今日は、1日中大騒ぎだったのが、「0系」とのお別れでしょう。園で子どもたちが将来何になりたいかというと、「700系の運転手」といいますし、東京では、最近は「N700系の運転手」と答えます。私の息子が子どものころは、「新幹線の運転手」と答えましたし、私の子どものころは、「電車の運転手」と答えたものでした。
「運転手は君だ 車掌は僕だ あとの四人は 電車のお客 お乗りはお早く 動きますちんちん」電車ごっこの歌を思い出して、歌ってみたら、この電車は、最後に「チンチン」というので、どうもチンチン電車と呼ばれていた都電のようです。2番は、「運転手は上手 電車は早い つぎはぼくらの学校前だ お降りはお早く 動きます ちんちん」(「新訂尋常小学校唱歌(一)」昭和7年)でしたが、どうも井上赳氏が作詞した当時は、「つぎはぼくらの学校前だ」だったのが、昭和16年に、具体の地名からより一般的な学校前に改正されたそうです。
それにしても、この都電でさえ「電車は速い」ですから、新幹線の速さは想像できなかったでしょうね。「ビュワーン ビュワーン 走る 青いひかりの 超特急 時速250キロ すべるようだな 走る ビュワーン ビュワーン ビュワーン 走る」これは、私の好きな作家の山中恒作詞の「はしれ超特急」です。この車体は2番に出てきます。「まるいひかりの ボンネット 時速250キロ とんでくようだな 走る」
初代新幹線0系は、その先端が「団子っ鼻」で知られていましたが、当時は、「旅客機を思わせる先頭部……」といわれ、最先端のデザインだった新幹線が、今日、44年の歴史に幕を下ろします。東京オリンピックを9日後に控えて開業した東海道新幹線。慣らし運転の1年間は東京―新大阪間を当時では世界最速の時速210キロ、4時間で結んだ。開業日は東京から「ひかり1号」、新大阪から「ひかり2号」が出発したというニュースが、1964年10月1日に流れました。まさに、私の年代である団塊の世代の象徴でした。私は少しの違いで乗ることはできませんでしたが、3歳下の弟は、関西への修学旅行は新幹線で行きました。
当時のことを、この「だんご鼻」の先端をハンマー一本で打ち出した生みの親の一人である山下清登さんが、こう語っています。「時間がない。君に任せる。なんとか試作車を作ってくれ」東京五輪を3年後に控え、東海道新幹線の開業準備が急ピッチで進んでいた1961年秋、笠戸事業所で列車の板金工だった26歳の山下さんは、思わぬ相談を持ちかけられた。国鉄から届いた先頭車両のデザイン画を手にして絶句した。飛行機を思わせる流線型。従来の「かまぼこ型」とは訳が違う。「時速200キロを超える乗り物の板金法なんて誰も知らなかった」。他の4人の板金工はほとんどが10代。プラスチック製の先頭部に続く、なめらかな曲線が打ち出せず、木型に鉄板を何度も合わせ、試行錯誤を繰り返した。効率的に作業ができるよう鉄板を切り分けて打ち出し、後で溶接する方法をとった。打ち出し方にも工夫を重ね、夜遅くまでハンマーを振り続けた。
この先頭車前面には「ひかり前頭装置」と呼ばれる丸いプラスチックカバーが装着され、中には非常用の連結器が納められています。これらの職人の技術は、次世代への連結部かもしれません。