« 2008年08月 | メイン | 2008年10月 »

2008年09月30日 新聞記事より

与える喜び

このブログを始める前にある特定のメンバーのためにメールマガジンを書いていたことがありました。それは、一部の閉じられたメンバーだけで購読できるものでしたので、今読み返してみて、それ以後考えたことを付け加えると面白い内容のものがいくつかあるので紹介します。
2003年7月5日の「新しい仲間」という内容です。
「私のセミナーでの仲間や、ドイツツアーの仲間は、みんなとてもいい仲間です。この中から、今までの、地域の園長会や、保育団体とは違った、新たな団体のありようが見えてきます。この仲間は、あくまでも、子どもを大切にしよう、子どもを中心に据えようという、共通の意識があります。もちろん、どの保育者も、他の団体も、子どもを大切にしようとすることには異論がないでしょうが、なんだか少し違う気がします。しかし、この仲間の発言は、みんな頷くことばかりです。同じように考える人がほかにもいるかもしれません。幼稚園にも、学校にも、もしかしたら認可外施設にも、NPOの中にもいるはずです。結局は、「善い園」と「悪い園」と分けるべきかもしれません。そんな観点から、一つの団体を作りました。「ギビングツリー(GT)」がそれです。」
この会の名前の由来はもちろん主に「The Giving Tree(おおきな木)」(作・絵:シェル・シルヴァスタイン)という絵本から採ったものです。
この絵本の日本語の翻訳作品には、あらすじがこう書かれてあります。「昔、りんごの木があって、かわいいちびっこと仲良しでした。ちびっこは木と遊び、木が大好きで、だから木もとてもうれしかったのです。時は流れ、ちびっこだったぼうやは成長して大人になっていき、木に会いに来なくなります。ある日、大きくなったぼうやが木のところへやってきます。木は昔のように遊んでおいきと言いますが、ぼうやは言います。「かいものが してみたい。だから おかねが ほしいんだ。 おこづかいを くれるかい。」木は困りましたが、りんごの実をすべて与えます。大人になったぼうやは家を欲しがり、木はその枝を与えます。年老いたぼうやは船を欲しがり、木はついにその幹を与え、切り株になってしまいます・・・」
この絵本の最後は、人生に疲れ果てた老人になった少年は、ひざの高さほどの切り株に腰をおろして、少し安堵します。しかし、木はそれで満足します。
この絵本について、9月12日朝日新聞(夕刊)に「絵本の記憶」という連載に作家の鈴木光司さんが「与えること喜び」というタイトルでこの絵本を取り上げていました。
「ひたすら与えることに喜びを得るというのは、愛のレベルとして、最高度のものだ。まったく見返りを期待しないで、人に尽くせるかどうか、自分の心に問うてみれば、その難しさがわかる。親の、子に対する愛だけ、かな。」
 GIVE は、「与える」という意味ですが、その中には「与える一方」という意味もあるようです。しかも、それに進行形の「ing」がついているわけですから「与え続ける木」という意味になります。そして、その木は原文の最初の文で「Once there was a tree and she loved a little boy」といっているように女性名詞で書かれています。
やはり、最高度の愛は、子どもに与え続ける母親の愛かもしれません。

投稿者 fujimori : 23:36 | コメント (5)

2008年09月29日 近頃思うこと

一服

2005年に私はある雑誌でホームページについて1年間連載をしたことがあります。その中の最後に近い号で「どんどん進歩するホームページ!」という記事を書きました。そのときの記事の抜粋です。
「ホームページは、たった十数年の間に、飛躍的に進歩し、一般に広がってきました。複数の文書や、関連した画像が簡単に見られるようにジャンプしたり、動画が見られるようになったりしました。それを、携帯電話からも見ることができるようになりましたし、それぞれの携帯電話から操作もできるようになりました。園で過ごすわが子の映像を携帯電話で見たり、操作して、見る位置を変えたり、大きく写したりもできます。また、テレビなどと違って、見ている人が書き込めるような掲示板ができたり、設置者への手紙が書けたりできるように双方向の情報のやり取りが可能となりました。それと同時に、ブログということが行われるようになりました。これは、ウェブログ(web log)の略で、個人運営で日々更新される日記的なウェブサイトの総称です。一般的には、単なる日記サイト(著者の行動記録)ではなく、ネットで見つけた面白いニュース記事やウェブサイトへのリンクを張り、そこに自分の評論を書き加えた記事が時系列に配置されているものを言いますが、厳密な定義はありません。」
このブログが、ホームページにこれが掲載されるようになると、単にしおりのようなものから、内容的には思想信条などの意見のほか、趣味的な見解、身辺雑記、読者からの反応などがあり、個々の記事にはそのオリジナル性が強くなり、複数者間の意見交換を目的とする掲示板と異なり、情報発信者(通常は個人)が意見表明することが主たる目的となるのではないかということを書きました。そんなブログを私も書き始め、続けているうちに思いがけず長く続いています。それは、意外と自分では余り重くないからということもあります。(読んでいる皆さんは、重いかもしれませんが)そんな気もちを音楽プロデューサーの松任谷正隆さんが今日、朝日新聞の「どらく」通信で書いていました。
「ブログの軽さは、コンピューターの向こう側にいるであろう人たちの、コンピューターに向かう軽さでもある。コンピューターはコミュニケーションを根本から変えた、とつくづく思う。だから、ブログの感想とかを読むときも、実に気軽に返してくれているのが気分いい。ときどき、なんだか重いリアクションがあると、なんとも変な気持ちになる。これは軽いメディアなんだぞ、と言いたくなる。
そんなこんなしていくうちに、ブログは僕の生活のリズムの中に組み入れられてしまった。まるで、喫煙者がタバコを吸うみたいに、ふらふらっとコンピューターの前に座ってはなにやら書き始める。一瞬の涼を得ると、また仕事に戻っていく。多くの人たちもこのようにブログに接しているのだろうか。このコラムを書き終えたら仕事に戻って、そしてちょっと疲れたらブログを書こうと思う。ブログがやめたら、僕はいったいどうやって一服をすればよいのだろうか……。」
 彼は私と違って、もっと気楽にブログを書いているようです。ですから、1日に最低でも4回くらいは新しいものを載せています。「面白そうな話題を読み物として書く。書くのも楽しい。この楽しさはどこから来るかといえば、このメディア特有の軽さ、なんじゃないだろうか。」
彼のようなブログも書けたらいいなあと思うこのごろですが、書く楽しさは私も変わりません。

投稿者 fujimori : 23:11 | コメント (4)

2008年09月28日 近頃思うこと

伝承遊び

densyo.JPG
 園の中の3、4、5歳児の保育室内に「伝承遊びゾーン」があります。そこには、子どもが子ども集団の中で古くから受け継いできた遊び道具が置いてあります。なぜ、伝承遊びの道具が置いてあるのかというと、伝承遊びといわれる遊びは、個人的に楽しむものや一人二人と徐々に仲間を増やして楽しむもの、大勢でいっしょに楽しむものなど様々な遊びがありますが、そのどれもが、遊びながら他の子どもとの関わり、他者との関係性を構築することによって、他者への理解、社会的ルール、コミュニケーションの能力などが育っていくことで、社会性が養われていきます。また、数的概念や科学的体験が入っていたり、問題解決能力や洞察力、忍耐力などが養われていきます。
そのほかにも伝承遊びのよさにはこんなことがあると言われています。まず、手や足や身体を直接使って楽しめるものが多くあります。いわば、手足を使うことによって、脳が刺激されるのです。つぎに、歌やリズムに合わせて遊ぶものが多く、リズムの楽しさを味わうだけでなく、遊んでいる子の周りのムードも楽しくなり、周りの子を仲間に入れていく効果があります。次に、遊びがとてもシンプルな物が多く、しかも、遊びの技術が次第に高度に発展していくものが多いので、同じ遊びを長く続けていても飽きることなく、チャレンジする楽しみがあります。さらに、伝承遊びというのは、長いあいだ子どもの世界で受け入れられて来たために、子どもの興味関心、発達にマッチしたものであり、また、危険性などについても長い間の実証があるので安心です。
園にある伝承遊びは主に室内遊びが多いのですが、「あやとり、折り紙、だるまおとし、糸でんわ、お手玉、はねつき、おはじき、こままわし、めんこ、けん玉」などが置かれています。
これらので伝承遊びは古くから日本で遊ばれているものなので、よく外国の幼児施設への訪問の際のお土産にする場合が多くあります。しかし、実際はその遊びのルーツは外国のものであることのほうが多いようです。今週末に訪れた長崎の宿に「長崎こと初めて」という展示が廊下にされており、その中に「けん玉」がありました。
けん玉は、江戸時代中期にシルクロードを通って、唯一、外国に開かれていた長崎に入ってきたとされています。もともと、ワイングラスと毛糸球やシカの角と木製の玉など2つのものを糸または紐で結び、一方を引き上げたり振ったりして、もう一方に乗せるとか穴を突起物にはめるような玩具は昔から世界中に存在していました。日本にけん玉が入ってきたときには、鹿の角に穴をあけた玉を結びつけた形のけん玉でした。しかし、このけん玉は、子どもの遊びではありませんでした。大人の酒の席での遊びでした。もし失敗したら酒を飲まされたという遊びだったようです。
それが、子どもの教育玩具となったの は明治9年に文部省発行の児童教育解説書に「盃および玉」という題で発表されてからです。そして、大正7年、従来のけん先と皿1つで構成された「けんに鼓」をヒントに、皿胴を組み合わせた「日月ボール」(または「明治ボール」)を広島県の江草濱次さんという人が発明し、現在のけん玉の形がほぼ完成しました。そして、1977年「けん玉ルネッサンス」といわれる爆発的な大流行となったのです。
新しいものに飛びつきやすいですが、長いあいだ人気のあるものにはそれなりの理由があるものです。

投稿者 fujimori : 23:29 | コメント (4)

2008年09月27日 近頃思うこと

情報2

 戦争中は、敵に情報が漏れないようにするために暗号を使っていましたが、平和の時代になれば暗号など入らなくなると思いますが、実は最近は暗号を頻繁に使うようになっています。しかも戦争中は一部の人だけが使っていましたが、現代では、すべての人が暗号を使います。それは個人の情報が他人に漏れないようにしたり、本人であることの確認に使われる「パスワード」といわれるものです。
 いま、何を操作するにもパスワードが必要なので設定をしますが、誰でも思いつくような覚えやすい文字列でパスワードを設定することは避けるようにすべきだと言われていますので、本来はランダムな文字列の羅列にし、かつ文字数を多くするのがいいのでしょうが、そうすると自分自身で覚えるのが大変になってしまい、逆に忘れないようにとメモに記録すると、今度はそれをどこにしまっておこうかと悩んでしまいます。また、あとで忘れることも多く、困った思いも何度かしています。
近年発生しているクレジットカードやキャッシュカード窃盗やスキミング等の事件に於いては、日本ではじつに57%が生年月日を入力されて現金を引き出されているそうです。他にも、自動車のナンバーや電話番号、他人に容易に類推できる情報や一般的な単語1語、関連のある単語同士を繋げたもの、キーボードの配列そのまま、同じ数字4桁(「0000」など)や、連続する数字(「0123」など)、自分の好きなものや家族や恋人の名前など、他人によく知れ渡っているものをそのまま使うなどは避けたほうがいいといわれています。
パスワードのなかで、金融機関のATMや携帯電話の本人確認で利用されるものは、数字のみで構成されていますが、このような文字列を暗証番号(PIN、personal identification number)といいます。このような暗証番号はわずか4桁だけしかない場合が多く、0000~9999の、せいぜい10000回試せば暗証番号を発見できることから、番号を忘れてしまった場合に全部の番号を試すソフトウェアもあります。このソフトは、自分が忘れたときだけでなく、他人が調べるときにも使えますので、定期的にパスワードを変更する事で、たとえ盗難にあってもすぐに無効化できるため、任意のパスワードを設定できる所では、定期的なパスワード変更が推奨されています。そのために、最近では現金自動預け払い機でも、その場の機械操作だけで暗証番号が変更できるようになっているものもあります。しかし、その場合は変更前のパスワードを覚えていないと変更することができませんので、忘れたから新たにっ設定しようとしてもダメでがっかりすることがあります。
高いセキュリティが必要なシステムで使われる文字列の長さが数十文字以上と長いパスワードのことを特にパスフレーズと呼びます。また、多くのシステムでは、パスワードに用いることのできる文字はアルファベット26文字か52文字(大文字・小文字が区別される場合)、アラビア数字10文字、「+-/!"#|_」などの記号を使うことができます。
 昔の暗号解読のように、パスワードやクレジットカードの番号を入手することで、他人になりすましてさまざまな利益が得られることから、パスワードを発見しようとする人がおり、それができるようなソフトも開発され、また、探られないようなシステムを作ったりといたちごっこです。日本では武力戦争は終わったかのように見えますが、正義と悪の戦いは人間の宿命でしょうか。

