郷中

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 薩摩で行われた「郷中教育」は、もちろん今の時代にそのまま取り入れることはできません。というのは、教育とは、その時代に、その国にとって、必要な人材を育てる目的がありますので、時代が変わったり、風土が変わったりすると、また違ってきます。ですから、教育内容や保育内容を、今の時代にそのまま取り入れることは危険な場合もあります。しかし、人を育てるという根本的な考え方や、そのこうかてきなやり方には学ぶべきところも多くあります。特に、少子社会になった今、「郷中教育」には、学ぶ点がいくつかあるような気がします。しかし、以前紹介した日新公の「いろは歌」にあるように「いにしへの道を聞きても唱えても 我が行にせずばかひなし」です。
 「郷中教育の方法として「詮議」ということがある。思考の適正、判断の妥当を得るように練習するために用いられる問答法である。大は忠孝の大道に関する問題から、小は日常生活の一挙一動に至るまで起こり得るあらゆる場合を取り上げ、それに対処していかなる態度を執り、いかに行為すべきかに至るまで、予め考えてみることである。これはいわゆるソクラテスの対話法とも相通ずるものがあって、人生問題を具体的に考察する点においてきわめて適切であるといわねばならぬ。しかもこの詮議は単なる座上の水練や口頭禅に堕することなく、常に直ちに現実の行動に移し得るものであり、また移されねばならぬものとせられておるのである。」ということを「郷中教育の研究」の序を書いた友枝高彦氏が書いています。まさに、今の時代に必要であり、また、特に日本人の教育の欠けているといわれている「ディベート力」です。一方的に話すことに、黙って、じっと座って聞くという教育では育たない力です。
 郷中教育には、他にも特徴がありますが、その一つに「教師なき教育」といわれていることです。それについて、「郷中教育の研究」(松本彦三郎 著)では、こう書かれています。ただ、これが書かれたのは戦前なので、少し今と定義が違うかもしれませんが。
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 「今日普通の意義でいえば、教育とは、教師が生徒に対して何らかの意味で影響を与えるところの具体的活動を意味する。郷中教育にはこのような意味での教師はおらない。もちろん、稚児たちがその許にまかり出て四書や五経等を読み習った先輩学者はおった。けれども、その教育をもっぱらに担任してその指導の責を負うべき特定の人物―職業人としての教師はおらなかった。しかもそこで、実に偉大なる教育が行われたのである。」では、どうして学んだのでしょうか。
「あたかも親身の兄弟のごとく、先輩は後輩を懇ろに教え親切に導き、後輩は先輩を心から敬慕し信服した。すなわちこの教育では先に生まれたもの「先生」―真実の意義における「先生」が、後生を合い愛重し撫育したのである。復習座元においては、長稚児は小稚児に対して先生になり、長稚児相互の間ではお互いがお互いの先生となった。」
 いわゆる学びあいです。しかし、学びあいには注意が必要です。というのは、学校の授業のような同年齢の中でそれを行う場合です。この郷中教育の中でも同年齢での学びあいは、復習のときと限られているようです。新しいことを習うときには、当然、それをよく知っているものが教えなければならないからです。それが先に生まれたもの、すなわち、年上の子であったり、先生でなければならないのです。

郷中” への5件のコメント

  1. ちょうど今、『巨眼の男・西郷隆盛』を読んでいるところです。この中に、郷中の詮議がいくつか紹介されています。「お前らの父と母が、大病にかかり死にかけちょる。病に効く薬は、ひとつしかなか。どっちに飲ませればよかか」「学問があっせぇ、武芸達者な人がおる。そん人はなぜか母どんにつらくあたり、いつも泣かせちょる。立派な人が、ないごて不孝じゃっどか」「朋友どんが、どこかで盗んだ金を、お前にやるといえば、いけんすっか」どれも難問ですね。事態に直面してどう判断して行動するかを常に考えることを要求されますね。道徳というよりも問題を解決する突破力ですね。テレビゲームにうつつを抜かす現代の小学生にいっぺん同じ質問をぶつけてみましょうか。

  2. 「郷中教育」のように参考になりそうなものに出会ったとき、すぐに飛びついてしまうのではなく、今の時代をよく考え、何を取り入れるべきかを冷静に判断することが大切なんですね。そしてこれと決めたら「我が行いに」すること、これをひたすら続けることを怠ってはいけないと再確認させてもらいました。
    それにしても素晴らしい教育が行われていたんですね。問題意識が高く、教育について真剣な大人の姿が浮かんでくるようです。ディベートや学びあい、その中での注意点もおさえてあり、学ぶべきことは多いです。小稚児が6-10歳、長稚児が11-15歳、二才が15-25歳というグループ編成もおもしろいです。昔はできていたこうした形が、なぜ今は簡単にはできないことになってしまったんでしょうか。

  3. 今日のブログを読みながら高校時代の部活を思い出しました。「教師が生徒に対して何らかの意味で影響を与えるところ」の今日的な意味の「教師」は存在しませんでした。1年2年上の先輩、あるいは卒業していったOB・OGが「先生」でした。あるいはやがて自分が「後生」の「先生」となっていました。その中で学びえたものの大きさは今なお計り知ることができません。現在の学校にはそれなりの可能性と限界があると思いますので、過大にも過小にも評価したくはありませんが、今日のブログで紹介されていた「郷中教育」の考え方を具現化した「集団」がひとつでも多く日本の中に存在するとこの国は世界から必要とされる国となり、諸外国にたいして大いに貢献できるようになるでしょう。

  4.  今まで郷中教育をそのまま今の日本に取り入れれば現状よりは良くなると思っていましたが、そうでもないのですね。ブログにも書いてありますが、その国の文化や風土、そしてどのような人材が必要なのかが、明確になっていないと危険かもしれませんね。
     郷中教育のブログを読むたびに、感心させられます。とくに「教師なき教育」という言葉は、そのままですが教師がいなくても教育は子ども同士が教えあっているということですね。やはり、そういう形が一番理想な教育、保育方法だと思います。そして、郷中教育という日本でも昔からの素晴らしい教育方法があるのだから、どんどん参考にするべきだと思いました。

  5. 特に日本人の教育の欠けているといわれているのは「ディベート力」であるということで、自分のことを話すこと以外にも、相手の話を理解した上でそれに対する言葉というものを考えながら言葉で表現するという行為は、まさに一瞬の出来事であり、瞬時に反応を示す能力が必要になるように感じます。それは、日常の生活の中にその関わりを持たせる必要が現代社会にはあるということであると感じ取りました。

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