これはどの園でもよく言われることですが、「職員にあいさつしよう」ということで接してくれれば、必ずあいさつを返すと思うのですが。
 しかし、モデルと言っても、立場が違えば必ずしも同じことをして示すことはできないことがあります。保育者に「子どもを受容するようにしなさい」と園長が言ったときに、「では、園長が子どもを見てください!」というような大人げない言葉を返す人がいますが、それは、それぞれの立場の役目があるので、おかしなことです。その時にその言葉に説得力があるのは、もちろんその言葉の意味をよく理解し、子どもを理解していなければならないのですが、それにまして、園長の行為が常に正しくあるように努力をしていなければならないのです。人は、金や地位で動かすものではなく、リーダーの自らの行為と、リーダーの部下を信じる気持ちが人を動かすのです。

 私は、昔から何かに反対をしたり、人を動かそうとするときには、イソップ童話の「北風と太陽」を思い浮かべます。厳しさよりも優しさの方が人を動かす力があるという話です。太陽のような温かさで包み込んだ方が、風のように無理やりに、力づくで動かそうとするよりは、効果があるということです。
 昨日、園に見学にきた方にこう言われました。「1歳児のある子が、給食の時間になっても、金魚の水替えを見ていてなかなか席に座りません。それを先生は見ていながら、注意をせず、納得がいくまで見せていたことはどう考えたらよいでしょうか?」それに対して、私は、「子どもにとって、何を優先させてあげるかということを常に考えます。金魚も水替えはめったに見ることができないもので、それに興味を持ったその瞬間は大切にするべきであると先生は判断したのでしょう。また、その気持ちを満足いくように認めてあげると、その後、自ら早く行動します。その時に無理やりに連れて行く方が、かえって遅くなることになるのです。」
 人を動かすには、さまざまな考え方があります。「韓非子」という中国戦国時代の法家である韓非の著書があります。この書の内容は、春秋・戦国時代の思想・社会の集大成と分析とも言えるものであり、この本を、三国志に出てくる諸葛孔明が、劉備の息子の劉禅の教材として献上しています。この劉禅は、レッドクリフという映画で、生まれた翌年、曹操が荊州を攻めた際に、趙雲に救われ、九死に一生を得ています。その韓非子の中の「用、無用の効を知る」といわれる「外儲説」篇にこんな言葉があります。「事の理に因るときは、労せずして成る」これは、「物事に内在している原理に沿ってやれば、労せずして目的を達成できる」という意味の言葉です。
韓非子には、この具体例が挙げられています。「ある男が、車を牽いて太鼓橋に差し掛かりました。すると、車が重くて太鼓橋に乗り入れることができなくなってしまいました。そこで男は、無理やりに引っ張ろうとせず、車の梶棒に腰掛け、歌を歌いだしました。その声がとてもいい声だったので、人々が集まってきました。集まった人たちみんなで車を動かしてくれ、太鼓橋を難なく乗り越えわたることができたということです。」無理やり引っ張っても動かなかったでしょうし、かえって力ばかり浪費してしまいます。また、ただ周りの人に頼み込んでも、多くの人を集めるためには時間がかかりますし、広い範囲を歩きまわななければならないでしょう。それを、相手に委ねることによって物事進めればスムーズに事が運ぶことになるということでしょう。
何をやるにしても、「原理・原則」があり、それに逆らうようにやれば力ばかり使って達成できないことがあります。強制力ではなく、「理」を利用しなければなりません。相手の発達段階、性格、能力、置かれた状況などを考慮し、相手の気持ちに共感することで、相手が自ら動くという状況を作り出すことができるのです。
私の「やってあげる育児から 見守る育児へ」という本の中の「子どもを甘やかすことと、子どもの甘えを受容することは違います。」ということは、甘やかすということは要求通りにやってあげることであり、受容するというのは、その気持ちに共感するということなのです。リーダーも、理をもって、部下の気持ちに共感することが、自らやる力を引き出すことになるということです。

