本質1

こんな話を聞いたことがあります。
 智者が空に輝く美しい月を指した時、愚者は月を見ないで智者の指ばかりをしげしげと見つめました。そこで智者に「君、指を見るのではなく、指のさし示す方を見るのだ。ほら、あんなに美しい月が見えるじゃないか」と言われ、愚者はやっと気がついて、その月を見ることができたというはなしです。
 私たちは、先を見ないで、目の前のものを見ようとします。しかし、見なければいけないのは、その先にあるものです。教育、保育は、今、目の前にいる子どもに対して、将来のあるべき姿を見通して、現在をより生きるために援助しなければなりません。また、その先にあるものを見るだけでなく、本質を見抜く力が必要になってきます。以前のブログで、「群盲、象を語る」ということを書きましたが、人によって、見る角度、見える部分によって判断が違ってしまいます。この逸話は、色々なときに例えられますが、そのあとのコメントにこんなのがあります。
今から100年以上前に、ラーマクリシュナという師によって語られたあとのコメントです。
「象とはどんな動物か話してあげよう。みんなが言ったことは正しくもあり、また間違ってもいる。君たちのそれぞれが触れたのは、象という動物の一部分だ。そこから象の全体像を描こうとしても、それは正確なものではない。象はうちわのようでもあり、柱のようでもあり、またこん棒のようでもあり、壷のようなものでもある。そして、これらすべてをあわせたより以上のなにかだ。それは全体を見ることによってはじめてわかるのだ」
 それぞれは真実であるけれど、物の本質はそれぞれの部分をあわせて分かるものではなく、全体を見て初めて分かるのだといいます。
同じような逸話は、釈迦が弟子の一人が托鉢に出ようとした時に「町に行って何か尋ねられても、教えのことだけ話してきなさい」と言い、そのときに「盲目の人たちは、象の一部分を知って全体を知らなかったために、言い争いをすることになった。これと同じで、少しの知識だけで何でも知っていると思い込んだ者が、世の中には大勢いる。そういう者たちと言い争ってはならないよ」と諭したことにもあります。この教えには、論語の三省の中にも「伝不習乎」(良く知りもしないくせに、知ったかぶりしていい加減なことを人に伝えなかっただろうか)と同じようなことを言っています。
 先日の8月12日の産経新聞に、イタリア北部のレッジョエミリア市で行われている保育が「美術を主体、想像力育てる」として、紹介されていました。以前のブログで書いた『子ども、空間、関係性 幼児期のための環境のメタプロジェクト』(学習研究社)の本の紹介ですが、この記事を読むと、一部を知って、本質が見えにくくなってしまうような気がします。「教育内容は、計算や読み書きよりも、美術に重点を置いている。その象徴的なものが「アトリエ」と呼ばれる作業空間で、広さの違いはあるものの、市内に33施設ある保育園、幼稚園のすべてに備えられている」という紹介文だけを読むと、レッジオの保育は、美術教室かと思ってしまいかねません。それを通して、その先に、子どもたちに育っていって欲しいものがあるのです。

本質1” への3件のコメント

  1. 物事の本質を見なければいけない、部分のとらわれずに全体を見なければいけないと反省することが多いのですが、気づけば部分だけを見て突っ走っていることがよくあります。「本質を見る」というのはたった一言ですが、その難しさを感じています。目先の損得で物を考えてしまうところも反省点です。反省ばかりの毎日です。いろんなことを知ることは大切だと思いますが、一部を知ったことで全体が見えなくなってしまわないよう、知ること見ることの意識を変えてみようと思います。

  2.  本質を見抜く力というのは、本当に難しいと思います。実際にブログに書いてある話でも、私はつい指の先を見てしまう気がします。まだまだ、その先に何があるか?というのを考えずに目先の事を考えてしまうかもしれません。保育でも目の前にいる子どもが将来どう成長していくかを、見通す力というのはとても大切な事だと思います。その力というのを身に付けるのはどうすればいいのか正直分かりませんが、私が今出来ることと言えば、子どもの立場になって考えてあげる事が大切なことのような気がします。

  3. 今日のブログの前半に紹介されたお話を読んで懐かしいものを感じました。両者とも仏教に関わる説話です。そしてその両者ともが今日のブログのテーマ「本質」に迫る、すなわち仏教用語で言えば「悟」ること、につながります。私のような煩悩熾盛の凡人には程遠い目標ではありますが、追求すべき目的に値すると思います。「指」を見てしまったり、「部分」に捕われたりすることが私たちの常態と化し、それゆえアーでもなコーでもない、と枝葉末節な議論が後を絶ちません。「本質」あるいは悟りは、私の理解では、今この場所において「ありのままを観る」ことにほかならず、そこに悪意や作為がないことはもちろん、無為あるいは無意識であれ「指」を見たり「部分」に拘ったりすることではありません。殊に、子どもと接する人たちはこのことを自覚しなければならないと思っています。

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