宇佐の歴史

色々な地を訪ねると、どこかでつながる因縁の地と出会うことがあります。また、その地ではじめて知る歴史を知ることもあります。
昨日のニュースで、太平洋戦争末期の沖縄戦で住民に集団自決を命じたとする虚偽の記述で名誉を傷つけられたとして、元日本軍守備隊長らが「沖縄ノート」の著者大江健三郎さんと岩波書店を相手に、名誉毀損で訴えた裁判で、二審も「軍の深い関与」認める判決が出ました。その記事を読んだときに、少し前に訪れた沖縄を思い出しました。事実は、よくわかりませんが、この判決に対して語った大江健三郎さんのコメントの「沖縄の犠牲の記憶を守り、戦う」ではありませんが、私たちは決して戦争という残酷な歴史を忘れてはいけないでしょう。
今回訪れている宇佐市を車で走っているときに、田んぼの中にポコポコと小山が見えます。
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ここは古墳が多く残っている地であるので、古墳のひとつだろうと思っていると、そうではなく、「掩体壕(えんたいごう)」というものだそうです。私は、この存在は知りませんでした。この掩体壕は、航空機を敵の攻撃から守るための格納庫だそうです。この掩体壕は、東京の調布飛行場の周辺にも遺構的に今でも残っているようです。そのほかにも、高知空港近くや千葉県茂原市、松山空港の近く、旧熊本空港の近くなどにも残されているそうです。ここ宇佐市の掩体壕は、当時地元の人々の勤労奉仕で造られたそうで、航空機といっても、軍用機を敵の攻撃から守るための施設です。
ここに、昭和14年に宇佐海軍航空隊が練習航空隊としてつくられました。茨城県の霞ヶ浦などの航空隊で、ひととおりの飛行訓練を終えた兵士たちが、実際に戦争に使う飛行機で 訓練の総仕上げをするところです。そのため、全国各地から 若い兵隊が集まり、ここで訓練された人たちが真珠湾攻撃に参加しました。しかし、太平洋戦争末期になると特別攻撃隊の基地となり、この基地から154名以上の若者が南の空に飛び立っていきました。特攻基地としては、大規模なものとして陸軍特攻基地として鹿児島知覧が有名ですが、そことは違った戦跡が残されているようです。
車である道路を通っているときに、その道の両側に20メートル間隔で「人型」のモニュメントが建ち並んでいるのが目に付きました。それは何かということを説明してもらいました。この田園地帯の中を走る周防灘へ一直線に伸びる道路は、特攻隊が沖縄を目指して飛び立って行った滑走路が、ほぼ当時のまま残されたものだそうです。
特攻隊の歴史を知るたびに悲しい気持ちになります。それは、正式名称を特別攻撃隊と呼ばれる特攻は、日本が戦局の悪化を打開するために航空機に250キロ爆弾を積み米艦に体当たりする必死の攻撃法で、一度飛び立ったら、二度と生きて帰ることはできなかったので、飛行機の燃料も始めから片道分だけで、帰りの分は積んでいかなかったという事情を聞き、どんな思いで飛び立ったのだろう胸が締め付けられます。この特攻で、全国では海軍4142人、陸軍1710人の計5852人が亡くなっています。
私たちの世代は、「戦争の記憶を忘れないで」ではなく、「戦争の記憶をつないでいく」事をしなければならないのです。