幸と見えて災いになることがあり、逆に災いだと思っていたことが幸となることがあります。そんなことを「人間万事塞翁が馬」ということがあります。これは中学時代に習った人も多いと思いますが、「人生は吉凶・禍福が予測できないことのたとえ」です。「塞翁が馬」の逸話は中国の古い書物「淮南子(えなんじ)」という書物に書かれています。この「淮南子」は、前漢の武帝の頃、前漢の創始者劉邦の孫に当る淮南王であった劉安が学者を集めて編纂させた哲学書です。その内容は複雑多様、諸子百家から戦国的自由思想の伝統、また、処世や政治、天文や神話伝説まで集合されていて、百科全書的な書物で、全体の基調は老荘的なものに貫かれ手はいますが、一人の人物が書いたような思想の一貫性がありません。ですから、中国古代の思想は、儒家(孔子)、道家(老子)、法家(韓非子)、兵家(孫子)など九家に分類されますが、淮南子は雑家という分類に入ります。
「人間万事塞翁が馬」という言葉は、この淮南子の人間訓という篇を典拠としています。この篇は、「にんげん」について書かれているのではなく、人間を「じんかん」と読んで、「世の中、世間」のことについて書かれており、この故事では「とかく世の中は、~」という意味です。塞翁が馬のエピソードは、国境の城塞(とりで=砦)に住む、戦に駆り出されるぐらいの年齢の息子を持った父親と近隣の人とで交わされる会話です。
辺境の砦の近くに、占いの術に長(た)けた者がいました。さらに北には胡という異民族が住んでおり、国境には城塞がありました。ある時その人の馬が、どうしたことか北方の異民族の地へと逃げ出してしまいました。この辺の北の地方の馬は良い馬が多く、高く売れるので近所の人々は気の毒がって慰めると、その人は「これがどうして福とならないと言えようか」と言いました。数ヶ月たった頃、その馬が異民族の地から駿馬を引き連れて帰って来た。人々がお祝いを言うと、その人は「これがどうして禍をもたらさないと言えようか」と言いました。やがてその人の家には、良馬が増え、その人の子は乗馬を好むようになりましたが、馬から落ちて股の骨を折ってしまいました。人々がお見舞いを述べると、その人は「これがどうして福をもたらさないと言えよう」と言いました。一年が過ぎる頃、砦に異民族が攻め寄せて来ました。成人している男子は弓を引いて戦い、砦のそばに住んでいた者は、十人のうち九人までが戦死してしまいました。しかし、その人の息子は足が不自由だったために戦争に駆り出されずにすみ、父とともに生きながらえる事ができたのです。このように、福は禍となり、禍は福となるという変化は深淵で、見極める事はできないのである。
この時代は、漢族の力は強大で、無敵でしたが、それでも周辺の異民族の圧力に頭を悩まされる事も多かったようです。中国ではどの時代でも昔から、異民族との紛争は絶える事がありませんでした。危険の絶えない時代だからこそ運不運に一喜一憂せず、様々な出来事をあるがままに受け入れるしかなかったのかもしれません。
今年はゲリラ豪雨が襲い、福田が突然総理を辞任するなど天災や人災など自分たちではどうすることもできない出来事が次々と降りかかってきます。塞翁が馬のような言葉が多くあるのは、昔からいかに人々が自然や政治に翻弄され続けてきたかが分かります。しかし、この言葉には、人生に対する消極的な意味ではない強さを感じます。そんな教えが、どうも「淮南子」にはあるようです。
「人間万事塞翁が馬」の話を久しぶりに思い出しました。改めてすごい話だと感じました。こうした話や歴史上の偉人の話から、様々な状況に立たされたときの心構えや判断を学ぶことができます。こうした話を自分だったらどうするか考えながら読むことで、自分の判断に影響を与えることもあるように思います。ここまでの歴史を動かし作ってきた人物の判断や伝わってきた話から、言われるとおり強さを感じます。
「塞翁が馬」の如く人の「禍福」はすぐに判断できるほど単純ではなさそうです。どんな時が禍で、どんな時が福か、となると即答はできません。主観的に当事者が「禍」と感じたら「禍」で「福」と感じたら「福」なのでしょう。あるいは出来事の両側面に「禍」と「福」が存在していて、どちらにでも転べるようにできているのかもしれません。それにしても「禍」はできるだけ最小限に、と思っています。「福」は最大限に。虫の良い話ですね。まぁ、いろいろと「禍福」を巡って考えると何だかよくわからなくなってきます。どうやら肝心なことは私たちの生に翻弄をもたらす「自然や政治」にあまり振り回されないように・・・とは思うのですが、凡夫は「禍福」の波間を漂う運命にあるのか、と消極的になったりします。「塞翁が馬」の話、覚えておきたい故事です。
私も中学時代に習った気がしますが、気がするだけで正直言いますと覚えていません。こうもブログの内容が教養になると苦手になってしまいます。ですが、先生のブログでは分かりやすく説明してあるので、助かります。
「福は禍となり、禍は福となる」という言葉は何か良い響きに聞こえてしまいました。人生も幸福の時というのは、ずっと続く事はなかなか無いと思います。いつかは何か大きな問題が起きる可能性があると思います。その大きな問題で人生をマイナスに考えるのでなく、その問題のおかげで何かプラスになる良い事が起きるかもしれません。なので「福は禍となり、禍は福となる」という言葉は私は好きになりました。
昨日、仕事の帰りに家の近くの温泉で露天につかりながら、「悩みはどんな形で表れてくるのか」という哲学的な(?)問題を考えていました。そこで思いついたのは、「悩み」は実は「円錐形」をしてるのではないかということです。目の前に現れた時は、三角形の山のように見えるが、上から俯瞰してみれば丸なんですね。よりよく生きようとすればするほど、悩みや苦しみは起きてくるものですが、ひょっとするとこれは自分を鍛えるために天が与えてくれた一つの試練だと考えるほうが得ですね。人生におけるピンチは、自分自身の人間的な成長にとってはチャンスですね。アルキメデスではないですが、お風呂に入るとなかなかいい考えが浮かぶようです(笑)。