投稿者 fujimori : 23:31 | コメント (4)

2008年09月26日 講演先にて

暗号1

沖縄で、旧海軍司令部壕を訪れました。この壕は、1944年12月海軍設営隊によって掘られたもので、ここに海軍の沖縄方面根拠地隊の司令部があった場所です。カマボコ状に掘りぬいた横穴をコンクリートと坑木で固め、全長450メートルあったといわれています。持久戦に備えて、この中に約4000人の兵士が収容されていましたので、兵士らは立ったまま眠らなければならかったそうです。しかし圧倒的な戦力を持つ米軍の進撃が続き、陸軍も南部へ撤退する中、ついに1945年6月13日、大田實司令官以下4000人の将兵はこの壕で自決を遂げます。
kaigungo.JPG
戦後しばらく放置されていましたが、数回にわたる遺骨収集の後、1970年司令官室を中心に約300メートルが復元され、一般公開されています。この地下要塞の中には、司令官室、作戦室、幕僚室、通信室、暗号室、発電室などが配置されていました。この中の通信室では様々な戦況を暗号でやり取りをしていたことでしょう。
 暗号とは、元々敵味方を識別する合言葉のことで、岩戸を開けるための呪文の「開けゴマ」や赤穂浪士が出会った者が敵か味方を見分けるために言った「山」「川」などが暗号でした。そして、敵味方を判断するためから、敵にわからないように見方に情報を送るときに暗号が使われるようになります。しかし、どちらにしても暗号は戦いのときに使われる事が多くなります。暗号で有名なのは、日露戦争で使われた暗号文で、秘匿したい単語をカナ3文字に対応させたもので、最後の文はそのままでした。「ホンジツテンキセイロウナレドモナミタカシ」
 次に有名なのは、真珠湾攻撃で使われた暗号文「トラトラトラ」(我、奇襲に成功せり)とか、「ニイタカヤマノボレ1208」でしょう。しかし、情報を隠すための暗号は、当然それを敵は解読しようとするでしょう。また、スパイはそれを味方に知らせようとするでしょう。そして、作戦に関する暗号の漏れが勝敗に大きく影響しますので、とても神経質になります。
沖縄戦で敵に情報を漏らしたとして、スパイ容疑で住民が日本軍に殺害される事件が発生しました。しかし、実は日本軍の暗号が米軍に解読された結果だったということを保坂広志琉大教授が「世界」という雑誌で「沖縄戦秘史 日本軍の暗号は解読されていた」と題する研究論文を発表しました。米側資料を使い、これまで触れられなかった暗号戦に光を当て「住民スパイ説」を否定したのです。保坂教授は「仮に戦場地でスパイと呼べるものがあるとしたら、それは近代兵器と呼ばれた暗号そのものであった」と結論付けています。
しかし日本軍は、情報が傍受されたにもかかわらず「戦場心理から疑心暗鬼になり、住民にスパイ容疑や敵前逃亡の汚名を着せ、あげく住民多数を虐殺している」とし、それは、「(日本軍の)おごりと慢心が突出している」と厳しく指摘しました。「明治以来、本土の人たちの沖縄に対する差別意識が、住民スパイ説の根底に横たわっていた」と話しています。
沖縄の人たちは、日本のためにたくさんの犠牲を払い、命を投げ出し、苦しみに耐えてきました。しかし、戦争という異常な状況は身内ともいうべき人々まで疑ってしまうのですね。

投稿者 fujimori : 23:34 | コメント (4)

2008年09月25日 近頃思うこと

ソテツ

 最近のニュースで気になるひとつが「事故米」です。この米は、「ウルグアイ・ラウンド合意に基づいて輸入されたコメの一部で、倉庫に保管中にカビが生えたり異臭が発生したりして食用に適さないと判断されたコメ」のことをいいます。ですから、この米は基本的には食用にはせず、工業用のりの原料や、灰にして建設資材に使ったりしています。しかし、同じように価格が安いために、みそ、焼酎、せんべいにしたり、飼料用、外食用に輸入する米と偽って、流してしまっているというものです。すぐには、体には影響は出ないかもしれませんが、長い間の蓄積による影響が心配されます。
もうひとつの気になるニュースが、中国で「牛乳に水を足し、増量して納入する際に、タンパク質の含有量が減るので、メラミンを混入した」というものです。この牛乳を使った粉ミルクをはじめとした乳製品による体への影響が心配されています。中国では、メラミンが混入した粉ミルクを飲んで、乳児の死亡者も出ています。
もうひとつ、育児の負担からわが子を殺害した母親です。このような事件はたびたび起きますが、殺された子どもの心境を考えると切なくなりますし、そこまで追い詰められた母親はよほどのことがあったのでしょう。
しかし、事故米にしてもメラミン混入にしても、やむにやまれずというか、時代の犠牲者というよりも、一部の人の利益を求めてのことのような気がしますし、わが子の殺害も精神的な弱さとか、それを支える昨日の欠如というような、どちらかというと人災の面もあるような気がします。
 沖縄には、表に出ている歴史や戦争の悲惨さだけでなく、様々な苦しい歴史があります。
 沖縄では、第一次世界大戦による大戦景気の恩恵を受け、特産物の砂糖で利益をあげる「砂糖成金」が生まれるほどでした。しかし、戦争バブルが崩壊し、1930年代に世界恐慌による大不況と、全国規模の農産物の不作が発生すると一時的に飢饉となり、貧家では米はおろか芋さえも口にできずに、野生のソテツの実や幹(まずいうえに猛烈な毒性があり、調理をあやまると死を招く危険もある)を食べて、ようやくにして飢えをしのぐといった悲惨な窮状がありました。そこで、大正期から昭和期の大恐慌のことを、その様子をたとえて「ソテツ地獄」とよびました。
sotetu.JPG
 もともとソテツは慶良間や久米島では17世紀頃の文献に、救荒植物としてすでに食されていたことが書かれており、少なくとも18世紀初めには食用化されていたようです。それは、このころは異常気象による大飢饉が全国的に頻発したために、凶作時の救荒植物として、畑地に適さない荒地に栽培するよう奨励されました。これらの凶作時の救荒植物は、ヒガンバナ同様、そのまま食用にできるものですと動物も食べてしまうために、飢饉用としては時間をかけてアク抜きをしないといけないものにします。しかし、ソテツ地獄の頃は、ずいぶんとそのまま食べてしまった子どももいたようです。
 また、このときに県民が陥った極度の生活難は、ソテツ地獄だけでなく、欠食児童や長欠児童の増加、子女の身売りまで行われました。このような状況は、何も沖縄だけに限りませんが、犠牲者は子どもや辺境地などまず弱者から出ます。最近の事件の犠牲者に子どもが多いのは、これからの時代への警告でしょう。

投稿者 fujimori : 22:55 | コメント (6)

2008年09月24日 講演先にて

方言

 時代によって、翻弄されたものは色々とあります。そのひとつに各地に伝わる「方言」があります。各地には、その地方独特の言い回しがあったり、発音(訛り・アクセントなど)や文法や表記法など違いが見られることがあります。それぞれの地域にはそれぞれの文化があり、その文化には食や言語があります。それを、ひとつの国として包括したときに、言葉の基準を決め、それを標準語とか、共通語とか言い、そうすることによって当然それと違う言葉は「方言」と言われます。日本では、「東京方言」というものもあるものの、ほぼ東京方言を基として標準語、共通語が作られていますので、その他の地方の言葉は方言といわれ、「訛っている」「田舎の言葉」「おかしい発音」などと言われてしまいます。
標準語こそが正しい日本語であり、方言は矯正されなければならないとされた昭和30年代ごろまでは方言撲滅を目的のひとつとして標準語教育が行われました。そんな政策がその置ようの文化を壊してきた歴史があります。今回訪れた沖縄でもそれを感じました。
沖縄は、琉球王朝というひとつの文化圏をつくり、琉球諸島の言語は、「琉球語」としてひとつの「言語」として話されてきました。それが中央集権の考え方から「琉球方言」として日本語の方言に位置付けられ、それを使うことが禁止された時代があったのです。
okinawakyousitu.JPG
それは、皇民化政策といって「辺境の民」を「一人前の日本人」にするために、沖縄に伝わる歌や地名などを改められたのです。そのひとつとして言語統制が行われ、日本語標準語の公用語化や教育現場における方言や、各民族語などが禁止されました。家庭内においても標準語を使用することが奨励され、長いあいだ沖縄の歴史が否定されてきたのです。
日本語を言語学上に大まかに分類すると、本土方言と琉球方言に分けられるほど、沖縄の言葉には独特なものがあり、私は東北便を聞くよりももって外国語を聞いているくらいに難しい言葉と感じます。それは、単に訛っているとか、独特な言い回しがあるというだけでなく、音韻の違いがあるからです。日本語の母音は「あ」「い」「う」「え」「お」の5音ですが、琉球方言の母音は「あ」「い」「う」のみなのです。母音の「え」は「い」に、「お」は「う」に変化するので、「あ」「い」「う」「い」「う」となるのが、琉球方言の音韻の特徴です。たとえば、「雲」は「くも」と発音しないで「くむ」と言い、「沖縄」は「おきなわ」でえはなく、「うちなあ」というようになります。しかし「戸」(と)が「つ」になるわけではなく、母音が変わるだけですので、「とぅ」になりますし、「手(て)」は、「てぃ」になります。また、「わ」は、標準語の「わ」とは違うと言われています。はっきりした「わ」ではなく「ぅわ」という感じで言うようです。ですから、聞いていて丸みを帯びて感じます。
現在は方言に対する評価が変化し、標準語ないし共通語と方言の共存(ダイグロシア)が図られるようになりました。しかし、国家政策ではなく、テレビによる共通語の浸透、都市圏の拡大、全国的な核家族化・少子高齢化の進行、地域コミュニティの衰退による高齢層から若年層への方言伝承の機会の減少などから、伝統的な方言は急速に失われつつあるといわれています。
もう一度意識して、その地域の言語を見直し、大事にしたほうがいいかもしれません。

投稿者 fujimori : 23:38 | コメント (4)

2008年09月23日 近頃思うこと

蛍と雪

 窓といって思い出す言葉に「蛍の光 窓の雪」がありますが、この歌にまつわる思い出は、人それぞれが違うでしょうね。少し年配の人は、「蛍雪の功」といって一生懸命に勉学に励むことによって、報われ、後に「功」をなすといわれてきました。また、もう少し若くなると「蛍雪時代」という受験時代にお世話になった雑誌を思い浮かべるかもしれません。
 一方、歌の「蛍の光」を思う浮かべるかも知れませんが、この歌ほどその歌の持つ印象が違う歌はないくらいです。普通は卒業式に歌う歌とか、いい晦日の紅白歌合戦の最後にその年が終わるのを惜しんで別れとして歌う歌とか、学校時代の下校の合図の歌とか、パチンコ屋の閉店の合図の歌とか人によってさまざまにその曲が流れる背景を思い出すことでしょう。
この歌の原曲はよく知られているように作曲者はよくわかっていませんが、古くからスコットランドに伝わっていたものです。それをスコットランドの詩人のロバート・バーンズが、従来からの歌詞を下敷きにしつつ、現在、よく歌われるような歌詞をつけました。この歌詞が基になって各国に広まっていますので、別れを表すような歌詞が多いのです。
元の歌詞はこうなっています。「旧友は忘れていくものなのだろうか、古き昔も心から消え果てるものなのだろうか。友よ、古き昔のために、親愛のこの一杯を飲み干そうではないか。我らは互いに杯を手にし、いままさに、古き昔のため、親愛のこの一杯を飲まんとしている。我ら二人は丘を駈け、可憐な雛菊を折ったものだ。だが古き昔より時は去り、我らはよろめくばかりの距離を隔て彷徨っていた。我ら二人は日がら瀬に遊んだものだ。だが古き昔より二人を隔てた荒海は広かった。いまここに、我が親友の手がある。いまここに、我らは手をとる。いま我らは、良き友情の杯を飲み干すのだ。古き昔のために。」
旧友と再会し、思い出話をしつつ酒を酌み交わすといった内容です。この歌詞を基にして日本では、明治10年代初頭、小学唱歌集を編纂するにあたって、稲垣千頴が作詞しました。しかし、日本ではこの歌は、戦前から戦中にかけて国のために使われることになります。戦争というものは、歌とか、絵画とか、文学という芸術や文化を利用して、国民にある意識を植え付けようとするものです。この「蛍の光」では普段は歌われない3番と4番に時代が現れてきます。
「3、筑紫の極み、陸の奥、海山遠く、隔つとも、その眞心は、隔て無く、一つに尽くせ、国の為。4、千島の奥も、沖縄も、八洲の内の、守りなり、至らん国に、勲しく、努めよ我が背、恙無く。」
okinawagannpeki.JPG
この歌詞が、先週末訪れた沖縄平和祈念資料館の中の資料で4番の歌詞を文部省が、領土拡張等により何度か改変しているのを知りました。明治初期の案では、「千島の奥も 沖縄も 八洲の外の 守りなり」であったのが、千島樺太交換条約・琉球処分による領土確定を受けて「千島の奥も 沖縄も 八洲の内の 守りなり」となり、日清戦争による台湾割譲により「千島の奥も 台湾も 八洲の内の 守りなり」となり、日露戦争後「台湾の果ても 樺太も 八洲の内の 守りなり」となっています。
 時代によって祖国があちこちに変わってしまう住民はえらい迷惑ですね。また、時代によって歌詞を変えられた歌も迷惑ですね。

