家ではテレビを見るか、寝るか、ご飯を食べるか、パソコンするしかない。共働きだから親とは話さない。いつも何話してるんだろ。うーん……。話すのでなく、言われる。「宿題したか」「風呂入ったか」「テレビ近すぎ」「パソコンいじるな」。(小6女子)
自分のことを思ってくれるが、重い。思ってくれるのはわかるけど、勉強とか学校のこととか、いちいち言われるのがうれしくない。(中1男子)
親はいなくてもいい。いや、どうしてもいなきゃいけないかな。なぜなら、僕が生活するため。お金を稼いでくれるから。(中1男子)
厳しい。意味わかんないとき怒られる。(小5男子)
29日の朝日新聞に掲載されていた「親ってなんだろう」という特集記事です。
今週号のAERAに「父原病が子を壊す」という特集が組まれています。
父親を刺殺した少女は、「お父さんむかつく、うざい」が口癖で、「両親から勉強しろと言われて、うっとうしかった」。バスジャック事件を起こした少年の父親は、子ども部屋に「成績が落ちたら違う人生を考える」という張り紙をさせ、携帯電話を取り上げて勉強させていた。自宅に放火して母、弟、妹を殺害した少年の父親は、勉強部屋を「ICU(集中治療室)」と呼んで、つきっきりで勉強を教えていた。
このように、過干渉の父親が増殖しているといます。また、こんな例もあります。
子どもが小さい頃、仕事が忙しく、家に帰らず2~3日徹夜することもあり、子どもがどう成長してきたか分からない父親。その埋め合わせに、数年前から土、日のたびに、博物館、キャッチボール、手料理と自分では距離を縮めているつもりの父親。しかし、子どもからすると、「父親のいやなところ―休みになると強引に外に連れて行こうとするところ」これを振り返って、父親は、「一番大事な幼少期に関わっていないと、急に無理をしてもダメだったのでしょうか」このように、一方的にフレンドリーになろうとする父親も子どもにとっては負担のようです。
私が、何年か前に書いた本「やってあげる育児から見守る育児へ」(学研)の中で、親の心得「見守ること」について、14か条を書いたことがあります。その心得とは全く逆な態度をする親が多くなり、その親の子が最近事件を起こす傾向が多いような気がします。14か条のなかからいくつかを紹介します。
「子どもが何か問題を抱えているときに、それを除いてあげようとするのではなく、自分でそれを解決できるように援助してあげます」「子どもが何を考えているかを、いつも先回りして考えるのではなく、子どもの考えを聞いてあげます」「子どもは、何かものを与えれば喜ぶのではなく、気持ちをわかってもらうことを望んでいます」「子どもは、自分のために親が犠牲になることを望むのではなく、子どもから望んだときに、自分が優先順位の高いことを望みます」「子どもが自分でできることや、自分でやろうとすることを手伝うことは、子どもにとっては迷惑です」「子どもを甘やかすことと、子どもの甘えを受容することは違います」「子どもが次第に自立していき、親が必要でなくなってくることは、うれしいことであり、さびしいことではありません」
中尾英司さんという家族カウンセラーの方のブログを読んでいました。この方の最近のコメントにこうあります。『究極の孤独にいる人が自殺、もしくは殺意を抱くことを、これまでの家族カウンセラーの経験から私は実感している。それらの人に共通するのは「あるがままの自分が受け止められてもらった経験」がないということである。親が自分が認められることに精いっぱいで子どものことを省みない。親が自分の価値観を子供に押しつける。親が自分の感情のはけ口に使っている。形はいろいろあれど、本質的に親から見捨てられた子供たちは、荒れた人生になる。』これまでの常識では、どちらかというと母親が教育熱心で過干渉だというイメージがあったのですが、とうとう父親までも子供に口うるさく言うようになったのですね。子供たちの悲鳴を私たちはどう受け止めてあげたらいいのでしょうか。
親と子の距離感は難しいです。子どもの気持ちは十分に体験してきたはずなのに、こうしたすれ違いは常にあるんですね。子どものことを思って行動したことが悲しい事件を生んでいるとしたらやりきれないです。本に書かれた言葉を読んで、なるほどと思うことばかりでした。何度も聞いたり読んだりしても新鮮に感じるということは、きちんと理解できていないからかもしれません。子どもとどのように関わるか、子どものためとはどういうことか、学び続けて少しずつでも伝えていければと思っています。
今日のブログのタイトルを見てどきっ!「父親」になって6年と半年が経とうとしている今日この頃、我が子を「見守る」ことができているのだろうか、と反省しきりです。ともすれば「やってあげ」てしまうことが多かったような気がして・・・これではいけない、と何度も軌道修正をし、しかし変わり行く自分自身に「我が子も変わりつつあるのだから」と慰め、泰然自若とした「父親」像を描いてはみるものの、何だか自分には関係がなく、行き着いた先が「見守る育児(保育)の三省」。「子どもの存在を丸ごと信じただろうか」「子どもに真心をもって接しただろうか」そして「子どもを見守ることができただろうか」。自らの子育ての際の振り返りにこの「三省」を使わせて頂いております。
私の父親は普段はとても優しいけどいざ怒るとなると、とても恐い存在です。まぁそれが普通なのかもしれませんが(笑)確かに平日は忙しく土日しか接する機会がなく、よく急に家族全員で出掛けることがよくありました。ですが、それを強引とは思いませんでした。一緒に行っても損はしませんでしたし、無理であればこっちを尊重してくれました。ですが時代が違うのですね、これから親になると考えると寂しいと思いました。
子どもが自立をして親が必要でなくなることは寂しい事でなく嬉しい事というのは本当にそうだと思います。それは藤森先生が「自立」ということを教えて下さったおかげだと思います。