郷中3

江戸末期に薩摩で行われた「郷中教育」では、教える立場にある者も、常に真摯な態度で不断に修業にいそしんだとあります。さらに、指導する地位にあるものは、率先して修学の模範を示し、教育がより価値高き人間の形成を意味するものとするならば、それは終極なしの不断の努力であるべきで、子弟同行でなければならないと松本氏は書いています。
この「子弟同行」というのは、教師と生徒がともに教育の道を同行することです。しかし、それは、教師は教師の地位にいて、生徒は生徒の地位にいて、ただ同一事を協力するということではないといっています。「師は師弟とともにあるときは、もとより子弟を導いて共同行践し、師弟のより完全化への努力に助力するのは当然であるが、師はまた自己自身の立場においては、自励研磨、自らの向上、自らの形成の道を独歩行践し、模範的に教育に逞しく精進するものでなければならぬ。かかる深い意味での師弟同行の教育こそ、実に郷中教育の本来の面目であったのである。」
「学びあい」と称して、教師は何もせずに子どもだけで教えあうことをさせることがあります。それは、勘違いをしている部分があります。また、この学びあいには、いわゆる「他者支援力」という力が育っていることが必要になってきます。きちんと「学びあい」の意味を子どもの発達の上からも考えないといけないのです。
いま、「総合的学習」が見直されています。その総合的学習を進めることで基礎学力が低下したと見られているからです。しかし、「自ら課題を見つけ、自らその課題に取り組む姿勢」を目指した教育は、今後ますます重要になってくるはずです。それが失敗したのは、そのような学習、教育に取り組む前に、そのような姿勢を育てていくことが必要になってくるのです。就学前教育の中で、きちんと子どもをしつけなければ、きちんと挨拶ができ、きちんと座っている子を作るという課題が優先され、自分でものを考えたり、自分でやりたいことに取り組むことなく、言われたとおりに動き、言われたことだけをやるようなことをして学校に送り出しても、総合的学習は失敗するでしょう。
同じように、ただ、大人からの保護だけを受けて育ってきた子に、他の子を支援するような「学びあい」はうまく行きません。「学びあい」では、「他者の喜び」を「自分の喜び」として受け止めることが必要であり、そのために乳児期の「受容」、自己主張が始まったころの言葉の十分なキャッチボール、そして、幼児期での子ども集団での、特に異年齢児における集団体験がなければ「他者支援力」は育っていかないのです。
また、「学びあい」を異年齢児のあいだで行う場合は、子ども同士のあいだで、ほぼ発達の違いが見られるので、教える側と教わる側に役割が自然と行われるのですが、学校のクラス単位で行う場合は、多くは同年齢の中で行われることが多いので、まず、教える側に教師がなる場合が多いと思われます。そのときには、なにを学びあいさせるかということを考えないと、子どもたちは、形式だけ話し合いを持っても、大切な内容は伝わらなくなってしまいます。また、教師は、内容を伝えるだけでなく、教える側のモデルも示していかなければならないでしょう。
どんなよい教育システムであっても、形だけでは意味をなしませんし、乳幼児期からの子ども集団での育ちがきちんと行われなければ、逆効果になりかねません。乳幼児期は単に託児という考え方やプレスクールという考え方ではなく、人生のスタートとしてきちんと考える時代が来たような気がします。