与える喜び

このブログを始める前にある特定のメンバーのためにメールマガジンを書いていたことがありました。それは、一部の閉じられたメンバーだけで購読できるものでしたので、今読み返してみて、それ以後考えたことを付け加えると面白い内容のものがいくつかあるので紹介します。
2003年7月5日の「新しい仲間」という内容です。
「私のセミナーでの仲間や、ドイツツアーの仲間は、みんなとてもいい仲間です。この中から、今までの、地域の園長会や、保育団体とは違った、新たな団体のありようが見えてきます。この仲間は、あくまでも、子どもを大切にしよう、子どもを中心に据えようという、共通の意識があります。もちろん、どの保育者も、他の団体も、子どもを大切にしようとすることには異論がないでしょうが、なんだか少し違う気がします。しかし、この仲間の発言は、みんな頷くことばかりです。同じように考える人がほかにもいるかもしれません。幼稚園にも、学校にも、もしかしたら認可外施設にも、NPOの中にもいるはずです。結局は、「善い園」と「悪い園」と分けるべきかもしれません。そんな観点から、一つの団体を作りました。「ギビングツリー(GT)」がそれです。」
この会の名前の由来はもちろん主に「The Giving Tree(おおきな木)」(作・絵:シェル・シルヴァスタイン)という絵本から採ったものです。
この絵本の日本語の翻訳作品には、あらすじがこう書かれてあります。「昔、りんごの木があって、かわいいちびっこと仲良しでした。ちびっこは木と遊び、木が大好きで、だから木もとてもうれしかったのです。時は流れ、ちびっこだったぼうやは成長して大人になっていき、木に会いに来なくなります。ある日、大きくなったぼうやが木のところへやってきます。木は昔のように遊んでおいきと言いますが、ぼうやは言います。「かいものが してみたい。だから おかねが ほしいんだ。 おこづかいを くれるかい。」木は困りましたが、りんごの実をすべて与えます。大人になったぼうやは家を欲しがり、木はその枝を与えます。年老いたぼうやは船を欲しがり、木はついにその幹を与え、切り株になってしまいます・・・」
この絵本の最後は、人生に疲れ果てた老人になった少年は、ひざの高さほどの切り株に腰をおろして、少し安堵します。しかし、木はそれで満足します。
この絵本について、9月12日朝日新聞(夕刊)に「絵本の記憶」という連載に作家の鈴木光司さんが「与えること喜び」というタイトルでこの絵本を取り上げていました。
「ひたすら与えることに喜びを得るというのは、愛のレベルとして、最高度のものだ。まったく見返りを期待しないで、人に尽くせるかどうか、自分の心に問うてみれば、その難しさがわかる。親の、子に対する愛だけ、かな。」
 GIVE は、「与える」という意味ですが、その中には「与える一方」という意味もあるようです。しかも、それに進行形の「ing」がついているわけですから「与え続ける木」という意味になります。そして、その木は原文の最初の文で「Once there was a tree and she loved a little boy」といっているように女性名詞で書かれています。
やはり、最高度の愛は、子どもに与え続ける母親の愛かもしれません。