使命

 一昨日と昨日、「リーダー研修会」が行われました。リーダーとはだれを指すのかは、それぞれの組織が考えることで、いわゆるトップの地位の人であることもありますし、逆に新人でこれからを担う人の場合もありました。参加者のほとんどは、保育所の職員で、いわゆる非営利組織の人たちでした。私はよく、非営利組織の役割を考えることがあります。いわゆる利益、営利を目的とする組織、機関に比べて、目標が立ちにくいからです。目標が立ちにくい組織では、リーダーとしての在り方も難しいものがあります。そんなときに、参考にするのが、P.F.ドラッカーの「非営利組織の経営」という本です。
 ドラッカーによると、リーダーの第一の責務は、「組織内の皆が、その使命を目にし、耳にし、そして、それとともに生きていくようにすることである。」と書かれてあります。しかし、問題は、なにが「使命」かということです。
 「人のある限り、罪人はいる。人のある限り、介護の必要な病人がいる。どのようにうまくいっている社会にも、アル中はいるし、麻薬患者はいる。慰めとなにがしかの助けを与えてくれ、更生を試みてくれる救世軍を必要とする人たちがいる。子どもは学習し、学校に行かなければならない。そして、子どもたちは、男の子も女の子も、その成長の過程で、彼らの人格の形成を助け、模範を示し、進むべき方向を知らせ、何かを学べるよう、知的にかかわりをもってスカウトと、そこにおける経験を必要としている。」
 使命とは、常に存在すると言っているのでしょう。それに対して、目標は達成することがあります。しかし、使命は、次の目標を指し示してくれます。私たちは、常に使命を確認しなければならないのです。特に、社会の変化には敏感でなければその使命は逆効果を生みかねません。しかし、実際は、非営利組織では、社会からの変化を受けにくいところがありますし、受けなくてもやれてしまうところがあるためにその改革は難しくなります。それを、ドラッカーはこう言っています。
「私たちは、絶えず使命を見直し、考え抜かなければならない。人口構造が変化している場合もある。何の成果も生まないままに資源を食いつぶしているようなものを、棄てなければならない場合もある。また、目標を達成してしまった場合もあるからである。すべての子供を学校に行かせ、何年もそこにいさせるという当初の目的をすでに達成してしまったために、今や危機に見舞われている学校がそのいい例である。いま私たちが考えるべきことは、学校に対して、真に何を期待するかということである。10人のうち9人までの児童がきちんとした学校教育を受けられなかったころの教師が、長年にわたって悪戦苦闘したものとは、いろいろな点で全く異なったものが今や期待されているのであろう。したがって、外からの発想が不可欠である。なかから発想し、その持てる資源を費やす場所を見出そうとする組織は、資源を浪費する結果にしかならない。結局、それは過去に焦点を合わせることにしかならない。機会とニーズは、外に求めるべきである。」
 いま、いろいろな制度が変わろうとしています。それが、改悪の場合もあるでしょう。しかし、それは変えるべきではないということにならないのです。「なかからの発想で、持てる資源を費やす場所を見つけようとする組織は、資源を浪費する」という言葉は、ここ最近、特に感じることです。