投稿者 fujimori : 23:54 | コメント (4)

2008年09月22日 近頃思うこと

窓2

doitutiisanamado.JPG
「窓」は、私たちの生活には欠かせないものですが、その位置は、昔は余りこだわっていなかったように思います。朝早く起きて、日中は仕事に出かけ、夜戻ってくる生活では、もしかしたら東向きの窓のほうがいいかもしれません。目の前に良い景色があれば、そちら向きに窓があったほうがいいかもしれません。
壁にガラス面が多いと、視覚的な広がり、解放感、明るいことなどから精神的にも大きな満足感が得られますが、1995年の阪神淡路大震災で比較的新しいに関わらず崩壊した家には、南側にめいいっぱい掃きだし窓を取っているものが多くみられました。それだけでなく、最近は空調や照明に普及で、南向きの窓のデメリットが言われています。
人間の体内時計は朝日を浴びることで整えられるといわれますが、南向きの窓だけですと、浴びることができません。にはのは東向きの窓です。朝早く起き、昼間は家に居ない生活スタイルの人には南向きより東向き住戸のほうが向いているかもしれません。
 採光の点でも開口部が北向きの場合、柔らかく安定した明るさの部屋となります。デッサン室などは北向きに窓を取ります。太陽からの光は、時刻や季節、天候などの条件でさまざまに変化するため、常に快適な光が得られるとは限らないからです。また、自然採光、特に窓を用いた原始的な採光方法では、強すぎる光、望まない方向の光、あるいは紫外線など望ましくない波長の光を制御する手段をとらなければなりません。特に直射日光といわれる光は、室内で作業する者の目に負担を強いますし、強い紫外線や熱線によって、そこにいる人の皮膚や、室内の家具・内装がいたむという不具合も生じます。
ですから、様々な手段でその光を調節します。例えば、カーテンやすだれ、ブラインドなどで光をさえぎります。また、ルーバーという横に細長い板を、平行あるいは格子状に組み合わせたもので、ハンドルなどにより一斉にその向きを変えることができるもので光や風、雨などの制御を行います。また、仕方なく南側に窓を取るときは、最近では、熱線吸収ガラス、熱線反射ガラスなど特殊ガラスを使用して、熱線(赤外線)を特にカットし、室内が過剰に温まることを防いだり、すりガラスを使って透過光を均等に拡散させることで、室内のプライバシーを保護するだけでなく、室内の照度分布をゆるやかにしています。だったら、教室などでは最初から南向きの窓は避ければいいのにと思います。
採光の点では、必ずしも壁に開口部を設けるだけでなく、天窓(トップライト、頂光採光)という天井に開けた窓は、壁に設ける窓よりも採光の効率が高いとされていますし、天井付近の高い位置に鉛直方向に設けたハイサイドライト (頂側光採光) という窓は、部屋の奥まで光が届きやすくなります。また、コートヤードとも呼ばれる光庭は、建築物の内部に採光目的で設ける中庭のことです。近年では鏡面・ガラスなどの反射を巧みに利用し、奥まった場所に光を導入する技術も開発されています。
夜は窓から入る蛍の光で、冬は窓から入る雪明りで勉強した「蛍の光、窓の雪」、企業などで、役職や年季相応の仕事を与えられず、机を窓際に移される「窓際族」、なぜか分かりませんが、ズボンの前面のファスナーをさすことばの「社会の窓」、窓は様々な象徴としても使われてきました。新しい時代の「未来に開く窓」を考える必要があるかもしれません。

投稿者 fujimori : 23:25 | コメント (4)

2008年09月21日 近頃思うこと

窓1

 「窓」に対する考え方は、日本とヨーロッパではだいぶ違うようです。
窓の役目には大きく二つあります。ひとつは、部屋など建物内に光を取り入れる採光のためです。もうひとつは、建物内の空気をきれいにするための換気の役目です。しかし、そのために天井や壁に穴を開けるわけですから、当然その大きさには制限があります。しかし、日本の伝統的な住まいでは、木造の柱・梁など大小の軸材を直行して構成され、それによって建物を支えているわけですから開口部を大きくとることができました。これがヨーロッパに多くみられる石造りの家では、壁によって建物を支えていますので窓の大きさは制限されます。ですから、窓は小さく、室内の明るさは薄暗く、そのような生活の中で、目は青く、皮膚は白くなってきたのかもしれません。
usuguraiheya.JPG
日本では開口部を自由にできたので、採光と換気だけでなく、様々な用途に利用してきました。そのひとつに、日本人の清潔好きから、洗濯や布団干しを、窓を使ってよく行いました。それが、窓は南向きという信仰を生んだひとつの理由です。また、窓は外の景色を眺めるという役目も持つことになります。室内という閉鎖された空間にいながら窓によって開放感や四季感を感じることができたのです。また、窓枠を額縁に例えて、外の景色を室内装飾にも利用しました。例えば茶室では、積極的にその効果を計ったつくりが多いのですが、こういった思想は茶室だけに限らず、多くの庭園を持つ建築様式では、窓から見える庭園の風景に配慮して庭の設計を行う傾向があります。
syojimado.JPG
そんな様々な要素を持つ窓ですが、私たちが健康に過ごすためにも大切な役割があります。そのために建築基準法によって最低ラインがしっかり決められています。
建築基準法では、住宅の居室には床面積の1/7以上、保育所や幼稚園の保育室、小学校、中学校、高等学校、中等教育学校の教室などは1/5以上の大きさの窓をつけるよう定めています。また、通風についても採光と同じく、建築基準法で「居室面積の1/20以上」の面積が必要と定めています。
しかし、窓の大きさは、採光や換気にはいいのですが、地震に対する耐性力や省エネルギー性、防犯性などに対してはハンデになります。また、換気にしてもただ大きいということだけでなく、通風に対する工夫が必要になります。窓を、風が通り抜けやすい位置に設けたり、腰窓・高窓と高低差を利用して通風を取りやすくするなどです。特に、学校や多くのマンションなどに見られるような外廊下型では、南側に教室や居室を設けるためにプライバシーや防犯性の観点から北側の窓を開けにくく、したがって自然の通風が得にくくなり、夏はクーラーに頼ってしまうことになります。
しかも、日本では南向きにこだわる人が多く、南側に大きく窓をとっている住戸が良い住戸とされています。ですから、日本のマンションでは同じ間取りでも住戸の向きによって価格に大きな差が出ます。学校の教室も南側に取ります。しかし、どうして南側がいいのでしょうか。
南向きの部屋は、朝や夕方に陽は直接入らないものの昼間は長時間明るく、部屋の中は暖かく、南側に物干しスペースがあれば早く乾きます。太陽の恵みを受けられるという点で大きくメリットがあるといえるでしょう。しかし、そんなメリットだけでしょうか。

投稿者 fujimori : 22:05 | コメント (3)

2008年09月20日 近頃思うこと

基準3

 保育施設についての基準を各国で決めていますが、施設の室内や屋外空間についての推奨基準を見ると、その国における生活のあり方がよく見えてくるのでとても興味深いものがあります。
 例えば、フランスでは県レベルで保育所施設推奨基準というものがあります。その中でちょっと面白いものがいくつかありました。施設入り口の条件に「一番大きな子供が、着替えのために寝転んだり、座れたりするスペースを確保することが必要である」日本での入り口には、靴を収納するだけのシューズボックスが並んであるだけのところが多く、座る場所や、ましてや寝転ぶ場所として確保しているところはないような気がします。
 「事務室」の内容に「最低でも、両親と二人の子どもを受け入れられる広さの面積が必要である」とあるのは、翻訳の仕方の問題かもしれませんが、事務所とは、事務をするところではなく、家族との面談の場所として捉えているようで、そのような役割を園は担っていることが分かります。
 「調理室」は、「このスペースは、遊戯室(保育室)から離すことによって、子どもが食事やその他の活動の時間を静かに過ごすことができるようにすること」とありますが、日本の多くの保育室のように元気よく活動する場所で、食事をすることが多いのですが、外国では活動する部屋と同じ部屋で食事をするのは考えられないようです。フランスの他の県では、もっとはっきりと「独立した食事コーナーを設けることを推奨する」と決めてあるところもあります。
 「衛生室」として、オムツ交換台やトイレの基準がきめられていますが、トイレのところに「小さなサイズのトイレ」ということと、「子供のプライバシーを尊重し、お互い離れた場所に配置すること。子供が水を流す装置を作動させることができるようにする。」とあります。この基準は、2歳までの園ですが、お互いのトイレを、水を流す音が余り聞こえないように離せと言っているのでしょうか。そうであれば、凄いですね。場所の問題もあるのですが、いま、日本の学校で男子がトイレを使いたがらないのは大便をしたのがわかってしまうということがありますが、流す水の音がしないようという配慮には驚きです。
 施設に関する一般注意事項の中にも興味深いものがあります。その中の「温度規制」です。
 「施設の室温は18~22℃に保つ。冷房は、熱波による健康上の被害を避けるための第1の解決策ではなく、建物設計上のミスを補う万能薬としては高価すぎることに注意する」これは、凄いですね。部屋が暑くなるのは、建物の設計上のミスであり、しかも、そのミスを補うために冷房を使うのは最終手段であるといっています。日本では、暑いとすぐに冷房をつけてしまいますが、もう少し配慮が必要ですね。まず、建物の設計を考えるべきでしょうが、具体的にどうかということも書かれています。「大きなガラス窓が付いた真南向きの部屋の配置は避ける」これも、日本の感覚と外れるところです。日本では、できるだけ南に大きな窓をつけようとするでしょうね。他の県でも遊戯室や保育室は真南向きの区画は避けるように指示されています。そして、防火のためかカーテンは付けないことを推奨しています。
 暖房についても「19℃に統一。ただし、トイレ、洗面所、シャワー室は21℃」と書かれています。ずいぶんと低い基準ですね。壁は「洗剤で洗える光沢のある塗料」とあり、日本で多く見られる壁紙は考えていないようです。
 基準は、風土の違いから来るものもあるかもしれませんが、日本でも生活のあり方を見直さなければいけないヒントもたくさんあります。

投稿者 fujimori : 21:45 | コメント (4)