一服

2005年に私はある雑誌でホームページについて1年間連載をしたことがあります。その中の最後に近い号で「どんどん進歩するホームページ!」という記事を書きました。そのときの記事の抜粋です。
「ホームページは、たった十数年の間に、飛躍的に進歩し、一般に広がってきました。複数の文書や、関連した画像が簡単に見られるようにジャンプしたり、動画が見られるようになったりしました。それを、携帯電話からも見ることができるようになりましたし、それぞれの携帯電話から操作もできるようになりました。園で過ごすわが子の映像を携帯電話で見たり、操作して、見る位置を変えたり、大きく写したりもできます。また、テレビなどと違って、見ている人が書き込めるような掲示板ができたり、設置者への手紙が書けたりできるように双方向の情報のやり取りが可能となりました。それと同時に、ブログということが行われるようになりました。これは、ウェブログ(web log)の略で、個人運営で日々更新される日記的なウェブサイトの総称です。一般的には、単なる日記サイト(著者の行動記録)ではなく、ネットで見つけた面白いニュース記事やウェブサイトへのリンクを張り、そこに自分の評論を書き加えた記事が時系列に配置されているものを言いますが、厳密な定義はありません。」
このブログが、ホームページにこれが掲載されるようになると、単にしおりのようなものから、内容的には思想信条などの意見のほか、趣味的な見解、身辺雑記、読者からの反応などがあり、個々の記事にはそのオリジナル性が強くなり、複数者間の意見交換を目的とする掲示板と異なり、情報発信者(通常は個人)が意見表明することが主たる目的となるのではないかということを書きました。そんなブログを私も書き始め、続けているうちに思いがけず長く続いています。それは、意外と自分では余り重くないからということもあります。(読んでいる皆さんは、重いかもしれませんが)そんな気もちを音楽プロデューサーの松任谷正隆さんが今日、朝日新聞の「どらく」通信で書いていました。
「ブログの軽さは、コンピューターの向こう側にいるであろう人たちの、コンピューターに向かう軽さでもある。コンピューターはコミュニケーションを根本から変えた、とつくづく思う。だから、ブログの感想とかを読むときも、実に気軽に返してくれているのが気分いい。ときどき、なんだか重いリアクションがあると、なんとも変な気持ちになる。これは軽いメディアなんだぞ、と言いたくなる。
そんなこんなしていくうちに、ブログは僕の生活のリズムの中に組み入れられてしまった。まるで、喫煙者がタバコを吸うみたいに、ふらふらっとコンピューターの前に座ってはなにやら書き始める。一瞬の涼を得ると、また仕事に戻っていく。多くの人たちもこのようにブログに接しているのだろうか。このコラムを書き終えたら仕事に戻って、そしてちょっと疲れたらブログを書こうと思う。ブログがやめたら、僕はいったいどうやって一服をすればよいのだろうか……。」
 彼は私と違って、もっと気楽にブログを書いているようです。ですから、1日に最低でも4回くらいは新しいものを載せています。「面白そうな話題を読み物として書く。書くのも楽しい。この楽しさはどこから来るかといえば、このメディア特有の軽さ、なんじゃないだろうか。」
彼のようなブログも書けたらいいなあと思うこのごろですが、書く楽しさは私も変わりません。

伝承遊び

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 園の中の3、4、5歳児の保育室内に「伝承遊びゾーン」があります。そこには、子どもが子ども集団の中で古くから受け継いできた遊び道具が置いてあります。なぜ、伝承遊びの道具が置いてあるのかというと、伝承遊びといわれる遊びは、個人的に楽しむものや一人二人と徐々に仲間を増やして楽しむもの、大勢でいっしょに楽しむものなど様々な遊びがありますが、そのどれもが、遊びながら他の子どもとの関わり、他者との関係性を構築することによって、他者への理解、社会的ルール、コミュニケーションの能力などが育っていくことで、社会性が養われていきます。また、数的概念や科学的体験が入っていたり、問題解決能力や洞察力、忍耐力などが養われていきます。
そのほかにも伝承遊びのよさにはこんなことがあると言われています。まず、手や足や身体を直接使って楽しめるものが多くあります。いわば、手足を使うことによって、脳が刺激されるのです。つぎに、歌やリズムに合わせて遊ぶものが多く、リズムの楽しさを味わうだけでなく、遊んでいる子の周りのムードも楽しくなり、周りの子を仲間に入れていく効果があります。次に、遊びがとてもシンプルな物が多く、しかも、遊びの技術が次第に高度に発展していくものが多いので、同じ遊びを長く続けていても飽きることなく、チャレンジする楽しみがあります。さらに、伝承遊びというのは、長いあいだ子どもの世界で受け入れられて来たために、子どもの興味関心、発達にマッチしたものであり、また、危険性などについても長い間の実証があるので安心です。
園にある伝承遊びは主に室内遊びが多いのですが、「あやとり、折り紙、だるまおとし、糸でんわ、お手玉、はねつき、おはじき、こままわし、めんこ、けん玉」などが置かれています。
これらので伝承遊びは古くから日本で遊ばれているものなので、よく外国の幼児施設への訪問の際のお土産にする場合が多くあります。しかし、実際はその遊びのルーツは外国のものであることのほうが多いようです。今週末に訪れた長崎の宿に「長崎こと初めて」という展示が廊下にされており、その中に「けん玉」がありました。
けん玉は、江戸時代中期にシルクロードを通って、唯一、外国に開かれていた長崎に入ってきたとされています。もともと、ワイングラスと毛糸球やシカの角と木製の玉など2つのものを糸または紐で結び、一方を引き上げたり振ったりして、もう一方に乗せるとか穴を突起物にはめるような玩具は昔から世界中に存在していました。日本にけん玉が入ってきたときには、鹿の角に穴をあけた玉を結びつけた形のけん玉でした。しかし、このけん玉は、子どもの遊びではありませんでした。大人の酒の席での遊びでした。もし失敗したら酒を飲まされたという遊びだったようです。
それが、子どもの教育玩具となったの は明治9年に文部省発行の児童教育解説書に「盃および玉」という題で発表されてからです。そして、大正7年、従来のけん先と皿1つで構成された「けんに鼓」をヒントに、皿胴を組み合わせた「日月ボール」(または「明治ボール」)を広島県の江草濱次さんという人が発明し、現在のけん玉の形がほぼ完成しました。そして、1977年「けん玉ルネッサンス」といわれる爆発的な大流行となったのです。
新しいものに飛びつきやすいですが、長いあいだ人気のあるものにはそれなりの理由があるものです。