暖房

 いよいよ冬本番になり、寒い日が続きます。人間というものはぜいたくで、暑い日が続くとお文句を言い、寒い日が続くと文句を言い、ちょうど良いということを味わえなくなっているような気がします。というよりも、年々、人々はちょうど良いという範囲が狭くなっている気がします。電車内でも、ちょっと暑いと冷房が入りますし、ちょっと涼しいと暖房が入ります。人間の体が弱くなったのか、贅沢になったのかわかりませんが、人間の体にとってと、地球のためにはよくないことは確かでしょうね。
 皆さんは、家ではどのような暖房器具を使っているのでしょうか。職場など大きなところではエアコンが主でしょうが、一般家庭ではいろいろな暖房器具を使われていると思います。私の家での中心は、こたつです。ほかに、ホットカーペット、電気ストーブ、ガスストーブ、石油ストーブ、ファンヒーター、ハロゲンヒーターなどがありますが、趣味の世界になると、薪ストーブや暖炉のある家もあるでしょう。また、床暖房も新築や建替えの際に一緒に組み込む家も多くなっているようです。では、費用的にはどれが得なのでしょうか。東京電力が、10畳の部屋を1時間暖めるのに必要な熱量を生み出すのにかかる費用を計算したものがあります。それによると、エアコン・石油ストーブは1.2円、ガスストーブは2.4円、電気ストーブは5.7円という結果が出ました。しかし、もちろん、暖房器具に頼らないで暖かくする方法が一番かもしれません。例えば、昔からあるもの湯たんぽやホッカイロを足先や腰のあたりに貼ったり、分厚い遠赤外線くつしたを履いたり、分厚いじんべえのような上着を着るとかなり体が温かくなります。
 では、学校ではどうでしょうか。平成16年に文科省で「学校施設における換気マニュアル策定に関する調査研究委員会」で基本的な考え方を出しています。暖房設備として、高温輻射暖房(開放型・半密閉型ストーブ、蒸気式放熱器等)、温風暖房(FF式温風暖房機、ファンコイル、エアコン等)、低温輻射型暖房(床暖房、温水パネル等)、校舎全体を輻射または温風で暖房する方式等があり、現在では、多くの学校で、FF式温風暖房機が使用されています。しかし、この方式は、温風が吹き出される付近が高温になるとともに、室内の垂直方向の温度分布が大きくなりやすいことに留意する必要があり、開放型や半密閉型の燃焼方式の暖房器具については、室内空気が汚染され易く、換気設備を計画する際に必要換気量を大きくとる必要があるとしています。また、将来的には、廊下も含めた校舎全体の暖房についても検討することが必要になると思われると書かれているのには、どこまで贅沢になるのかと思ってしまいます。
 明治から昭和中期にかけての日本の学校で使用されたのは、鋳鉄製の暖房器具である「ダルマストーブ」です。明治時代の冬の教室を温めていたのは大型の「火鉢」でしたが、広い教室を温めるには不向きで、大正年代から薪ストーブに変わっていきました。
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燃料も、戦前から昭和30年代までは薪や石炭が主流でしたが、昭和30年代後半からコークスへの切り替えが進んでいきます。コークスとは石炭を高熱で蒸し焼きにした固体で、無煙で火力が強く、長時間燃えるという長所がありました。私は、ちょうど切り替え期でしたので、小学校低学年のころは黒光りする石炭でしたが、途中から光のないコークスに変わっていきました。
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 火つけのできない低学年の頃は高学年の子が火をつけに来てくれたこと、ストーブの近くの子は熱くて仕方がなく、教室の後ろの方は寒かった思い出があります。でも、誰も文句を言わなかった気がします。

