芭蕉と名月

 明日9月14日は今年の中秋の名月ですが、ブログにも書いたように、東京では天気が怪しいようです。ですから、今日の少し満月には早い月を眺めています。月はどんな大きさでも、それぞれに風情がありますね。十五夜の月を少し過ぎた月のことは十六夜と書いて「いざよい」と読みます。次第に月の出は遅くなります。十五夜の満月は日没ごろに昇ってきます。その月の美しさを満月の次の日も見ようと思って待っているのに、前日に比べてなかなか出てきません。ということで、「いざよい」(ためらう、なかなか進まないの意)と呼ばれます。その次の日には、もう少し立って待っていなければなりません。ですから、「立待月」と呼ばれます。その次の日の月になると、もう立っていられません。座って待っていると出てきます。ですから、「居待月」。次の日は、座っていてもしかたないので、寝て待っていましょうと「寝待月」。更に待っていると「更待月」が、夜が更けてから出てきます。
この月の満ち欠けは、自分の人生に照らし合わせてしまいます。松尾芭蕉は、39歳のときに「月十四日今宵三十九の童部」という句を詠んでいます。それは、月は十五夜で完成します。だからその前の日の14日の月は未熟です。男は40にして立つといわれていますが、自分はまだ39歳です。ですから、まだまだ未熟です。と思ったのです。
 そんな芭蕉も、40歳を過ぎ、心身とも充実してきて、名月の美しさを理屈なく受け入れることができるようになり、中秋の名月をつい見とれてしまって、芭蕉庵にある「蛙飛びこむ」古池の周りを歩いていて、夜も明けてきたのにも気がつかないほどになります。「名月や池をめぐりて夜もすがら」
 東京で見る月にしても、こんな今でも美しい名月は、江戸時代ではさぞかしきれいだったでしょう。しかし、どんなきれいな月にしても、山国での澄んだ秋の夜の月が山の端に上る姿は何ともいえない秋の風情です。このような月は、いくら江戸時代でも江戸では味わえません。「詠むるや江戸には稀な山の月」と詠んだのは、江戸日本橋界隈からでは山を背景にした月は見ることができません。こういう景色は江戸にはないものであると同時に、江戸の濁った月を悲しがったのでしょう。それでも「夏かけて名月暑き涼み哉」昼間はまだまだ暑い日が続きますが、夜になるとすっかり秋めいてきて、中秋の名月である今宵の月見は、夕涼みの気分で見ています。
 美しい月を眺めているとつい我を忘れてしまいそうになります。しかし、月が雲に隠れると、ふっと我に返ることがあります。「雲をりをり人をやすめる月見かな」美しいものでも、ずっと美しいだけでは、その美しさに入り込んでしまいその美しさも麻痺してしまいます。時たま雲に隠れること、その美しさが見えなくなることがあるので、また雲から出てきた月の美しさを感じることができ、自分を取り戻すことができるのです。
 松尾芭蕉とともに、月を眺めてみると、人生も少し見えてきます。しかし、そんな人間の思惑に関係なく月はあくまでも美しく輝いています。その美しさを邪念なく眺めることも必要かもしれません。童心を持った小林一茶にこんな句があります。「名月を とってくれろと 泣く子かな」名月を取ってくれと泣いてねだるわが子に、戸惑う親の姿がほほえましいですね。