情報2

 戦争中は、敵に情報が漏れないようにするために暗号を使っていましたが、平和の時代になれば暗号など入らなくなると思いますが、実は最近は暗号を頻繁に使うようになっています。しかも戦争中は一部の人だけが使っていましたが、現代では、すべての人が暗号を使います。それは個人の情報が他人に漏れないようにしたり、本人であることの確認に使われる「パスワード」といわれるものです。
 いま、何を操作するにもパスワードが必要なので設定をしますが、誰でも思いつくような覚えやすい文字列でパスワードを設定することは避けるようにすべきだと言われていますので、本来はランダムな文字列の羅列にし、かつ文字数を多くするのがいいのでしょうが、そうすると自分自身で覚えるのが大変になってしまい、逆に忘れないようにとメモに記録すると、今度はそれをどこにしまっておこうかと悩んでしまいます。また、あとで忘れることも多く、困った思いも何度かしています。
近年発生しているクレジットカードやキャッシュカード窃盗やスキミング等の事件に於いては、日本ではじつに57%が生年月日を入力されて現金を引き出されているそうです。他にも、自動車のナンバーや電話番号、他人に容易に類推できる情報や一般的な単語1語、関連のある単語同士を繋げたもの、キーボードの配列そのまま、同じ数字4桁(「0000」など)や、連続する数字(「0123」など)、自分の好きなものや家族や恋人の名前など、他人によく知れ渡っているものをそのまま使うなどは避けたほうがいいといわれています。
パスワードのなかで、金融機関のATMや携帯電話の本人確認で利用されるものは、数字のみで構成されていますが、このような文字列を暗証番号(PIN、personal identification number)といいます。このような暗証番号はわずか4桁だけしかない場合が多く、0000?9999の、せいぜい10000回試せば暗証番号を発見できることから、番号を忘れてしまった場合に全部の番号を試すソフトウェアもあります。このソフトは、自分が忘れたときだけでなく、他人が調べるときにも使えますので、定期的にパスワードを変更する事で、たとえ盗難にあってもすぐに無効化できるため、任意のパスワードを設定できる所では、定期的なパスワード変更が推奨されています。そのために、最近では現金自動預け払い機でも、その場の機械操作だけで暗証番号が変更できるようになっているものもあります。しかし、その場合は変更前のパスワードを覚えていないと変更することができませんので、忘れたから新たにっ設定しようとしてもダメでがっかりすることがあります。
高いセキュリティが必要なシステムで使われる文字列の長さが数十文字以上と長いパスワードのことを特にパスフレーズと呼びます。また、多くのシステムでは、パスワードに用いることのできる文字はアルファベット26文字か52文字(大文字・小文字が区別される場合)、アラビア数字10文字、「+-/!”#|_」などの記号を使うことができます。
 昔の暗号解読のように、パスワードやクレジットカードの番号を入手することで、他人になりすましてさまざまな利益が得られることから、パスワードを発見しようとする人がおり、それができるようなソフトも開発され、また、探られないようなシステムを作ったりといたちごっこです。日本では武力戦争は終わったかのように見えますが、正義と悪の戦いは人間の宿命でしょうか。