2008年09月19日 近頃思うこと

基準2

 世界の各国が保育施設に対してある基準を出している中で、保育内容について基準を出しています。日本では、かなり細かく、幼稚園教育要領とか、保育所保育指針などが出されていますが、そこには、内容が書かれているだけで、保育形態についてはあまり書かれていません。保育、教育形態はその建物や保育、教育空間に関係し、それが保育の質に関係してくるという事から外国では定められている場合があります。
 アメリカで、有名な調査として「ペリー・プレスクール」というものがあります。この調査は、1962年から67年にかけてアフリカ系米国人の家計水準の低い家庭の子弟を対象にした調査ですが、就学前教育の経験の有無が、児童のその後の発音、成長プロセスにおいてどんな影響を及ばしているかを追跡調査したものです。その結果、「質の高い」就学前教育プログラムを受けた児童が、その後の成長過程を通じてより高い学歴水準、経済水準に到達したことが分かり、「質の高い」就学前教育とは何かを示したものです。
 その中で行われた、質の高い就学前教育手法の具体的な内容は以下のようなものだそうです。
「個人の主体性を尊重した学習活動を中心に、大・小規模のグループ学習活動を組み合わせた教育手法である。教員は、児童が様々な社会・学習スキル(主体性・社会関係・創造性・運動能力・音楽能力・論理的思考・読み書き能力・数学能力)を習得することができるよう、多様な活動プログラムを提供することを役割とし、そのために、この教育手法に関して定期的な研修を受講した。」
 ここで見られる質の高い教育手法は、決して教師が児童の前で一方的に話しをし、児童がみんな黙って座って先生の話を聞くという形態は見られません。そして、学習活動の基本は、「主体性を尊重した」ものでなければならないのです。そして、グループ活動が中心になります。また、子どもの学習スキルとは、まず第1に挙げられるのは、「主体性」なのです。そして、第2に「社会関係」です。この内容は、3~4歳児を対象にしています。幼児を対象にしたものですが、これは、当然学校教育にも言えることです。
 9月7日の読売新聞に「北欧の教育 先進的」という特集が組まれていました。その記事の中で、ヘルシンキ大学で教員研修を研究しているテューム博士に、PISA(国際学習到達度調査)で過去3回とも世界トップレベルの成績を収めたフィンランドの学校教育の特徴を聞いているものがありました。
 教師は生徒の意欲を引き出すために何をしているかという問いに対して、こう答えています。「社会の激しい変化に伴い教え方は変わってきた。20年前には権威的な教師がいたが、今は教師の話を聞くばかりの一斉授業では、生徒が飽きて学習意欲を低下させる。教師はいろいろな教え方を自由に選び、生徒を授業に集中させている」たとえば?という質問に
「生徒2人で問題を考えさせたり、3,4人のグループ学習をさせたりして、問題解決のために生徒どうし知恵を出し合わせる。この助け合いがキーポイント。教師が一方的に教えるよりは生徒はよく学ぶ。調べ学習させたり実験方法を考えさせたり、とにかく生徒に何か作業をさせ、教師はいい質問をして、生徒によく頭を使わせる。」と答えています。
 先日のテレビで、最近の1年生はきちんと先生の話が聞けないということが問題になっていましたが、それは、しつけの問題というより、授業の仕方の問題かもしれません。

投稿者 fujimori : 22:26 | コメント (4)

2008年09月18日 近頃思うこと

基準1

 各国には、その国における施設に対して、その施設が人の生活や精神に影響が大きく、その影響が将来に関わるような場合には、その基準が定められています。その施設の中で、特に保育施設については、その利用者が環境からの影響を受けやすい乳幼児であることから決められていることが多いようです。
 この基準は、最低基準としてきめている場合や、標準基準、推奨基準など様々なですが、その決め方は、その国でどんな人材を作ってきたかという教育のあり方を反映しているような気がします。法律もそうですが、基準値を出す場合は、基本的に性悪説でできていることが多く見られます。悪いことをする人がいるので、決まりを作って、悪いことをしないようにする場合です。
例えば、乳幼児施設において、何が子どもにとって良いことかは、基準をきめなくても当然その運営主体が考えることでしょうし、まさか、子どもにとってよくないことを考えるはずはないと思うのですが、実際はそうでもないようです。というのは、「子どもにとって」というような、人によってその定義が多様化してしまうような場合は難しくなります。しかも、本当の利用者であり、そのものの最善の利益を優先しなければならないのは、まだ、自分の意志で選んだり、要求したり、評価したりできない乳幼児だからです。ですから、その代弁者としての保護者の利益と、子どもの利益が相反することがあったときに、どちらを優先するかが施設の判断によってしまうからです。
また、基準をきめるのは、その施設に対して補助金を出している場合です。補助金というのは、税金ですので、その使途は公共的でなければなりません。個人の考えや、理念を超えた公共性の考え方から使う必要がありますので、ある基準を作って、その部分は遵守してもらおうという考え方です。逆の考え方もあります。その内容を保障するために補助金を受けて事業を行うために、保障する範囲として基準をきめるということです。しかし、補助金だけで運営し、利用者から独自で利用料を徴収することができない施設では、この基準が運営基準となりますので、そのときにその基準を最低としてきめるのはおかしくなります。そういうときには、推奨基準にしなければ最低で運営しなさいということになってしまうからです。最低というのは、それを上回って、運営をすべき基準でなければならないのです。
それなのに、最低基準でなくて、推奨基準にしてしまうと最低を下回る可能性があるという危惧をするような社会は情けないですし、最低基準の運営しかできないような補助を支給するのもおかしな話です。
たまたま、各国の保育施設の基準を見る機会がありました。それを見ると、その決め方はその国の考え方を反映していて、とても面白い部分があります。その基準の中で、教員の学歴水準や教員数と児童数比、クラス規模など人的な質に関係する部分などはその国の財政的な優先順位を見ることが出来ます。どのような事業に、どの年齢に対して税金を投入しようとするのかを見れば、その国の考え方が分かります。経済協力開発機構(OECD)は先日9月9日、加盟国の教育予算の国内総生産(GDP)に占める割合(05年時点)についての調査結果を発表しています。日本は前年比0.1ポイント減の3.4%で、データが比較可能な加盟国28か国中、最下位だったそうで、28か国の平均は5.0%で、1位は7.2%のアイスランドだったようです。
 ただ予算が多ければいいというものではありませんが、国が国の事業の中で教育をどのくらい重視しているかは分かるかもしれません。

投稿者 fujimori : 23:34 | コメント (4)

2008年09月17日 近頃思うこと

野分

 台風が近づいてきました。この台風は、ずいぶんと台湾に被害をもたらしたようです。台風の「台」と台湾の「台」が同じ字なので、何か関係がありそうですね。「台湾の風」という意味から「台風」というように思いますが、一時そんな説もあったようですが、実は全く違うようです。それよりも、どうも最近の説で有力なのは、台湾に関係していないというよりも、もともと日本語ではないということのようです。
 その呼び方は別としても、昔から秋に大嵐があったことは間違いありません。それをどう読んでいたかというと、よく知られているのは、「野分」でしょう。これは、なかなかいい呼び方ですね。秋の際に吹く疾風が野の草を吹いて分けるところから、日本では、古くから野分(のわき、のわけ)といっていました。10世紀末に書かれた「枕草子」の200段には、「野分きのまたの日こそ、いみじうあはれに をかしけれ」(野分きの吹いた翌日の様子は、たいそうじみじみとして風情がある)という文章があります。今のイメージでは、台風の跡は様々な被害の爪あとが残されていて、風情があるとは思えませんが、当時は、自然と共生していた暮らしをしていたので、台風一過の清々しさのほうを感じ、それをめでていたのかもしれません。
しかし、台風の後は被害が心配です。そんなことが、枕草子と並び称されている「源氏物語」の第28帖「野分」に書かれています。台風が吹き荒れた後、その被害が心配になった夕霧が、六条院や明石姫君を訪れ、その安否を知る話が展開されます。その頃から台風の通過後に親しい人の安否を気遣って家を訪問する「風見舞い」が行われていたのですね。
 それが明治時代になってどういうわけかこのような秋の突風を「颱風」(ぐふう)と呼ぶようになります。このように命名したのは、当時の第四代気象台長岡田武松博士で、「颶」は「激しい」という意味で、熱帯で発生した颶風のことです。その後、昭和21年にこの「颱」という字が当用漢字にないため「台風」と改められたのです。
 では、どうして颱風を「たいふう」といわれるようになったかというと、その語源にはさまざまな説があって、はっきりしていません。
ひとつの説は、ギリシャ神話に登場する恐ろしく巨大な怪物で風の神といわれているテュポン(Typhon)に由来する「typhoon」から「たいふう」となったという説です。
もうひとつは、アラビア語で、嵐を意味する「tufan」が東洋に伝わり、「颱風」となり、英語では「typhoon」(タイフーン)となり、それを漢字に当てたという説です。アラブ人は、大航海時代以前にはインド洋から東アジアへの海路に最も精通した民族で、当時のアラブの航海者たちが、しばしば強烈な台風の洗礼を受けたことでしょう。ですから、アラビア語からの説は有力です。他にも、インド洋の季節風として有名な「モンスーン」もアラビア語の「mausim」が語源といわれています。また、もともとは、中国の福建省や台湾では、強い風のことを「大風」(タイホン)といい、それが西洋に伝わり、また東洋に逆輸入され「颱風」となったとも言われています。
どの説にしても、「台風」という名前は日本語ではなく、もともと外来語だったようで、明治時代には、台風はハリケーンやトルネードと共に「タイフーン」と片仮名で書かれていました。多くの人が、日本語の台風が英語にもなったと思っているようですが、改めて調べてみると、意外な語源があるのですね。

投稿者 fujimori : 23:18 | コメント (4)

2008年09月16日 行事

学芸的から文化的へ

そろそろ「文化の秋」ということで、小学校では作品展とか、学芸会とか、文化祭などの学芸的行事が行われます。園などでも、行事は生活に変化を持たせたり、心身の発達を違う側面から援助するのにはいいのですが、それが職員の負担になったり、子どもの負担になったりすることも多いようです。
学校行事は、小学校では特別教育活動であり、授業の一環であり、参加は強制です。昭和33年に初めて施行された小学校学習指導要領では、学校行事等の目標として「児童の心身の健全な発達を図り,あわせて学校生活の充実と発展に資する」とあり、留意事項として、「その教育的価値をじゅうぶん検討」「学校生活に変化を与え,児童の生活を楽しく豊かなものにする」「児重の負担過重に陥ることのないように考慮し」という今でも確認しなければならないことが定められています。
それが、昭和46年に施行された小学校学習指導要領になると、きちんと「学校行事」として位置づけ、その中を「儀式」「学芸的行事」「保健体育的行事」「遠足的行事」「安全指導的行事」と分けられます。しかし、内容についてはあまり細かく規定せず、考えられる行事の例として、「学芸的行事」は学芸会、展覧会、映画会その他として記載されているだけです。
それが、昭和55年施行になると、学芸的行事は、「平素の学習活動の成果を総合的に生かし,一層の向上を図ることができるような活動を行うこと」となり、内容の取扱いとして、「教師の適切な指導の下に,特に児童の自発的,自治的な実践活動が展開されるように配慮する必要がある」というように、児童の自主的、自治的な活動となるように書かれています。しかし、「仕込む」「訓練する」「やらせる」的行事からはなかなか脱皮しきれません。
平成4年施行のものになると、「学校の創意工夫を生かすとともに、学校の実態や児童の発達段階などを考慮し、児童による自主的、実践的な活動が助長されるようにすること」というように、自主的という言葉は残りますが、少しそのニュアンスは薄くなった気がします。この頃から、学校行事の中に、「勤労生産・奉仕的行事」が入ってきます。それが、平成14年施行では、「学校行事においては、全校又は学年を単位として、学校生活に秩序と変化を与え、集団への所属感を深め、学校生活の充実と発展に資する体験的な活動を行うこと」とし、「実施に当たっては、幼児、高齢者、障害のある人々などとの触れ合い、自然体験や社会体験などを充実するよう工夫すること」と広がっていきます。
 今回の改定ではどうなっているのでしょうか。「学校行事」の目標として、「望ましい人間関係を形成し、集団への所属感や連帯感を深め、公共の精神を養い、協力してよりよい学校生活を築こうとする自主的、実践的な態度を育てる」とあります。そして位置づけも、「学芸的行事」から「文化的行事」となり、「平素の学習活動の成果を発表し、その向上の意欲を一層高めたり、文化や芸術に親しんだりするような活動を行うこと」となります。そして、ふれあいの中に「異年齢集団による交流」が意図され、行事のあとも、「気付いたことなどを振り返り、まとめたり、発表し合ったりするなどの活動を充実するよう工夫すること」とあります。
 これから子どもに求められる力が変わってきたことを感じます。

投稿者 fujimori : 23:21 | コメント (4)

