寄付

 いま、日本では、少子化でありながら、保育園の数が足りません。しかし、保育園を数多く作ろうとしても、保育者が多く必要になりますし、用地が多く必要になります。とくに、保育園が必要な地域は、土地の価格が高い場所ですので、どうするのでしょうか。ドイツでも、まだまだ保育園が足りません。その拡大を打ち出したところは日本と同じですが、土地の確保については、子どもの施設に使ってくださいと寄付をする人が多く、その建物を使うことが多いということを先日のドイツ報告のブログの中で紹介しました。
よく、欧米人は寄付をする人が多いということが言われます。今週号のR25では、「欧米人の寄付金額が日本人より遥かに多い謎」という特集が掲載されています。そこに掲載されているのは、アメリカの投資家、ウォーレン・バフェット氏が374億ドル(日本円にして約4兆円)を慈善団体に寄付したというニュースです。これは桁外れに多いとしても、アメリカ人にとっては、収入の1割を寄付することは特別なことではないといいます。このような傾向に対して、ボランティアの文化に詳しい天理大学人間学部の渡辺一城准教授は、このように分析しています。「出る杭は打たれるという言葉があるように、日本人は横並びを好む傾向にある。だから、一人だけ目立つ額の寄付はしづらいのでしょう。それに、日本は陰徳の文化なので“私が、私が”は嫌われ、匿名での寄付が美徳と考えられているんです」といいます。
更に、寄付行為としては、経済企画庁の調査では、寄付をする家庭の割合は日米とも75%前後とほぼ同じですが、金額は、年間3000円程度の日本に対して、アメリカは約9万円と30倍以上の開きがあるようです。これは、ボランティアに対する考え方の違いと渡辺氏は言います。「アメリカでは寄付はボランティアの一部と考えられています。ボランティアの精神をボランタリズムと言いますが、これには“自主性”という意味以外に“自立”や“反権力”といった意味もあります。アメリカは、移民が自ら建国しルールを作り上げてきた(自立)。いわば政府に必ずしも依存せず、自らの力で解決していこうとします(反権力)。コミュニティーづくりは自分たちの責任といった考えが寄付やボランティアを積極的に行う風土を生んだのでしょう」
しかし、私は日本人が寄付とか、ボランティアの意識が薄いとは思いません。奈良時代には行基などによって河川の堤防やため池・井戸などの社会インフラの整備や、利水・治水や橋・道路建設などの公共事業や大仏建立などのために勧進という寄付が行われ、托鉢も一種の寄付をを受けるやり方です。そして、中世は自力救済の時代でしたが、民衆の間に頼母子講などの相互扶助が始まります。相互扶助というのは、集団で金銭を貯蓄し貧困者などに順番で供与するという、寄付と同様の機能を持ったものであり、それは、近世に入ってもその伝統は継承されています。
また、先日のブログで大阪人は、杭倒れということを書きましたが、大阪の八百八橋は皆町人の寄付で作られたといわれています。大阪人の商売はきたないといわれますが、実は、商売上では、無駄を省いて倹約に倹約を重ねて資本を蓄えるのですが、商売から離れれば、人として、世のためや人のためにはできるだけの事をやるのが美徳であるとの価値観を持っていました。ですから、明治になっても、中ノ島公会堂の公共施設や美術館、小学校などが市民の寄付で作られています。
いつ、自分のものは自分のもの、人のものも自分のものという時代になったのでしょう。

寄付” への4件のコメント

  1.  地元の大きな公園に巨大なアスレチックがありますが、看板に「この遊具は寄付によって建てられたものです」と書いてあります。他にも神社の賽銭箱に大金が入っていたなどのニュースを聞いたことがあります。やはり日本人は自分の名前を出さない傾向にあるのですね。どちらかというと、もし私も大きな金額を寄付をするとなると匿名ですると思います。ブログに書かれている日本の寄付に対する考え方もしっかりしていると感じました。
     生活していく上で自分も他人から何かを借りる時だってありますし、自分のものも他人に貸すこともあります。そのようにお互いに支えあって共生しているので、寄付ではないですが、子ども達には、そういう考え方も知ってもらう必要があると思いました。

  2. 昨日たまたま借りてきたビデオが「NHKプロジェクトX 挑戦者たち よみがえれ日本海」でした。11年前のナホトカ号の沈没で流出した重油を、バケツとひしゃくですくい続けた30万人のボランティアの話です。ボランティアの受け入れの中心者は、役所には頼れないと立ち上がった一青年であった。時には混乱するボランティア本部、彼は自らルールを作り、そして、3ヶ月後ついに、浜はよみがえった。(田口トモロウ調で)本当に人間ドラマですね。まだまだ日本には、助け合いの精神が庶民レベルでは残っています。問題は企業人に公人としての自覚が薄れてきたことにあると思います。もう、あの松下幸之助のような社会貢献に生きた高潔な人物は現れないのでしょうか。

  3. 金額の多い少ないで日本人のボランティア精神を考えるのは、なんだかアメリカ的で少しだけ抵抗があります。数字には表しにくい関係性の問題でもあるのではと思っています。うまく言えないですが、表面的なものではなく、深いところでつながった関係が日本人特有の精神ではないかと思っているので。でも今そのつながりさえも薄くなっているように感じます。人と人のつながりは大切ですね。

  4. 確かに、欧米における寄付行為は、私たち日本人の想像を絶するものがあります。今でこそ日本の大企業の中に浸透してきている「社会貢献」としての寄付行為も元を正せば、米国や欧州の企業に範を求めることができます。キリスト教の伝統には「チャリティー」精神があり、私たち人間が互いに施し施されるのは等しく「神の子」であるという宗教観に裏づけされているのでしょう。仏教の伝統の中にも「施し施される」という思想があります。布施あるいは受布施、という考え方です。今日のブログでも紹介されているようについ最近までは「頼母子講などの相互扶助」がありました。民主主義、個人主義の嵐の中でそうした「相互扶助」の考え方が衰退し、バブル経済の狂乱の果てに、日常ベースでの「相互扶助」は崩壊してしまったのではないか、とさえ思われます。特殊なケースにおける「ボランティア」「チャリティー」は存在し続けています。しかし、国全体が大変な状態になった時、それでも「ボランティア」や「チャリティー」が存在し続けるのか。少々不安になります。この不安解消の本来的役割は教育にあると思っておりますが・・・。

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