暗号1

沖縄で、旧海軍司令部壕を訪れました。この壕は、1944年12月海軍設営隊によって掘られたもので、ここに海軍の沖縄方面根拠地隊の司令部があった場所です。カマボコ状に掘りぬいた横穴をコンクリートと坑木で固め、全長450メートルあったといわれています。持久戦に備えて、この中に約4000人の兵士が収容されていましたので、兵士らは立ったまま眠らなければならかったそうです。しかし圧倒的な戦力を持つ米軍の進撃が続き、陸軍も南部へ撤退する中、ついに1945年6月13日、大田實司令官以下4000人の将兵はこの壕で自決を遂げます。
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戦後しばらく放置されていましたが、数回にわたる遺骨収集の後、1970年司令官室を中心に約300メートルが復元され、一般公開されています。この地下要塞の中には、司令官室、作戦室、幕僚室、通信室、暗号室、発電室などが配置されていました。この中の通信室では様々な戦況を暗号でやり取りをしていたことでしょう。
 暗号とは、元々敵味方を識別する合言葉のことで、岩戸を開けるための呪文の「開けゴマ」や赤穂浪士が出会った者が敵か味方を見分けるために言った「山」「川」などが暗号でした。そして、敵味方を判断するためから、敵にわからないように見方に情報を送るときに暗号が使われるようになります。しかし、どちらにしても暗号は戦いのときに使われる事が多くなります。暗号で有名なのは、日露戦争で使われた暗号文で、秘匿したい単語をカナ3文字に対応させたもので、最後の文はそのままでした。「ホンジツテンキセイロウナレドモナミタカシ」
 次に有名なのは、真珠湾攻撃で使われた暗号文「トラトラトラ」(我、奇襲に成功せり)とか、「ニイタカヤマノボレ1208」でしょう。しかし、情報を隠すための暗号は、当然それを敵は解読しようとするでしょう。また、スパイはそれを味方に知らせようとするでしょう。そして、作戦に関する暗号の漏れが勝敗に大きく影響しますので、とても神経質になります。
沖縄戦で敵に情報を漏らしたとして、スパイ容疑で住民が日本軍に殺害される事件が発生しました。しかし、実は日本軍の暗号が米軍に解読された結果だったということを保坂広志琉大教授が「世界」という雑誌で「沖縄戦秘史 日本軍の暗号は解読されていた」と題する研究論文を発表しました。米側資料を使い、これまで触れられなかった暗号戦に光を当て「住民スパイ説」を否定したのです。保坂教授は「仮に戦場地でスパイと呼べるものがあるとしたら、それは近代兵器と呼ばれた暗号そのものであった」と結論付けています。
しかし日本軍は、情報が傍受されたにもかかわらず「戦場心理から疑心暗鬼になり、住民にスパイ容疑や敵前逃亡の汚名を着せ、あげく住民多数を虐殺している」とし、それは、「(日本軍の)おごりと慢心が突出している」と厳しく指摘しました。「明治以来、本土の人たちの沖縄に対する差別意識が、住民スパイ説の根底に横たわっていた」と話しています。
沖縄の人たちは、日本のためにたくさんの犠牲を払い、命を投げ出し、苦しみに耐えてきました。しかし、戦争という異常な状況は身内ともいうべき人々まで疑ってしまうのですね。