昨日の日曜日はとても天気が良く、自宅からもくっきりと富士山を見ることができました。もっと大きく富士山を見ることができないかということで、出かけようと思って、とりあえず、妻と中央線に乗って、山梨の方へ向かいました。どの駅で降りようということでいろいろと考えたのですが、いつも素通ってしまう駅で「猿橋」という大月の一つ東京寄りの駅があるのですが、そこにある「猿橋」を一度見たいと思っていたので、そこで降りることにしました。山梨県大月市猿橋町の桂川にかかる「猿橋」は、山口県の錦帯橋、徳島県のかずら橋と並ぶ、日本三大奇橋の一つです。
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この橋の構造形式は、「肘木けた式」と呼ばれ、橋脚がなく、両岸より張出された四層の桔木を支点とし、上部構造を支えているもので、昭和7年に名勝指定を受けています。猿橋の歴史は古く、初期の建築年代は600年頃百済の国の志羅呼が、猿がつながって対岸に渡る姿を見て、これを造ったという伝説がありますが、よくわかっていません。そのことは、1478年の廻国雑記に、「猿橋とて、川の底千尋に及び侍る上に、三十余丈の橋を渡して侍りけり。此の橋に種々の説あり。昔猿の渡しけるなど里人の申し侍りき。さる事ありけるにや。信用し難し。此の橋の朽損の時は、いづれに国中の猿飼ども集りて、勧進などして渡し侍るとなむ。然あらば其の由緒も侍ることあり。所から奇妙なる境地なり。」と書かれています。
しかし、この橋はとても重要で、戦国時代には、甲斐の国を治めていた武田氏が、抗争において度々猿橋に陣を張ったという記録が残っているように甲州防御の拠点でした。江戸時代になると、徳川幕府により開設された五街道の一つの甲州街道の宿場でもありました。江戸城に万が一の事態に遭ったときには甲府城を幕府の拠点にするための重要な軍用路だったと言われています。
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橋というのは、昔から重要な役目を持っていました。そのために、橋を造る職人は、とても重要視されました。昨年末に鹿児島を訪れた時、「石橋記念公園」に行っていました。ここには、鹿児島市街中央を北西から南東に流れる甲突川の上流から玉江橋、新上橋、西田橋、高麗橋、武之橋という五つの大きなアーチ石橋が架かっています。
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高麗橋
その五つの橋は今から160数年前の江戸時代末期の1940年代に架けられたもので、昔から「甲突川の五石橋」と呼ばれて親しまれていました。これらの石橋は、薩摩藩の財政と「肥後の石工」という絵本に取り上げられた肥後の石工の中でも特に卓越した技術を持っていたと言われた名石工「岩永三五郎」の架橋技術を誇る歴史的所産でした。
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しかし、残念ながら、最近の1993年8月6日の集中豪雨による洪水で、新上橋と武之橋が流失してしまいました。その後、貴重な文化遺産として後世まで確実に残すため、西田橋、高麗橋、玉江橋の三つの橋が河川改修に合わせて移設・保存されることになりました。そして、2000年に移設復元されているところが石橋記念公園なのです。
以前のブログでも「肥後の石工」のことを取り上げましたが、橋という建造物は、その技術がそのまま構造体として見えるために、見ていて感動します。

