そろそろ年末です。園では、今、年賀状作りに追われています。各クラス、それぞれの工夫を凝らした年賀状が作られていきます。毎年思うのですが、この年賀状は、無駄なことでしょうか。意味の無いことでしょうか。
12月12日付の「よみうり寸評」には、こんなことが書かれてありました。
「無駄」の反対語は「贅沢」なのだという。つまり普通なら、限られた時間や資源をいかに有効活用するか考えるところを、敢えて「無駄」に使うことが「贅沢」◆「無駄学」(西成活裕著、新潮社)で、そんな考え方があるのを知った。ただし無駄と贅沢の区別は容易ではない。ある人の無駄も別の人には有用。贅沢を戒め無駄を切りつめるだけも果たして…◆西成さんは、電子メールの例を挙げている。以前は、便利な道具と思っていた。今は「まったく逆の気持ち」という◆手軽なので初対面の相手からも次々用件が舞い込む。すぐに返事を迫られる。無駄を排した連絡法の先には「紙でやりとりしていた頃の数年分の手紙の量が1週間で来る」「恐ろしい時代」◆となれば年賀状も贅沢なのか。年賀はがきの発行数は減っている。年賀状の配達数も昨春、この10年で初めて、30億枚の大台を割り込んだ◆敢えて無駄はお勧めしない。贅沢な人にだけ、お知らせすると、新春の年賀状は来週15日から引き受けが始まる。
「無駄」とは、「むな(空)」の変化といわれ、ムナシの義とされています。また、モダ(黙)の転であり、モタ(黙)の義であるとも言われています。要するに「効果がないこと」「無益」という事とされています。こんな説もあります。「駄」は馬に載せた荷物の意味で、人を乗せて走る馬のことは「乗馬」で、それに対して「駄馬」は荷物は載せれるが、乗用に役に立たないということで言われます。ですから、馬が米俵をひとつ載せていると「一駄」、ふたつだと「二駄」、そして空荷だと「無駄」というという説ですが、どうも「無駄」は当て字のようです。
国語辞典では、「役に立たないこと」「甲斐がないこと」「益がないこと」と書かれています。しかし、世の中には、「無駄」も必要だということがあるのですが、この言い方が変なのは、必要だと思うものは「無駄」ではないからです。よく仕事をするとき三無主義といわれるのは、「無駄、ムラ、無理」です。
今月はじめにアイ・キューが運営するサイト「仕事ラボ.net」で実施した「会社での無駄な会議」に関するアンケートの結果を発表しました。調査によると、行われる会議は月に平均3.6回。その中で無駄だと思う会議は約半数の平均1.7回でした。会議の中で無駄なものに関しては、「過去の議事録・配布資料」が最も多く、次いで「飲食物」「やる気」が続いています。では、「無駄な会議に出るくらいなら何をしたかったか」という質問に対しては、64%が「仕事」と回答し、2位の「帰宅」(8%)を大きく上回っています。
「無駄な会議を抜け出す方法」に関しては、約半数が「抜け出したことがないので分からない」と回答したものの、残りの半数は「お手伝い」「電話が鳴ったふりをする」「飲み物を取りに行く」「急用を思い出す」などの方法で会議を抜け出しているようです。
年賀状は、私は無駄だとは思いませんが、会議は無駄のものがあるような気がします。みんなそう思っているのに、どうしてしなければならないのでしょうね。
中部経済新聞の連載記事の中に、『会議を変える最も簡単な方法』というのを見つけました。本来、会議というものは、参加者がお互いの意見やアイデアを出し合って結論を出していくものですが、なかなか意見が出なくて困る時があると思います。そんな時、どうするか…。一番いいのは、誰かが発言している時に、聞いている人が「うなづく」ことだといいます。これによって、発言する人が、「自分の意見を聞いてもらえる」と安心できるから、多くの意見が飛び交って、会議が活性化するそうです。確かに、1対1の対話でも『聞き上手は話し上手』と言われます。部下のどんな意見でも、しっかり耳を傾けて、うなずいてあげるようにしたいですね。無駄だと思われるような会議を減らすにはこんな工夫も必要ですね。
無駄も時には必要と考えると、それは無駄ではない。確かにそうですね。「無駄」と思えるものの中からでも自分にとって意味のあるものをいかに見つけるか。そんなことも大切なのかなあと思ったりもします。そうは言っても時間に限りがあることを考えると、無駄だと思ってしまう会議などはありますね。会議自体が無駄というより、進め方であったり目的であったり、その辺の工夫によって会議も無駄ではなくなるとは思います。トリンプの会議などは、見学してみたい会議の1つです。何のための会議なのか、自分の関わっているものをもう一度点検してみようと思います。
もう、年賀状を作る季節になったのですね。私は今年の年賀状はまだ作っていません。高校を卒業してから年賀状というものは作ったことがなかった気がします。送ってくれた人に返信していただけですが、社会人になるとお世話になった方がたくさんいるので去年に比べて年賀状を書く量は増えると思います。そう考えると年賀状は、もちろん無駄なものではないと思います。今の時代、携帯電話のおかげで遠くの人ともいつでも簡単に話すことができる分、手紙書く習慣はほとんど無くなった気がします。そのため、年に一度の手紙を書く事はとても貴重なことだと私は思いました。
私自身のこれまでを振り返ると「無駄」「贅沢」がわんさかとあります。大学や大学院で学んだことも見方によっては「無駄」「贅沢」の類です。また、生き方そのものが「無駄」「贅沢」なところがあります。まぁ、自分ではむしろ「無駄の効用」と開き直っています。それでも何でしょうか「会議」や「会議資料」等のいわゆる「無駄」には辟易とします。「無駄」は本来「贅沢」なはずなのに「会議」等のそれには「贅沢」感を微塵も感じられない場合があります。私が「会議」を「無駄」と感じず長時間やっていても後味が良い場合は互いの思想信条や研究の成果を披露しあった場合ですね。これはもう「贅沢」の究極でしょう。「竹林の七賢人」の生き様などは「無駄」「贅沢」の極地でしょう。どうやら「無駄」と「贅沢」はコインの裏表の関係でしょうか。「贅沢」とならない「無駄」こそ排すべき「無駄」でしょう。