パラリンピック

この夏は北京オリンピックで盛り上がりましたが、地味ではありますが、現在はパラリンピックでも日本の選手は頑張っているようです。そんな活躍のニュースが流れてくる中で、懐かしいというか、久しぶりに聞いた名前を見つけました。
92年バルセロナ大会から通算20個目のメダルを同着3位でもぎ取った。男子100メートルバタフライ(視覚障害)の河合が涙に暮れた。「金メダルで泣いたことはあるけれど、銅でこんなにうれしいことはない」視覚障害選手はまっすぐ泳ぐのが難しい。33歳の河合は20歳代の体力はないものの、パラリンピック5回目の経験を生かし無駄なく進んだ。英スピード社製水着レーザー・レーサーを着用し、1分5秒79の自己ベストをマーク。日本競泳陣に今大会初のメダルをもたらした。
 日本パラリンピアンズ協会の事務局長を務めるなど、日本の障害者スポーツを引っ張ってきた。「世界のレベルが上がり、日本が(練習環境などで)取り残されていると思った。でもそんなことを言い訳にしたくなかった」(朝日新聞記事より)
彼のことは、ブログの2007年1月5日に書きましたが、オリンピックで通算20個のメダルを取ったというのは、もっと、日本のヒーローになってもいいと思うのですが。ただ、ヒーローといっても、たぶん彼は騒がれたり、英雄扱いされることではなく、マスコミ等で頻繁に取り上げられることで、障害について、障害者のスポーツなどの環境等の社会参画についてもっと国民に認知して欲しいからだと思います。
最近、保育についての相談で、障害児についての対応が多くなりました。また、保護者対応についても障害があるであろう保護者への支援が課題であることが多くなりました。しかし、障害者への認識がまだまだ国民の中では浅いことが問題を生んでいるということがあります。例えば、園で障害と思われる園児がいるとすると、課題が、その子をどうすれば他の子と同じことをさせるようにできるかとか、親に子が障害であることをどのように伝えるかということが多く、その子が、現在をよりよく生きるためにどのようにすればよいかということは余り議論になりません。
今回メダルを取った河合さんにしても、水泳で、他の子と同じように泳ぐことを目指してきたのではありません。彼の生い立ちを描いた映画「夢 追いかけて」の中で、かれはこのようなことを学んでいきます。
中学3年の時に、かろうじて見えていた右目の視力も失います。まっすぐに泳げない、ターンのタイミングがわからないという悔しさに、水泳部の主将でありながら大会への出場を辞退します。しかし、教師や家族、クラスや部の仲間の厳しく暖かい励ましの中で、次第に自分の泳ぎを身につけていきます。そして大学に行き、教師として教壇に立とうとします。そこで目指そうとしたのは、目の見える教師と同じようにそのハンデがないかのように教えることではなく、健常者である生徒に、全盲の自分が教師として伝えられること、伝えたいことがあったからです。
 人の境遇は様々です。人が持っている才能は様々です。だからこそ、人それぞれが社会の一員として必要なのです。それは、肩書きでも、名づけられた障害でもないのです。