本質2

保育関係、教育関係者たちにとっては、当然のようなことでも、それを人に伝えることはとても難しいことです。形は伝えられても、その本質は伝えるためには、その歴史や風土、その地域性などの背景に関係することが多いために、容易ではありません。そのひとつが、○○保育とか、△△教育といわれるものです。
 このレッジョ教育といわれるものも同様に本質を理解するのは容易ではありません。そこには、方法ではなく、ひとつの哲学があるからです。また、簡単に説明しようとすると、解説する人によって、何をポイントとするかが分かれるために、聞いた人の印象が変わってくるかです。
産経新聞には、目を引くためにこう書かれてあります。
「イタリア北部のレッジョエミリア市で行われている、0歳から6歳までの子供が集う幼児施設の美術を主体に想像力と創造力を養う教育が、世界の教育関係者やデザイナーらから注目されている」
もちろん、この記事は、刊行された書籍の紹介であるために美術を強調しています。しかし、その記事を読み進めていくと、それだけではなさそうです。「レッジョエミリア市では、子供が持つ可能性を引き出すことができる空間とは何かを、行政、教育者、デザイナーだけではなく、保護者も含め、みんなで考えています」とあります。この教育方法のひとつの特徴は、デューイ、ピアジェ、ヴィゴツキー、ブルーナーといった有名な教育学者の影響を受けて街のコミュニティー、教育者、父兄達が協力しあって子どもたちの教育に力を入れ、街の支出の12%を学費資金に充てられ「最高の教育」を目指しているという点です。ある意味では、街おこしのひとつでもあるのです。
教育内容は、確かに美術教育かもしれませんが、アトリエという作業空間は、「石や葉っぱなどさまざまな物が置かれていて、そこにあるもので自発的に何かを作り始めます。親や大人に強要されず、何をやってもいい。イマジネーションを見いだす空間です」と説明されています。それは、美術を教えるのではなく、「日本の教育では早く答えを出すことや多くのことを覚えることが評価につながります。しかし、レッジョエミリア市では、感じることや自分で考えることを重んじています。だから創作を楽しむことを幼いころから教えています」ということなのです。
ここでの「制作」は、何かを作ることが目的ではなく、制作を通して、子ども達は算数、言葉、サイエンスなどの学習もやることになり、しかも、あくまでも制作の内容や目的などは子ども達の発想によるもので、「子ども主体」であることです。そして、教師はこういった制作における過程で子ども達を観察し、よきアドバイサーとなります。決して答えを教えず、子ども達が答えに持ってけるよう言葉かけをしてゆくのです。
また、ここでアドバイスするのは教師だけではありません。このレッジョでは、混合クラスが主流で、年齢の上の子ども達は、下の子どもの世話をしてあげたり、アドバイスをします。また、年齢が違うため、「出来ない子」を仲間ハズレにすることもありませんし、「出来ない子」も劣等感を感じることもありません。
よ く知ってくると、はじめの印象と変わってきます。このようなことは、他の場合でも同じことが言えるでしょう。

本質2” への5件のコメント

  1. 自分自身、世界にある様々な保育や教育のことを正確には理解できていないと思います。誰かが取り上げたある一面から全体を把握したつもりでいるかもしれません。そんなことから考えると、保護者や地域の人たちに保育を伝えようとするとき、理解する難しさを十分に考えておかなければいけないですね。この人には理解してもらえていると思って話していると、大事な部分が伝わっていないと感じることはよくあります。何をポイントとするか、どのように伝えるかを、今までの失敗をもう一度見直し考えてみようと思います。

  2. 藤森先生の著書やお話は、何度読み返しても発見があるし 話にも「あっそれそれそのことがわたしも言いたかったの」ということがあります。何でだろうと常々おもっておりました。先生ご自身が答えを書かれていました。藤森先生の保育園を見学にいきますと パッと見にもとても魅力的です。されている保育の解説を伺うとさらに魅力は高まり できることもたくさんあるぞ まねできることからまねてみよう!っと表面的には気楽にまねもできます。しかし 形だけは 真似できても 何か行き詰まるのです。形だけのものまねからは入っても そのうち理解できてくることもあるだろうとオキラクに考えていましたが どうも違うのです。躓くのです。なんで?!少し見えてきたのが ここ数日のブログです。保育の根底に流れる哲学を伝えようとされていたのですね。その説明のために コーナー保育とか見守る保育とか わかりやすい形を提示して下さっていたのでしょう。だから どんな思いでその形を保育に取り入れたのか その根底に流れるものを見失うころに本を読んだり 話を伺うと また振り返りができたのだと思います。文章や言葉での表現を極端に苦手としているので なかなかコメントを書けませんでしたが 今回は勇気を出して書いてみました。

  3.  レッジョ教育はレッジョエミリア市全体で子どもにとって「最高の教育」を目指しているとは本当に素晴らしい活動だと思います。それが結局、町おこしとなって世界中で有名になってきているとは一石二鳥だと思いました。その教育方法も自分で製作をすることにより、他の分野への興味をつなげていくとは、日本で言うだいたいの製作というのは何かを作るのが目的なので、読んでいてショックを受けました。私自身、製作というものは何かを作るのが目的だと思っていたので、まさかそこから新たな展開を子ども自身が発見していくとは本当に衝撃です。本当に世界の保育というのは遊び一つにしても奥が深いと新たに思いました。

  4. 私はお盆休みに山で遊び呆けていたのに、先生のブログは営々と休みなく続いています。脱帽です。時々、園の先生から「藤森先生の保育って、一言でどんな保育ですか?」と聞かれることがあります。「異年齢」で、「遊」「食」「寝」を分けた保育環境で、先生方はチームで保育をするなんて、聞きかじりの知識で説明するのですが、いやぁ、私こそ今日の先生のお話の中の「伝不習乎」の一類ではないかと恥じ入るばかりです。保育の門外漢があれこれ知ったかぶりするものではないですね。そんな目に見える「形」ばかりに囚われていると、肝心の「心」(哲学)を見失うような気がします。藤森先生が、「保育学」ではなくご自身で「保育道」とおっしゃる意味が少しずつですがわかりはじめています。

  5. 藤森先生と出会ってから、実に多くのことを学んでおります。これまであまりよく知らなかったこと(保育、も含まれる)が次から次へと先生によって伝えられ、その都度その都度咀嚼し理解を深めようとしてきています。そうした中の一つがイタリアのレッジョエミリア市の教育です。「子供が持つ可能性を引き出すことができる空間とは何か」を街を挙げて追求する姿勢には驚きをおぼえます。子どもは無知だから大人が教え込まなければならない、というわが国の教育観と「子どもの持つ可能性を引き出すこと」に焦点をあてたレッジョの教育観との違い、しかも「人」ではなく「空間」に拘る態度に私たち日本人は多くを学ぶことができると思います。多くの日本人教育者がレッジョエミリア市を訪れています。それによって日本の教育現場は変わってきているのでしょうか?むしろ、「日本らしさ」を言い訳にして前例踏襲主義を貫徹し「変わらない」ままで子どもを犠牲にしてしまってはいないでしょうか?

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