ソテツ

 最近のニュースで気になるひとつが「事故米」です。この米は、「ウルグアイ・ラウンド合意に基づいて輸入されたコメの一部で、倉庫に保管中にカビが生えたり異臭が発生したりして食用に適さないと判断されたコメ」のことをいいます。ですから、この米は基本的には食用にはせず、工業用のりの原料や、灰にして建設資材に使ったりしています。しかし、同じように価格が安いために、みそ、焼酎、せんべいにしたり、飼料用、外食用に輸入する米と偽って、流してしまっているというものです。すぐには、体には影響は出ないかもしれませんが、長い間の蓄積による影響が心配されます。
もうひとつの気になるニュースが、中国で「牛乳に水を足し、増量して納入する際に、タンパク質の含有量が減るので、メラミンを混入した」というものです。この牛乳を使った粉ミルクをはじめとした乳製品による体への影響が心配されています。中国では、メラミンが混入した粉ミルクを飲んで、乳児の死亡者も出ています。
もうひとつ、育児の負担からわが子を殺害した母親です。このような事件はたびたび起きますが、殺された子どもの心境を考えると切なくなりますし、そこまで追い詰められた母親はよほどのことがあったのでしょう。
しかし、事故米にしてもメラミン混入にしても、やむにやまれずというか、時代の犠牲者というよりも、一部の人の利益を求めてのことのような気がしますし、わが子の殺害も精神的な弱さとか、それを支える昨日の欠如というような、どちらかというと人災の面もあるような気がします。
 沖縄には、表に出ている歴史や戦争の悲惨さだけでなく、様々な苦しい歴史があります。
 沖縄では、第一次世界大戦による大戦景気の恩恵を受け、特産物の砂糖で利益をあげる「砂糖成金」が生まれるほどでした。しかし、戦争バブルが崩壊し、1930年代に世界恐慌による大不況と、全国規模の農産物の不作が発生すると一時的に飢饉となり、貧家では米はおろか芋さえも口にできずに、野生のソテツの実や幹(まずいうえに猛烈な毒性があり、調理をあやまると死を招く危険もある)を食べて、ようやくにして飢えをしのぐといった悲惨な窮状がありました。そこで、大正期から昭和期の大恐慌のことを、その様子をたとえて「ソテツ地獄」とよびました。
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 もともとソテツは慶良間や久米島では17世紀頃の文献に、救荒植物としてすでに食されていたことが書かれており、少なくとも18世紀初めには食用化されていたようです。それは、このころは異常気象による大飢饉が全国的に頻発したために、凶作時の救荒植物として、畑地に適さない荒地に栽培するよう奨励されました。これらの凶作時の救荒植物は、ヒガンバナ同様、そのまま食用にできるものですと動物も食べてしまうために、飢饉用としては時間をかけてアク抜きをしないといけないものにします。しかし、ソテツ地獄の頃は、ずいぶんとそのまま食べてしまった子どももいたようです。
 また、このときに県民が陥った極度の生活難は、ソテツ地獄だけでなく、欠食児童や長欠児童の増加、子女の身売りまで行われました。このような状況は、何も沖縄だけに限りませんが、犠牲者は子どもや辺境地などまず弱者から出ます。最近の事件の犠牲者に子どもが多いのは、これからの時代への警告でしょう。