GNP

 GNPというのは、「一年間に作り出された財とサービス価額から、それを生み出すのに必要な原材料を引いたもの」をいい、「国民総生産」と言われているものです。このGNPは、ひとつの国単位の国力、経済カのパワーを計る目安となりますが、戦後、日本は世界の中で図抜けた伸び率を維持しつづけ、ついには世界No.2の経済大国に成長しました。
しかし、この数値は私たちにとって、どういう意味を持つのでしょうか。先日大統領に就任したオバマ氏の演説の中で、不況の中、少し変化が見られました。
「我々は相変わらず創意に富み、我々が生み出す財やサービスは先週や先月、昨年と同様、必要とされている。能力も衰えていない。しかし、同じ手を用いるだけで、狭い利益にこだわり、面倒な決定を先送りする、そんな時代は確実に終わった。今日から我々は立ち上がり、ほこりを払って、米国を作り直す仕事に取りかかろう。」不況と言われている中、基本的に能力は変わっていないが、同じ手を用いること、狭い利益にこだわることを変えていこうという姿勢が表れています。また、
「今回の(経済)危機は、監視がなければ、市場は統制を失い、豊かな者ばかりを優遇する国の繁栄が長続きしないことを我々に気づかせた。我々の経済の成功はいつも、単に国内総生産(GDP)の大きさだけでなく、我々の繁栄が広がる範囲や、機会を求めるすべての人に広げる能力によるものだった。慈善としてではなく、公共の利益に通じる最も確実な道としてだ。」ただGNPの大きさで判断するのではなく、すべての国民が等しく公共の利益を得ることが大切であると言っています。そのために必要な価値観を、こう言っています。
「我々の挑戦は新しいものかもしれない。我々がそれに立ち向かう手段も新しいものかもしれない。しかし、我々の成功は、誠実や勤勉、勇気、公正、寛容、好奇心、忠実、愛国心といった価値観にかかっている。これらは、昔から変わらぬ真実である。これらは、歴史を通じて進歩を遂げるため静かな力となってきた。必要とされるのは、そうした真実に立ち返ることだ。」ここで、大切にするべき価値観、この不況を乗り越えるために必要な価値観をあげています。
先週号の「サンデー毎日」の時評で、GNH(国民総幸福観)を提案しているブータン国王と、日本の麻生首相との「違い」について岩見隆夫さんが書いていました。
この中で、昨年11月6日、GNHを提唱した国王から28歳の新国王になった戴冠式の時の演説の言葉を取り上げていました。この言葉は、テレビ「世界、ふしぎ発見!」で放送されたものだそうです。その言葉とは、「世界が変わっていく中で、ブータンも変わっていくでしょう。行く先では困難に遭遇するかもしれません。その時は、皆さんと私の両方の手でブータンの未来を築いていきたい。私は自分の就任中、皆さんに対して支配者のような振る舞いは断じてしません。ある時は親代わりになり、また兄弟のように守り、世話を焼き、そして、皆さんの息子のように仕えたいのです。」
 岩見さんは、「この短いなかに、指導者としての倫理観が凝縮されていて、トップはいつも〈親代わり〉の心情で国民をいたわり、包まなければならない。〈世話を焼き〉という言葉もいい。」と書いています。
それに引き換え…というのも、ないものねだりかもしれませんので、少なくとも、私はリーダーとして、そのような姿勢でいたいと思っています。

GNH

 昨年末のNewsweekの特集で「オランダの子供が世界一幸せな理由」という記事がありました。ここでいう「幸せ」とはどんなものなのでしょうか。この調査では、幸福度を「物」「健康と安全」「教育」「友人や家族との関係」「日常生活上のリスク」「子供自身の実感」の6つの視点から考察したようです。その結果、OECD加盟国のうち21カ国のランキングをユニセフ・イノチェンティ研究所が作成したものです。そして、オランダが1位になったというのです。
 日本は、どのくらいに位置するのでしょうか。残念ながら、この調査では日本は発表されていません。それは、上記の6つの視点についての統計がすべてはそろっていないからのようです。日本では、「教育」「友人や家族との関係」「子供自身の実感」の面で低い気がします。
 豊かさを表す指標としてよくつかわれるものに「GNP」という「国民総生産」というものがありますが、最近、「GNH」というものが提案されています。これは、Pの代わりにH「Happiness」をはかるのです。つまり「国民総幸福量」ということになり、物質的な幸せではなく、精神的な幸せを目指すということです。この概念を発信している国「ブータン」の取材記が、「もう一つの日本」失われた「心」を探して(ソフトバンク新書)という新書に書かれています。この本は、産経新聞の記者である皆川豪志さんと徳光一輝さんが取材したものです。
 この本の中で、ブータンの首都ティンプーにある国立ブータン文化研修所でこの「GNH」の研究を続けているカルマさんは、GNHを数値化したいと言っています。物質的な幸せではなく、精神的な幸せを空想的な理念ではなく、GNPと同様、一目でわかり、比較出来るものでなくてはならないと思っているのです。「日本人なら分かると思うが、物質的な幸せには際限がない。例えば、良い電化製品を買ってもさらに最新の機器が出ればそちらが欲しくなる。給料が上がっても隣人の方がもっと高ければうらやましく思う。これでは世界一の金持ちにならねば欲望は達成できず、幸せになれない」と言います。
 この考え方を、著者は、仏教の「中道思想」にも似ていると言います。物欲に走って本能的な生活に陥るのではなく、逆に極端な苦行に命を賭けるものでもない。どちらか一方に偏るのではなく、主体的に自らの欲望をコントロールしながら「中ほど」を選びとることで真理が見つかるという考え方ではないかと言います。そのことを、日本の仏教家である仏教振興財団理事長であった井上信一氏が一つの「数式」(欲望が分母で、財が分子)幸せ=財/欲望)を示して、その分子を大きくして幸せになろうとするのが欧米式であり、分母を小さくしようと考えるのが東洋式・仏教式の考え方であると考えました。
 このような考え方からいうと、「GNHは、もっと分かりやすく、国民が支持しやすい概念でなければならない。例えば、ペットボトルの水が売れればGNPは上がるが、川の水が飲める国になればGNHが上がると私たちは考える」とカルマ氏は述べています。そして、「先進国には経済成長だけがグローバルスタンダードではないと訴え、途上国には過剰な開発だけが国の発展にはつながらないと訴える。貧しくとも人々の心が豊かであれば、それなりの幸福感がある社会は実現できるということです。」
 不景気だと言われている今、あまりに理想的だ、情緒的だと言わずに、もう一度幸せとは何か、それに向けての具体的な発信を考える時かもしれません。

