平等院

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 先日、奈良を訪れたとき、帰り道で宇治に途中下車をしました。それは、秋の「平等院」を見てみたいと思ったからです。もみじは赤く染まり、秋の深まりは日本全国少しずつ時期はずれていきますが、どこにでも平等に訪れます。永承7年(1052年)に、藤原頼通は、父道長から譲り受けた別荘のひとつを寺院に改めて、平等院としました。平等院という名前は、「仏の救済が平等であるということ」を意味します。イミダスによると、末法思想とは、釈迦の入滅後、二千年を経過すると、一万年間は釈迦の教えだけが残り、悟りを得る者はいなくなるとする思想です。中国から伝えられたものですが、平安後期の日本では、飢饉や日照り、水害、地震、疫病の流行、僧兵の抗争が続き、貴族も民衆も危機感を募らせていました。1052年は、末法の第1年にあたるとされ、末法の救いを阿弥陀仏に求める浄土信仰が盛んになり、この年に頼道が宇治の平等院に阿弥陀堂を建立したのです。厳しい身分制社会の中で、貧困と差別に喘ぐ庶民に生きる力を与えるものとして、仏は、全ての人を平等に救済してくれるという思いが必要だったのでしょう。それは、物事のあり方が真理の立場から見ればすべて同一であることから来ています。
 日本国憲法には、「第十四条 すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とありますが、この「法の下に平等」というのも、「真理の立場からみな等しく見る」ということであり、「法的に同等の機会や権利を有する」ということです。
いつの間にか、「平等」は、「すべてのものが一様で等しいこと」を意味するかのような使われ方をすることが多くなりました。 そして、その一様に等しいものが集団を形成し、逆に集団は、全てを一様にしていくことが目指されてきた過去がありました。「みんな手をつないでゴールをする」「勝ち負けは決めない」「勉強ができる子でも、できない子でも同じ授業をする」というような平等が教育界にも持ち込まれました。
 教育基本法第3条(教育の機会均等)では、「 すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであって、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。」という文言を、教育とは、「ひとしく与える」のか「ひとしく機会を与える」ではずいぶんと意味が違ってきます。
このときの平等の概念は、帝国議会における「教育の機会均等をいかに実現するつもりか」ということに対する答弁を見ればわかります。
 「この第三条は、第一項の前段におきましては、教育の機会均等の本質を述べ、次に人種、信条、性別以下は、これは教育を実施する上におきまして、こういう風な事項によって差別をされてはならないということをうたつたものであります。入学の際、あるいは入学の後の教育実施にあたっての問題を、すべてここに包含しておるつもりであります。」と辻田政府委員が答弁しています。この平等は、どちらかというと、equalityよりも、インクルージョンという包括的な教育に近い概念です。「包括的な教育の下では、すべての子供たちが学習し、参加することが保障されている。」といわれています。
 なにが思い違いを起こしたのでしょうか?