方言

 時代によって、翻弄されたものは色々とあります。そのひとつに各地に伝わる「方言」があります。各地には、その地方独特の言い回しがあったり、発音(訛り・アクセントなど)や文法や表記法など違いが見られることがあります。それぞれの地域にはそれぞれの文化があり、その文化には食や言語があります。それを、ひとつの国として包括したときに、言葉の基準を決め、それを標準語とか、共通語とか言い、そうすることによって当然それと違う言葉は「方言」と言われます。日本では、「東京方言」というものもあるものの、ほぼ東京方言を基として標準語、共通語が作られていますので、その他の地方の言葉は方言といわれ、「訛っている」「田舎の言葉」「おかしい発音」などと言われてしまいます。
標準語こそが正しい日本語であり、方言は矯正されなければならないとされた昭和30年代ごろまでは方言撲滅を目的のひとつとして標準語教育が行われました。そんな政策がその置ようの文化を壊してきた歴史があります。今回訪れた沖縄でもそれを感じました。
沖縄は、琉球王朝というひとつの文化圏をつくり、琉球諸島の言語は、「琉球語」としてひとつの「言語」として話されてきました。それが中央集権の考え方から「琉球方言」として日本語の方言に位置付けられ、それを使うことが禁止された時代があったのです。
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それは、皇民化政策といって「辺境の民」を「一人前の日本人」にするために、沖縄に伝わる歌や地名などを改められたのです。そのひとつとして言語統制が行われ、日本語標準語の公用語化や教育現場における方言や、各民族語などが禁止されました。家庭内においても標準語を使用することが奨励され、長いあいだ沖縄の歴史が否定されてきたのです。
日本語を言語学上に大まかに分類すると、本土方言と琉球方言に分けられるほど、沖縄の言葉には独特なものがあり、私は東北便を聞くよりももって外国語を聞いているくらいに難しい言葉と感じます。それは、単に訛っているとか、独特な言い回しがあるというだけでなく、音韻の違いがあるからです。日本語の母音は「あ」「い」「う」「え」「お」の5音ですが、琉球方言の母音は「あ」「い」「う」のみなのです。母音の「え」は「い」に、「お」は「う」に変化するので、「あ」「い」「う」「い」「う」となるのが、琉球方言の音韻の特徴です。たとえば、「雲」は「くも」と発音しないで「くむ」と言い、「沖縄」は「おきなわ」でえはなく、「うちなあ」というようになります。しかし「戸」(と)が「つ」になるわけではなく、母音が変わるだけですので、「とぅ」になりますし、「手(て)」は、「てぃ」になります。また、「わ」は、標準語の「わ」とは違うと言われています。はっきりした「わ」ではなく「ぅわ」という感じで言うようです。ですから、聞いていて丸みを帯びて感じます。
現在は方言に対する評価が変化し、標準語ないし共通語と方言の共存(ダイグロシア)が図られるようになりました。しかし、国家政策ではなく、テレビによる共通語の浸透、都市圏の拡大、全国的な核家族化・少子高齢化の進行、地域コミュニティの衰退による高齢層から若年層への方言伝承の機会の減少などから、伝統的な方言は急速に失われつつあるといわれています。
もう一度意識して、その地域の言語を見直し、大事にしたほうがいいかもしれません。

蛍と雪

 窓といって思い出す言葉に「蛍の光 窓の雪」がありますが、この歌にまつわる思い出は、人それぞれが違うでしょうね。少し年配の人は、「蛍雪の功」といって一生懸命に勉学に励むことによって、報われ、後に「功」をなすといわれてきました。また、もう少し若くなると「蛍雪時代」という受験時代にお世話になった雑誌を思い浮かべるかもしれません。
 一方、歌の「蛍の光」を思う浮かべるかも知れませんが、この歌ほどその歌の持つ印象が違う歌はないくらいです。普通は卒業式に歌う歌とか、いい晦日の紅白歌合戦の最後にその年が終わるのを惜しんで別れとして歌う歌とか、学校時代の下校の合図の歌とか、パチンコ屋の閉店の合図の歌とか人によってさまざまにその曲が流れる背景を思い出すことでしょう。
この歌の原曲はよく知られているように作曲者はよくわかっていませんが、古くからスコットランドに伝わっていたものです。それをスコットランドの詩人のロバート・バーンズが、従来からの歌詞を下敷きにしつつ、現在、よく歌われるような歌詞をつけました。この歌詞が基になって各国に広まっていますので、別れを表すような歌詞が多いのです。
元の歌詞はこうなっています。「旧友は忘れていくものなのだろうか、古き昔も心から消え果てるものなのだろうか。友よ、古き昔のために、親愛のこの一杯を飲み干そうではないか。我らは互いに杯を手にし、いままさに、古き昔のため、親愛のこの一杯を飲まんとしている。我ら二人は丘を駈け、可憐な雛菊を折ったものだ。だが古き昔より時は去り、我らはよろめくばかりの距離を隔て彷徨っていた。我ら二人は日がら瀬に遊んだものだ。だが古き昔より二人を隔てた荒海は広かった。いまここに、我が親友の手がある。いまここに、我らは手をとる。いま我らは、良き友情の杯を飲み干すのだ。古き昔のために。」
旧友と再会し、思い出話をしつつ酒を酌み交わすといった内容です。この歌詞を基にして日本では、明治10年代初頭、小学唱歌集を編纂するにあたって、稲垣千頴が作詞しました。しかし、日本ではこの歌は、戦前から戦中にかけて国のために使われることになります。戦争というものは、歌とか、絵画とか、文学という芸術や文化を利用して、国民にある意識を植え付けようとするものです。この「蛍の光」では普段は歌われない3番と4番に時代が現れてきます。
「3、筑紫の極み、陸の奥、海山遠く、隔つとも、その眞心は、隔て無く、一つに尽くせ、国の為。4、千島の奥も、沖縄も、八洲の内の、守りなり、至らん国に、勲しく、努めよ我が背、恙無く。」
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この歌詞が、先週末訪れた沖縄平和祈念資料館の中の資料で4番の歌詞を文部省が、領土拡張等により何度か改変しているのを知りました。明治初期の案では、「千島の奥も 沖縄も 八洲の外の 守りなり」であったのが、千島樺太交換条約・琉球処分による領土確定を受けて「千島の奥も 沖縄も 八洲の内の 守りなり」となり、日清戦争による台湾割譲により「千島の奥も 台湾も 八洲の内の 守りなり」となり、日露戦争後「台湾の果ても 樺太も 八洲の内の 守りなり」となっています。
 時代によって祖国があちこちに変わってしまう住民はえらい迷惑ですね。また、時代によって歌詞を変えられた歌も迷惑ですね。