封切り

 私は映画をたまに見ますが、大体は妻と見ることが多いので、見に行く日は日曜日の昼間です。「夫婦50割引」という、どちらかが50歳以上の夫婦2人であれば、一人1000円というキャンペーンが継続されている映画館が多いので、二人で行っても、ほぼ一人分で見ることができるので助かります。それから、話題作は日曜日は込んでいることが多いのですが、ネットで事前予約ができ、座席指定ですので、日曜日でも見に行くことができます。また、妻が一人で見に行く時は、レディースデーの昼間に行くことが多いようです。私は、今は忙しくて、一人で映画を見に行くことは少ないのですが、行く時は、平日の夜の部です。
 私は、中学生のころから映画をよく見に行きました。住んでいたのが、浅草のロックや、有楽町という映画館が数軒並んでいる街に近いということもあって、気軽に行きました。そのころ見に行く映画は、私の場合、ほとんど洋画で、特に「ウエストサイドストーリー」の影響で、ミュージカルはほとんど見に行きました。
 そのころを思い出してみると、映画を見に行ったのは「ロードショー公開」でした。映画におけるロードショーとは、「映画の封切り」のことをいいます。しかし、もともとは違う意味でした。最初は、おもにアメリカの演劇界で使われていた言葉で、新しい作品をブロードウェイで上演する前に、その作品がどのくらい受け入れられるかを、地方を回って上演を行い、そこでの評判をみました。そのように、ブロードウェイよりも前に行う上演のことを、一般に「ロードショー」といいました。それが、映画では逆に、まず、都市部で先行して上映を行い、そこでの評判や観客動員を見て、全国展開をするかということをきめました。この「都市部での先行上映」のことを「ロードショー」といったのです。私は幸い、都市部に住んでいたので、誰よりも早く封切映画を見に行くのが趣味でした。しかも、その中でも第1回目の上映に行くことを目指しました。
 ロードショーの第1回目は、さまざまな特典がありました。よくあるのは、その映画のポスターをプレゼントされます。ですから、私の部屋は、映画ポスターをパネルに水貼りをしたものが何枚も飾ってありました。また、出演者たちが舞台あいさつをする時があります。そのほか、特に面白い経験をしたことがありました。「最高にしあわせ」というミュージカルを見に行ったときに、その映画の鑑賞者みんなが立ち会いをして人前結婚式を挙げた時です。会場が映画館で、仲人が高島夫妻でした。
 私がロードショーの封切り日に見に行ったということは、何曜日だったのでしょうか。私の高校は、そのころから隔週土曜日が休みだったので、土曜日だった気がします。今も、封切り日は土曜日のことが多いようです。それが最近変わってきつつあるということが、先日の新聞記事に書かれていました。
最近、大手洋画配給会社の注目作を中心に、金曜封切りが目立っているというのです。次回作の「ハリー・ポッターと謎のプリンス」も世界同時の金曜公開が決まっているそうです。この作品が世界同時ということは、ほとんどの国での初日は金曜日なのです。日本でも、1990年ころに金曜日封切りにしたことがありましたが、当時は定着しなかったようです。それがまた金曜公開になったのは、「週休2日制が根付いて、金曜夜はゆったり過ごす人が増えてきた。そんな社会環境の変化への対応」と言っています。劇場側からも「金曜夜は映画、という生活リズムを確立したい」という機運が出てきたようです。ただ、金曜封切りとなると、映画初日の“主戦場”は夜の上映になるために、ファミリー向け作品などには適さないとみられ、どうも作品ごとに判断するようです。
生活様式の変化は、いろいろなところに影響するのですね。

