教育と教養

 「教育」という言葉が最初に出たのは、四書五経の「孟子」の中に出てきますが、「教」という字は、手に棒を持っている姿を表し、「育」という字は、母親のいつくしみ、はぐくむという意味です。それは、父親の厳しさと母親の優しさの両面を持って教育をするという意味です。しかし、教えることも、いつくしむこともどちらも主体は教える側にあります。また、そこには、教えられる側は知識を持たず、することもわからないという思いがあります。ですから、教育の平等は、「等しく教える」というように、教える側の論理になってしまうのは仕方ないことかもしれません。
しかし、教育基本法第一条(教育の目的)には、「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない。」と書かれてあります。ここには、教育は、「自主的精神に満ちた」ものでなければならないとされており、それは、教育の主体は、学ぶ側であることが謳われています。
また第二条(教育の方針)には、「教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。」と書かれており、「自発的精神を養い」ということで、あくまでも自発的であることを謳っているのです。
 日本語源大辞典(前田富祺 監修)には、「教育」の意での使用は、古く「書紀?神代上」に「其中一児最悪、不順教養」(丹鶴本訓 をしへ)にみられると書かれています。しかし、その言葉は、日本語として定着せず、明治初期に、近世中国語の影響で、英語education・educateの訳語として中国から伝わったものであると思われているそうです。
一方、「教養」という言葉があります。広辞苑には、「教養とは、単なる学殖、多識とは異なり、一定の文化理想を体得し、それによって個人が身につけた創造的な理解力や知識。その内容は時代や民族の文化理念の変遷に応じて異なる」と書かれています。その言葉に相当するギリシア語は、「パイデイア」であり、意味は「子供が教育係に指導されて身についたもの」のことです。英語ではcultureで「粗野な状態から耕された、人の手を経たもの」という意味であり、文化、教養と並んで、修養やトレーニングという意味も含んでいます。ドイツ語ではBildungであって「つくられたもの」のことをいい、そこには、人格とか自分の内なるモラルとか価値観とか、多面的なものを含んでいます。
 この「教養」は、単に個々の学識や多識ではなく、総体的な理解力や知識をもった行動様式を言っているのです。そこで、行動様式である教養を身に着けるとしたら、教えたり、はぐくんだりでは無理です。それは、教わる側が、あくまでも主体的でなければならないからです。発達が、子ども自ら環境に働きかけ、環境との相互作用により行われるように、教育もあくまでも自発的な行為でなければならないのです。
 educationは、ラテン語の「引き出す」という意味から来ているように、その子どもの良いところを引き出し、伸ばしていくところに教育の本質があるのです。