2008年09月15日 近頃思うこと

秋眠

そろそろ、朝晩はとてもすごしやすい季節になります。夏のあいだ、寝苦しさで夜なかなか眠ることができなかったのが、朝までよく眠れるようになります。よく「春眠暁を覚えず」というように、春は眠い季節だと思われていますが、実は私は秋のほうが眠い季節のような気がします。
この有名な言葉は、盛唐の孟浩然の「春暁」という有名な五言絶句の中の一部分です。中高校生の頃に習ったことがあると思うので、全文は、聞いたことがある人が多いと思います。
「春眠不覚暁 處處聞啼鳥 夜来風雨聲 花落知多少」(うららかな春の朝、夜が明けたのも気付かずに、うつらうつらとまどろんでいると、夢うつつに鳥があちらこちらで鳴いているのが聞こえてきます。ゆうべ風雨の音が激しくしていましたが、あの嵐で花はどれほど散ってしまったことでしょうか)
この春の朝、夜があけたのも気がつかないのは、夜が長かった冬に比べて次第に夜が明けるのが早くなってきて、いつもの時間に起きるころにはすでに明るくなっているからです。そして、もう鳥がさえずり始めている声を聞いて、春になったという実感を朝に感じたということで、寝坊してしまったということではないようです。そして、激しい雨が降ったと思っても、秋の激しい台風や、花がほころぶことをさえぎる雪と違って、花を散らす程度であることを心配すればよいのは、やはり春になったということを強調しています。
 そう考えると、やはり眠いのは秋のほうかもしれません。起きるころにはもう明るくなっていた夏から、次第にまだ薄暗く、まだ眠りが足りないような気になります。また、秋は夏の疲れが出てくる頃なので、なんだか1日だるいような、眠いような気がします。
 私の園に、何も秋に限ったことではありませんが、会議中や話し合いをしている最中によく寝てしまう職員が数人います。どういうわけかその職員は動物占いで「タヌキ」であることが多いので、園では、「タヌキ寝入りをしないで、本気寝入りをしてしまうタヌキ」とからかうことがあります。昔から、タヌキは死んだふりをするといわれています。それを「タヌキ寝入り」というのは、猟師が猟銃を撃った時にその銃声に驚いてタヌキは弾がかすりもしていないのに気絶してしまい、猟師が獲物をしとめたと思って持ち去ろうと油断すると、タヌキは息を吹き返しそのまま逃げ去っていってしまったという経験から出た言葉です。それは、タヌキは非常に臆病な性格で、本当に恐怖の余り気絶してしまうからで、その振りをしているわけではありません。気絶するのは、何もタヌキだけに限ったことではなく、アフリカのブチハイエナなども、人間にけしかけられた犬に追いかけられると、途中で恐怖のあまりに気絶をしてしまうそうですし、アメリカに住むオポッサムという有袋目の小動物も犬などに追われると、同様に失神して仮死状態になってしまうそうです。本当に、呼吸や脈拍などが完全に止まってしまうので、誰もが気を抜いてしまうのですが、突然ムクッと起きあがって逃げ出してしまいます。また、同様の習性を持つことから、海外ではFox sleep(キツネ寝入り)といいます。日本では、タヌキは人をだますというイメージがあるので、タヌキ寝入りというように代表して言われてしまったようです。
 まあ、仕事中は眠るわけにもいきませんが、夏の疲れを取るためにも、気候が良くなる秋を楽しみながら、ゆったりと過ごしたいものです。

投稿者 fujimori : 21:04 | コメント (4)

2008年09月14日 近頃思うこと

秋の花

tukimidango.JPG
「おりとりて はらりとおもき すすきかな」(飯田蛇笏)
お月見に飾ろうとススキを採りに行きました。かわらに一面、穂を風に揺らしながら涼しげに生えています。その姿は軽やかに見え、持って帰るときに、いかにも軽そうです。しかし、折り取って手に持ってみると、意外にずっしりと重さを感じます。それは、ススキの重さというよりも、そのススキの生命の重さかもしれません。いくら軽そうに見える姿でも、生きていくということは重いことなのかもしれません。
今年の中秋の名月の今日は、晴天率に反してきれいな月を見ることが出来ました。ここ数日、ブログでこの話題を続けているので、今日、実際に空を見上げた人が多いかもしれません。まさか、我を忘れて夜が明けるまで眺めていた人はいないと思いますが。
 先日、園に秋の花でも飾ろうかということになり花屋に買いに行きました。しかし、秋の花はどうもどれも地味で、余り子ども向きではありません。そこで、とりあえず、お月見用としてのセットを買って帰りました。
akinohana.JPG
 秋の花の代表というと、もちろん思い浮かべるのは、万葉時代からの「秋の七草」ですが、これらの花も派手な植物が入っていず、しかし、ひっそりと秋の到来を知らせてくれる花ばかりです。
 「秋の野に 咲きたる花を 指折りかき数ふれば 七種の花 萩の花 尾花 葛花 撫子の花 女郎花 また藤袴 朝貌の花」(山上憶良 やまのうえのおくら、万葉集)
 万葉集の中で山上憶良が七草を選んで歌いこんだのが「秋の七草」になったのです。ですから、全く個人的主観ですが、これが今に至っています。
 この歌の中の「尾花」とはススキの花穂が出ている時の呼び名です。今は、川原などに一面に生えている植物ですが、昔は、ススキは私たちの暮らしになくてはならない植物でした。茎葉は屋根材や家畜のえさに、根茎は解熱・利尿に用いられていました。ですから、お月見にススキを供えるのは、その風情だけでなく、豊かな穂が実りの秋を連想させるので、豊作を祈願したものといわれています。
 一番論議になるのが、最後に挙げられた「朝貌の花」です。これをそのまま取ると、小学校1年生の夏の観察定番である「朝顔」でしょう。ですから、朝顔というと夏を代表する花のようで、秋というイメージではありませんが、その花の咲く期間が長く、俳句の季語としては秋になっています。しかし、「万葉集」や「源氏物語」に出てくる朝顔は現代の朝顔ではなく、どうも、「キキョウ」「ムクゲ」だと言われています。私は、桔梗の花が好きなので、秋の七草に入れて欲しいと思います。
kikyo1.JPG
  このキキョウのことを韓国ではトラジといい、肥大した根をキムチ、ナムル、ビビンバなどの食材にします。焼肉屋でトラジという名前の店があるのはそれから来ています。
 しかし、多くの人に好まれるのが「萩の花」です。
hagi.JPG
 岡本かの子の「秋の七草に添へて」にこんな文章があります。「萩は田舎乙女の素朴と都会婦人の洗練とを調和して居るかと思えば、小娘のロマン性と中年女のメランコリーを二つながら持っている。その装いは地味づくりではあるが、秘かな心遣いが行き届いている。」
 秋の野の花が咲き乱れる野原を散策して、短歌や俳句を詠むことが、昔から行われていました。秋の七草は、春の七草と違ってそれを摘んだり食べたりするものではなく、眺めて楽しむものです。まだまだ秋の花について話したいことがありますね。

投稿者 fujimori : 23:15 | コメント (4)

2008年09月13日 近頃思うこと

芭蕉と名月

 明日9月14日は今年の中秋の名月ですが、ブログにも書いたように、東京では天気が怪しいようです。ですから、今日の少し満月には早い月を眺めています。月はどんな大きさでも、それぞれに風情がありますね。十五夜の月を少し過ぎた月のことは十六夜と書いて「いざよい」と読みます。次第に月の出は遅くなります。十五夜の満月は日没ごろに昇ってきます。その月の美しさを満月の次の日も見ようと思って待っているのに、前日に比べてなかなか出てきません。ということで、「いざよい」(ためらう、なかなか進まないの意)と呼ばれます。その次の日には、もう少し立って待っていなければなりません。ですから、「立待月」と呼ばれます。その次の日の月になると、もう立っていられません。座って待っていると出てきます。ですから、「居待月」。次の日は、座っていてもしかたないので、寝て待っていましょうと「寝待月」。更に待っていると「更待月」が、夜が更けてから出てきます。
この月の満ち欠けは、自分の人生に照らし合わせてしまいます。松尾芭蕉は、39歳のときに「月十四日今宵三十九の童部」という句を詠んでいます。それは、月は十五夜で完成します。だからその前の日の14日の月は未熟です。男は40にして立つといわれていますが、自分はまだ39歳です。ですから、まだまだ未熟です。と思ったのです。
 そんな芭蕉も、40歳を過ぎ、心身とも充実してきて、名月の美しさを理屈なく受け入れることができるようになり、中秋の名月をつい見とれてしまって、芭蕉庵にある「蛙飛びこむ」古池の周りを歩いていて、夜も明けてきたのにも気がつかないほどになります。「名月や池をめぐりて夜もすがら」
 東京で見る月にしても、こんな今でも美しい名月は、江戸時代ではさぞかしきれいだったでしょう。しかし、どんなきれいな月にしても、山国での澄んだ秋の夜の月が山の端に上る姿は何ともいえない秋の風情です。このような月は、いくら江戸時代でも江戸では味わえません。「詠むるや江戸には稀な山の月」と詠んだのは、江戸日本橋界隈からでは山を背景にした月は見ることができません。こういう景色は江戸にはないものであると同時に、江戸の濁った月を悲しがったのでしょう。それでも「夏かけて名月暑き涼み哉」昼間はまだまだ暑い日が続きますが、夜になるとすっかり秋めいてきて、中秋の名月である今宵の月見は、夕涼みの気分で見ています。
 美しい月を眺めているとつい我を忘れてしまいそうになります。しかし、月が雲に隠れると、ふっと我に返ることがあります。「雲をりをり人をやすめる月見かな」美しいものでも、ずっと美しいだけでは、その美しさに入り込んでしまいその美しさも麻痺してしまいます。時たま雲に隠れること、その美しさが見えなくなることがあるので、また雲から出てきた月の美しさを感じることができ、自分を取り戻すことができるのです。
 松尾芭蕉とともに、月を眺めてみると、人生も少し見えてきます。しかし、そんな人間の思惑に関係なく月はあくまでも美しく輝いています。その美しさを邪念なく眺めることも必要かもしれません。童心を持った小林一茶にこんな句があります。「名月を とってくれろと 泣く子かな」名月を取ってくれと泣いてねだるわが子に、戸惑う親の姿がほほえましいですね。

投稿者 fujimori : 21:01 | コメント (4)

2008年09月12日 近頃思うこと

反語

東京校閲センターの原田泰雄さんが面白いことを言っています。
「受験生だったころから古文の試験で釈然としなかったことがあります。反語表現の現代語訳です。たとえば吉田兼好の徒然草の一節「花は盛りに月は隈なきをのみ見るものかは」を現代語に訳せといった問題を出されたとします。そのまま訳して「桜の花は満開を、月は満月ばかりを見るものだろうか」でよさそうなものですが、これでは正解にはなりません。答えの末尾に「いやそうではない」と書かないと減点されてしまうのです。受験生としては反語表現を理解していることを明確にするために、「いやそうではない」と原文にはないことを書き加えなければならないのですが、私は蛇足以外の何ものでもない感じがしてとても嫌いでした。」
私は、この反語を非常に日本的な言い方のような気がしていたのですが、英語でも「rhetorical question」という話し手の意図していることをわざと疑問文で述べる言い方があります。そして、断定を強調しようとするのです。もうひとつ、反語には、あえて、本当に表したいこととは反対のことを述べるという効果を出そうとすることがあります。揶揄、皮肉を目的として用いられることが多いのですが、本当はどちらを意図しているかわからないことがあります。
このわかりにくい反語を、小さな子どもを怒るときに使う場面をよく見かけます。
「そんなこと、していいと思っているの!」
これを聞いたときに、これは本当に子どもがいいか悪いかわからないので聞いているとは思えませんでした。というのは、私がこの文章を書いたときに「思っているの!」と書いて、「思っているの?」とは書かなかったのは、その語感がさいご「!」で終わるような感じがしたからです。すると、子どもの答えは「ううん」と言うと、「じゃあ、なんでしたの!」と追い詰めていきます。またこの言葉も反語的表現です。「なんでしたの?」ではないのです。子どもは、もう、答えようがありません。なんでしたのと聞かれてもねえと思ってしまいます。
しかし、小さな子どもにも、この問いは疑問文ではなく、反語だということがそのいい振りでわかるようです。ですから、こんな答えようがないような叱り方はやめたほうがいいような気がします。なんだか脅迫じみて、尋問で追い詰めている検事のような気がするからです。
 子どもには、発達期における子ども特有な行動があります。ハイハイを始めた子どもに「なんで、ハイハイなんかするの!」と怒る親はいないでしょう。しかし、物に触ったり、壊したりすると「なんで、触るの!」と怒ります。ともに発達においては、必要な行動であることが多いのですが、大人にとって支障がなければほめられ、都合が悪い行動は怒られてしまうのです。いろいろなものに興味を持ち、いろいろなことを知ろうとすると、「そっちへ行っちゃあ、ダメ!」と止められてしまい、「フラフラする悪い子」と決め付けられてしまうのです。
 子どもは、大人の都合で決め付けられたり、気まぐれな大人の間で、苦労しますね。