名言

 朝日出版社から出版されたCD付き「オバマ演説集」は、昨年11月20日の発売初日に初版2万部が完売し、現在で早くも18版になり、40万部が発行されているそうです。新大統領のオバマ氏は、これから数々の名言を残すでしょうね。かつて、いろいろな人が名言を語っています。今回のオバマ氏の演説の中でも、ずいぶんと過去の名言をを参考にしたと思われる個所がありました。
 名言というのは面白いもので、それを言った本人はそれほど深い意味で言ったのでない場合も多く、その部分だけが解釈されて残ってきたものが多くあります。名言という言葉は、ある文脈の中で語った言葉の中からその部分だけを切り取ったものが多く、それを言った時代的背景、その土地、どんな条件の中で誰に言ったかなど様々な中で話された言葉なので、言った当時の意味と違ってくることが多いのかもしれません。また、実際にその人が言ったわけではなく、その人のイメージから作られた言葉もあるでしょう。しかし、後世の私たちは、歴史を学ぶのではなく、その言葉に込められているメッセージから、人生なり、姿勢を学ぶことが「名言」を知る意味ですので、それを読んだ人が自分の今の境遇からその言葉を理解してもいいような気がします。いくつかのリンカーンが残した言葉を紹介します。
リンカーンが残したといわれる言葉で有名なものに「40歳になったら人は自分の顔に責任を持たねばならない」というものがあります。顔は、もちろん生まれつきなものです。しかし、人は顔をたんに造形物で見るのではなく、そこから醸し出される雰囲気というか、人格というか、心を感じることがあります。特に子どもは、直感的に感じるようです。特に40歳を過ぎるころから経験の重みや、受容する気持ちや、自分に対する確信などが顔に現われてくることです。そして、ただ顔にそういうことが現れてくるということだけでなく、それに「責任」を持つべきだということも言っています。
「木を切り倒すのに6時間もらえるなら、私は最初の4時間を斧を研ぐことに費やしたい。」これは、斧を丹念に研ぐことは、切れ味が良くなり、切り口がきれいになり、時間的にも短縮します。目の前だけの目的を見て、早くそれを達成しようとするのではなく、本来の目的を達成するためには、どんな準備が必要であるか、どんな仕上がりを求めているのかという見通しを立てることが重要だと思います。
生き方についていくつか示唆を含んだ言葉が伝わっています。
「あなたが転んだ事に興味はない。あなたが立ち上がる事に興味がある。」
「大抵の人は自分が幸福になろうと決心した程度だけ幸福である。」(幸福の度合いは自分がどれだけ幸福になりたいかで決まるのだ)
「今日できることを 明日に残すな」
リンカーンの人生は、何度も転んだことでしょう。夢ももったことでしょう。しかし、それは自分に課せられた使命を全うしようとしたからに違いありません。それは、ある人がリンカーンに向けて「あれが大統領か。実に平凡な風采だな」といった言葉に対して返した言葉に現われています。「その通りだよ、君。神さまは平凡な人が好きなのだ。だから平凡な人を、たくさん、つくられたのだ」
これは、自分のやるべき使命を確信している人の答えですね。