幸福

 9月28日の 読売新聞に、「幸福感」についての世論調査結果が特集されていました。この調査は、面接方式で、1979年以降継続的に30年間行っています。その結果を見ると、今の自分を「幸福だ」と感じている人は88%もいて、「不幸だ」という人は10%しかいなかったそうです。79年以降の調査を見ると、「幸福だ」と感じている人は89年の92%が最高で、最低でも99年の87%で、ほぼ30年の間、ずっと9割前後を推移し、日本人は、現状を肯定的に受け止めることがわかったそうです。
 では、何を幸せと考えるかを具体的に聞いてみると、「何か良いことが起こること」と考える人は29%にとどまり、「何も悪いことが起こらないこと」の69%が大きく上回っています。では、今の日本人は、「自分が幸せかどうかを他人と比べて判断する人が多いと思う」と答えた人は76%いますが、「そうは思わない」は21%でした。「自分だけが幸せならばよいと考える人が多い」との指摘にも、「そう思う」と答えた人は72%もいました。
 幸福とは何かを二つまで選んでもらったら、「健康なこと」が69%で最も多く、「しあわせな家庭生活」41%、「良い友人をもったり、人々と仲よく暮らしたりすること」27%と続いています。このベスト3は、30年間変わっていません。ただ、今回と79年を比べると、「健康」は3ポイント減、「家庭生活」は4ポイント減となり、「良い友人」は5ポイント増えています。
 この結果をどう考えればよいのでしょうか。新聞には、コラムとして僧侶作家の玄侑宗久氏のコメントを載せています。
「私は、幸せとは自分が変わったと感じられることだと思っている。「『幸福』とは何か」という質問の答で、「ひとつの目的に向かって我を忘れて取り組むこと」という選択肢がある。これを挙げた人はほぼ30年前の1979年でもわずか7%、今回も3%に過ぎない。しかしこれこそが幸せの本質ではないか。夢中になって何かをやり、いつの間にか自分の枠を超えていたことに気づくということだ。」
確かに結果を見ると、幸福を求める姿が見えてきません。なにもしないでじっとしていると、確かに自分の身には、何も悪いことは起きないでしょう。それが幸せなのでしょうか。
論語の述而篇15にこうあります。「子曰、飯疏食飲水、曲肘而枕之、楽亦其在中矣、不義而富且貴、於我如浮雲」(子曰はく、疏食(そし)を飯(くら)ひ水を飲み、肘を曲げてこれを枕とす。楽しみ亦た其の中に在り。不義にして富み且つ貴きは、我に於いては浮雲の如し。)
 孔子は、こう言っています。「高粱(コウリャン)のような粗末な飯を食べ、水を飲み、腕を曲げて、枕代わりとするような、質素な暮らしをしていても、道に志す本当の楽しみは、おのずからその中に在るものである。不正な手段や人に不義して得た富や地位などは、自分にとっては、浮雲のようなはかないものである」
 人間としての真の楽しみは、学問と道徳の実践の中にこそあると考えています。私は、その実践から真理が少し垣間見えたときに幸せを感じます。