窓2

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「窓」は、私たちの生活には欠かせないものですが、その位置は、昔は余りこだわっていなかったように思います。朝早く起きて、日中は仕事に出かけ、夜戻ってくる生活では、もしかしたら東向きの窓のほうがいいかもしれません。目の前に良い景色があれば、そちら向きに窓があったほうがいいかもしれません。
壁にガラス面が多いと、視覚的な広がり、解放感、明るいことなどから精神的にも大きな満足感が得られますが、1995年の阪神淡路大震災で比較的新しいに関わらず崩壊した家には、南側にめいいっぱい掃きだし窓を取っているものが多くみられました。それだけでなく、最近は空調や照明に普及で、南向きの窓のデメリットが言われています。
人間の体内時計は朝日を浴びることで整えられるといわれますが、南向きの窓だけですと、浴びることができません。にはのは東向きの窓です。朝早く起き、昼間は家に居ない生活スタイルの人には南向きより東向き住戸のほうが向いているかもしれません。
 採光の点でも開口部が北向きの場合、柔らかく安定した明るさの部屋となります。デッサン室などは北向きに窓を取ります。太陽からの光は、時刻や季節、天候などの条件でさまざまに変化するため、常に快適な光が得られるとは限らないからです。また、自然採光、特に窓を用いた原始的な採光方法では、強すぎる光、望まない方向の光、あるいは紫外線など望ましくない波長の光を制御する手段をとらなければなりません。特に直射日光といわれる光は、室内で作業する者の目に負担を強いますし、強い紫外線や熱線によって、そこにいる人の皮膚や、室内の家具・内装がいたむという不具合も生じます。
ですから、様々な手段でその光を調節します。例えば、カーテンやすだれ、ブラインドなどで光をさえぎります。また、ルーバーという横に細長い板を、平行あるいは格子状に組み合わせたもので、ハンドルなどにより一斉にその向きを変えることができるもので光や風、雨などの制御を行います。また、仕方なく南側に窓を取るときは、最近では、熱線吸収ガラス、熱線反射ガラスなど特殊ガラスを使用して、熱線(赤外線)を特にカットし、室内が過剰に温まることを防いだり、すりガラスを使って透過光を均等に拡散させることで、室内のプライバシーを保護するだけでなく、室内の照度分布をゆるやかにしています。だったら、教室などでは最初から南向きの窓は避ければいいのにと思います。
採光の点では、必ずしも壁に開口部を設けるだけでなく、天窓(トップライト、頂光採光)という天井に開けた窓は、壁に設ける窓よりも採光の効率が高いとされていますし、天井付近の高い位置に鉛直方向に設けたハイサイドライト (頂側光採光) という窓は、部屋の奥まで光が届きやすくなります。また、コートヤードとも呼ばれる光庭は、建築物の内部に採光目的で設ける中庭のことです。近年では鏡面・ガラスなどの反射を巧みに利用し、奥まった場所に光を導入する技術も開発されています。
夜は窓から入る蛍の光で、冬は窓から入る雪明りで勉強した「蛍の光、窓の雪」、企業などで、役職や年季相応の仕事を与えられず、机を窓際に移される「窓際族」、なぜか分かりませんが、ズボンの前面のファスナーをさすことばの「社会の窓」、窓は様々な象徴としても使われてきました。新しい時代の「未来に開く窓」を考える必要があるかもしれません。