投稿者 fujimori : 22:12 | コメント (4)

2008年09月11日 近頃思うこと

パラリンピック

この夏は北京オリンピックで盛り上がりましたが、地味ではありますが、現在はパラリンピックでも日本の選手は頑張っているようです。そんな活躍のニュースが流れてくる中で、懐かしいというか、久しぶりに聞いた名前を見つけました。
92年バルセロナ大会から通算20個目のメダルを同着3位でもぎ取った。男子100メートルバタフライ(視覚障害)の河合が涙に暮れた。「金メダルで泣いたことはあるけれど、銅でこんなにうれしいことはない」視覚障害選手はまっすぐ泳ぐのが難しい。33歳の河合は20歳代の体力はないものの、パラリンピック5回目の経験を生かし無駄なく進んだ。英スピード社製水着レーザー・レーサーを着用し、1分5秒79の自己ベストをマーク。日本競泳陣に今大会初のメダルをもたらした。
 日本パラリンピアンズ協会の事務局長を務めるなど、日本の障害者スポーツを引っ張ってきた。「世界のレベルが上がり、日本が(練習環境などで)取り残されていると思った。でもそんなことを言い訳にしたくなかった」(朝日新聞記事より)
彼のことは、ブログの2007年1月5日に書きましたが、オリンピックで通算20個のメダルを取ったというのは、もっと、日本のヒーローになってもいいと思うのですが。ただ、ヒーローといっても、たぶん彼は騒がれたり、英雄扱いされることではなく、マスコミ等で頻繁に取り上げられることで、障害について、障害者のスポーツなどの環境等の社会参画についてもっと国民に認知して欲しいからだと思います。
最近、保育についての相談で、障害児についての対応が多くなりました。また、保護者対応についても障害があるであろう保護者への支援が課題であることが多くなりました。しかし、障害者への認識がまだまだ国民の中では浅いことが問題を生んでいるということがあります。例えば、園で障害と思われる園児がいるとすると、課題が、その子をどうすれば他の子と同じことをさせるようにできるかとか、親に子が障害であることをどのように伝えるかということが多く、その子が、現在をよりよく生きるためにどのようにすればよいかということは余り議論になりません。
今回メダルを取った河合さんにしても、水泳で、他の子と同じように泳ぐことを目指してきたのではありません。彼の生い立ちを描いた映画「夢 追いかけて」の中で、かれはこのようなことを学んでいきます。
中学3年の時に、かろうじて見えていた右目の視力も失います。まっすぐに泳げない、ターンのタイミングがわからないという悔しさに、水泳部の主将でありながら大会への出場を辞退します。しかし、教師や家族、クラスや部の仲間の厳しく暖かい励ましの中で、次第に自分の泳ぎを身につけていきます。そして大学に行き、教師として教壇に立とうとします。そこで目指そうとしたのは、目の見える教師と同じようにそのハンデがないかのように教えることではなく、健常者である生徒に、全盲の自分が教師として伝えられること、伝えたいことがあったからです。
 人の境遇は様々です。人が持っている才能は様々です。だからこそ、人それぞれが社会の一員として必要なのです。それは、肩書きでも、名づけられた障害でもないのです。

投稿者 fujimori : 23:50 | コメント (4)

2008年09月10日 近頃思うこと

秋の空

9月14日は中秋の名月です。今頃は、夕方になると南の空に中秋の名月に向けて日々大きくなっていく上弦の半月がきれいに輝いています。その月は、丸くなるにしたがって、夕方に見える位置が、真南から次第に東の空に移っていきます。というよりも、月の出が遅くなってきます。
旧暦では三ヶ月毎に季節が変わり、秋は、「七・八・九月」です。そしてそれぞれの季節に属する月には「初・中(仲)・晩」の文字をつけて季節をさらに細分するのに使いました。そこでは、「八月」は秋の真ん中で「中秋」となり、その月の半ばである15日はだいたい満月になりますから、満月のことを「十五夜の月」といい、その中で特に八月十五日の秋の澄んだ空に昇る満月を、古くから日本では鑑賞する風習があり、このときの月を「中秋の名月」と呼ぶようになりました。そして、その時期は収穫の頃であり、その年の収穫物を月に備える風習が各地に残っています。
しかし、旧暦八月十五日の中秋の名月は、実は満月でないことが多いのです。新月から満月までの平均日数は約 14.76日で、旧暦15日の月齢平均より.76日分だけ長い値ですから、実際の満月は旧暦15日より遅れる傾向があります。まあ、中秋の名月は、一種のシンボルであり、天文学ではないので、そのくらいの誤差は気にしないようです。
それよりも天体に関する行事で気になるのが、七夕と同じようにその日に晴れるかでしょう。実際は、この時期(現在の暦の 9~10月)は台風のシーズンであり、また秋の長雨の時期にもかかりますから、江戸時代の書物には「中秋の名月、十年に九年は見えず」のような記述もあるほど昔からあまり晴天率が良くなかったようです。
また、今の時期、南の空の月を眺めているとその近くにひときわ明るく木星が見えています。木星は太陽の第5惑星で、他より飛び抜けて1番大きい惑星で、他のすべての惑星を合計したよりも、2倍も大きく、地球の 318 倍の大きさを持っています。明るさも、天空で太陽、月、金星についで4番目に明るい天体です。そのために有史以前から知られていました。西洋名では、Jupiter (英語読みでは「ジュピター」、ラテン語読みでは「ユピテル」)といいますが、ギリシャ語では ゼウスというように、ローマ神話の神の中の王で、オリンポスの支配者、ローマの庇護者でもあります。一際明るく大きい惑星であったために、メソポタミアで主神マルドゥックの名をもらいました。それ以来、各地の主神名で継承されています。中国や日本では、公転周期がほぼ12年であることから十二次を司る星として「歳星」と呼ばれていました。
この木星には、四つの衛星があることが1610年、ガリレオによって発見されました。それまでは、すべての物体は、地球を中心に回っていると信じられていましたから、この衛星の発見によって、地球以外にも中心になる星があることになり、ガリレオは公にコペルニクスの太陽中心説(地動説)を支持したので、宗教裁判所に捕らえられ、終生、獄中の身となってしまったのです。
 1989年に、木星とその衛星を探査するために打ち上げられた宇宙探査機には、彼にちなんで「ガリレオ (Galileo)」と名づけられています。
 秋の空もなかなかのものです。

投稿者 fujimori : 23:13 | コメント (4)

2008年09月09日 近頃思うこと

フィルター

「新語ウォッチャー」といわれている「もり・ひろし」さんが、2008年前期の新語十選を紹介しています。この選出基準はあくまでも彼の個人的観点によるものとしていますが、今年前半にその言葉が話題になるきっかけがあったこと、その言葉が今後しばらく定着しそうであること、その言葉に対する社会的関心が大きかったことを考慮したそうです。
そのひとつに「フィルタリング」〜子どもと情報の関係を問う議論〜という言葉が選ばれています。
 最近は、子どもたちはほとんど携帯電話を持ち、パソコンでインターネットを利用しています。家庭へのインターネットの普及率は、いまや64%にもなっていて、生活に欠かせないものになっています。普及してくれば、当然その世界での犯罪は増えてきますし、子どもへの悪影響も出てきます。そんなときにネットにフィルターを掛け、ネット利用の際に有害情報サイトを閲覧できないようにする機能のことを「フィルタリング」といいます。この方法に白黒の2種類あります。許可サイトのみ閲覧できる方式を「ホワイトリスト方式」と言い、禁止サイト以外を閲覧できる方式を「ブラックリスト方式」と言います。
そこで、インターネットを利用することによるリスクから子どもたちを守るためには、子どもにとって不適切なサイトを“見せるか・見せないか”を大人(保護者や先生)が選択し、閲覧を制限することができる「Webフィルタリングソフト」が有効な手段の一つとされています。しかし、なにがよいサイトで、何が悪いサイトかというと判断がとても難しくなります。ですから、ただサイトの利用方法の実情に考えないで、形式的なカテゴリ分類により、一律にフィルタリングの対象とされてしまうことは、発信者の表現伝達の自由や受信者の知る自由、コミュニケーションの権利に対する過度な制約となってしまい、戦後、教科書の子どもに読ませたくない部分を墨で黒く塗りつぶしていたのと同じようなことになってしまいます。
そこで、今年の4月には有害サイト認定のための第三者機関「モバイルコンテンツ審査・監視機構」が設立されました。この団体は、ただ、フィルターを掛けて読ませたくないサイトを排除するだけでなく、青少年が、知識や情報を自ら選別し、人格形成や自己実現に資するものを取得する能力を身につけられるような啓発活動や、教育プログラムやレイティング等の施策も考え、設立計画書には、青少年の発達段階に応じた主体性を確保しつつ、違法・有害情報から保護し、モバイルコンテンツの健全な発展を促進する施策を総合的に実行するためと書かれています。
また、フィルタリングソフトも販売されています。これらは、ユーザがWebページにアクセスしようとした際に、Webページの内容をチェックし、有害と思われるページへのアクセスを防止するソフトウェアです。多くのソフトでは、膨大なWeb サイトに対応するために、アクセスさせたくないページをリスト(データベース)化し、リストに該当するサイトをブロックする「ブラックリスト方式」を採用しています。
携帯電話から一般サイトの閲覧が可能になり、ネット情報がボーダレス化してきた現在、犯罪もボーダレス化してきています。ただ新しいものを避けていては子どもを守ることはできません。

投稿者 fujimori : 23:05 | コメント (4)

2008年09月08日 講演先にて

干拓

 私が小中学校の頃習った社会の内容の多くは、人間の知恵が自然をいかに開発をし、利用し、征服してきたかでした。それは、人間の歴史でもありました。動物の狩りをし、植物を採取し、自然を切り開き、農地を作り、自然を人間にとって便利なものに変えていったのです。その征服していった知恵を、進歩とか発展というように習いました。そのひとつに「干拓」がありました。
干拓とは遠浅の海や干潟、水深の浅い湖沼やその浅瀬を干拓堤防(Dike、潮受け堤防、潮受堤防)で仕切り、堤防の随所に水門を設けます。そして、仕切り内の水を動力などによって強制的に排水し、干上がらせます。または海の場合には、潮の干潮時に水門を開き、仕切り内の海水を排水し、満潮時には水門を閉じて中を干上がらせます。そして、中を陸地にして利用します。しかし、宅地にするには地盤が軟弱であるため、好ましくありません。ですから、主に農地として利用するのですが、こうしてできた土地は海面よりも低くなることが多く、塩分を含んだ土地であるため、塩分とともに水を排水する設備を作る必要があります。こうしてできた土地は、干拓地といって、水域に土砂や廃棄物等を投入して土地を造成する埋立地とは異なります。
オランダの歴史は、俗に「世界は神が作ったが、オランダはオランダ人が作った」と言われるように、海岸沿いに広がる湿地や泥炭地や干潟を埋め立てて土地を広げてきたのです。オランダ最古の堤防はローマ帝国時代に遡り、初期の干拓は11世紀から13世紀の間に始まりました。このようなオランダの干拓手法はヨーロッパ、さらに世界各地にも影響を与え、日本の干拓も、明治以降はオランダの強い影響を受けています。
日本での干拓といえば「八郎潟」が有名です。八郎潟は、秋田県にある湖で、かつては日本第二位の面積(220km²)を誇っていたのですが、大部分の水域が干拓によって陸地化されました。その干拓工事は、戦後、食糧増産を目的として行われ、20年の歳月と約852億円の費用を投じて約17,000haの干拓地が造成されました。こうしてできあがった土地に全国から公募された入植者が入植し、大潟村が発足しましたが、最終的には、米の増産を目指していたものが、減反政策によって失敗した計画とする人たちもいるようで、かえって環境の面では、湿地が無くなってしまったとも言われています。
 もうひとつ有名なのが、先週末訪れた諫早湾の干拓です。有明海で最も古い干拓は推古天皇の頃(593~629年)に開かれたものといわれています。諫早湾での干拓は江戸時代以前から行われてきたのですが、1989年より行われた「国営諫早湾干拓事業」が問題になっています。それは、そのために1997年、潮受け堤防が閉じられ、それにより、かつては「宝の海」と言われた有明海に海底への泥の沈殿、水質汚染が生じて有明海全体が死の海と化してしまったからです。有明海の干潟には、ほかには同じ九州の八代湾にしかいない貴重な「ムツゴロウ」が生息しています。
mutugoro.JPG
  この魚は、干潮時になると巣穴から這い出てきて、胸びれで這ったり、全身で飛び跳ねて移動し、逃げる時はカエルのように素早く連続ジャンプします。肉は柔らかくて脂肪が多いので、蒲焼にすると美味しいようで、佐賀県の郷土料理の一つです。
 諫早湾の干拓が妥当かどうかの判断は難しいですが、この干拓によって、自然と共生することの難しさ、自然を壊した後にそれを復活させることの難しさを学ぶことができた気がします。