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 「窓」に対する考え方は、日本とヨーロッパではだいぶ違うようです。
窓の役目には大きく二つあります。ひとつは、部屋など建物内に光を取り入れる採光のためです。もうひとつは、建物内の空気をきれいにするための換気の役目です。しかし、そのために天井や壁に穴を開けるわけですから、当然その大きさには制限があります。しかし、日本の伝統的な住まいでは、木造の柱・梁など大小の軸材を直行して構成され、それによって建物を支えているわけですから開口部を大きくとることができました。これがヨーロッパに多くみられる石造りの家では、壁によって建物を支えていますので窓の大きさは制限されます。ですから、窓は小さく、室内の明るさは薄暗く、そのような生活の中で、目は青く、皮膚は白くなってきたのかもしれません。
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日本では開口部を自由にできたので、採光と換気だけでなく、様々な用途に利用してきました。そのひとつに、日本人の清潔好きから、洗濯や布団干しを、窓を使ってよく行いました。それが、窓は南向きという信仰を生んだひとつの理由です。また、窓は外の景色を眺めるという役目も持つことになります。室内という閉鎖された空間にいながら窓によって開放感や四季感を感じることができたのです。また、窓枠を額縁に例えて、外の景色を室内装飾にも利用しました。例えば茶室では、積極的にその効果を計ったつくりが多いのですが、こういった思想は茶室だけに限らず、多くの庭園を持つ建築様式では、窓から見える庭園の風景に配慮して庭の設計を行う傾向があります。
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そんな様々な要素を持つ窓ですが、私たちが健康に過ごすためにも大切な役割があります。そのために建築基準法によって最低ラインがしっかり決められています。
建築基準法では、住宅の居室には床面積の1/7以上、保育所や幼稚園の保育室、小学校、中学校、高等学校、中等教育学校の教室などは1/5以上の大きさの窓をつけるよう定めています。また、通風についても採光と同じく、建築基準法で「居室面積の1/20以上」の面積が必要と定めています。
しかし、窓の大きさは、採光や換気にはいいのですが、地震に対する耐性力や省エネルギー性、防犯性などに対してはハンデになります。また、換気にしてもただ大きいということだけでなく、通風に対する工夫が必要になります。窓を、風が通り抜けやすい位置に設けたり、腰窓・高窓と高低差を利用して通風を取りやすくするなどです。特に、学校や多くのマンションなどに見られるような外廊下型では、南側に教室や居室を設けるためにプライバシーや防犯性の観点から北側の窓を開けにくく、したがって自然の通風が得にくくなり、夏はクーラーに頼ってしまうことになります。
しかも、日本では南向きにこだわる人が多く、南側に大きく窓をとっている住戸が良い住戸とされています。ですから、日本のマンションでは同じ間取りでも住戸の向きによって価格に大きな差が出ます。学校の教室も南側に取ります。しかし、どうして南側がいいのでしょうか。
南向きの部屋は、朝や夕方に陽は直接入らないものの昼間は長時間明るく、部屋の中は暖かく、南側に物干しスペースがあれば早く乾きます。太陽の恵みを受けられるという点で大きくメリットがあるといえるでしょう。しかし、そんなメリットだけでしょうか。