投稿者 fujimori : 22:21 | コメント (4)

2008年09月07日 講演先にて

名水

 炭酸水のブログでも書きましたが、日本の水は、暑いときなど、ごくごくと飲むときに本当に美味しいと思います。特に美味しい水といわれているものは、「湧き水や井戸水のように地層中を通過した天然の水で、有害な成分を含まない、バランスのとれた適度のミララル成分からなる水」といわれています。特に「適度なミネラル成分」というのがなかなか微妙です。ミネラル成分とは、カルシュウム・マグネシュウム・ナトリウム・カリウムなどで、多すぎても少なすぎても美味しいとは言えず、軟水に馴染む日本人に美味しく飲めるのは100mg/?程度のミネラルが必要だといわれています。このほかに遊離炭酸(炭酸ガス)も適度に溶けていると、新鮮で爽やかな味がします。そして、過マンガン酸カリウム消費量・臭気度・残留塩素・鉄分などは少ないほどよいとされています。また、おいしいとされる水温は、体温より20~25℃低い10~15℃が適温とされています。
こんなにおいしいと思えるための条件が微妙で、しかも、その国によって美味しいと感じる基準が少しずつ異なっているのに、天然水は、それが揃っているのです。水も「地産地消」がいいのですね。その国で湧き出てくる水が、その国民にとっては美味しくかんじつ配合になっているのです。その中で、日本の水は軟水が多く、アメリカやヨーロッパの水は硬水が多いようです。軟水は、カルシュウムとマグネシュウムの合計が100mg/?以下の水で、味は淡白で"こく"のない水のことを言い、炊飯や和風だしをとるなど日本料理全般、そして緑茶をいれたりするのに適しています。一方、硬水は、カルシュウムとマグネシュウムの合計が200mg/?以上の水で、硬くて鈍い"しつこい"味のする水といわれており、スポーツ後のミネラル補給や妊産婦のカルシウム補給、そして便秘解消やダイエットにも役立つといわれています。いかにも、それぞれの国に適している気がします。
 以前、ブログで「熊本名水百選」を取り上げましたが、日本全国では、1985年環境庁によって全国各地の湧水や河川の中から100ヵ所が「名水百選」として選ばれました。全国各地には、「名水」として、古くから引き継がれているものが多くあります。そして、それらは、古くから生活形態、水利用等において水質保全のための社会的配慮が払われてきました。その名水を保存していこうというものです。
 この百選には東京から選ばれたところもあります。
masugata.JPG
ブログでも書いた「お鷹の道・真姿の池湧水群」や「御岳渓流」です。先週末、長崎県で選出されている北高来郡高来町「轟渓流」に連れて行ってもらいました。
meisuitodoroki.JPG
ここは、有明海に近い宇土半島の付け根に位置し、深く木に囲まれた中に豊富で清涼な湧水が湧出ています。また、境川の上流部にあたり、「轟の滝」をはじめとして大小30の滝があり、遊歩道を歩くと渓流脇の奇岩が目に引きます。
todorokitaki.JPG
ここは、現在も使われている日本最古のものといわれ、江戸時代に作られた上水道の水源であり、ここから流れ出る水は、かんがい用水路(洗川)となり、そこには洗い場が設けられ、生活用水として利用されています。地区住民、特に婦人会を中心に水質保全活動が行われているそうです。
水量は1日あたり6150立法メートルの流量があり、水質は軟水で水温は1年を通して14℃を保っている水を使った流しそうめんを、轟の滝の音を聞きながら、その水で育てられた虹鱒の塩焼きをかじりながらいただきました。そして、その水のかき氷を食後にいただき、暑い日ざしが涼しく感じられた昼下がりでした。
somennagasi.JPG

投稿者 fujimori : 20:27 | コメント (4)

2008年09月06日 近頃思うこと

男女の割合

 保育の世界では、圧倒的に女性が多いのですが、世界の各文明における女性の政治的地位は男性に比べてかなり低く、女性が政治に参与することがあっても、そのほとんどは世襲・血縁による場合でした。しかし、20世紀になり、人間の自由・平等性に基づいて女性の社会進出が盛んになると、当然、女性の政治への参加が増えてきました。20世紀後期になると、欧米諸国では、女性政治家の存在は極めて自然のことになりつつあります。
 現在、現職で国の大統領か首相になっている女性といえば、まず思い出すのは、ドイツのアンゲラ・メルケル連邦首相です。彼女は、世界から期待される存在でしたが、実績はどうでしょうか。そのほかにもアイルランドでは、メアリー・マッカリース大統領ですし、ニュージーランドは、ヘレン・クラーク首相です。アジアでもフィリピンがグロリア・アロヨ大統領という女性です。ほかにも、ウクライナやアルゼンチンやチリでは女性の大統領か首相です。
 昨年、7月にインド大統領選挙の開票が行われました。そして、プラティバ・パティル候補が、対立候補に大差をつけて勝利しました。インド初となる女性大統領が誕生したのです。インドといえば、男尊女卑が根深く残っている国という印象が強くありますが、実は女性が国会議員や企業の管理職に占める割合などでは日本を上回っているそうです。しかも、初の女性首相は1966年に就任したインディラ・ガンディーであることは有名ですね。ちなみに、世界初の女性の首相が誕生したのは、1960年に首相であった夫が暗殺された後、未亡人となったシリマヴォ・バンダラナイケが政界に身を転じ、世界初の女性首相になりました。彼女は、国名を「セイロン」から「スリランカ」に変更したことでも有名です。
 日本では、今回女性の総理大臣が誕生するか分かりませんが、国会議員は増えてきました。日本の女性衆議院議員の割合は、1990年代は、たった1~2%台であったのが、2000年あたりから7~8%台くらいまで増えており、参議院議員の割合では、2007年には、17.4%にまでなっています。それでも欧米諸国からするとかなり少ないようです。それは、欧米諸国では女性が多く選ばれたというだけでなく、女性の進出を担保するため、クォーター制を採用している国があるからです。このクォーター制の発祥地はノルウェーです。オスロ大学の教授でノルウェー左派社会党の党首を務めたベリット・オースが、新政党設立の際に党首就任を承諾する条件として、かねてより論じていたこのような制度の採用を提示したのが始まりです。産業革命によって農村地域から都市地域へと人口が大移動した際に、農村地域の代表を確保するために実施されていた「地域」割り当て制を「男女」にも適用しようとしたのです。そして、1986年に、グロ・ハーレム・ブルントラント首相と共に4割以上の閣僚が女性という「女の内閣」が誕生したのです。
 また、フランスでは国会議員を男女同数にする仕組みになっています。本来は、割合をきめることではなく、その人の能力・実績が問われるべきなのでしょうが、どうしてもどちらかの性が優位の傾向が強い職種では、割合を決めざるを得ないのでしょうね。
 保育の世界も、どうしても試験内容などで女性が優位になってしまう世界ですので、男女の割合をきめたほうがいいかもしれません。同時に、男女ともこの職種が全うできる処遇も考えて欲しいと思います。

投稿者 fujimori : 22:41 | コメント (4)

2008年09月05日 近頃思うこと

男女チーム

 先日、園に栄養士大学から見学者が25名余りありました。園内の3,4,5歳児クラス内を見ていたときです、ある4歳児の子が、「わあ、女ばっかり。気持ち悪い!」と言ったのです。確かに私の園には、男性職員が三分の一います。ですから、どのクラスにも常に男女がいます。調理室にも、4人のうち一人は男性です。また、最近、園への送り迎えは父親が多くなりました。統計は採っていませんが、職員に男性が多いせいか、私の園では三分の一以上は父親の気がします。子どもたちは、そんな生活の中で、全員女性ばかりの団体は異様に思えたのでしょう。しかし、たぶん、世界の保育園のほとんどは、まだ、女性ばかりというところが多いでしょうね。
 しかし、この子どもたちは例えば国会に連れて行ったとすれば、「わあ、男性ばっかり!」というかもしれません。日本では、まだまだ国会議員は男性が多いようです。今、福田が総裁を辞めて誰が次の候補になるかもめていますが、女性がなる可能性はあるのでしょうか。同様に、今回、アメリカでは、女性の大統領が初めて誕生するかと思ったのですが、今のところどうも初めての黒人がなりそうですね。
職業によって、男女比は違うようですが、それは本当にその性のほうが向いている場合と、刷り込みや、ある意図からどちらかの性に偏っている場合があるような気がします。文部科学省の学校基本調査(06年度)によると、大学の全学部合計の女子学生比率は40%ですが、理学部をみると女子は27%、工学部は9%、理工学部は12%にとどまるそうです。それが、いくら理系分野でも農学部では39%、医学部は47%、薬学部だと55%と次第に女子の比率が増えてきます。文系では、文学部になると、女子が67%、外国語学部は67%、社会学部は47%となっているそうです。
 また、大学を卒業しての進学率(卒業者のうち大学院等への進学者及び就職し,かつ進学した者の占める比率)は男子14.7%に対して女子7.6%で、就職率(卒業者数のうち就職者総数の占める比率)は、男子53.1%に対して女子59.7%です。就職者総数を産業別の男女差を見てみると、男子は「卸売・小売業」21.2%、「製造業」19.5%、「サービス業(他に分類されないもの)」12.9%等の順となっており、女子は「卸売・小売業」17.8%、「医療・福祉」15.0%、「サービス業(他に分類されないもの)」13.7%等の順となっています。職業別に男女差を見てみると、男子は「専門的・技術的職業従事者」32.4%(うち技術者24.4%,教員2.4%等)、「事務従事者」27.6%、「販売従事者」27.1%等の順となっており、女子は「事務従事者」40.6%,「専門的・技術的職業従事者」32.9%(うち技術者6.9%,教員6.6%等)、「販売従事者」17.9%等の順となっています。
 大学進学率や職業別男女比が最終的にどのくらいが適当かは分かりませんが、まあ、男女差というよりは、個人差で見たときに、どちらのほうの割合が多くなるかでしょうね。しかし、それは、社会的刷り込みによって、処遇が偏っていたり、入学試験問題や、就職問題の内容が偏ってどちらかの性が有利になっている場合もあるでしょう。そういう意味では、保育の仕事には国民だけでなく、国による偏見がまだまだありますね。母親の代わりではなく、小・中学校以上に次世代を作る大切な仕事だと思うのですが。

投稿者 fujimori : 23:04 | コメント (4)

2008年09月04日 近頃思うこと

チーム

人生の哲学書ともいえる「淮南子」の兵略訓でこんな言葉を言っています。「千人心を同じくすれば、則ち千人の力を得、万人心を異にすれば、則ち一人の用無し」(千人が心を一つにすれば、千人分の力が得られるが、万人がいても心がバラバラであれば、一人分の役にも立たない)ということばです。この言葉は「兵略訓」の中にあるので、戦うときの考え方でしょうが、その表している意味は深いものがあるような気がします。
この言葉を素直に取ると、昔から言われるような「みんなの力を合わせると大きな力になる」と言うことを言いたいのでしょうか。確かに重いものを持ち上げるときにみんなの力を合わせれば重いものでも持ち上げることができるでしょう。しかし、ひとつの組織の中にいるとき、社会を形成していくときに力を合わせるということはどういうことなのでしょうか。ここで言いたいのは、みんな同じくするものは「心」であって、逆に心がみんな違えばいくら力を合わせても一人分にもならないと言うことなのでしょう。
ここで言う「心」とは、「志」とか「理念」とかであり、同じ理念の下、それぞれが自分ながらの力を出し、それを集めてこそ大きな力になるのだということいっている気がします。それは、「淮南子」の「職分論」の中でこういっています。
 「湯王武王は聖主である。しかし越人のように小舟で江湖を渡ることはできない。伊尹は賢相であるが胡人のように野生馬に騎乗することはできない。孔墨は博学であるが山人のように険阻な地に入ることはできない。これによって見れば、人知のものに対応できるところは浅い」自分の能力だけでは、いくらその力は大きくても天下を治めることはできず、ましてや世界を照らすことなどはできないのです。この淮南子では、それができるのは、「道の条理」であると言い、「人の君主で廟堂を下らないで世界の外まで知ることができるのは物によって物を知り、人によって人を知るからである」と言っています。それで人々の力を積み上げれば勝てないことはなく、衆人のそれぞれの知を用いてなすことに、できないことはないと言うのです。
「それぞれの知」という「衆人の能才を用いること」をこうたとえています。
「駿馬は一日に千里に至る。それでも兎を捕えさせれば狼に及ばない。技能が異なるからだ。ミミズクは夜蛾を捕る、毛先を分けるほどの視力だが、昼間は丘を見分ることもできない。性が異なるからだ。蛇は霧の中で動き、龍は雲に乗って上がり、サルは木の上で跳ね、魚は水を得て素速い。また車を作る時、漆を塗る者は描かない、彫る者は削らない。それで職人に二技なく士は官を兼ねない。各々その職を守り相乱さず、人の的を得て仕事がやり易い。こうだから、機械に狂いなく、職務に支障がない。職責少なければおぎないやすく、守りやすく、任務が軽ければ計りやすい。お上が簡約省力に分かつように操作し、下々はやりやすく効果を上げる。そこで君臣共に久しく疲れない」
この考え方は「韓非子」で言うような「職分」を言っているのではありません。「人の的を得て」ということで、自分の得意とするところ、自分を生かすことを見つけ、それぞれが分担し、それぞれの立場から補い合うことでそれぞれの負担が軽くなり、より成果が上がるのだということを説いているのです。
集団でのチームワークのあり方を考えるうえでのヒントになりますね。

投稿者 fujimori : 23:22 | コメント (4)

2008年09月03日 近頃思うこと

塞翁が馬2

「塞翁が馬」に見られる考えかたは、人生はどうなるかわからないので、それを受け容れていくしかないというような消極的な気持ちのように思えますが、実はそこには違うメッセージがあるのです。
この「淮南子」には、もうひとつ同じ趣旨の逸話があります。馬と対比して、牛にまつわる逸話です。
昔、宋の人で善を好み、3代にわたって怠ることがありませんでした。その者の家で、理由もなく黒い牛が白い子牛(白犢)を生みました。そこで先生に質問したところ、「これは吉祥です。鬼神に捧げなさい」と言われました。それから一年たって、その家の父親が理由もなく目が見えなくなってしまいました。そして、また牛が白い子牛を生みました。父親はまた息子を先生のところにやって質問させようとしました。すると息子は、「前にあの先生の言うことを聞いて失明してしまった。また尋ねるのはどうだろうか」と答えましたが、父親は「聖人の言葉は、最初は合っていないようであっても、後で合ってくるものだ。これはまだ結果が出てしまったわけではない。とにかく行ってまた尋ねてみなさい」と言います。そこで息子は、また先生に聞いてみると、「これは吉祥です。また鬼神に捧げなさい」と言います。帰ってきて父親にそのことを言うと、先生の言うとおりにしなさいと言うことでその言葉に従います。それからまた一年たって、今度は息子の方が理由もなく目が見えなくなってしまいます。その後、楚の国が宋の国を攻めて城を包囲しました。そのとき、壮年の者は死に、老人・病人・童子は城に上って固く守り、下りてきませんでした。それを楚王は大いに怒り、落城させたときには城を守っていた者すべてを殺してしまいました。しかし、例の親子だけは、目が見えないために城に行かずにすんだので命は助かりました。その後、軍の包囲が解けたとき、この父子の目は再び見えるようになったということです。
この逸話も「塞翁が馬」同様に、禍は福に転じることがあり、その禍福は、お互いに生じるものであるのでその変化は理解しがたいということを言っています。しかし、この二つの話は禍福がただ転換することや、人生の偶然性を指しているわけではないようです。「淮南子」の本意は、「人間訓」の書き出しの一部に、こんなことが書かれています。
「それ禍の来るや、人自らこれを生ず。福の来たるや、人自らこれを生ず」
災いや福が来るのは、偶然ではなく、皆人間が自ら招くものだといっているのです。「淮南子」のほかのところで、おなじ「人間訓」には、「禍と福とは門をおなじくす。利と害とは隣を為す」とありますし、「説林訓」には、「禍の中に福あり」とあるように「禍転じて福となす」というような無為自然ではなく、運命に打ち勝つという気概が見えます。
夏が終わり、そろそろ秋を感じる季節になってきました。「説山訓」には、こんな言葉もあります。「見一葉落、而知歳之将暮、睹瓶中之冰、而知天下之寒」一葉落ちて天下の秋を知るといわれているもので、桐の葉が一枚落ちるのを見て秋が来たのを知るという意味です。変化はなかなか読み解くことは難しいですが、僅かな現象を見て、その大勢や将来を予知することはできます。最近の青少年の事件を見て、今後の教育を考えていかなければならないでしょう。

投稿者 fujimori : 23:20 | コメント (4)

2008年09月02日 近頃思うこと

塞翁が馬1

幸と見えて災いになることがあり、逆に災いだと思っていたことが幸となることがあります。そんなことを「人間万事塞翁が馬」ということがあります。これは中学時代に習った人も多いと思いますが、「人生は吉凶・禍福が予測できないことのたとえ」です。「塞翁が馬」の逸話は中国の古い書物「淮南子(えなんじ)」という書物に書かれています。この「淮南子」は、前漢の武帝の頃、前漢の創始者劉邦の孫に当る淮南王であった劉安が学者を集めて編纂させた哲学書です。その内容は複雑多様、諸子百家から戦国的自由思想の伝統、また、処世や政治、天文や神話伝説まで集合されていて、百科全書的な書物で、全体の基調は老荘的なものに貫かれ手はいますが、一人の人物が書いたような思想の一貫性がありません。ですから、中国古代の思想は、儒家(孔子)、道家(老子)、法家(韓非子)、兵家(孫子)など九家に分類されますが、淮南子は雑家という分類に入ります。
「人間万事塞翁が馬」という言葉は、この淮南子の人間訓という篇を典拠としています。この篇は、「にんげん」について書かれているのではなく、人間を「じんかん」と読んで、「世の中、世間」のことについて書かれており、この故事では「とかく世の中は、~」という意味です。塞翁が馬のエピソードは、国境の城塞(とりで=砦)に住む、戦に駆り出されるぐらいの年齢の息子を持った父親と近隣の人とで交わされる会話です。
 辺境の砦の近くに、占いの術に長(た)けた者がいました。さらに北には胡という異民族が住んでおり、国境には城塞がありました。ある時その人の馬が、どうしたことか北方の異民族の地へと逃げ出してしまいました。この辺の北の地方の馬は良い馬が多く、高く売れるので近所の人々は気の毒がって慰めると、その人は「これがどうして福とならないと言えようか」と言いました。数ヶ月たった頃、その馬が異民族の地から駿馬を引き連れて帰って来た。人々がお祝いを言うと、その人は「これがどうして禍をもたらさないと言えようか」と言いました。やがてその人の家には、良馬が増え、その人の子は乗馬を好むようになりましたが、馬から落ちて股の骨を折ってしまいました。人々がお見舞いを述べると、その人は「これがどうして福をもたらさないと言えよう」と言いました。一年が過ぎる頃、砦に異民族が攻め寄せて来ました。成人している男子は弓を引いて戦い、砦のそばに住んでいた者は、十人のうち九人までが戦死してしまいました。しかし、その人の息子は足が不自由だったために戦争に駆り出されずにすみ、父とともに生きながらえる事ができたのです。このように、福は禍となり、禍は福となるという変化は深淵で、見極める事はできないのである。
この時代は、漢族の力は強大で、無敵でしたが、それでも周辺の異民族の圧力に頭を悩まされる事も多かったようです。中国ではどの時代でも昔から、異民族との紛争は絶える事がありませんでした。危険の絶えない時代だからこそ運不運に一喜一憂せず、様々な出来事をあるがままに受け入れるしかなかったのかもしれません。
今年はゲリラ豪雨が襲い、福田が突然総理を辞任するなど天災や人災など自分たちではどうすることもできない出来事が次々と降りかかってきます。塞翁が馬のような言葉が多くあるのは、昔からいかに人々が自然や政治に翻弄され続けてきたかが分かります。しかし、この言葉には、人生に対する消極的な意味ではない強さを感じます。そんな教えが、どうも「淮南子」にはあるようです。

投稿者 fujimori : 22:34 | コメント (4)

2008年09月01日 講演先にて

何が幸い

 物事は、先のことはわからず、何がよいのか悪いのかも判断が難しいものです。失敗というときのブログでも書きましたが、そのときは失敗のように思えても、それが、かえって成功への近道であったりします。特に、子どもにとって何がいいのかということも、子どもは将来が長い分だけ、先の短い大人より判断が難しくなります。
 先日訪れた熊本県山鹿市に、「八千代座」とう国の重要文化財に指定されている芝居小屋があります。当時全国には何千という芝居小屋があったそうですが、現在残っているのは20余りで、そのうちのひとつです。芝居小屋というのは、人が多く集まる場所に建てられることが多いために、利用されなくなるとすぐに取り壊され、別な建物に建て替えられてしまうことが多いのです。また、当時は特に貴重な建物という意識はなく、かえって古くなると危険な建物となってしまうのでなおさら保存しようとは思いません。それなのに何で山鹿に残っているかというと、八千代座で説明している人が、「町が衰退していったことが、幸いしたのかもしれません」と言っていました。
yatiyoza.JPG
 ここ山鹿市は、昨日のブログでも書きましたが、江戸時代から付近を流れる菊池川を利用した水陸交通の要衝として、関西などとの水運が活発で、商工業の中心的都市として栄え、さらに県内屈指の温泉場を核とする観光地としても有名でした。熊本県内では熊本に市に次ぐ第2の都市だったのです。また、それ以前の江戸時代も、市内の豊前街道は参勤交代のルートとして、宿場町としても栄えていた地域でもありました。そんな場所だからこそ、明治43年、当地の裕福な旦那衆によって「八千代座」が作られたのです。
しかし、昭和30年ころになると、映画の時代となり芝居興行が下火になります。そこで、この八千代座でも映画館としても営業しますが、他の映画館に比べて、この八千代座は経営の行き詰まりから、畳に座る升席の構造を椅子に座るように改修しませんでしたので、それは映画鑑賞においては不評で、客足が遠のいてしまいます。しかし、これが、かえって升席をそのまま残すことになるのです。さらに、テレビの時代になると、映画も下火になり、結局八千代座も昭和40年代には経営不振となり閉鎖されてしまいます。
 その後、建物は朽ちはて、人々から「お化け屋敷」と呼ばれるほどひどい状況になっていきました。その頃山鹿市は交通手段が水路から陸路に変わると、ますます便が悪く、土地としての賑わいが一気になくなってしまいます。ですから、八千代座を解体して跡地にショッピングセンターを作ろう、という話も持ち上がりますが実現しませんでした。ますますさびれ、そのままに放置されていきます。時代が変わってくると、そのままに残されていることが幸いし、過去の文化遺産として、その建物は貴重になってきます。その後、昔を知っているお年寄りを中心に保存運動が起き、昭和63年に国の重要文化財にも指定され、改築が施され、平成元年から一般公開されることになったのです。
yatiyozanai.JPG
それにもまして、この芝居小屋が全国から注目を浴びるようになった出来事が起きます。八千代座復興を願う女性カメラマンが、たまたま建物の資料を歌舞伎役者の坂東玉三郎に送ったことがきっかけで、平成2年から「玉三郎舞踏公演」が始まったのです。この公演がきっかけで、使用可能になるように大修理を行い、その後、八千代座は「玉三郎が来る芝居小屋」として全国に名が知られるようになったのです。今年も10月に公演があるそうです。
もちろん、こうなるには様々な人の努力があるのですが、同時に時代や歴史における逆境は、いつそれが福となるかわからないものだということを教えてくれます。

投稿者 fujimori : 22:34 | コメント (4)